5月4日

ローター・バウムガルテン、 あるいは伝統的民族誌への批判的介入(1)


美術批評家であるハル・フォスターの「民族誌家としてのアーティスト」という議論 とそれに対する文化人類学者、ジェイムズ・クリフォードのインタビュー「フィール ドの中の民族誌家」の中で交錯点の役割を果たす作家のひとりが、ローター・バウム ガルテンである。 バウムガルテンは、民族誌的なアプローチを用いて既存の美術館という空間の制度を 批判している代表的な作家である。四四年にドイツで生まれ、デュッセルドルフ芸術 アカデミーのヨーゼフ・ボイスの下で学んだ。ドイツを代表する作家としてドクメン タでは常連であり、日本では、96年京都国立近代美術館における「プロジェクト・ フォー・サバイバル」展でその作品は紹介されている。また、昨年の横浜トリエン ナーレでも出品をしていたので記憶に残っている人もいるかもしれない。その作品の エフェメラリティ(短命さ)、スライドや写真など二次的記録メディアの多用など は、サイト‐スペシフィック・アートから今日の民族誌的転換までにつながる典型的 な特徴を備えていると考えられるだろう。  民族誌とのかかわりで言えば、南米で過ごしたことのあるバウムガルテンの多くの 作品は、文化人類学的な手つきにいわば批判的模倣として見ることもできる。たとえ ばグッゲンハイム美術館やドクメンタの展示は忘れ去られつつある南北アメリカの先 住民たちの名前や言葉を美術館の中に展示することで、西洋の地図化というプロセス が、徹底的に植民地主義的・帝国主義的であったことを批判的に明らかにしたもの だった。それは、民族誌家的批評の形式を利用しながら、伝統的な民族誌的な記述が もっていた権力関係、記述する側(民族誌家)と記述される側(ネイティヴ・イン フォーマント)との関係を批判的に考察しようというものだったのだ。  バウムガルテンは、最初から美術館やギャラリーの制度、商業主義に批判的な作品 をもって登場した(Roimer,2000: 30-48)。六八年から六九年にかけて発表された 「ピラミッド」という作品は、その後のバウムガルテンの軌跡を考察するのに格好の 出発点である。「ピラミッド」は、青や赤、黄や白などさまざまな粉末状顔料で1 フィート程度のピラミッドを作り展示するというものである。展覧会の期間中何週間 かが過ぎると、もとの幾何学的形状は崩れていくし、触ったりしようものなら簡単に 崩れてしまう。そうすることによって、彼は、永遠に保存可能で、世界中で巡回する ことができる伝統的な美術作品の概念を乗り越えようとしたのだった。「ピラミッ ド」をほかの場所で展示するためにはもう一度最初から作り直さなければならないの である。 また、ドキュメンテーションの写真が結局作品の「保存」に対して決定的な役割を果 たしていくというのもその特徴として挙げられる。事実、六〇年代から七〇年代のバ ウムガルテンの作品は、その保存不可能な彫刻とともに写 真というメディアを用いて 不思議なある種の人工的な自然を制作したものが少なくない。たとえば「Augapfel( 眼球)」題された作品は、池の上に浮かんだ水上植物の真ん中に青く塗ったピンポン 玉 を置くというものである。あるいは、「Antizipierte Gürteltier(予兆:ア ルマジロ)」という作品は、ゴムのタイヤを用いてまるでアルマジロがヤブを抜けて いるように見せたものだった。バウムガルテンはこうした作品を「操作された現実 (manipulated reality)」と呼び、保存性と物質性、そして私的所有という概念から 結局は抜け出すことのない現代美術の商業主義を批判しようとしたものだった。 こうした作品に平行して、バウムガルテンは民族誌的な言語を自分の作品の中に導入 していく。その最初の作品は、六八年に発表された「羽の人びと:アメリカ人 (Feather People)という作品である。この作品は、南北アメリカの 部族的社会を、羽と地図、そして部族名によって再構成したものだった。その作品 は、アトラスの地図から取られた南北のアメリカの地図の上に羽が糊でつけられて手 書きやスタンプによってCayapoやCheynne Navahoといったかつてそこに居住していた 部族名を記述していったものだった。この作品は、その後の彼の展開のはっきりとし た原型を示している。作品における文字言語の導入という手法は、このあと地図か ら、写 真やスライド・プロジェクターそして、美術館やギャラリー、都市空間へと拡 張されていくのである。 たとえば、「アマゾン‐コスモス(Amazon-Cosmos)」と題された作品は、加工され た熱帯林の写 真の上に南アメリカの先住民に対して文化人類学者が与えた名前をデザ インして張り付けたものである。こうした作業を通 じてバウムガルテンは、もともと の文化が西洋的なまなざし、価値観、そして言語化されていく様子を描き出そうとし たのだった。 こうした試みは、さらには都市空間を舞台にして展開されていく。七三年にバウムガ ルテンは、ローマのSperone Galleryの展覧会においてレストランを用いて、やはり 異文化を別 の文化に無批判に持ち込む際の問題を扱っている。この展覧会は、「テー ブルマナーの起源と題されているが、これはクロード・レヴィ=ストロースの「テー ブルマナーの起源」というよく知られた論文からタイトルを取られている。この展覧 会で、彼は食事のためのセットを揃えたボックスを製作した。中に入っているのは ディナー・プレート、スープボール、ナプキン、そして、フォーク・ナイフ類の代わ りに二本のアララ鳥の羽とやまあらしである。バウムガルテンは、レストランでこの テーブルセットを並べた。もちろん、ローマのレストランでは、鳥の羽ややまあらし の針は「場違いOut of Place」で、まったく役に立たないものだが、まさにそのこと を示すことでアートにおける空間や文脈の特殊性をあぶりだそうとしたのだった。 この項つづく