5月15日
ローター・バウムガルテン、 あるいは伝統的民族誌への批判的介入(3)
伝統的な民族誌に対する批判的な介入という点で重要な作品のひとつは、バウムガル テンが一九八五−八八年にピッツバーグのカーネギー美術館のために制作した、
「チェロキーのことば(The Tongue of the Cherokee)」というインスタレーション である。
この作品は、カーネギー美術館の彫刻展示室に置かれたのだが、この彫刻展示室とい う場所それ自体美術館の中で象徴的な位
置を占めている。カーネギー美術館は一八九 五年に、実業家でありこうした文化支援者だったアンドリュー・カーネギーが、「ア
メリカ文化の宮殿(An American Palace of Culture)」として鉄鋼業の中心、ピッ ツバーグに設立し施設ある。それは、美術館だけではなく、図書館やコンサート・
ホール、自然史博物館まで含んだ総合的文化施設である。彫刻展示室の場所が象徴的 だというのは、この場所はもともと自然史博物館に位
置しており、ちょうど美術館と の連絡口にあたるからである。それは、いわば、多くの貯蔵品が西洋で収集された
「美術館」と文化人類学的な非西洋の文化生産物が納められる「博物館」との境界線 上に位
置づけられるのである。 この彫刻展示室は、人類の歴史というものがどのように認識されているのか考える上
でも興味深い。そこには、また一九世紀末に美術館が収集した骨董品やギリシャ・ ローマ時代の彫像の複製などが収められている。新世界であるアメリカの美術館、し
かも鉄鋼の街であるピッツバーグにこのような西洋芸術の起源を展示することそのも のが、ひとつのフィクションとしての歴史の創作、あえて強い言葉を使えば捏造であ
る。カーネギーは、近代化、産業化の過程を、ギリシャ・ローマから始まった文明化 (Civilization)のひとつの帰結として考えようとしたのだった。そこでは、アメリ
カ大陸という固有の歴史ではなくヨーロッパから西洋文明を持って大陸に渡ってきた ひとびとの歴史だけが、批判されることなく特権化されている。
バウムガルテンは、この特権化された歴史に別の時間の起源を持ち込むことによっ て、また別
の時間がアメリカに流れていることを示そうとしたのだった。その試み が、彫刻展示室のガラスの天井におけるチェロキー語のインスタレーション「チェロ
キーのことば」である。チェロキー語は、一九世紀初頭にシークオヤ(Sequoyah)に よって発明されたアルファベットだ。シークオヤは、それまで書文字を持っていな
かったネイティヴ・アメリカンのためにほとんど一人でチェロキー・アルファベット を作り上げた。言葉を与えることによってネイティヴ・アメリカンの人々の意識を高
め、誇りを与えようとしたのだと言う。 バウムガルテンの解説にしたがえば、実際にチェロキー人たちは一八二七年には、
チェロキー語の新聞を発行して、ばらばらになりつつあった人々を団結させ、政治的 な行動を呼びかけようとしたこともあったらしい。しかし、その新聞も実現されるこ
ともなくアメリカ政府は、チェロキー人たちをオクラホマに強制的に移住させてしま い、チェロキーの伝統は歴史から消えてしまう。
チェロキー・アルファベットは奇妙な印象を与える。シークオアが、最初にチェロ キー・アルファベットをつくり始めたときには、アメリカ・インディアンのピクトグ
ラムをうまく言葉と結びつけようとしたらしいのだが、結局その試みはうまくいかず 母音・子音を組み合わせて、英語のアルファベット体系を参考にしながら完成させ
た。結果的に、その文字のデザインは英語のアルファベットと多くの共通点を持って いる。そのことによって、余計に逸脱した印象を与える。
バウムガルテンのインスタレーションでは、一八九に区切られたほぼ正方形にみえる 長方形のガラス枠の中にチェロキー・アルファベットが散りばめられている。アル
ファベットはすべて同じ方向を向いているわけではなく、横になっているものや逆さ になっている文字もある。多くの文字はグレイの色だが、五つだけ明るいロイヤルブ
ルーで描かれている。天井のガラスに描かれているので、太陽のあたり方によって微 妙にその色彩
は変化していく。 この作品の企図は明らかである。天井の下には、西洋美術の起源を示しているギリ
シャ・ローマ時代の彫像の複製が置かれている。彫刻展示室の中で、人々はこの二つ の文化の対照を見ることになる。しかし、これは単に二つの文化を平地しているので
はない。ヨーロッパから輸入された文化は、依然としてアメリカの起源であり続けて おり、その一方でバウムガルテンが再現しようとしたチェロキーの文化は、消え去ろ
うとしている。より正確に言えば、ヨーロッパの文化がまさにネイティヴ・アメリカ ンの文化を奪い取っているのである。カーネギーがピッツバーグにもたらし、称賛し
ようとした文明化、近代化、産業化という過程は、アメリカのもうひとつの起源を奪 い、搾取し、隠蔽していく過程でもあったのだ。「チェロキーのことば」によって、
バウムガルテンはアメリカの歴史を複数化しようとしたのである。 さて、バウムガルテンが七〇年代から取り組んできた民族誌的な手法、そして民族誌
とパラレルな関係にある西洋の美術館・博物館の制度に対する批判をどのように評価 すべきだろうか。その軌跡は、今日的な視点からみれば八〇年代になって文化人類学
や歴史学、美術館学、そして文化研究などではっきりと形をとってくるポスト植民地 主義的批判をいわば先取りする役割を果
たしてきたといえる。 マルチカルチュラリズムが台頭する前に、その問題構成を先取りし自己言及的で批判
的な作品が生み出されていたことは興味深い。実際に、このような観点からの再評価 は、アンヌ・ロリメールなどによって詳細な分析がなされており(Anne
Rorimer(2000) ‘Lothar Baumgarten: The Seen and the Unseen)、本稿の内容もそ の論考に多くを負っている。また、その評価がそれまであまり語られることのなかっ
た八〇年代の美術における「民族誌的転回」と六〇年代から始まったミニマリズム、 コンセプチャル・アート、パフォーマンス・アート、ボディ・アートそして、サイト
-スペシフィック・アートとの断絶ではなく、むしろ連続性を見出させる貴重な試み だったことも確認しておくべきだろう。
しかし、その一方で「後出しジャンケン」的な批判もあえて同時にしておきたい。美 術作品は常に現在のものであり、その価値は時代とともに変化している。最初に登場
したそのインパクトは、すぐに美術の制度の中に回収されてしまい、当初もっていた ラディカルさを失い、時に反動的なものとして機能することさえある。バウムガルテ
ンの作品も例外ではない。バウムガルテンに対して好意的なフォスターも危惧するよ うに、一貫して美術と美術館批判を続けていたバウムガルテンの作品もまた、美術史
の中で振り返る過程の中で、やはり新たなスペクタクルとして回収される運命にあ る。
バウムガルテンの作品は、整然と統率され、感情に訴えかける。それは、失われた非 西洋の伝統とそこで行使させられた西洋の暴力を思い出させる。そして、この失われ
た伝統がもはや残されていないことによって感情を揺さぶられるのだ。しかし、この 喪失感は同時に危険な罠でもある。というのも、八〇年代以降の政治・社会的動向を
見ると、まさにある「伝統」が失われつつあるという思考法が批判にさらされている のだから。ある「伝統」は単に失われるのではない。それは、常に形を変化させつ
つ、世界中に伝播しながら、新しく創造されつつあるのである。 バウムガルテンの作品は、やはり西洋の美術家のどこかヒロイックな傲慢さが残って
いるように感じられる。たとえば、もしバウムガルテンが、彼が取り扱う南北アメリ カのネイティヴの人たちと作品をコラボレーションでつくったらどのような作品に
なったのだろうか。あるいは、アメリカの美術館やヴェネチア・ビエンナーレという 正当な西洋美術の「センター」ではなく、まさに今さまざまな新しい伝統が作られつ
つある「周縁部」で、およそ主流の美術と関係がなかった人々を対象に美術を作った らどうだったのだろうか。あるいは、現在各地で起こっている先住民の文化復興運動
とバウムガルテンの仕事を組み合わせることはできなかったのだろうか。もしこうし た仮定がひとつでも実現されていたら、その作品の形式自体がもっと決定的に変化し
たのではないか。 もちろん、こうした仮定は時代的な制約においてのみ可能なものである。こうした点
が満たされないからと言って、バウムガルテンを過小評価すべきではない。むしろ、 その可能性を最大に生かしつつ、彼が夢想した方向に「美術」のカテゴリーを本当に
変容させ、彼が嘆いた「伝統」の喪失を取り戻すことは、われわれがどのようにその 実践を批判的に継承できるのか、というところにかかっているのである。