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14節

〔前節の通信は、私に少なからざる影響を及ぼした。即座の反論が出来ず、次の通信まで何日かの間(ま)が必要であった。いよいよその通信をする気になった時、私はまずこう反論した。〕

――キリストの時代と現代との対比は理解できます。サドカイ派の学者が軽蔑の目をもってキリストの言説に耳を傾けている図は私にも容易に想像できます。今の時点で言えばそのサドカイ派の学者は間違っていたことになります。それは判ります。しかし私が思うに、それは実に無理からぬことだったのです。理性の光だけで判断すればキリストの言説は途轍もないものに思えたことでしょう。超自然的なものを認めない当時のサドカイ派の学者が、虚言か妄想としか思えぬものを拒否したのも無理からぬことでしょう。私から見れば、それ以外に取るべき態度はなかったとしか思えません。ただ彼らの場合は、その途轍もないことを言う人間が目の前にいたということ――姿は目に見えるし、声は聞こえるし、説くところの崇高な教説が実生活に体現されているかどうかも、調べようと思えば調べることが出来たということです。その点私の場合は影も形もない、ただの影響力であり、もしかしたら、自分の中だけの心と心の葛藤に過ぎないかも知れない言説が展開されるだけです。まるで掴みどころがないのです。明けても暮れてもスピリチュアリズムで、それも極めて曖昧で、しかも往々にして軽蔑したくなるものばかりです。啓示だと言われても、愚かと言うのが言い過ぎなら、得体が知れないとでも言わざるを得ぬもので、聞いてショックを受けることもしばしばです。私はどうして良いのか判りません。あなたという存在についても、私は何も知らないし、果たして一個の独立した存在なのかどうかも判りません。あなたに関して得心のいく手掛りは何一つありません。たとえ曾て地上で生活したことがあると証言しても、私には大して意味はありません。あなたは一体個性を具えた存在ですか、それとも単なる影響力に過ぎないのでしょうか。私からすれば、あなたをれっきとした個的存在として想像すれば幾分か救われる気がします。しかし、とにもかくにも、出来ることなら私には一切構わないでおいて頂きたい心境です。

〔正直いって、その頃の私は自分の強固な信仰と、強烈にして首尾一貫した影響力との激烈な闘いに疲れ果てていた。感情の相克によって頭が混乱を極めていた。そしてそれが来(きた)るべき段階への一つの準備としての体験であることは明らかであった。〕

友よ、そなたの疑問とするところはよく理解できる。われらとしてもその疑念を解く手助けを致したく思う。まずそなたは例のサドカイ派の学者は目に見えるイエスを相手にしていただけ有利であると言う。なるほどイエスは目に見える存在であった。が、そのことは有利であるどころか、むしろ一層困惑を増すものではなかったであろうか。何となれば、目の前にいるイエスなる若者はナザレの大工の息子である。それを神の新たなる啓示者と結びつけるのは、そなたがわれらを神の使者と結びつけること以上に困難なことではなかったであろうか。サドカイ派の学者にとって“この男は大工ではないか”という蔑(さげす)みの念は、そなたがわれらのことを“これは一体個的存在であろうか”と思う疑念以上に深刻なる問題ではなかったであろうか。イエスを取り巻く環境は目に見え手に触れたることの出来る明白なるもので、しかも、およそ好条件とは言えぬものばかりが揃っていた。生まれは卑しく、交わる友は下層階級の者ばかりであり、世の軽蔑を浴び、その説くところが全ての民衆から背を向けられる。こうしたことは全て現実であり、如何ともし難き不利な条件であった。あからさまに表現すれば、最後通牒をつきつけられても致し方ないほどであった。故に、たとえサドカイ派の学者がイエスの言説を理解し得ず神の使者として認めなかったとしても、その学者には何の咎もない。それは単にその学者が、より成長した折に再び訪れるであろうところの進歩の好機を逸したということに過ぎぬと言えよう。

そなたの場合はそれとは事情が異なる。そなたには目を惑わす困難は何一つない。知的疑念と闘っておればよい。しかもこれまでそなたに語られた言葉が神の使者からのものとして恥ずかしからぬものを有することは、そなたも認めるところであろう。その説くところはそなたが必要性を痛感せるものに満ちあふれ、そなたも認めるところの美しさに溢れ、しかもそれを受け入れる用意のあるものには強烈に訴える道徳的崇高さに満ちている。それがそなた自身以外の源より発していることは十分に得心していよう。何となれば、もしもそなた自身の内部の源より無意識のうちに発したものであれば、それがそなた自身の教説と真っ向より衝突することは有り得ぬくらいのことは当然そなたも認めるであろうからである。もしもわれらの述べるところの言説がそなたの精神より自然に発するものであれば、そなたもその公表に躊躇する余裕をもつことも出来よう。が、事実はそうではない。いかに工夫を凝らそうとも、これが自問自答の結果であるとの説はそなた自ら納得できぬであろう。そうでないことはそなたもすでに得心している。今まさにそなたが体験しつつある不審と疑念の段階は一過性のものであり、永続的影響を及ぼすものではない。やがてその時期を過ぎれば、きっとそなたは、何故われらのことをそなたらと同じく“人間”と呼ぶ形体を具えた知的存在であることを疑ったのであろうかと不思議に思える日も到来しよう。

さよう、いまそなたに必要なものは“時間(とき)”である。根気よく考えるための時間、問題を比較考察するための時間、証拠を評価するための時間、そして結論をまとめるための時間である。かくまでそなたの心を深く――その深さはそなた自らの想像すら超えるが――動かせる言葉は、そなたの思いに通じ、そなたの苦しき立場を理解し、さらにそれに劣らず、いまそなたを悩ます懐疑と疑問に理解をもつ者の言葉である。地上時代、余はイエスの出現に先立てる苦難、いま再び繰り返されつつある苦難の世相の中にて使命を担わされし者である。歴史は巡り来るものである。いつの時代にも人間はその精神構造においては少しも変わらぬ。意識が開発され、進歩し、より深く考えるようになる。が、昼のあとに必ず夜が訪れる如く、神の概念が薄れ、非現実的となる時代が訪れる。すると、より明確なる知識を求める神の火の粉が再び炎となって燃えあがり、天に向いて神のメッセージを求める。そこに新しき啓示の必要が生じる。人間の魂がそれを希求するのである。古きものはそれなりの役目を終え、その灰燼の中より新しきものが芽生える。それは、受け入れる用意のある者にとってはまさに神の慰安と安寧の言葉に外ならぬ。いつの時代にもそうであった。そのことはそなたも知っていよう。こうした神と人類とのつながりは全歴史を通じてたどることが出来る。それが何故に今の時代にそうであってはならぬのか。人類が最もそれを必要としているこの時代に何故に神の声を押し黙らせ、その耳を塞ごうとするのか。

余について何も知らぬから、とそなたは言う。しかし何故にそなたは啓示そのものと啓示を持ち来れる者とを混同するのか。何故に神の訓えと、その訓えを伝える通路に過ぎぬ者とに同一価値を置かねば気が済まぬのであろうか。

〔こうした議論の結果ようやく私は頑固に求めていたものを手にして、それまでの優柔不断の信仰に一つの確信を得ることが出来た。その確信が深まるにつれて、それまで私がこれこそと思って求めてきたものがいかに空虚なものであるかを悟るようになった。それまで理解できなかった霊訓の一連の流れも理解がいき、その霊訓とそれを伝える者(インペレーター)とを区別することも出来るようになった。私はこうした一連の論議――その一部だけで十分と思うので全部は公表しないが――を再度始めから目を通し、そこにまさしく新しき啓示と言えるものをようやく見出すことが出来た。通信者が誰であるかは、その啓示の私自身にとっての重要性の中に埋没してしまった。私はその時に至って初めて燃える炎の如き強烈な確信を覚え、枝葉末節まで細かく分析せんとする気持がその確信の炎にかき消されてしまった。

実はそう思ったのも束の間だった。やはり私の古い分析癖は容易に衝動的熱中を許さなかった。さらに私の若き日の宗教的修業もそれを許さなかった。私の頭には再び神学的見地からの反論が蘇った。その最初の波が去り、二日間の間(ま)を置いて、再度その反論が心の中でぶり返した。その間も私はこれまで公表した通信と、私的すぎて公表できないものを繰り返し丹念に読み返した。どうしても自分の厳格な信仰から離れないままの過去一年間に亙る交霊の経験の価値評価もしてみた。そして次の三つの明確な結論に到達した。すなわち、私に働きかけている“影響力”は(一)私自身とは別個の存在である。(二)その述べるところは真実であり、首尾一貫している。(三)その宗教的教説は純粋であり、崇高さがある。以上の三点は間違いないように思えた。そこで更に私はその身元の確認と主義主張の問題を洗ってみた。その他の問題は後回しにしても良いように思えた。そして、以上の諸点について得心がいくと、古(いにしえ)の誠実な知性は今なお誠実である筈だと強く信じ込む気持になった。が、そこでふと疑念が頭をもたげた。もしかしたら“天使を装ったサタン”が自分の信仰を覆さんと企んでいるのでは……という疑念である。そこで私はこう書いた――

――私の判断力の許すかぎりにおいて正直に批判させて頂けば、あなたの教説は取りようによっては理神論(1)にもなり、汎神論(2)にもなり、あるいは(これは言い過ぎでしょうが)無神論にもなり得る性向をもっているとも言えないでしょうか。それは神を単なる一種のエネルギーと見下げることになり、人の心に絶対的なものの存在に疑念を抱かせることにならないでしょうか。つまり神とは宇宙に瀰漫する影響力につけた名称にすぎず、それを異なる民族が異なる時代に異なった形で想像したのだと人は考えはじめます。神の啓示と言っても、それは神から真理が明かされたのではなく、人間の心の中で想像したものに過ぎないことになります。キリスト教もそうして生まれた信仰の一つに過ぎず、したがって多かれ少なかれ誤りを含んだものであることになります。そして、これからも人類は程度の差こそあれ盲目的に自分で勝手に誤った考えを生み続けていくことになります。神はそうした概念の中にのみ存在するわけですから、一人一人が自分だけの特殊な神をもつことになります。数学以外には絶対的な真理が存在しないことになります。結局人間というのは、せいぜい自分なりの霊を宿し、自分の問いかけに自分で回答しては当座しのぎの満足を得ながら、また新たな考えを生んでいく孤独な一単位に過ぎぬことになる――それも知性が硬直化しなければの話です。古き信仰はすでに変化することを止めているだけに不変性があるという皮肉な理屈になります。

こうした味気ない思想は絶対的神性を有するキリスト教の福音に取って代わろうとするものです。キリスト教の教説には寸分の誤りもなく、その道徳性は殆ど誰にも理解のいく崇高性を帯びており、人間の行為に対処する上で欠かせない厳格な賞罰の規律もあります。それほどしっかりとした裏打ちのある福音ですら、おっしゃる通り、人類に完全な道徳性を植えつけることが出来なかったのです。なのに、あなたが説くような善の影程度しか持たぬ哲学――まさに影のみの存在で、漠然として曖昧で掴みどころのない、しかも過去を破壊し、それに代わる未来への建設力を持たぬ教説に、どうしてそれが出来るのでしょう。その程度のもので、道徳律が厳しく、人間的関心事に強く訴え、神に由来し、人類の模範として最高の輝きをもつ宗教のもとですら手を焼いた反抗的民衆の心を捕らえることなど、とても出来るものではないと信じます。

あなたの教説の拠ってくるところが不明瞭であることについてはすでに述べたので繰り返しません。またそれが一般に普及した場合の危険性についても改めて指摘することは控えます。それはまだまだ遠い先のことであり、ここで詳しく述べる必要性を認めません。同時にあなたの教説が広まると道徳的、社会的、宗教的に人類にとって欠かすことの出来ない健全な結びつきを多くの点で緩(ゆる)める結果になるであろうことも見逃せない要素です。万一スピリチュアリズムと呼んでいるものが一般民衆に広まれば、残念ながら社会は狂信者と熱狂者であふれ、確固とした支持を得るどころか、盲目的迷信と浅薄なる軽信の風を巻き起こすことが懸念されます。こうした危惧はまったく私の杞憂に過ぎないかも知れません。が、今の私には切実にそう思われるのです。私にはあなたの教説がこれまでの宗教的信仰の代わりになるものとは思えません。たとえあなたの主張する通りの真正なるものであるとしても、人間はスポンジケーキだけでは生きていけないように、このような教説に従って生きることには耐えきれないでしょう。その最も高尚な点を見ても、それを実生活に生かすとなると疑問がありますし、一方、その愚劣なる面に至っては、ただ単に人心を害し徳性を堕落させるのみであるように思えます。

神の御名においてわれらはそなたを歓迎する。が、今のそなたはわれらの手に余るものがある。われらの述べたところの真意を正しく理解しておらぬようである。襲い来る感情の激動が精神を混乱せしめ、微妙なる点の理解を不可能にしている。それが可能な状態になるためには、とにかく忍耐強く時を稼ぐことである。今のそなたにとっては、じっくりと時の経過に耐えていくことが何よりの修行である。いま理解できぬことも、そのうち判るようになるであろう。衝動と熱情が経験的知識と静なる確信へと変わり行くであろう。これまで、理解して受け入れるというよりは単に譲歩したに過ぎなかった信仰は、いかに崇高であれ、入念なる吟味と論理的分析より生まれた知識の前には影が薄れるであろう。われらの述べたところはその吟味と分析に値するものばかりである。これまで書かれたものを一続きのものとして繰り返し味読する機会をもって貰いたい。そしてそなたとの交信に一貫して流れるものを読み取って貰いたく思う。そしてわれらがいかなる素性の者であるかはそなたとの係わり合いの中で判断して貰いたいのである。前に述べたこととの食い違いを指摘するのも結構であるが、同時にわれらの言葉と態度、われらの説く教説の道徳的印象によって判断して貰いたい。細かき分析によって論理的あら捜しをするのもよいが、それと同時にわれらから受ける霊的雰囲気によって判断して貰いたく思う。

差し当たりては、われらが神の使者であることを厳粛なる気持ちで繰り返し主張するに留めておこう。われらが述べる言葉は神の言葉なのである。それはそなたにも判っているであろう。その弁明に改めて言葉を費すこともあるまい。そなたは決して病める脳の幻想によって誑(たぶら)かされているのではない。悪魔に玩(もてあそ)ばれているのでもない。悪魔ならば神につきてわれらの如き説き方はせぬ。また、人間の脳からはわれらの述べたような教説は出て来ぬし、われらの与えたような証言も出て来ぬ。精神が今少し穏やかになればそなたにもその事実が読み取れるであろう。そなたの精神が今の如き状態でさえなければ、神聖なるものに悪魔的要素を見出さんとしつこく探りを入れることの罪悪性について述べたいところである。それはちょうどイエスが地上の腐敗と災禍の中に在りし時、彼によりて追い払われたる悪魔がユダヤ教の狂信家たちの口をつきてイエスは魔王の手先であると非難したのと同一である。われらはそのような他愛なき非難には係わらぬ。非難そのものの中に立派な反証が見え透いているからである。じっくりと時をかけて熟考すれば、自ずとそなたの疑念に対する回答が出てくるであろう。今のそなたには瞑想と祈りが何より大切である。友よ、祈るのである。真実への道を求めて一心に、そして真摯に祈るのである。

祈ることだけはそなたも拒絶できまい。たとえそれが理屈抜きの激情から発したものでもよい。とにかく、われらと共に、啓発と耐える力を求めて祈ることである。真理を理解する力、そしてその真理に素直に従える気骨を求めて祈るがよい。光を切望するそなたの魂を縛りつけるドグマの足枷から解き放たれるよう祈るのである。そして解き放たれたるのちも堕落することなく、ひたすらに向上の道に導かれるよう祈れ。そなた自身の求めるところと、他人の影響とを截然と区別せよ。そなたにとりて正しきものを選り出し、他人は他人なりに適切なるものを選ぶに任せる大らかな心を求めて祈れ。選択と拒絶の責任を明確に認識し、一方において頑固なる偏見を避け、他方において安易なる軽信に流れることのなきよう祈れ。就中(なかんずく)、正直さと、誠実さと、謙虚さを求め、かりそめにも高慢と頑迷と下劣さによって神の計画を損うことのなきよう祈るがよい。

かくしてわれらの祈りは、神の真理の普及を心待ちにしつつ援助の手を差し伸べんとして待機する高き世界の神の使者の愛と慰めを引き寄せることになろう。スピリチュアリズム普及活動の一般的趣旨に関するそなたの批判につきては、すでにその大半に答えたつもりである。表面的活動の底流にはそなたの目に映じぬ或るものが存在することを述べた。いつの時代であれ、神の知識の発達過程においては、人目につかぬところで密かに新しき啓示を貪(むさぼ)り求め、さらにより高き真理を求めて着実に生長しつつある者が必ずいるものである。今の時代とて同じことである。そなたと同じく、酔狂に心霊現象を弄(もてあそ)ぶ者たちを憂えつつも、それによりて些かも信念を揺るがされることなく、真摯にわれらの霊訓を心の支えとしている者がいる――実に大勢いるのである。

さらにそなたに指摘しておきたきことは、われら霊界の者と地上との霊交は地上の科学の尺度で計れぬ法則によって支配されていることである。われらの働きかけの妨げとなる原因には、そなたはもとよりのこと、われらにすらよく判らぬものが多くある。そなたの保護のために勝手に法則を規定するわけには参らぬ。われら自身の保護すらもままならぬのである。そなたの係われるこの仕事の遠大なる重要性につきては、この仕事に興味を示す者にすら本当のところは殆ど理解されておらぬ。多くの場合、単なる好奇心の程度を出ておらぬ。それより更に下劣なる動機に動かされる者もいる。霊媒の管理が適切を欠いている。ために霊界との連絡のうまく取れていない者、調和を欠いている者、あるいは過労気味の者もいる。交霊会を取り巻く条件はそのつど異なる。われらとしてもその条件の変化に必ずしも対処できるとはかぎらぬ。出席者の構成が適切を欠いていることもある。そうした諸条件の重なり合いが交霊現象を常に同質のものに保ち、規則正しきものとすることを不可能にしているのである。

現象が時として気まぐれとなるのも、大方はこうした点に原因があるのであり、また目立ちたがり屋の出しゃばりによって霊界の同類の霊を呼び寄せることになり、せっかくの交霊会を低劣なものにする要因もそこにある。この問題につきては言うべきことがまだ多くあるが、今はそれ以上に大切なものが迫っている。いま述べたところにより、他の交霊会に見られる愚劣きわまる出来事や、通信を寛恕の目をもって評価せねばならぬ理由の一端が判ってもらえるであろう。偽りの現象の侵入する交霊会に至りては今は述べる言葉を持たぬ。よほど低級なる霊の仕業であり、全て信ずるに足らず、不愉快きわまる。

その点に関してそなたにはわれらの手助けが出来る筈である。愚かなる好奇心と欺瞞とを打ち砕いてくれることくらいはそなたにできる筈である。と申すのは、そなたはわれらのサークルにおいてわれらの指図通りに行ない、現象が徐々に発展して来た経緯を知悉(ちしつ)しているからである。他のサークルの者たちにも同じ指図を与えるがよい。やがて暗雲も晴れることであろう。もっとも交霊会にまつわる問題の原因はわれらの側と同様にそなたたちの側にもあることだけは確かである。

(†インペレーター)

〔注〕

(1)

Deism 超自然的啓示を排し、理性と自然のみを頼りとする有神論。

(2)

Pantheism 自然のすべてが神であるとする説。