「愛しい」
 一日中子守りをしてきた子供が、やっと寝息を立て始めてくれたのを確認して、ジンバはそっと安堵の息を吐いた。
 肩まですっぽり包むように毛布を掛けなおしてやる。鈍い金色の髪を撫でてから、その側を静かに離れた。
「――やっと寝付いたようだね」
 隣の部屋で手酌で酒を飲んでいたルシアが、ジンバが戻ってきたのに気付いて低く声を投げかける。
 それに応えて、僅かに苦笑して見せた。
「族長のご子息は活発に過ぎて、俺の手には負えんよ」
「助かったよ。私も今日は、あの子の面倒をみてあげられそうも無かったからね」
「ジョー軍曹は、いつ戻ってくるって?」
「明後日には帰ってくるさ」
 普段なら、族長の息子であるヒューゴの面倒はジョー軍曹がみているのだが、その彼がダッククランに使いに出される事になって、その間の子守りをジンバが引き受ける事になっていたのだった。
 五つの男の子の好奇心は旺盛で、ジンバはヒューゴが朝に目覚めてからつい先刻まで、子供に振り回されっぱなしで、くたくたにされていた。
 ルシアと軍曹の躾の賜物だろう、聞き分けのいい子供ではあるのだが、やはり女の子とは違うものだな、そんな想いが浮かびそうになって、ジンバはそれを振り払った。
「それじゃ、俺は失礼するよ」
「ああ、待ちな。礼にもならないけど、良かったら付き合わないか」
 ルシアが手元の酒瓶を持ち上げて示した。
 暫し考えてから、ジンバは若き族長の申し出を受ける事にした。


 互いの杯に交互に酌をして、ジンバとルシアは酒に口をつけた。
 二人の側には明かり取りの蝋燭が炎を揺らめかせて燃えている。
 家の外では、夜の草原を駆けて来た風が草をざわめかせているのが聴こえていた。
 静けさの満ちた夜に、お互いの杯が酒瓶に当たる音だけが響いている。
 ルシアとジンバは向き合って座したまま、つまみも無い酒をゆっくりと味わっていた。
「また、きな臭くなってきたよ」
 先に口を開いたのはルシアだった。
「いつものことだけどね。鉄頭どもの動きが、このところ活発になってきてる」
「おそらく、評議会の方で議員の選出があるんだろうな。政治的な思惑が絡むと、いつも騎士団が動かされるのさ」
 どこか苦々しげな響きのするジンバの台詞に、ルシアは顔を上げて男の横顔を見遣った。
「その言い草、どちらの肩を持っているんだい?」
 揶揄するような族長の言葉に、ジンバは眉を寄せて杯の酒を飲み干した。
「分かりきってることを…」
 ルシアはうっすらと笑い、男の杯に酒を注いでやった。
「良い男は、つい苛めたくなってね」
「どうせ、俺が鉄頭の肩を持ったら、即刻首を切るつもりでいるんだろうに」
「それは、勿論。可愛い息子の傍に、そんな物騒な奴を置いてはおけないからね」
 ルシアはヒューゴの眠る隣室に視線を投げ、不意に表情を和らげた。
「あの子の膝にあった傷、鳥の巣を見ようとして木の枝から落ちたんだって?」
 そのときのことを思い出して、ジンバは溜め息をついた。
「ああ。あの程度の傷で済んでよかったよ」
「危なっかしくって、目が離せないよ」
 そう言いながらも、ルシアはどこか嬉しげだった。
 普段、他人を容易に傍に寄せない威厳を備えた族長としての顔を見慣れた眼には、それは新鮮に映った。
「――母親だな」
「なんだい、唐突に」
「いや。あんたは、いい母親だよ」
「そうありたいと、いつも思っているよ」
 ルシアは酒を口に含み、意味ありげに笑った。
「今日は随分と感傷的じゃないか。昔の自分を思い出したのかい、ワイアット?」
 とうに捨てた名で呼ばれた刹那、ジンバは険しい表情を作ったが、すぐにいつもの穏やかさを取り戻した。
「その名は、口にしない約束だ」
「悪かったよ」
 さらりと謝罪したルシアは、ジンバの内心には取り合わぬ様子で、酒を飲み続けている。
 ジンバは、そんなルシアを渋い顔で見た。図星を差された不快感を、酒と共に胸の奥に流し込む。
 ヒューゴを見ていると、どうしても過去に置き去りにした少女の姿が目に浮かぶ。
 環境も、性格も、性別も、何もかもが違っているのに、ジンバを慕って足にすがる姿が、過去の情景と重なって見えるのだった。
 違いすぎるからこそ、比べて考えてしまうのだと自覚して、ジンバは自嘲気味に笑った。
 あの少女に、父親を名乗ることなど、今さら出来はしない。
 ルシアのように常に傍に寄り添って見守ることもせず、保身のために娘を捨てた父親だった。
 その時には他に選択肢はなかったといえ、その報いは、こんな形で返ってきている。
 愛しいと、告げることのかなわぬ身だった。
 深く息を吐き、ジンバはルシアに向かって苦笑いした。
「今夜は飲まないと眠れそうもないよ」
 何もかも承知しているという風情のルシアが笑みを返す。
「酔い潰してから、介抱してやるから安心しな」
「敵わないな、族長には」
「ヒューゴの隣に寝かせてやるさ」
 隣室で寝ている子供を起こさないよう、二人はそっと笑い、互いに酒を注ぎ合った。
 杯に満たされた透明な液体をやや眺め、それをジンバは苦い思いと共に飲み込んだのだった。



 ・・・THE END・・・