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15節

〔こうした議論がその後も非常な迫力と強力な影響力のもとに、殆ど途切れることなく続いた。私を支配し、私の思想を鼓舞し続けたこの影響力がいかに崇高にして強烈なものであったか――それを正しく伝えることは拙い私の筆ではとても出来ない。〕

『スピリチュアリズムの宗教的教訓』

そなたはわれらの教説が理神論であるか、純粋なる有神論であるか、はては無神論ではないのかとまで問うている。普段の思考においては正確にして知識に事欠かぬ人間が、有神論を無神論と同列に並べるとは、まさしく人間の無知の見本を見る思いがする。全ての人間の心に通じる神、いかに堕落せる人間の魂でさえ感応し得るところの神の存在を否定せんとする、その佗(わび)しきかぎりの不毛なる思想について、われらは最早や言うべき言葉を知らぬ。人間が自らの目を被い隠すことをするものであることを万一知らずにおれば、われらはそなたらが一体何故にかくも愚かなることを考えるのか理解に苦しむところであろう。

疑いもなくわれらは全ての存在を支配する絶対神の存在を説く。それは、人間が勝手に想像せるが如き気まぐれな顕現の仕方はせぬ。人間の理解力の進歩に応じて、その時代その時代に断片的に明かされてきた存在――もっと厳密に言うならば、人間の心の中に神の概念とその働きについての、より真実に近き見解を植えつけんとして働きかけてきた存在である。イエスと同様われらは宇宙を支配する愛に満ちた至聖にして至純なる神を説く。人間の想像するが如き人格をもたぬ神ではなく、真の意味における父なる存在である。エネルギーの化身でも具現でもない。真に生ける実在である。ただし、その存在の本質と属性はその働きと人間の心の中に描ける概念としてしか捉えることは出来ぬ。そなたの抱ける概念の中より全知全能の神に対する侮辱と思えるものを可能なかぎり取り除き、かつまた、差し当たりて問題とするに当たらぬ神学的教説を一応残しつつ、われらは神について以上の如く説いてきたのである。

われらの教説を読みてそこに絶対的真理が見られぬと言うのであれば、われらはむしろ、われらがそこまで理解して貰えるに至ったことを有難く思う次第である。絶対的完全性が有り得ぬ如く、今のそなたの未完成の状態においては絶対的真理などというものは望むべくもない。そなたはまさか、最高級の霊にしてもなお目を眩(くら)まされる宇宙の深奥の神秘を平然と見届け得ることを期待はすまい。限りあるその精神でまさか無限なるもの、不可知なるもの――地上より遥かに掛け離れたわれらにとりてもなお、遠くより拝(おうが)み奉(たてまつ)ることしか叶わぬ存在が理解できるとは期待すまい。万一できると思うとすれば、それこそそなたの置かれたる発達段階がまだまだ不完全であることの証左でしかない。そなたにとりて真理はまだ断片的であり、決して全体像を捉え得るものではなく、また細目まで行き亙ることは叶わず、あくまでベールを通して大まかなる輪郭を垣間見る程度に過ぎぬ。われらとしても決して真理の全てをそなたに啓示しようなどとは思いも寄らぬ。われら自らがまだまだ無知であり、神秘のべールに被われたる多くのものを少しでも深く理解せんと願っているものである。われらに為し得ることは精々その神の概念――これまでそなたらが絶対的啓示と思い込みたる概念よりは幾分か真理に近きものを仄(ほの)めかす程度に過ぎぬ。

これまでのところわれらは、そなたが筋の通れる美しく崇高なるものと認め、かつそなたの精神に受け入れられる新たな神学体系を確立することに成功した。それ以上のものを求めようとは思わぬ。われらは崇拝と敬意の対象としての神を啓示した。神と人類とそなた自身に対する合理的かつ包括的義務を披露した。道徳的規範として、そなたの聞き慣れた天国と地獄説による脅(おど)しの説教ではなく、無理強いせず自然に理解せしめる性質の見解を確立した。

われらの教説を目的なき宗教と言うに至りては、理解に苦しむ誤解というほかはない。地上生活というこの種子蒔(たねま)きの一つ一つの行為がそれ相当の実りをもたらすとの訓え――悪と知りつつ犯せる故意の罪が苦痛という代償のもとに悲しみと屈辱の中で償わねばならぬという訓え――過ちを犯せる魂が曾ての己の過ち故にもたらせる“縺(もつ)れ”を必ず自らの手で解(ほど)かねばならぬとの教説の、一体どこをもって詰まらぬ言説と言うのであろうか。

われらは、人間の言動は池に投げ入れられた小石の如く、その影響は波紋を描きつつ周囲に影響を及ぼすこと、そしてその影響には最後まで自分が責任を負わねばならぬこと、故に一つの言葉、一つの行為には、その結果と影響とに計り知れぬ重要性があること、それが善なるものであればその後の生き甲斐の源泉となり、邪悪なるものであれば苦悩と悔恨のうちに責任を取らされると説くのであるが、これが果たして下らぬ教説であろうか。

またその賞罰は遥か遠き未来の死にも似たる休眠状態の末まで延ばされるのではなく(1)、因果律の法則によりてその行為の直後より始まり、その行為の動機が完全に取り除かれるまで続くと説くのであるが、これも愚にもつかぬ言説であろうか。

これでは清浄にして聖なる生活への誘因とはならぬのであろうか。そうしたわれらの教説と、そなたらの信じる教説、すなわち己の思いのままに生き、隣人に迷惑を及ぼし、神を冒涜し、魂を汚し、神の法も人間の法も犯し、人間としての徳性を辱(はずかし)めた人物が、たった一度の半狂乱の叫び声、お気に入りの勝手な信仰、その場かぎりの精神的変化によりて、眠気を催すが如き天国への資格を獲得するとのそなたらの説、しかもその天国での唯一の楽しみが魂の本性が忌々しく思う筈のものでありながら、それが魔法的変化によって一気に永遠の心地よき仕事となるとの説の、一体いずれが神聖にして進歩的生活へ誘(いざな)ってくれるであろうか。堕落せる魂を動かすのはどちらであろうか。いかなる罪も、それが他人によりて知られる知られぬに係わりなく、いつかは悔い改めねばならぬ時が来ること、そして他力ではなく、自力で償わねばならぬこと、そうなることによりて少しでも清く正しく、そして誠実な人間となるまで幸せは味わえぬとの教えであろうか。それとも、何をしようと天国はいかなる堕落者にも開かれており、悶え苦しむ人間の死の床でのわずか一度の叫び声によりて魔法の如く魂が清められ、遠き未来に訪れる審判の日を経て神の御前に召され、そこにて退屈この上なく思う筈の礼拝三昧の生活を送るとの教えの方であろうか。

このいずれが人間の理性と判断力に訴えるか。どちらが罪を抑制し、さ迷える者を確実に正義の道に誘うか。それはわれらと同様、そなたにも明々白々である。なのにそなたはわれらの説くところが断固たるものを曖昧なるものに、確固たる賞罰の体系を何の特色もなきものに置き替えんとするものであると言う。否! 否! われらこそ確固たる知性的賞罰体系を説き、しかもその中に夢まぼろしの如き天国や残酷非道の地獄や人間性まる出しの神などをでっち上げたりはせぬ。キリスト教神学はいつのことやも知れぬ遠き未来に最後の審判日などというものを設け、極悪非道の人間でさえも、その者自身理解も信仰も有難味も見出し得ぬ教義に合意すれば、いつの日か、どこかで、どういう具合にてか、至純至高の大神の御前に侍(はべ)ることを得ると説く。

敢えて言おう。われらの説く信仰のほうが遥かに罪を抑圧すべく計算され、人間に受け入れ易く説かれている。人間の死後について遥かに合理的な希望を与え、人類史上かつて無き現実性に富む包括的信仰を説いている。繰り返すが、これぞ神の訓えである。神の啓示としてそなたに授けられているのである。われらはこれが今すぐ一般大衆に受け入れられるものとは期待せぬ。大衆の側にそれなりの受け入れ態勢が出来ぬかぎり、それは叶わぬことである。その時節の到来をわれらは祈りのうちに忍耐強く待つとしよう。いよいよその時節が到来し、理性的得心のもとに受け入れられた時は、人間は曾ての如きケチくさき救済を当てにせるが故の罪を犯すことも減り、より知的にして合理的来世観によりて導かれ、高圧的抑制も、人間的法律による処罰の必要性も減り、それでいて動機の源は、甘き天国と恐ろしき地獄などというケチくさき体系に劣らず強制力があり、永続的となるであろうことを断言する。子供騙しの地獄極楽説は、これをまともに考察すれば呆気(あっけ)なくその幼稚性が暴露され、効力を失い、根拠なき、非合理にして愚劣なるものとして、灰塵に帰されることであろう。

〔総体的に観てスピリチュアリズムの影響は好ましくない――少なくとも複雑な影響を及ぼしているとの私の反論に対して一八七三年七月十日に次のような回答が届けられた――

その点につきてはわれらも述べたいことが多々ある。これよりそなたの誤解を説き明かすべく努力してみたく思う。まず第一にそなたは人間の宿命とも言うべき限られた視野にとっては不可抗力ともいうべき過ちに陥り、その目に映りたる限られた結果のみを見て、それをスピリチュアリズムの全てであると思い込んでいる。その点においてそなたは、わずかな数の熱狂者による狂騒に幻惑され、その狂騒、その怒号をもってスピリチュアリズムの全てであると見なす一部の連中と同類である。見よ、彼らは結果によりてのみ知らるベき静かなる流れがその見えざる底流を音もなく進行していることに気づかぬ。そなたの耳に入るのは騒々しき無秩序なる連中のみである。さして多くはないが、よく目立つのである。そなたが世の中を再生せしむるのはそうした連中ではあり得ぬと言うのはもっともなのである。そなたの知性はそうした無責任なる言説にしりごみし、果たして斯くの如き近寄り難きものが神のものであり、善の味方であろうかと訝(いぶか)るのであるが、実はそなたの目にはそうした一部のみが目に入り、しかもその一部についても明確に理解しているとは言えぬ。そうした連中にも彼らなりに必要なる要素が幾つかあり、それが彼らにとりて最も理解し易き手段にて神より授けられている――そうした表に出ぬ静かなる支持者たちの存在についてはそなたは何も知らぬ。そなたの視界に入らぬのである。入らぬのであるが、しかし現にそなたのまわりにも存在し、霊の世界と交わり、刻々と援助と知識を授かり、肉体に別れを告げたのちに彼らもまた霊界よりこのスピリチュアリズム普及のために一役買う日が来るのを待ちうけているのである。

かくの如くそなたは一方に喧噪、他方に沈黙がありながら、限られた能力と、さらに限られた機会のゆえに狭隘なる見解しか持ち得ず、およそ見本とは言えぬ小さき断片をもって全体と思い違いをしている。これよりわれらは、そなたが下せるスピリチュアリズムの影響につきての結論を細かく取り挙げたく思う。そして同時に、そなたにはその究極の問題について断定的意見を述べる立場にないことを指摘したく思う。

と申すのも、一体真理とは何かということである。神の働きは、このスピリチュアリズムに限らず他の全ての分野においても、不偏平等である。地上には善と悪とが混在している。平凡なる霊にて事足りる仕事に偉大なる霊を派遣するが如き愚を神はなさらぬ。未発達の地縛霊の説得に神々しき高級霊を当てたりはなさらぬ。絶対になさらぬ。自然界の成り行きにはそれ相当の原因がある。巨大な原因から無意味なる結果が出るようなことはない。霊的関係においても同じことである。知能程度が低く、その求むるところが幼稚にして高きものを求めようとせぬ魂の持ち主には、その種の者に最も接触し易き霊が割り当てられる。彼らは目的に応じて手段を考慮し、しばしばその未熟なる知性に訴えるために物理的手段を講ずる。精神的・霊的に無教養で未発達なる者には、その程度に応じた最も分かり易き言葉にて語りかける。死後の生活の存在を得心させるためには目に映ずる手段を必要とする者がかなり、いや、大勢いるのである。

この種の人間は、高き天使の声――いつの時代においてもその時代の精神的指導者の魂に語りかけてきた崇高なる霊の声――によりて導かれるのではなく、その種の人間と類を同じくする霊たち――その欲求と精神的性癖と程度をよく理解し、その種の者の心に最も訴え、最も受け入れ易き証を提供することの出来る霊によりて導かれる。さらに心得ておくべきことは、知的に過ぎる者は往々にして霊的発達に欠けることがあることである。本来進歩性に富める魂も、その宿れる肉体によりて進歩を阻害され、歪める精神的教育によりて拘束を受けることも有り得る。同じ啓示が全ての魂の耳に届くとはかぎらぬ。同じ証が全ての魂の目に見えるとはかぎらぬ。肉体的性向を精神的発達の欠陥によりて地上生活における発達を阻害された霊が死後その不利な条件が取り除かれてのち、ようやく霊的進歩を遂げるという例は決して少なくないのである。

というのも、本性は魔法の杖にて一度に変えるというわけには行かぬものなのである。性癖というものは徐々に改められ、一歩一歩向上するものなのである。故に生まれつき高度な精神的才能に恵まれ、その後も絶え間なく教養を積める者の目には、当然のことながら、無教養にして無修養の者のために用意せる手段は余りに粗野にして愚劣に映ずるであろう。否、その前に彼らが問題とせるものそれ自体が無意味に思えるであろう。その声は耳障りであろう。その熱意は分別に欠けるであろう。が、彼らは彼らなりにその本性が他愛なき唯物主義、あるいはそれ以上に救い難き無関心主義に変化を生じ、彼らなりに喜びを感ずる新たな視野に一種の情熱さえ覚えるようになる。彼らの洩(も)らす喜びの叫びは垢抜けはせぬが、彼らなりに真実の喜びである。そなたの耳には不愉快に響くかも知れぬが、父なる神の耳には、親を棄てて家出せる息子が戻りて発する喜びの声にも劣らず、心地よきものである。その声には真実が篭っている。その真実の声こそわれらの、そして神の、期待するところである。真実味に欠ける声は、いかに上手に発せられても、われらの耳には届かぬ。

かくの如く、霊的に未発達なる者に対して用いる証明手段は、神と人間との間を取りもつ天使の声ではない。それでは無駄に終わるのである。まず霊的事象に目を向けさせ、それを霊的に鑑識するよう指導する。物理的演出を通じて霊的真理へと導くのである。物理的演出についてはそなたもすでに馴染んでおろう。そして、そうした物的手段の不要となる日も決して来ぬであろう。いつの時代にもそうした手段によりて霊的真理に目覚める者がいるからである。目的にはそれなりの手段を選ばねばならぬ。そうした知恵を否定する者こそ、その見解に知恵を欠く視野の狭き者である。唯一の危険性はその物理的現象をもって事足れりとし、霊的意義を忘れ、そこに安住してしまうことである。それはあくまで手段に過ぎぬ。霊的発達への足がかりとして意図され、或る者にとりては価値ある不可欠の手段なのである。

そこでわれらはこれより、そなたが腹に据えかねている右の例以上に顕著なる例、すなわち、粗野にして無教養なる未発達霊の仕業について述べるとするが、そなたにとりて左程までに耳障りにして、その行為に不快を覚えさせる霊をそなたは“悪”の声であると想像しているようであるが、果たして如何(いかが)なものであろうか。

悪の問題につきてはすでに取り挙げたが、また改めて説くこともあろう。が、ここでわれらは躊躇なく断言するが、邪霊の仕業であることが誰の目にも一目瞭然たる場合を除いては、大抵の場合、そなたの想像するが如き悪の仕業ではない。

悲しい哉、悪は多い。そして善に敵対する者が一掃され勝利が成就されるまでは、悪の途絶えることはあるまい。故にわれらは、決してわれらとそなたを取り巻く危険性を否定も軽視もせぬ。が、それはそなたが想像するようなものではない。見た目に常軌を逸するもの、垢抜けのせぬもの、粗野なるものが必ずしも不健全とは言えぬ。そうした観方は途方もない了見違いと言うべきである。真に不健全なるものはそう多くは存在せぬ。むしろそなたらの気付かぬところに真の悪が潜むものである。霊的にはまだ未熟とは言え、真剣に道を求むる者たちは、無限の向上の世界がすぐ目の前に存在すること、そしてその向上はこの地上における精神的、身体的、霊的発達にかかっていることを理解しつつある。それ故彼らは身体を大切にする。酒浸りの呑んだくれとは異なり、アルコール類を極力控える。そしてその熱意のあまり同じことを全ての者に強要する。彼らは人それぞれに個人差があることまでは気が回らぬ。そして往々にしてその熱意が分別を凌駕してしまうのである。しかも、洗練された者に反発を覚えさせるそうした不条理さと誇大なる言説をふり回す気狂いじみた熱狂者が、果たして、心までアルコールに麻痺され、身体は肉欲に汚され、道徳的にも霊的にも向上の道を閉ざされた呑んだくれよりも霊的に不健全であろうか。そうでないことはそなたにも判るであろう。前者は少なくとも己の義務と信念とに目覚め必死に生きている。今や曾ての希望も目的も持たぬ人間とはわけが違う。死者の中より甦ったのである。その復活が天使に喜びと感激の情を湧かせるのである。その叫びが条理を欠いていたとて、それがどうだというのであろうか。情熱と活気がそれを補いて余りあるではないか。その叫びは確信の声であり、死にも譬えるべき無気力より目覚めた魂の叫びなのである。それは、生半可なる信仰しか持たぬ者が、紋切り型の眠気を催すキザな言い回しで化粧し、さらには“ささやき”程度のものでも世間に不人気なものは避けんと苦心するお上品ぶりよりも遥かにわれらにとりて、そして神にとりて、価値あるものである。何となればそれは、新たにかちえた確信を人にも知らしめんとする喜びの声であり、われらの使命にとりても喜びであり、より一層の努力を鼓舞せずにはおかぬのである。

そなたは俗うけするスピリチュアリズムは無用であると言う。その説くところが低俗で聞くに耐えぬと言う。断言するが、そなたの意見は見当違いである。適確さと上品さには欠けるが、確信に満ちたその言葉は、上品で洗練された他の何ものよりも大衆に訴える力がある。野蛮なる投石器によって勢いよく放たれた荒けずりの石のほうが、打算から慣習に迎合し体裁を繕(つくろ)いたる教養人の言説よりもよほど説得力がある。荒けずりであるからこそ役に立つのである。現実味のある物的現象を扱うからこそ、形而上的判断力に欠ける者の心に強く訴えるのである。

霊界より指導に当たる大軍の中にはありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている。“物”にしか反応を示さぬ唯物主義者には物的法則を超越せる目に見えぬ力の存在の証拠を提供する。固苦しき哲理よりも、肉親の身の上のみを案じ再会を求める者には、確信を与えるために要する証拠を用意してその霊の声を聞かせ、死後の再会と睦み合いの生活への信念を培う。筋の通れる論証の過程を経なければ得心できぬ者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく。さらに、そうした霊的真理の初歩的段階を卒業し、物的感覚を超越せる、より深き神秘への突入を欲する者には、神の深き真理に通暁せる高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命につきての啓示を垂れさせる。かくの如く人間にはその程度に応じた霊と相応しき情報とが提供される。これまでも神はその目的に応じて手段を用意されて来たのである。

今一度繰り返しておく。スピリチュアリズムは曾ての福音の如き単なる見せかけのみの啓示とは異なる。地上人類へ向けての高級界からの本格的働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。それを総合するものがスピリチュアリズムに他ならぬ。が、実はそれだけと見なすのも片手落ちである。そなたにとりて、そしてまたそなたと同じ観点より眺める者にとりてはそれで良いかも知れぬ。が、他方には意識の程度の低き者、苦しみに喘ぐ者、悲しみに打ちひしがれし者、無知なる者がいる。彼らにとりてはスピリチュアリズムはまた別個の意味をもつ。それは死後における肉親との再会の保証であり、言うなれば個人的慰安である。実質的には五感の世界と霊の世界とを結ぶことを目的とする掛け橋である。肉体を捨てた者も肉体に宿れる者と同様に、その発達程度はさまざまである。そこで、地上の未熟なる人間には霊界のほぼ同程度の霊が当てがわれる。故にひと口にスピリチュアリズムの現象と言うも、程度と質とを異にする種々さまざまなものが演出されることになる。底辺の沈殿物が表面に浮き上がることもあり、それのみを見る者には奥で密かに進行しているものが見えぬということにもなる。

今こそそなたにも得心がいくであろうが、世界の歴史を通じて同種の運動に付随して発生する“しるし”を見れば、それが決してわれらの運動のみに限られたものとの誤解に陥ることもあるまい。それは人間の魂をゆさぶる全てのものに共通する、人間本来の性分が要求するのである。イスラエルの民を導いたモーセの使命にもそれがあり、ヘブライの予言者の使命にもそれがあり、言うまでもなくイエスの使命にも欠かせぬ要素であった。人類の歴史において新しき時代が画される時には必ず付随して発生し、そして今まさに霊的知識の発達にもそれが付随しているのである。が、それをもって神の働きかけの全てであると受け取ってはならぬ。政治的暴動がその時代の政治的理念の全てではないのと同様に、奇跡的異常現象をもってわれらの仕事の見本と考えてはならぬ。

常に分別を働かさねばならぬ。その渦中に置かれた者にとりては冷静なる分別を働かせることは容易ではあるまい。が、その後において、今そなたを取り囲む厳しき事情を振り返った時には容易に得心がいくことであろう。

そなたの提示せる問題についてはいずれまたの機会に述べるとしよう。此の度はひとまずこれにて――さらばである。

(†インペレーター)

〔注〕

(1)

死者はこの世の終わりに神が下す最後の審判の日まで休眠状態に置かれるとのキリスト教の信仰を指す。