4月30日

民族誌的展開、あるいは民族誌家としてのアーティスト



ハル・フォスターはその著作『現実的なものの回帰』(The Return of the Real)の 中で、80年代の半ば以降に新しい美術のパラダイムとして「民族誌家としてのアー ティスト」the Artist As Ethnographerというものが登場したことを指摘し、それに 対して批判的な分析を行っている(Foster,1995:172)。  民族誌家(エスノグラファー)とは、主に文化人類学という学問領域の中のある研 究的方法論を持った調査者のことを普通 は意味している。伝統的な民族誌家のイメー ジは、遠く離れた未開の地に一人または少数の人数で出かけて、そこに住み着き、現 地の人々と寝食をともにし、現地の言葉を習得し、現地の人々との信頼関係をゆっく りと築いていき、その過程の中でその地で起こったさまざまな文化的なできごとを記 述していく人である。そこでなされた記述は短くても数ヶ月、長ければ数年の滞在を 経たあとに民族誌家がもともと住んでいた母国に持ち帰られ、異文化の知識として発 表されたのだった。  フォスターは、80年代半ばから90年代にわたってゆっくりと広がった美術のあ るパラダイムをこうした文化人類学者の営為との相似関係の中で結びつけようとした のだ。しかし、ここで最初に指摘しておくべきなのは、こうした文化人類学の伝統的 な民族誌家のあり方自体がジェイムズ・クリフォードなどの人類学者の内部から批判 的に再検証され、同時に社会学や歴史学、文化研究といった近接領域が文化人類学的 な民族誌をそれぞれ学問領域の中で積極的に取り入れてきたという事実である。フォ スターは、85年に発表した『レコーディングス』の中でクリフォードの美術館およ び近代美術批判を、積極的に取り上げ、文化人類学と美術史、あるいは芸術的実践と の関係について考察を行っており、当然のことながら現在進行中の民族誌および民族 誌家をめぐるこうした批判的議論を意識した上で、「民族誌家としてのアーティス ト」というパラダイム・チェンジを指摘していることは言うまでもない。  しかし、フォスターが、「民族誌家としてのアーティスト」と言うとき、念頭に置 いているのは、文化人類学や文化研究における昨今の動向だけではない。彼がなによ りも意識しているのは、)ヴァルター・ベンヤミンの『生産者としての作家』(The Author as Producer)という講義録である。一九三四年にパリで行われたファシズム 研究所で行われたこの講義は、ロシア革命後の共産主義の進展、ファシズムの危機、 そしてテクノロジーの発達、アヴァンギャルド運動の展開といった当時のさまざまな 政治的、経済的、文化的な条件に対応したものである。ベンヤミンがそこで取り上げ たのは、ベルトルト・ブレヒトやセルゲイ・トレチャコフといった革命的な芸術家 だった。彼は、「生産者としての作家」と言い方によって、作家が芸術の生産手段を 取り戻すことにしていかにして「革命的労働者」になりうるのかを論じたのだった。  ベンヤミンにとって、芸術における生産関係および生産手段をこれまでどおり維持 しつつその表現の領域だけを抽出して、それに革命的な傾向を表現するだけでは不十 分だったのである。いささか異端的なあり方であるとは言えマルクス主義的な唯物論 を引き継いだ彼が重要視したのは、そこで込められる政治的な表現のメッセージでは なくその形式であり、その生産様式そのものだった。それゆえ、ベンヤミンが一貫し て構成主義的な実験を工業的大量生産に導入しようとしたソビエトのいわゆるプロダ クティヴィズム(生産物主義)の方を、原則的にきわめて伝統的な手法で農民や労働 者の姿を描き出したプロレタリア芸術よりも評価したのは、きわめて自然なことであ る。彼にとって重要だったのは、単に政治的なメッセージを含んだ芸術を生み出すこ とではなく、芸術的な実践を唯物論的な実践、つまりは生産関係と生産様式そのもの を革命的に変容することだったのだ。  「民族誌家としてのアーティスト」とフォスターが問題を形式化するのは、30年 代にベンヤミンが提示した問題―――芸術と政治との関係をどのように理論化するの かという古くて新しい問題―――今日どのように考えるのかという問題構成を引き受 けるためである。とはいえ、「芸術」にせよ「政治」にせよ、そのカテゴリーは普遍 的なものではなく時代の変化ともに変化しているものである以上、われわれはベンヤ ミンの回答をまったく無批判に今日有効なものとして受け取ることはできない。  なによりもベンヤミンが夢想した共産主義的な想像力は、ロシア革命からベルリン の壁とソビエト連邦の崩壊に象徴される一連の出来事を目の当たりにした90年代に はまったく同じ形で維持することは不可能になっている。プロレタリアートとかつて 呼ばれた革命的政治運動の担い手たちは、社会主義勢力の勃興に対抗するように発達 した自由主義圏の福祉政策とフォーディズム的生産様式の浸透によって多くは中産階 級と労働組合主導の温厚な改革主義的へと向かってしまった。その一方で資本のグ ローバル化は、かつてのプロレタリアートを国家別に編成することをやめ、グローバ ルで流動的・分散的なネットワークの中に離散させてしまった。  そして、何よりもベンヤミンが芸術的実践を通じて、乗っ取ろうとした生産関係お よび生産手段が質的に変容してしまったのである。ベンヤミンにとって、大量 生産・ 大量消費を可能にした近代資本主義の生産様式は、資本に奉仕すると同時に革命的大 衆に安価で大量の商品を提供する手段でもあった。しかし、レギュラシオン学派をは じめとする多くの経済学者が指摘しているように、今日生産と生産関係の中心をなし ているのは巨大な金融資本でありそれを支える圧倒的な情報のネットワークである。 生産物の多くは、情報化し、分散・流動化し、非物質化している。古典的な意味での 生産と生産関係が完全になくなることはないだろうが、現在ポストあるいは後期資本 主義社会に住むわれわれは、古典的な意味で生産関係を奪取することは不可能になり つつある。その時に「生産者としての作家」を無条件に想定することが難しくなる。  しかし、このことは芸術が政治的な役割を持たなくなったということを意味してい るわけではない。むしろ80年代後半以降90年代までの現代美術―――特にここで いう現代美術は先進国の美術シーンに限られるわけだが―――は、明らかに政治的な 傾向を強めつつある。一九九七年の「ドクメンタX」が「政治/詩学」 Politics/Poeticsというテーマの下で開催されたのは象徴的なことである。決して日 本の美術関係者に評判がよかったとはいえないこの展覧会は、しかし、この十年を通じて芸術が決定的に政治化されたことを如実に示していた。とすれば、ここでいう 「政治」とはいったい何だったのだろうか? それは、30年代の共産主義的な想像 力に導かれた政治とはどのように変わってしまったのだろうか。  ひとつはっきりとしているのは、80年代後半以降の芸術と政治の関係を考える上 で重要な役割を果 たしたのは、フォスターも指摘しているように、ベンヤミンが期待 を託したプロダクショヴィスト(生産主義)ではなく、シチュアショニスト(情況主 義)的な活動のあり方である。それは、もはや生産手段を奪取するのではなく、それ を借用したり盗用したりしながら一時的占拠をはかり、権力を一気に転覆するのでは く権力を一時的に脱臼させ、組み替えていくような政治的・文化的実践である。  フォスターはその代表的なものに、エイズ・パニックのあとにニューヨークで始 まったゲイの文化解放運動ACT−UPやバーバラ・クルーガーを政治的実践として挙げ ているが、これにリクレーム・ザ・ストリートやクリティカル・マスなど反道路運動 や反グローバリズムの運動を付け加えることもできるかもしれない。この運動の個別の動向については後でまた戻ってこよう。ここでとりあえず指摘しておきたいのは、 こうしたアートの政治的実践と呼ばれるものの多くが、空間的な実践とでも呼ぶべき 傾向を持っていたことである。それは、美術館やギャラリーという閉じられた空間を 抜け出し、路上にでていった。そして、その結果狭い意味でのアート関係者だけでは ない、社会的文化的文脈を獲得していったことである。 つづく