「抱きしめて」
 それまでの疲労が蓄積していたらしい。
 自室に籠もっていたクリスは、長椅子でいつの間にか寝入ってしまっていたようだった。
 そのことに気付いたのは、自分の目尻に何かが触れる感触がした時だった。
 はっとして目を覚ますと、すぐ目の前にはパーシヴァルの静かな表情があった。
 疾風の騎士は長椅子の傍に膝をつき、クリスの目尻に指を添えていたが、すぐに手を離すと、何事もなかったかのように微笑を浮かべた。
「起こしてしまいましたね」
「パーシヴァル……、いつからここに…」
 咄嗟に状況が飲み込めず、目を見開いてまじまじとパーシヴァルを見た。
「今しがた来たばかりですよ。ノックしてもご返答がないので、失礼ながらお邪魔させて頂きました」
 言いながら、パーシヴァルは長椅子の向こうに視線を投げた。クリスもつられてそちらを見る。視線の先にあった窓から見える空の色は、既に茜色だった。
「もうこんな時間か…」
「皆で夕食を取る予定になっていましたので、呼びに参ったのですよ。起きられますか?」
「体調が悪いわけではないから、大丈夫だ。……少し、疲れていただけだ」
 クリスは小さな吐息を漏らすと、身を起こした。
 パーシヴァルは床に膝をついたまま、じっとクリスを見上げている。
 居心地が悪いわけではないのだが、何となく落ち着かない気持ちになり、クリスはパーシヴァルから目を逸らした。
「……何だ、パーシヴァル」
「ああ、いえ……。落ち着いてクリス様のお顔を拝見するのは久し振りなもので、つい目が離せなくなりまして」
 夕日に赤く染まる室内にいて良かったと、クリスは思った。でなければ、頬の赤みを誤魔化すことは出来なかっただろう。
 しかし、こうしてパーシヴァルと改めて対するのが久し振りなのも事実だった。
 ブラス城からナッシュと共に出奔してから、慌しく六騎士と再会したのは、つい先日のことだった。それからも断続的な戦闘や、シックスクランとの協議に追われ、ビュッデヒュッケ城に移動してきてからもこうしてゆっくりと自室で過ごす時間すら取ることはできなかった。
 現在も緊迫した状況に変わりはないのだが、暗黙のうちに、クリスには暫しの休息が与えられていた。
 ――クリスの手に宿る、真の紋章がその理由だった。
 波打つような水紋がそれ自体淡く浮かび上がるその紋章は、クリスがシンダル遺跡で継承したものだった。
 その時の事情も鑑みて、クリスには僅かでも休養が必要と判断されたのだった。
 有難い配慮ではあったが、逆に忙殺されていたほうが忘れていられることもあるのも事実だった。
 ゆっくりと時間が過ぎる中で、まざまざと思い出してしまうのだ。その時の、出来事を。
 ……不意に、パーシヴァルに右手を取られ、クリスは身体を硬くした。
 今は手袋も外し、肌を晒したその手の甲には、水を司る紋章がうっすらと発光している。
 思わず手を引こうとして、そっと包む込むようなパーシヴァルの仕草に、動きを止めた。
 微動だにせず紋章を見つめた後、パーシヴァルは紋章の上に触れるか触れないかの口付けを落とし、そっと手をクリスに戻した。
 そして、クリスの顔を真っ直ぐに見て、変わらぬ笑みを見せた。
「無事に帰ってこられて、良かった」
 その穏やかな笑みに胸が痛み、クリスは唇を噛んで俯いた。
「皆には、心配と迷惑ばかりかけてばかりだな」
「ただお帰りをお待ちしていただけですよ。重荷に思われる事はありません」
「重荷などと……」
 言い差したクリスの言葉を、パーシヴァルは常にないほどの柔らかい笑みで封じ込めた。
 その眼差しに、仲間の下に帰ってきた安堵を感じる。
 ナッシュには世話になったと思うが、やはり気が知れて、警戒を解いていられる相手は、六騎士の――例えばパーシヴァルだった。
 ほっと息をつくと同時に拭いきれない疲労感も甦ってきて、クリスは眉間に皺を寄せた。
 それに気付いて、パーシヴァルが気遣わしげにクリスを見やった。
「もう少し、休まれた方がいいのでは?」
 しかし、クリスは首を振った。
「いや、大丈夫だ。皆が待っているし、すぐに行く」
 しかしだるさを隠しきることは出来ず、クリスは立ち上がる気力の湧かないまま、吐息した。
「分かりました」
 パーシヴァルが頷いたのを見たくリスは顔を下に向けかけて――、いきなり身体が宙に浮かび上がる感覚に、思わず小さい悲鳴を上げた。
「パーシヴァル、おっ、降ろせっ!」
 いきなり、パーシヴァルが強引にクリスを横抱きに抱きかかえ上げて、その場に立ち上がったのである。
 思わずパーシヴァルの首に腕を回してしがみつきかけて、クリスは一気に上気した顔で間近にある男の顔を睨みつけた。
 まったくクリスの言葉を聞かぬ顔で、パーシヴァルは続き部屋になっている寝室へと足を運んでいる。
「聞こえませんね」
「パーシヴァル!!」
「ちゃんと寝台で、睡眠をとられたほうが良いですよ」
「自分で歩けるから、降ろせっ」
 すると、パーシヴァルはそれまでの柔和な笑みではない、微かな苛立ちを込めた笑みを整った顔に浮かべた。
「クリス様、ご存知ですか?私は、これでも怒っているんですよ」
 パーシヴァルの穏やかな口調と台詞のギャップに、クリスは息を呑みこんだ。
 パーシヴァルは、先ほどより険しい表情になっている。
「もう少しご自分の健康について自覚された方が良いとは思いませんか?疲れきっていて、立ち上がることもままならず、部屋に私が入っても気付かないほど眠り込んでいる。――それに、ご自分が眠りながら泣いていた事にも気付いておられないようですね」
 はっとして、クリスは己の目の際に手をやった。しっとりとした涙の名残をそこに感じ、全身が羞恥で熱くなるのを感じた。
「……さっき、私は泣きながら眠っていたのか?」
「ええ」
「……」
 クリスは俯いて、男に寝台の上に降ろされるまで、何も喋ることが出来なかった。
 クリスを丁寧な動作でシーツの上に降ろすと、パーシヴァルは黙って踵を返し、部屋を出て行こうとした。
 力のこもらない手を伸ばしてクリスはパーシヴァルの衣服の裾を辛うじて掴み、すぐに手を離した。
「すまない。……すまない、パーシヴァル、心配をかけて」
「私のことはお構いなく」
 そっけない言葉の裏に隠されたパーシヴァルの真意を汲めないほど、クリスは愚かではなかった。
「すまない……」
 パーシヴァルは肩越しにクリスを振り返って見て、苦い笑みを覗かせた。
「私の方が、無礼をお詫びするべきなんですよ」
 パーシヴァルはクリスに向き直り、長身を折るようにして屈みこむと、クリスの頬についた涙の跡をそっと指で拭った。
 クリスは目を伏せ、戸惑いながらも、パーシヴァルにされるままに、涙を拭われていた。
 その丁寧な指の感触に、先刻夢の中で出会った父の姿が脳裏に甦った。
 幼い日、出征する父に泣いて縋り、行かないで欲しいと駄々をこねた時、父は困ったように笑いながら、同じようにクリスの涙を拭い取ってくれていた。
 そして、大きな体で包み込むようにしてクリスを抱きしめてくれた。
「すぐに帰ってくる」
 そう呪文のように耳元で繰り返された言葉は結局果たされることなく、再会までには十年以上の月日が必要となった。
 クリスは唇を噛み締め、自分の右手の上に左手を重ねて、きつく握り締めた。
「私が欲しかったのは、こんな紋章じゃなかった……」
 ふと漏らされた言葉に、一瞬、パーシヴァルの手が止まった。
「私は、ただ……」
 ――ただ、父に抱きしめて欲しかっただけだ。
 俯いて自分の手を見つめていると、その上に熱い水滴がぽたり、と落ち、それが己の涙だと知るまでに、数秒が必要だった。
 あの日のように、父の匂いにすっぽりと包まれて、その声を聞きたかっただけだ。
 それだけの望みのために旅をしたにもかかわらず、その終焉に出会ったのは父の最期だった。
 空気の動く気配に顔を上げかけて、クリスは目を見開いた。
 パーシヴァルの両腕がクリスの肩に回されて、やんわりと、しかし躊躇はなく抱きしめられていた。
「失礼、クリス様」
「パーシヴァル……」
 無理に振りほどこうという気は起きなかった。クリスは目を閉じ、堪えきれずに嗚咽を漏らした。
 パーシヴァルではなく、今は、父に抱きしめて欲しかった。
 叶うはずもない想いを持て余し、それをパーシヴァルに告げることも出来ずに、クリスは止まることのない涙を、頬に流し続けたのだった。



 ・・・THE END・・・