僕らは建築家さ〜ん! 
 模型の一分野として ”建築模型” なるものがある。
現在ではほとんど衰退してしまった感があるが、一時期かなりの数が発売されていた。
フジミの名城シリーズあたりがその代表格かもしれない。
 古くは相原・ミドリなどからも各地の城・塔・ヨーロッパの城なども発売されていた。

 ただ、これら有名建築物をモデル化したものは ”もはや、戦後ではない” と誰もが実感でき
多少なりともこころの余裕が保てるようになってからのことだったように思える。

 今回紹介する 三共のコンパクトハウス・ユネスコシリーズ は同じ建築模型とは一線を画している。
 
 いうなれば 「より良い生活の為の建築模型」 とでも言えばいいのだろうか

60年代初期というと、田舎では今のように舗装されている道路は国道か主要道路くらいで
ほとんどが未舗装という状態で、街中はかなりほこりぽかった。
そういえば、よく枝のついたヒシャクの大きい物で道路に水をまく姿があちらこちらで見られたものだ。

 家といえばたいてい一戸建て、といっても御勝手の他に二部屋くらいで、そこに大勢の家族で住み
まだまだ長屋も多かった。
 ちょっとした家には土間があり(土間というくらいだから土だった) トイレはそれだけ外の別棟、風呂は
銭湯 これが定番だった。
 テレビも何軒かに一軒くらいしかなく、私も隣の家のテレビにはかなりお世話になった。
そのテレビの中に時おり現れるアメリカの家(マイホーム)に子供達は例外なくあこがれていた。 
 薄暗い我が家を見回し、現実というものを痛感させられたものであった。

 でも、そのころの子供達はそんなことではめげなかった。

大きくなったら、あんな家に住むんだ!” 誰もがそう思っていた。

 この思いこそが後にエコノミックアニマルなどと陰口をたたかれながらも、高度成長をはたし世界第二位の
経済大国へと押し上げる原動力になったと断言しても、そう的外れではあるまい。

 そんな子供達の憧れのマイホームの夢をその場で実現してくれたのが、「コンパクトハウス」であり
世界各国の一般の家を模型化した 「ユネスコ・シリーズ」であったのだ。


 箱絵がよく時代を表している。
 

 たらちゃん状態の男の子の満面の笑み、完成模型を

胸に満足そうなお姉ちゃん。


 そして、その後ろに聳え立つ「夢のマイホーム」

今の感じからすると、プレハブ小屋の分譲住宅かって

所だろうが、当時なら間違いなくこの邸宅は

明るくモダンな 「憧れの夢のマイホーム」に相応しい

それも最上級の物件であると推薦できます。


 何よりも、この少年の生き生きとした笑みが

この事実を物語っています。
 当時、塗装はまだまだ一般的な仕上げ方法では
なかった。

 細かく分けると、8色のカラーが臨場感をあおる。

ユネスコ・シリーズ
世界の家
 ユネスコ・シリーズは60年頃東京の北西、西武鉄道狭山湖駅前にひろがる西部ユネスコ村にあった
国連加盟各国の民族や国の、特長有る建物をモデル化したというものです。 
 ユネスコ村には既に44棟の家が建てられていました。

 そのシリーズは40点以上におよび、三共製作所としては ピーナツシリーズ に匹敵する物でした。
もし今でも「建築模型」という分野が盛んであれば、三共模型といえばユネスコシリーズと認識されていた
かもしれない。
こちらの物は初期のタイプ

の物です。

 ピーナツボンドが付属

しているが、これではチョット

 足りないでしょう。
 初期のタイプは左のように蓋を開けるタイプでした。

上は同じサウジアラビヤの家ですが、右が初期の中でも

古い箱で、左は後に「日本ユネスコ協会連盟推薦」の文字が

追加されている。
 ユネスコシリーズの箱の裏です。

上の最初期の物は何も印刷はされていませんが、新しい物が発売されるつど追加されていった。
後期タイプ
 後期タイプは定番どうり上箱タイプに変更され、より豪華さが強調されている。

箱のデザイン構成はそれなりだが、この完成模型の写真特に背景はいかがなものか。

ツインタイプ もあります
  1961年の三共製作所広告
 1961年 12月号の 懸賞 昭和36年12月10日 締め切り