MENU

7節

〔新プラトン主義哲学(1)に関する通信があった。見覚えのある容貌をした霊が写真に写ったが、衣服は見慣れないものだった。私の質問に対し、心霊写真に写るためにはある程度の物質化が必要で、霊視に写る時の像とは違うということだった。

新プラトン主義の特徴的教義についての説明は実に克明で、私のまったく知らないものだった。忘我の状態で神性に背くものを全て排除し、ひたすら神との合一をはかるスーフィズム(2)という恍惚的瞑想行為について長々と説明し、その理想的人物として新プラトン主義学者の一人の名を挙げた。その時教わったもの、とくに右の学者の説教についてはその後なるほどと思わせるものがある。もっとも私自身はすでに体験していたこともあって、驚きの度合いが和らげられているが。

その後短期間ではあったが通信が途絶えた。その間に出席したある交霊会でイタズラ霊による偽名行為が再び発覚し、私も大いに考えさせられた。その後の通信でよその交霊会には絶対出席しないようにとの忠告があった。霊媒には強い磁力があり、他の霊媒の交霊会に出るとそこでの現象に悪影響を及ぼし、同時に悪影響を持ち帰ることになるから、霊媒同士の接触は絶対避けることが大切であるとのことだった。

宮廷詩人だったリドゲート(3)のものを中心とする素晴らしい詩が、それによほど興味をもっているように見うけられる霊によって書かれた。その霊はただ詩を綴ること以外は何もしなかったが、その筆跡は見事で特徴があった。

その後一八七三年六月十三日に開かれた交霊会で神学に関する質問を数多く用意しておいたところ、それに対して入神講演の形で長々と回答が述べられた。当然その全部は筆記できず、部分的で不完全な筆録しか残されていない。が、その翌日、その入神講演をした霊が、こちらからの要請もないのに、次のような自動書記通信を送って来た。〕

昨夜述べた事の中には、先を急ぐあまり十分に意を尽くし得なかった事が多く、筆録も正確とは言えぬ。あのような重要な問題は十分に念を入れ、是非とも正しく理解して貰わねばならぬ。そこで、十分に意を尽くし得なかった事をここでより分かり易く述べたく思う。交霊会でそなたの口を借りて語るのは必ずしもこうした方法(自動書記)で伝えるほど正確を期することが出来ぬものである。完全に隔離された状態の方が緻密さと正確さの得られる状態に入るのが容易である。

昨夜はわれらが神より託された使命について述べたつもりである。その使命の前途を遮(さえぎ)る多くの困難の中でも最大のものは、その使命達成においてわれらが何よりも頼りとしている気心の知り合った同志が余りに神学的先入主に捉われ、あるいはそれまで説き聞かされて来た信仰と相容れぬことに強い恐怖を覚えるために、われらにとりて為すすべがなく、挙句の果ては、悲しい哉、われらの説く神の教えが邪霊の言葉とされ、その背後にて操る強力なる悪魔のさしがねと決めつけられることである。われらにとりては、こうした人材ほど嘆かわしきものはない。

自分の定めた勝手な条件のもとに、自分のお気に入りの手段でしか物事を判断しようとせぬ似非(えせ)科学者たち――われらを単に人間をたぶらかす者、嘘つき、狂える者のたわごとと決めつける材料として以外には取り扱おうとせぬ科学者たち――彼らはわれらにとりてまず用はない。その曇れる目には真理は見えず、長年の偏見によりて被われ束縛された知性は、われらには何の役にも立たぬ。どう気張ったところで霊界との交信の真相を垣間見ることすら出来ぬ。彼らが獲得する知識はたとえそれ自身は有用であり、価値あるものであろうと、われらの特殊なる使命には先ずもって役に立たぬ。われらが目指すものは、われらの使命の一局面でしかない現象面にのみ目を向けたがる科学者がとやかく言うものとは、いささか方角が異なるのである。長きに亙り物理学的観察に馴らされた知能は、その分野の事実の解明に向けるのが最も適切であろう。われらの分野はそれとはまた異なるのである。霊と霊との関係であり、霊のたどる宿命に関する知識を扱うのである。

更に、われらが述べんとする真理に皆目知識を持ち合わせず、その理解にはこののち長年に亙る人生試練を必要とする無知にして未熟なる者たち――この種の者は、いつの日にかわれらの真理を理解し得る段階にまで向上してくるであろうが、今の段階にては用はない。

況(いわん)や高慢にして傲慢なる知識人、自分の世界にしか通用せぬ道学者、慣例と体面を守ることに汲々たる宗教家――彼らについては言葉もない。彼らを納得させるには更に多くの物的証拠を必要とする。われらが述べる言葉はたわごとにしか聞こえぬであろう。

われらが真に頼りとするのは、神とその天使の存在を知り、愛と慈悲を知り、いずれ死後に赴く境涯について知らんと欲する人物である。然るに悲しい哉、神により植えつけられ、霊に育まれし天賦の宗教的本能が人間の勝手な宗教的教義――幾世紀にも亙って知らず識らずのうちに築き上げられた、無知と愚行の産物によりてがんじがらめにされている。どこを突ついても、返ってくるのは真理から外れたことばかりである。われらが父なる神の啓示を説けば、神の啓示はすでに全てを手にしていると言う。われらがその啓示の矛盾点を指摘し、そこに終局性も不謬性もないことを告げれば、教会が拵えた取り留めもない決まり文句を繰り返すか、それとも“絶対に誤ることなき人”として選びし人物の説を引用するのみである。つまり彼らは、一時期、一地方の特殊なる必要性に応じて授けられた、限られた啓示をもって普遍的真理と思い込み、それを物差しとしてわれらを裁かんとするのである。

また古代において霊覚者を通じて行なえる如く、われらが信頼するに足る神の使者であることを表明し、その証拠として奇跡的現象を演出してみせても、彼らは、奇跡の時代は終わった、神の啓示の証として奇跡を行なうことを許されたのは聖霊のみであると主張する。そして悪魔――これは彼らの勝手な想像の産物にすぎぬのであるが――は神を装うことが出来るとし、われら及びわれらの使命を神と善に対抗する外敵であり、暗黒界の使者であると決めつけるのである。またこうも言う――出来ることなら力になってあげたい。なぜなら言っていること自体はなるほどと思わせることばかりだからである。が、それが悪魔が使う誘惑の手だから困るのだ、と。確かに彼らがそう思うのも無理はない。なぜなら、やがて善を装える邪霊集団がやって来ることを聖書が予言しているからである。われらこそその邪霊なのであろう。彼らにとりてはそうであるに相違ない。なんとなれば神聖にして犯し難き古(いにしえ)の神学が神の子イエスを否定せんとする勢力の到来を予言しているではないか。現にわれらの説はキリスト神の定めしイエスの位置とその使命を根底より否定している。またわれらは理性を信仰の上に置いている。われらの説く福音は(信仰よりも)善行を説く福音であり(忠実なる信仰でなく)善の実行者こそ佳(よ)しとする教えである。彼らにとりては、こうした教えを説く霊はすべて光の天使を装う大悪魔の手先であり、魂を破滅に陥(おとしい)れんとの企(たくら)みにほかならないのである。

が、われらにとりては、協力を期待する真摯なる信心家からこうした態度に出られることこそ痛恨の極みである。彼らの多くは愛すべき真面目な人間である。ただその明るき魂の炎が地上の暗闇を照らすに至るには、是非とも進歩性を必要とする。われらは是非とも彼らにメッセージを送りたい。が、すでに築き上げられた神および人間の義務についての確固たる信仰基盤を当てにするには、その前に進歩を阻む夾雑物を取り除かねばならぬ。

宗教がその名に値するためには二つの側面を持たねばならぬ。一つは神への信仰であり、もう一つは人間についての教えである。その道の専門家により“正統”と呼ばれている伝来の信仰は一体その二点についてどう説いているであろうか。その教えとわれらの教えとはどこがどう違うのであろうか。その“違う”部分はどこまで理性を納得させるであろうか。何故かく問うのかと言えば、われらは何よりも先ず神が植えつけ給うた理性こそ唯一の判断基準であると主張するものだからである。われらはあくまで理性に訴える。何故なら、古(いにしえ)の聖賢がこれこそ神の唯一にして最後の啓示であると断定して聖典を編纂した時も、彼らなりの理性に訴えたのである。その断定に際して彼らなりに理性に訴えたのである。故にわれらもまた理性に訴える。そなたはわれら霊団の同志が啓示の永遠不変の支柱とすべきものを神自ら規定されたと主張しているとでも思われるか。われらもまた神の使者にほかならぬ。かのヘブライの預言者たちを導いた霊たち、そして啓示を神の言葉と断定せる人間を指導した霊たちと同様に、われらもまた神によりて導かれた霊なのである。

われらも彼らと同じ神の使者である。携え来るメッセージも同じである。ただ、より一層進んでいるというまでである。われらの説く神も彼らの説ける神と同一である。ただ、その神性をより明確に説いているまでである。つまり人間臭が減り、より神々しき存在となっている。

こうしたわれらの訴えをその言葉どおりに神聖なるものと受け取るか否かは、そなたらの理性(とは言え背後霊の指導を受けることは間違いないが、理性であることには変わりない)が最後の判断を下すことである。この上われらの訴えを否定する者は自らの理性の愚昧さを証言する者に他ならぬ。盲信を理性的信仰と同等に見なすことは出来ぬ。なんとなれば信仰にも根拠ある信仰と根拠なき信仰とがある。根拠ある信仰は論理的裏付けが可能であり、その場合にも理性が最終的判断を下す。後者は論理的裏付けなき信仰であり、これでは人を動かすことは出来ぬ。況(ま)して全く根拠なき盲信に至っては、われらもその頼りなさと信用のなさについてこれ以上論ずる必要さえ認めぬ。

故にわれらは理性に訴えるのである。理性的に判断してわれらがどこまで悪魔性を証しているというのか。われらの説く教義がどこまで邪霊的であるのか。何をもってわれらを悪魔的と言うのか。こうした点については、これよりのちに説くことにしよう。

〔注〕

(1)

Neoplatonism 三世紀に始まったギリシャ哲学の一派で、プラトンの思想を中心にしてこれに東洋の神秘思想を加味したもの。その代表的思想家が本書の五節にプルーデンスの名で出ているプロティノス Plotinus である。

(2)

Souffism

(3)

Lydgate