鞄本プラスチック
マルサン・ノーチラス
ニチモ・伊号潜水艦
日本プラスチック・ノーチラス

”日本最初のプラモデルは何か?”

この議論は長年多くの人々によって語られてきたが、未だにその結論をみていない。

公式には1958年に発売された マルサン商店の ノーチラス号 というのが一応の定説になっている。
しかし、マルサンのページでも触れたが、同時に発売されたダットサン1000セダンは「和工」というメーカーの
持込み品で、こちらの方が先に商品化されていないと同時発売は出来ない。

それにしてもマルサンは4点の内ノーチラス号をことさらメディアにのせたのだろう。ダットサンは対象外にしても
哨戒水雷艇でもBー47でもさほ支障はなかったと思われるのだが。
ノーチラス号の製作にマルサンが大変苦戦したことは有名な話であるが、そんな苦境の中なぜ3点を同時に
発売させる必要があったのだろうか。
一つの理由として暮れのクリスマス商戦に向けての意味合いはあったと思われるが、日本最初を目指すのなら
1点が完成した時点で勇み足気味にとにかく発売するというのが自然である。
ニチモなど他社の開発状況などもその耳に届いていたことであろうに。

”日本最初”とか”日本初”といったうたい文句に日本人はよわい。その冠名だけで尊敬の念を抱く傾向にあり、
各社ともこの永遠の称号の獲得に血眼になったことは容易に想像できる。
ただ、当時プラスチック製の組み立てキットを受け入れる素地が日本にはまったくなかったと言い切ってしまえる
ほどの状況の中、声高々にそう宣言することははばかられたという可能性はあると思う。
このことはその後のマルサンの膨大な宣伝広告費 「陸と海と空」のテレビ宣伝をはじめ、今までのソリッドモデル
などの模型広告とは比べなれないほどの量と質で展開せざるを得なかったことからも分かる。
今では本当に信じられないことであるが、50年代後半から60年代前半にかけての各専門誌におけるプラスチック
モデルの扱いは不当と思えるはど冷遇で、ほとんど一過性の模型でもあるがごとき扱いでである。フォームプラの
ように本当にそうなってしまった物もあったが、そんな中確実に広告を打ち続けたのがマルサン商店であった。
”日本最初のプラモデル”
右のチラシがおそらく日本で最初の国産プラスチック
モデルの広告だと思われる。
”国産成功”と誇らしげに謳われた、マルサンのプラスチック製
模型に賭ける意気込みが伝わってくるし、センスのよさも
うかがえる広告ではある・・・・・、しかし、どこにも
”日本初のプラスチックモデル”とは一言も書かれてはいない。
これは不自然である。もしマルサンが自社開発のノーチラス号が
日本で最初に開発されたプラスチックモデルであるという認識が
あるのなら ”日本最初にプラスチック製の模型開発に成功しま
した” と大きく書かれるのが普通で、しかもその道筋が苦難の
連続であったならなおさらである。国産成功がそれを意味している
と言われればそうかもしれないが。

この時点でノーチラス号が自社としては最初のプラスチックモデル
ではあったが、日本最初のプラスチックモデルではない、という
認識がすでにマルサン社内にはあったという事ではないだろうか。

だとしたら、いったいそのメーカーとは・・・・・・・・。

それにしても面白いのは、オリジナルキットにはまったく表示がない
にもかかわらず、再販品にはしっかりと

    ”日本最初のプラモデル” と謳われている。

やはり、日本人は初物に弱い。

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鞄本プラスチック
ノーチラス号
日本の模型史を語るうえで、その重要性が認識され
ながらもその実体がほとんど何も分からないという
メーカーに日本プラスチックがある。

1958年にマルサンからノーチラス号が発売されるのだが
それよりも2年も早い、1956年に零戦とP-51を発売した
(らしい)というメーカーで、今だにその姿は黎明期の深い
闇の中にある。
分からないものは分からないままでも別段かまわないような
気もするが ”そこに山があるから登る” ではないが、そこに
謎があるから知りたくもなる。
今回は断片的な資料に基づく憶測が中心となるが、この謎の
メーカーについて多少の考察を加えてみたい。

ただ、以下はまったくの個人的な見解であり、定説になるべきものではないことをあらかじめお断りしておきたい。
一般的に 日本プラスチックと呼ばれているが、 正式には (株)日本プラスチックである。
設立やその後の展開については不明である。
ただこの社名からして疑問点がないわけではない。
左のロゴを見ていただくと分かるが、ここからの社名は (株)日本プラスチックスとなってしまう。
鞄本プラスチックなのだろうか、(株)日本プラスチックスなのだろうか?
スケール的にいうとマルサン・ノーチラス号より一回り小さい 1/360くらいの大きさで、それを包み込むパッケージは実に
美しい。 オーロラを背に受け北極海潜断を果たし浮上するノーチラス号が描かれている。

”えっ・・・・・、これって?” そう思われた方もいるであろう。

実質的に日本最初のオリジナル・プラスチックモデル 日模の伊号潜水艦のパッケージに余りにも酷似している。
というより、同じデザインといってもさしつかいないであろう。

以前から伊号の箱絵が妙にな臨場感と迫力に満ちているなと感心していたが、この海が北極海であるとすれば納得である。

絵の配置パッケージの構成など基本的には同じ物であることがおわかりいただけるであろう。どちらかを180°反転させれば
まさにシリーズ物である。

ただ、これが偶然同じデザインになってしまったとはまず考えられないず、どちらかが模倣したことは明白である。
マルサンのノーチラス号もレベルのコピーだったし、当時においてはこの事をことさらとがめる意味はない。

では、どちらがコピーしたのかという話になると・・・・・・、わからない。手持ちの資料だけではまだ判断できないのである。

日本プラスチックのノーチラス号のどこを見ても製作・発売に関するDATAはない。
どこかに日付でも入っていれば、推測はかなり進展するのであるが。

日模 伊号潜水艦 VS 日本プラスチック ノーチラス号
1) パッケージの比較
伊号の方はオリジナルの状態。


日本プラスチックの

ノーチラス号は左右180度

反転させてあります

不自然なほど

似ていることががおわかり

いただけると思います
パッケージサイドも酷似している。 上面から伸びるイエロー・そして赤地。

箱絵が横面までかかっているのも同じで有る。

箱の大きさはほぼ同じであるがノーチラス号の方が幾分深さがある。

それにしても、どちらがコピーしたのだろう・・・・興味は尽きない。
後に発売されたタミヤのワシントン。比較してみると下2点は

明らかにソリッドモデルの影響下にあることがわかる。
下はソリッドモデル(木製)のシーマック号

どちらもソリッドモデルの延長線上にあることは間違いないが
どちらかというと日模の伊号の方が箱・内容とも

ソリッドに近い印象を受ける
この角度からみるとそれぞれの箱の特徴がわかる
袋入りのソリッド潜水艦モデル
上箱を開いた状態
上から


日本プラスチック

ノーチラス号



日  模

伊号潜水艦




C M K

Cー60 シーマック号
2) 成型& 駆動システム

ノーチラス号・・・2色成形の上下割りの船体
艦底には金属製のオモリが固定されている
 
上部に通常設けられている空気室の変わりに発泡スチロールを
挟み込まれ、浮きとしている
上がノーチラス号 下が 伊号潜水艦
伊号は自動浮沈の為の後部潜行舵がいささか外観を
損なっている
伊号は隔壁により第一から第三タンクに区切り、注水の量に
よって浮上・潜航を調整する。 後ろは付属スクリュー。
どちらもゴム動力であるが、そのシステムは全く同じである。
艦首下部にある前ゴムかけがあり、後部スクリューに接続させる
もので、どちらも船体内に収納するのではなく外部に露出する。

スクリューの固定方法は船体最後部にスリットを入れ、2つ折に
したプレートのスプリングバックを利用して固定するというもので
ある。ビーズを介し回転する。
伊号はゴム巻クランクがついている。
伊号潜水艦
ノーチラス号の

インストと付属の接着剤

全プラスチック製の表示が

誇らしげである

接着剤はアンプル式ではなく

プラスチック製のビンに

コルク栓をしたもの
こちらはパーツを封入していたビニール袋

初期のプラスチックモデルでビニール袋入りの物は

あったが、このようにモデル名などを印刷してある物は

あまりなかった。かなり手馴れた印象を受ける。
ノーチラス号
伊号潜水艦
ノーチラス号

鞄本プラスチック
 同社に関する情報は断片的かつ少ない。
1956年の「日本模型新聞」に零戦とP-51を発売します、という日本プラスチックの予告が掲載されたとの事で
この情報が全ての発端となっている。
はたして予告どうりにこの2機種は発売にいたったのだろうか。 現在のようにランナーに部品はついていたのだろうか?
スケールはどの位だったのだろう(1/50?) 袋入り立ったのだろうか、箱入りだったのだろうか。成型状態で発売したの
だろうか、それとも完成品として売り出されたのだろうか?その箱絵はどんな図柄だったのだろう・・・・・・。
興味は尽きない。
しかし、残念なことに現在現物が確認されたとか、以前に見たことがあるとの情報はないようである。
ただ、(株)日本プラスチックが単なる伝説のメーカーではなく実存したメーカーであったことは、このノーチラス号の存在が
証明している。
今後の新事実の発掘が待たれるところである。

 それでは、日本プラスチック製 ノーチラス号はいつ頃の製品なのであろうか。 そして、日模との関係は・・・・・。

一つの考え方として、日本プラスチックは日模の前身ではないか  というものである。
それならパッケージのデザインの類似性も説明がつくのだが・・・・・。残念ながらこれは違うと思うわれる。
日模は1951年に日本模型航空機工業としてすでに設立されており、別会社を起こしてプラスチックモデルのみを発売
したとは考えにくく、その活動拠点も異なっているようだ。
 では、どちらの製品先に発売されたのだろうか? 
ここからはまったくの個人的憶測ということになるのだが、日本プラスチックの方が先だと考えている。
成型品・パッケージ・インストなどからは確定的な判断材料はない。ただ、理由として上げるとすれば

 ・ もし、日本プラスチックのノーチラス号が日模伊号潜水艦以降1959年より後に発売されたとするなら、もっと現物残存数も
   多いだろうし、雑誌等の確かな製品情報ないし日本プラスチックによる広告なども存在しているはずである。
   1956年に予告広告をうつ会社である、市場が確立され始めた1960年代前半に宣伝活動をしないはずはない。

 ・ 日模伊号潜水艦がすでに自動浮沈式を採用しているのに対し、日本プラスチックのノーチラス号は単なるゴム動力潜水艦に
   すぎず、後発ならどのような形式でも自動浮沈装置を付けるまたは付けざるを得なかったのではないか。それがたとえ日模
   のコピーでもあっても採用はさけられないと思われる。
 
 ・ ノーチラス号の発売が1959年以降だと仮定し1956年に零戦・P-51が発売されたとすると、少なくとも2年間以上
   プラスチックモデルを発売し続けたこととなる。零戦・Pー51が実際に発売されたとして現在確認できるキットが3点 
   発見されていない物がもう数点存在したとして10点程度。まったく市場が存在していないプラスチック模型業界で会社
   として存続できたとは考えにくい。あまり期間をおかず発売されたのではないだろうか。

 などなど状況証拠ばかりではあるが・・・・・、今後大量に日本プラスチックの製品や資料が出てくればこの説は成り立たなく
なるのだが。


 それでは (株)日本プラスチックはいかなる会社であったのだろうか。少ない資料からの推測となるが。

 ・ プラスチック模型の製造専門メーカーではなかったのでは

    1956年当時、射出成型機自体が全国に300台余りしかなかったようで、一般に工業製品・日用雑貨がプラスチック
    製品の主流であったとすれば、一部趣味の世界の模型にその能力を向ける余力はそれほどなかっただろうし、市場の
    確立されていない現状で会社の全てをプラスチックモデルにかける事は不可能に近いことであったと思われる。
    会社名からもそれがうかがえる。
    新たに会社を設立しプラスチック製模型を本格的に世に出そうとするなら、まず会社名を (株)日本プラスチック模型
    または(株)日本プラスチックモデル製作所とか、会社名にその生業を入れなければプラスチック自体がまだ珍しかった
    時代なら何をしている会社なのかまったく分からない事となる。
    三共も三和も三共模型製作所・三和模型と模型という語をその社名いに入れている。マルサン商店はブリキ・ティントイ
    などですでにプラスチックモデル以外でその存在を知られていた。

 ・ ある程度の規模の会社では

    一般に60年代の模型メーカーは我々が考えているより規模が小さかった事が知られている。いわゆる家内工業的で    
    これだけの設備でよくこれだけの製品を世に送り出せたなと思えるところが多かったようである。
    模型メーカーの所在地を知るにはインストなどを見ればわかるのだが、そこには一般的に住所・電話番号などが記入
    されている。 それは大方が一ヶ所の住所である。
   それに対し日本プラスチックはどうだろう。

    右の画像を見ていただけるとわかるが、社名の
    左右に 大阪・東京 と書かれている。
    もともと日本プラスチックの拠点は大阪だった
    らしいのだが、東京との記入があるところをみると販売の拠点または一部製造部門を抱えていたことになる。
    60年代初期のほかのプラスチック模型メーカーにはまずこのような記入はない。
    大阪と東京に拠点を持ち1956年当時市場がなかったプラスチック模型専門の会社を維持することは事実上
    不可能であろうし、いきなり2拠点も必要としたとは考えにくいのである。
    そんなことをふまえて考えると、他のプラスチック製品も扱いながら一部門または一時的にプラスチックモデルを
    手がけたのではないだろうか。 そして、現在も活動中なのだろうか・・・・・。
    

   これがまったくの的外れで、本当に1956年にプラスチックモデルを世に問い、2拠点をもってその普及にあたって
   いたのなら その社命は驚くほど短いものであった事だろう。


   いずれにしろ今だ  (株)日本プラスチックは黎明期の深い闇の中にある