5月3日

民族誌的展開、あるいは民族誌家としてのアーティスト 2


フォスターの「民族誌家としてのアーティスト」の議論に戻ろう。 フォスターが、八〇年代後半以降の美術の中に「民族誌家としてのアーティスト」と いうパラダイム・シフトを見るのは、このような芸術の「政治」化の文脈である。し かし、ベンヤミンの「生産者としての作家」の時代と様相が異なるのは、ベンヤミン の時代の政治が基本的に階級闘争に根ざしていたのに対し、六〇年代の終わりの伝統 的なマルクス主義に対する幻滅にともなって、階級以外のさまざまな要因が政治の重 要なアジェンダとして浮上してきたことだった。それは、たとえば環境問題であり、 民族問題、人種問題、そしてフェミニズムといった「新しい社会運動」New Social Movementと呼ばれる一連の動向である。  この新しい政治は、伝統的なマルクス主義が見逃していたさまざまな問題を取り上 げた。特に指摘しておくべきは、この新しい政治がアイデンティティなど文化の問題 に重要なものとして再びスポットをあてたことである。よく知られているとおり、ベ ンヤミンの期待に反し、ソ連型権力に代表される実際の社会主義政権は文化というカ テゴリーに注意を払ってきたわけではなかった。なによりも重要だったのは、経済と りわけ階級に根ざした生産関係の変革だった。文化はその変化にともなって決定され ていくと考えられていたのである。こうした俗流マルクス主義は、戦後現代美術の歴 史の中からマルクス主義を排斥することに少なからず寄与していた。それに対して、 新しい政治運動は階級を文化と複雑な関係を示すことによって、政治のカテゴリー全 体を変更し、再び芸術の中に放り込んだのである。  ニューヨークの一部のギャラリーに主導された投機的な現代美術シーン―――その 中にニューペインティング(伊東順二)やネオ・ジオ、シミュレーショニズム(椹木 野衣)として紹介された一連の流れが含まれるが―――が一段落して、バブルの夢か ら覚め始めると、アメリカの美術シーンは一気に政治的に過激化していく。ゲイに対 する差別 とエイズに対する対策を求めたACT UPはそのターニングポイントともいえる 象徴的な運動であるが、マルチカルチュラリズムに対応した非西洋の作家やエスニッ ク・マイノリティの作家たちの台頭、フェミニスト・アーティストたちの活躍など は、旧来の一枚岩的な西洋男性中心主義的な現代美術というカテゴリーを今なおいろ いろな形で解体してしまった。この運動はいまだに続いている。(いささか関連した ことで言えば、日本の美術ジャーナリズムにみられた九〇年代の日本回帰や奈良美智 や村上隆、荒木経惟など<日本的>な作家の躍進も単にグローバリゼーションの進展 や日本作家の躍進の結果 というよりも、端的にマルチカルチュラリズムの効果のひと つである)。  こうした新しい動向は、<普遍的>な美術という概念を解体するのと引きかえに、人 種や民族、ジェンダーという差異を持ち出し、アーティストに彼ら彼女たちが所属す る文化的集団の代表者あるいは代弁者という役割―――さらにいえば、人文学の中で 文化人類学者が果たしてきたような役割―――を担わせるようになった。芸術的な営 為は、アーティストを取り巻く社会的・文化的・政治的な条件とまったく独立した英 雄的な個人の表現ではなく、そうした条件の下にたえず巻き込まれた実践として認識 されるようになったのである。それに伴って、アーティストの役割は、民族誌家のよ うに自分たちをとりまく環境の断片を拾い集めそれを再構成するものと変容していっ たのだった。この動向を後押ししたのが、ポストモダン的な文化状況、とりわけロラ ン・バルトやミシェル・フーコーなどが「作家の死」や「人間の消滅」とでも呼ぶよ うな認識論的変化だったことも付け加えるまでもない。 したがって、フォスターが「民族誌家としてのアーティスト」として今日の美術パラ ダイムを捉えるとき、それは無前提に称揚されるべきものとして考えられているわけ ではけっしてない。「民族誌家としてのアーティスト」は、今日芸術的営為にかかわ るすべての人々が引き受けざるをえない条件なのだ。アーティストが民族誌家的な作 業に関わったり、その逆に文化人類学者、民族誌家が芸術的な営為をその行為の中に 取り入れたりすることは、単に求められているだけではなく、同時に批判的に慎重に 吟味していくことが必要なのである。 フォスター自身、八〇年代の彼の主張とスタンスを変えている。たとえば、彼はクリ フォードのように今世紀初頭のミシェル・レリスやジョルジュ・バタイユなどのシュ ルレアリスムを文化人類学との関係を捉えなおし、そうした文学的・芸術的実践を民 族誌的実践の中に取り込んでいこうという試みに対して、『リコーディングス』では 一定以上の評価を与えていたものの『現実的なものの回帰』の中ではもはや否定的で ある。文化研究や新歴史主義が持つひとつの傾向として必要以上に芸術的営為を称揚 し、過度なテクスト主義に陥り、ナイーブに政治的実践に還元しがちであると、彼は 批判するのである(Foster:183 )。 ちなみに、こうしたフォスターの批判に対して、当のクリフォードは『サイト‐スペ シフィティ:民族誌的展開』と題されたアンソロジーの中のインタビュー「フィール ドの民族誌家」で反論している。クリフォードによれば、フォスターが彼の『文化の 窮状』に収められた八〇年代初頭の論文にしか言及せずに、新しい文化人類学をテク スト主義や「過剰な反省性(ハイパーリフレキシビティ)」としか捉えていないのは 誤りだというのである。 確かにクリフォードの最新作『ルーツ』の中では、クリフォード自身がアメリカの博 物館・美術館や先住民の権利をめぐる裁判闘争の中で彼自身が実際にどのように関 わっているのかというのが実践として示されており、フォスターの批判は一方的にす ぎるように思える。クリフォードにとって、民族誌家としてのフィールドが博物館や 裁判所に明確に移っている以上、それはすべてを実験的テクストの実践と十把一絡げ にするのはいささかクリフォードに酷な評価である。むしろ、『オクトーバー』誌で 中心的な役割を果 たし、ポストモダン芸術の政治化の理論的な中心だったフォスター が、結局のところ「現代美術」として定義されているものの枠組みでしか、文化的・ 政治的実践を結局は捉えられていないことのほうが問題のように思われる。彼にとっ て、文化人類学者や文化研究、そして文化人類学的な意味での「文化」は、一貫して 「批判的な」文化実践から排斥されてしまっているのだ。 また、民族誌的パラダイムがフィールドでその対象としている「他者」に対して過剰 に自己を投影し、無条件に称揚していると、文化研究や新歴史主義、新しい文化人類 学などをフォスターが批判するとき、彼は、ガヤトリ・C・スピヴァックに代表され るような文化研究の内部でまさにそのような「他者性」の問題が論じられてきたこと をあまりにも無視してしまっている。 スピヴァックは、最新書『ポストコロニアル理性批判』の中で民族誌家に情報を提供 するその土地に住んでいる人であるネイティヴ・インフォーマントが西洋哲学史の中 で、どのような役割を果たしてきたかを検討している。スピヴァックによれば、ネイ ティヴ・インフォーマントは<人間>という名前からの放逐を表示する名前である。 彼女はこう言っている。 彼(またときには彼女)(=ネイティヴ・インフォーマント)は、それ自体としては 空白でありながら、西洋(あるいは西洋モデルの学問)のみが書き込むことのできる 文化アイデンティティのテクストをさせる存在なのだ(スピヴァック:2003年二二 頁) スピヴァックがこうして読むのは、とはいえ、伝統的な民族誌ではなく、カントから ヘーゲル、マルクスへといたる西洋哲学である。この哲学的伝統において、「ネイ ティヴ・インフォーマントは必要とされており、かつ排除されている存在である」と 彼女は言うのだ。 カントにおいては、理性的意思にとっての自由を可能にする反省的判断力の自律性を 引き立たせるために、規定的判断力の他律性の例としてネイティヴ・インフォーマン トが必要とされている。また、ヘーゲルにおいては無意識的なものから意識へと向か う精神の運動の証拠として、マルクスにおいては生産様式の物語に規範性を付与する ものとして、ネイティヴ・インフォーマントが必要とされている(同上二三頁)。 西洋哲学の形式性をあえて擬人化しつつ脱構築を図るこうした議論を通じて、彼女は 「ネイティヴ・インフォーマント」を単なる実在の「他者」として特権化することを 断固として拒否している。というのも、たとえば「移民をなんの疑いもさしはさむこ となく特権化することは、とりもなおさず、ネイティヴ・インフォーマントの抹消へ と転化してしまいかねない(三八頁)」からなのである。むしろ彼女にとって重要な のは、こうした西洋哲学が生産してきた「目録に載せられることのない痕跡としての ネイティヴ・インフォーマント(たち)」なのである。  しかし、このときにネイティヴ・インフォーマントを完全に抽象化された存在とし て捉えてはいけない。彼・彼女たちは同時に身体をもった存在なのだから。とすれ ば、結局のところ「民族誌家としてのアーティスト」もまた、ネイティヴ・イン フォーマントを代弁し、声を与える存在であると同時に、ネイティヴ・インフォーマ ントから声を奪い、生産すると同時に消去していくような存在にほかならない。この アンチノミーをどこかで引き受けることは「民族誌家としてのアーティスト」の条件 である。    しかし、ここでフォスターの「民族誌家としてのアーティスト」論を、クリフォー ドの側に立って反論することは、この「連載的批評」の主な目的ではない。実際に芸 術の政治化の下に、フォスターが指摘するような、ナイーブな政治主義、素朴なリア リズムを抜け出すことのなかった「民族誌的美術」が多数九〇年代に登場したのもま た事実である。エスニック・マイノリティや性的マイノリティを代弁することをもっ て「芸術の政治化」を完遂させることはできないのは、社会主義リアリズムが革命的 な芸術にいたらなかったのと同じなのだ。その意味では、フォスターの安易なマルチ カルチュラリズムに対する批判もまた真剣に受け止める必要がある。重要なのは形式 を変えることなのだ。  その意味で、フォスターとクリフォードが対立している点ではなく、むしろズレを はらみながら共鳴している部分のほうが興味深い。それは、「民族誌家としてのアー ティスト」のパラダイムの前史としてのサイト‐スペシフィック・アートを考えるこ とである(Foster,184 Clifford;2000, 59)。とりわけ、一九六〇年代以降のミニマ リズムの展開、ロバート・スミッソンやロザール・バウムガルテン、ロバート・モリ ス、ダニエル・ビュラン、ダン・グラハム、メレディス・モンク、ハンス・ハーケな どの作家群を民族誌家パラダイムの先駆的な存在として位 置づけなおすことによっ て、美術史のありえたかもしれないもうひとつの流れを描きだそうということであ る。それは、端的に「空間」と美術館の制度及び美術史という枠組みの再考になる。 つづく