東京都台東区浅草千束
<1964年(昭和39年)翔け抜けました>
三共模型
会員となると
三共の全製品を一点一円として(30円の
ピーナツシリーズなら30点) 150点分空箱
がたまると、30円の切手を同封して送る。
↓
二等兵の勲章とその月のモデル新聞と
カタログが送られてきた。
この方法で1階級づつ進級していった。
何と大将までは17階級もあり、陸軍・空軍・
海軍とあった。
↓
毎月出るモデル新聞の名簿で、今自分が
どの階級にいるのが確認できた。
プラスチックモデルというまったく未知の世界の扉をこじ開けたのがマルサン商店なら、それを大きく
押し開いたのは三共模型製作所と三和模型であった。
マルサンはブルドッグトイなどのブリキ製品や数多くの玩具を世に送り出していたし、三和もソリッドモデル
の時代からこの業界に参入していた。
そんな模型業界に突如彗星のごとく出現し、たちまち子供の心を虜にしたメーカーがあった。
三共模型製作所である。
その先鋒を務めたのが 1/150の統一スケールでまとめ上げられた飛行機模型のピーナツシリーズで
あった。
このころ海外ではFROGをはじめ、1/72というのがすでにグローバルスタンダード化しており、今日の
ような情報化社会であれば三共のピーナツシリーズは1/144となっていたのかもしれない。
まだまだ海外からの情報はとぼしく、また尺貫法からメートル法への移行もその大きな一因になっていた
のであろう。
シリーズ統一スケールという概念で製作されたプラスチックモデルは、このピーナツシリーズが最初であると
思われる。
当時は箱スケール つまり最初に箱の大きさがあって、それにうまく入る大きさで金型を製作し、後から
スケールを算出する。そんなやり方が多く、無論単品物であればそれで十分であったし、初期の物には
そのスケールさえ明示されていないモデルも多数あった。
マルサンマッチ箱シリーズなどもこの手法で製作されていたし、1/429などと中途半端なスケールの物すら
あった。
ただその時代、個人が何十ものモデルを一堂にに並べ悦にいるようなことは一部の人間を除いては余り
なかったろうし実機の大きさになるとまったく知るよしもなく、メーカーが1/50というなら五十分の一、
1/150なら百五十分の一 かあ〜、と思っていた。
そういう意味では三共がピーナツシリーズで1/150 統一スケールという展開を押し進めたのは本当に
凄いことであった。
もちろん誰でも零戦よりBー25の方が大きいであろう事は想像できたが、Me-109と零戦・ホーカーハリケーン
とPー51の大きさの比較など考えすらしなかった。
現在そのスケールがはたして本当に正確なものかどうかという問題はあるが、みんな同じような大きさだろうと
何となく思っていた子供達にとって 「へ〜、こっちの方が大きいんだ」
そんなスケールという概念を漠然とではあるが認識させたのは、この 1/150 統一スケール
三共 ピーナツシリーズであった。
〜駄菓子屋の片隅から〜
<NO.29 Pー47 サンダーボルト>
素組み状態 当時はこれに転写マークを貼れば
完成であった。
<飛燕とサンダーボルト の素組み完成品>
箱の大きさは同じなのだが、完成した時の大きさで
凄く得したような気分となった。
<零戦 と 2式水戦 の半塗装状態>
もともとこの2機の成型色は濃いグリーンで
上の2機に比べるとこの状態でも十分
子供達の世界では通用するものであった。
風防はムクのクリアーで、この透明感が
なんともいえない感動であった。
<97艦攻の 塗装前と塗装後>
こうして並べてしまうと・・・・・・、
差は歴然ではあるが、ただ組み立てるだけでも
十分楽しかったし、カルチャーショックだった。
素組みの状態でも恐ろしくリアリティーで
子供達は皆その美しさに魅せられていた。
こうして完成した、ピーナツ飛行隊は
「戦争ごっこ」という空戦に出撃していったのだった。
<スタンダード・サイズ 100×40×16>
<一回り大きいサイズの物>
97式を参考に
Bー25
ミッチェルのみ
キャラメル箱では
なく
一般的な箱と
なっている
ピーナツ・シリーズ
最大の大きさを
誇る
ピーナツシリーズの箱絵にも
いくつかのバリエーションが有る。
最初期の物には
ピーナツシリーズの表示がない。
これは当初発売時点では最終的に
50以上の展開になる事を三共自体が
予想していなかったからだと思われる。
全国統一価格も徹底されていない時代で
¥30⇒¥35となっている。
地方価格の上乗せか、もしかしたら
最初は¥35だったのかもしれない。
こちらはシリーズNO.1 零戦の箱違い
初
期
後
期
こちらは、ご存知コピー品 いわゆるパチ物です
1ダース入りの箱 アンクルトム爺さんが懐かしい
箱の裏にはNOと定価が記載されている