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5節

〔その翌日、私は現在地上にはびこっていると言われる邪霊の影響について長々と議論した。私はその働きの個人への影響について尋ねると、邪霊によって完全に憑依されてしまった例を幾つか挙げた。またそうした力が広がりつつあるので、誠実で叡智に富む霊が働きやすい条件を配慮し、憑依しようとする低級霊を追い払い、あるいは近づきやすい環境を少なくしていく必要があると述べた。さらに霊力そのものは距離や地域に関係なく働くもので、したがって善良な霊力を受けるか邪悪な霊力を受けるかは人間自身の心がけ一つに掛かっていると述べた。そこで私は、ではどういう心がけが最も望ましいかと尋ねた。〕

霊的現象に多くの種類があることはそなたの知る通りであるが、霊力の行使にもさまざまな方法がある。ある者は身体的特質の故に直接身体そのものが霊力の支配を受ける。身体的機能が目に見える最も単純な形での霊力の証に適しているのである。この種の霊媒は知的な支配は受けぬ。よって彼らを通じて届けられる情報は取るに足らぬもの、あるいは愚にもつかぬものさえあり、信頼性に欠ける。彼らはあくまで客観的現象を演出することの出来る霊力を証明する手段として使用されるのである。

要するに彼らは初歩的現象の演出のための道具であると認識してよいが、だからと言ってその現象が他の種類の霊能力を通じて現れる霊能と比較して重要性が劣るわけではない。霊力の存在を信じさせるための基盤を築く上で不可欠なのである。

一方、情愛に満ちた優しき性格ゆえに選ばれる者もいる。彼らは物的現象の道具ではない。往々にして霊界との意識的通信の通路でもないことすらある。それでいて常に霊的指導を受けており、その純粋にして優しき魂は天使の監督のもとにますます洗練され向上していく。そうするうちに徐々に天使から霊示を意識的に受ける能力が開発されていき、あるいは霊視能力により死後に落ち着くべき住処(すみか)を垣間(かいま)見ることを許されることもある。霊界に住むかつての友が親和力によって彼らに近づき、昼となく夜となく、教化と指導に当たることもある。彼らのまわりには平静と至純なる愛の雰囲気が漂う。実に彼らは地上生活の輝ける模範であり、やがて寿命とともにその地上生活によりて培われた休息と平和の境涯へと旅立つ。

これとは別に、知的能力に優れたるが故に、幅広き知識と奥深き真理の通路として訓練される者もいる。高級なる霊が彼らの思考力に働きかけ、思想を示唆し、知識の獲得と普及の手段とを用意する。その働きかけの方法は実に複雑多岐を極める。所期の目的達成のために仕組む出来事への配慮にはそなたの想像も及ばぬ手段を行使するのである。

われらにとりての最大の難事は進化せる高級霊からの通信を受け取るに相応しき霊媒を見出すことである。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければならぬ。受容性の限度以上のものは、所詮、伝え得ぬのが道理だからである。次に、愚かなる地上的偏見に捉(とら)われぬ者でなければならぬ。若き時代の誤れる思想を潔(いさぎよ)く捨て去り、たとえ世間に受け入れられぬものでも、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主であらねばならぬ。

まだある。独断主義(ドグマ)より解放されねばならぬ。この世的思想から抜け出せぬようではならぬ。神学的独断主義と派閥主義と偏狭なる教義より解放されねばならぬ。己の無知に気づかぬ一知半解の弊に陥ってはならぬ。常に捉われなき、探求心に燃えた魂であらねばならぬ。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富める者であらねばならぬ。常により多き真理の光、より豊かなる知識を求める者であらねばならぬ。つまり真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならぬのである。

また、われらの仕事は頑固なる敵対心からの自己主張、または高慢なるでしゃばりと利己心によりて阻害されることがあってはならぬ。さような霊媒ではわれらは仕事らしき仕事を為し得ぬし、為し得たわずかな仕事というのも、利己主義と独断主義を取り除くことに向けねばならぬ仕末となる。われらが求むるのは有能にして真摯(しんし)なる、そして飽くなき真理探究心に燃えた無欲の心の持ち主である。そのような人材が発見困難であると述べたわけがこれで理解できよう。まさに至難のわざであり、まず不可能に近い。さればわれらは見出し得るかぎりの最高の人材を着実に鍛練した上で採用する。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、己の知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養う。こうすることによって独断的偏見より超脱させ、真理が多面性を有するものであり一個人の専有物ではないとの悟りへの地ならしを行なう。そうして魂の成長に合わせて知識を着々と賦与し、基盤さえ出来あがれば、安心して上部構造を築き上げて行くことが出来る。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、われらの所期の目標に調和させて行く。

ここに至って多くの者が脱落していく。そしてわれらも、彼らは地上にては真理を受け入れることが不可能なること、また古来の地上的偏見が固く、ドグマ的信仰が容易に拭えざるものであること、それ故、時の流れに任せるほかなく、われらにとって用なきものであることを悟って諦めるのである。

また真理への完全なる忠実性と、恐怖心も不安も宿さぬ信念は、われらの教化によって着実に培われていくものである。われらは神とその使者たる指導霊への全幅の信頼へ向けて霊媒を導いていく。そしてわれらが神より許されたる範囲の行為と霊的訓えを忍耐強く待つ心構えを培う。こうした心構えは多くの霊媒に見られる、苛立(いらだ)てる落ち着きなき不満と正反対である。

この段階にてまた多くの者が脱落していく。恐怖心と不安に駆られ、疑念に襲われる。古き神学の説く神は自分の如き人間の破滅を今か今かと見守っているかに思い、悪魔が自分の如き人間を罠にかけんと油断なく見張っていると思い込む。確かに古き信仰の基盤は揺さぶられてはいても、まだ新しき信仰基盤は敷かれておらぬ。その間隙に邪霊がつけ入り、揺れ動く心を誘惑する。ついに恐怖に堪(たま)りかねた者が脱落し、われらにとりて用なきものとなっていく。

それでも尚われらは人間のあらゆる利己心を払拭しなければならぬ。われらの仕事には私心の出しゃばりは許されぬ。さもなくば、われらには何も為し得ぬ。霊界からの指導において、人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れほど致命的なるものはない。小知を働かせてはならぬ。われらからの知的働きかけの妨げとなるからである。独断主義に偏れる知性は使用しようにも使いものにはならぬ。ましてそれが高慢と自惚れに満ちておれば、近づくことすら出来ぬ。

いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の最大の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にせる予言者たちはみな我欲を滅却して使命に生きた人たちであった。そなたらの聖書にその名を留めるユダヤの指導者たちは、無私の純心さをもって誠実な人生を送った。とくにイエスはその地上生活を通して使命のための最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した偉大にして崇高なる模範であった。イエスの中に、人類の全歴史を通して最大限の、人間の可能性の証を見ることが出来る。

この世より誤りを駆逐し真理の光をもたらせる人々はみな己に課せられた使命のために無私と献身の生涯を送れる者であった。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者はみな無私無欲の人物――我を張らず、尊大ぶらず、自惚れることを知らぬ人々であった。一途(ず)なる誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人々である。それなくしては彼らの仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲に捉われていたならば、その成功の核心が蝕(むしば)まれていたことであろう。謙虚さと誠実さと一途さがあればこそ成就し得たのである。

われらが求むる人材とはそのような資質の持ち主である。情愛にあふれ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。一途に神の仕事に目を据(す)え、一切の地上的打算を忘れた性格。かくの如き麗しき魂の持ち主が稀であることは確かである。が、友よ、平静にして、しかも頼れる誠実かつ一途なる哲学者の心を心とせよ。情愛にあふれ寛容性に富み、いついかなる時も進んで救いの手を差し伸べる博愛主義者の心を心とせよ。さらに報酬を求めぬ神の僕(しもべ)としての無欲の心を心とせよ。神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主を措(お)いて他に成就し得る者はおらぬ。われらもそうした人材を油断なく見守り警戒を怠らぬであろう。神より遣わされたる天使も笑みを浮かべて見つめ、外敵より保護してくれるであろう。

――でも、これでは完全な人格を求めることになります。

何と! これをもって完全とな? そなたは“完全なる霊”が如何なるものか、皆目知らぬ。知り得ぬのである。想像することすら叶わぬ。忠実なる魂が霊の訓えによって培われ、刻一刻と守護霊に似ていくその過程もそなたは知り得ぬ。われらが植えつけ手がけて来た種子が次第に成長して行く様子はそなたらには見えぬ。そなたらに知り得るのは、魂が徐々に美徳を身につけ、より高潔に、より愛すべき人間となりゆくことだけである。右に述べた人格の資質はそなたらの用語にして表現し得るかぎりのものを述べたるに過ぎず、まだまだ完全より程遠く、これより成就し得る完全さを思えば、漠然とそれらしき程度のものに過ぎぬ。そなたらに完全は有り得ぬ。死後になお不断の進歩と発達と成長が待ち受けている。そなたらの画く完全性も、われらの霊眼をもって見れば、欠点によって汚され曇らされているのである。

――確かにそうかも知れません。でもそれほどの人物は極めて少ないでしょう。

少ない。少ない。それもようやく芽を出した程度のものに過ぎぬ。われらはそれを地上への働きかけの大切な足がかりとして感謝して育てる。われは完全を求めているのではない。誠実さと一途な向上心、捉われなき受容性に富む精神、清純にして善良なる心の持ち主である。忍耐強く待つことである。性急は恐ろしき障害となる。所詮そなたの手の届かぬことに対する過度の用心と不安を捨てよ。われらに任せるがよい。今は外部との接触を避け、忍耐強くわれらの述べたることを吟味するがよい。

――都会の喧噪から隔絶した生活のほうがあなたたちの影響を受け易いのでしょう。

〔ここで急に筆跡が変わり、ドクターの例の細かいキチンとした文字から、非常に変わった古書体になり、プルーデンス(1)と署名された。〕

騒々しき世界は常に霊的なるものを拒絶する。人間は物的なるもの、すなわち目に見え手に触れ貯(たくわ)え得るものに心を奪われ、死後に霊的生活が待ち受けていることを知らぬ。あまりに地上的になりすぎ、われらの働きかけに無感覚である。あまりに地臭が強すぎ、近づくことすら出来ぬ。暮らしがあまりに地上的打算に満ちているが故に、死後にも価値の残るものに心を配る余裕をもたぬ。

それのみに留まらぬ。心が常時そうしたものに捉われ、心静かに瞑想する余裕をもたぬために霊的栄養が不足し、魂が衰弱している。霊的雰囲気に力が見られぬ。おまけに身体も仕事の重圧と気苦労のために衰弱している。これではわれらもほとんど近づくことすら出来ぬのである。

さらに、啀(いが)み合いの情念と不平不満、妬(ねた)み合いと口論のために、その場が不快な重苦しき雰囲気に包まれている。悉(ことごと)くわれらにとって障害となるものばかりである。無数の悪徳の巣、忌(い)まわしき誘惑、そしてその不徳と罪悪に魂を奪われし人間のあふれる大都会には邪霊の大軍がうろつきまわり、破滅の道へ引きずり込まんとして虎視眈々(こしたんたん)とその機を窺っている。多くの者がその餌食となって悲劇への道をたどり、それだけわれらの悲しみを増し、手を煩わすことにもなるのである。

瞑想の生活こそわれらとの交信にとりて最も相応しきものである。もとより行為の生活が無用というのではない。両者の適度な取り合わせこそ望ましい。煩わしき気苦労もなく、過労による体力の消耗もなき時こそ最も瞑想に入り易い。しかし魂の奥底に、それを求める欲求がなければならぬ。その欲求さえあれば、日常の煩事も世間の誘惑も、霊界の存在の認識と霊との交わりを妨げることは有り得ぬ。が、やはり環境が清浄にして平穏な時の方がわれらの存在を知らしめることが容易である。

〔注〕

(1)

Prudens 巻末「解説」参照。