「静かに君が降る夜に」
静かな、月の無い晩だった。
たった三人の住民のほかに誰もいない、魔術師の島にそびえる尖塔の一角にある自分の部屋で、セラは眠りにつこうとしていた。
小さな子供だった頃は、添い寝をしてもらうこともあったが、今はそんなことはなく、一人でベッドの上で毛布に包まっている。
眠ろうとするのだが、先刻交わした会話が頭の中を巡っていて、容易に眠れそうに無かった。
彼女にとって大切な人は、この世にたった二人しかいない。そのうちの一人が告げた言葉が、セラに大きなショックを与えていた。
うまく考えをまとめることが出来ず、思考が縺れてきたのを自覚し、眠りにつくのを諦めて身を起こした。
夜着の上にショールを羽織り、そっとベッドから降り立つ。
ベッドサイドに置かれた燭台を手にとり、蝋燭にふっと息を吹きかけると、そこに小さな火が点った。
セラはそれを持ち、石畳の上を素足で歩いて部屋の扉を押し開け、一際冷たい空気の満ちた廊下に出た。
……少し、外を散歩して頭を冷やすつもりだった。
塔の外に出ると、夜露のついた草が足首に触れた。その冷たさが却って心地良く、セラは小さな息をついた。
(この島を、出て行こうと思う)
セラにそう告げた人は、既に意志を固めた顔をしていた。
突然の言葉に驚いて、何も口に出せないセラを見やり、相手は表情を和らげてみせたが、瞳の奥の頑なさは隠せていなかった。
(セラは、ここに残るといい。……ここにいる限りは、何が起きても安全だろう)
何が――何を、しようとしているのですか。
その問いをしたくても、言葉が喉に張り付いて、声に出すことが出来なかった。
以前から、薄々は分かっていたことだ。
あの人は……ルックは、全てに絶望していた。
止めなければいけないと思った。
なのに、何故、あの時に何も言えなかったのだろう。
その答えを、見つけることが出来ない。
海の際まで続く石畳を、俯き加減に黙々と歩き続けたセラは、馴染んだ気配を感じてはっと目を上げた。
視線の向こう、石畳の果てに、細い人影があった。
止まりかけた足を、セラは再び急がせた。
きっと、あの人は自分が来るのを知っていた。……そんな気がしたのだ。
潮の匂いが夜風に乗って運ばれていた。
振り返ると、塔は既にその姿を小さくしている。灯りは一つもなく、薄暗い中に黒々とそびえるそれは、島の名に相応しい不気味さと、寄り付き難さを備えているようだ。
石畳の果ては、海を見下ろす崖となっている。セラの目指す先にいる人物は、その傍に佇んだきり、その場から動く気配を見せなかった。
やがて、セラはその場に辿りついた。最初に考えていたよりも長い道のりを歩いたせいで、僅かに乱れた息を整えてから、セラは背の高いその人を見上げて、そっと声を掛けた。
「レックナート様……」
漆黒の黒髪を長く垂らした、優しい瞳の女性はセラを見つめ、静かに微笑んだ。
「眠れないのですか」
囁くようにそう問われ、セラは唇を噛み、俯いた。
そんな少女の様子を見遣り、レックナートは視線を海のほうへと向けた。
「そう……、やはり決めたのですね、あの子は……」
「……はい」
やはり、レックナートは全てを諒承済みだった。胸の重石を理解してくれる人の静謐さに満ちた言葉に、セラは僅かな安堵を感じて目を上げた。
「私は、ルック様を止められませんでした。言うべきことは一つしかなかったのに……」
縋るような気持ちで、セラはレックナートに一歩近づいた。
「レックナート様、どうかあの人を、お止め下さい。あなたの言うことなら、ルック様も聞き入れて下さいます」
しかし、レックナートは緩く首を振った。
「いいえ……。もう、あの子を止められる者はいないでしょう」
「そんな……」
瞳の奥に憂いを潜ませ、レックナートはセラを見つめた。
「既に決意した者は、道を遮るものを許さないでしょう。……あの子をこの道に誘い込んだのは、或いは私なのですから。ハルモニアからあの子を連れ出した私が結局絶望を与えたのだとしたら、それは魔女の名に相応しい行いなのかもしれませんね」
セラは夜着の上に羽織ったショールを握りしめ、己の足を見つめた。冷たい石畳をずっと歩いてきたせいで、足先はすっかり冷え切っている。
「セラ、あなたはどうします」
レックナートの問いかけに、セラは小さく肩を震わせた。
籠に入れられた小鳥のような、無垢で可憐な――そして熱情にも似た一途さを持つ少女を、レックナートは痛ましげに見つめた。
ルックが幼かったこの娘を魔術師の島に連れ帰ってきたときのことを、今でもよく覚えている。
何故ルックがこの少女をハルモニアから連れ去ってきたのか、その意味をレックナートは痛いほど理解していた。
ルックは、己の境遇に酷似した状況にあったこの娘を憐れんだのだろう。
自分を憐れむ代わりに、ルックはセラを慈しんで育てた。全ての物事に無関心さを装う性質のあるルックにとって、唯一の例外はこの少女の存在だった。
そしてセラにとっては、自分の世界の中で、慈しみを注いで庇護してくれる存在がルックだった。
少女から少しずつ女性として成熟しつつあるセラにとって、今やルックはただの庇護者ではなかった。
「私は、いずれあなたを外の世界に戻すつもりでした。時の止まったこの島の住人は、紋章に縛られたものだけで充分です。……しかし、状況がそれを許さないのであれば、あなたはここにいても構わないのですよ」
ルックについていく必要はない。暗にそう告げられ、セラは眉根を寄せて目を閉じた。
けれど、もう心は決まっていた。
ルック同様に庇護を与えてくれたレックナートの元を去るのは心苦しいが、ハルモニアから救い出されたあの日から、セラが取るべき道は一つだけだった。
「いいえ……レックナート様、セラはルック様に付いてゆきます」
目を開け、セラはレックナートを真っ直ぐに見つめた。
「この島を出る事になっても、ルック様のお傍がセラの場所です」
予想に違わぬ返答に、レックナートはただ黙って微笑んだ。
「……私は、あなた方を止めるべきなのでしょうね。これから、あの子の行く先には争乱と流血が待っている。そうと知りながら行かせたくはありません。けれど……」
ルックが行く事によって、世界のバランスが正しく引き戻されるのかもしれない。
大きな災いとなるルックの登場は、世界のどこかでそれを収めるべき勢力の発生を予言するものとなる。
直感でそれを知るレックナートは、愛弟子の死を予感しながら、止めることが出来なかった。
胸のうちで己の罪深さを思い知りつつ、レックナートはセラに空を指し示した。
「セラ、覚えていますか?あなたがこの島に来た日、夜空では流星群が見えたのです」
レックナートの指し示す方角を見たセラは、思わず息を飲んだ。
その瞬間、立て続けに二つの星が海に滑り落ちていったのだ。
傍らに立つレックナートの横顔をそっと見上げると、魔術師はどこか悲痛さを思わせる表情で空を見上げていた。
「せめて、あの星にあなた達の幸せを祈りましょう……私に出来るのは、それだけです」
レックナートの言葉を耳に入れながら、セラは次々と流れ落ちる星々を閉じた瞼の裏に焼付け、全ての星が流れ落ちる前に急いで願い事を思い浮かべた。
ルック様に、どこまでもついて行けますように。
彼が、彼自身の願いを叶えられるように。
セラの願いは、ただそれだけだ。
・・・THE END・・・