小話
その日、ヘリオライトはカウンターで分厚い薬学の参考書片手に悪戦苦闘していた。
手元には問題集。
そう。彼には珍しいことだが、勉強をしているのだ。
やがて、薬品室からお昼だからお店を閉めるよう言いに来たセルフォスがその姿を見て、
顔をしかめる。
「ヘリオライト、ちゃんと店番やってください」
「何言ってんだ。しっかりやってるぞ?」
「カウンターにそんなに堂々と勉強道具一式広げないでください、と言っているのです。せめて、ポケットサイズの参考書のみにしてください」
「いいじゃないか。覗き込まれなきゃ客からは、見られないし。それに、俺自慢じゃないけど、客がドア開けてカウンターに辿り着くまでの間に、一式片付けられる自信あるぜ?」
カウンターには段差があって、客が覗き込んでこなければ手元は見られないようになっているからだ。
「自慢にもなりません」
呆れたようにそう言うと、セルフォスは昼食にするから、店を閉めてくださいとだけ言って薬品室に入っていってしまった。
「だいたいセルフォスはいいよなー。頭いいからそんなに勉強しなくても、試験にパスしそうだもん」
「私だって勉強してますよ」
昼食をとりながらの会話。
何の話かといえば、実は薬を扱う者は皆、3年に一度の検定試験があるのだ。
それは、国が人体に何らかしらの影響を及ぼす団体全てに義務付けているものだった。
曰く、知識の緩みが命の危険を誘う、とのこと。
その考えにセルフォスはおおいに同感したのだが、彼の同僚はおおいに反対した。
確かに国のその徹底した考えのお陰で、今日自分達が口にいれている食品も疑わず、安心して口に出来る。
なぜなら、食料品の管理者にもその試験は義務付けられているからだ。
しかも、食料品を扱う業者達に関しては、聞くところによると鮮度の見分け方、保存、管理の仕方などの実地試験もあるらしく、ヘリオライトは心の中で密かに合掌したものだ。
そう。試験は学会の素晴らしい研究によって、いつも変化に富んでいる。
薬学の方では、ヘリオライトにとっては幸い、ここ数年新しい改正も新薬の確定されたものも数個しかなかった為、覚えるのは容易かったが、以前、どこかの研究者が人体に悪影響が少なく、病原体を退治できる菌を発見した時には、世紀の大発見とはいえ、ヘリオライトはその研究者を恨まずにはいられなかった。
なぜなら、その菌を使って、いろいろな製薬会社が次々と国の特許を取って新薬を発表したからだ。そのとき、新薬として確定され、試験対象になった薬は数知れず。
あのときに比べれば、今回はかなり楽な方だった。
だが、覚えなおさなくてはいけないものの量がそれで減るわけではなく、普段あまり勉強しないヘリオライトは試験自体がかなり嫌だった。
「それに、普段から試験対策させているじゃありませんか」
「ああ・・・」
それは以前の試験結果が、合格だったとはいえ、かなり及第点ぎりぎりだったヘリオライトを見かねてセルフォスが考えたもので。
「うん。それは、かなり役に立ってる」
毎日送られてくる、新薬やすでにある薬の説明書は必ず読み、その成分を把握しておくこと。それにより、成分に対する馴染みも深くなると考えての試験対策だった。
そのおかげで、今回はかなりいい点いけそうだ、と思っているくらいだ。
「なあ、そういえばセルフォスは普段どんな勉強法をしてるんだ? てか、どうしたらいい点とれるようになんの?」
セルフォスは過去に二回、連続して検定試験においての首席に立ち、その優秀さを表彰された事がある。
「どう、って別に。これと言って特別なことはしてませんよ?」
「コツとかあんの?」
「コツ・・・ですか? そうですねえ・・・」
セルフォスがそう言って考え始めた時。
裏口のドアが威勢良く開いた。
二人が驚いてそちらを向けば、そこには片手に雑誌を数冊抱えている店長の姿があった。
「おう! ご苦労様じゃ! 二人とも。元気にしておるか?」
いつも以上に元気な店長に圧倒されながらも、二人はそれぞれ挨拶を返す。
「今日は嬉しそうですね。店長」
ヘリオライトがそう言えば、店長はにっこり微笑んで。
「今年はな、温泉に行く事にしたのじゃ」
と答える。
その答えに二人はあっ、と顔を見合わせた。
今は6月。
そういえば、毎年恒例の社員旅行の企画がそろそろ行われる時期でもあった。
だがしかし。
検定試験は10月。毎年行っている社員旅行はいつも9月。
まさか、検定試験の事を知らないわけではあるまい。
「最近は温泉がブームらしくての。本屋に行ってみたら、特集組んでる雑誌がこんなにあったぞ?」
そう言って、テーブルの上に雑誌を広げる店長。その雑誌にはすでに付箋でチェックが入り済みである。
店員二人は互いに顔を見合わせた後、店長の夢がこれ以上膨らまない内にと店員を代表して、セルフォスがそっと確認を取ってみる。
「あの、店長? 今年は薬剤師達の3年に一度の検定試験が10月に控えている、というのはご存知ですか?」
「うむ。知っておるぞ?」
「それに、私達二人も参加しなければならない、というのももちろんご存知ですよね?」
「うむ。知っておる」
ならなんで・・・・と、店員二人は、そこまで問いただしておきながらも、それがどうしたと言わんばかりの店長の態度に心の中で早くもくじけそうになった。
今度はヘリオライトが問いただす。
「店長、社員旅行は今年も9月ですか?」
「そうじゃ」
「あの〜・・・。そうなると、翌月が検定試験になるんですが」
「そうじゃな」
「・・・・・・・・・・・」
相変わらず、けろっとした顔で店員の言う事に顔色一つ変えない店長を見て、どうやら社員旅行はどんなことがあっても決行のようだ、と逆に店員二人が青ざめる。
セルフォスは、めげずに再度店長に果敢にアタックする。
「店長、あの、受講者は皆そうだと思うのですが、試験前には試験対策に打ち込みたいと考えるでしょう。だから、温泉地に行っても試験を目前に控えた者が心身ともに癒されるとはとても思えません。ですから、今回の社員旅行は延期か、その、店長にとっては大変心苦しいとは思うのですが、中止で・・・」
勇気ある同僚の台詞に、ヘリオライトは心の中で拍手を送る。
店長は、その意見を聞きながらしばらくセルフォスを見つめていたが、
「・・・そうか。勉強に根を詰めすぎてしまっては、効率も悪くなろうと思って、気分転換にと発案したものじゃったが・・・。そうか、ならば仕方ない」
店長がそのように考えてくれていたのは店員二人にとってはとても意外で、また思いがけない心遣いに嬉しくも思った。
そして、じゃあ今回の社員旅行はどちらにしろ9月ではないな、と胸を撫で下ろした矢先。
「内容を変えて、「強化合宿」にすれば良いのじゃな!?」
全然よくない。
店長の嬉々とした新提案にすかさず心の中でツッコミを入れる店員二人。
心の中でも、さすが息がぴったりである。
「店長、人の話聞いてました?」
ヘリオライトがそう問えば、店長は拗ねたように唇を尖らせる。
「良いではないか。いつもとは違う環境で心身ともに気持ちを入れ替えて、新鮮な空気を吸い脳を刺激し、温泉に入る事によって血流を良くし頭の回転を早くする。いいこと尽くしではないか。それにヘリオライトにとっては、優秀な先生が付く事になるのじゃぞ?」
「え?」
一体何のこと? と、びっくりして店長を見てみれば。
「過去に二回首席をとった者に教われば、勉強もはかどるであろうよ」
そう言って、店長はセルフォスを見る。
「なんせ、セルフォスの記憶力は並大抵ではないからな。勉強法にもそれなりのコツがあるはずじゃ。それを教えてもらえば試験なぞ余裕でパス出来るであろう」
この台詞、実は半分嘘である。
セルフォスの記憶力が抜群なのは本当だ。
教えた事をおもしろいくらいに自分の脳に吸収させてしまう。
だから、セルフォスがコツなぞ使わず、参考書、果ては薬品の一つ一つまで全て頭から知識として吸収してしまっている可能性はかなり高い。
だから、店長のこの台詞は一種の賭けみたいなものだった。
これで、ヘリオライトが食いつくか、その前にセルフォスが否定してしまうか。
そしてその賭けはどうやら店長に軍配が上がりそうで。
「う〜ん。それは、かなり魅力的かも・・・」
「ヘリオライト?」
「だってさ、自分一人だとどうしても限界があるし。飽きも早いし。だけど、他に誰かが一緒にやってると張り合いが出るじゃん? それに、分からなくなったときは近くにセルフォスがいるなんて、なんていい環境・・・」
途中、眼をうっとりさせながら他の世界に旅立ちそうな同僚を見て、セルフォスは思わず怯む。
「店長・・・」
恨みがましく店長を睨めば、睨まれた店長はにこにこ顔で。
「多数決で、決定じゃな」
やられた。
店長の巧みな言い回し加減で、今年も、しかも試験の1ヶ月前に社員旅行に行くことになってしまった。
セルフォスは旅行自体は嫌いじゃない。気分転換を図るため、温泉に浸かるのはとても良いことだと思う。ただ試験前ともなれば、ましてそれが社員旅行ではなく、「強化合宿」ともなれば、持っていくものが格段に違ってくる。旅行であれば、数日分の着替えと身の回りの用品。これだけで充分だったが、勉強しに行くとなればそれに参考書、問題集が追加される。これがまたがさばるし、重い。また、セルフォスは一つの問題集に実にいろいろな参考書を併用している。自宅であれば、手の届く範囲に全てあるから良いのだが、これが別の環境でやるとなれば、どの参考書を持っていって良いのやら検討もつかなくなる。
それが、この旅行に参加したくない最大の理由だった。
まさか、全部持っていくわけにもいくまい。
だがどの参考書がどこで必要になるか分からない。それに、ないと困りもする。
しかし、そうやって試験対策で悪戦苦闘をしている自分達を傍らで見ながら、店長はその光景すら楽しみながら自分は一人酌でもしているのだろう。
そう考えると、いくらこの店長を敬愛して止まぬセルフォスでさえも、少々むかっ腹がたってくる。
「分かりました。店長。今年も社員旅行を行いましょう」
諦めたように溜息混じりに呟くセルフォスの言葉を聞きながら、店長は思わず喜びに身を躍らせたくなった。
が、それも一瞬のことで、次のセルフォスの一言に店長は笑顔を引きつらせる。
「ですが、店長。まさか貴方の元で忠実に働いている店員二人が、試験勉強に苦しんでいるのに、その苦しみを一人だけ免れようなどと、そんな考えはありませんよね。何せ、いつも私たち店員の事を想ってくれているそれはそれは素晴らしい店長ですから」
セルフォスのいつになく次から次へと出る言葉の饒舌さに、店長と、そして何故かヘリオライトまでもが、その言葉の終わりに来るであろう恐怖の言葉に戦き出した。
「それに、今回は「強化合宿」ですから、発案者が勉強しないわけにもいきませんよね」
「・・・・・・・・な、何が言いたいのじゃ? セルフォス」
怖いながらも、自分の行く末が気になる店長は思い切って先を促してみる。
そこにあったのは、セルフォスの満面の笑みと爆弾で。
「いい機会です。この薬屋にある薬品の名前のリストと取り扱い説明書を持っていきますから、私たちが勉学に励んでいる間、店長はご自分の店にある全ての薬品の名前の暗記と、その成分を完璧に把握出来るようになさってください」
この台詞を聞いた途端。
ヘリオライトは自分が検定試験を受ける身で良かったと心から思った。
そして、この日から店長は、セルフォス以上に社員旅行に行く日が日ごと近づいてくるのを嫌がる様になった。むしろ、計画すら立てたくなくなっていた。
薬屋の薬品数は、薬草を含め、軽く千は超えていたからである。