「ちょ、ちょっと待ってください? ヘリオライト?」
セルフォスにしては、珍しく落ち着きを失った声色。
セルフォスは焦っていた。
大いに焦っていた。
それもそのはず。
昨日まで、自分に対して同僚以上の扱いをしなかったヘリオライトが、今日の午後、セルフォスが気分転換に近くの森へ森林浴に行ってきた後、薬品室に入って改めて仕事に取り掛かかり始めた直後、ヘリオライトに後ろから迫られたのだ。
お陰でセルフォスは今、薬品棚とこの男に挟まれて身動きが全くできないでいた。
つまり、薬品棚に押し付けられている状態である。
うかつに身じろぎ出来ないのは、この男はともかく、薬品が散らかってしまいそうだったからだ。
手で何とかしようにも、ヘリオライトが後ろからセルフォスにぴったり密着してる上に、セルフォスの脇よりやや下にヘリオライトが腕を回しているので、それもままならない。
一番最悪な事といえば、ヘリオライトの普段よりもやや荒い吐息が右首すじの辺りにかかってくることだ。
これには、セルフォスも鳥肌が立った。ついでに血の気も引いた。
普段からあまり人と抱きついたり、挨拶がわりのキスをしたりするのが好きではないセルフォスにとっては、この行為は拷問に近かった。
「い、一体何があったんですか? 私が出掛けている隙に」
焦りながらも、答えを求めてセルフォスは後ろを振り向こうとする。
が、向いた先にヘリオライトの顔が間近に迫ってきた為、慌ててまた薬品棚に顔を向けた。
すると、ふいに後ろから、
「ごめん」
と吐息交じりの声がかかってきた。
「でも、自分でも止められないんだ。マジで。どうしよう」
そう言って、セルフォスの首元に顔をうずめると、セルフォスの全身に悪寒が走った。
「と、とととにかく、一刻も早く離れて下さい。今すぐ。即行で」
「・・・・・・・・・・できたらとっくにやってる」
辛そうな声が後ろから聞こえる。
そう言われて、セルフォスは泣きたくなった。
「とにかく、離れてください。そもそも何でくっついてくるんですか」
「気持ちいいから。いい匂いもするし」
「お、お願いですから、離れて下さい」
セルフォスの体はかなり強張っていた。頭の中はすでにかなり混乱している。
そんなセルフォスの強張った体をほぐそうとするかのように、セルフォスの体に回されていたヘリオライトの手がゆっくりセルフォスの体を撫で始める。
「・・・・・・っ」
その瞬間。
セルフォスはこの際、薬棚がどうなっても構わないと本気で思った。
そして、自分の体を撫で回しているヘリオライトの手をつねり、ヘリオライトが力を緩めた一瞬の隙をついて、薬棚に手をつき、その反動でヘリオライトに頭突きをかます。
頭突きをされ、若干ヘリオライトが後ろにのけぞった時に、セルフォスは素早く片足を薬棚にかけ、彼の体に自分の体を押し付け、もう一方の足を薬棚に掛けたかと思ったら、次の瞬間にはヘリオライトの頭上で軽く半回転をし、ヘリオライトの真後ろに着地していた。
お互い、さっきとはまるっきり正反対の位置だ。
幸い、薬棚は、セルフォスが蹴った時、少々引き出しは何箇所か少し開いてしまったものの、下に落ちたり、薬が散らばるようなことは避けられたようだ。
しかし、セルフォスにとって状況が完全に良くなったわけではなかった。
ヘリオライトは、いまだ自分に対して異様な執着を示しているし、ここでこれ以上暴れるわけにもいかなかったからだ。
相手が何か行動しようとする、その前にセルフォスは慌てて、
「ここじゃなんですから、とりあえず休憩室に行きましょう」
訝しげに見るヘリオライトに対して、
「大丈夫。逃げやしませんよ」
そう言ってやる。
数時間後、休憩室のドアがノックされた。
開けるとそこには店長が立っていた。
店長の姿を見た途端、セルフォスは今まで張っていた気が一気に抜け、思わず店長にすがるような形でその場に脱力した。
「なんじゃ? なんじゃ? 大丈夫なのか?」
「良かった〜。もう、どうしようかと・・・」
「一体どうしたんじゃ? いきなり伝書鳥なぞ寄越しおって。しかも、「ヘリオライトが壊れた。すぐ来てくれ」じゃ、さっぱりわけが分からん」
「はっ。取り乱しておりましたので・・・。申し訳ありません」
話している内に落ち着いてきたのか、セルフォスの混乱していた頭が大分正常に戻りつつあった。
「どうも、会話のできない相手と長時間いると、自分までわけが分からなくなってしまって・・・」
「会話ができない? セルフォス、ヘリオライトは一体どうしたのじゃ? そもそもあやつは今どこにおるのじゃ?」
会話をしながら、店長は休憩室を見回し、ヘリオライトの姿が見あたらない事に気がついた。
「今は・・・、その・・・、仮眠室におります」
「具合が悪いのか?」
「いえ。・・・・、ああ、でもそうなのかもしれません・・・」
曖昧なセルフォスらしからぬ返事に店長は首をかしげた。
「一体なんなんじゃ? 一体何が起きたのじゃ?」
そう言いながら、店長は仮眠室のドアを開けようとした。
が。
「・・・・・セルフォス。仮眠室が開かぬぞ?」
「ああ。申し訳ありません。鍵を掛けておりました」
「鍵? 何故鍵?」
「危険なもので・・・」
「は?」
「今、開けます」
そう言って、セルフォスが仮眠室のドアノブの鍵穴に鍵を差し込もうとした時。
店長がセルフォスの手首を掴んでその行動を制止した。
「ちょっと待て。何故危険なんじゃ? 中にいるのは、真にヘリオライトか?」
「はい。そうです。数時間前にここに閉じ込めて、店長が来る数分前までかなり暴れていたのですが、今はおとなしいですから多分大丈夫です」
そう言って、改めて鍵を開けようとするセルフォス。
その行動を店長はまたもやんわり制止した。
「ま、待て。まずは、何があったか我に話してくれぬか?」
そう言った途端、セルフォスの頬がほのかに赤くなった。
「その、何故だか知りませんが、いきなり襲われたのです」
「は?」
店長は一瞬呆気にとられた。だが、しばらく後、いきなり慌てだしたかと思ったら、セルフォスの体をあちこちチェックし始めた。
「はあ!? なんじゃと!? 傷は? 怪我は? 大事ないのか?」
「け、怪我とかはないですが・・・。まあ、百聞は一見にしかず、ですから。入ってみれば分かっていただけるかと」
そう言われた後、店長はしばし考えた。
そして、おもむろに極上の笑みをセルフォスに向けて、
「・・・・・・・・・主もはいるよな? セルフォス」
「は? いいえ。私はもう既に体験済みですから・・・」
「入るよな」
そう言って只ならぬオーラを出しながら、店長はセルフォスの肩を意味ありげに力強く掴む。顔は笑顔のままだ。
そんな、逆らえない雰囲気を間近で出されたのでは、入らないわけにいかない。
セルフォスはそんな店長の気迫に気圧されるように頷き、鍵を開けた。
ドアをノックする。
「ヘリオライト? 入りますよ?」
そうセルフォスが扉越しに尋ねると。
「・・・・今は一人にしといてもらった方が嬉しいかも。俺、お前の顔見たらまた何するか分からないし。とりあえず今のとこは落ち着いているし」
それを聞いてた店長&セルフォスはお互いに顔を見合わせる。
「・・・・ですって。いかがいたします?」
「そうは言ってものう・・・。調べてみんと解決法も思いつかんし」
「じゃあ、やはり店長だけ入られた方が宜しいのでは・・・」
そう言った矢先に笑顔で肩を再び掴まれる。
セルフォスはため息をつき、とりあえず入りますよ、と言ってからドアを開ける。
「なんじゃ? 至って普通ではないか。少なくとも我にはそう見えるぞ・・・」
そう言った店長の言葉が段々小さくなっていく。
どうやら、なにか思い至る事があったらしい。
ヘリオライトはベッドに腰掛けていたが、店長の姿を見つけると体を強張らせた。
「げ・・・・。店長・・・」
「お主、もしや・・・」
「何か分かったのですか?」
後ろからセルフォスが顔を覗かせた。
その途端、ヘリオライトが立ち上がった。
「いかん。セルフォス、主は顔を出すな」
そして、慌ててドアを閉め、またもやヘリオライトを部屋に閉じ込めた。
鍵を掛けた後、店長はドアに寄りかかってしばし考えていたが、やがて、
「セルフォス、薬品室に来い」
「はっ」
そう二人で薬品室に入った途端、店長は全てを納得したような感じだった。
「やはりな。セルフォス、主はこの薬品室全体に匂う甘い香りに気付かなんだ?」
「え・・・? はっ。申し訳ありません。実は、私自身先程まで小児用の風邪薬の棚を整理していたもので・・・」
「ああ。あれも、かなり甘ったるい匂いじゃな。しかし、引き出しを閉じれば匂いは漏れないはずじゃ」
「整理している最中に背後から襲われたもので・・・。しかし、この匂いはもしかして・・・」
「ああ。そのまさか。媚薬じゃ」
それを聞いた途端、セルフォスががくーっとうなだれる。
「しかも、これは匂い系のものじゃな。匂い系は効果が強力なものが多いからの。ま、服用タイプには若干劣るが」
そう言いながら店長は薬品室のある一角へ歩いていく。
そこには、薬品室内に設けられたこれまた調合室より狭い部屋があった。
人が二人も入れない空間。そこには、なんらかしらの精神的作用を生み出す薬や薬草が収納してある棚が置いてある。
それは服用にしても、香りにしても、だ。
これらの薬は大抵人間を対象に作られている為、竜であるセルフォスにはほとんど効果がない。そんな理由からこの部屋は基本的にはヘリオライトは立ち入り禁止になっていた。
薬を整理するたびにヘリオライトがこれらの薬の影響を受けてしまっては大変だからだ。
ヘリオライト自身、入社当時から薬品室内の一室には劇薬が置いてあるから、セルフォス以外は入ってはいけないと言われてきたので、あまりこの部屋に興味を持たなかった。
その部屋のドアが今は開いている。
中を覗いてみると、ところどころに薬が散らばっている。
セルフォスは部屋のその有り様を見て溜息が出た。
この部屋の匂いは鼻につくからあまり長居したくないのに・・・。
それなのに、こんなに散らかって。
きっと整理するのは自分なんだろうな・・・。
そう思うと溜息をつかずにはいられない。
店長は部屋の中に入っていき、匂いの出所を掴む。
「こんなに媚薬がたくさんあって、奴の神経を惑わせていたのであれば、正常な判断も出来まいと思っておったが、中々、あやつ、匂い系の中でも一番強力なものを選びおったわ」
そう言って、店長は一つの蓋がゆるんだ瓶をセルフォスにかざす。
「他は特に開いていなかったからの」
「ああ・・・。一番高いやつ・・・」
そう言って、瓶を受け取ったセルフォスは蓋を閉める。
こんなに匂いが薬品室に充満しているようじゃ、これはもう使えないだろう。廃棄せざるを得ない。
「まあ、起こってしまったものは仕方あるまい。それよりもセルフォス、主は急いで中和剤を作ってやれ。そうじゃな。香りタイプのものが良いじゃろう」
「はっ」
「我はここの部屋の匂いを消す。10分足らずで終わるじゃろう。終わったら休憩室に集まることにする。良いな?」
「承知しました」
セルフォスはそう言って一礼をすると、中和剤の材料を探し始めた。
十分後。
ちょうど、中和剤を作り終えたセルフォスが調合室から出てきたとき、店長はすでに休憩室のイスに座ってくつろいでいた。
「終わりました」
セルフォスがそう言うと、店長はセルフォスの方に笑いかけた。
「御苦労。こっちもさっき終わったとこじゃ。ああ。薬も片付けておいたぞ」
「ありがとうございます」
「よい。さて、では早速中和剤をヘリオライトにかがせるとするかの」
そう言うと店長はヘリオライトが閉じ込められている部屋の鍵を開けて、中和剤を手にして入っていった。セルフォスはその後に続く。
「本当に人間はこういうとき大変じゃの」
そう言う店長の口調は呆れていた。
中和剤の効果はかなり絶大で、部屋に入って数分も経たない内にヘリオライトの少し潤んだ瞳に理性が戻りつつあった。
「我々も人の事は言えませんけれどね。発情の時期がくればこれより非道い者などいくらでもいますし」
「でも、だれかれ構わず襲いかかる事はまずせぬぞ? これ、と決めた者にしか迫らぬではないか。しかも、相手も誘っておきながら嫌がる時もある。それでも無理矢理こちらがやろうものならこちらの命が危うくなるほど攻撃してくるし。ほんに、竜の世界のオスの立場は弱いの」
「我らの一族は赤に比べればやや穏便に済みますが・・・」
「主の、緑の一族は基本的に穏やかなものが多いではないか。我ら赤の一族は攻撃的な者が多い。それ故、毎回発情の時期は死者が出ない時はないほどじゃ」
「あの・・・・、こっちが中和剤なしでも思わず引いてしまうような、そんな物騒な色気もカケラもない話はやめてもらえます?」
ふと声がした方を見ると、ヘリオライトがおずおずと顔を上げてこちらを見ている。
「ヘリオライト。具合はいかがですか?」
セルフォスが、少々心配そうに尋ねる。
「うん。なんか心にかかってたもやもやがとれた感じ」
「良かった。中和剤は成功していたのですね」
「人間の心配をしろよ。セルフォス」
ヘリオライトがそう言うと、セルフォスは少々眉根を寄せながら、
「だって久しぶりに作ったものですから。効くかどうか不安だったのです」
「そうじゃ。元はといえば悪いのはヘリオライト、主じゃからな。しかし、どうして媚薬などに手を出してしまったのじゃ?」
「それは・・・・・」
店長がそう聞いた途端、ヘリオライトは気まずそうに視線を二人から視線を逸らし、口ごもる。
「それは?」
セルフォスが先を促す。
「・・・・メリッサが・・・」
「メリッサ?」
事の発端はこうだった。
ヘリオライトは街で偶然会ったメリッサと、話をしているうちに気が合って、そのままバーに行き、二人で飲んでいた。
その時の両者共酒がかなり混じった会話で、気がつけばヘリオライトはメリッサに媚薬を用意する事を約束してしまっていた。
「今度のねー、彼氏があー、ちょっとね、消極的な部分があってさー。押しが足りないとゆーか。でね、ヘリオライトさんにお願いがあるんだけどなvv」
そう美女に頼まれて、断れる男はどれほどいるのだろうか。
もちろんヘリオライトは断れなかった。
「媚薬?」
「そ。なるべく強力なやつが欲しいんだけど。あるかな?」
「うーん・・・。確かあると思ったけど。でも俺の管轄じゃないしなあ」
「えーー? もしかして、それってセルフォスさんに頼まなきゃダメって事?」
「出来ればな」
「でもでも、場所は分かっているんでしょ? 何とかならないかなあ? セルフォスさんだとなんか頼みづらくて。こういうこと」
「んーー。確かに」
「でしょー? だからヘリオライトさんにお ね が いv」
「・・・・というわけで、仕方なく」
「・・・何が仕方なく、じゃ。正当化するでない。愚か者。短慮。阿呆め」
「本当ですよ。私も店長がこれほど相手に悪態をつくのは初めて見ましたよ」
「そこじゃない。つっこむところはそこじゃないじゃろ。セルフォス」
「え?」
「主というやつは・・・。とにかくヘリオライト、主の短慮のせいで、危うくこの我の大事な大事な緑竜セルフォスの心に傷がつき、とりかえしのつかない事になるところじゃったのじゃぞ!?」
「店長、私は自分の身ぐらい自分で守る術は心得ておりますから・・・。私のことはお気になさらないで下さい。と、いうか論点がずれております」
セルフォスのその台詞にヘリオライトも思わず頷く。
「問題はそこではなく、ヘリオライトの為に使った中和剤の材料代、調合代の事です」
「そこでもない」
この台詞にはさすがに、店長、ヘリオライト両者からの息の合った容赦ないつっこみが入った。
「・・・・そうなんですか!?」
セルフォスは本当にびっくりしている。
「まあ、我の問題はさっき言ったセルフォスの事だけなのじゃがな。ヘリオライトの問題とすれば、まあ、規則を破ってしまったことと、値の張る媚薬を一つ使えなくしてしまったこと、じゃな」
そう言うと、店長は少しにやけ顔でヘリオライトを見る。
「さて、どうしようかの・・・」
ヘリオライトは全身が心臓になったような感じだった。
鼓動がやけに大きく聞こえた。
セルフォスはその様子をじっと見つめている。
そのとき、今までヘリオライトの方を見ていた店長がふいにセルフォスの方を見た。
「そういえば、セルフォス。主はヘリオライトにどこまでやられかけたんじゃ?」
「どこまで・・・とは? ただ、体を触られただけですが・・・?」
その台詞に。
店長は再びヘリオライトの方に向かってにっこり。
そして一言。
「3ヶ月間、減給」
確かに。
確かに、定職処分とか、クビ、とかに比べればこの処置はまだ優しい。
そう思いたい。
しかし、一人暮らしをしているヘリオライトにとって、この減給はかなりの痛手だった。
ぜってー、私情が入ってる。
ヘリオライトはそう確信していた。
同時に。
セルフォスを見るたびに、あれ以上ヘンなことしなくて本当に良かったと毎日心の底からそう思う。
それは、あれ以上の事をしていたら確実に処分は重くなっていたと確信しているからだ。
それ以来、ヘリオライトは前以上に媚薬などが管理されている部屋を避けて通るようになったのはいうまでもない。