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11節

〔この頃には迫ってくる霊の影響力が一段と強くなり、他の通信が一切締め出されてしまった。七月二十四日に私の方からいつもの霊に通信を求めたが何の反応もなかった。その影響力には不思議と精神を昂揚させるものがあり、それが精神活動を完全に支配していた。日常生活はいつもの通りに行なっていたが、その合間に一分一秒でも割いて、その影響力と、私にとって目新しい訓えのことを考えた。考え始めるとすぐにその影響力が中に割り込んできて、かつて感じたことのない力と物静かな美しさで迫ってくる感じがした。それまで私は神学を長年に亙って広く深く勉強してきたが、数ある教説もあら探しをする意図のもとに読んだことは一度もなかった。辻褄が合わない点も、批判するよりむしろうまく繋ぎ合わせるようにしたものである。ところが今や私にとって全く新しい考え――それまで金科玉条として受け入れてきたものの多くを根底から覆しかねない思想を突きつけられている。七月二十六日、私は前回のインペレーターの通信に再び言及してこう述べた――

――あなたの述べられた事柄についていろいろと考え、日頃尊敬している同僚に読んで聞かせたりもしました。何と言っても私たちが信仰の基本として教え込まれて来たキリスト教の教義が、事もあろうに、十字架の象徴(しるし)のもとに否定されていることに驚きを禁じ得ません。私の置かれた窮地は言葉で尽くせるものではありませんが、敢えて表現させていただけば、確かにあなたのおっしゃることは知的には理解できても、過去一八〇〇年以上もの長きに亙って存在し続けてきたキリスト教信仰が、たとえ理屈では納得できるとは言え、これといった権威ある立証もない教説によって軽々しく覆されては堪(たま)らないという心境です。一体あなたはイエス・キリストをどう位置づけるのか、またイエスの名のもとに訓えを説くかと思えば否定し、古い福音に替えて新たな福音を説いたりする行為を、一体いかなる権能のもとに行なうのか、お尋ねしたい。またあなた自身の地上での身元の確認と、あなたが公言される使命の真実性を証明する十分な証拠をお示し願いたい。合理的思考力を具えた者なら誰もが得心する証拠です。天使であろうと人間であろうと霊であろうと、またそれが何と名のろうと、何の立証もない者から送られた言葉だけで、神の起原とその拘束力についてのこれほど致命的変化を受け入れるわけにはいきません。また、そのように要求される謂れもないように思われます。その変化には徐々にではあっても歴然たる相違点が発見されます。また、あなたの同僚である複数の霊からの通信の内容にも食い違いがあるようです。そうした統一性のないものから送られる思想には強力な団結性が無いものと判断せざるを得ません。

友よ、これほど真摯にして理性的質問を引き出し得たことは、われらにとりて大いなる喜びである。真摯に、そして知的に真理を求めんとする心――その出所が何であろうと単なるドグマはこれを拒否し、全てを正しき理性によりて検討し、その理性的結論には素直に従う用意のある心、これこそ神意に適うものであることだけは信じて欲しく思う。われらはそうした態度に異議を唱えるどころか、それを受容性ある真面目な心の証として称賛する。従来の信仰をそれ相当の根拠なしには棄てず、一方新しき言説は形而上的ならびに形而下的に合理的な証拠さえあれば喜んで受け入れる。そうした懐疑と煩悶のほうが、もっともらしく色づけされたものを無批判に鵜呑みにする軽信的態度より遥かに価値がある。思想的風雨にさらされても何の内省も生まれず、そよ風にも能面の如き無表情をほころばせることもなく、いかなる霊的警告も通じぬ無感動と無関心の魂よりも遥かにはるかに貴重である。

そなたの抱く懐疑の念はむしろわれらの指導の成功の証として称賛する。そなたがわれらに挑む議論は、神の使者として述べた言説を全面的に検討してくれていることの知的証拠として歓迎する。そなたの煩悶せる問題については、いずれ、われらの力の及ぶかぎりにおいて回答を授けるであろう。われらには証を提示することの不可能な、ある超えられぬ一線がある。それはわれらも十分承知している。われらは人間の世界で言うところの証人を立てることが出来ぬという大きな不利な条件のもとで難儀している。われらは地上の人間ではない。故に法廷に持ち出す類の証拠を提示するわけには参らぬ。ただわれらの証言を聞いてもらい、理解してもらう――証拠によりて明らかにし得ぬものは知性にまかせ、公正に判断してもらうほかはないのである。

それは、われらの言説がわれらと共にこの仕事に携わる者を除いては、先ずもって、これを支持してくれる者がいないからでもある。実際にはわれらの同僚の多くが地上時代の身元を明かしている(1)。そして、その名をもつ実在の歴史的人物の地上生活についても、そなたは決定的とも言い得るものを事細かく知り尽くしている。そなたがあくまでもそれでは納得できぬと言うのであれば――もしもそれを偽りの霊の仕業(しわざ)であるとし、そなたを欺くために集めたる情報に過ぎぬと言うのであれば、われらとしてはそなたとのこうした霊的交わりのもつ霊的雰囲気に注目し、“木はその実によりて知らるべし。茨(いばら)より無花果(いちじく)を取らず、薊(あざみ)より葡萄(ぶどう)を収めざるなり”(2)とイエスが述べた判断の基準を思い出して貰いたい。われらの訓えが神意に適うものであることの証を全体の雰囲気の中に必ずや見出すであろうことを断言して憚らぬ。

しかし、これ以上この点について弁明することはわれらの使命の沽券(こけん)に係わろう。そなたがこの点に言及したことにわれらは微塵も驚きを感じぬ。が、もしも右の弁明でもなお得心がいかぬとなれば、われらとしてはもはやこれ以上付け加えるものを持ち合わせず、後はそなたがこれを納得してくれる日の到来を忍耐強く祈るほかはない。

それまでは決して押しつけがましきことは言わぬ。辛抱強く待つとしよう。

われらの霊団の各霊――地上時代に異なる国、異なる時代に生き、神及び死後についての見解も異にした者たちの結びつきについては多くを語ることが出来るが、それはまた別の機会に譲るとしよう。

差し当たりここで人間の地上生活には避け難き誤解を指摘しておきたい。それは地上の人間はいわゆる“自説(オピニオン)”というものが殆ど無価値であることを知らぬことである。死の過程を経て肉体から離れる。すると目隠しをされていたベールが取り払われ、それまで金科玉条としていた信仰がいかに愚にもつかぬ他愛なき幻想に過ぎぬものであったかを思い知らされるが、目隠しをされている今はそれが判らぬ。一方、程度こそ違え全ての神学的教義にはその奥に本質的にきわめて類似せる真理の芽が宿されていることも知らぬ。

ああ、友よ、そなたら人間は宗教をむやみに難解なるものにしたがるが、本来宗教とは決して難解なものではない。人間に授けられたるかぎりある知性によりて十分に包括し得るものである。かの神学的産物――神の啓示を被い隠せる気まぐれなるドグマは徒らに人間を迷わせ、当惑させ、真摯に道を求める者を無知と迷信の霧の中へ迷い込ませる以外に何の役にも立たぬ。向上進化を求める魂の特徴である暗中模索の真理探究は、いつの時代も同じであった。枝葉の点においては異なっても、本質においては少しも変わらぬ。目の見えぬ者が光を求める如く、迷える魂が必死に真理を求める。が、迷信という名の迷路がある。無知という名の霧がある。曲がりくねった道をよろめきつつ、躓(つまず)きつつ進み、時に路上に倒れて邪霊に踏みつけられる。が、すぐまた立ち上がり、手を差し伸べつつなおも光を求める。

かくの如き彷徨(さまよ)える魂はそなたの目にはみな同じように映るかも知れぬ。が、われら霊界の者の目には実に多くの相違点のあることが判る。古来、人間的ドグマの迷路の中にありて必死に光源を求めて喘ぎ進む魂は、外側より見る目にはみな一様に見えるであろう。が、われらより見れば、そなたらが教会と呼ぶ各教派を特徴づける神学上の教説は、そなたらが考えるほど同一ではない。われらの目にはその質的な差異が見て取れる。また、われらは未知なるものについて全く同一の理解をもつ魂は二つと存在せぬことを知っている。いかなる魂も大なり小なり他の魂と同じ見解を抱いてはいても、決して同一ではない。

その迷いの霧が晴れるのは、死のベールを通過した後でしかない。人間的詮索は肉体と共に滅び、個人的見解は取り除かれ、かくして曇りなき目にそれまで朧気に抱いていた真相が姿を現し、鋭さを増した判断力によって地上での印象を修正していく。そのとき悟るのは全てに真理の芽が宿されていること、それが或る者においては受容性豊かな心と霊的洞察力によりて生長を促進され、また或る者においては束縛された知性と卑しき肉体ゆえに、生長を阻害されるということである。しかし、神と、己のたどる宿命についての真理を求めてやまぬ魂においては、死と共に地上時代の誤れる信仰は速やかに影をひそめ、皆その低劣さと非真実性を悟っていくものである。いつまでも地上のままを維持し続ける者は真理への欲求を欠く者にかぎられる。

これでそなたにも判るであろう。真理はいかなる宗教の専有物でもない。それは古代ローマにおいて霊の浄化と禁欲を求めたアテノドラス(3)の思想の底流にも見出すことが出来る。ギリシャのヒポリタス(3)が朧気ながら垣間見ていた実在の世界を信じて地上生活を犠牲にし、神との一体を求めたその信仰の中にも見出すことが出来る。同じ真理への希求がローマの哲学者プロティノス(3)をして地上にありながらすでに地上界を超越せしめた。アラビアの神学者アルガザーリ(3)には教説そのものには誤りがありながらも、その奥底に正しき理解があった。その同じ神的真理の芽がアレッサンドロ・アキリーニ(3)の思想を照らし、その説教の言葉に力と真実を賦与した。

かくの如く彼ら全ての指導者の教説には同じ純粋なる宝石が輝いている。その光が彼らをして人間が神より授かれる真理の堆積物を清め、神および聖霊の宿命についてのより霊的な解釈を施すことによりて、人間の歩むべき道を一層気高く一層崇高なるものにするという共通の目的のために一丸となって働くことに邁進せしめたのである。

彼らにとりて今や地上時代の教説の相違は取るに足らぬことである。そうした夾雑物は疾(と)うの昔にかなぐり棄て、かつて地上にて魂の目を曇らせ進歩の妨げとなった人間的偏見などは跡形もない。それは今や完全に葬り去られ、ひとかけらの悔いも残っておらぬ。復活の信仰も見当たらぬ。疾うの昔に棄て去っている。が、その信仰の奥底に秘められた宝石は一段と輝きを増し、永遠にして不滅である。その啓発的影響力――ただ存在するだけで魂を鼓舞するその影響力に、かつて地上においては教説を異にする霊たちを結びつける神秘なる親和力の絆が存在するのである。

彼らが今、より崇高にして純粋なる宗教的知識を広めんが為に、共同の仕事に一団となって奉仕していることが決してそなたが考えるほど不可能なことでないことの理由が、これでそなたにも得心がいくことであろう。そのための地上の道具として最も適切とみてそなたを選んだのである。その判断に誤りはない。われらの述べたるところを根気よく熟読玩味すれば、いずれそなたもその合理性に得心がいくであろうことを確信する。その絶対的証拠は? と言うのであれば、それはそなた自身が死のベールを突き破り、一点曇りなき目をもってわれらの仲間入りをするまで待つより外はあるまい。今のわれらとしては、精々、そなたが少しずつわれらに対する確信を築き上げてくれることを望むのみである。どうかイエスが人を裁く時に使用せる判断の規準――己が裁かれんと欲する如くに人を裁くべし、という神の摂理をわれらにも適用して欲しく思う。

われらの教説に矛盾があるやに思うのは誤りである。これまでに交信せる様々な霊によりて種々な形での論議が為され、その取り挙げたる論点もまた多様であった。確かにわれらはそなたをわれらが伝えんとする根源的教説へ徐々に導かんとして、取り敢えずそなたの観念に深く根差しわれらの教説と正面衝突することが明らかなものは無論のこと、差しあたりて必須でないものは避けてきた。それは否定せぬ。われらの基本方針は、そなたの心に存在する特異な部分をいじくるよりも、その中に見出される真理の芽を発達させることにあった。それを目差して幾つかの接点を確保し、大切にして参った。一方それとは関わりなき問題点は避けてきた。そうした、これまで看過してきた点、論議を避けてきた諸点についてはこれ以後に取り挙げることになろう。が、これまでもそなたの方より、われらが明らかに誤りがあり何時(いつ)までも放って置けぬと観た見解について批判を求めてきた時は、われらとしては遠慮なく啓発してきたつもりである。

われらの目には、そなたの心に想念の潮流が発生し、それがそなたの魂にとってもはや安全ではなくなった古き停泊所よりそなたを運び出さんとする動きがよく見て取れる。それを見てわれらはそなたをその潮流と風の為すがままに放置し座礁するに任せておくに忍びず、われらがその水先案内をする。その際われらは教説という名のロープを一本一本少しずつ穏やかに緩め、より安全にして確実な港へ係留してきた。もしも一気にその港へ引っ張り込んでおれば、古きロープは切れ、そなたの魂は疑問と煩悶の嵐の中に巻き込まれ、舵(かじ)を取る者もなく、立ち寄るべき港も見当たらず、ただ風波に翻弄され、救われる見込みはなかったであろう。われらが予(あらかじ)め衝突を避けられるものは避け、荒波を立てぬよう配慮したことを咎めるのは当たらぬ。致し方なきことであった。そなたの思う方角へ向けて援助することも出来ぬでもない。が、かりに援助してそのロープを締めていたならば、そなたの魂は死物と化せる遠き過去へ一層強く繋がれることになっていたであろう。そなたの心の態度一つでわれらはそなたをその嵐から超然とさせ、新たなる生命あふれる信仰を携えて、より静かにしてより広き海原に乗り出さしめ、地上という試練の場と、死後の安らぎの港との間に横たわる苦難の海を乗り切れるよう援助するであろう。

こうした作業において、われらはそなたに過激な衝撃を与えぬよう慎重の上にも慎重を期してきた。いかなる点においても、指導を誤ったことはない。そなたをごまかしたこともない。そなたに与えたわれらの教説には予め徹底した吟味が為されている。われらはなるべくならそなたの精神に宿る思想を取り出し、敷衍し発展させるよう心がけた。そうしてその中により新しく且つより真実に近き見解を育(はぐく)み、導き、注入するよう努めたが、いかなる点においても偽れるもの、歪めたるもの、あるいは指導を誤れるものは何一つない。

われらがこれまで述べてきた教説には実質上の齟齬は何一つない。万に一つそう思えるものが存在しても、それは通信上の難しさとそなたの精神による種々の影響の所為である。つまり通信霊の未経験に起因する場合もあるであろうし、就中(なかんずく)、そなた自身の先入観の影響が大いにある。そなたの精神が受けつけようとせぬものは、われらも伝えることは出来ぬ。そこでわれらとしては、いつかそなたが曇りなき目で見るであろうところの真理を、象徴的に大まかに伝えるしかない。霊媒の魂が煩悶している時、身体が苦痛に苛(さいな)まれている時、あるいは精神状態が病的になっている時も、明確なる通信を伝えることは出来ぬ。否、荒れ模様の天気、電気的障害、あるいは近隣の人々の非友好的態度ですら通信に反映し、明確に、そして十分に意を尽くすことを妨げるのである。それがそなたの綿密なる目には矛盾として映るのであろう。が、それも些細なことであり、また数も取るに足らぬ。それらは障害が取り除かれると同時に雲散霧消することであろう。そして、ここぞという困難と危険に際して、高邁なる霊的洞察力がそなたを導いていたことを知るであろう。

そなたはわれらの説く訓えが一般に受け入れられる見込みは乏しいと言うが、その点についてもそなたは真相を知らぬ。お粗末な継(つ)ぎ接(は)ぎだらけの朽ちかけたる古き信仰が、より高尚にして崇高なる信仰――対抗するものではなく補足補充するもの――と置き替えられ、イエスの説きし福音がより高き次元において理解される日は、そなたが思うより遥かに近く迫りつつある。

友よ、よく心するがよい。今われら従事せるが如き神の計画が、人間の必要性との関連を無視して不用意に授けられることは絶対にない。われらの仕事も神の一大計画のほんの一部門に過ぎぬ。他にも数多くの霊団がそれぞれの使命に邁進している。その訓えは徐々にそして着実に、それを受け入れる用意のある者に受け入れられて行くであろう。それが神の計画なのである。神の時を地上の時で以て考えてはならぬ。また、われらの視界はそなたらの視界の如く狭く限られたものではない。いずれわれらの意図せる通りの知識が地上に広まる日も来よう。その間、それに備えた進歩的魂は着々と教育を受けている。貴重なる種子が蒔かれつつある。やがてその収穫の時期も到来しよう。その時をそなたもわれらも共に待たねばならぬ。

われらの述べたるところを心して読めば、われらが提供しつつある状況証拠などより遥かに明確にその本質を読み取ることが出来るはずである。繰り返すが、神は決して福音の押し売りはせぬ。神はただ提供するのみである。それを受け入れるか拒否するかはそなたの選択に任されている。が、そなたおよびわれらが係わり合える人々の全てが、いずれ、その神性を確信してくれるであろう。それをあくまでも否定する者は、浅薄なる頑迷さの網にかかり、神学という名の足枷をはめられ、鉄の如きドグマによって束縛された者たちのみであろう。そうしたドグマ主義者、頑固なる迷信家、偏狭なる信者、独善家はわれらの取り合うところではない。否、魂に泌み込みたる古き信仰に何よりの安心立命を見出す者もまた、われらの取り合うところではない。神の御名にかけて彼らにはそのまま古きものに縋(すが)らせておくとしよう。彼らにもいずれ進歩の時が訪れよう。今はその時ではない。そなたおよびそなたと志を同じくする進歩的求道者には、われらが決して悪魔の使いでもなければ悪魔的意図も持たぬことを、これ以上弁明する必要はあるまい。

また啓示についてのわれらの言説を熟読玩味すれば、要するにわれらの教説も神に関する知識の段階的進歩の一つの階梯に過ぎぬことを理解するであろう。すなわち神を人間と同一と観た神人同形同性説の時代から、人間的煩悩や感情を神の属性とすることの不合理を徐々に悟り始めた現在に至るまで、神的啓示も人間の進化と共に徐々に向上しつつあるということである。本質においては、われらの啓示も、それに先立つ啓示と何ら異ならぬ。ただ、人間の知識と同様に、一歩向上したというにすぎぬ。その根源は同じであり、それを授ける手段も同じである。今も昔もあくまで人間であり、完璧は期し難く、時には誤りを犯す。人間を通信手段とする以上、それは免れぬことである。

さらには、われらが明言せる態度を思い出していただきたい。われらの一貫せる態度は、かの伝説的教説――単に古き時代のものという意味での伝説的教説――を金科玉条とする盲目的信仰に代わりてそなたの理性に訴えるということである。軽信に代わって合理的知性的検討を勧め、確信に基づける容認を要求する。われらが神の使者であるということだけで、われらの教説――単に今の時代に授けられたという意味での新しき教説――を信じて貰おうなどとは、さらさら思わぬ。理性の天秤にかけ、知性の光に照らし、得心がいかなければ拒絶するがよい。十二分に得心するまでは決して同意することも行為に出ることも求めぬ。

それ故、霊的教義の内容は正しき理性を得心させるべきものであると同時に、われらがそなたにその受け入れを求める根拠もまた合理的且つ論理的思考を完全に満足せしめるものである。道を誤りたるとはいえ真摯なる求道者はもとよりのこと、進歩的人間の真面目な生活において過去一八〇〇年以上もの永きに亙りて後生大事にされて来た教義に対し、われらが功を焦るあまり、いたずらに彼らを反目せしめる結果となることは神が許されぬ。それほど永きに亙りて大事にされた事実そのものが、彼らの崇敬を受けるに足る資格を物語っていよう。ただ、われらの広き視野より見る時、その説くところが古き蒙昧なる時代ならいざ知らず、この開け行く時代には、それなりに視野を広げ霊性を賦与しなければならぬと思われるのである。とは言え、われらとしては急激なる改革によって混乱を来すことは望まぬ。今あるものに磨きをかけ、新しき解釈を施したく思う。ひきずり下ろし、足で踏みにじるようなことはせぬ。シナイ山にて嵐の如き口調にて啓示されたる戒め(4)に代えて、イエスが慈愛と滅私の純心さをもって、より崇高なる信仰を説いた如く、われらはそれをさらに新しきこの時代の受容能力と必要性に鑑(かんが)みて説かんとするものである。

“そのようなものはわれらの信仰が受けつけぬ”と申されるか。なるほど、それもよかろう。われらとしては少なくともこうした見解の存在を知らしむるだけのことはした。それを受け入れる者は、古き信仰に比してその影響力が一段と明るきものであることを感ずるものと確信する。一つの真理が初めて語られ、それが最終的に受け入れられるに至るまでの道程は、しばしば永き年月を要するものである。収穫にはまず種子蒔きの時期があらねばならぬ。その後、雨にうたれ霜に埋もれ、寒々とした冬の季節はいかにも長く感ぜられよう。が、やがて暖かき太陽の光に照らされて種子が芽を出し、真夏の恵みを受けて豊かに実をつけ、そして収穫の季節を迎える。耕作の時期は長いかも知れぬ。種子を蒔いたあとの待つ時期は暗く憂鬱かも知れぬ。が、収穫の季節は必ず来る。その到来を遅らせることは出来ぬ。収穫時に手を貸すことは出来よう。種子蒔きに手を貸すことも出来よう。が、手を貸す貸さぬに係わりなく、あるいは、たとえそれを阻止せんとしても、神の時節(とき)は必ず到る。その時、神の言葉を受け入れるか拒否するかの問題は、本質的には個人の問題でしかない。受け入れる者は進歩し、拒否する者は退歩する。そしてそれに関われる天使があるいは喜び、あるいは悲しむ。それだけのことに過ぎぬ。

次にそなたはわれらがイエス・キリストをいかなる地位(くらい)に位置づけるかを問うている。われらとしては、さまざまな時代に神に派遣されたるさまざまな指導者について興味本位の比較をすることは控えたい。未だその時期ではない。但し今このことだけは明白である。すなわち、人類の歴史においてイエスほど聖純にして気高く、神の祝福を受け且つ人に祝福を与えた霊はいないということである。その滅私の愛によってイエスほど人類の敬愛を受くるに相応しき霊はいない。イエスほど人類に祝福をもたらせる霊はいない。要するに、イエスほど神のために働きたる霊はいないということである。

が、神より遣わされたる偉大なる指導者を比較し論じる必要をわれらは認めぬ。われらとしてはその一人一人に称讃を贈り、克己と犠牲と愛の生涯を、それぞれの時代の要請せる手本として賞揚したく思う。キリストの例にしても、もしも人類がその際立てる素朴さと誠実さ、愛的献身と真摯なる目的、自己犠牲と聖純さの模範として仰いでおれば、かの宗教的暗黒時代の神学者たち――人類に呪(のろ)いの遺産ともいうべき愚か極まる思索の産物を残せる者たちも、今少し有意義なる存在となり、人類の呪いとはならず、むしろ祝福となったことであろう。神の尊厳を傷つけることもなく、キリストの素朴なる福音を素直に受け入れていたであろう。然るに彼らは神人同形同性説的神学を丹念に築き上げ、それがキリストの素朴なる訓えより一層遠ざけることになっていった。今やその名と教義は派閥間の争いの戦場と化し、その訓えは滑稽な物真似となり下がってしまった。その有様を聖なるキリストの霊は衷心より悲しみ、哀れに思っておられる。

友よ、神の摂理と人間的解釈とは截然と区別せねばならぬ。われらは主イエスの威厳の前にひれ伏すが、人間が勝手に解釈し、それをイエスの名において説く教説――イエス自ら否認されるであろう教説を黙認することによりてイエスの面目を汚すようなことは潔(いさぎよ)しとせぬ。さようなことは絶対にせぬ。主はもとより、主の父であり全存在の父である神の面目を真に辱しめるのは、バイブルを正しく理解せずその心を掴み損ねて、ただ字句どおりの解釈に固執する余り、無知の為せる業とは言え、逆に神への不敬を働いている者たちなのである。われらではない。彼らこそ真に神の名誉を傷つけているのである。たとえ長年の慣用の歴史を有するとは言え、また、たとえその字句を彼らが聖なるものと断定せる書からの引用によりて飾ろうと、さらにまたそれらの書に、そこに述べられたことへ異議を唱える者への呪いの言葉が見出されようとも、真に神を冒涜する者はわれらにはあらず、彼らなのである。

われらはその呪いの言葉を哀れの情なくしては見つめることが出来ぬ。われらとしては、差し当たり実害なき誤りはこれを敢えて覆そうとは思わぬ。しかし神を冒涜し魂の向上の妨げとなる言説はこれを赦しておくわけにはいかぬ。本来ならば神に帰すべき名誉をイエスなる一人物に押しつけ、神に対する個人的敬意と愛を疎(おろそ)かにすることは、神に対する人間としての義務を無視することに他ならぬ。狭隘(きょうあい)にして冷酷きわまるドグマをその一言一句に至るまで頑に遵守せんとする態度は魂を束縛し、霊性を歪め、進歩を遮り、生長を止める。“儀文は殺す。されど霊は活かす”(5)とある。それ故われらは火炎地獄の如き作り話に見られる神の観念を否定する。贖罪説の如き伝統的教説に代わりてわれらは、より清き、より理性的教説を主張する。要するにわれらは霊性を基盤とする宗教を説くものである。死物と化せる形式主義、生命も愛もなき教条主義よりそなたたちを呼び戻し、霊的真理の宗教、愛に満ちた天使の象徴的教訓、高き霊の世界へ誘(いざな)わんとするものである。そこには物的なものの入る余地はなく、過去の形式的ドグマも永遠に姿を消す。

以上、われらは事の重大性に鑑みて、細心の注意をもって語ったつもりである。そなたも細心の注意をもってよく熟読されたい。ひたすらに真理を求むる心をもって検討し、隔てなき神の御加護を祈り求められんことを希望する。

(†インペレーター)

〔注〕

(1)

巻末「解説」参照。

(2)

ルカ 6-44

(3)

ここに引用された古代の思想家、及び宗教家はすべてインペレーター霊団に属している。

「解説」参照。

(4)

モーセの「十戒」。

(5)

コリント後 3-6