「温もりが欲しい夜」
 夜風が木々を揺らし、葉擦れが人ならぬものたちの言葉となって、闇の中に溶けてゆく。
 月は雲の中に隠れ、アイラのいる場所には僅かばかりの星の光しか届かなかった。
 ――アイラはそっと息を吐き、膝を抱え直して目を閉じた。


 ひんやりと夜風の冷たい夜は、人肌が恋しくなることが多い。
 その晩も、エースは一晩の恋の相手を探しに、酒場へと行く途中だった。
 上手くいけば相手のベッドに潜り込んで暖め合えるし、そうでなくても魔法の水で温まることが出来るという算段である。
 エースは独り鼻歌を歌いながら、ビュッデヒュッケ城の周りをぐるりと迂回して酒場に行こうとしていた。
 城の正面にある古びた噴水の脇を通り、角を曲がろうとしたとき、木陰にうずくまる丸い影に気付く。犬猫にしては大きなその影に、足音を自然に殺し、腰のサイに手が伸びかけた。
 が、その正体に気付いた時、エースはその手を下ろして、呆れ混じりの声を掛けることとなった。
「アイラじゃねえか。何だってそんなとこにいるんだよ?」
 城館の壁の傍に、アイラが膝を抱えて座りこんでいたのである。暗がりにじっと座りこんでいたが、声を掛けられて初めてエースの存在に気づいたらしく、俯けていた顔を上げて意外そうにエースを見た。
「エースこそ、こんな時間に何をしてるんだ?」
「俺は大人だから、これからがお楽しみの時間なんだよ」
 いつもとどこか違うアイラの様子に、エースは酒場に向けていた足を、アイラの近くへと向け直した。
 木立の陰に隠れるようにして座っているアイラのすぐ隣まで歩を進める。
「良い子はおネンネの時間だぜ」
「もう子どもじゃない」
 ぷっと頬を膨らませて反論したアイラは、すぐに表情を曇らせて視線を逸らした。
 いつもは、天真爛漫という言葉が似合うような少女である。それが、今晩は何か鬱屈を抱えているような雰囲気だった。
 本音を言えばこのまますぐにでも酒場に向かいたいところなのだが、城の外に一人きりでいるアイラを放っていくわけにはいかなかった。城の周辺には警備が立っているとはいえ、ハルモニアとの戦闘中でもあり、完全に安全とはいい難いのだ。
 自分の都合を優先して、後日クイーンやジョーカーあたりに知られたら、小言の嵐となるに決まっている。
 エースが胸の内でそんな打算をしているとは知らず、アイラは掌で地面の草を撫でていたが、ぽつりと呟いた。
「エースは、聞こえないのか?」
「あ?何がだよ」
「大地に沁み込んだ、人の苦しみとか、怨みの声が」
 問われた内容に、エースは表情を引き締め、アイラを見直した。
 アイラは顔を俯けたまま、草を撫でる手を止めずに言葉を継いだ。
「今日も戦闘があったから、その血の浴びた精霊が怒ってる……。それが聞こえて、眠れない」
「俺には聞こえないな」
 短く返し、エースは眉をひそめてアイラを見た。
「いつまでここにいるつもりだよ?いい加減部屋に戻れ。クイーンが心配して捜してるぜ、きっと」
 唇を噛み、アイラは横を向いた。
「……分かってる、そんなの」
「本当かね」
 反論しようと顔を上げたアイラは、その場から歩き出したエースの背を見ることになった。
 思わず引き止めようとして、開きかけた口を慌てて閉じる。
 黙ってエースが去るのを見送ったアイラは、溜め息を吐いた。
 ――寂しいから、怖いから。そんな理由で傍にいて欲しいと思うのは、子供のすることだ。
 アイラはそう思い、エースにここにいてくれと頼むことが出来なかった。
 それも、ただの意地っ張りなのかもしれない。
 連日の戦闘の中で、大地に怒りが満ちてゆくのを感じる。
 それは死に至った者の、絶たれた生への執着。傷つけられた者の痛み。
 それがグラスランドを駆け巡っているのを、アイラは感じ取りながら、何も出来ることはなかった。
 ただ、大人達に自分の運命を委ねているだけだ。
 その歯がゆさが、アイラを焦らせる。
 エースは大人だから、そんなことを感じることはないのだろうか?
 アイラはぼんやりと考え、心細くなって膝を強く抱えた。
 こちらに向かってくる足音を聞きつけたのは、その時だった。
 腰に下げた短剣を探り、その柄を握り締めて前方の闇を凝視したアイラは、それがエースだと知ると、安堵の溜め息を吐いて柄を握った手を離した。
 よくよく見ると、エースは片手に何か持ってこちらに向かってくる。
 それが何かを見極める前に、エースはアイラの傍に戻ってきて、それをアイラに向かって差し出した。
「ほらよ」
 アイラは目の前に差し出されたそれをまじまじと見つめた。
 取っ手のついたマグカップから、湯気が上っている。
 「熱いぞ」と注意を受けながら受け取り、中を覗き込んで、アイラはしかめっ面を保つのに一苦労した。
 熱いホットミルクを、わざわざエースは持ってきてくれたのである。
 アイラの傍らに、僅かに距離を置いて同じように腰を降ろしたエースは、自分は携帯用の小瓶の栓を抜いて何かを口に含んでいる。
 アイラがじっと見つめているのに気付いたエースは、にやりと笑った。
「これはお子サマにはあげられねえよ」
「誰がお子サマだっ!」
 口ではそう返したものの、アイラはそれ以上抗弁せずに、貰ったマグカップを両手で抱えて、表面に一度息を吹きかけてから、そうっと口をつけた。
「……甘い」
 中に蜂蜜が入っているらしく、僅かな甘味が夜風に冷えきっていた身体に心地良かった。
 その様子を、エースは複雑な面持ちで見つめている。
 一旦酒場に行き、ホットミルクを注文している間に、やはりアイラを捜していたクイーンを見つけ出してその所在を告げ、「あんたがこんなものを頼むなんてねえ」と酒場の女主人に冷やかしを受けながらミルクを受け取って、アイラの元に取って返したのだった。
 もう既に、一夜の相手探しは諦めている。
 クイーンに、アイラの面倒を見るように頼まれたから、ここに戻ってきたわけではなかった。
 今日、自分が戦いの場で見てきたものを、アイラが感じ取っていると知ったとき、今夜はこの少女に付き合ってもいいという気紛れを起こしたのだった。
 自分にとっては、人肌があの光景を忘れさせてくれる、一番の妙薬なのだが。
「たまには、仕方ねえな」
「ん?何だ?」
「いーや、別に」
 無心にマグカップの中のミルクを飲んでいるアイラを見て、エースは苦笑いした。
 こんな子供には、人肌よりこちらの方が充分効用があるだろう。
 そう思い、エースは小瓶に入れた酒を喉に流し込んだ。
 隣で酒(らしい)を呷り飲むエースを見て、アイラは上手く言葉に出来ない違和感を覚え、改めてその横顔を見直した。
 普段、小隊の中でふざけてばかりいるエースの姿とは、また違った雰囲気のような気がしたのだ。
 だが、それがどう違うのか分からないうちに、アイラは小さな欠伸を漏らした。
「おい、ここで寝るなよ」
 目敏くアイラの様子に気付いたエースにそう声を掛けられ、アイラはまた出そうになった欠伸を噛み殺した。
「分かってる。……もう部屋に戻るよ」
「まさか送っていけとは言わないよな」
「言わないよ!」
 思わず声を上げてしまったアイラは、にやにやと笑っているエースの顔を発見し、その横腹に手を打ち付けてしまった。
「ってえなあ……」
 顔をしかめて横腹を擦ったエースは、ぱっと立ち上がったアイラの表情が先刻より晴れていることを確認し、手を差し出した。
「何だ?」
「マグカップ。酒場から借りてきたもんだからな、返しておかねえとまずいんだよ」
「あ……いいよ、私が明日、洗って返しておく」
「そうか?」
「うん」
 視線が合ったまま、アイラは何か言おうとした。が、エースが先に口を開いた。
「もう寝れそうか?」
「……分からない。でも、多分」
「そうか。じゃあまあ、試しに寝てみろよ」
「うん……」
 伝えたいことはあったが、エースがそれを言わせまいとしていることを察し、アイラは違うことを口にした。
「おやすみ、エース」
「おう」
 片手を挙げたエースに見送られ、アイラは小走りに自分の部屋に向かった。
 ――今なら、安心して眠れるかもしれない。
 蜂蜜入りのホットミルクのおかけで、身体が温もっていた。
 
 エースはアイラの姿が城の入り口に消えるのを視線で見送って、城の壁に背を凭れかけさせた。
 また一口、酒を飲む。
 夜は長い。小瓶の酒を飲んだら、酒場で仕切り直すのが良さそうだ。仲間と騒ぐのもいいし、たまには一人で飲むのも悪くはない。
 そんな事を考えながら、エースは星の瞬く夜空に目を向け、瓶に残った最後の酒を飲み干した。



 ・・・THE END・・・