リレー小説 第五回 

 

 ―― ドゴォォオン!


 耳を劈く爆発音と共に、不気味な振動が足を通して伝わってくる。赤い火柱を孕んだ黒煙が瞬く間に天を突き、ほとんど闇一色であった視界を夕焼け色に染め上げる。
 私は視線を空から、“前”へと移した。赤く照らされた漆黒の海がうねりながら、どこまでも広がっていた。
「チェックメイトです。イズミ・トヨグチ………………それとも、コードネーム“クリアー”と呼んだ方がいいですか?」
…………。」
 背後からかけられた声に、私は半身だけで振り返った。別に驚くには値しない。“彼”の接近になど、遙か前から気がついていた。
『ねーねー、イズミぃ。返事してあげなくていいのぉ? 久々のヒットマンだよぉ?』
 うるさい、黙れ。静かにしろ。
 脳内ではしゃぎ回る“やかましい隣人”に、私は念じるように罵声を浴びせる。そんなお気楽な相手ではないのだ。
 私にはそれが解る。解ってしまうから―― 命を狙われる。
……この爆発は、貴方の仕業?」
「ちょっとした陽動です。別に沈みはしません。……己の目的は貴方の身柄の確保なんで、邪魔が入ると困るわけです」
……そう」
 わぁ、結構好みのタイプかも!―― 頭に響く同居人の声に、私はつい舌打ちをしてしまいそうになる。毎度の事ながら、この女とは本当にソリが合わないと思う。
『好みのタイプなら、ミカエル。貴方が相手をする?』
『えー、やーよ。面倒くさい。手足縛って身動き出来ないようにしてくれたら交代するよ』
 手足を縛られて身動きが出来なくなった好みのタイプの男に私の体を使って一体何をするつもりなのか。考えるのもばかばかしい。
『だったら、黙ってて』
 私は、ゆっくりと男の方へと全身を向ける。背後には腰の高さほどの鉄柵。その向こうは漆黒の海。そう、ここは船の先端―― 逃げ場など無い。
 ……相手にもそう見えてればいいのだけれど。
『あっちゃー、大ピンチ! 美少女スパイ豊口維澄、絶体絶命!!って感じ?』
 誰が美少女スパイだ。いいから黙ってて―― 脳内で吐き捨てて、私は男と対峙する。この男が一体何者なのか、私は何も知らない。けれども、何を考え、何を狙っているのかは解る。
 思考感知能力―― それが私の能力。そして命を狙われる理由でもある。
「抵抗しないんですか?」
…………。」
 生臭い潮風には硝煙と何かが焦げたような匂いが混じり、酷く不快なフレーバーと化していた。仕事柄硝煙の匂いには慣れっこだけど、潮風と混じるとこんなにも嫌な匂いになるのか。
 ちょっとだけ勉強になった。
『イズミぃ、シャワーあびたいよぉ』
 暢気な声を出す同居人を無視して、私は目の前の男に意識を集中する。男の目的、それは私の身柄の確保だ。男の武器、それはオートマチック式とリボルバー式の拳銃が一丁ずつ。それとナイフも所持している―― そこまでは読める。
『いーからさぁ、てきとーにちゃちゃっと殺っちゃおうよ』
 同居人は無茶な事を言う。そもそも私の能力はあくまで諜報向きであって、戦闘向きではない。それでも、“撃つと解っている拳銃の弾”を避けるくらいの反射神経はある。
…………。」
 動揺も、迷いも私には無い。
 何故なら、これは私にとっても願ってもない状況だからだ。

 

 

 


 

 

 

 豪華客船アヴァリティア号。全長約六百メートル、幅百十メートル、高さ九十メートル、排水量は約三十五万トンと、文句なしの超大型の豪華客船だ。しかしその実態は非合法の裏カジノ船であり、一晩で動く金は軽く億を(しかもドルで)超えると言われている。ここよりもハデな賭けをしたいのならば、それこそ賭博都市と名高いニューベガスに行くしかないと言われる程の船だ。
 そんな船に潜入しろとボスに命令された時、もし私が思ったことをそのまま口に出す人間であったならば間違いなく「はぁ?」と声を裏返らせていたことだろう。私とギャンブル、これほど相性の悪いものもなかなか無いからだ。……私がギャンブルを嫌っているのではなく、ギャンブルが一方的に私を嫌っているだけなのだけれど。
 とにもかくにも、私はボスの一声で世界最大の豪華客船へと潜入する事になった。その目的は豪華な休暇でも要人の暗殺でもなく、“右手の手がかりを追え”というものだった。
 右手―― その単語が示すものは当然ただの右腕ではない。“企業”に属するものならば誰しも噂くらいは耳にしている―― それでいて誰一人真相を知らない―― ある意味タブーと言っても差し支えない代物だ。
 私個人の正直な気持ちとしては、そんなものには絶対に関わりたくなかった。けれど、ついこの前もボスの命令を無視して単独行動をしてしまった手前(最終的にミッション自体は成功させたとはいえ)、さすがに今度もまた拒否というわけにはいかなかった。……板挟み、下っ端の辛いところだ。
 ボスが言うには、件のカジノ船の顧客の中に“右手”の手がかりとなる人物が紛れ込んでいるらしかった。ただ、それが誰なのか、男なのか女なのかも解らない。だからこそ“クリアー”が指名されたと、つまりそういう流れだった。
 仕方なく船に潜入してこっそり情報収集すること一週間、ボスが言っていたような“右手”の情報を知る人物なんてその気配すらもつかめなかった。右も左もただ裏カジノを楽しみに来た成金共だらけで、夜な夜な開かれる狂った趣向目白押しのパーティに私はもう食傷気味だった。
 私が“曲者”の存在に気がついたのは、そんな頃だった。カジノ側の人間ではない、成金共とも明らかに違う、異質なオーラを持つ何者が船の中に混じっている。しかもどうやらそいつの目的は私らしい。でも、その正体がどうしてもハッキリとつかめなくて、結局我が身を囮にしておびき出すしか手が無かった。
 夜。船内の巨大ホールで成金共がこぞってチップをかけ、乱交じみたパーティを繰り広げる中、私は人気の無くなった甲板の船首部分で“彼”を待った。そして起きた爆発―― どうやら私の意図は伝わったらしいと、半ば安心したくらいだ。

 私の能力は、相手との距離が狭まれば狭まるほどに効果を増す。こうして互いの顔が確認できる程の距離にまで接近すれば、相手の目論見を全て読みとる自信があったのだけれど。
 ……読めない。こんな事は初めてだ。まるで深い闇の底を覗いているようだった。
「そう簡単に何もかも読ませたりはしませんよ」
 まるで私の心を逆に見透かしたかのように、男は微かに首を傾げ、耳から下がる奇妙な形のピアスをキラリと光らせる。
「“マインドガーダー”―― 己から漏れる“心の声”にジャミングをかけさせてもらってます。…………まだ試作品でどれほど効果があるのか怪しかったんですが、その顔を見るに、効果は十分のようですね」
 まさかそんなものまで用意しているなんて。道理で“曲者”の看破に手間取るわけだ。
……チェックメイト、か」
 一体こいつはどこまで私の事を知ってるんだろう。不気味な相手だけど、折角掴んだ手がかりの尻尾だ。ここでむざむざ手放すわけにはいかない。ここで逃げるくらいならば、そもそも誘き出した意味がない。
……ねえ、私を殺す前に一つだけ聞かせて。……貴方は、“右手”の関係者?」
 この手のタイプは冥土のみやげをくれるものだと相場が決まっている。完全に追いつめたという自覚があれば、口も軽くなるはずだ。
「ここには、“右手”はありません。……貴方という鯛を釣り上げる為に己が流した偽の情報です」
……罠、か。……じゃあ、ついでにもう一つ。貴方は一体どこの誰?」
「質問は一つじゃなかったんですか?」
「良いじゃない。どうせ口封じするんでしょ? だったらもう一つくらい教えてよ」
「大人しく捕ってくれれば、そこまではしません」
 ちっ、と私は舌打ちをしそうになる。思った通り、厄介な相手だ。ただの悪党なら、ここで調子に乗ってぺらぺら喋ってくれる所なのに。
 しかも、大人しく捕まれば殺さない?―― 古今そんな事を言われて大人しく捕まった奴なんて居るわけがないだろうに。…………その貴重な最初の例となる事にちょっとだけ魅力を感じたりもするけれど、さすがに実行には移せない。
 でも、こいつの目的が“暗殺”じゃなくて“捕獲”なのはどうやら間違いなさそうだ。
 だったら、やりようはいくらでもある。
…………人生、諦めが肝心、か」
 不意に、そんな言葉が口から漏れた。それはもう殆ど口癖―― 私の数少ないポリシーと言ってもいい言葉だ。
 ちなみにもう一つのポリシーは“生活が第一”。趣味は貯金だ。
「それは大人しく捕まる、ということですか?」
「冗談」
 私は鼻で笑う。
「貴方から情報を引き出す事を諦める……そして貴方も、私を捕まえるのは諦めろって事。……ミカエル!」
 私は叫ぶと同時に、右目を手で覆い隠す。そう、それが“私”と“ミカエル”が切り替わるスイッチなのだ。カラーコンタクトをしている左目を隠せば私へ、逆を隠せばミカエルへと強制的に人格をチェンジする事が出来る。
『あっ、ちょっ……タンマぁ! まだ心の準備がぁ〜〜〜〜!」
 ミカエルの叫びは、途中から肉声へと変わる。これで立場は逆、私はただの傍観者。
…………成る程、貴方が“ミカエル”ですか」
 どうやら相手は私が二重人格である事まで知っているらしい。となると―― マズイ。いくら何でも情報が漏れすぎだ。ひょっとしたら負けるかもしれない。
 がんばれミカエル。
「うるさーーーーーい! 気が散るからちょっと黙ってて!」
 それ、さっき私が散々言った事だし。少しは私の気持ちが分かったか。
『あと、そいつ水が苦手みたい。だから――
 この身を晒してまで読んだ“弱点”をそっとミカエルに耳打ちする。
「ガッテンしょーちぃ! とぉ!」
 ミカエルは嬉々として声を上げ、鉄柵に手をつくやぴょんと飛び越えてしまう。
………………!」
 男の顔が、明らかに固まった。そう、そうだよね。そうなるよね、うん。
 私はミカエルの作戦に満足した。
「ほらほらぁ。ワタシを捕まえたいんでしょぉ?」
 ミカエルは鉄柵を挟んで男と対峙したまま、片足を上げて踊るようにして挑発する。一応言っておくとミカエルが一歩足を踏み外せば私も彼女も海へ真っ逆さまだ。
 ……だから、あまり調子に乗るな、ミカエル。
「ただ殺せって任務なんだったら、背後からその拳銃でずどん、で終わりだもんねー? 身柄を抑えたいって事は、ワタシ達に死なれちゃ困るんでしょぉ?」
「くっ…………
 “主人格”でない今、私の能力には若干の制限がかかる。それでも、男が間違いなくおいつめられている事は伝わってくる。
「ほらほら、鬼さんこちらっ、手のなるほー…………きゃあっ!」
 その時だった、調子に乗りすぎたミカエルが波飛沫で濡れた足下を俄に踏み外した。男の顔がぎょっと引きつり、慌てて手を伸ばしてくる。
 かかった!―― と、私とミカエルは同時に思った。
「“フリーズ”!」
 その刹那、ミカエルの能力“オーダー”が発動する。相手の隙や油断を狙ってフラッシュライトのような閃光を浴びせ、“命令を打ち込む”能力だ。
 “本物”ではない彼女は、本来の能力が劣化したものしか使う事が出来ない。しかしゼロコンマ秒で決着がつく戦闘中において、相手を一方的に行動不能に出来る彼女の能力は圧倒的だ。
「アッハー! ザマぁ無いね、おにーさん! チェックメーイト、だよ!」
 ミカエルは踏み外した(フリをした)足を再び甲板の端へと戻すや、ぴょんと蹴って鉄柵の内側へと着地する。眼前には、全身を硬直させたまま男が無防備に立っている。
『やっぱり、思った通り。……あのピアスもオーダーは防げない様ね』
 さっき、この男は“漏れる心の声にジャミングをかけている”と言った。確かにそれが可能ならば正確な思考感知は不可能だ。……でも、ミカエルの“オーダー”はそれとはまったく違う原理で作用する。
 防げるわけはない―― そう思ってたけど、内心結構ハラハラしてたのは内緒だ。
「んでぇー、どうする、イズミぃ。…………このまま殺っちゃう?」
 ミカエルの問いに、私は即答できなかった。この手の刺客には、今まで幾度と無く襲われた。当然、自衛のために手を汚した事もある。
 でも――
『そこまではしなくていい。……とりあえず気絶させて、拘束したあと――
 私がそこまで口にした時だった。男が、にぃと不適な笑みを浮かべた。
「マイ・フェア・レディ……
 男の呟きは、そう聞こえた。忽ち男の体から光が迸り、全身を包んでいく。
『ミカエル!』
 一瞬の出来事に、私はそう叫ぶのがやっとだった。男の体を包む光が、ミカエルの拘束をリセットするのを肌で感じた。
 と、同時に。
『避けて、右!』
 私の言葉に反応して、ミカエルが咄嗟にバックステップをする。刹那秒前まで私の顔があった辺りを男の拳が凄まじいスピードで駆け抜けていく。
 ヤバッ。あんなの食らったら、一発でオチちゃう。
『ミカエル、一端距離をとって!』
 間違いない。この男も何らかの“能力者”だ。しかもピアスとは関係無しに“オーダー”の支配をキャンセルするなんて、このまま至近距離でやり合うには不確定要素が大きすぎる。一端距離をとって、能力の特性を計らないと――
………………?」
 私の指示通りにミカエルは男から五歩分ほど距離をとり、身構える。が、男は私たちを追うどころか、何やらその場に頭をかかえてしゃがみ込んでしまった。
「う、ううぅ…………な、何だこれは……指輪が、勝手にっ…………バカな……や、止めろ……!」
 一瞬、私たちを油断させる為の演技だろうかと思った。しかしそれにしては無防備すぎる。今ならスカートの下の太股にこっそり装備している護身用の小型拳銃で簡単に撃ち殺す事も出来そうなほどに、男は完全に混乱状態に陥っていた。
『何……指輪が、光ってる……?』
 男の指にはまっている指輪の一つが赤く輝き、まるでその光と干渉しあっているかのようにピアスからも赤い火花のようなものが散り――
「わわっ!」
 突如、パンッ、と。軽い音と共にピアスが砕け散ってしまった。代わりに、とでもいうかのように、指輪の方は毒々しいまでに赤い光を放ち始める。
『あっ……ヤバッ……
 私の呟きに、ミカエルは素早く反応した。男の様子に意識を奪われすぎた。この私が、“足音”を直に聞くまで接近に気がつかなかったなんて。
……おい、なんだお前等……!」
「まさか、さっきの爆発はお前達の仕業か!?」
 びしっと黒のタキシードを着こなした大柄な男達が、どやどやと私たちの周りを囲むように駆けつけてくる。しかもご丁寧にその手に持ってらっしゃるのは明らかにサブマシンガンの類。どう見ても“カタギのお客様”ではない男達の外見にミカエルも顔を引きつらせる。
……ちょっとぉ、イズミぃ。いくらなんでも警告が遅すぎぃ」
 ごめん、と私はミカエルのぼやきに素直に謝った。予め男達が接近することが解って居れば、一端身を隠した後突如姿を現して驚かせ、全員一斉にオーダー発動―― というコンボで難なく切り抜けられた筈なのだ。
 しかしこんな、警戒心バリバリの状態ではオーダーは効かない。現在のこのピンチは100%私の落ち度だ。
……ヤバい。みんな殺す気満々…………死んだかも』
『そんなにヤバい? 謝っても許してくれそうにない?』
『無理無理』
『スカートたくし上げながらあなた達の好きにしてぇ〜! ってお願いしてもダメそう?』
『無理だって。……あ、一人はなんとかなりそう。だけどやっぱダメ、そんな事したら私があんた殺す』
 頭の中で下らないやりとりをしている間に、私たちを囲む環はさらに重厚なものになる。
 あーあ、短い人生だったな。楽しいこともあんまり無かったけど、自分のミスで死んじゃうんだからしょうがない。
 人生諦めが肝心、うん。やっぱりこれは至言だ。
「んっ、なんだてめっ……がフッ……!」
 なんまんだぶ、なんまんだぶ、と頭の中で念仏を唱え始めていた私の耳に、不意にそんな悲鳴が飛び込んできた。
「おい、動くな!」
 振り返ると、先ほどまで頭をかかえて蹲っていた男の姿が見あたらない。変わりに、またどこかで黒服の悲鳴。
「悪漢か、お前ら悪漢だろう、そうだろう? いたいけな少女一人を武器を持って囲むとは、卑怯者め!」
 続いて聞こえてきたのは、ひどく楽しげな“男”の声だった。ひゅんっ、と風をきるような素早さで再度別の黒服の目の前まで接近するやいなや、凄まじい速さでその右拳を振り抜く―― ぐはあ、と悲鳴を上げて黒服の体が宙に舞う。
「見たか、正義の鉄拳!」
 アッパーカットを打ち終わったままの姿勢で寝言を言う男を見逃すほど、黒服の皆さんは人が良くは無かったらしい。すぐさま陣形を立て直すと、男目がけて一斉にサブマシンガンをぶっ放した。
 タタタタタ!―― 夜の闇を、銃口の光が断続的に引き裂き、そこら中に弾痕を刻んでいく。が、男は目にも止まらぬ動きで右に左にとそれらを交わし、瞬く間に黒服達との距離を詰め片っ端から殴り飛ばしていく。
 ……なんか拳が光ってるように見えるのは目の錯覚なんだろうか。
「わー、スゴいすごい。がんばれー」
 棒読みで応援しながら、ミカエルはこっそりと物陰へと身を隠す。私も彼女の―― 元は私のだが―― 目を通じて、男のあり得ない動きを見て感嘆の声を漏らしていた。
「な、何だコイツ、速すぎる!」
「ぐぁっ……ば、バカ! 銃は止めろ! 同士討ちになる!」
「とにかく捕まえろ! 腕でも足でもいいから捕まえるんだ!」
 そんなこんなであの手この手で頑張った黒服さんも残り四名弱になると及び腰になり、蜘蛛の子を散らすようにどこかに行ってしまった。逃げたわけではない、多分増援を呼びに行ったのだろうと推測していると、不意に男が私たちの方を振り返った。
……大丈夫かい、お嬢さん」
「おじょ……
 ぞわわわわ〜〜〜〜〜!
 ああ、そうそう。ミカエルはこの手の男にからっきしなんだった。全身に鳥肌を立てながら、ミカエルはまるで汚物でも投げ渡すかのように「ゴメン、パス」と呟き、左目を隠した。
「えーと……助けて、くれたのよね?」
「か弱い少女を悪漢共から守るのは男の義務だ」
 うわー。
 うわー。
 ミカエルじゃないけど、私も全身に鳥肌が立った。何この代わり様。ホントにさっきまでと同じ人?
……ひょっとしてさぁ、この人もワタシ達と同じなんじゃない?』
『うん。私も今その可能性を考えてた所』
 多重人格の能力者。眼前の男を理解するのにこれほど便利な言葉は無かった。
……なんかさ、ヘンな薬が完璧にキマった、って感じ。……ワタシらって、周りから見たらこんななのかな?』
…………。』
 すこし私は凹んだ。違うと思いたかった。
「さて、いまのうちにここから脱出するぞ」
「えっ、ちょっと……だ、脱出って?」
 男は無言でびしっ、とある方向を指さした。指の先を辿ると、救難用のボートがロープに釣られているのが見えた。
「ま、待って! 私は一人でも大丈夫だから!」
「何を言う。こんな悪党共の巣に女の子一人残して行けるわけないだろう」
「いや、えーと……本当に一人なら大丈夫なんだけど……
 私の思考感知能力とミカエルの“オーダー”があれば、この世の中に潜伏出来ない場所など無い。こんな得体の知れないキチ○イに連れられてボートで波間を彷徨うよりは、船底にでもこっそり隠れていた方が命の危険は――
「あ、マズッ……さっきの奴らが戻ってくる……
 今度は、“足音”よりも先に察知した。私は、同じミスは二度とやらない主義なのだ。いつものように私は身を隠し、ミカエルにチェンジしてオーダー、のコンボを決める―― 筈だった。
 そう、私は身を隠そうとしたのだ。けれどもそれは、私の腕を掴んだままの男によって見事に妨害された。
「居たぞ!」
「バケモノめ!」
 そう口々に叫ぶ黒服の皆さんの装備は明らかに強化されていた。うわー、それもしかしてバズーカってやつでは? えっ、そっちの人はまさかロケットランチャー?
 そんな馬鹿な。いくらなんでも船の上でそんなもの使ったりは――
「って、本気ぃ!?」
 “感知”のレンジを広げ、黒服達の“本気”をいち早く感じ取った私は、ついそんな呟きを漏らしてしまった。
「いかん!」
 男が叫んだのと、黒服達がその手に持っている火器の引き金を引くのは殆ど同時だった。男は私の体を抱えたまま、鉄柵を飛び越える―― その瞬間、轟音とともに凄まじい爆風が私たちの体を襲った。
「ぎゃあっ!」
 爆風に煽られ、何かひどく堅いモノが頭にぶつかり、私は急速に意識が遠くなるのを感じた。
『あーあー、イズミちゃん。ばいばいー』
 まるで人ごとのように言うミカエルに何かを言い返そうとして、結局言い返すよりも先に私は意識を失った。

 

 


 

 


 波の音が聞こえる。
 体中が痛くて、口の中がちょっとじゃりじゃりする。あと、すっごい喉が渇いてる。
 とにもかくにも、私が意識を取り戻したのは、そんな外部刺激と肉体的欲求からだった。
『あ、イズミぃ。起きたー?』
……ん、起きた。…………私どれくらい寝てた?』
『さー? 一晩くらい?』
 ミカエルは惚けているのか、それとも本当に知らないのか、私の頭の中で首を傾げるばかりだった。そういえば、私が気絶すると彼女はその間どうなっているのだろうか。
「んっ…………痛つつ…………
 私はそっと体を起こしてみる。夜が明けて、太陽がもう結構な高さにまで登っている。どうやら私の体は砂浜に打ち上げられていたらしい。衣服は当然海水でびしょぬれで、さらに下着の内側まで砂が入って気色悪い事この上なかった。
「あー……
 違和感を感じて、私はスカートの下、太股に固定しているホルスターへと手をやるなり、そんな声を上げてしまった。どうやら拳銃は波に攫われてしまったらしい。不幸中の幸いはポーチとその中にいつも携帯しているサバイバルキットが無事な事だろうか。
…………うーわ、携帯もダメになってる。完全防水の筈なのに」
 携帯も、完全に機能が死んでいた。よく見ると、小さな金属の破片のようなものが液晶部分に見事に突き刺さっていた。そこから海水が侵入してダメになってしまったらしい。
 恐らくは“爆発”の際に飛んできた破片だろう。全身を調べてみても、私が食らった破片はそれ一個のみらしかった。一個しか当たらなかった破片がピンポイントで携帯を破壊するなんて、いつもの事ながら泣きたくなるほどの運の悪さだ。……それともこれは、体に当たらなかった事を喜ぶべきなんだろうか。
……ヤバいよ、ミカエル。装備ほとんど死んでる。どうしよう?』
 私は脳内に居る同居人に尋ねてみたが、返事らしい返事は帰ってこなかった。ただ、何やら小声―― 脳内でのやりとりなのに小声というのも変な話だが、とにかく巧く聞き取れないという意味で小声なのだ―― ぶつくさ呟くのみだ。
…………あの男、何者だったのかな」
 間違いなく手練れ―― ではあった。頭の中身はともかく、マシンガンで武装した連中を相手に素手で殴り勝っていたのだから。
 私はふと気になって、周囲を見回してみた。が、一緒に海に落ちた筈のあの男の姿は何処にも見あたらなかった。ただ、白い砂浜が延々と広がっているのみだ。
…………ひょっとして、死んだ……かな?」
 思い返せば、あの男、水を極端に怖がっていた。ひょっとするとカナヅチだったかもしれない。
…………ナンマンダブ、ナンマンダブ」
 一応は命の恩人、という事になるだろうか。生きているか死んでいるかはともかく、もし死んでいた場合の事を考えて、私は海に向かって手を合わせて簡素ながらも念仏を唱えた。私たちを恨むのは筋違い、恨むなら船上で重火器などぶっ放した黒服達を、ときちんと付け加えておく。
…………とにかく、ボスと連絡とらなくっちゃ。あぁ、そのまえに何か飲むモノ……
 サバイバルキットには、飲料水の類は入っていない。簡易濾過装置つきのビンならあるけれど、泥水用で海水には使えない。幸い、漂着した場所からいくらも離れていない場所にいくつかの椰子の実が落ちていた。良かった、これならキットに入っている道具で中身を飲む事が出来る。
「ぷはぁっ、生き返ったぁ」
 温くて、しかもお世辞にも美味しいとは言えない椰子のジュースだけど、喉の渇きだけは癒せた。私はさらにもう一つ椰子の実に穴を空け、中身を飲みながらキットの中の乾燥栄養食でお腹も満たした。
 そうやって私が生きるために必死な間も、ミカエルはずっと一人でぶつぶつ呟いていた。空腹で、しかも喉が渇いていた時はそんな事に構っていられなかったけど、お腹も(ある程度は)満ちて喉の渇きも潤った今、私を無視して独り言ばっかり呟いているミカエルにだんだん腹がたってきた。
「ねえ、ミカエル。何か私に文句でもあるの?」
 返事はなかった。無視されたのだと思うと、余計に腹が立った。
『ちょっと、ミカエル!?』
 私は肉声ではなく、念話の方で強くミカエルを問いつめた。ミカエルと話をするのはどちらでも可能だが、念話の方は声量を気にしなくて済む分気兼ねなく“大声”を使えるのが利点の一つだ。
………………うん、やっぱりイズミに隠しておくのは無理だと思うよ。素直に自己紹介しちゃいな』
『ちょっと。さっきから何言ってるの?』
『あー、あのね、イズミ。ショックだと思うから、気を強く持ってね。できればちょっと心臓叩いてマッサージしといたほうがいいかもしれない』
『だから何を言って……
……あの、初めまして』
 えっ―― と。
 突然頭の中に聞こえた“男”の声に、私は文字通り絶句した。
『ほらぁ、やっぱり驚いた』
『驚かせてしまってすみません。…………己は音子。岩田音子といいます』
 間違いない。頭の中に響くのは、昨夜の男の声だった。私は咄嗟に周囲を見回し、さらに耳にイヤホンの類がついていない事を確認する。
……ミカエルさんと話をした結果、どうやらこれからしばらく厄介にならないといけないみたいで……よろしくお願いします』
『そんな……
 全身から力が抜け、私は砂浜の上にぺたりと座り込んだ。

 

 


 

 

 自慢じゃないけど、私はとても運が悪い。
 クジと名の付くものは今まで一度も当たりを引いた事がないし、おみくじに至っては大凶と凶しか引いたことがない。
 ロシアンルーレットなどやろうものなら、最初の一発目で間違いなく実弾を引き当てる自信がある。思えば、“こんな力”を持って生まれてしまったのも、運の悪さの成せる技かもしれない。
 思考感知能力。テレパシーの類の能力なんだろうけど、テレパシーと決定的に違うのは“受信専用”だということ。つまり相手の考えてる事は解るけれど、こっちの意志は伝えられないのだ。
 幼い頃はコレのせいで本当に苦労した。能力の制御が出来なかった私はとにかく手当たり次第に周囲の人間の思考を読んでしまったのだ。その結果両親はノイローゼになってしまい、程なく他界。私自身も施設行き。“異能者”を探す“企業”にスカウトされて、あとはお決まりのコース。まぁ、そこまではよくある話だ。
 私が極めつけに運がないと思わされたのは、“アイツ”を植え付けられた事―― そう、ミカエルだ。元を辿れば、ミカエルというのは私の仕事先の同僚の名だ。何度か組んで一緒に任務をやった事もあるけれど、基本的に嫌な女だ。自分本位というかなんというか、多分彼女の能力にも関係があるんだろう。とにかく人の迷惑を顧みない奴なのだ。
 とにもかくにも、ミカエルは同僚で、そして私と同じ異能者だった。私が感知系の能力者であるのに対し、彼女は自分の命令を他人に強制的に植え付ける能力の持ち主だった。
 そんな彼女の暴走事故に、ある日私は巻き込まれた。
 そう、私が二重人格となってしまったのはその時からだ。私の中に植え付けられたもう一つの人格“ミカエル”は医者の話では通常一週間もすれば消滅する筈だった。現に、他の被害者の中に現れたミカエルは一週間で消えた。しかし何故か私だけ定着してしまったのだ。医者は原因不明だと言っていたが、どうも私の能力のせいらしい。
 かくして私は厄介な同居人との共同生活を送るハメになってしまった。医者はお手上げ状態だし、肝心のミカエル本人に至っては私の中の自分と顔を合わせるのがよほどイヤなのか、近づきもしない。なんとも迷惑な話だった。
 ちなみに私の中のミカエルは性格はオリジナルそのまま、しかもオリジナルより劣化するとはいえ“能力”まで受け継いでいた。それは結果的に私自身の価値を底上げする事にはなったのだけど、そんな事を望んでいない私としては迷惑千万な話だった。
 ぶっちゃけ、自殺を考えたのも一度や二度ではない。なにせ自分の行動を常に第三者に見られているようなものなのだ。食事中も、排泄するときも、夜中にムラムラしてこっそりオナニーする時も全てミカエルに見られているわけだ。
 紆余曲折があったとはいえ、結果的にそんな生活に慣れる事が出来た私もまた、ある意味では異常者であるのかもしれない。人間というものはどんな劣悪な環境でも慣れるものなのだ。
 そう、どんな劣悪な環境でも、人間は慣れる事が出来る。出来る筈……なのに、今度ばかりはさすがの私も慣れる自信が無かった。

『へー、じゃあ、ネコさんは別に多重人格ってワケじゃないんだ』
『はい。…………アレは、なんていうか……不測の事態……いわば、“事故”です』
 私は浜辺に呆然と座り込み、ただただ海を眺めていた。その間、頭の中ではミカエルがネコから“事情聴取”を行っていた。私はそれを、まるで興味のないラジオでも聞くように聞き流していた。
 ネコというのは、ミカエルが勝手につけたらしい音子のあだ名だ。どうも本人は“ロック”と呼んで欲しいみたいな事を言っていた気がするけど、私がぼーっとしてる間に“ネコ”が定着してしまっていた。
『残念ながら、己には己の記憶が全て残っているというわけではないんです。……何となく自分が誰であるのかは解るけど、たとえば子供の頃の記憶を言え、と言われると答えられないっていうか……体感、己の記憶はオリジナルの四割程度しか無い感じです』
『うんうん、ワタシもその感覚は解るよぉ。たださ、わかんないのは、どうしてイズミの中にネコさんの人格が芽生えちゃったのかって事なんだよねぇ』
『それは己にも解りません。……ただ、推測は出来ます』
 人の頭の中でいつまでくっちゃべってるんだこいつら―― 私は呆然と海に沈む夕日を眺めながら、そんな事を思った。
……あの時、突然能力が暴走して……指輪から意識が逆流を――
 お腹空いたなあ。そういえば浜辺についてから、その辺に落ちてた椰子の実と、サバイバルキットの中に入ってた乾燥栄養食しか食べてないや。
……恐らくは試作品のピアスに使われていたレアメタルと己の能力が干渉し合って――
 そもそもここは何処なんだろう。まさか無人島? 無人島にケータイも無しに置き去り? そんな、私ってこう見えて結構インドア派なのに、今夜はこのまま野宿しなきゃいけないワケ?
『ふんふん、なるほどねー。……って、こらー、イズミー? 現実逃避してないでちゃんと聞きなさいよー?』
 うるさい、ばか。そもそも誰のせいで私がこんな目に遭ってると思ってるのよ。
『維澄さん、突然の事で混乱するのはよく分かります。しかし、ここはお互いのために貴方にも協力を――
 うるさい、うるさい。黙れ、バカ。これは私の体なのよ。なのにどいつもこいつも勝手にズカズカ上がり込んできて。私の体はチャットルームじゃないっての!
……あー……イズミってば大分お疲れのよーね。ちょっと交代しよ』
………………。』
 確かに、私は疲れていた。肉体的にも、そして精神的にも。ミカエルの提案を無視する理由も見あたらなくて、私は黙って右目を隠して、主導権をミカエルに譲った。
「はい、どーもー。みんなお待たせ、ミカちゃんでーっす!」
……すごい。そうやって人格を入れ替える事が出来るんですか』
「そだよぉ。最初はもっとこう、なんていうかぎこちなかったんだけどさ。サインを決めて、それに体を慣らしていったの」
『成る程。…………という事は、ひょっとして己も切り替わる事が出来るんでしょうか?』
「やってみるー?」
『やるな。誰の体だと思ってるの』
 さすがに黙っていられなくなって釘を刺すと、ミカエルは「ケチ」と呟いてぶうと頬を膨らませた。
「ねーねー、イズミぃ。どっか近くに水場無ぁい? 体中がベタベタして気持ち悪いんだけどぉ」
………………多分、あっち。結構歩くと思うけど』
 私はぶっきらぼうに水場らしきものがあるだろう方角を示した。私の能力は基本的に人間、或いはある程度の知能がある生物にしか使えない。が、それは裏を返せば動物、そして植物に対してもある程度までは使えるという事だ。平たく言えば、“水が多い場所”くらいの情報は植物相手でも聞き出す事が出来る。
 ミカエルは私の誘導に従って浜辺を離れ内陸部へと移動する。浜辺を少し離れるとそこはもう森の中のようで、日が暮れかけている事も相まって視界は殆ど効かなかった。
「イズミ、ちょっとサポートよろしく」
 返事も返さないうちから、ミカエルはずんずん森の奥へと進んでいく。こういった“生物”が豊富な場所ならば、それこそ私は自分の能力を使って目を瞑っていても何にもぶつからずに歩く事は出来る。主人格をミカエルに渡している今、私の能力には制限がかかるものの、その程度のサポートなら特に問題は無かった。
 しばらく歩くと、岩場に囲まれた湖のような場所に出た。水は濁っておらず殆ど透明に近い。十分な明かりさえあればきっと湖底まで透き通って見えただろう。
……うん、大丈夫。真水だし、飲めそう」
 ミカエルは湖の水を軽く手で掬い、匂いを嗅いだ後軽く舐め、そんな事を呟く。一応念のためサバイバルキットから水質検査用の紙片(見た目はリトマス試験紙にそっくり)を浸し、毒物反応が出ないことを確かめる。見た目やしゃべり方はバカっぽいけど、彼女だってきちんとやることはやるのだ。
「水浴びするよ。……いいでしょ?」
 普段の彼女なら、そんな事をわざわざことわってきたりはしない。なのにわざわざことわってきたのは、ことわる必要があったからではなく、そうする事で私に“第三者”を意識させようとしたのだろう。
 その目論見に乗せられるのも癪だから、私はどうぞと即答してやった。
「ヒャッホゥ! 気ン持ちイィー!」
 ミカエルは忽ち衣類を脱ぎ捨て全裸になるや、湖の中へと飛び込んだ。
 ……今が初夏で良かったと、今頃になって思う。そもそも冬だったら、多分海に投げ出された時点で死んでいただろう。
…………すみません。なるべく見ないように努力します』
……別にいいよ。減るものじゃないし』
 心底申し訳なさそうな声に、私はぶっきらぼうに返した。“彼”に関する事はまだよく解らないけど、ミカエルと似たような存在なのだと仮定すると、間違いなく私の視覚情報は彼にも流れている。
 つまり、見られているのだ。私の体を、全部。
…………ここでキャーとか言えたら、かわいげもあるんだろうけどね』
 つい、そんな皮肉を口にしてしまう。ミカエルと同居するようになって、生活の全てを見られてきたせいか、どうも私は羞恥心というものが薄いらしい。だからといって全く平気というわけでもない。なんといってもミカエルは女―― 同姓だったから我慢できたという部分も大きい。
 ああ、そうだ。これからは“彼”にも全てを見られなければならないのだ。食事も、排泄も、全て。
 そのことを考えて、私はとてつもなく憂鬱な気分になる。本当にもう、いっそ死んだ方が気が楽かもしれないとさえ。
 これでも一応華の十代なんだぞ。畜生。何が悲しくて、自分の全裸とプライベートを見ず知らずの男に全公開しなくちゃいけないんだ。
……本当に申し訳ないです』
 そんな私の気分は、当然彼にも伝わる。それを悪いとは、あまり思わない。そもそもここは私の体だ。勝手に入ってくる方が悪いのだ。
「ねーねー、イズミぃ」
……何?』
「オナニーしてもいーい?」
『はぁ!?』
 ミカエルは時折、突拍子もない事を言い出して私を驚かせる。けど、それにも限度があるというものだった。
『いきなり何言い出してるのよ! ダメにきまってるでしょ!』
「だってぇ。なんかムラムラしてきちゃって。……ストレスが溜まってるのかも?」
 ミカエルのストレスに対する耐性の無さは本人譲りだ。それは解ってるけど、いくらなんでも……
…………とにかく、今日は我慢して』
「我慢できそうにないから、シちゃうよぉ?」
 くすくすと含み笑いを漏らしながらミカエルは水から上がり、大きな岩の上へと腰掛けると徐に足を開く。月明かりに照らされて、体中についた水滴がキラキラと輝き、濡れた恥毛の光沢までもがはっきりと視界に入ってしまう。
『ちょ、ちょっと、止めてよ!』
 何度も言うけど、普段からこの女と同居状態にある関係上、私は大抵のことには驚かないし、動じない自信がある。あるけど、それでもやっぱり限度というものはある。
 私はあらんかぎりの声で制止を促した―― が、ミカエルは意地の悪い笑みを浮かべたまま行為を続行する。
「んんっ……乳首、立ってるぅ……んんっ……!」
『ちょっ……やだ、み、ミカエル! 本当に怒るわよ!?』
 水が少し冷たかったからか、確かにミカエルの言う通り少しだけ乳首が立ってしまっていた。それをミカエルは左手の指先でそっと摘み、くりくりと転がすようにして弄り始める。
 自分の体ながら、私は胸が無い。洗濯板とまでは言わないけれど、“揉む”なんてことは殆ど不可能だ。ただ、その代わり乳首自体はわりと敏感らしい。だから、一人でする時はいつもそこを弄って気分を高めたりするわけだけど――
「んっ、はぁっ……見られてるって思うとぉ……興奮しちゃうっ……んぅ……ねえ、ネコさぁん……ちゃんと見てるぅ?」
 どうやらミカエルは別の方法で興奮を高めるつもりらしい。
 左手で乳房を、そして乳首を弄りながら、右手を股ぐらへと這わせ、ミカエルは涎が絡んだような声で呟く。
……なんて答えればいいのか……。これは……情報を拒絶できないんですか?』
……私の事なら気を使わなくていいよ。こいつはこーいう女なんだから』
 そう、止めろと言ったからといって止めるような女じゃないって事くらい、最初から解っていた。はあ、と私は(あくまで副人格として)ため息をつく。“主人格”から“副人格”への強制的な主導権委譲はできるものの、逆は出来ないのが悲しい所だった。
「あぁぁんっ……はぁはぁ……ネコさぁん……んっ……ほらぁ、見えるぅ?」
 ミカエルは足を開き、背を丸めるようにしながら自らの秘裂を指で割り開き、のぞき込む。勿論それは、ネコに見せる為だ。
「ピンクでキレーでしょぉ? イズミったらね、まだ誰ともエッチしたことないのよ? ほーら、奥に処女膜が――
『ちょっと……いい加減にしないと本気で怒るわよ!』
「良いじゃない、ちょっとくらい。……ねぇ、ネコさん?」
……己にふらないでください』
 心底困っているような“声”だが、その実、どこか浮ついたような声だった。そう、困っているというのはただのポーズで、実際にはこの状況を楽しんでいるかのような。
 所詮、コイツも男か。
「はぁはぁ……あぁあんっ……ほらぁ、ネコさんがそんなに見るからぁ……コーフンして濡れてきちゃった。……イズミったら、セックスは未経験だけど、オナニー覚えるのは早かったのね。すっごく濡れやすくて……んぅっ……こうやって、クリを触ると……あんっ!」
『ミ・カ・エ・ルぅ〜〜〜?』
 くちゅ、くちゅ。
 にちゃ、にちゅ。
 くちゅっ。
 静かな水辺に、ミカエルの喘ぎ声に混じってそんな水音が響く。私はもう地団駄を踏みたい気分だった。
「あぁんっ! あんっ……! やだ、ぁ……腰、ビクンって勝手に跳ねちゃう! はぁはぁ……ね、ほら……スゴいでしょ? 本気汁出まくりなのぉ」
 ミカエルは人差し指と中指に蜜を絡め、目の前に持ってくるとにゅぱぁ、と開いてみせる。指の間に白く濁った幕が張る様を私たちにたっぷりと見せた後、ミカエルはふふふと笑って自ら指をしゃぶった。
「んんっ、んぷっ……んんっ……はぁはぁ……指じゃイヤぁ……チンポぉ……ネコさんのチンポ舐めさせてぇ……!」
 ミカエルはもう、完全にネコをダシに自慰を楽しんでいた。そして悔しがれば悔しがる程、恥ずかしがれば恥ずかしがる程に余計にミカエルを楽しませるだけだから、私はもうひたすらに無視をすることにした。
「ね、お願い、ネコさぁん……ネコさんの逞しいチンポで、ミカエルの処女膜破ってぇ……!」
…………弱ったな』
 まんざらでもなさそうね、と。思わず皮肉を言いたくなるような声だった。そうしている間にもミカエルの自慰ショーは続き、喘ぎ声が加速度的に荒くなる。
「あぁんっ、あンッ! ネコさぁんっ……あぁんっ……ぁんっ、ネコさんのチンポぉ……チンポ堅くてすごく良いぃ! はぁはぁ……イくっ……イくぅっ! あぁんっ! イクッ……イクッ……イクッ……ぅう!!」
 ミカエルが体を痙攣させ、腰をビクンビクンと跳ねさせながら絶頂に達する。その余波が私にまで伝わってくるのが腹立たしかった。
…………こっちが欲求不満になりそうです』
 使われているのが自分の体で無ければ、ひょっとしたら私も無責任にそう思ったかもしれない。
「はぁー……はぁー……ねぇ、イズミぃ。……どうだったぁ?」
『あんたを殺してやりたくなった』
 私は素直に思ったままの感想を口にした。アハッ、と。ミカエルは楽しげに声を上げて笑う。
「でもさー、元気出たでしょ?」
 元気? コレを元気と呼んでいいの?
 どう考えても“憤怒”なんだけど。
……イズミが元気出た所でぇ、いーこと教えてあげる。巧く行けば、ネコっちも自分の体に戻れて、さらにさらに、イズミの“本当の願い”が叶うかも知れない、ちょービッグチャンスの話。聞きたくない?」
……ミカエル、それ……本当なの?』
 “本当の願い”―― そのことに関して、私に冗談は通じないという事を、彼女ほどよく分かっている者は居ない。
『本当の願い? なんですか、それは』
「うふふー、まだネコっちには内緒だよ。…………ねえイズミ、興味あるでしょ?」
……聞かせて』
 ひょっとしたら、全てはやさぐれていた私に、その話を真面目に聞かせるための彼女の作戦だったのかもしれない―― 私はふと、そんな事を思った。

 

 


 

 

『能力を……奪う、能力?』
 たき火を起こし、洗った服を乾かしながら、私はミカエルの話を聞いた。その内容の大部分は、今日の昼から夜にかけて彼女がネコから聞いた話―― そして私が呆然として聞き流していた話だった。
『はい。……確かに、それが二つある己の能力の一つです。……さらに言えば、奪った力を、一度だけ自分のものとして行使する事が出来ます』
……能力を奪われた方はどうなるの? 死ぬの?』
『死にはしません。ただ、二度と能力が使えなくなります』
…………。』
 確かに、ミカエルの言うとおりだ。ネコの能力を使えば、私の悲願は叶えられるかもしれない。
「ん? ……考えてみたらさ、ひょっとしてワタシ達の中にネコっちの意識体が入ってきちゃったのも、何か別の能力なんじゃないの?」
 ミカエルはいつのまにか“ネコさん”ではなく“ネコっち”と呼び始めていた。ネコも特別気にしてないのか、特につっこんだりもしない。
『それはありえません。少なくとも己が覚えている限り、己のストックの中にはそんな能力は存在しなかった筈です。…………先ほどミカエルさんとは少し話をしましたけど、己の推測では、このような自体になったのは維澄さんの能力が関係してるんじゃないかと』
……私のせい?』
『あの時、己はミカエルさんの能力の影響下から逃れるために、“奪う方”ではない別の能力を使おうとしました。事実、それで拘束からは抜け出せたのですが……その時、突然“指輪”と“ピアス”が干渉を始めてしまって……
『それは私も見た。……なんかバチバチって、火花ちらして破裂してた』
『その時、己は指輪から―― ……指輪に能力を封じた相手のイメージが逆流してくるのを感じて……気がつくと自分ではない何かに意識を乗っ取られてました。……そうですね、丁度今、維澄さんの体の中からこうして外を見ているのと同じような感覚です』
『それがどうして私の中に移ってくるわけ?』
……多分……頭をぶつけたからではないかと』
『はぁ!?』
 確かに、あの時。爆風に煽られた拍子に頭を何かにぶつけた記憶はある。けれど、そんな事で意識まで移ってきたりするものだろうか。
「イズミってば、感じやすいからー。頭ぶつけた拍子にうっかり中身コピっちゃったんじゃないー?」
……あんたのオリジナルじゃあるまいし。意識体をそんなに簡単につけたりはったりできるかっての』
 否定しながらも、私には薄々心当たりがあった。そう、ミカエルの暴走事故の後、同じように“ミカエル”を植え付けられた他の被害者達は、皆一週間程度でその意識が消滅しているのだ。
 つまり、今も彼女が私の中に留まっているのは―― やっぱり、医者の言う通り、私の能力のせいだと考えるのが妥当なのかもしれない。
 となると、むしろネコは私の能力の被害者―― と言えなくもない、のかな。
……ってことは、今、ネコっちの“本体”の方にも、ネコっちの本来の意識ってあるのかな?」
『己がコピーであれば、その可能性もありますけど…………己としても“自分”が今一体どういう状態なのかはは一刻も早く確認したい所です』
……ちなみに、そもそも最初、ネコっちはどうしてイズミを攫おうとしたの?」
 ミカエルは時々、話の流れを意識せずに自分が訊きたい事をストレートに尋ねる事がある。この場合、私も少し興味があったから、あえて口は挟まなかった。
『さぁ……。己は所詮クライアントの使い走りですから。“本体”に戻れれば、ハッキリと理由は分かるんでしょうけど……今は思い出せません』
 なかなか駆け引き上手だなコイツ―― そう思ってしまうのは邪推だろうか。情報を得たければ、己を元の体に戻せ―― どうしても私の耳にはそう聞こえてしまう。
『ネコ、話を戻すわよ。…………貴方の“本体”は今何処にいるの?』
 あの状況だ。“本体”は既に海の藻屑―― という事も十分にあり得る。
 しかし、ネコは自信たっぷりに答えた。
『幸い、海の藻屑にはなっていないようです。何となくですが、本体の気配のようなものを感じます。多分維澄さん達と似たような場所に漂着している筈です。……少なくとも、“己の仲間”には拾われてません』
『その根拠は?』
『もし仲間との合流に成功していたら、己の状態がどうであれ体勢を立て直す為にも一度塒へと戻っている筈です』
『なるほど、ね。じゃあとにかく、ネコのオリジナル―― 本体を探すのが当座の目標って事か』
 私はネコを追い出したい。ネコも自分の体に戻りたい。表向きの利害は一致している。
「一応、ボスに“現状”を報告して指示を仰ぐって手もあるわよ?」
 答えなど最初から分かり切ってるだろうに、ミカエルが余計な茶々をいれてくる。
『冗談でしょ。“右手”の情報も得てないのに、敵の罠にかかって漂流しちゃいましたー、しかもまた新しい人格が定着しちゃいましたーなんて言ったら、今度こそラボ送りにされて帰ってこれなくなっちゃうわ。あんたの時だって結構ヤバかったんだから。……第一、連絡手段が無いじゃない』
 尤も、偽情報に引っかかったのは私ではなくボスの方なのだから、私の方には非はないという見方もある。……けれど、それも変な話だ。あの金勘定にうるさくて、猜疑心が背広着てるようなボスが、こんな見え透いた嘘情報に引っかかるものだろうか。
……もし、そういう方針をとるつもりなら、己は一切の協力は出来ません。己の気がかりはあくまでオリジナル―― 己自身が今どうなっているか、ですから。…………杞憂に終わればいいんですが、下手をすると……
 ネコは思わせぶりに言葉を切り、そのまま黙り込んでしまう。
「んじゃま、とりあえず人捜しは明日からってことで。今夜はもう寝ようよぉ。いっぱいオナって疲れちゃった」
…………体と髪をちゃんと乾かして、たき火も消して、サバイバルシート使って寝るのよ』
「んー……めんどくちゃい。イズミおねがい」
 ミカエルは左目を隠し、無理矢理私に主導権を渡してくる。仕方なく、私は自分が言った通りに処置をして、木陰に寝床を作って眠ることにした。
『わぁー、見て見てイズミぃ。星がキレーイ!』
 ミカエルの声に促されて見上げると、寝床に選んだ常緑樹の葉の切れ目の向こうには、まるで銀色の砂を蒔いたような夜空が広がっていた。その中でも特に星々が密集して帯のようになっている部分は天の川と呼ばれるのだと―― まだ私が幼かった頃、両親が絵本の挿絵を見せながら教えてくれた。
 そういえば、あれは何の絵本だったんだろう―― こうして夜空を見上げるたびに気にはなるけれど、どうしても思い出す事が出来ない。
…………岩田音子……っていったよね」
 夜空に掛かる銀色の橋のような星々の帯を見上げながら、私は不意に呟いた。
……はい、そうですが』
……ってことは、“日本人”だよね?」
………………そう、ですね。…………維澄さんも……
「うん」
『ワタシはアメリカ人デース!…………で、それがどうかしたの?』
 全く空気を読まないミカエルの叫びで、私はそれ以上話を続ける気を無くしてしまった。失われた心の空白―― ひょっとしたら、同じ日本人のネコなら、何か知っているかもしれないと思ったのだけれど。
 ……やっぱり止めた。知り合ったばかりの相手に、昔読んだ絵本が何の本だったか思い出せないなんて相談、出来るわけがない。
「疲れた……眠い、寝る」
 ぶっきらぼうに呟いて、私はサバイバルシートにくるまり、横になった。そんな私の頭の中で、まるで小声で囁くようにネコの声が聞こえた。
…………あの、維澄さん』
「なーに?」
『眠る前に一つだけ聞かせて下さい。先ほど言った、貴方の“本当の望み”というのは――
「んー……内緒。ネコが自分の体に戻れたら教えてあげる」
 別にもったいぶるほど大したことじゃないのだけれど、言ったら絶対“どうして?”ってしつこく聞き返されそうだから、私ははぐらかす事にした。
 ネコも、それ以上は追求してこなかった。

 

 

 


 

 


 どうやら“私たち”が漂着したのは無人島などではなく、人が住むそれなりに大きな島か、或いは半島の一部だったらしい。
 翌朝、ネコの本体を探して森のさらに奥へと入っていった私たちは、そこで人が住んでいる痕跡―― 詳しく言えば明らかに人が往来して出来たと思われる“道”を発見したのだった。
 道があるのならば人も居る筈だと、ネコだけが感じられる気配を辿っていくと、程なくいくつかの人家が見えてきた。
『村……いや、町か』
 木々の切れ目からの眺めに、ネコがそんな呟きを漏らす。私たちが漂着した場所とは別の海岸に面したその港町は確かに村などという規模ではなかった。石造りの家が段々畑のように並び、港には交易用の船がいくつも停泊していた。
「随分と古びた町並みね。…………“企業”の手は間違いなく入ってなさそう」
 何故なら、この町には“荒廃”も“戦火の爪痕”も無い。まるで中世の頃から変化を止めてしまっているような町並みは、ある意味異様なものに私には思えた。
 そう、この光景を普通だと感じるには、私の目は荒廃した町並みに慣れすぎていた。
…………間違いない。この町のどこかに己のオリジナルは居ます』
……人口ざっと五千人から一万人ってところかな。ま、頑張って探し出せない数じゃないか」
 情報収集ならばお手の物だ。こういった不特定多数の人間から広く浅く情報を集める事は私の得意分野の一つだ。
………………ただ、そういう情報の集め方、って滅茶苦茶疲れるのよね」
 ボヤいていても始まらない。とにもかくにもこれは私にとっても千載一遇のチャンスなのだから。
 町中へと紛れ込むのは、そう難しい事ではなかった。町の中は多種多様な人種がわんさとひしめき合っていて、誰も私に対して“よそ者”を見るような目を向けてこなかった。
 私はわざと人混みの中を歩いて情報を集める事にした。私の故郷に伝わる話では、創世期に実在したらしいナントカ大使とかいう外交官(?)は十人の話を同時に聞き分ける事ができたそうだ。しかし今の私はそれこそ百人、二百人の話を同時に聞かなければならない。その中からさらに有益そうな情報を探すとなると―― こんな風に酷い頭痛に襲われるわけだ。
『がんばれー、イズミー』
 ミカエルの棒読みの応援がさらに頭痛を悪化させるけど、挫けてなどいられない。だけど、さすがにこれはキツい。脳みそがチリチリと悲鳴を上げて、両目がきゅーーーって奥の方に引っ張られる感じがして、鼻血まで出てきた。さらに目眩と吐き気が両方いっぺんに襲ってきて、立っているコトすらもできなくなる。
「うーっ………………ダメ、吐きそ……ちょっと休憩」
 私は“能力”を遮断し、手近な路地の影に逃げるように飛び込むと、そのまま酒樽の上へと腰を下ろした。別に酒樽が好きなわけではない。最も手近な椅子がそれしか無かったのだ。
『しかし……便利な能力ですね。維澄さんが何故“企業”にスカウトされたのか、よくわかる気がします』
 多分それは何気ない―― 特に意識すらしていない。下手をすればちょっとした褒め言葉のつもりの、他愛のない日常会話の一つだったのだろう。
 うん、解る。それは解る。解っているつもりなんだけど―― 私は、かちんと来てしまった。
……ネコ。今……“便利”って言った?」
『え、えぇ……はい……違うんですか?』
………………。」
 多分、二年―― いや、三年前の私だったらここでキレて怒鳴り散らしている所だった。けれど幸いなことに、今の私には癇癪を抑えるだけの分別がある。
…………ネコ、イズミに謝ったほうがいいよ』
「ミカエル、余計なことはいわなくていい」
 私は口元を抑えながら、掠れるような声で言った。あんなに大量の人間の思考を同時に読み込むなんて、それこそ数年ぶりの大仕事だ。能力を遮断して尚、目眩と吐き気が収まらない。下手に口を開けばそのまま胃の中のモノを全部戻してしまいそうだった。
…………すみません、維澄さん。勝手に分かったような事を言ってしまって』
……いいって。…………私が大人気なかっただけだから」
 背の低い人間には背の高い人間の気持ちは分からない。逆に背の高い人間には背の低い人間の気持ちは分からない。
 ただ、それだけの事だ。

 休憩を挟みながら“情報収集”を続けてはみたけれど、それらしい情報は何も得られなかった。ひょっとしたらネコの言っていたことは全てデタラメではないかと、私が疑い始めた―― まさにその時だった。
……悲鳴!?」
 背後。路地裏のさらに奥の方から甲高い女性の悲鳴が聞こえて、私は咄嗟に振り返った。日の差さない路地裏は暗く、その奥を見通す事は出来ない。が、立て続けに再度悲鳴が上がる、明らかに助けを求めている声だ。
……どうする?」
 私はそれとなく同居人達に尋ねてみた。私たちは別に正義の味方というわけではない。そもそも今の世の中、警察機構なんてものは形骸化して無いに等しい。これだけの規模の町ならば自警団くらいはあるかもしれないけど、それが果たしてどれほど有効に働いているかなど、勿論私たちに解るわけがない。
 つまるところ、私たちに助ける義理はないけれど、私たちが助けないと恐らく誰も助けないだろうという、ごく単純な話だ。
『んー、今の声って女の子でしょぉ? だったらワタシはパースー』
 相変わらずゲンキンなやつだ。これが小さな男の子の悲鳴とかだったら、間違いなくかけつけろって言うくせに。
……行きましょう。正義の味方を気取る気はないですが、“手詰まり”の時は往々にして思わぬ所から解決の糸口が見つかるものです。…………まぁ、逆に全く関係のない厄介事に巻き込まれる事の方が圧倒的に多いですが』
 お前は私の足を進ませたいのか、留めたいのかどっちなんだと問いたくなるようなネコの言葉に少しだけ逡巡して、結局私は走り出した。理由は単純、このまま無視するのは今後の寝覚めに影響しそうだったからだ。
 悲鳴を頼りに、私は路地裏を駆ける。再度悲鳴、今度は衣類が破られるような音もオマケについてきた。下卑た男達の笑い声、複数だ。もう近い。そこの角を曲がった先だ。
「そこま――
「そこまでだ! 悪漢共!」
 角を曲がり、三人組の男達に今にもレイプされそうになっている女性を視界に入れたその刹那。突然黒い影が頭上から降ってきて、しゅたんと私の目の前に立ちふさがった。
「この町の平和を脅かす悪党共め、正義の拳を受けるがいい!」
 降ってきた影は声高に叫ぶや、ズボンを下ろしたまま呆気にとられている悪漢達を瞬く間に殴り伏せてしまった。
 強い。鬼のような強さだ。思わず声をかけるのも躊躇われるこの強さには覚えがある。
「大丈夫か、お嬢さん。こんな場所に一人で来てはいけない。さあ、早くお逃げ」
 そして、この言い回しにも。ぞわわ〜っと、私の中でミカエルが鳥肌を立てる。私の肌にもちょっとだけ立った。
『まさか……
 呆れるような、それでいて絶句するようなネコの呟き。そう、うん。私たちが探してるのは多分アレだよ。
……ああ、礼などはいらない。男として当然の事をしたまで。……ただ、空に向かって感謝の祈りを捧げてくれるだけで己は満足さ」
 ぞわわわわ〜〜〜!
 なんだろう。船で会った時よりも“悪化”しているように見えるのは気のせいだろうか。男はぽかーんとしている半裸の女性に向かって目映いばかりの笑顔を見せ(しかも歯が光ったよコイツ)、背後にいる私には気づきもしないで――
「では、さらばだ!」
 しゅたん、と石畳を蹴るやそのまましゅたしゅたと狭い路地の壁を蹴りながら上へ上へと上がっていき、その影は何処へともなく消えてしまう。その様を呆然と見送った後、ハッと私は我に返った。
「はっ……追わなきゃ!」
 勿論、今更追いつけるわけがなかったのだけれど。

 

 



 

 

…………杞憂が当たってしまった』
 この世の終焉を見たような絶望しきった声で呟くネコに、私もミカエルも慰めの言葉が無かった。
『本来ならばあり得ない事です。そう、あり得ないけど……ひょっとしたらそうなっているんじゃないかと思っていたら、やっぱりそうでした』
…………どういう事?」
 あの後、私たちは路地裏から引き上げ、安そうな宿屋を見つけてそこで一段落していた。ちなみに宿屋の主人との“交渉”は、ミカエルに頼んだ。
『既に説明した通り、異能者の能力を奪い取り、自分のものとして使うことが出来る―― それが己の能力です。ただ、これにはいくつかの制限があります。……“時間”もその一つです』
「制限時間があるってこと?」
『はい。基本的に二時間。それが己の能力の限界です。さらに言えばもう一つ強制解除条件があるのですが、こちらはさすがに漏らせません。でも、どういうわけか己のオリジナルはその両方の解除条件を満たして尚、発動状態が解除されていません』
 もう一つの強制解除条件というのはひょっとすると水ではないかと私はちらりと思ったが、あえて黙っている事にした。
……単なる能力暴走の副作用―― と考える事も出来ますが……やはり、“己がここに居るから、元に戻れない”と考えるのが正しい気がします』
『つまりぃ、ネコっちの本来の人格がイズミの方に移っちゃってるから、あのキモウザいネコっちは元に戻りたくても戻れない状態ってコト?』
 キモウザいって。いやそりゃ、私も同意見だけどさ。本人の前で言っちゃうのはどうよ、ミカエル。
……あくまで推測ですけどね。ただ、そうなるとますます早急に手を打つ必要があります。本来ならば二時間持続させるのが限界の能力をかれこれ半日以上使い続けている計算になりますから。……もう大分体にガタがきている筈です』
 とてもそうは見えなかったけど、ネコがそんな事で嘘を言う理由も分からない。やっぱり、本当にヤバいんだろう。
『それでぇー、結局どうするの? っていうかどうすればネコっち元に戻れるの?』
……わかりません。現状、殆ど推測しか出来ないような状況ですから。正直、手の打ちようが……
…………この際もう、ネコの仲間に連絡とって相談してみるってのは? 例の“ピアス”をくれた人なら元に戻る方法も解るんじゃないの?」
 私としてはそれは出来れば避けたい案ではあった。多分……というより間違いなく、私の所属している企業とネコの仲間は対立関係にある。それだけでもうろくでもないことになるのは明々白々だ。
……拒否します。それだけは絶対に御免こうむります! それこそ“能力”のオーバーロードで死んだ方がマシです!』
 ネコも同様のコトを感じた―― わけではないらしかった。
『あんな状態の己をカノンやマスターに見られるなんて冗談じゃない! 絶対にイヤです。たとえ元に戻れたとしても、一生ネタにされてバカにされます!』
 そういう意味では、オリジナルが“回収”されなくて良かったと、ネコは独り言のように付け加えた。
『そんな事言ってぇ、ホントは“仲間の連絡先”がわかんないだけなんじゃないのぉ?』
………………それもあります』
 茶化すようなミカエルのツッコミに、ネコは申し訳なさそうに小声で肯定した。四割の記憶しかないのではやむなしと言えるかもしれない。
…………それじゃあやっぱり私たちでなんとかするしかないってコトか。それもグズグズはしてられない…………ホントにどうしよう」
『ねえ、イズミ。そもそも最初、どうしてこうなったんだっけ?』
 ミカエルは普段はバカっぽいくせに、時々こうやって核心を突いてくるから侮れない。
 そう、そもそも最初何故こうなったのか―― 私は記憶を振り返る。
「えーと……確かあの時は爆風に煽られて……思い切り頭がぶつかって……
『それだよ、イズミ。頭がぶつかってこうなっちゃったんなら、もう一回ぶつけちゃえば治るんじゃない?』
 そんな馬鹿な。
 私は古い電化製品か。
……他に手だてが思いつかない以上、試してみる価値はありますね。……ただ、それだと最悪、同居人がもう一人増える可能性がありますが』
『うげっ』
 と、露骨に声を上げたのはミカエルだ。あのキモウザ正義野郎を一番毛嫌いしているミカエルとしては、“同居”などもってのほかなのだろう。勿論私だってイヤだ。
……それともう一つ、これなら或いはという手がありますけど……ただ、あの状態ではそっちのほうが困難でしょうね』
……もう一つの手って?」
『己の能力発動の条件を満たすコトです。…………平たく言えば、“関係”を持つコト』
「えっ……
 何ですかその発動条件。
 関係って、やっぱりアレの事ですよね?
『それで巧く“己”を吸ってくれれば…………かなり分の悪い賭ですね。出来れば頼りたくない方法です』
『ちなみにワタシはパスね。あんなのと寝るなんて無理無理、やるならイズミ一人でやってね』
「わ、私だって!――
 ミカエルに同意しかけて、ハッと。私は我に返った。
「ええと……外見はともかくとして、中身がアレじゃあイヤって意味でね。……せめて、中身もちゃんとネコだったら…………ギリギリ許容範囲なんだけど」
 フォローになっただろうか。中身もネコなら許容範囲というのは嘘ではないのだけれど。
 そもそも、こいつにはオナニーだって(やったのはミカエルだけど)見られてしまっている。その他にもいろいろ全部、人間として生きていく以上誰もが避けられない行動は全て、だ。
 関係を持つ、ということは即ち処女を奪われるというコト。平気じゃないと言えば嘘になるけど、今更“初めては本当に好きになった人に”なんて考えるほど私は純真でなければ、夢見がちな乙女でもない。今まで誰ともセックスをしなかったのは、単純に機会と、必要性がなかっただけだ。性欲の解消だけなら、それこそオナニーで十分だ。
 だけど、今回それが“知人”の命を助ける為に必要だというのなら、仕方がない。私にとって、自分の処女に対するこだわりなんてその程度だ。生まれつきの運の悪さと生まれつき身に付いていた能力のせいで今までいろんなものを諦めてきた。ここに至ってもう一つ諦めるコトくらい、別になんでもない。
『んじゃまー、とりあえず作戦その一、アイツに頭突きするー。作戦その二、アイツと寝るーで決まり?』
………………まぁ、消去法でいくととれる手段はそんな所か。でも、その前にまず居場所を突き止めなきゃ」
『へっへーん! それならもうワタシに良い考えがあるんだよねー。まぁ、ビッグ・シップに乗ったつもりで見てなさいって』
 ビッグシップて。
 あんた本当にアメリカ人なのかとツッコミたいのを我慢して、私は先を促す事にした。
「良い考え? 本当に?」
『うんうん、ばっちし。あの正義野郎が間違いなく飛んで来るナイスな手があるのよ』
 飛んでくる……あぁ、なんとなく私にもミカエルが考えてる事が解った。
「じゃあ、それはあんたに任せる」
 私は右目を隠して、主人格をミカエルに譲った。実を言うと、今日は殆ど出ずっぱりでオマケに能力を酷使したせいでくたくただった。
「さーてと。そんじゃ、ネコっちが死んじゃうかもしれないってんなら、早速作戦その一、ASAPでいっちゃうかー!」
 ミカエルがぴょんとベッドから飛び降り、宿屋の外へと飛び出していく。
 そう、これはネコの命を助ける為に必要なことだ。そしてひいては、“私の望み”を叶えるために必要なことでもある。
 だけど、それはミカエルにとってはどういう事になるのだろう。意気揚々と町中を走っていく自分の体の中で、私は彼女の事を考え始めていた。

 

 


 

 

 ミカエルの考えた作戦はこうだ。まず、適当に町中を歩き回って“悪そうな連中”を見繕う。次に“オーダー”を使って、連中を手頃な場所(人気が無く、いかにもアジトっぽい所)へと誘導する。さらに自分を拘束させる(もちろんいざとなれば自力ですぐに解ける様、ゆるゆるに)。最後に、思い切り悲鳴を上げてネコのオリジナルを呼ぶ―― とまぁ、そういう流れだ。
……ただ悲鳴を上げるだけじゃダメなんですか?』
 というネコのツッコミは、ミカエルに却下された。
『何言ってるの! そんなのこっそり影からチラ見されて終わりにきまってるじゃない。正義の味方なんてのはね、本当はもっと早く来れるのに、わざとギリギリまで待って、もうダメぇ!って瞬間を狙ってやってくるような連中なの。単純なトラップじゃ引っかからないのよ』
 はぁ、そういうものなんですか。
 毛嫌いしていた割には随分とお詳しい事で―― 疲れが溜まっている事もあって、私はつい冷めた気持ちでそんな事を考えてしまう。本当なら、今夜は野宿ではなくきちんとしたベッドでゆっくり休んで、明日改めて出直したかった。だけど、ネコの体がいつまで持つか解らない以上、そんな事は言ってられない。私だって、人並みに他人の体の心配くらいはするのだ。

 ミカエルの作戦は順調に進んだ。一番ネックと思われた“悪党探し”に手間取らなかったというのも大きかった。とはいっても、本当に悪人かどうかを確かめる時間も労力も惜しいから、ただただ“悪人面”の男達に片っ端からオーダーをかけ、町はずれの倉庫へと誘導するだけだから早くて当たり前とも言えた。
……うー、さすがにちょっと疲れた」
 ミカエルが見繕った悪漢―― もとい、悪人面のひょっとしたら善良かもしれない男達の数は六人。まあ数としてはこんなものだろう。男達はオーダーによって植え付けられた命令のままに港の倉庫へと集結し、ミカエルの手を後ろ手に縛り上げる。
 よし、今だミカエル。
「キャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ! ネコさまぁ、ヘルプミー! 犯されるぅううううーーーーーーーーーーーーーーー!」
 思い切り息を吸い込むや、ミカエルは思わず耳を塞ぎたくなるほどの音量で悲鳴を上げる。
 ずがぁん!―― そんな音を立てて、倉庫の扉が蹴破られたのはその時だった。
「天網恢々疎にして漏らさず! 貴様等の悪行もここまでだ!」
 おい、そのタイミングはいくらなんでもおかしいだろ。扉を蹴破るなりポーズを決めながら高らかに声を荒げるオリジナルネコ(しかもいつの間にか紅いマフラーまで身につけてる)に対して、私が主人格であれば間違いなくつっこんでいる所だった。
 さてはあいつ、本当にタイミングを計ってやがったな。
………………なんだか申し訳ない』
 私の思念から内容を察したのか、ネコが心底申し訳なさそうに頭を下げてくる。気持ちはよく分かる、立場が逆だったら私だって多分頭を下げている。
「この町にはびこる悪党共め! 正義の裁きを受けてみろ!」
 オリジナルネコはノリノリで悪漢共(くどいようだけど、正確には顔が悪人面なだけの人たち)を叩きのめしていく。途中からなにやら○○キックだとか○○チョップだとか横文字の技名なんかを叫び出していた。実にノリノリだ。楽しくて仕方がないといった感じた。とても生命の危機に瀕しているようには見えない。
「ぐはっ……
 しかし突如、まるで私の呟きが聞こえでもしたかのようなタイミングで突然オリジナルネコは吐血し、膝を突く。いや違う、私の呟きが聞こえたから―― じゃない。“悪漢共”を全て倒し終わったからだ。
「くっ……体が……もう…………しかし、この心に正義の炎が宿っている限り、この身もまた不滅!…………怪我はないか、お嬢さん」
 まるで、体調不良をおして戦う自分に酔っているような台詞を吐きながらオリジナルネコは口元の血を拭い、ミカエルの方へと手をさしのべてくる。
 その時、私は気がついた。オリジナルネコの手にはめられている指輪の一つが、痛々しいほどに赤い光を放っている事に。まるで生命の終焉を知らせる、赤色巨星のそれを彷彿とさせるような毒々しい光だった。
「おや、キミは前にもどこかで……
 はてな、とオリジナルネコが首を傾げた瞬間。ミカエルの目がきらりと光るのを、私は感じた。
「“フリーズ”!」
 オリジナルネコは、悪漢共を始末し終え、間違いなく油断をしていた。そこをついて、ミカエルのオーダーが発動する。
「なっ……!?」
 オリジナルネコが金縛りにあったようにその身を硬直させる。ミカエルは後ろ手の拘束を簡単に外して、両手でオリジナルネコの頭を掴み、大きく背を反らせ――
「んじゃ、いっくよぉーーーーーッ…………せぇーーーのっ!!」

 ごぃぃぃんっ……

 額と額がぶつかり合う凄まじい衝撃に、私までもが目眩を覚えた。そう、確かに頭突きをするという作戦だった。それも生半可な頭突きじゃダメなのだ、下手をすると意識を無くすくらい強烈な頭突きでなければならない。
 それは解ってる。だけどミカエル。言っとくけど、それ私の体だからね?
「っっっ……痛ぅぅ…………どう、ネコ?」
 ふらふらと足下がおぼつかなくなりながらも、ミカエルが尋ねる。私は一瞬、ほんの一瞬期待に胸を膨らませた。
………………すみません、戻れなかったみたいです』
 ハッキリと聞こえるネコの声が、作戦その一が失敗したことを告げた。
……やっぱりダメだったかぁ…………ってことは――
 ミカエルが、ちらりと足下に目をやる。どうやら本当に体調が悪かったのだろう。強烈な頭突きだったとはいえ、あれほどの身体能力を見せたネコのオリジナル体は白目を向いて大の字に伸びてしまっていた。
 そう、作戦その一は失敗してしまった。ならばもう、その二に移るしかない。それは予め覚悟していた事だ。
 でも――
…………すみません、一ついいですか?』
「どしたの?」
『いや……今のショックでふと思いついたんですが……というより、己の勘違いだったらすみません。維澄さんは感知系の能力者で、ミカエルさんはその逆。自分の命令を相手に強制的に植え付けるタイプの能力者なんですよね?』
「そうだよ? ワタシはオーダーって呼んでるけど」
……その力で“己”を植え付ける事は出来ませんか?』
 あっ、と。ネコの指摘に、私自身呆気にとられた。ミカエルも多分同様だった。
………………どーだろ。出来そう……な気はする、けど」
 いや、出来そう―― ではない。多分、出来るはずだ。何故なら私は(事故とはいえ)彼女自身の能力によってミカエルを植え付けられたのだから。
 問題は、“本人”に出来た事をミカエルも出来るかという事なんだけど……
『出来れば、試してくれませんか。…………少なくとも、一か八かで“もう一つの方法”を取る前に、思いつく限りの事はやっておきたいんです』
…………だから、それは気にしなくていいってば』
 他ならぬ“本人”が気にしなくていいと言っているのに。ネコってば意外と顔に似合わずフェミニストなのかもしれない。最も、私は代表的なフェミニストの顔なんか知らないんだけど。
…………わかったよぉ。オデコ痛いし、BBTだから一回こっきり、フル・スロットルでいくかんね? 何がどうなってもワタシ知らないよ?」
 ミカエルは大の字に伸びているネコの体に跨り、その頭をぐっと掴む。
「むぅぅん、む、む、むむ……むうぅぅ〜〜〜〜〜〜!!」
 ミカエルが“能力”を使うところを、私は今まで何度も目にしてきている。それは言うなれば、カメラのフラッシュのような光を相手の目に焼き付けることによって発動する。
 だが、今ミカエルが使おうとしているのは、それとは明らかに違っていた。単純な命令であれば、その情報量は少なく、一瞬で済む。だがしかしネコの意識体そのものを送りつけるとなると―― 必然的に“溜め”が必要ということなのだろう。
「んんぅぅ〜〜〜っくぅぅ……ダメぇっ……こんなの、おっきすぎぃぃ……あぁん、でももう我慢できなぁい……出ちゃうぅぅ〜〜〜〜!!!」
 言葉だけを聞けば誤解を受けそうな事を呟きながら、ミカエルはさらに“溜める”そしてぐっ、と顔をネコの頭へと近づけ、声高に叫んだ。
「っっくよぉぉお…………飛んでけぇえええぇぇぇぇ!!!!!!」
 目映い光が、倉庫内を真っ白に染め上げたその刹那。
 何か、ひどく堅いモノが砕けるような音を聞いた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……
 ………………
 …………………………
 気がついたときには私の体はベッドに寝かされていて、さらに透明なケースのようなもをかぶせられていた。口には酸素マスクらしきもの、鼻にも管が通されていた。両腕には点滴がつけられていて、麻酔でもかけられているのか首から上以外の場所は殆ど動かせなかった。
 ケースの向こうではまるでエアゾル感染の凶悪な病原菌と戦ってる医者が着るような完全防護服を着込んだ連中が忙しなくうろうろしていた。周囲を見れば、私と同じようなベッドに寝かされて、同じようにケースをかぶせられて、しかも電極つきのヘルメットみたいなのをかぶせられてる人たちが居た。
 あぁ、コレかぁ。今更になって、私は同じものを自分もかぶせられている事に気がついた。
 一体全体何事だろうと、私は記憶を辿って―― すぐに原因に思い至った。あぁ、そうだ。あの女の“暴走”に巻き込まれたんだ。
『sorry―― ごめんねー、ってワタシが謝るのもヘンだけど、一応謝っとくね』
 その時、突然頭の中で声がした。私は最初、周囲にいる誰かの思考を読んでしまったのかと勘違いした。幼い頃は無作為に思考を読みまくったこの力も、今ではある程度まで制御できるようになっている。基本的には、私が読みたいと思った時以外は読まないようにしているのだが、それでもたまにセーフティをかけ忘れてうっかり読んでしまうこともないわけではない。
『ちがうちがう、ワタシはワタシ。ミカエルだよぉ』
 しかし、違った。声は紛れもなく外ではなく私の中から聞こえてくる。しかもこの声は、あの女の――
『そうそう、だからミカエルだって。正確には本人じゃなくってぇ、劣化コピーみたいなものなんだけど』
 自分で自分の事を劣化コピーだなんて言うその女につっこんだものかどうか、私は軽い頭痛を覚えた。気のせいか、周りでうろうろしている防護服の男達の動きが忙しなくなったように思える。
『だいじょーぶ! 多分一週間くらいで消えるから! それまで仲良くやろう!』
 酸素マスクを通じて、麻酔ガスでも流れてきたんだろう。私は抗いがたい眠気に朦朧としながら、なんとなく一週間くらいならいっかと思ってしまった。
 そう、一週間くらいなら……良かっ―― ……れど―― ……
 ………………
 …………
 ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゆさゆさと、体を揺さられて、私はゆっくりと瞼を開けた。目の前に、見覚えのある男の顔があった。
「大丈夫ですか? ええと……ミカエルさんの方ですか? それとも――
「維澄……
 ぽつりと、私は呟くようにして答えた。
「えーと……
 何がどうなってこうなってるんだっけ―― 私はまだ半分寝たままの頭を総動員させて、必死に記憶を呼び覚ましていく。なんだかひどく懐かしい夢を見た気がするけれど、今はそんな事はどうでもいい。
 現状把握。それが第一だ。
「あぁっ、そうだ!」
 そして二分くらいかかって、“倉庫での件”を漸く思い出した。
……えーと、ああなって、んでああして…………で、今私がここに居るって事は……
 周りを見回す。埃くさい倉庫の中ではなく、その前に居た安宿の一室のベッドの上だ。そして脇にはこの男が居る。
 ということは、即ち――
…………ネコ、自分の体に戻れたの?」
「おかげさまで、無事自分の体に戻る事が出来ました」
「そう、良かった。…………体の具合はどう?」
「ちょっと筋肉痛が残ってますけど……概ね大丈夫です。…………もう少し遅かったらヤバかったかもしれませんが」
「そう……
 自分で歩いて部屋まで戻ってきた記憶はない。恐らく、気絶していた私をネコがここまで運んでくれたんだろう。
……ミカエル。巧く行ったみたいね」
 ぽつりと呟いてみる―― が、いつもの軽口がいつまでたっても聞こえてこない。
『ミカエル?』
 意識体である彼女も時には眠って返事をしない事がある。けれど、“この感じ”はいつもとは違う。私はなんだか嫌な予感がして、“念話”の方で彼女を呼び出そうとした。
『んー…………なぁにぃ、イズミぃ。ワタシ疲れてるんだけどぉ』
……やっぱり何でもない』
 いかにも気怠そうなミカエルの返事に、私は何故か安心していた。
 安心? どうして私がこいつの心配なんかしなきゃいけないんだろうと、ちょっと自分で自分が解らなくなる。
…………維澄さん、大事な話があります」
「聞くよ。言って」
「前にも言いましたけど、“思念体”であった己は、己の全てではありませんでした。……平たく言えば、半記憶喪失みたいな状態だったんです」
「うん、それで?」
……己は自分がやらなければならないことを思い出したんです。……コードネーム“クリアー”、A級エージェント豊口維澄の無力化。それが己の任務です」
…………そういえば、そういう依頼を受けてるって言ってたっけ。無力化って事は……つまり、殺すってコト?」
「或いは、能力を奪う…………己としては、出来れば後者ですませたい。偽善かもしれませんが、人殺しは好きじゃないんです」
「死にたくなければヤらせろって、そう聞こえるなぁ」
 ネコの能力も、その発動条件も既に私は知っている。さらに言うならその身体能力も―― 多分、私じゃまったく敵わないだろう。せめてミカエルのオーダーが使えればいいんだろうけど、さっきの感じだととても人格交代に耐えられそうにない。
 なるほど、これが本当のチェックメイトってやつだ。
…………逃げたい、ですか?」
「ん?」
 一瞬、こいつは何言ってるんだろうとぽかんとしてしまった。
「どうぞ。己の拳銃です。これのストック部分でがつんと。気絶するくらい強くお願いします」
 そんな事を言いながら、ネコは自分のリボルバー銃を私の目の前に置き、さらに背を向けてベッドに腰掛けた。
「どういうコト?」
「“クリアー”を拘束し、“無力化”しようとしたが、自分の銃を奪われていた事に気がつかず、銃床で殴られて気絶させられ、まんまと逃げられた―― そういうシナリオでは不服ですか?」
……私に逃げられたら、ネコが困るんじゃないの?」
「己には、どうしても探し出したい人が居ます。その人の情報を得るために、交換条件として貴方の無力化を依頼されてます。……だから、困らないと言えば嘘になります」
「そっか。……じゃあ、いいよ」
 私はぽいと、ネコの膝元に拳銃を放って返した。
「維澄さん?」
「私を“無力化”しないと、大事な人の情報もらえないんでしょ? だったら、悩むことなんか無いじゃない」
…………出来ません」
「出来ないって……どうして?」
 まさか、好みのタイプじゃないとか、そういう事だろうか。自分が特別美人だなんてこれっぽっちも思ってなかったけど、“仕事で抱く”ことすら出来ないレベルの容姿だとも思っていなかった。参った、さすがにそんな事言われたら泣いてしまいそうだ。
……己には、どうしても探し出したい人が居ます。……けれど、最近思うんです。……いえ、“迷っている”と言うべきなのかもしれない。己にとって、“彼女”を探し出す事以上に価値のある事なんてこの世にはない―― けれど、その為ならば何をやっても許されるのかと」
 呻くように、ネコは続ける。
「維澄さんの前にも、マシュリーという……ある王国の王女を捕らえ、“右手”を奪いました。その際、己はとても口に出来ないような事をやりました。……考えてみたら、今回の能力の暴走は、そんな己に対する罰だったんじゃないかって……そう思えてきたんです。この指輪に残っていた彼女の想いが―― ……きっと、あんな風に生きたかったという想いが…………っっ…………後悔というには遅すぎるのかもしれない。……でも―― !」
「ネコ、さ。気がつかなかった?」
 まるで懺悔する罪人のように言葉を紡ぐネコに、私はつい口を挟んでしまった。
「私さ、最初……“右手”の情報を得る為に、あの船に潜入してたんだよ。……なのに、途中からネコに全然“右手”のこと聞かなくなったでしょ?」
……言われてみれば…………何故ですか?」
「もう、どうでも良くなったから」
「どうでも良い……?」
「“本当の望み”さえ達成できるなら、“企業”からの命令なんてどうでもいいって事。…………前に言ったよね、ネコが自分の体に戻れたら、私の望みを教えるって」
 ネコが、頷く。
 そんなに神妙に聞かれるような事でもないんだけど、私は少しだけ間を溜めて、そして言った。
「“能力”を失って、普通に暮らすこと―― それが、私の本当の望み」
「それは……でも」
「どうして、なんて聞かないでね。言っとくけど、他人の心の中が見れるなんてちょっとしたこの世の地獄だよ。ネコも私から力を奪って、自分で使ってみたときに私が言った意味が分かると思う。…………こんな力、人間が持つべきじゃない」
………………。」
 ほら、また。
 ちょっと黙り込んでしまっただけで、私は無意識のうちにネコの心を読んでしまう。
 こんな力、大嫌いだ。
「別にネコの境遇に同情したわけじゃないよ。私は私の都合で、心底この力が嫌いで、消してしまいたいって思ってるわけだから」
 そう、他人の境遇に同情してこの身を捧げるほど、私はお人好しじゃない。生まれ持った異能のせいで、お人好しになることすら出来なかったのだから。
「そもそも最初、私が“企業”のスカウトを受けたのは、そこで治療を受ければ普通の人間に戻れるって聞かされたからなの。…………だけど、やっぱりそんなうまい話なんてあるわけないよね」
 私が、“企業”の怖さを初めて身をもって知った時でもある。何故ならやつらは、私一人を騙す為に、本気で治療の為のスカウトだと信じ込んでいる大人達を送り込んできたのだから。
 人の心を読めば、真偽が解る―― そう思いこんでいた私はその手にまんまと騙された。
「私は、ネコの今までの過去になんかこれっぽっちも興味はないよ。ただ、ネコは“目的”の為に私を無力化したい。私は、自分の能力が疎ましいから消して欲しい。お互いの利害は一致してるし、何の問題もないと思うけど?」
「ですが……
「ああ、でも一応“初めて”だからさ。優しくしてくれたら嬉しいな」
…………。」
 ネコは答えなかった。でも、黙ったままでもネコの中で覚悟が決まるのが、私には解った。

 

 


 

 


 最初に私がシャワーを浴びて、次にネコも浴びた。ぬるいお湯しか出ない&勢いもない安宿らしいシャワーだったけど、文句なんか言ってられない。
 私はバスローブだけを着た状態でベッドに座り、ネコを待っていた。なんとなく間が持たなくて、私は“同居人”を呼び出してみる事にした。
……ミカエル、起きてる?』
 返事は返ってこない。相当消耗していた筈だから、もう完全に眠ってしまっているのかもしれない。
 相変わらずマイペースな奴だと思う。ひょっとしたら、自分の立場を理解していないのかもしれない。もしかしたら、あと一時間もしないうちに消滅してしまうかもしれないというのに。
 ミカエルはバカだけど、決して頭が悪いわけじゃない。そもそも初めにネコの能力を使えば、私の異能を消せると話を持ちかけてきたのはミカエルだ。その彼女が、私が能力を失うという事が自分にどういう影響を及ぼすのか理解できない筈がないのに。
 最初の事故の際、“ミカエル”を植え付けられた被害者の中私だけが“定着”してしまったのは、恐らく私の能力が関係している。なら、それが無くなってしまったら、彼女は――
……イズミ?』
…………なんだ、起きてたの』
『寝てたけど……。なんかイズミがごちゃごちゃ考えてるから、うるさくって起きちゃった』
 “念話”と“思考”は基本的には別だ。私の中に思念体として存在するとはいっても、ミカエルが私の頭の中全てをのぞけるというわけじゃない。それでも、“何かいろいろ考えてる”とか“落ち込んでるみたい”とかそういった余波のようなものは伝わってしまう。
…………今更だけどさ。イズミ、後悔しない?』
『しない』
 私は即答した。能力の削除―― それは長年の私の悲願だからだ。
『勘違いしないでね。別に、自分の命が惜しくて聞いたんじゃないの』
『解ってる』
 ミカエルが言わんとする事は解る。能力を失えば、多分―― いや、間違いなく私は殺される。今までやってきた事を考えれば当然の帰結だ。エージェント“クリアー”は企業の犬として、多方面から相応の恨みをかっている。今まで生きてこられたのは偏に、私が忌まわしいと思い続けてきた能力のおかげだ。
 それをこれから失う。その後どうなるかは子供でも解る事だ。
……ちゃんと解ってて決断したんなら、ワタシはもう何も言わない。イズミが自分の力の事、どれだけ嫌ってたか、ずっと側にいたワタシが一番よく解ってるから』
…………ごめんね、ミカエル。私のワガママで、あんたも多分消える事になる』
 ミカエルが返事を返すまで、少しだけ間があった。
『そっちに関してはさ、結構どうでもいいんだよね。短い間だったけどさ、イズミと一緒に居られて楽しかったし。……うん、十分楽しませてもらったから、別にもう悔いもないかなーって、そんな感じ』
『それは私も同じ。……いやなこともいっぱいあったけど、その半分くらい楽しいこともあったから』
 正直殺してやりたいと思った事も一度や二度じゃない。
 だけど。
……私の体の中に居るせいかな。私、あんたの考えてる事だけは、全部は読めないんだよね』
『ワタシも、イズミの考えてる事なんて全部は解らないよ』
 そう、本来人と人との付き合いはそれが自然なのだ。だから、私にとって、ミカエル、あんたが生まれて初めての――
……ねえ、イズミ』
 思考の隙を突くようなタイミングで、ミカエルが声をかぶせてくる。
『今なら簡単に逃げられるよ』
『私が逃げたらネコが困るでしょ』
『でも、逃げないとイズミが殺される』
『そのことにはもう口を出さないって言わなかったっけ。だいたい途中まで手伝っておいて、今更止めよう、なんて意味不明だよ?』
 ミカエルが黙る。解ってる。本当にあんたは自分可愛さで言ってるわけじゃない。心底心配してくれてるんだって事くらい、言われなくても解ってる。
 でも、私は決断を変える気はない。それくらい、“伝わってる”でしょ?
…………本当に疲れたから、もう眠る。…………バイバイ、イズミ』
……おやすみ、ミカエル』
 別れの挨拶はしなかった。意識を“外”へと戻したその瞬間、私はバスルームのドアが開く音を聞いた。バスローブ姿のネコが姿を現して、ベッドの方へと近づいてくる。
 ネコは何も言わなかった。私も何も言わずに、ただ瞼を閉じた。

 

 



 

 

 良いことなんか殆ど無かった私の人生だったけど、ひょっとしたら最後の最後で“幸運”に恵まれたのかも知れない。
 いや、幸運は言い過ぎかな。せいぜい不運では無かった、くらいだ。
 何が言いたいのかというと、初めてのセックスの相手がネコで良かったと、私はそう言いたいわけなのだ。少なくとも、敵対組織に掴まってならず者みたいな下っ端構成員に無理矢理輪姦されたりする事にくらべたら、私のことをきちんと“女の子”として扱ってくれる分、遙かにマシだ。
 そう、ネコはこれ以上ないというくらいに優しかった。まるで繊細なガラスの工芸品を扱うような優しい手つきで、私の体はベッドへと横たえられる。
「んっ……
 そのまま、そっと唇が重なる。なにげにファーストキスだという事に、されてから気がついた。
「ぁっ……
 キスに気を取られている間に、体をまさぐられ始めていた。バスローブの上から胸の辺りを撫でられて、微かに声が出てしまう。
 胸を触られながら、またキス。今度は少し長い。目を瞑っているからハッキリとは解らないけど、唇を舐められているような感覚がある。あっ、ネコの手がバスローブの内側に入ってきた。唇に意識を集中させておいて、しれっと手を入れてくるなんてけっこうやるなコイツ―― なんて、つい思ってしまう。
「んっ……!」
 ネコの手が、私の胸に直接触れる。こっちのほうは実は初めてというわけではない。異能者として企業に所属している関係上、様々な実験に付き合わされる事は少なくない。特にミカエルと同居するようになってからは解剖以外殆どの検査という検査をされたんじゃないかっていうくらい、体中を調べに調べられた。
 ただ、そういった“検査”の時に触れられるのと、こうして密室で二人きりになって触れられるのとでは、感じ方が全く違った。
 少しずつ……少しずつだけど、私はドキドキし始めていた。
「んんっ…………
 最初に目を閉じたのは、ネコに対して“貴方の好きにしていいよ”っていう合図のつもりだったんだけど、段々違う理由で目を開けられなくなる。ネコには既にオナニーしているところまで見られているのに(くどいようだけど、やったのはミカエル)、こうして胸を触られているだけで恥ずかしくて目が開けられなくなるなんて。緊張している自覚は無かったけれど、やっぱり緊張しているのかもしれない。
 成る程、私も一応処女なんだな、なんてちょっと人ごとみたいに考えてる間に、しゅるしゅるとバスローブの帯が解かれ始めた。
 あぁ、それを開かれたらもう何も隠すものなんて―― 私は薄目を空けて、そっとネコの姿を覗き見た。バスローブは既に完全に開かれ、私の体の全てがネコの眼下に晒されていた。しまった、せめて明かりは消して、って先に言うべきだった。そんな後悔をしていると、またしても唇を奪われた。
「んんっ……んぅ……!」
 キスと同時にネコの体が被さってきて、さらに両手が背中の方に回ってきて、ぎゅうっ、て。息がつまるくらい強く抱きしめられた。
 全身で、ネコの“体”を感じる。細身だけど、結構筋肉あるんだな、なんて冷静に分析してしまうのはひょっとしたら照れ隠しかもしれない。男にこんな風に抱きしめられるのなんて、勿論初めての経験だけど、案外悪くないかも知れない。
 ドキドキが、さらに増していく。キスをしながら、ネコは優しく私の髪を撫でてくる。そのまま、唇だけじゃなく頬の辺りもキスをされて――
「ひゃんっ……!」
 耳を舐められて、つい変な声が出てしまった。恥ずかしくて、頬が上気するのを感じる。そんな私の耳元で、ネコは「維澄さんの体、綺麗ですよ」って囁いてきた。
 やめろ、ばか。そんなの、お世辞だって解ってる。解ってるのに……ドキドキしてしまうじゃないか。
「ぁっ、ぁ……んっ……
 ついばむようなキスっていうのは、こういうのの事をいうんだろう。ネコは断続的にキスをしながら、そっと私の胸元へと手を伸ばしてくる。もう、大分堅くなっちゃってる胸の先端を掌で潰すようにしながら、円を描くように――
「ぁっ、ぁっ、ぁっ……
 ヤバい。勝手に声が出てしまう。自分で触るのと全然違う。違いすぎる。
 あぁぁ……ダメ、ダメ。そんな風に摘んでクリクリってされたら……あぁぁぁ……
「っ……はっ、ぁ……ちょっ……ネコっ、ぉ……やだっ……ンッ……!」
 反射的に、私はキュッと太股を閉じた。ヤバい。“濡れる”っていうのがどういう感覚なのか、勿論私は解ってる。私だって人並みにオナニーくらいはする。興奮して、感じ始めるとそうなっちゃうっていうのは理解しているし、だからって別に恥ずかしがったりもしない。
 だけど。これは違う。こんなの知らない。だって、これ“濡れる”っていうより、溢れるって感じだし。
「ぁっ、ぁっ……だ、だめっ……ひっ……やっ……胸っ、吸わっ……ンンン!」
 もう、目を閉じてなんかいられない。ネコは私の小振りなおっぱいを散々に弄んだ挙げ句、堅く尖った先端をちぅぅ、って吸い始めた。
「ぁぁぁぁぁぁ……!」
 胸なんか吸われたって、何も出ない。出ない筈なのに、まるで魂でも吸われているかのように気持ち良くて、勝手に背骨が反ってしまう。
 ヒクッ、ヒクッ……って。お腹の奥が疼くような感じがして、熱い蜜が溢れてくるのを感じる。
 あぁぁ、ヤバい。これはいけない流れのような気がする。
 だけど、だけど。
 こんなキモチイイの……止められる気がしない。
「あぁぁっ、ぁぁぁあッ!」
 ネコに執拗に乳首を責められて、私は何度も声を上げさせられる。まるで、私の感じるツボが全部ばれちゃってるみたいな手つきだ。……あぁ、そっか。例のミカエルのアレで、ばっちり学習しちゃったんですね。ええい、バツが悪いみたいな事言ってたくせに、実は目を血走らせて見てやがったんだなちくしょうめ!―― そんな気持ちを込めて、私は思いきりネコを睨み付けてやった。
「ぁっ……あっ、んっ!」
 だけど、怒った目をしていられたのも二秒が限度。すぐに私の体はネコの愛撫の虜になってしまう。
「ぁっ、やっ……ダメッ……あんっ……!」
 えっ、嘘……今の、私の声?
 こんな甘ったるい声、出そうと思ったって出せるものじゃないのに。ネコに体を触られるだけで、いやらしい声がいくらでも喉から飛び出していってしまう。
「うっ……ぁっ、はぁ……や、だぁ……ちょっ……あぁん!」
 ネコの手が、徐々に胸元から下の方へと張ってくる。ああ、ダメダメ、そっちはダメ! 胸だけでもこんなに感じるのに、そんな所触られたら――
……………………………………?」
 “その時”に備えて体を強ばらせている私をあざ笑うかのように、ネコの手はそのまま空を切った。フェイントをかけられたと解った時にはもう、私の体は背中側から抱きしめられていて、ちゅっ、ちゅっ……とうなじの辺りにキスをされていた。
「んっ…………やだっ……ネコ、ぉ……
 私を抱きしめているネコの手が再び胸の辺りを触り、少しずつヘソの方へと降りてくる。さらにその先、恥毛の辺りにさしかかると、なにやらもぞもぞと動き始めた。
 こら、やめろ、ばか。そこの毛で遊ぶな!
「ぁはぁッ! ぁっ、ぃうッ……!」
 指先で、ただ毛の辺りを撫でるだけ―― だったネコの指が、唐突にクリトリスへと不意打ち気味に触れてきて、私は体を跳ねさせながら声を上げてしまった。
……随分、感度がいいですね。……“感知系”だからでしょうか」
「っ……バカっぁ……そんなの、関係、なっ……やぁう!」
 憎まれ口は、クリへの刺激で塞がれる。憎たらしいくらいに手慣れた手つきで、クリトリスがネコの指に良いように弄ばれる。
 あぁっ、やっ……だめ、そんな……指で挟んで、何を……あぁぁぁぁぁ!!!
「ぁぁぁアッ!!」
 びくぅ!
 クリトリスへの刺激に、電気ショックでもされたみたいに体が跳ねてしまう。ジュワァ、って、いやらしい蜜がますます溢れてくるのが解る。
……維澄さんの感じ方……可愛いです」
「っ……〜〜〜〜〜っっ……!」
 歯を食いしばって、私は顔を真っ赤にしながらネコを睨み付けた。そんな私の頬にいけしゃあしゃあとキスをして、ネコはそのまま抱擁をとくと、今度は私の下半身の方へと移動する。
「えっ……ちょっ……ね、ネコっ……!?」
 私の両足を無理矢理開くようにして、ネコが秘裂へと顔を近づけてくる。ちょ、いくらなんでも“初めて”でいきなりそれは―― 勿論、私は精一杯抵抗した。……だけど、ホントはそんなにイヤじゃなかった。
 その証拠に、ほら……手に全然力なんて入ってないもの。
「あぁぁぁぁ……ぁぁぁっ……!」
 私は、間違いなく普通の女の子よりも恥ずかしさというものに耐性がある。だけど、その私でもこれには耳まで真っ赤になってしまった。
「あぁっ、ぁああっ、あぁっ……だめぇっ……そんな、とこ……舐めないでぇ……!」
 ネコの舌技は、私の許容量を遙かに超える量の快感をこれでもかと送り込んでくる。腰が勝手に浮き上がって、足なんか勝手にビクビク震えちゃってる。
 スゴい。まるで電流でも流されてるみたいに、体が勝手に跳ねて、止まらない。
「あぁぁぁぁっ……だめぇぇっ……恥ず、かしっ……ああァァッ!!」
 ぴちゃ、ぴちゃ。じゅるるっ―― ネコが唇をつけているあたりから、そんないやらしい音がひっきりなしに聞こえる。ちくしょう、絶対態と大きく音を立ててるな。それが解っていても、私にはどうすることもできない。
「あっ! あっ……あぁぁぁっ……! ンぁぁっ……!」
 両手の指で割れ目を開かれ、ネコの舌が何度も何度も下から上へと往復する。それだけで太股がビクビク震えるくらい気持ちいいのに、ちゅっ、ちゅってキスするみたいにクリトリスを吸われて、私はもう殆ど叫ぶように声を荒げていた。
「あぁぁぁっ……ひぁぁぁっ…………やっ……も、だめぇぇ……溶けちゃうぅ……!」
 実際、ネコの指と舌でたっぷり愛でられて、私のアソコはもうトロットロになっていた。そのまま舐め溶かされるんじゃないかって、本気で不安になるくらい、ネコはしつこくそこばかりを弄ってくる。
……維澄さん、そろそろいいですか?」
 何度も何度もイく寸前まで追いつめられた私が夢うつつになりかけた所で、ネコがそんな事を聞いてくる。私はもう、無我夢中で頷いた。あぁ、そっか。“痛い”のはこれからだったんだ―― 既に快感で半分とろけてしまっている頭で、私は覚悟を決めた。
……力を抜いて」
 言われるままに私は力を抜き、ネコが挿入しやすいように精一杯足を広げた。
 あっ、ネコのが当たってる……そして、入って……あぁぁぁぁ……
「くっ………………い、痛っっ……
 ぶち、ぶちと何かがちぎれるような音が振動で伝わってくる。あぁ、私は今……ネコに処女を奪われたんだ。痛みと共に、その実感が沸いてくる。そう、痛い。涙が浮かんでしまうくらいに痛いのに、不思議とそれがイヤじゃない。
…………少し、卑怯技を使います」
「えっ……あッ……!?」
 ネコの手が微かに光ったかと思った瞬間、まるで潮が引くように痛みが消えていく。間違いなくネコの“力”の一つなんだろうけど、痛みが消えてしまった事が私は少しだけ残念だった。
 私は、別にマゾってわけじゃない。だけど破瓜の痛みだけは、簡単に消しちゃいけないような……変なこだわりを感じていた。
……維澄さんに達してもらわないと、能力を奪えないんです」
 成る程、そういう事情があるのなら仕方ない。これは別に恋人同士の初セックスってわけではない。あくまで、正体不明のエージェント岩田音子が同じくエージェント“クリアー”を無力化するために必要な儀式なのだから。
 …………そんな事を考えてたら、少しだけ興ざめしてしまった。どうやら自分でも気がつかないうちに、私は初セックスに入れ込んでいたらしい。
……動きます」
 ぐだぐだとつまらない事を考えている間に、ネコがゆっくりと動き始める。さっきは殆ど痛みしか感じなかったけれど、それが消え失せた今。私が感じるのは――
「んっ……んんぅ……!」
 堅くそそり立ったペニスが膣壁を押し広げ奥まで入ってくるのがハッキリと解る。やだ、スゴい……勃起したペニスってこんなにおっきいんだ。下腹部が苦しくなるくらい圧迫されて――
「あぁぁぁッ……!」
 奥まで入ってきたペニスが引いていく時に、カリでこれでもかってくらい肉襞を擦られて、私は声を上げながら腰を浮かせてしまった。
「や、やだっ……何、これ……ぁあっ、だめっ……やっ……ぁぁぁあッ!!」
 ゾクゾクゾク――
 胸を触られた時やクリを弄られた時とは全く違った類の快感に、私は混乱し始めていた。
 そっか、これがセックスなんだ。スゴい。ヤバい。はっきり言ってオナニーなんかの百万倍気持ちいい。こんなの知っちゃったら、二度と自慰なんかじゃ満足できない気がする。
「ぁはァァ……!」
 ペニスが動くたびに、自分でもいやになるくらい勝手に大きな声が出てしまう。気持ちよすぎて、全身が熱く火照っていく。
「あっ、ぁっ、あぁっ……!」
 そうして火照った肌を撫でられたり、キスをされただけで頭がどうにかなってしまいそうだった。まるで、体中が性感帯になってしまったみたいで、触れられるだけで私は声を上げてしまう。
 頭の中が、体中が。“気持ちいい”で満たされていく。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……
 泣いているわけじゃない。そういうわけじゃないのに、勝手に目が潤んで、視界がぼやけてしまう。
 私はもうワケがわからなくなって、夢中になってネコの方に両手を伸ばして、そっと頬へと手を添えた。
 キスしたい―― 喉の渇きにも似た強烈な衝動のままに、私はネコの頭を抱き寄せ、自分から思い切り唇を重ねた。
「んんっ……んんっ……ちゅっ、んんっ……!」
 夢中になってネコの唇を舐めて、舌を絡め合う。ネコは最初面食らったように戸惑っていたけど、すぐに私以上に積極的に舌を動かしてきた。
 あっ、だめっ。だめ、だめ……そんな、キスしながら腰を動かされたら――
「やっ、ぁっ……あーーーーーーーーッ!!!」
 ぐりん、ぐりんと抉るようにペニスを動かされて、私は弾かれたように声を上げていた。
「くはぁぁぁ…………すご、いぃ…………こんなの、知らないぃ…………はぁはぁ……
 “初めて”なのだから当然―― と言われればそれまでだけど、私は本当に驚いていた。
 こんなに気持ちいいなら、もっと早くに経験しておけばよかったかもしれない。何度かミカエルが私の体を使って勝手にセックスしようとしてたのを止めた事があるけれど、今なら彼女の気持ちがよく分かる。
 ……セックスって、ヤバい。
「んぁっ……ぁあ! ぁあっ……やっ……ひぁっ……んぁぁ!」
 ネコが動くたびに、ゾクゾクするほどの快感が私の中を駆けめぐる。私は無意識のうちに足をカエルみたいに広げて、ネコの腰に絡めてしまっていた。
 スゴい。ぐじゅ、ぐじゅって、私の中で粘っこい液体がかき混ぜられるような音が響いてくる。
「あひぃ! はぁ、はぁっ…………やぁぁっ……そんっ、な……激しっ……やっ、らめっ……スゴい、音……してるぅ………………ホントにどうにかなっちゃうぅ……!」
 ミカエルならともかく、自分がこんな声を出してしまっているのが、私自身信じられなかった。―― すごい、この一,二時間の間で何回そう思ったかわからない。
 たった一度のセックスで、まさか人生観まで変えられるなんて。
「あぁんっ……あぁぁんっ! あぁあっ……あぁあん!」
 声が、出てしまう。ネコが動くたびに、ペニスが私の中を擦り上げるたびに。
 もっと、もっと気持ちよくなりたい―― そんな私の本能的な欲求が、普段は意図的に眠らせている能力を強制的に発動させる。
「あぁぁぁっ……ァァァァァッ!!!」
 能力のレンジは、極近距離。ネコにだけ絞る。ネコが感じている快楽を、直接私も感じとる。たちまち、頭に“二人分”の快楽情報が流れ込んでくる。
「あぁッ……アァァアッ!!! んぁっ……ネコ、も……こん、なに……ぁああんっ……嬉しっ……ぁぁあっ!!」
 ペニスでグリグリされるのが気持ちよくって、反射的にキュンって締め付けてしまう。それでネコが気持ちよくなって、それを私が感じ取って、ますますキュンって締め付けて……
 こういう風に動けば、もっと気持ちいいの? ううん、こうしたほうがさらにイイの? 締めながら、こんな風に腰をくねらせたら――
 あぁ、スゴい! ネコが気持ちよくなってるのが、どんどん伝わってくる……
 あぁぁぁぁ……もう、ダメぇ……とろけそう……
…………“能力”を使ったんですか。…………今ならまだ引き返せます、本当に奪ってしまっていいんですか?」
 少しだけ困ったような顔で問いかけるネコに、私は首を縦に振った。確かに、こういう使い方もあると知ってしまった今となっては、多少惜しくもある。
 けれど。
……これ、は……?)
 イきそうになっている私の中に、あるイメージが流れ込んでくる。それは恐らく、ネコの深層意識に眠っていたものだ。
……女の、人……
 ネコが、私以外の誰かを抱いている―― あぁ、そうだ。この能力はいつも、私が知りたくない事ばかり伝えてくる。
 だから、嫌いなのだ。無くなってしまえと、心底思う。
「ぁぁあっ……ネコっ、ネコぉっ……おね、がい……も、私っ…………奪ってぇ! イカせてぇ!!」
 殆ど叫ぶように、私は声を荒げた。
……解りました」
 キュゥンと、何かが鳴るような音を私の耳が拾った。
 そして、次の瞬間――
「ぁっ、ぁっ、ああァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!」
 私はイかされて、そして“能力”を失った。

 

 


 

 

 私は、生まれつき人並み外れて運が悪い。
 ギャンブルなんか勝った試しがないし、子供の頃両親に連れられていったパーティのビンゴ大会で、真ん中以外一つも穴を空けることができないうちに終了してしまったのは苦い記憶の一つだ。
 “企業”のエージェントとして働き始めてからもそれは変わらなかった。予測不能意味不明のアクシデントのせいで窮地に陥ったことも一度や二度ではない。だけど、ひょっとしたらその運の悪さは、“能力”を持っている事の対価のようなものだったのかもしれないと、最近そんな事を私は考える。
 あの日、私は“能力”を失った。そのせいで多分私はどこかの誰かに殺されるだろうと、間接的に自分の死を覚悟した。そう、今までと違って、刺客が銃口を向けてくる前にその存在を看破することなんか出来ないからだ。
 能力を失った今、“企業”に戻るわけにもいかない。エージェントとしての価値を失った私を待っているものは少なくとも“一般人としての穏やかな余生”等ではないだろう。勿論そういった事も全て覚悟の上でやったことだから、後悔なんか微塵も無かった。
 新たな潜伏先として私が選んだのは、かつてはオーストラリアと呼ばれた土地にある―― “自由都市”という二つ名で名高いリベルタという街だった。自由都市と呼ばれている理由は主にあらゆる企業の干渉を受け付けない、強力な私兵を持ち独立した自治を行っている世界でも有数の巨大都市である為だ。
 ここであれば、私の居場所がバレたとしても、そうそう簡単には手出しは出来ないはずだった。とはいっても、そんな事は所詮気休めに過ぎないという事も解っていた。なんの背景も持たない一個人で“企業”に追われた者がどうなるか、かつて企業に属していた私はよく知っているからだ。
 身元を誤魔化し、安アパートながらも塒を確保した私は、夢にまでみた“普通の生活”を満喫した。いつ、どこの誰に撃たれ、殺されるか解らないというのに、私は毎日が楽しくて仕方がなかった。人の心が見えない、会話をしている相手の心根が見えない、見ようとしても見れないという事がこれほど楽しい事だなんて思いもしなかった。
 人生、諦めが肝心―― それは私の二大ポリシーの一つの筈だった。忌まわしい異能の力を生まれながらに持ち、バケモノのように扱われながらいろんなものを諦めてきた結果生まれた言葉でもある。
 けれど、そんな楽しい毎日のせいか、私は徐々に自分の命が惜しくなってきた。こんな毎日がいつまでも続いて欲しい―― そんな想いが膨らむにつれて、今までは何とも思わなかった死の恐怖というものを実感し始めた。

 そんな頃だった。
 エージェント“クリアー”は死んだ―― 私はある日、人づてにそんな噂を耳にした。
 初めは、一体どこの誰がそんな噂を流しているのか全く解らなかった。よくよく調べてみると、“クリアー”の死は単なる噂の域に留まらず、確固たる事実として裏社会にそれなりに波紋を呼び、そしてあっという間に忘れ去られていった。
 どういう事だろうと、私は安アパートのベッドの上で考えてみた。ただの噂ではなく、事実として浸透したということは、間違いなくその情報源となった人物は“業界”の中でそれなりに発言力があり、信頼もある“誰か”という事になる。ならばその目的は何か。私が死んだと報じる事でその人物に一体どのような利益が生まれるというのか。
 少し考えてみて、私は口元がにやけてしまうのを止められなかった。誰がこんな事をやったのか、そんなのは決まり切っている。彼以外に、一体どこの誰がこんな真似をやるというのか。
 全く、お人好しにも程があるというものだ。行きずりの、たかだか一回寝ただけの女の為にそんな根回しまでするなんて、さすがの私も予想ができなかった。
 或いは、彼なりの“贖罪”だったのかもしれない。あの日の彼の懺悔はまさに咎人のそれのようだった。私の命を間接的とはいえ救う事で、自分が手にかけてきた者達への贖罪としたのではないか。
 勿論それは実際彼の手にかかった者達にしてみれば、なんの救いにもならない、ただの自己満足に過ぎないだろう。けれど、それで私が救われた事だけは事実だ。
 そう、ネコの気まぐれのおかげで、私は命を長らえる事が出来た。少なくとも、長らえられる可能性が生まれた。このまま下手な動きをせず、“一般人”として暮らせば、ひょっとすると天寿を全うできるかも知れない。
 だけど、私には一つだけ気がかりがあった。私の推測が正しければ、例え全世界の人間が私の死を信じたとしても、唯一“彼女”だけは私が生きている事に気がつく筈だ。
 そう、いつか彼女は私の元へ現れるだろう。そしてそれは、私が考えていたよりもずっと早かった。

 

 


 

 


「維澄ちゃーん、ひっさしぶりーい♪ 元気してたー? キャハッ」
 “彼女”の手口は、昔と何も変わってはいなかった。アパートの自室に帰宅するなり、私の体はドアの影で待ち伏せしていた彼女に“能力”を使用され、棒立ちのまま金縛りにされた。
…………本当に久しぶりね、ミカエル・スレッジ」
「アハー! ワタシの事覚えててくれたんだぁ、うれしー!」
 ミカエルは棒立ちの私の体の側へと寄り添い、抱きつくようにして頬にキスをしてくる。彼女の“オーダー”で首から下を金縛りにされていなければ、すぐさま袖で拭っている所だ。
 そう、ミカエル・スレッジ。かつての同僚であり、私と同じA級エージェント。その能力“オーダー”は油断状態の対象へと打ち込む事で、“命令”を強制する。そんな彼女のやり口は単純明快“不意打ちして、そのまま先手必勝!”だ。
「ごめんねー、ほら、ワタシってチキン・ハートだからさぁ。いきなり声かけて維澄ちゃんに暴れられたり、逃げられたらどうしようーって、とりあえず話が終わるまではそのまま金縛りになっててね」
……話?」
「そだよぉ。なんかさぁ、維澄“死んだこと”になってるらしいじゃん? だけどさぁ、それってヘンだよねえ?」
 そう、どれほど確かな筋からの情報であろうとも、世界中の人たちがそれを信じたとしても、この女だけはその情報を鵜呑みにはしないだろうという確信が、私にはあった。
 何故なら。
「維澄なら解ってた筈だよねえ、ワタシの能力が“マーカー”にもなってるって事」
…………。」
 知らないわけがない。かつて彼女と組んで何度か“仕事”をしたこともある。ミカエルは潜入予定の組織の末端構成員にオーダーをかけ、さらにその動向を観察することで“安全なルート”を探したりもする。
 そう、オーダーの影響下にある人間はいわば彼女にとっての“マーカー”なのだ。ある一定以上距離が開けば正確な居場所こそつかめなくなるものの、それでも居る方角くらいは分かると、かつて彼女自身の口から聞いたこともある。そしてその“マーカー”には、事故によって彼女の意識を植え付けられた私も含まれる。
「ほんとはさー、維澄とは会いたくなかったんだよねえ。でもさー、気になるじゃない? もし維澄が本当に生きてるようなら、ボスに報告もしないといけないしさ。……ふふふ、それにしても現場離れてカンが鈍ったんじゃない?まるっきり隙だらけだったよ? この三日くらい、ずーっと見張ってたんだけど、全然気づいてなかったでしょ?」
 確かに、能力があった頃に比べれば私の警戒力は落ちた。けれども、彼女の襲撃を全く予期しなかったわけではないし、その際の対処法も考案済みだ。
 ただ、それでも万全というわけではなかった。仮に生存を確認されるや、気配を消したまま狙撃でもされていたら、私は間違いなく殺されていただろう。
 でも、されなかった。それどころか、彼女が自分から手の届く範囲にまでやってきた。
 やはり、能力を失ってから私の運気は上がっていると確信する。
「でもさ、来てみてびっくりしたよ。“追っ手”から逃げる為の隠れ家としてリベルタを選んだのは解るけどさ、まさか維澄が“学生”になってカレッジに通ってるなんてさ」
「悪い? これでも一応まだ十代なの。三十路間近の誰かさんとは違って違和感も無かったでしょ?」
……ワタシはまだ二十四だよぉ?」
 ぴくりと、ミカエルが僅かに眉を揺らす。女性にとって“年齢の話”が禁句なのはいつの時代も同じだ。そのままキレるかと思いきや、ミカエルは意外にもくすりと余裕の笑みを見せた。顔を合わせなかった数年で、彼女も少しは大人になったらしい。
「ねえ、維澄。気がついてた? 今回のミッションって、最初から維澄を殺す為のトラップだったって事。気づいたから死んだことにして逃げたんでしょ?」
 知っていた―― と言えば嘘になる。けれど、推測の範囲内ではあった。いくらなんでも今回のミッションは前情報が無さ過ぎ、そして“敵”に私の情報が筒抜け過ぎた。……それでもそうだと確信が持てなかったのは、偏に普段から“意味不明予測不能なアクシデント”のせいで何度も何度もミッションを妨害された経験が目白押しだったからだ。
「維澄ってばさぁ、ミッションの達成率は高いけど、みょーに達観してるっていうかさ、何考えてるかわかんないところがあるじゃない。しかも命令無視して勝手に単独行動とったりもするしさ。どうもボスは維澄のそういうところが気に入らなかったみたい。ほら、あの人って疑り深いじゃない? 疑わしきは殺せーなんてよく言ってたけど、まさか自分が疑われてるなんて思わなかった?」
 脅しのつもりだろうか。ミカエルは愛用のナイフで私の首筋をぺたぺたと叩きながら、まるでキスでもするように顔を近づけてくる。
「うふふ、どーしよっかなぁ。死んだと思われてた“クリアー”を独力で探し出して始末したーなんて言ったら、大金星間違いなしだよねぇ? いっそひと思いにこのまま喉をしゅぱーってヤッちゃうのもいいんだけど、折角だし。…………クールビューティー気取ってる維澄には前からムカついてたし、殺す前に犬の真似とかさせてアソんじゃおっかなぁ?」
 サディスティックな笑みを浮かべながら、ミカエルはれろりと私の頬に舌を這わせてくる。私には反撃なんか出来る筈がない―― そう確信している彼女は実に隙だらけだった。
 だから、私は命じた。
 今だ、“撃て、ミカエル!”
……えっ……!?」
 ボンッ―― 小型の爆弾が破裂するような音と共に、視界が一瞬真っ白に染まる。本来のミカエルの能力“オーダー”がカメラのフラッシュのような光なら、その瞬間“私の体”が発したそれは白い稲妻のような光だった。
 びくりと、まさに電撃を受けたように体を硬直させて、ミカエルの体がゆっくりとその場に膝から崩れ落ちる。
「OK、ばっちり“入った”よ。イズミぃ、褒めて褒めて」
 忽ち“私の体”を蝕んでいたオーダーの強制力が消える。と、同時に“ミカエル”がこきこきと肩の骨を鳴らした。
『怖いくらいに巧くいったわね。もう少し警戒されるかと思ったんだけど』
「バカだよー、この女。ワタシって本当にこの女のコピーなの? なんかすっごい落ち込んじゃうんだけどぉ」
 ミカエルは“オリジナル”の髪を掴むとぐいと上を向かせた。その両目は見開かれたまま焦点があっておらず、口の端から涎を垂らしたまままるで惚けたような顔をしている。
「“マーカー”が機能してるって事はさぁ、つまりイズミの中にはワタシが居るって事じゃん。こっそりワタシと維澄が入れ替わって、自分がオーダーかけられるかもーとか考えなかったのかな?」
『その為の“奥の手”だからね。騙されてくれないと困るわ』
 人格交代のサインは対応する片目を隠すことであると、かつての同僚であれば誰でも知っている事だ。けれどそれはあくまで“強制的な主導権委譲”のサインであり、人格の交代に必須な動作ではない。
 そう、“互いの同意”さえあれば、ノーサインでも交代は出来る。これは私と、私の中のミカエルだけが知る“奥の手”だ。
……それに、多分オリジナルのミカエルには、あんたの“オーダー”は通じない。だからこそ油断してたっていうのもあるんだと思う』
 あくまでオリジナルによって植え付けられた意識体に過ぎない彼女の力は、その出力も、持続時間もオリジナルとは比べものにならないことを私はよく知っている。
 そう、“同じ使い方”をすれば、間違いなく通じなかっただろう。
『ネコのおかげだねー。アレでワタシ、こういう使い方もあるって気づいたようなものだし』
 本来、フラッシュのように一瞬のうちに相手に簡単な命令を焼き付けるのがオーダー。対して、(私の方の)ミカエルが“ブリット”と名付けたそれは言うなればオーダーの“溜め撃ち”版だ。思念や命令を限界ギリギリまで凝縮、圧縮して一気に放出するそれはオーダーとは比較にならないほどの影響力がある。反面、対象が密集していれば複数人に対して一度に命令を打ち込む事が出来るオーダーに対し、ブリットはあくまで対象は一人だけ。しかもオーダー同様相手に隙が無ければ通じず、おまけに“撃つ”のに時間がかかるという弱点も持っている。
 但し、巧く決める事ができれば―― ご覧の通りだ。
『それで、どういう命令を打ち込んだの?』
「んー、打ち合わせ通りだよ。イズミを始末した、っていう疑似記憶と、今後そのことに疑いを持つ奴がいたら、そいつの記憶も書き換えろって。あと、いろいろと隠蔽工作もやらせる予定」
『上出来よ、ミカエル。これで心おきなく企業の口座に残してきた貯金を使う事が出来るわ。……じゃあ、もうそのオリジナルは用無しだから、適当にアパートの外にでも放り出しといて』
「らじゃー!…………って、ワタシもー疲れたからイズミやってよー」
 返事を待つまもなく、主人格が交代させられる。いつものパターンだ。私は仕方なくミカエルのオリジナル体の足を持ち、引きずるようにしてアパートの外へと放り出した。そんなぞんざいな扱いに対して、私の中の方のミカエルは何も言わなかった。


 

 

 



 

 


 
『ねーねー、イズミぃ。本当に良かったの?』
 ミカエルの“オリジナル”をアパートの外に放り出した後、机に向かってカレッジで出されたレポート課題に取り組んでいると、不意にミカエルが話しかけてきた。
「何が? “オリジナル”が来たら、ああするって話し合って決めたじゃない」
『そうじゃなくてぇ』
 そう言ったきり、ミカエルは黙ってしまう。本当は最初から彼女が何について言いたいのか薄々解っていた。
…………結構イイ感じに見えたんだけどなぁ』
 ミカエルの独り言で、私は自分の推測が間違っていなかった事を確信した。
『もうすこしほとぼり冷めたらさ、一度連絡とってみようよ。向こうだってひょっとしたらイズミのこと待ってるかもしれないよ?』
 ミカエルの言葉を無視して、私はノートにペンを走らせる。むぅーっとミカエルが拗ねたような声を出す。
『好きだったクセにぃ』
 返事は返さなかった。返さなかったけど、私はふと考えてみた。私は、彼のことが好きだったのだろうか。嫌いでは無かったことは間違いない。けれど好きだったかと言われると、返事に詰まってしまう。
 多分―― “好きになりきれなかった”のだろう。その表現が一番しっくりくる気がする。彼に抱かれながら、私は自分の中に彼に対する想いが膨らんでいくのを確かに感じた。けれどそれは、いまわの際に私の能力が見せたヴィジョンによってあっという間に粉々に打ち砕かれたのだ。
 彼にとって、私は未来永劫無二の存在となることは出来ない―― そう思い知った瞬間から、私は彼に恋心を抱けなくなった。“諦め”が二大スローガンの一つでもある私は、絶対に勝てない戦いはしないのだ。
 その時眠っていたミカエルは、当然そのことを知らない。だから、まだ脈があるような事を言うのだろう。
……そういえば、さ」
 ペンをノートの上に置き、私は独り言のように呟いた。
『んー?』
「どうして、あんた消えなかったんだろう」
『さー?』
 ミカエルが定着してしまったのは、私の能力のせいだと思っていた。だから、私が能力を失えば、ミカエルもまた消えるものだとばかり思っていた。そもそも百害あって一利なしの厄介者としか思っていなかったから、別にそれはそれで構わない筈だった。
 けれども、あの日。処女を喪失しての初めての朝。ネコの腕に抱かれて眠る私を茶化すように彼女が声をかけてきた時、私は何故かホッとしてしまったのだ。
 ずっと目障りだと思っていた。消せるものならば消してしまいたい、殺してやりたいと思ったことも一度や二度ではない筈なのに。消えてしまったと思いこんでいた彼女がまだ私の中に居る事が嬉しいと感じた。
 そして私は不意に思い出したのだ。“人生、諦めが肝心”に続く第二のポリシー“生活が第一”―― これを信条とするようになったのは、ミカエルとの同居がきっかけだったということを。
 諦めが肝心というよりは、人生そのものを諦めかけていた私を励まし、いつか今の生活から抜け出せる日が来るかも知れない、その時のためにと貯金を勧めてきたのが彼女だった。当時はただの夢物語にしか思えなかった未来が、今現実のものとして私の前に広がっている。
 ……決して、口に出したりはしない。勿論“思念”で伝えたりもしない。しないけれど、私は心の奥底で彼女が消えなかった事に、そして彼女と一緒に居られる事に感謝した。
 そしてもう一人、私には感謝をしなければならない相手が居る。

 

 


 

 

『なにそれ、イズミ。焼いて食べるの?』
「食べない。っていうか、どう見たらこれが食べ物に見えるの」
 どんな町にも、いわゆる“裏の調達屋”という連中は存在する。そういった連中は報酬次第で大抵のものはそろえてくれる。
『へっへーん! スラム育ちだからって甘く見ないでよね! それバンブーの枝でしょ? ヤポネはバンブーをライスに混ぜて食べたりするって知ってるんだから』
……惜しいけど、違うわ。ご飯に混ぜて食べるのは竹じゃなくて筍。そしてこれは竹に似てるけど別物。“笹”っていうのよ」
 私の手の中にあるのは、腕の長さくらいの小さな笹の枝だ。今の世の中、こういったものは貴重らしくて、ビックリするほどの金額を要求された。……或いは、単に騙されただけかもしれないけど、今の私は人の心を読む事なんか出来ないから、真偽は解らない。
 ただ、どんなに高くても手に入れたかった。そして手に入った―― それだけで十分だ。
…………この前ね、カレッジの講義で、私の故郷の事を習ったの」
 私の故郷―― かつては日本と呼ばれた国。でも、その名前は百年以上前に公式地図から消えた。それでも、今だに“自分達は日本人だ”といって日本式の名前を子供につけたり、自分たちが住む場所を日本だと言い続けている人たちがいる。……私の両親も、そんな人たちだった。
 そして多分ネコも―― 本名から察するに日系で、“日本人”なのだろう。
「昔、私の故郷では、七月七日の夜にこうやって笹を飾って、短冊に願い事を書いて吊したらしいの」
 カレッジの講義で習った、古代に行われたとされる多種多様な神事、祭事の中でただ一つ、それだけが私の心を捕らえた。まるで、ずっと未完成だったパズルの最後のピースを見つけたような気分だった。
 天の川を見上げるたびに感じていたモヤモヤとした疑問の答え。夜になっても星なんか一切見えない、汚れきった空の下で、幼かった私に両親が一体何を教えようとしたのか。
 その答えが、目の前にある。
『七月七日って……全然ズレてるじゃん』
……いいの。細かいことは。こういう事は“形式”よりも“気持ち”が大事なんだから」
 こんな事で本当に願いが叶うと思うほど、私はロマンチストじゃない。ただの自己満足に過ぎないことは百も承知だ。
 それでも、同じ日本人の彼の為に。顔を合わせて礼を言う事ができない私なりの、精一杯の感謝の証として。
 私は心を込めて、短冊に“願い事”を書いた。少し照れくさかったから、目を瞑って、ミカエルには見えないように。
『えっ、何。なんて書いたの?』
……秘密」
 私は文字が見えないように顔を背けたまま、短冊を笹にくくりつける。ぶう、とまるで子供が拗ねるようにミカエルが頬を膨らますのを感じる。
『ケチ! つまんないからもう寝る!』
 頭の中から、忽ちミカエルの存在感が薄くなる。私が力を失ってから、少しずつではあるけどミカエルがこうして“眠り”につく時間が長くなっている気がする。以前は眠っていても強く呼びかければ返事を返してきたのに、最近は呼んでも起きない事が多い。
 ゆっくり、しかし確実に何かが失われている―― それが解っていても、私にはどうする事もできない。ただ、一分でも、一秒でも長く。彼女と一緒に居られるよう、祈る事しか。
…………。」
 窓の隙間から入ってくる風に笹の葉がさらさらと音を立てて揺れる。笹の枝が倒れてしまわないよう、机の上で辞書の間に挟んで固定して、私はそっと窓から身を乗り出して夜空を見上げた。
 浜辺で見たような星空はそこには無かった。星なんか一切見えない、灰色の夜空が広がるのみだ。
 私は、指を組むようにして手を合わせ、目を瞑った。いつかの彼の言葉ではないけれど、短冊と同じ内容の言葉を、夜空に向けて祈った。


“音子が無事恋人と再会できますように”
“ミカエルといつまでも一緒に居られますように”




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