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13節

〔これまでに受け取った一連の自動書記通信を読み返してみて、私は文体といい内容といい、その美しさにこれまでになく心を打たれた。それというのも、私には何ら意識的思考のないまま、猛烈な勢いで書かれていくその速さ、それでいて文法上の構成に一点の誤りも見当たらないこと、さらに全編を通じて一箇所の挿入も訂正も行なわれていないこと等を考え合わせると、ただただその美しさに驚きを覚えるばかりだった。

が、その主題の問題となると私は相変わらず受け入れに躊躇せざるを得なかった。共鳴するものも多かったが、同時に、もし受け入れたらキリスト教界の信仰が根底から覆えされることになるという危倶を拭いきれなかった。どう言い換えたところで、そうなることは火を見るよりも明らかである。用語と同時に、その根本理念を受け入れれば、キリスト教徒が絶対的箇条として信じることを誓ったものを数多く棄て去らなくてはならない。特にその中心的ドグマが崩れてしまうように思えた。各種の神学上の著作――ギリシャ正教、ローマ・カトリック、国教会、プロテスタント、とくに近代ドイツ神学――に幅広く親しんできた私には、その各説の枝葉末節における矛盾はあまり問題にしないだけの心の準備は出来ていた。こうした宗教的内容のものには多少の矛盾は避け難いことを認識していたのである。また神の啓示の奥深い神秘の前には、個人的見解は大した価値はないことも認識していた。要するに、私はこの種の問題に関しては少々のことでは動揺しないだけの心の準備は出来ているつもりでいたのである。

ところがインペレーターの言葉はまったく問題が別であった。集中砲火を浴びているのはキリスト教の根幹に係わることばかりであった。それをスピリチュアライズする、つまり霊的解釈を施すということは、私の信じている如何なる啓示にも致命傷を与えかねないように思えた。じっくりと考えに考え抜いた末の結論がどうしてもそこに落着する。しかもそれが、私のよく知らない、知ろうにも知り得ない知的存在による“独断”である。これはとても受け入れるわけにはいかない。私は今少し考える時間を持たねばならぬと考えた。とにかく、たとえ内容的にはどんなに美しくあろうと、キリスト教ほどの証拠性もなく偶像破壊的でもない教義を受け入れるには、まだ私の心が熟していないと感じた。こうした主旨のことを述べると次のような通信が来た――

良いことを述べてくれた。かくの如く重大なる問題につきては、深く考えるために十二分に時間(とき)を費す必要がある。われらはいずれはそなたが理解しその重大性を認識してくれるものとの確信のもとに説いてきた教説をそなたの熟考にまかせよう。疑問があれば何なりと聞くがよい。われらも喜んで答えよう。これまでの通信を十二分に考察するまでは、他の通信は敢えて押しつけぬことにする。すべからく忍耐と真摯なる祈りが肝要である。

寒々として霊性を寄せつけぬ地上生活にありては、そなたたちの魂と、その欲求を叶えしめんとして待機せる背後霊との間の磁気的霊交が、真摯なる祈りによりて如何に強く促進されるものであるかをそなたたちは知らぬ。その絆は使うほどに強化され、交わるほどにその親密度を増す。祈りというものが如何に豊かなる霊的恵みをもたらすかを知れば、そなたもより多く祈るようになることであろう。博学なる神学者は祈りの価値についてその核心を知らぬまま論議を重ね、迷路をさ迷い続けている。彼らは神を求める魂の真の欲求を聞き届けんとして待ち受ける背後霊の存在を知らぬ。もっとも無理からぬことではある。現時点における科学では立証できぬ性質のものだからである。そこで彼らは、愚かにも祈りの効用をその結果によって計らんとする。結果を分析し、統計の収集によってその効用を評価せんとするのである。が、それでもなお彼らは迷路をさ迷い続けている。何んとなれば、そうした努力によりて掴(つか)みうるのは形骸のみであり、その真相は彼らの視界へは入らぬからである。祈りの結果はそのようなことでは計ることは出来ぬ。人間の科学では捉えられぬものなのである。それはあくまでも霊的なものであり、個々の祈りによりて結果もまたさまざまな形式をとる。背後霊が異なる如く祈りの結果の表れ方も異なるのである。

無言の願いが叶えられぬままであることが実は魂にとりては最高の恵みであることが往々にしてあるものである。虚空に向けて発せられたる悩める魂の叫び――悲しみによりて絞り出されたる叫び――それ自体が魂の救済であることがある。が、待機せる背後霊がその重荷に苦しめる魂に同情と慰めの芳香を注ぎ込まんと努力している姿を見れば、魂が覚える何とも不思議な安らぎと、神への確信がいずこから来るかが理解できるであろう。それをもって祈りが叶えられたというのである。魂の奥底からの叫びが背後とのつながりをもたらし、苦しみと悲しみに悶える心が慰められるのである。

緊密なる関係にある者に注がれるこの磁気性の芳香は、神を探し求める魂の切実なる叫びがもたらす恩恵の一つなのである。真の霊交はそれ以外の条件下では実現せぬ。天使の住める“神秘の間”に入る者はよほどの霊性を開いた者に限られる。同時に、われらの側より最も近づき易き魂は普段より霊的交わりを重ねている者である。友よ、これには例外はない。それがそなたらの世界とのつながりを支配する不変なる法則の一つである。すなわち、霊性に目覚めた魂が豊かな霊的恵みを受けるのである。

願いごとへの真の回答は必ずしも人間がその無知ゆえに勝手に期待する通りのものとは限らぬ。往々にして、その願いごとを叶えてやることが当人に害を及ぼすことにもなりかねぬのである。当人は真相を知らぬまま、せっかちに、愚かなる願いごとをする。当然その祈りは無視される。が、切実に祈れるその心の姿勢が、待機せる背後霊との連絡路を開き、その必要性に鑑みて力と慰めとを授けてくれる。

人間がもっと祈りの生活をしてくれれば、と思う。もっともその祈りとは、為すべき義務を怠り、貴重なる試練の生活を病的とも言うべき自己分析、不健全きわまる自己詮索、怠惰なる瞑想、あるいは無理強(じ)い的、かつ非現実的哀願のみに費す礼拝一途の生活ではない。それは真の礼拝とは言えぬ。真の祈りの生活はそれとは全く別のものである。

真実の祈りは、守護せんとして待機する背後霊への魂の奥底からの叫びの、直情的発露であらねばならぬ。気まぐれな要求に応えて、変え得べからざる筈の法則を喜んで変えてくれるが如き神への他愛なき幻想が、祈りの観念を大きく傷つけてしまっている。そのようなことを信じてはならぬ! 祈り――魂の無言の希求を読み取り、それを叶えさせんとして遥か上界との連絡の労を取らんとして待機せる背後霊を通じての神への直情的叫び――これは形式の問題ではない。一語一語述べる必要もない。ましてや宗教的慣習、紋切り型の用語等によって拘束する必要などさらさらない。真の祈りとは魂と魂の直接の交わりであり、日頃より交信せる見えざる仲間への魂の叫びであり、磁気的連絡網を通じてその要求が電光石火の速さで送り届けられ、かつその回答が思念の如き速さで送り返される。その一連の営みを言うのである。

言い換えるならば、悩める魂を、慰め癒すことの出来る霊の手にあずけることである。それには言葉も身構えも形式もいらぬ。むしろそうしたものへのこだわりが消えた時こそ最も真実味を帯びる性質のものである。必要なのは背後霊の存在の認識と、それとの霊交を求めんとする直情的衝動のみである。そのためには、日頃の訓練が望まれる。さもなければ、日頃の使用を怠れる手足の如く、その衝動に反応を示さなくなる。それ故、日頃より霊性に目覚めた生活を営む者ほど霊的世界の深奥に深入り出来ることになる。その種の者にはわれらの方からも近づき易い。外界の喧噪に影響されることなく、その者のみが有するところの、われらにのみ反応する奥探き琴線に触れることを得るのである。彼らは地上に在りながら極めて高き霊性を発揮する。何となれば、日頃より霊と交わることを知り、霊的栄養を摂取しつつあるからである。彼らには物的生活に埋もれる者に閉ざされた霊的真理の秘密の扉が開かれている。そして不断の祈りによりて彼らは、少なくとも、地上生活においては苦しみも悲しみも魂の生長にとりて必要不可欠であることを悟りつつ、なおそれに超然とした生活を送ることが出来るのである。

ああ! かくの如き素晴らしき摂理を地上の人間が知らぬとは何と悲しきことであることか。この真相が今少し理解されれば、人間は聖純にして気高き霊の雰囲気の中で暮らせるものを。霊性の自覚によりて、覗き趣味的好奇心に駆られ、己の分際も顧みずに心霊の世界に深入りせる者を悩ませ、また時には、悲しいかな、真摯なる探求者をも悩ませる、かの邪悪霊の影響から免れることを得るであろう。たとえ完全には免れ得ずとも、その真理の普及は少なくとも危険からの保護を提供し、かつ人間に為しうる他のいかなる手段にも増して、われらの力となるであろう。それはわれらの行為の正当性を是認し、動機の純粋性の証となり、霊界通信の真実性を不滅のものとする最も有効なる力となるであろう。

故に、ひたすらに祈るがよい。但し、心のこもらぬ絞切り型の嘆願とならぬよう心せよ。魂と魂の触れ合いの中でのわれわれとの交わりを求めよ。ひたすらに魂に係わる問題にのみ心を向けよ。他のことは収まるべくして収まる。神学上の難解にして煩わしき問題は捨ておき、そなたの魂の安寧に係わる核心的真理に集中せよ。単純素朴なる霊的真理が人間の無益なる混沌によって幾重にも取り巻かれている。その収拾にそなたが係わる必要はない。またその中のいずれがそなたにとりて不可欠か、いずれが不必要かの問題も、今のそなたには係わる必要はない。今のそなたには絶対重要と思える教説も、こののちには、その教説が啓示された一時代にのみ適用さるべき一面的教説に過ぎぬことを悟る日も来よう。結論を焦るのは人間の弱点である。むしろ歩を緩めるがよい。ゴールへと焦らず、初期の段階にてじっくり時間を掛けねばならぬ。すべての秘密に通暁する前に、そなたが学ばねばならぬことは幾らでもある。

このことにつきてはなお言うべきことがあるが、差し当たりて必要なことは述べたつもりである。願わくば神がわれらとそなたとを護り給い、われらが首尾よくそなたを導き、暗闇に迷うそなたの魂に真理の光を灯し、安寧をもたらすことを得さしめ給わんことを。

(†インペレーター)

〔右の通信に対して私はすぐには抗弁せず、その内容に思いを巡らした。そしてやがて聞いてみたいことが浮かんだのでそれを書き留めようとした。そのとたん、私の手は強制的にストップさせられた。そして、代わってその手が激しい勢いで別のことを書き始め、信じられない速さで次のようなことを述べてきた。その間ただの一度も手を休めることがなかった。あまりの激しさに私は書き終えるまで半入神状態となっていた。〕

待つのじゃ! 焦るでない! 待つのじゃ! 今は議論の時ではない。真理を繰り返し吟味するのじゃ。そなたはせっかちに過ぎる。しかも下らぬことばかり思い巡らしている。われらの述べることが他の信仰と相容れぬからとて、一体それがそなたに何の意味があるというのか。何故に躊躇するのか。信仰とは大なり小なり他の信仰と相容れぬものではないのか。否、元来信仰とはそれ自体の中に矛盾の要素を含むものではないのか。それすら理解できぬようでは先ヘ進む資格はない。かの古き教義や信仰――当時としてはそれなりに価値はありながら、往々にして未熟であったものに人間は慰めを求めてきた。自分に都合よき言説を拾い求めてきた。あるはずもないものをわざわざ求めに赴いたのである。なぜ無いのか。魂がそうした古き言説――今の時代には生命を失いたる言説を超えて生長したからこそである。それはもはやそなたの益にはならぬ。そなたの魂はもはやそのようなものでは感動せぬ。語りかける言葉を持ち合わせぬ。心を癒す力を持たぬ。かつて或る者にとっては生々しき声として聞こえながら、今のそなたには無意味に響く、遠くかすかなこだまに過ぎぬ。

然るに何故にそなたはそのようなものに心を煩わせるのか。何故にそなたはすでにそなたにとりて何の意味も持たぬものから意義を見出そうと無益なる努力を続け、さ迷うのか。なぜ霊の世界より語るわれらの生々しき、燃えるが如き、真実味あふれる生きた声に耳を傾けようとせぬのか。滅びつつあるもの、あるいはすでに死物と化せるものの代わりに真実なるもの、霊的なるもの、崇高なるものを説くわれらの声に何故に耳を傾けようとせぬのか。一時の気まぐれとは言え、何故に生命なき過去の遺物を有難がり、生々しき現在、霊との交わり――神及び人間の宿命について崇高なる真理を語る霊団との縁を切らんとするのか。

これは明らかに狂気の沙汰であり、魂を堕落させ地上へ引きずり下ろすことを楽しみとする邪霊の影響に外ならぬ。われらの啓示が古き啓示と相容れぬからとて、一体それがそなたにとりて何の係わりがあると言うのか。われらの啓示は生々しき響きをもってそなたの魂に訴えている。それはそなたにも判るであろう。そなたはそれにて喉を潤し、その有難き力に浴している。古き啓示はもはやそなたにとっては死物である。生命なき形骸のまわりを何故にうろつきまわるのか。かつては神の啓示に満ちた生ける存在でありながら、今や朽ち衰えんとしている死骸に何故にすがりつくのか。

聖書にも、イエスの墓のまわりに集まれる悲しみの者たちの霊耳に霊がこう語りかけたことが記されておろう――“何故にそなたらは死者の中に生者を求むるや。彼はすでにここにはいない。彼は蘇れり”(1)と。そこでわれらもそなたに言う――何故に死せる過去、埋葬されたる真理の墓をうろつきまわり、もはや存在せぬものを無益に求めるのか、と。それはもはやそこには存在せぬ。蘇ったのである。かつて変転きわまりなき時代に神の真理を包蔵せしドグマのもとを去ったのである。残れるは空(うつ)ろなる宝石箱のみ。宝石はもはやそこには存在せぬ。生命は蘇ったのである。そして、見! われらはそなたにその蘇れる崇高なる真理、より気高き教義、より聖なる神を説いているのである。

かの古き時代に神の命(めい)を担いし地上の使者とその世代に語りかけた同じ声が、今、そなたとそなたの世代に語りかけている。いつの時代にも同じなのである。神は今も昔もまったく同じように人間を扱われる。すなわち、より多くの光、より高き真理ヘ導かんとされる。その神の声に従うか否かは人間の意志に任される。神を求める崇高なる志の者にとりても、古きもの、親しめるもの、歴史あるものは棄て難き魅力があり、それが一つの関所となる。その最初の迷いの中で彼らは古きもの、大切にせるものを全て葬り、新しきもの、未知なるものを受け入れねばならぬと悟る。それは一つの死を意味するかに思える。然して人間は死を恐れる。確かにそれはまさに死である。が、生へ向けての死である。暗き墓場を通り抜け、生と希望へたどり着く通路である。肉体の死によりて霊がその束縛より放たれて自由になる如く、古き信仰の束縛より解放された魂は自由の世界へと飛躍する。それはまさしくイエスの言える唯一(ゆいいつ)人間を自由にするところの真理による自由(2)である。そなたには今は理解できぬかも知れぬ。が、いずれ悟る日も来よう。

これがわれらの切なる声である。そなたは何故に死せる過去へ目を向けるのか。生気あふれる現在、そして輝ける未来があり、豊かな祝福を約束しているではないか。われらの述べるところが古(いにしえ)の教えと矛盾するからとて、それがそなたに何の係わりがあると言うのか。古き教えにはすでにそなたにとりて生命はなく、その失われたる生命を再び吹き込むことは出来ぬ。それは今なおその教えに意義を見出す者に任せるがよい。そしてそなたはより高き真理へ向けて、神の植えつけ給いし真理探求心の衝動に従いて迷うことなく歩を進めるがよい。死せる過去と訣別せよ。それは新しき現在を通過し未知の未来へ進む、その通路でしかない。

もっとも今のそなたにとりては、そうとも言えぬようじゃ。そなたにとりてはその過去が未だに魅惑があり、われらの説く新しき教説は古き信仰を根本より破壊するとの説に加担している。イエスがそう述べたとでも言うのであろうか。イエスはモーセの訓えの全廃を説いたのであろうか。前にも述べた如く、われらの教説は、イエスの訓えがモーセの訓えに比して取り立てて、驚異的なものではなかったように、イエスの訓えに比して取り立てて驚くほどのものではない。われらがそなたに理解を要求しているのは古き教説との矛盾ではなく、その完成である。より十全なる生長である。より広き知識の発展である。

イエスがその新しき信仰を説いた時の時代的背景をよく考察すれば、多くの点において今日と共通したものを見出すであろう。繰り返すことになるが、かのパリサイ派の形式主義やサドカイ派(3)の無関心主義に比して、イエスの訓えが取り立てて驚くベきものではなかった如く、われらの説く教説は決して今日宗教として流布しているものに比して取り立てて驚くべきものではない。当時は当時なりに新しき啓示を必要とした。そして今は今なりの新しき啓示を必要としている。ただ、古きものを愛し、慣れ親しみたる道に波風(なみかぜ)の立つことを望まぬ者にとりてわれらの言説が忌々(いまいま)しきものである如く、当時の宗教家にとってイエスの訓えがけしからぬものであったまでである。

今も同じであるが、当時その時代的要請に合わせて授けられた啓示のまわりに夾雑物がこびりつき、せっかくの啓示が意味も生命もなき、ただの宗教的儀式の寄せ集めとなり果てていた。以来、久しく神の声は聞かれることがなく、人間は新たなる啓示の出現を待ち望んだ。今日とまさに同じである。古き信仰は死物と化し、人間は新たなる生ける神の声を聞かんと欲した。それがイエスによりてもたらされた。人々の想像もせぬ人物――およそ学究的パリサイ派からは敬意を払われず、倣慢なるサドカイ派に容れられる見込みなき人物から神の声がもたらされた。そしてそれが全世界に広がり、一八〇〇年間にも亙りてキリスト教界の宗教的生活を動かしてきた。然るにその教義は今や堕落し果てた。が、イエスが身をもって示せる犠牲的精神は今なお生き続けている。今こそ要請されるのはその精神に新たなる息吹きを吹き込むことである。さすれば金科玉条と思い込んできた夾雑物が取り除かれ、取り除かれた量だけ一層真理の輝きを増すことであろう。

われらの啓示の源は民衆によって“ナザレの大工”と蔑(さげす)まれたイエスの使用せる霊力の源と少しも違わぬ。民衆はイエスに思いのたけの侮蔑を浴びせた。大衆はいつの時代にもそうである。新しきものを嘲笑するのである。彼らはイエスの起こす奇跡には目を見張った。目に見える驚異を見んと大挙して押し寄せた。が、その現象が意味するところの霊的教訓を理解するほどの霊性は目覚めていなかった。それは今でも同じことである。われらの演出する交霊会の現象にはイエスの時代の民衆と同じ驚きをもって興味を示す。が、彼らは十字架上のイエスに向いて“その十字架から降りてみてはどうか。もし降りられたらお前を信じてもよい”と言い放ちて、証の上にさらに証を求めた如く、今の民衆も完璧なる確信を得るためのテストを次から次へと求める。民衆はイエスを“ペテン師めが!”と罵った。罵声を浴びせてその地域より追い出した。イエスが彼らの中にいることを忌み嫌ったのである。確かに新らしき訓えであったことは事実である。が、その中身は従来と変わらぬ神の真理であった。その説き方、その理解の仕方を改めたにすぎぬ。われらの説く教説もまた今の時点においては新らしきものかも知れぬ。が、いずれ時の経過と共に、それが従来と同じ神の真理を復活させ、永遠の息吹きを吹き込んだに過ぎぬことが理解される日も到来しよう。

われらの説く神の真理は、イエスがあの時代――地位と身分ある教養人すなわち“パリサイ派や為政者”の中に一人でもお前の言うことを信じる者がいるかと冷笑的に言われた時代――に説ける真理と同じく、そなたたちにとりていささかも奇異なるものではない。どちらも連綿たる同じ真理の流れを汲むものであり、それを希求する者の要求と渇望に合わせて説かれているに過ぎぬ。ニコデモ(4)の気持ちを察するがよい。そして、それをそなたたちの時代の同じ立場にある人々のそれと比べてみるがよい。ユダヤの死せる信仰に新生の息吹きを吹き込み、神の観念をより鮮明に啓示せる同じ霊力が、今まさに瀕死の瀬戸際にあるキリスト教信仰に新しき生命を吹き込み、エネルギーと活力とを蘇らせることが出来ることを信ずるがよい。

全知全能なる神の導きと祝福のあらんことを。

(†インペレーター)

〔注〕

(1)

ルカ 24-5

(2)

ヨハネ 8-32

(3)

the Sadducees パリサイ派と対立するユダヤ教の一派で、モーセの律法を字句どおりに解釈し、霊魂の存在を認めなかった。

(4)

Nicodemus パリサイ派の一人で議員でもありながら、イエスの隠れた弟子であった。