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10節

〔不服だったので私は書かれた通信を時間を掛けてじっくり吟味してみた。それは当時の私の信仰と正面から対立する内容のものだったが、それが書かれている間じゅう、私は心を昂揚させる強烈な雰囲気を感じ続けていた。反論する前に私は何とかしてその影響力を排除してしまいたいと思った。

その反論の機会は翌日訪れた。私はこう反論した。あのような教義はキリスト教のどの教派からも認められないであろう。またバイブルの素朴な言葉とも相容れない性質のものであり、普通なら反キリスト的なものとして弾劾裁判にもかけられかねないところである。更にまた、そのような何となく立派そうな見解――当時の私にはそう映った――は信仰のバックボーンを抜き取ってしまう危険性がある、といったことだった。すると次のような回答が来た――

友よ、良き質問をしてくれたことを嬉しく思う。われらが如何なる権能を有する者であるかについてはすでに述べた。われらは神の使命を帯びて来たる者であることを敢えて公言する。そして時が熟せばいずれそれが認められることを信じ、自信をもってその日の到来を待つ。それまでに着実な準備を為さねばならぬし、たとえその日が到来しても、少数の先駆者を除いては、われらの訓えを全て受け入れ得る者はおらぬであろうことも覚悟は出来ている。それは、われらにとりて格別の驚きではないことを表明しておく。考えてもみるがよい! より進歩的な啓示が一度に受け入れられた時代が果たしてあったであろうか。いつの時代にも知識の進歩にはこれを阻止せんとする勢力は付きものである。愚かにも彼らは真理は古きものにて事足れりとし、全ては試され証明されたと絶叫する。一方、新しきものについては、ただそれが新しきものなること、古きものと対立するものなること以外は何一つ知らぬのである。

イエスに向けられた非難もまさにそれであった。モーセの訓えから難解きわまる神学を打ち立てた者たち――その訓えはその時代に即応したそれなりの意義があったとは言え、時代とともにより高き、より霊性ある宗教にとって代えられるべきものであったが、彼らは後生大事にその古き訓えを微に入り細を穿ちて分析し、ついに単なる儀式の寄せ集めと化してしまった。魂なき身体、然り! 生命なき死体同然のものにしてしまった。そしてそれを盾に、彼らの神の冒涜者――不遜にも彼らは人類の宗教の救世主をそう呼んだのである――はモーセの律法を破壊し、神の名誉を奪う者であると絶叫した。律法学者(1)とパリサイ人(2)、すなわち伝統宗教の擁護派が一丸となってイエスとその訓えを非難した。かの偉大なる人類の指導者を十字架にかけるに至らしめたその怒号を真っ先に浴びせたのが彼らであった。

イエスが神の名誉を奪う者でないことはそなたのよく知るところである。イエスは神の摂理を至純なるものとし、霊性を賦与し、生命と力を吹き込み、活力を与え、新たな生命を甦らせんがために人間的虚飾を破壊せんとしたに過ぎぬ。

親へのうわべだけの義務――愛の心を欠き、わずかな、しかも渋々ながらの施しのみの義務――を説く佗しき律法に代わって、イエスは愛の心より湧き出でる子としての情愛、身体の授け親と神に対する無償の惜しみなき施しの精神を説いた。うわべのみの慣例主義に代わって衷心よりの施しを説いた。いずれが正しく、より美しいであろうか。後者は前者を踏みにじるものであったろうか。むしろ前者のほうが、生命なき死体が生ける人間に立ち向かうが如く、後者に執拗に抵抗したに過ぎぬのではなかったか。にもかかわらず、軽蔑をもって投げ与えられたわずかな硬貨で、子としての義務を免れて喜ぶ卑しき連中が、イエスを旧(ふる)き宗教を覆(くつがえ)さんと企(たくら)む不敬者として十字架にかけたのであった。

その新しき福音を喜ばず、かつ、それを受け入れる用意もなき世に敢然と立ち向かったイエスの弟子たちへしつこく向けられし非難もやはり、新しき教義をもって旧き信仰を覆さんとしているというものであった。そうして何とかして彼らを告発すべき恐ろしき罪状を見出さんと策を弄した。が“四面楚歌”の新しき信仰に対する如何なる非難をも甘受するその弟子たちの説く訓えに何一つ不埒(ふらち)千万なるものを見出し得なかった。彼らは確かに非合法の集団であった。が、ユダヤ教信仰と“時の権力”には忠実に従っていた故に、告発せんとして見守る者たちも、その謂れを見出すことが出来なかった。彼らは次々と新しき無垢の信者を集めていった。みな愛の心に満ちた優しきイエスの後継者たる彼らの訓えには、何一つ不埒千万なるものはなかった。そなたも今まさに、何とかしてわれらの訓えと使命の信頼性を失墜させるものばかりを好んで信じようとしているが……

しかし、いつの時代もそうだったのではなかろうか。新しきものが非難され、信頼を得られぬのは、宗教において、科学において、有限なる人間の為すことの全てにおいて、いつの時代にも変わらぬ物語である。それが人間的知性の特性の一つなのである。すなわち、見慣れたものが気に入られ、目新しく見慣れぬものが懐疑と不信の目で眺められるのである。

それ故われらはスピリチュアリズム的キリスト教観を説くに当たり、劈頭(へきとう)より懐疑の目をもって迎えられることに些(いささ)かの驚きも感じぬ。いずれは全ての者がその訓えの美しさと神聖さを認める日が到来するであろう。

われらの説くところが人間の言説と衝突することは、別に驚くには当たらぬ。否むしろ、遠き過去において霊能の発達程度を異にする霊媒を通じて得られた訓えと矛盾せぬことの方がおかしい。バイブルの中にも、それが当時の霊媒を通じて得られた誤りだらけの混ぜものであるために、それらの訓えと融合し得ぬものが見出されることを敢えて指摘せぬわけにはいかぬのである。この点についてはすでに述べたので繰り返す必要はあるまい。

バイブルの啓示にも神についての知識に進歩のあとが見られぬわけでもないが、細部において不合理きわまる自家撞着を少なからず含んでいる。その上、霊媒を通過する際に紛れ込める人間的誤謬もまた少なしとせぬ。その中より真相を読み取るにはバイブル全体の流れを読むほかはない。その全体像を無視して選び出した個々の言説は、それ自体の価値はあるにせよ、信仰の対象としての価値は些かも認められぬ。そもそも幾世紀も昔の教説を今なお金科玉条として永遠の至上命令の如く考えること自体が愚かと言うべきである。その種の考えは自家撞着を含み、また同じバイブルの中の他の言説、あるいはそれと対立する言説とも矛盾する。

申すまでもなく、そなたたちが神の声と呼ぶ書を筆記者たちが記録した時代においては、イエスは神なりとの信仰が広まり、それを否定せんとする者には厳しい批難が浴びせられた。またそう信じた者たちは同時に、イエスが地上人類を裁くために霊妙不可思議なる方法にて雲間にその姿を現す――それもその世紀の人類が滅びる前である、と信じた。両者とも間違いであった。そうしてその時以来少なくとも一八〇〇年が過ぎ去ったが、イエスは再臨しておらぬ。このことに関連して今少し述べておく必要があろう。

われらがそなたに理解を望むことは、神の啓示といえども、所詮は自分自身に与えられた“光”にて判断せねばならぬということである。説教者の言葉を鵜呑みにすることなく、それを全体像の中で捉(とら)え、一言一句の言い回しにこだわることなく、その精神、その流れを汲み取るよう心がけねばならぬ。われら自身、およびわれらの教説を判断するに際しても、得体の知れぬ古き予言に合うの合わぬだのという観点からではなく、そなたの真に求むるもの、そなたと神とのつながり、そしてそなたの魂の進化にとって有益であるか否かを基準にして判断せねばならぬ。

つまるところ一体われらは何を説かんとしているか。その説くところがどこまで理性を納得せしむるか。神について何と説いているか。そなたの魂にとってそれがどこまで有益か。そう問いかけねばならぬ。

そなたが正統派教会より教え込まれた教義によれば、神はその一人子を犠牲(いけにえ)とすることで人間と和解し、さらにその中の選ばれし少数の者を天国へ招き入れ、そこで時の果つることなく永遠に、単調この上なく、神を讃える歌をうたい続けるのだという。その恩寵にあずからぬ他の人類は全て天国に入ることを許されることなく、言語に尽くし難き苦しみを永遠に受け続けるという。

この至福にあずかれぬ哀れな者たちは、ある者は信仰なきが故であり、ある者は堕落せる環境のせいであり、ある者は恐ろしき煩悩の誘惑に負け、罪を犯せるが故である。さらにある者は多情多淫の肉体をもって生まれ、その激情に抗し得ざりしためである。また何を為すべきかを知らぬ者もいた。もし知っていれば喜んで努力したであろうに。救われたくば是非信ぜねばならぬと説かれた教義が、知性的に受け入れ得なかった者もいる。さきに述べた如く、死後、天国への保証を確保してくれると説く言説に同意せざりし者もいる。その者たちは永遠に破滅の道を歩み続け、その哀れなる者たちを、祝福されし者たちが平穏無事の高所より眺め下ろし、心安らかなる満足を得るという。その実彼らの多くは地上にて悲しむべき堕落の生活を送りながら、ただドグマ的教説への信仰を告白せるが故に救われたというに過ぎぬ。

肉欲と怠惰と、あらゆる法に違反せる生活も、信仰の告白という一つの行為によりて全てが帳消しになる、とそなたたちは教え込まれてきた。いかに粗野にして肉欲に狂える無法者も、死の床にてイエスへの信仰を告白すれば、それまでの生活そのものが冒涜していたはずの神のもとへ一気に招かれるという。不純にして卑しき堕落者が、清純にして気高き聖人と共に完全無垢なる神のもとにかしづけるとは!

指摘すれば枚挙に暇なしであるが、われらの説くところと比較対照するには以上の指摘で十分であろう。われらは決してそのような神――理性が身震いし、父性的本能が嫌悪の念を催す神の概念は説かぬ。同じく愛の神とはいえ、さような偏れる愛の神をわれらは知らぬ。それは人間の発明せる神であり、われらは知らぬ。さような人間的偶像は野蛮なる精神の哀れなる戯言(たわごと)に過ぎぬことを指摘せずにはいられぬ。至純至聖なる神を滑稽化するその不敬きわまる無知と愚かさに、そなたもわれらと共に驚きを感じて欲しく思うのである。友よ、そのような神の観念を抱くようでは、人間はよくよく霊性が堕落していたものと推察される。今、そうした言説に敢然と異議を唱える者こそ、われらの説く福音を切望している者に相違あるまい。

われらが知るところの神、そしてそなたに確信をもって説ける神こそ、真の意味での愛の神――その働きは愛の名を裏切らず、その愛は無限にして、その慈悲は全ての創造物に及びて尽きることを知らぬ。いかなる者に対しても分け隔てせず、全てに断固たる公正をもって臨む。その神とそなたたちとの間には無数の天使が階梯をなして待機し、神の愛の言葉を携え、神の意志を時に応じて啓示する。この天使の働きにより神の慈悲は決して途切れることなく人類に及ぶ。これこそわれらが説く神――摂理によって顕現し天使を通じて作用するところの神である。

では、人間についてわれらは何を説くか。たった一度の改心の叫び声、たった一つの懴悔の言葉、筋の通らぬ恐ろしき教義への信仰の告白行為一つにて、退屈きわまる無活動の天国を買収し、恐ろしき体罰の地獄から逃れることを得るという、その程度の意味での不滅の魂なのか。否、否。そなたたちはより高き霊的生活への鍛練を得るべく、ほんの僅かな期間を肉の衣に包まれて地上に在るに過ぎぬ。その霊の世界にありては地上生活にて自ら蒔いた種子が実をつけ、自ら育てた作物を刈り取る。そなたたちを待ちうけているのは永遠の無活動の天国などという児戯に類する夢幻(ゆめまぼろし)の如き世界ではなく、より価値ある存在を目差し、絶え間なく向上進化を求める活動の世界である。

その行為・活動の結果を支配するのは絶対不変の因果律である。善なる行為は魂を向上させ、悪なる行為は逆に堕落させ、進歩を遅らせる。真の幸福とは向上進化の中、すなわち一歩一歩と神に近づく過程の中にこそ見出される。神的愛が行動を鼓舞し、互いの祝福の中に魂の喜びを味わう。ものぐさな怠惰を貪(むさぼ)る者など一人もおらぬ。より深くより高き真理への探求心を失う者もおらぬ。人間的情欲、物欲、願望のすべてを肉体と共に棄て去り、純粋と進歩と愛の生活に勤しむ。これぞ真実の天国なのである。

地獄――それは個々の魂の中を除いて他のいずこにも存在せぬ。未だに浄化も抑制もされぬ情欲と苦痛に悶え、過ぎし日の悪業の報いとして容赦なく湧き出ずる魂の激痛に苛(さいな)まれる。これぞ地獄である。その地獄より脱け出る道はただ一つ――たどり来る道を今一度あと戻りし、神についての正しき知識を求め、隣人への愛の心を培う以外にはない。

罪に対してはそれ相当の罰のあることはもとよりであるが、その罰とは怒りと憎しみに燃える神の打ち下ろす復讐のムチではない。悪と知りつつ犯せる罪悪に対し、苦痛と恥辱の中にありて心の底より悔い改め、罪の償いの方向へと導くための自然の仕組みにほかならず、お慈悲を請い、身の毛もよだつ恐ろしきドグマへの口先のみの忠誠を誓うが如き、退嬰(たいえい)的手段によるのでは断じてない。

幸福とは、宗教的信条に係わりなく、絶え間なき日々の生活において、理性に適い宗教心より発する行ないを為す者すべてが手にすることが出来るものである。神の摂理を意識的に犯す者に必ず不幸が訪れる如く、正しき理性的判断は必ずや幸福をもたらす。そこには肉体に宿る人間と肉体を棄てた霊との区別はない。

霊的生命の究極の運命についてはわれらも何とも言えぬ。何も知らぬのである。が、われらをして現在までに知り得たかぎりにおいて言わしむれば、霊的生命はそなたら肉体に宿る者もわれら霊も共に、等しく神の因果律によりて支配され、それを遵守する者は幸福と生き甲斐を覚え、それを犯せる者は不幸と悔恨への道をたどるということだけは間違いなく断言できる。

神に対する責務、同胞への責務、そして自分自身に対する責務、この三つの根本的責務についてはすでにその大要を述べた。よってここでは詳説はせぬ。いずれ敷衍(ふえん)して説く時機も到来しよう。以上述べたところを篤と吟味せられたい。われらが当初より宣言せる主張――すなわち、われらの訓えが純粋にして神聖であり、イエスの訓えの本来の意義を改めて説き、それを完成せしめるものであることを知るには、それで十分であろう。

それは果たして正統派の教義に比して明確さを欠き曖昧であろうか。そうかも知れぬ。反発心を起こせしめる箇所については詳細を欠いているかも知れぬ。が、全体を通じてより崇高にして清純なる雰囲気が漂っているであろう。高尚にして神聖なる宗教を説いていよう。神性のより高き神を説いていよう。実は教えそのものが曖昧でもなければ、明確さを欠くわけでもない。そう映るのは、敬虔なる心の持ち主ならば浅薄な詮索をしたがらぬであろう課題を扱っているからに他ならぬ。知り得ぬことは知り得ぬこととして措き、決して勝手な憶測はせぬ。全知全能の神についていい加減な人間的見解を当てはめることを恐れるのである。

もしも人智を超えた神にベールをかけることをもって曖昧と呼ぶならば、確かにわれらの教えは曖昧であり、明確さに欠けるであろう。しかし、もしも知り得たかぎりのこと、理解し得るかぎりのことしか述べぬこと、憶測するより実践すること、ただ信ずるより実行することが賢明なる態度であるならば、われらの態度こそ叡智の命ずるところに従い、理性を得心させ、神の啓示に与(あずか)れるものであると言えよう。

われらの訓えには理性的批判と実験に耐え得るだけの合理性がある。遠き未来においてもその価値を些かも失わず、数知れぬ魂を鼓舞し続けることであろう。一方これに異を唱える者は、その愚かさと罪の結果を悲しみと悔恨の中に償わざるを得ぬことになろう。それは、その信念を携えて進みし無数の霊を幸福と向上の道へ導き、一方、その導きを拒否せる者は、朽ち行く肉体と同じ運命をたどることであろう。愚かなる無知からわれわれの訓えを悪魔の仕業と決めつけ、それを信ずる者を悪魔の手先と非難しようとも、その訓えは存在し続け、信ずる者を祝福し続けることであろう。

(†インペレーター)

――おっしゃることは筋が通っており、立派な訓えだと思います。また曖昧であるとの私の批判に対しても納得のいく答えをいただきました。しかし、一般の人はあなたの説くところを、事実上キリスト教を根底から覆すものだと言うことでしょう。そこで私がお願いしたいのは、スピリチュアリズム的思想が究極において言わんとするところ、とくに、それが地上および霊界の未発達霊へ及ぼす影響について述べていただきたいと思います。

それについては、いずれ時機をみて説くとしよう。今は控える。先を求むる前に、これまでわれらが述べたところを篤と吟味されたい。そなたを正しく導く御力をわれらに給わらんことを!

(†インペレーター)

〔注〕

(1)

the Scribes 旧約聖書の筆写・編集・解釈を仕事としたユダヤ教の学者。

(2)

the Pharisees 儀式・慣習等の伝統を重んじたユダヤ教の一派。独善的形式主義者を意味することがある。