果たして痛みが先だったのか、それとも臭いを先に感じたのか。
 瞼を開けた際に真っ先に感じたのは、後頭部の痛みと薬の臭いだった。
「あら、目が覚めたようね」
 不意に誰かの声がして、自然と目が動いた。
「どう、具合は。目眩や吐き気はない?」
 そう尋ねてきたのは、白衣さえ着ていなければそこら辺の主婦と見分けがつかなそうな出で立ちの女だった。自分の置かれた状況と女の出で立ちから察するに、恐らくここは学校の保健室で、女は保健医なのだろう。
「……俺は何をしていて頭を打ったんですか」
 自分は、頭を打って意識を失い、保健室に寝かされていた――それは理解した。しかし、“その前”がどうにも思い出せない。
「本気で言ってるの?」
 たちまち、保健医がただごとではないという顔をする。
「ねえ、ちょっと自己紹介してみなさい。自分の名前は言える?」
「えーと……ちょっと待って下さい……俺は――」
 後頭部の痛みに邪魔をされながら、記憶を丹念に辿る。もしや、これは記憶喪失というやつでは――という危惧が一瞬頭を掠めた。
 ――が。
「あいば……ゆきと……相場往人、逢染高校普通科二年B組出席番号二番……バスケ部所属……」
 じんわりと、まるであぶり出しか何かのように徐々に記憶が脳裏に浮かび上がってくる。どうやら、記憶喪失ではないらしかった。
「今日は練習試合の日で――やばっ、戻らないと!」
 自分が“何”の途中で頭を打ち、気を失ったのかを思い出した瞬間、往人はベッドから飛び出した――つもりだった。
「待ちなさい! 時計を良く見て、今は何時?」
 意外に力のある保健医に肩口を押さえつけられ、ベッドに座らされる。やむなく往人は壁掛け時計へと目をやった。
「えーと……十七時です」
「練習試合が始まったのはいつ?」
「昼の一時……」
 どう計算しても、“今”が試合中の筈は無い事になる。途端に気が抜けて、往人はがっくりと肩を落とした。
「さっきまで顧問の安藤先生や他のメンバーもそこであなたが起きるの待ってたのよ。でも先約があるらしくって。私が起きるまでちゃんと面倒見てるって事で先に帰ってもらったんだけど」
「先約……ってことは、試合は勝ったんですか」
「そう言ってたわよ。大差勝ちだったみたい」
 また、ゆっくりとあぶり出しのように記憶が蘇る。練習試合に勝てば焼き肉食い放題、負ければ日が暮れるまで猛練習だと、顧問教師の言葉が脳裏をよぎる。
「相場君の目が覚めて、大丈夫そうなら途中から合流してもいいって言ってたわよ、どうする? 行くなら帰るついでに車で乗せていってあげるけど」
「はぁ……」
 つい、気のない返事が口から出た。腹はそれなりに減ってはいるが、それがイコール食欲があるというわけではなかった。
「やめときます」
「あら、そう?」
 往人の返事がやや意外だったのか、保健医は少し虚を突かれたような顔をする。
「……一応、もう一度聞くけど、目眩や吐き気はないのね?」
「はい、それは大丈夫です」
 実際、後頭部にコブは出来ているようだが、吐き気も目眩も感じなかった。そして嘘をつく理由もないから、正直に答えた。
 ただそれだけなのに、目の前の保健医はますます不安を強めたような顔をする。
「…………念のためちゃんとした病院で診て貰いなさい。それもなるべく早く、ね」
「あの、俺もう帰ってもいいんですか?」
「ちゃんと歩けるならね。早めに病院行くのよ?」
 ベッドから下り、言われた通りに歩けるかどうか試してみた。特に問題は無いように思えた。
「大丈夫みたいなんで、帰ります」
「ん」
 衝立の向こうから、掌だけがひらひら振られているのが見えた。
「ああ、そうそう。梶さんが随分心配してたわよ。合流しないにしても、帰る前に電話くらいしといてあげたら?」
「梶……?」
「ほら、マネージャーの。髪が短くて背の低い……」
「はぁ……解りました」
 気のない返事をして、往人は保健室を後にした。その足音が十分遠ざかった頃に、保健医はぽつりと呟いた。
「……本当に大丈夫かしら? ……敬語なんて使える子じゃなかった筈だけど……」



 着替えを終えて校舎の外に出た頃には、日もすっかり傾いていた。
(そうか、今は夏……か)
 今だに熱を持っているアスファルトからの輻射熱に、汗が滲むのを感じる。
(夏……だ)
 だから暑い。それが当たり前だ。
 であるのに。
(なんだ……“これ”は……)
 目を覚ましてから、絶えず感じ続けている正体不明の違和感。“これ”は一体何なのだろうか。
(頭を打ったから……なのか)
 あの保健医の言った通り、病院でよく診て貰った方が良いのだろうか。
(いや――違う)
 医学の知識等無いに等しいが、“これ”が身体の異常によるものなのか、そうでないのかの違いくらいは解る。
 例えるなら、体の回りにモヤモヤとした不可視で無味無臭の煙のようなものが取り巻いているかの様。頭痛による不快感でも、吐き気でも不安でも喜怒哀楽でも何でもない、違和感としか形容出来ない感覚。
(俺は……相場、往人)
 往人は不意に足を止め、己の記憶をじっくりと探る。物心つくか付かないかの頃から、現在に至る迄の思い出を、やや早回し気味に思い浮かべ、自分は間違いなく相場往人であり、それ以外の誰でもないという確信を持った。
 であるのに。
(……俺は、誰だ)
 自分が自分であることに、違和感を覚える。季節が夏であるのは当たり前な筈なのに、そのことに違和感を覚える。当たり前である事が当たり前である事に、違和感を覚えるのだ。
(……明日、病院行ってみるか)
 頭を打った事が原因とは思えない。しかし、“これ”を感じるようになったのは間違いなく頭を打ち、そして目覚めてからなのだ。きっと無関係では無いだろう。
(とりあえず病院に行って、医者に相談だな)
 そうしようと決めてしまえば、心も幾分楽になった。真っ白の濃い霧に包まれていた最中、微かに道しるべの明かりを見たような心持ちで、往人は帰路に――これも、じっくりとあぶり出しのように記憶を辿って実家の場所を思い出さねばならなかったが――ついた。

 玄関の前に立ち、改めて自宅を見上げるが、矢張りここが自分の家であるという事に違和感を禁じ得ない。が、往人のそんな心境とは裏腹に、ポケットから取り出した鍵はあっさりと鍵穴に収まり、何の問題も無くかちゃりと回ってしまう。
「……ただい――」
「お兄様、おかえりなさーーーーーい!」
 家の中に入るや、突然ゴスロリツインテメイド服の少女にフライングタックル宜しく跳びつかれて、往人は玄関のドアで背中を強打した。
「ごふっ……た、ただい……ま?」
 全く予期していなかった不意打ちをモロに受け、呼吸困難に陥りながら往人は、はてなと首を傾げた。
(……誰、だ……?)
 ゆっくりと、記憶を辿る。そう、炙り出しのように、徐々に眼前の女に関する情報が、往人の中にインストールされていく。
「えっ……何その微妙な反応……いつも“誰がお兄様じゃゴルァ!”って唯の事突き飛ばしたり、投げ飛ばしたりするのに」
 露骨に怪訝そうな顔をしてメイド服の少女は後ずさる。
「ああっ」
 そこにいたって漸く、往人の中で少女に関する情報のインストールが終了した。
「解った、俺の妹だ」
 名前は相場唯、年は十三歳。現在中学一年生の妹――それも、腹違いの。
「……何当たり前の事言ってるの? ていうか、唯の服装についてのツッコミとか無しなの? さすがにそんな残酷な“返し”は想定してなかったよ?」
「……ああ、いや……悪かった。実は今日、部活で気絶するほど頭を強く打ってな、ちょっとまだボンヤリしっぱなしなんだ」
「えっ……頭、打ったの? 大丈夫? ユキ兄ぃ」
「ちょっとコブが出来てるくらいだけどな、大事を取って一応、明日の朝一で病院に行く予定だ」
「コブどこ? ユキ兄ぃ、ちょっとしゃがんで!」
 見せて見せて、とせがむ妹のおねだりに抗しかねて、往人はしぶしぶ膝を突き、唯に背を向けた。
 刹那。
「あギャぁ!!」
 後頭部に、激痛が走った。
「ここなの? ユキ兄ぃ、ここが痛いの?」
「痛だだだだだっ、痛いっ、マジで痛いから止めろって!」
 ここぞとばかりにチョップやらゲンコツやらをコブに向かって振り下ろす妹を、振り向き様に突き飛ばした。突き飛ばした瞬間、「やべ、やりすぎた!」と冷や汗が出る程に強く突き飛ばしたにもかかわらず、ツインテメイド服の着用者はあらよっとと言わんばかりに身軽にバク転などして体勢を立て直し、そのままキャッキャと笑い声を上げながら二階への階段を駆け上がっていった。
「……ああ、そうだ……そういう妹だった……」
 今更ながらに、往人は思い出していた。あの猫のような見事な身のこなしは、幼い頃にやっていた新体操とフィギュアスケートの賜だった。
(それなのに、何故コスプレ部なんだ)
 中学に入るなり、まるで悪い病気にでもかかったようにどっぷりと腐女子の道を歩み始めた義妹に往人はため息を禁じ得なかった。



 
 現在の相場家の構成は、複雑な様で実にシンプルだった。往人を連れ子とする母親と、唯、そしてその兄の弘樹を連れ子とする父親が結婚し、往人の母親は数年前に他界。父親は海外へ単身赴任し、生活費だけを仕送りしてもらいながら子供三人――といっても、兄弘樹は既に二十歳だが――での生活というのが、現在の状況だった。
「ごはんー、ごはんー、晩ご飯だよー、今夜はカレーだよー!」
 がぁん、がぁんと金属音を鳴らしながらの唯の声に導かれて、往人は二階の自室からリビングへと降りる。テーブルの上には、見るからに美味そうなカレーライスが三人分用意されていて、そのうちの一つは既に唯が食べ始めていた。
「……いただきます」
 着席し、手を合わせて“いただきます”を言った直後だった。対面席に座っていた唯が、ブフー!と盛大に口に含んでいた麦茶を吹き出したのは。
「ぶわっ、こらっ、いきなり何すんっ……あーあ……カレーが……」
「それはこっちの台詞だよ! いきなり気持ち悪いこと言わないでよね!」
「気持ち悪いって……」
 ただ、着席して、手を合わせて頂きますと言っただけではないか。
「うわぁぁぁ変! やっぱり変だよユキ兄ぃ! そんなのユキ兄じゃないよ!」
「だからそれは、頭を打ったせいだって言っただろ。……すぐ元に戻るさ」
 テーブルに散った麦茶を拭き拭き、カレーライスにかかった分の麦茶は皿を傾ける事で可能な限り麦茶成分を除去し、さあ気を取り直して食べようとスプーンを握った時だった。
 また、対面席からうわぁ……と、まるで道ばたで嘔吐している酔っぱらいを見るような声が聞こえた。
「違う、違うよ……ユキ兄はそんな事しないよ! 麦茶がかかったカレーなんて、捨てるかこっそりヒロ兄のと入れ替えてしらんぷりだよ! いつもなら!」
「んな事言ったって、捨てるのは勿体ないだろ。ちょっと麦茶かかっただけだし……それにそんな事したら、兄貴に悪いだろ」
「ヒロ兄に……悪い……?」
 ゾゾゾゾゾゾ……!そんな悪寒が唯の駆けめぐっているのが、往人にも見てとれた。
「ん、そこまで突出して美味くはないが不味くもない。なかなかイケるぞ……どうした、唯。顔色が悪いぞ」
「ねぇ、ユキ兄ぃ……もし、この世に悪魔っていうものが存在するとするじゃない」
「なんだ、唐突に……まぁ、するとして、何なんだ?」
「それはさ、そりゃもーすんごい悪魔なの。妊婦を犯して殺して、その腹の中から引きずり出した赤ん坊をそのままむしゃむしゃと食べちゃうくらい残虐非道な奴なの」
「……飯時にする話じゃないが……それで?」
「そんな奴がさ、ある日突然“人殺しなんて酷い事はもう止めよう。人類にもっと愛と光を”なーんて事言い出したら、気持ち悪いって思わない?」
「……まぁ、少なくとも信じたりはしないな。それがどうかしたのか?」
「……今、私……そんな気分」
「ははははは、唯は冗談が巧いな」
 往人は笑い飛ばしたが、唯は怪訝そうな目をしたまま、微塵も笑わない。
「ねぇ、ユキ兄。“頭を打つ前”の事、ちゃんと全部覚えてる?」
「んー……多分。全部とは言い切れないけど、家の場所や唯の事だってちゃんと思い出せたぞ」
 そう、まさに“思い出した”という表現が正しい。唯に関しても、細かい部分はまだはっきりとはしないが、少なくとも年齢や自分との関係、性格や趣味などといったデータは不自由なく揃っている。
(“それ”によると……“ヒロ兄”ってのは……)
 本名、相場弘樹。年齢は今年で二十歳。現在志望大学に二浪中だが、浪人中にアルバイト感覚で始めたライター業がやや本業になりつつあり、“仕事中”は主に自宅に居る――というのが、往人の中にある“ヒロ兄”に対する情報だった。
「“思い出せた”っていう事は、やっぱり覚えてない事とかいっぱいあるんじゃない?」
「……無い、とは言い切れないかな」
 ふぅん――そんな呟きを漏らして、唯は一足先にカレーを食べ終えると、手早く皿を洗って食器籠へと収める。
 その一連の動作をする唯の後ろ姿を見て、往人は胸の内に沸き続けていた疑問をとうとう口に出してしまった。
「……なぁ、唯」
「なぁに、ユキ兄ぃ」
「……聞くまい、聞くまいとは思っていたんだが……限界だ。“それ”は、何だ」
 往人は、唯の格好を指差し、呻くように言った。
「何、って……今流行のスク水エプロンだよ?」
 唯は白々しく答え、そして意味もなくセクシーポーズを三種類ほどとった後、ずいとテーブルの上、往人のすぐ側に腰掛ける。
「こら、行儀が悪いぞ」
「ユキ兄ぃ、目が泳いでるよ?」
「泳いでない!」
 往人は息巻くようにして、ガツガツと麦茶臭いカレーを一気にかき込んだ。その目の前で、唯は妖女のような仕草で足を組み替え、ねえ、と問いかけてくる。
「エプロンが邪魔だなぁ、とか思ってる?」
「思ってない!」
「じゃあ、スク水の方が邪魔?」
「どうでもいいから、ちゃんと服を着ろ、って思ってる」
「襲っちゃいそうになるから?」
「あーのーなぁ……!」
 堪えかねたように立ち上がると、唯はキャンと黄色い悲鳴を上げてテーブルから降りてしまう。
「変なの、ユキ兄ぃなのに、全然ユキ兄ぃらしくない」
 ぷいとそっぽを向いて、スク水エプロン娘はリビングを後にする。入れ替わるように兄、弘樹がリビングへと入って来て、無言で着席するなりモソモソとカレーを食べ始めた。
「………………。」
 往人もまた、特に挨拶も何もせず、台所を後にした。



 自室のベッドで横になっていると、不意に階下から唯の呼ぶ声が聞こえた。
「ユキ兄ぃー! 電話だよ!」
「ああ、解った」
 渋々ベッドから身を起こして階下へと降り、唯から受話器を受け取った。
「もしもし?」
『もしもし、じゃないわよ、バカぁ!』
 突然耳を劈く金切り声が木霊し、往人は慌てて受話器を耳から離した。
『携帯に何度も電話かけてるのに、どうしてでないの! メールも返してくれないし、本当に心配したんだから!』
「あー…………」
 口から出る言葉が意味を成さないのは、受話器の向こうの人物の情報がなかなか浮かんでこないからだった。
(まずいぞ……このテンション……下手に“貴方は誰ですか?”なんて言ったら取り返しのつかない事になりそうだ)
 こんな事ならば、先に唯に誰からの電話か訪ねるべきだったと困惑している最中、不意に夕方保健医との別れ際の会話が脳裏に浮かんだ。
(……梶……梶……千晴?)
 ピキーンと、その名前が浮かぶのを皮切りに、怒濤のように梶千晴についての記憶が脳内に流れ込んでくる。
「……えーと、……千晴……か?」
『当たり前でしょ! まさかたった半日で私の声を忘れたっていうの!?』
 実際、忘れていた――という言葉を、往人は唇の中で飲み込んだ。
(そう……だ。俺は……千晴と、付き合ってるんだった)
 梶千晴――小学校以来の幼なじみであり、同級生。中学卒業を機に本格的に付き合い始めた。中学の頃は陸上をやっていたが、これも高校入学と共にキッパリと止め、今はバスケ部のマネージャーをやっている。
「……悪かった。携帯……鞄に入れっぱなしで気が付かなかったんだ」
 ごめん――素直に口にすると、受話器の向こうで千晴が息を飲んだのが解った。
『何……どうしたの? らしくないよ、そんなに簡単に謝るなんて……』
「……いや、らしくないって言われても困るんだけど……」
 そんな弱気な発言が、受話器の向こうの人物をますます不安にさせたらしかった。
『ねえ、本当に大丈夫なの? ちゃんと病院には行った?』
「今のところは頭痛も吐き気もなにもない。一応、病院には明日行こうと思ってる」
『明日…………………………そうね、明日は、病院に行った方がいいと思う。私も一緒に行くよ。朝、迎えに行くね』
「いや、別に病院くらい一人で――」
『いいからっ、私が一緒に行くって言ってるの! 九時には迎えに行くから、ちゃんと起きててよね!』
 がちゃんっ、と乱暴に受話器が叩きつけられる音が聞こえて、往人も受話器を親機の上へと戻した。部屋へ戻ろうかと階段に足をかけた所で再び呼び出し音が鳴り響き、往人は渋々受話器を取る。
「……もしもし?」
『あっ、往人?』
 何となく、そうではないかと思っていたから、別段驚きはしなかった。
『さっきは、大声出してゴメン。……でも私、本当に心配してたんだからね?』
「うん……それは解ってる。連絡入れなかった俺のほうが悪いよ。千晴は何も悪くない」
『………………………。』
 しばらく、沈黙が続いた。はて、何か変な事を言ったかなと往人が首を捻りかけた時、漸く千晴が返事を返した。
『……とにかく、明日一緒に病院行ってみよ。頭を強く打ったんだし、ちゃんと検査とかしてもらわないと……』
「ああ、ちゃんと起きて待ってる」
『うん……じゃあね、往人。おやすみなさい』
「おやすみ、千晴」
 今度は、往人の方が早く受話器を置いた。置いた後で、往人は思い出した。
 明日日曜は、本来は千晴とデートをする筈の日だったという事を。


 梶千晴は、ひいき目無しに十二分に可愛い部類に入ると、往人は思う。ショートカットの似合う、愛嬌のある顔立ちで、背はあまり高くはない。せいぜい145センチといった所で、同級生の女子の中でも比較的小柄な方ではある。が、その代わり出る所は出ているかと言えば、そういうわけでもない。
 胸などはまな板、絶壁という表現が正しい程でしかなく、尻や太股に関しても肉付きという点では到底魅力的とは言い難い。
 本人にそれらの身体的特徴に関して言及すると、「私はアスリートだから、無駄な肉なんて付けたくなかったの!」と必要以上にムキになった答えが返ってくるわけなのだが、既に陸上をやめて一年以上が経過し、成長期にもかかわらずそれらの外見的特徴に殆ど変化が現れないのは、決して本人の努力によってそうなったわけではないということを如実に示しているように思える。
 とはいえ、相場往人にとってそれらの身体的特徴が不満であるかといえば、決してそうではなかったという事は、ただの幼なじみではなく男女関係にまで至った事が何よりの証だった。

「……検査、どうだった?」
 病院の待合室へと戻るなり、真っ先に千晴が声をかけてきた。
「ん……とりあえず、内出血とか目立った異常は見あたらない、ってさ」
「そう……」
 異常はない――そういう診断結果が下ったにもかかわらず、千晴の表情は逆に曇ったように往人には見えた。
「詳しい検査の結果とかはもう少し時間がかかるらしい。……とりあえず、出ようか」
 検査さえ終わってしまえば、病院などに長居をする理由は一つもない。会計を済ませるなり、往人は千晴を連れて足早に病院を後にした。
「……そんなに、違うかな」
 帰路につくでもなく、かといって何処かに向かうでもなく、文字通り当て所無く歩きながら、往人は独り言のように呟いた。
「妹も……唯も、別人みたいだって言ってた。千晴にも、そう見えるのか?」
「…………うん」
 僅かな逡巡の後、千晴は小さく頷いた。
「だって、往人ってどっちかっていうと……俺様タイプな性格だったじゃない」
「……そう、なのか?」
 まるで人ごとのように訪ね返してしまったのは、そういった“自分の振るまい”に関する記憶だけは、どうしても思い出せないからだった。
 家族や、知人、友人に関する記憶は、名前さえ聞けばじんわりとではあるが“思い出す”事が出来る。しかし、肝心の自分がどういう人間だったかという事だけは、人に尋ねなければ知ることができなかった。
「……たとえばさ」
 千晴はそっと身を寄せてくると、掌を重ね合わせるようにして手を握ってくる。
「私がこういう事すると、往人はすぐ怒って手を離したりしてたじゃない。人前でする事じゃねえ、って」
「………………。」
 そうだったのか――としか答える言葉が無く、それを口にすることは眼前の恋人を傷つけてしまう気がして、往人は何も言えなかった。
「……大丈夫だよ、往人」
 そんな心中を察してか、千晴は態と明唯声を出す。
「ようは、ちょっとした記憶喪失みたいなものって事でしょ? そんなの、絶対すぐ治るって!」
「……そう、かな」
「そうだよ、絶対そう! 私も往人が全部思い出せるように協力するから! 一緒に頑張ろ?」
 ありがとう――そう答えようとして、往人は言葉を飲み込んだ。それは、恋人に今かける言葉としては不適切な気がしたからだ。
「あっ……そうだ……映画……」
 早くこの話題を終わらせたい――そんな思いから、往人は強引に話題を切り替えることにした。
「今日さ……確か、映画見に行く約束……してたよな」
 “相場往人”の記憶によれば、確かその筈だった。隣にいる元幼なじみの顔が、みるみる笑顔に変わっていくのを往人は正視できず、咄嗟に視線をそらせてしまう。
「そうだよ! 良かったぁ……往人、私の事はちゃんと覚えててくれてるんだぁ……」
「当たり前だろ。例え他のこと全部忘れたって、千晴の事だけは忘れるもんか」
「……往人」
 ぎゅうと、一際強く手を握りしめられる。同じくらい強く握り替えしてやることしか、往人には出来なかった。



 映画を見て、喫茶店で少し話をして、夕暮れ時には千晴を家まで送り、そこで別れた。
「ばいばい、往人。今日は楽しかったよ。また後でメールするね」
 千晴が去り際に残した言葉が、一人の帰路で何度も繰り返し脳内で再生される。
(楽しかった……か)
 本当にそうだったのだろうかと、往人は思う。往人自身、千晴とのデートそのものが楽しかったかと言われれば、口を濁したくなるような感想しか持てなかった。
(……俺は、変だ)
 今ほど強く、そう感じた事は無かった。
(あんなに、好きだった筈なのに)
 そう、好きだった筈なのだ。記憶の中にある、千晴との思い出を振り返るに、そうだとしか思えない。相場往人は、遊びや一時の感情などではなく、正真正銘あの幼なじみの事を愛していたのだと。
(……その筈、なのに……)
 側にいて、同じ時を過ごせば過ごす程に胸の内で強く沸き起こる違和感。互いの殆どを知り尽くしていると言っても良いような仲の筈なのに、まるで赤の他人とデートしているかのような錯覚に陥ってしまうのだ。
(頭を打ったせいだ……)
 この、体がブレているような違和感も。好きだった人のことをそのように思えないのも、すべてそれが原因なのだ。
 結論づけたわけではない。どちらかといえば、“逃避”に近い思考の終わらせ方をして、往人は黙々と家路を辿る。
 その途中。
「えっ……?」
 ふっ……と、生臭い風が唐突に頬を撫で、往人ははたと足を止めた。“風”が吹いた方へと目をやると、どうという事のない、ありふれた狭い路地があった。西日によって濃く影の落ちた路地の向こうには、大通りを行き交う車がひっきりなしに見える。
 なんだ、ただ風が吹いただけか――そう思いつつ、不意に往人は路地の向こう側へと行ってみようかと思った。理由は、特になかった。ただ――そう、何となく行ってみようと思ったのだ。
「止めた方がいいわよ」
 今まさに路地への一歩を踏み出そうとした矢先、突然強く肩が掴まれた。
「あんた今、呼ばれたような気がしたでしょ」
 往人は体を硬直させたまま、ただ小さく頷いた。出来れば、すぐにでも振り返って声の主を確認したかったが、どういうわけか身動き一つとることが出来なかった。
「よく見なさい。こっちと、向こう……影のさし方が逆でしょ」
 声は女だな――そんな事を考えながら、往人は言われるままに路地の向こうの通りを見た。女の言う通りだった。路地の手前と向こうでは、どういうわけか影のさす向きが逆なのだ。
「……黄昏時っていうのは、たまにこんな事があるの。……気をつけないと、“怖いところ”に迷い込んで、そのまま帰って来られなくなるわよ」
 そこまで言うや、漸く女の手が肩から離れた。足音が徐々に遠ざかっていくが金縛りに遭ったように指一本動かす事が出来なかった。
 足音が完全に消えて漸く、往人は背後を振り返る事が出来た――が、件の人影は最早どこにも見つけられなかった。再び前を向いた時には、先ほどまで確かにあった筈の路地まで消えてしまっていて、あまりの出来事に自分は立ったまま居眠りをして夢でも見ていたのではという気さえしてくる。
「何だってんだ……俺は、本当に頭がおかしくなったのか……?」
 誰に言うでもなく、往人は苦しいものでもはき出すようにつぶやいた。無論、答えなど返ってはこなかった。

 先ほどの出来事は、果たして夢なのか現なのか。自室のベッドにごろりと横になるなり、往人はその事ばかりを考えていた。
(“あれ”は何だったんだ……)
 白昼夢にしては現実味を帯びすぎていて、現実にしてはリアリティが無さ過ぎる。そして何より、あの声の主は――。
(女の声……だった)
 それも若い、恐らくは同年代かやや年上の女の声だ。しかし、往人が気にかかっているのは、声の主の性別や年齢の事ではなかった。
(……誰の声なのか、全く“記憶”に無い……)
 であるのに、声を掛けられたときに真っ先に沸いたのは“懐かしい”という感情だった。この二つの矛盾が、往人の困惑の大半を占めていた。
(……どういうことだ)
 或いは、そこに奇々怪々な現状を打破する鍵が隠されているような気さえしてくる。
「ユキ兄ぃー! お風呂沸いたよ!」
 そんな往人の繊細な思案作業は、ノックもせずにドアを開けるやベッドに飛び込んできた妹(体操着姿)によって中止を余儀なくされた。
「ねーねー、ユキ兄ぃ、デートどうだったぁ? ハル姉ぇとエッチした?」
 ごろりと横に寝そべり、つんつんと頬をつつきながらボソボソ囁いてくる妹の発言内容が、とても四つも年下の一介の中学生のそれとは思えない。
「……普通は、病院の検査の結果のほうを先に聞くんじゃないのか」
「検査、どうだったの?」
 さも、言われるまですっかり忘れていたというような口ぶりだった。
「……異常なし、だとさ」
「ふぅん、で……エッチしたの?」
「……してない」
 別段、嘘を突く必要性も感じないから、往人は正直に答えた。
「なーんだ、しなかったんだ」
 つまらなそうに呟く唯を尻目に、往人はいそいそと着替えを手に取り、部屋を後にする。
「ねぇ、ユキ兄ぃ」
 階段を下りようかという所で、不意にぴたりと背後から張り付かれた。
「久しぶりにさ、お風呂一緒に入る?」
「……いや、遠慮する」
「どうして? ハル姉ぇとエッチできなくてムラムラしてるから?」
「ムラムラしてなくても、風呂は一人で入りたい」
「嘘ばっかり。本当は唯の裸見たくて見たくて堪らないクセに」
 ふーっ、と耳の裏に息を吐きかけながら、すり、すりとまるで猫がマーキングでもするかのように、唯は体をすり当ててくる。
「ねぇ、ユキ兄ぃ……唯ね、結構おっぱい膨らんできたんだよ? 成長期まっただ中の妹の体……お風呂場でじっくり隅々まで観察してみたくない?」
「…………。」
 一瞬想像してしまい、往人は固まってしまった。――それが、“隙”だった。
「ぐわフッ!」
 しがみついていた手が、不意にするりと“下”へと延びた。そのままむんずと、容赦なく男子最大の急所を力任せに握りしめられ、往人は悲痛な声を上げてその場に膝を突く。
「くすくす、ユキ兄ぃ、ちょっとだけ勃ってたでしょ。中学生の妹の裸想像して勃起するなんて、ユキ兄ぃってロリコンの変態さんだったんだね」
「ちょっ……くっ……こらぁあああッ!!」
 ひょこひょこと膝で歩きながら怒りの拳を振り上げるも、悪戯好きの妹はキャッキャと黄色い声を上げながら飛ぶようにして階段の手すりへとまたがると、そのまま滑り台よろしく階下へと降りていってしまう。
 往人はやむなく、やり場のない怒りと痛みが治まるのを待ってから改めて風呂場へと向かった。湯船にじっくりと浸かりながら、あの妹は一度がつんと躾を行うべきではないか――などと愚にも付かない事を考える。
 些か長湯をした後、部屋に戻ると携帯にメールが届いていた。千晴からだった。
 内容は、今の状況についてあまり思い詰めたりしないよう気遣った文面から始まり、自分に出来る事はなんでも協力するという旨と、チームメイトに無用の心配をかけることになるからしばらく部活の方は休んだ方がいいかもしれないという文章で締めくくられていた。
 往人はしばし考えて、“千晴の言うとおりにする”と返した。



 千晴の提案通り、バスケ部の朝練には行かず、HR開始の時間に合わせる形で往人は家を出た。記憶の中にある通学路を通り、昇降口を経て教室へと入る。
 違和感は、相変わらず感じ続けていた。自分は本当にこの学校の生徒なのか――と。しかし昇降口に記された名前は間違いなく自分のものであり、記憶の通りに教室に向かえば、当たり前のように自分の席があった。
 席に着席して、HRが始まるまでの間、何人かの男子に声をかけられた。その誰に関しても、間違いなく級友であるという記憶が確固として存在する。である筈なのに、まるで初めて会ったような気分にさせられるのは何故なのだろうか。
「大丈夫ですか? 顔色が優れないみたいですけど」
「えっ……」
 声を掛けてきたのは、隣の席の女子だった。
 名前は――。
「ええと……常磐……さん?」
 じわり、じわりと浮かび上がる記憶が、もどかしく思えて仕方がない。“常磐さん”はくいと、メガネを揺らすような仕草をして不審者でも見るような目を向けてくる。
「……まるで、初対面みたいな言い方ですね」
「えっ、あ……いや……いつも、なんて呼んでたっけ……」
 訪ねるのと、記憶が浮かび上がるのは、ほぼ同時だった。
「あぁ……ごめん、委員長。土曜の練習試合の時、ちょっと頭強く打ってさ……そんで、軽い記憶喪失みたいな事になってるんだ」
「……記憶喪失、ですか。納得しました」
 小さく頷くと、委員長こと常磐多恵は机の上に広げていた文庫小説へと視線を落とした。多恵のそんな横顔を見て、はてな――と往人は思う。
「……あれ、委員長ってさ……髪型、前からそんなだっけ?」
「…………?」
 首を傾げられるのも無理はない。“自分の記憶”でも、多恵の髪型は知り合った当初からずっと三つ編みのままである筈なのに、何故だかその事に例えようのない違和感を覚えてしまう。
「ポニーテール……にはしたこと無かった……よな、うん」
 結局、独り言のように呟いて、それで強引に会話を終わらせるしかなかった。
 程なく始業ベルが鳴り、担任の教師が来てHRが始まった。
(……はて?)
 担任教師からの連絡事項を程々に聞きながら、往人は不意に視界の端へと目をやった。そこは窓際の前から二番目の席であり、座席の主は遅刻なのか欠席なのか空席となっていた。
「委員長」
「何ですか?」
 担任に見咎められないよう、小声で返事を返してきた多恵に、往人はそっと視線で窓際の空席を示した。
「あの席って、誰の席だっけ」
「愛川さんの席です」
「愛川……」
 名前を聞けば、“記憶”から情報が浮かぶかと思った。しかし、記憶をいくら探っても、愛川なる人物の情報は毛ほども出てこなかった。
「……どんな奴だっけ?」
 やむなく、さらなるヒントを得るために訪ねざるを得なかった。多恵は言葉を選ぶようにしばらく考え込み、
「風変わりな人です」
 最終的にそのような表現をした。
「風変わり……」
 そう聞いて尚、愛川なる人物の情報が浮かび上がってこない。まるで、額に入ったパズルのピースが一カ所だけ黒く塗りつぶされているかの様に、“見知った筈の日常”の中で窓際の空席だけが異空間かなにかのようにすら思える。
「……そのうち来ますよ。あの人、遅刻は常習ですけど、欠席はしませんから」
 まるで、心の中を見透かしたような多恵の言葉に、往人は安堵ではなくむしろ不安を覚えた。



 件の人物は、三限目――数学の授業中に現れた。
 突然がらりと、教室の後ろのドアが開けられ、その大きな物音に教師を含んだ全員が教室の後方を見た。
 真っ先に目に付いたのは、脱色したような色合いの長い茶髪。白のブラウスは他の女子が着ている夏服のそれと同じだが、胸元のリボンはつけていない。女子にしては身長も高く、素足に踵を潰した上履きという出で立ちも相まってとにかく目立っていた。
 成る程、確かに風変わりだ――などと往人が思っているうちに、“愛川さん”なる女子生徒は窓際の自分の席へと着席すると、鞄を机の横に掛けるなりぐうと、机に伏せるようにして寝入ってしまった。
「……おい、愛川!」
 これを放っておいては沽券に関わる――とでも思ったのか、壮年の数学教師がつかつかと歩み寄り、耳元で怒鳴りつける。が、一向に起きる気配がない。
「……ええい、授業を続けるっ」
 舌打ちを漏らして、数学教師は教壇へと戻ると言葉の通りに授業を再開させた。
「……まぁ、正解ですね。彼女、一度寝たら滅多なことでは起きませんから」
 どうやらそれは周知の事実らしく、例え授業が終わって休み時間になっても誰一人、彼女を起こそうとする者は居なかった。

 四時限目が終わり、昼休みになっても愛川は目覚めなかった。机に伏せたまま、さも心地よさそうにすうすうと寝息を立てるその後ろ姿に惹きつけられるかのように、往人は席を立ち、そろそろと窓際の席へと歩み寄る。
「おーい、相場ぁ」
 しかしその試みは、すんでの所で級友の声によって成就しなかった。声のした方へと向き直ると、教室の外でニヤついているクラスメイトと、その隣で手を振っている千晴の姿があった。
「往人、お昼一緒に食べよっ」
「あ、あぁ……」
 冷やかすようなクラスメイトの声に見送られて、往人はやむなく教室の外へと出る。
「ねえ、メール見たでしょ?」
「ん、……あぁ、そういえば……」
 朝、家を出る前に携帯を見た時に、千晴からのメールが届いていたのを思い出した。内容は、二人分の弁当を作ってもっていくから一緒に食べようとの事だった。
「もうっ、ちゃんと見たなら返信してよね! ひょっとして無視されてるんじゃないかって、不安になっちゃったんだから」
「……悪い、丁度家を出る前で、ばたばたしててさ」
「おっ、相場じゃねえか」
 千晴に謝罪しながら廊下を歩いていると、不意に野太い声が聞こえて、振り返ると微妙に見知った顔が並んでいた。
「あぁ……ええと……斉藤……先輩?」
 斉藤、菅野、藤田――顔ぶれを見ているうちに、ゆっくりと名前が脳裏に浮かんでくる。三人とも、バスケ部の先輩だった。
「梶から聞いたぞ。しばらく部活休むのか?」
「はい、…………医者に、痛みが引くまでは激しい運動は控えた方がいいって言われてまして」
 そういう事にしておいたほうがいいと、前もって千晴と打ち合わせはしていた。
「そうか……派手に頭打ってたもんな。まぁ、大事が無くてよかったぜ。俺たちと違って、お前は秋も、来年もあるしな」
 斉藤の言葉で、往人は思い出した。そうだ、“今年の夏”はもう、終わったのだと。
「秋までには……大丈夫だと思います」
「何言ってんだ。最悪でも夏合宿までには戻れよな。あと、怪我に障らない程度に基礎トレはしとけよ」
 ブランクは怖ぇぞ?――脅かすように言って、三人は歩き去っていった。その途中、三人で何事かを囁くように言い合っていたのを、往人は見逃さなかった。
(……やっぱり、相当違う――みたいだな)
 かつての相場往人と、今の相場往人。かつて親しかった者達ほど、その相違に戸惑いを感じるのだろう。
「往人、気にすることないよ。大丈夫、すぐ何もかも全部思い出して、元通りになるよ!」
「……そうだな」
 千晴に腕を引かれるようにして、往人はその場を後にした。

 学校が終わったら、二人でいろんな場所に行ってみよう――中庭の木陰で昼食をとりながら、そんな話をした。デートをした場所や、思い出の場所などを二人で回って、失われてしまった記憶を刺激すれば、きっと元通りになる――というのが、千晴の理論らしかった。
 往人には勿論、異論はなかった。無かったが、しかし内心徒労に終わるだろうなと感じていた。
(“これ”は、記憶喪失なんかじゃない)
 何故なら、多少引き出すのに難ありとはいえ、記憶自体はあるのだ。ただ、それが自分のものだという気がせず、同時に自分がどういう人間であったのかも思い出せない。その症状が、かつてデートをした場所を回るだけで治るとはとても思えなかった。
 それであるのに、千晴の提案に乗ったのは偏に自分の為ではなく千晴の為だった。そういう行為に自分が付き合う事で、千晴の心痛を和らげる事ができるのならばと、ただそれだけの理由で引き受けたに過ぎない。
(…………俺は、千晴のことを……本当に好きなのか?)
 かつては、間違いなく好きだった筈だ。しかし、今はどうなのだろう。ただ何となく、惰性で付き合っているだけではないのか。
 愚にも付かない事を考えながら、アルミホイルの包みの中からおにぎりを手にとり、口へと運ぼうとした。
 その刹那――
「あっ、往人! それはダメだよ!」
「えっ……?」
 弾かれたように千晴が声を上げ、往人は慌ててオニギリにかぶりつくのを止めた。
「そっちは、梅干しとか紫蘇が入ってるやつだよ。往人、梅干し嫌いでしょ? だから別にしておいたのに」
「ああ……」
 そういえば、そうだったかもしれないと、記憶から情報を引き出しながら、往人は納得する。そして同時に、千晴はうってかわって紫蘇や梅干しといった具が入ったおにぎりが大好物だという事も思いだした。
「そっか、千晴は好きだもんな」
「うん、……往人、ひょっとして……梅干し食べられるようになったの?」
「どうだろ、確かに……嫌いだった気はするんだけど」
 こうして見て、そして匂いを嗅いでいて、別段不快とは感じない。むしろ食欲をそそられる気さえする。
「食べてみてもいいかな」
「いいけど……」
 不安そうな顔をする千晴をよそに、往人は紫蘇おにぎりにかぶりついてみる。純粋に美味い――と感じた。
「……美味しい。なんで今まで嫌いだったんだろ」
 むしゃむしゃと、往人は何の障害もなくあっという間に紫蘇おにぎりを平らげてしまった。
「食わず嫌い……だったのかな」
「…………うん、きっとそうだよ」
「そっか。きっとそうなんだな」
 往人は、態とそっぽを向くようにして視線を校舎の方へと逸らした。そうしないと、今にも泣きそうな顔をした千晴の顔が視界に入ってしまうからだ。



 昼食を終え、教室に戻っても眠り姫は相変わらず眠ったままだった。起こしてみようかどうしようかと悩んでいるうちに昼休みが終わり、五時限目の予鈴が鳴ってしまった。
 五時限目は体育であり、女子は専用の更衣室、男子は教室で着替えるのが通例であるのだが。
(…………寝続けるのか)
 女子は元より、男子すらも誰も起こさず、その脇で堂々と更衣を行っていた。どうやらこの光景は当たり前の事であり、そのことに面食らってしまう往人の方が異質であるらしかった。
「……なぁ、起こさなくていいのか?」
 堪りかねて、つい級友の一人にそんな事を聞いてしまった。
「ほっとけよ。“夜のバイト”の方が忙しくて寝る暇もないんだろ」
「夜のバイト?」
 級友は答えず、ただキヒヒといやらしい笑みだけを浮かべた。明らかに「何言ってんだよ、常識だろ?」と言いたげな顔だったが、どれほど記憶を探っても、往人の中にはその“常識”は存在しなかった。

 眠り姫は、六時限目の現国の授業中に眼を覚ました。そのまま眠い目を擦り擦り授業を受けて、帰りのHRの途中で気絶するようにまたしても机に突っ伏し、HR終了の礼の際にクラスメイトが一斉に椅子を引く音で再び目を覚ました。
(……声をかけてみよう)
 一日、斜め後ろの席から寝ている姿を見て、往人はそう決心した。考えてもみれば、ただクラスメイトに声をかけるだけの事に決心もくそも無いのだが、その他愛のない事すら決心が必要なほどに、愛川という女子生徒の存在は往人にとって異質だった。
(……よし)
 昼寝を終えた猫のように伸びをして、今まさに教室から出て行こうとしているその背を追って、往人もまた教室を出ようとした。
 ――が、その肩が不意に何者かに掴まれた。
「相場君、今日は掃除当番ですよ」
「えっ……掃除?」
 振り返ると、既に何人かの箒を手に机を移動させ始めていた。
「しばらく部活には出ないんですよね。だったら今までサボってた分、しっかりお願いします」
 有無を言わせぬ剣幕の多恵に箒を押しつけられ、往人はぐうの音も無かった。言われて初めて思い出した事だが、確かに自分は今まで部活があるからという理由でひたすら掃除当番を突っぱね続けてきたのだ。
(ヤバい、見失っちまう……!)
 既に目標の後ろ姿は廊下から階段の方へと消えようとしていた。かくなる上はと、往人は両手でがっしりと多恵の肩を掴んだ。
「悪い、委員長! 今日はどうしても外せない用事があるんだ! 今日だけ、今日だけでいいから、委員長が俺の代わりにやってくれないか?」
「…………今日だけ、どころか……今までずっと相場君の代わりは私がやってきたんですけど」
 くいとメガネを持ち上げながら、上目遣い気味にジトリと睨まれ、往人は後ずさりしそうになるのを懸命に堪えた。
「……頼む、委員長! 本当に大事な用なんだ」
「………………………………解りました」
 はあ、と肩を大きく揺らしながらため息をつき、多恵は渋々箒を受け取る。
「本当に、今回が最後ですよ」
「ありがたい……さすが委員長! この埋め合わせは必ずするから!」
 じゃっ、と手を振るなり往人は大急ぎで廊下を駆けた。自身、何故そうまでして眠り姫の背を追わなければならないのか解らなかった。
 幸いなことに、昇降口のやや手前で目的の人物に追いつく事が出来た。
「ちょっと……」
 微かに息を弾ませながら、勢い余って肩を掴んだ。
「ん……?」
 くるりと向き直ったその姿に、往人は電撃に打たれたような思いがした。考えてみれば、昼間から通してまともに顔を見たのはこれが初めてだった。
「……なんか用?」
 さも面倒くさそうに後ろ髪を掻くその相手の顔を見るなり、反射的に体が動いてしまった。
「えっ……?」
 そんな声を上げたのは果たして相手だったか、それとも自分だったか。“眠り姫”こと愛川の顔を確認すると同時に往人はその頬をすぱーんと張りとばしていた。



 相手は呆然と、今しがた張られたばかりの頬を抑えて目を丸くしていた。
「あっ、いや……ごめん……」
 往人自身、何故己がそんな凶行に走ったのか理解ができなかった。
(違う……俺はただ、顔を見れば、何かが思い出せるかも……って……)
 しかし実際こうして顔を合わせてみても、“記憶”の中から引き出される情報は何も無かった。
 そう、何も思い出せない筈なのに。
(なんだ……この感じは……)
 美形……ではあるのだろう。しかし、なんとも不真面目そうな、それでいて底意地の悪そうな顔立ちを見ていると、なにやらムカムカとしたものが腹の底からわき出して止まらなくなる。
「ちょっと、いきなり何すっ――!」
 ごめん、と謝った舌の根も渇かぬうちに、往人は愛川の頬をむんずと掴み、ぎゅううっと抓るようにして左右に引き延ばす。
「痛だっ……痛だだだだだだっっ…………っっこンのぉッ!」
 堪りかねたように、愛川は往人の両腕を体を回転させて振り払うと、そのまま勢いを乗せて回し蹴りを脇腹へと叩き込んでくる。完全に虚を突かれた往人は息を詰まらせ、よろよろと何歩か後ずさりをした。
 が、体勢を立て直すと再び愛川へとつかみかかる。そのままもつれ合うようにして床に転がり、転がりながらまたしても頬肉を掴み、むにぃぃぃと引き延ばす。
「……っっ……何だってのよ……!」
 頬を掴む腕を掴まれ、そのままギリギリと爪を立てられる。あまりの激痛に往人は頬肉は離してしまったが、代わりにその長い茶髪をむんずと掴むと思いきり引っ張り上げた。
 悲鳴が、昇降口全体へと響いた。回りに人が集まってくる気配を感じたが、往人はどうにもこの凶行を止められなかった。
 やがて駆けつけてきた男子生徒数人によって、羽交い締めにされるように引きはがされ、職員室へと連れて行かれた。さらにその後、初老の教師によって生徒指導室へと移され、説教でもされるのかと思いきや、往人に座って待つように言って教師はさっさと部屋から出て行ってしまった。
 そのまま十五分ほど待たされただろうか。その頃になると、頭も大分冷え、今更ながらに自分がとんでもないことをしてしまったという実感が恐怖と共に襲ってきた。
(……俺は、一体どうして……あんな事を……)
 ただ、ちょっと話し掛けるだけのつもりだった。間違いなくその筈だった。である筈なのに、いざ面と向かった矢先、堪えかねるほどの憤怒が腹の底から沸き起こり、我を見失ってしまったのだ。
「痛っ……」
 気が付けば、腕や首筋など、至る所から痛みを感じた。全て、相手からの引っ掻き傷だった。
(……当然だ)
 そう思う。突然男子に頬をひっぱたかれ、髪を掴まれ引っ張られれば、誰だって抵抗をするだろう。
(……謝らないと……)
 とんでもないことをしてしまった。早く謝らなければ――そう思うも、脳裏に相手の顔を思い浮かべるだけで、再び抑えがたい憤怒が腹の底から突き上げてくる。これでは、また顔を合わせただけで殴りかかってしまうのではないか――そんな危惧を往人が抱いた時、不意に生徒指導室のドアが開かれた。
「…………っ――!?」
 入ってきたのは、ジャージ姿の若い体育教師と――“被害者”だった。
「まっ、楽にな」
 そう身構えるな、と体育教師は苦笑混じりに言い、往人と愛川を並んでパイプ椅子に座らせ、自分はテーブルを挟んでその対面へと座った。
「で……ケンカの原因は何や?」
 原因――と、往人はそのことについて改めて思案を巡らせた。本当に原因は何だったのだろう、自分は何故あんな事をしてしまったのだろう。
(……むしろ、俺が聞きたいくらいだ)
 と思ったが、口にできるわけもない。
「二人とも黙っとったら解らへんやろ。……先に手ぇ出したんはどっちや?」
「……俺です」
「相場の方か。愛川が何ぞ悪さでもしたんか?」
「……いえ」
 顔を見るなり、自分ではどうしようも無いほどに胸がムカムカして、つい手を出してしまった――というのが真実ではあるのだが、当然これも言えるわけがない。
「…………弱ったなぁ。男子同士のケンカなら良くある事やし、原因はっきりさしたら後はちょっと注意して終いにする所なんやけど、……愛川」
 まるで我関せず――とばかりにそっぽを向いていた愛川が、体育教師の一言で視線を前に戻した。
「相場はこう言いっとるが、お前は何ぞ言いたい事無いんか?」
 返事はなかった。ただ、教師へと向けた視線を再びよそへと移した事が、返事と言えば返事だった。
「…………あのなぁ、愛川。お前の噂は俺もいろいろ聞いとる。……親から貰った体をどうしようとお前の勝手やけどな、安売りして後で後悔するのは自分やぞ」
 往人に向けられた“気の良い兄貴”的な口調ではない、完全に教師の言葉だった。
 愛川はふっと、口元に笑みを見せた。
「頭痛が痛い」
 そしてやっと開かれた言葉は、往人には意味が理解しにくいものだった。
「落雷が落ちる」
 続けて放たれた言葉も、やはり意味不明。そういえば、多恵が“風変わりな人”と評していたなと、眼前の女子に関する評判を往人は思い出した。
「……後で、後悔する」
 しかし、そこまで口にした瞬間、往人にも漸く彼女の言わんとする所が解った。同時に、体育教師にも解ったのだろう。
「……わかった、もうええ。愛川は帰れ」
 体育教師は怒りとも羞恥ともつかぬ色で顔面を染め、厄介払いでもするように手を振った。それを受けて、愛川は席を立ち、ドアの前まで歩いてはたと振り返った。
「そうそう、鷹栖先生」
「……何や?」
「挨拶が遅れました。ご結婚おめでとうございます」
 ざわりと、室内の空気が凍り付くのが、往人には解った。見れば、眼前の体育教師――鷹栖は今の今まで紅潮しきっていた顔を蒼白にしてしまっていた。
「お兄さん、結婚されたんですよね。…………確か、鷹栖先生の元恋人と」
 くつくつと、まるで性悪狐かなにかのように、愛川は妖艶な笑みを浮かべる。
「学生時代から六年くらい付き合ってらしたんでしたっけ。それなのにあっさりお兄さんに取られるなんて、これはもう余程先生のセックスが下手だったか、お兄さんのものに比べてあまりにも粗末な――」
「愛川ァアッ!!!」
 ばんっ、と机を叩いて体育教師――鷹栖が立ち上がる。往人がその音に驚いて振り返り、再び部屋の入り口へと視線を戻した時にはもう愛川の姿は無かった。
 どすっ、と尻餅をつくような音をたてて、鷹栖が椅子に腰を下ろした。
「…………大声出して悪かったな、相場」
「いえ……別に」
「……あいつを殴りとうなったお前の気持ち、俺にもよう解ったわ」
 いや、それは違う――と否定しようかと思った。
(……俺は別に、挑発されたわけじゃあない)
 むしろそうであれば、こうまで“何故?”の連鎖に苦しむ事は無かったのだが。
「……まぁ、なんや。お前も夏の大会が終わっていろいろ思う所もあるんやろが、短気起こして迷惑被るのはお前だけやないゆう事は肝に銘じとけよ」
 暴力事件起こして公式戦出場禁止になるのは野球部に限った事やないぞ?――と、まるで何かを取り繕うように鷹栖は付け加えた。
「どうしても我慢できん事があったら、手ぇ出す前にまず俺とか他の先生に相談せぇ。ええな?」
「はぁ……解りました」
 たった今、目の前で安い挑発に乗せられてキレかけていた本人に短気を起こすな、と言われても説得力は皆無だった。
(……そういえば、そういう先生だった)
 鷹栖幸哉、体育教師で年は二十五。ルックス、スタイルの良さと人当たりの良い兄貴分な性格で男子女子問わず人気があり、特に一部の女子からは秘密裏ながらも熱烈なラブコールを受けるも、プライベートでの付き合いは一切無し。学生時代から付き合っている恋人の為に頑ななまでに操を守り通して――そして裏切られた男。
(しかも寝取った相手が実の兄っていうんだから、やりきれない話だよな)
 それらの情報を“記憶”の中から引き出すや、なにやら他人事ではないような気がするのは何故なのだろうか。
(“何故”だらけだな、いい加減慣れてきた)
 不可解な出来事も、それが日常的に続けば不可解では無くなるのかもしれない。
「とりあえず、相手が相手やし、今日の所はもう帰ってええ。傷はちゃんと消毒しとけよ」
「わかりました。愛川にも謝っておきます」
「それがええやろな。例えなんぞ理由があっても、男が女を殴るもんやない」
 先生は“元恋人”さんを殴らなかったんですか?――そんな疑問が喉まで出かかったが、口にしたら女ではない自分には確実に拳が飛んできそうだったから往人は黙る事にした。
「失礼しました」
 席を立ち、生徒指導室を後にする。いつの間にか日がすっかり落ち、校内はいくつかの照明を残してすっかり闇が濃くなっていた。
「ちょっと」
 昇降口へと向かう途中で、不意に“闇”から声をかけられた。声がした方を向くなり、頬に凄まじい衝撃が走り、危うく転びそうになった。
「これでチャラ」
 凍るような視線と侮蔑の目を残して去るその後ろ姿を見るなり、一端は消えていた胸の内の炎が再燃するのを、往人は感じた。
「待て!」
 声を荒げ、睨み付ける。相手もまた足を止め、ぎろりと見据えてきた。その顔を見ていると、ムカムカと際限なく苛立ちがこみあげてくる。
 最早、謝るどころではなかった。
「何よ、まだ何か文句あんの?」
「ああ、お前には言ってやりたい事が山ほどある!」
 そこまで言って、はたと往人は我に返った。そう、勢いに任せて口に出したはいいが、肝心要の“言ってやりたい事”の方がどうにも思い出せないのだ。
「……………………あー…………」
 そこまで啖呵を切った手前、何か言ってやらねば場の収まりがつかないのだが、相応しい文句が全くと言っていいほどに出てこない。
 気まずい、そして奇妙な沈黙が続き、そしてそれを破ったのは――どちらのものとも付かない腹の音だった。
「とりあえず、だな……」
 こほんと、咳払いをひとつついて、往人は提案してみることにした。
「喧嘩の前に、先に何か腹ごしらえでもしないか?」


 はて、一体全体どうしてこんな事になってしまったのだろう。駅前のファーストフード店、その二階席でテーブルを挟み、不機嫌そうにポテトを囓っている女の顔を見れば見るほどに、そのことに疑問を感じずにはいられなかった。
 昇降口の手前で往人が出した提案に、意外にも愛川は乗ってきたのだった。とはいえ、その第一声が「あんたの奢り?」であった辺り、なかなかどうして経済観念がしっかりしていると言わざるを得ない。
(ううむ……しかし、見れば見るほど腹が立ってくる……)
 もし前世というものがあるのなら、自分はきっとこの女に苦渋を舐めさせられつづけるような人生を送っていたのではないだろうか――そう考えてしまう程に、眼前の女の顔を見ているとむかっ腹がたって仕方がなかった。
「――で、」
 シェイクの蓋を外し、ポテトの先をつけては囓り、つけては囓りしながら、漸くに愛川が口を開いた。
「あたしに言ってやりたい事って、何よ」
「…………忘れた」
 どう答えたらいいものか窮した挙げ句、往人は正直に答えた。
「はぁ!? あんた、あたしをおちょくってんの?」
「おちょくってるわけじゃない。俺自身、ちょっと混乱してるんだ」
「……あんた、自分でもよくわかんないような理由で、いきなりあたしの横っ面叩いてくれたワケ?」
「……ごめん。あれは、本当に俺が悪かった。……本当はただ、ちょっと話し掛けようとしただけなんだ」
 ――なのに、と往人は胸の内の炎を押さえつけながら、続ける。
「愛川の顔を見た途端、なんだか無性にイライラして、ムカムカしてきて、つい手が出ちまったんだ」
「…………もしかしてさ、それ……釈明かなにかしてるつもりなの?」
「どう受け取られても構わない。とにかく……そういう事だったんだ」
 悪かった――往人は己の常識的倫理観に反って、深く頭を下げる。頭を下げながらも、胸の奥で燻る炎は「何でこんな奴に」と言い続けていたが、それらの言い分は一時的に無視することに往人は決めた。
「……あんたさー、そんなだったっけ」
 しばしの沈黙の後、不意にそんな事を訪ねられた。
「……どういう意味だ?」
「いやさ……あんた、相場往人っしょ。バスケ部のエースの」
「まあ……そんな感じ、かな」
 エースなのかどうかは自信はないが、バスケ部に所属していることは、周囲の反応によって解る事だった。
「なーんか、キャラ違くない? そんなじゃなかったでしょ、あんたは」
「……どんな奴だった? 俺は」
「んー……ヤな奴。一言で言うなら」
 お前が言うのか、と。うっかり突っ込みそうになってしまった。
「何、記憶喪失にでもなったの」
 それは恐らく、ただの冗談のつもりだったのだろう。
 だから。
「それに近い」
 そう答えたとき、愛川は驚くように目を丸くした。
「土曜日の練習試合の時、ちょっと強く頭を打ったんだ。……それから、どうにも調子が変なんだ」
「ふーん」
 どうやら、別段興味はそそられないらしい。ポテトも食べ終え、シェイクも飲み終えて手持ちぶさたなのか、ストローを口にくわえぴこぴこさせながら気のない相づちを返してくる。
「記憶喪失って言っても、そんなに大袈裟な事じゃない。家族の事や、友達の事だって殆ど覚えてる。自分の事も……だいたいの事は覚えてる。ただ――」
 ぐっと、そこで言葉を飲み込んだ。そこから先を口にするのは、些か勇気が居る事だった。
「ただ……何よ」
「……ただ一つだけ、ある人物に関する事だけ、全く思い出せないんだ。……それが――」
 その先は口には出さず、視線だけで往人は促した。
「……あたし?」
 往人は頷いた。
「何よそれ。他のことは全部覚えてるのに、あたしの事だけ何もかも忘れたっていうの?」
「……そういうことになるかな」
 厳密に言えば、他にも思い出せない事はいくつもあるのだが、それをいちいち説明した所で仕様がない。
「そのくせ、顔を見たら無性にムカムカイライラして、殴りかからずにはいられなかった、と」
 往人は頷く。
「……で、あんたはそんな話をして、あたしにどうして欲しいの? 整形でもして欲しいワケ?」
「いや……とにかく、言った通り、俺は愛川の事何も覚えてないんだ。だから、もしかしたら――」
「なーんにも無かったわよ。あたしと、あんたとは」
 往人の言わんとするところを先取りするように、愛川は答えた。
「特別仲が良かったわけでも、悪かったわけでもない。ただのクラスメイトではあったけど、話をしたことすら一,二度あったかどうか。そのくらいの関係よ」
 第一、と愛川は強い口調で続ける。
「あんたって確か、バスケ部のマネージャーの子と付き合ってんじゃなかったっけ。だったら尚更、あたしなんかお呼びじゃないでしょうが」
「ただのクラスメイト……か」
 別に、それ以上の仲であることを期待したわけでは無かった。しかし、ただのクラスメイトであると知って奇妙な落胆があったのも事実だった。
 そして。
(そういえば、俺……千晴と出かける約束してた……よな)
 愛川との悶着のせいですっかり頭から消し飛んでいた。きっと携帯には――鞄の中に入れっぱなしなのだが――これでもかという程に着信が入っている事だろう。
「ま、でも……別にいいんじゃない。あたしの事なんか思い出せなくったって生きてくのに不自由なんかしないっしょ」
 愛川の口ぶりから察するに、どうやら本当に“何でもない関係”だった事は間違い無いらしかった。
「あたしの顔見てムカつくんだったら、お互いなるべく顔合わさないようにすればいいだけの事だし」
「…………そういう問題なのかな」
「そういう問題よ」
 それに――と、愛川はさらに言葉を続ける。
「あたしは別に脳外科医でも、カウンセラーでもないの。お前に関する記憶だけを失った、なんとかしてくれって言われた所でなんともしてやれないし、真剣に相談に乗ってあげるほど仲がいいわけでもない。となれば、落としどころとしてはそんなもんでしょ」
「……そう、なるか」
 確かに、愛川の言うとおりだった。立場を入れ替えてみて、仮に自分がこんな話を聞かされて果たしてなんと答えるだろうか。凡そ、似たような事しか言えないのではないか。
(でも、それでも――)
 それは、何とも漠然とした……何の根拠もない“ただの期待”だったのかもしれない。
(ひょっとしたら、こいつならなんとかしてくれるんじゃないか、って……)
 何故、自分はそう思ってしまったのだろう。相手は、よく知りもしないただの同級生であるというのに。
「…………話、終わったのなら帰るわ。ごちそうさま」
 言うが早いか、愛川は颯爽と席を立ち、自分の分のトレイを片づけ始める。往人もまたトレイを片づけ、慌てて後を追った。
「愛川、待ってくれ!」
「何よ、まだ何かあんの?」
 店を出るなり足を止めて、心底迷惑そうに訪ね返され、往人は些か気圧された。
「……名前、聞いてもいいか」
「名前?」
「下の、名前。愛川っていう名字しか、俺は知らないんだ」
「…………………………真希」
 たっぷり十秒ほどの沈黙の後、真希はぽつりと呟いた。
「真の希望って書いて、真希。愛川真希、それがあたしの名前。……満足してもらえたかしら」
「……ああ。引き留めて悪かった」
 往人の言葉を最後まで聞く間もなく、ぷいとそっぽを向いて真希は夜の街へと消えた。その背を見送ってから、往人もまた帰路についた。

 自宅の前で、往人は意外な人物と顔を合わせた。
「千晴……」
 声を掛けると、家の塀に持たれるようにしていた人影がぴくりと動いた。
「往人……おかえり」
「……どうしたんだ、そんな所で。中で待ってれば良かったのに」
「うん、そうしようかと思ったんだけど……何となく、こっちでいいかなって」
「そっか。中、寄ってくか?」
「…………いい。ちょっと顔が見たかっただけだから」
 じゃあね、ばいばい――そんな呟きを残して、千晴は背を向ける。
「千晴っ!」
 その背を追ったのは、殆ど反射的なものだった。
「今日は……悪かった。その、放課後……ちょっとケンカしてさ……」
「うん、友達から聞いた。昇降口で、クラスの女子とつかみ合いのケンカして職員室に連れてかれてたって」
「……自分でも解らないんだ。なんで、あんな事をしたのか」
 そして、何故こうも簡単に千晴との待ち合わせを忘れてしまっていたのか。
「頭を打ったからだよ」
 往人の疑問に、千晴は間髪入れずにそう答えた。
「頭を打ったから、いつもの往人じゃなくなってるだけ。しばらくすれば、すぐに戻れるよ」
「……そうだな」
 すぐに戻れるものなら、戻ってやりたいと思う。自分の為ではなく、何より千晴の為に。
「……親に心配されちゃうから、もう帰るね」
 再び背をむけて、あっ……と何かを思い出すように、千晴は再度振り返った。
「メールとか、できるだけちゃんと返信してね。往人の事は信じてるけど……返事がこないと、凄く……不安になるから」
「ごめん……なるべく携帯見るようにする」
「うん、私が言いたかったのはそれだけ。じゃあね、往人」
 今度は足も止めず、振り返りもしなかった。一瞬、送っていくべきではないかと――そして千晴も暗にそれを期待しているのではないかと思ったが、往人はその背を追えなかった。

「あっ、ユキ兄ぃおかえりー!」
 玄関のドアを開けるなり、唯の黄色い声に出迎えられた。
「そうそう、さっきね、ハル姉ぇが来てたよ。ユキ兄ぃに用があるみたいだったから上がって待ってればーって言ったんだけど」
「知ってる。今、家の前で会った」
「家の前で会ったって……ハル姉ぇが来たのは二時間くらい前だよ? もしかして――」
「唯、風呂……沸いてるか?」
 妹の言葉を遮るように、往人は切り出した。
「うん、もう準備は出来てるけど……」
「そっか、んじゃ今日はメシの前に先に風呂にする」
「あっ、ちょっとユキ兄ぃ! ねえ、それ引っ掻き傷じゃないの? ハル姉ぇと喧嘩したの?」
「喧嘩はしたけど、相手は千晴じゃない」
 話は終わりだ、とばかりに往人は自室に入ると同時に後ろ手でドアを閉めた。勉強机の上にどさりと鞄を置き、しまいっぱなしだった携帯を取り出し、着信履歴を確認した。
 通話の着信が七、メールが五、全て千晴からのものだった。今更返信を返すのもどうかと思って、結局そのままにすることにした。


 数日が過ぎた。
 依然として本来の自分を見失ったまま、それを取り戻すために放課後になると千晴と共に出かけ、かつてデートで行った場所などへと赴いたりした。が、それによって何か事態が好転するという事は皆無だった。
「ねぇ、往人……そろそろ部活、戻った方がいいんじゃないかな」
 千晴がそんな話を切り出したのは、徒労ともいえるデートもどきを何度か繰り返した後の、その帰りのバスの中だった。
「みんなに心配かけるから、しばらく行かない方がいいって言ったのは千晴だろ」
「そうだけど……もう一週間だよ? 秋まで公式戦はないけど……練習とか、ちゃんと参加しないと……」
「……そうだな」
 同様のことを、千晴に限らず他のチームメイトからも何度か言われていた。その都度、答えをはぐらかしてきたのには、勿論理由があった。
(……どうでもいい)
 日が経つにつれ、部活動に対して全くと言っていいほどに興味を失いつつあった。かつてはあれ程までに、それこそ命を燃やすほどに練習に打ち込んでいたというのに。今はどうしてもそこまで打ち込む気になれないのだ。
 どうにも、頭を打って以降価値観が激変したと思わざるを得なかった。そして何よりそのことを如実に感じるのは、千晴の側に居る時なのだ。

「……最近、いつも見てますね」
 席が隣とはいえ、必要が無ければ特に別段話もしない。隣席のクラス委員長とはその程度の仲なのだが、それだけに不意に話し掛けらると少し驚いたりもする。
「ん? 委員長、何か言った?」
「……いえ、別に」
 ふいと、多恵は黒板の方へと視線を戻す。往人もまた、黒板の方へと視線を戻し、古文教師がつらつらと書き連ねる一見日本語のようでそうではないような文章をノートに写していく。
 が、次第に視線が逸れ、そしてある一点で止まる。そこでは一人の女子生徒が机に突っ伏したまま、すうすうと規則正しく肩を揺らしていた。
 寝ているのは、言わずもがな愛川真希だった。
(はて……そんなに見てるかな)
 自覚が無かっただけに、多恵に指摘されたことがややショックだった。もしやあらぬ誤解まで受けているのではという危惧が沸くが、下手な弁解をすればより誤解を強める結果になる気がして、往人はあえて弁明はしなかった。
 あの日、昇降口での喧嘩の後、ファーストフードを奢らされてからというもの、なにげにただの一度もまともに正面切って顔を合わせてもいなければ、話すらしていない。
 最近になって、ひょっとして意図的に避けられているのではないかと往人は思い始めた。
(……顔を見るだけでムカつくって、俺が言ったからか)
 そのことを気にして、なるべく顔を合わせる事がないようにされているのだとすれば、それは心苦しい事だと、往人は思う。だからといって、「別にムカつかないから、普通に仲良くしようぜ!」などと声をかけるのもどうかと思い、結果的にはてさてどうしたものかと寝相ばかりを見て過ごすハメになっていた。
(……変わったやつだ)
 この一週間、実は往人なりにそこはかとなく級友達から真希に関する情報を集めたりもした。
 その中で最も意外だったのが、学年一位を一度も譲ったことがないという成績の良さだった。というのもこれには後日談があり、その件で彼女は教師達と一つの取り決めを交わしたらしいのだ。
 それは、テストの成績が学年で一番をとり続ける限り、授業中に睡眠を取る事を決して妨害しないことだった。
 真希に言わせれば、学校の通常授業などは非効率極まりなく、だったらその間寝て独学で勉強した方が時間の使い方としてマシだという事らしいのだ。
 勿論その件で憤慨する教師達も初めは居たらしいのだが、一人は真希との熾烈な舌戦の末完膚無きまでに論破されぐうの音も出なくなり閉口、一人はどういうわけか数日経たないうちに反対派から黙認派へと謎の鞍替えをしたりと、結果的に彼女との取り決めに関して異を唱える教師は居なくなったらしい。
 真希に関する噂話はそれだけでは収まらず、他にも両手の指では足りないほどに様々なものがあった。――その中には、信憑性が疑わしいとはいえ、いくつか聞き捨てならないものも交じっていた。



 授業が終わり、昼休みになっても尚、眠り姫は相変わらず眠り姫のままだった。往人は少しばかり思案して、購買部の売店へと向かった。腹を空かせた生徒達の群れで雑多としている中をかき分けかき分け、どうにか二人分の調理パンとパックのいちご牛乳二つを購入し、教室へと戻った。
 大小それぞれ仲の良い者同士で固まって昼食を楽しんでいるクラスメイト達の中、唯一取り残されたかのように眠りこける真希の席の前に立つや、往人はそのうなじにピタリと、よく冷えた紙パックを押し当てる。
 ひっ、という声を上げて、たちまち真希は顔を上げた。
「おはよう、愛川」
 とりあえず軽やかに挨拶などしてみたが、どうやら相手はまだ完全に意識が覚醒していないらしく、寝ぼけ眼をぱちくりさせるばかりでこれといった反応を示さない。
「飯、一緒に喰わないか?」
 往人は手に持っていた調理パンを、寝ぼけ眼の前にぷらぷらさせる。
「………………。」
 大分意識がはっきりしてきたのか、寝ぼけ眼が次第に猜疑の目へと変わる。さながら、野良猫が目の前にエサをちらつかされて、人の手の届く範囲まで行こうか行くまいか迷っているような、そんな目だった。
「ついでにちょっと話があるんだ」
 返事は無かった。代わりに、ひったくるようにしてパックのいちご牛乳と調理パン二つが奪い取られた。そのまま真希は席を立ち、足早に教室から出て行った。それは付いてこいという意味だと勝手に解釈して、往人は後に続くことにした。


 真希はそのまま階段を上がり、屋上へと出ると、その脇の日陰へと入った。コンクリートの地肌の上に胡座をかく真希の真ん前に陣取る形で往人もまた座る。
「……何でついて来んのよ」
 真希は露骨に迷惑そうに言いながらも、余程腹が減っているのかすでに菓子パンの一つをあけて囓り始めていた。
「ついてこいって事なのかと思った」
「……勘違いに身を委ねられるっていうのも、一つの才能ね」
 凡そ、人が買ったパンと苺牛乳をむしり取った人間の口にする言葉遣いではなかった。
「……何か用があるんじゃないの」
 まるで幽霊か何かにでも話し掛けているように、そっぽを向きながら真希がそんな言葉を口にしたのは、菓子パンの一つを平らげた後だった。
「ちょっと話がしたくてな」
「手短に済ませなさいよ。忙しいんだから」
「起きてる暇が無いくらい忙しいってのは、よく知ってる」
 嫌味のつもりであったのだが、真希は別段何も反応を返さなかった。
「……クラスの奴らから、愛川の噂をいろいろ聞いた」
 真希は黙って二つ目の菓子パンの袋を開ける。往人も話を続けた。
「昼間寝てるのは、夜に援助交際やってるからなんだって?」
「ええそうよ」
 間髪いれずに、真希は答えた。
「五千円払えば口で、三万払えばヤらせてくれるとか」
「相場はそんなもんね」
「避妊に失敗してもう三人堕ろしたとか」
「まだ二人」
「お前の我が儘を先生達が黙認してるのは、“客”が交じってるからだって話も聞いた」
「それも本当」
「成績がいいのも、その“客”が試験問題横流ししてるからだとか」
「それは嘘。試験の結果がいいのは、ただ単に頭の出来が違うだけ」
「成る程」
 真希の言葉に奇妙なまでに納得をしてしまって、往人もまた遅まきながら菓子パンを食べ始める。
「………………普通は――」
「ん?」
「女子にそういう事を訪ねる時は、もう少し聞きにくそうに話すものよ」
「俺もそうだと思う」
 確かに、大して面識のない女子相手に「売春やってるって本当か?」等と我ながらよく口にできたな、と往人は思う。
「でも何となく、愛川にはそういう気遣いは無用って気がしたんだ」
「勝手な憶測で人を勝手に無神経にしないで。こう見えて、あたしの心は出来たての飴細工みたいに繊細なの。さっきの質問、もの凄く傷ついたわ」
「でも、概ね本当の事なんだろ?」
「まあね」
 悪びれもせず言って、空になった紙パックを往人のカッターシャツの胸ポケットについと押し込んでくる。
(…………こういう女だ)
 真希のそんな仕草を怒る前に、これまた奇妙な納得が往人の心に満ちた。大してよく知りもしない相手なのに、一挙手一投足が悉く喧嘩を売っているようなその所業がなんとも“らしい”と感じてしまう。
「なぁ、愛川」
「何よ」
「……愛川って、なにげに胸デカイよな」
「はぁ……?」
 そういった問いかけは全く想定していなかったのか、真希はなんとも間の抜けた声を上げた。
「背も高いし、足も長い。モデルでも目指せば結構良いところまでいけるんじゃないのか」
「何よ……あんた、一体何が目的なの?」
 真希の目には不可解な生物とでも映ったのか、俄に右手で胸元を、左手でスカートを延ばして太股を隠しながら疑惑の目を向けてくる。
「いや、別に……目的なんて無いんだが」
 事実、往人にも一体全体どうして自分が身銭を切ってまでこの捻くれた女と接触を持ってしまったのか解らなかった。
 だだ、唯一の真実は――
(……やっぱり、巨乳……だよな)
 女子の夏服は男子が白の半袖カッターシャツなのに対して白のブラウスに胸元リボンという形なのだが、真希の場合はそのリボンをつけず、さらに襟元も開いているためにことさら目立って仕様がない。
(いやこれは、ボタンがつけらんないんじゃないのか?)
 そのあまりの質量で――と、見れば見るほどに、往人はごくりと喉を鳴らしてしまう。
(……俺は別に、巨乳なんて好きじゃなかった筈なのに)
 むしろ美乳、微乳の方が好きであった筈だ。現に部屋に隠してある秘蔵のエロ本は全てその類であるし、“彼女”である千晴もまた彼氏としての贔屓目補正をかけて絶壁とまで言わないまでも、微乳(本人は微ではなく美の方だと言い張っていた)だ。
 巨乳などはむしろどんぶり一杯のぜんざいでも見せられている気がして、胸焼けしてくるくらい嫌いだった筈なのだが。
(何だろう……このムラムラとこみ上げてくる感じは……)
 夏服のブラウスの形を歪めてしまうほどのその質量を見ていると、以前とはまったく違った類の苛立ちがこみ上がってくる。そう、“こんなふしだらなものを見せつけるなんて、けしからん!”と叫びだしたい気分に支配されるのだ。
「愛川、それ……何カップくらいあるんだ?」
 好奇心を抑えかねて、往人はつい口に出してしまった。が、しかし真希は不審そうな目をするばかりで質問には答えなかった。
(……援交してるのか?って聞いた時は即答だったのに、胸のサイズは黙秘なのか)
 この女の基準はわからん、と。往人が首を捻りかけた時、不意に真希が立ち上がった。。
「……あんたも、あたしをそういう目で見るのね」
「えっ……」
 つかつかと、校舎への入り口の方へと歩き出した真希を、往人は食べかけのパンを慌てて口に押し込めながら後を追った。
「おいっ、待てよ愛川!」
 呼びかけは、完全に無視された。堪らず、往人は反射的に“本題”を叫んだ。
「先週の日曜日ッ」
 ぴたりと、階段を下りる真希の足が止まった。
「先週の日曜日の夕方、何処で何をしてた?」
「………………家で寝てたわ」
 吐き捨てるように言って、真希は段飛ばしで階段を下りそのまま往人の視界から消えた。
「……家で、寝ていた?」
 そんな筈はないだろう――そんな呟きを、往人は己の心中で聞いた。


 六時限目が終わり、多恵の掃除当番を前言通り肩代わりした後、往人は帰路についた。本音を言えば、“日曜日の件”でもう少し真希を問いつめたくはあったのだが、昼休み以降露骨に避けるような挙動をとられて断念せざるをえなかった。
 断念はしたが、代わりに確信を得た。
(……あれは、やっぱり愛川か)
 往人自身、あの出来事は白昼夢の類ではないかと結論づけ、殆ど気に掛けなくなっていただけに、土壇場で真希とそのことを結びつけた自分にある種驚きを隠せなかった。
(……だから、愛川の事が気になったのか)
 長らく疑問に思い続けてきた事に漸く答えが見つかった。思い返せば、確かにあの時に聞いた声は愛川真希の声に相違ないように思える。
(あいつ……何か知っているのか)
 往人にとって、愛川真希が売春婦であるとか、教師と密通しているとか、そういった事はさほど問題ではなかった。勿論、そういう話を聞いていい気分にはならなかったが、それよりも何よりも“今の状況”を打破できる鍵が漸く見つかった気がして、その嬉しさの方が遙かに勝った。
(……“俺”は、相場往人じゃない……)
 相場往人として暮らすうちに日に日にそのことを強く感じるようになった。というより、そうとでも思わなければ理解できない事が多すぎた。
(それに――)
 頭を打った後、風呂に入ろうとした時だった。自分の裸など見慣れたものの筈なのだが、その見慣れたものの筈の一部が、激しく往人を落胆させた。
 そんな馬鹿な――と、あまりのことにその場に泣き崩れそうになった。違う、こんなものは、俺のではないと。記憶の中では間違いなくそれが自分のサイズだと知っているのに、往人はどうしてもそれを認めたくはなかった。
 だから、というわけではないが、それが自分は相場往人ではないと思い始める一つの理由になったことは否めない。
 しかし、裏を返せば“それだけ”だった。ただ、自分は本当の自分ではないと感じるだけ。他人から見れば気のせいでは?の一言で片づけられかねない問題であり、自分でもどうすれば良いのか全く解らなかった。
 その糸口が、漸くに見つかったのだ。

「ただい……ま?」
 いつもより若干晴れた気分で自宅へとたどり着き、玄関のドアを開けると見慣れぬ靴が礼儀正しく置かれていた。
「あ、ユキ兄ぃ! おかえりー!」
「……どうも、お邪魔してます」
 台所からどたどたと足音を響かせながら出てきたのは、王冠のようなものをかぶり、首に大きな鍵つきのネックレスをつけたメイド服姿の唯と、ずんぐりむっくりとした緑色の怪獣のような被り物をした男の子だった。
「紹介するね、同じコスプレ部のユウ君だよ」
「初めまして。宮部優一といいます」
 人見知りをするタチなのか、それともコスプレ自体慣れないのか、優一はもじもじと顔を赤らめる。
「初めまして。……えーと、俺は往人。唯の兄貴だ」
「はい、お話は……唯さんから色々伺ってます」
 話はいろいろ伺っていると言いながら、優一はまるで脅えた獣のような目で往人を見る。恐らく、唯にあることないこといろいろ吹き込まれているのだろう、と往人は納得することにした。
「今度ね、近くの幼稚園で劇をすることになったの! だから今日はユウ君と一緒にセリフ合わせとか殺陣とか練習してたの」
「へぇ……幼稚園で劇か」
 演劇部ならいざ知らず、コスプレ部が何故劇を?
 鍵つきペンダントのメイドと出っ歯で腹部に赤と黄色のシマシマがある緑の怪獣は同じ劇に出るのか?
 そもそも学校じゃなくて何故家で練習を?
 殺陣の練習が必要ということは、斬り合いのシーンでもあるのか?
 いくつもの疑問が頭の中に沸いてはぐるぐると旋回を始めるが、往人はあえて聞かない事にした。
「まぁ、練習するのはいいが、あんまりうるさくするんじゃないぞ。俺はかまわないけど、ヒロ兄が――」
 そこまで言いかけて、はたと往人は思い出した。朝食の際に、今日は遠方の友人の家に用事で出向くから、帰りは遅くなるか朝になると、弘樹が言っていた事を。
(……なるほど、だから友達を家に呼んだのか)
 劇の練習というのはただの名目で、単純に友達を家に呼んで遊びたかっただけなのかもしれない――少なくとも往人はそう解釈することにした。
「……まぁいいや。とにかく、程々にな」
「うん! ……そうだ、ユウ君、折角だからユキ兄ぃに練習見てもらおうよ!」
「えぇっ……」
 緑の怪獣が、先ほどの三倍顔を赤くする。
「そんな……人前でなんて……まだ、心の準備が……」
「ね、ユキ兄ぃ。ユウ君ってとってもあがり症で人見知りするタイプなの。人前でちゃんとお芝居できるようになる訓練だと思って、ただ座って見ててくれるだけでいいから、お願い。手伝ってぇ」
「……わかった。見てるだけでいいなら手伝おう」
 じぃ、と上目遣いにおねだりされ、往人はしぶしぶ引き受ける事にした。
(……俺は、唯のこの目には弱いんだよな)
 もっとも、元々相場往人が弱かったのか、それとも“自分”だけがそうなのかは解らないが。
「やったぁ! それじゃあユキ兄ぃ、こっち来て座って!」
 手を引くようにして居間へと連れて行かれ、往人は片隅へと座らされた。
「あ、あの……唯さん、本当に……やるんですか? 練習っていったって、まだ少ししか……」
「でも、あそこが一番の見せ場で山場なんだよ? 主人公の怪獣が魔王の城へと潜入したら元恋人のメイド姫に待ち伏せされてて、メイド姫の入滅第三波動で魔王と闘う前にいきなりHP1にされちゃう悲劇のシーンなんだから」
「劇なのにHPって……それに、主人公が怪獣……メイドなのに姫……」
 ひょっとすると、自分はとんでもない作業を引き受けたのではないだろうか――その往人のカンはずばり当たっていた。

「ねーねー、どうだった? 劇面白そうだった?」
 日が落ち、優一が丁寧な挨拶を残して帰るなり、玄関先で飛びつくようにして唯に尋ねられた。
「悪くはないと思う……が、ちょっと幼稚園児には話が難しすぎるんじゃないか?」
 練習を見せられながら、往人もまた簡単にではあるが台本に目を通した。赤ペンでの×やそのあとの描き直し等々満載の台本はどうやら唯本人が手がけたものらしい。
(台本を見る限り、他の主要登場人物は五人か)
 どうやら他にもエルフだの魔法使いだの色々と出てくる劇らしい。メンバー的にはいかにも幼稚園児向けに思えるのだが、肝心の話の内容はといえばドロドロの愛憎劇だったりする。
「台本はまだまだ未完成だから。これからみんなと話し合いながら、じっくり煮詰めていくんだよ!」
「そうか……」
 煮詰める前にそもそも根本的な部分が間違っているような気がしたが、往人はあえて黙っていることにした。
「あれ、どうしたのユキ兄ぃ。ちょっと元気ない?」
「……そう見えるか?」
 気分としては、むしろ普段よりも晴れやかなのだが、もしそう見えるとすれば先ほど散々見せられた奇妙奇天烈摩訶不思議な殺陣やらセリフ回しのせいだろう。
「あっ、ひょっとしてユキ兄ぃ、ユウ君に嫉妬してる?」
「いや、べつに……」
 一も二もなく否定することで、真実嫉妬などしていないと示したつもりだった。
 が、どうやら唯には伝わらなかったらしい。
「ユウ君はね、確かに男子では一番の友達だよ? でもそれはあくまで部活のメンバーとしての仲の良さであって、彼氏彼女とかそういった事は何もないの」
 まるで、必要以上に弁解をすることで往人に邪推を促すような、そんな言い回しだった。
「でもね、私は何とも思ってないんだけど、ユウ君は多分私の事好きみたい。コスプレ部に入ったのだって、私が声かけたからだし。部活中も私がちょっと声かけたりするだけで、顔真っ赤にしてオロオロしちゃうんだよ?」
「……あんまりからかったりするなよ」
 往人としては、普通に礼儀正しく初見で好印象を持った後輩が悪戯好きの妹の餌食にされるのが忍びなかった。そういう気持ちから出た言葉だったのだが。
「大丈夫だよ、唯が本当に好きなのはユキ兄ぃだけだもん」
 そしてまたすすす、と身を寄せてくる。まだ十三歳になったばかりだというのに、既にその足運びはまるで男を散々食らいつくした女のそれのようだった。
「ねぇ、ユキ兄ぃ。今夜はヒロ兄も帰り遅いし、ずっと二人っきりだよ?」
 ふーっ、と耳の裏に息を吹きかけながら体をまさぐってくるその動き。一体どこでそんな手つきを覚えたんだと、叱りつけたくなるような動きだった。
「最初はごはん? お風呂? それとも……いきなり兄妹の一線越えちゃう?」
「普通にごはんがいいな、俺は」
 ぶう、と忽ち唯が頬を膨らませる。さもノリが悪い、とでも言いたげな顔だった。
(……お前は一体俺にどうしてほしいんだ)
 と、往人は何度妹に突っ込もうと思ったか知れない。ことある事に誘惑まがいの事をしては、あくまで“まがい”なだけで結局それ以上の事はなにもない。
(……しまいには、本気で襲うぞ?)
 実の兄妹ならばいざしらず、あいにく唯とは血は繋がっていない。義理の妹という奇妙な肩書きさえなければ、ただの年下の女の子なのだ。
(ただ、十三歳……)
 下手に手を出そうものなら、ありとあらゆるものから総攻撃を受けそうな、そんなナイーブな年齢だ。勿論往人もそういった極端に年下の女の子を性の対象として見るような歪んだ性癖は持ち合わせていないから、風呂上がりに下着一つで家の中をうろついたりする妹に対して別段劣情を催したりはしない。
(……だけど、唯って結構……発育いいよな)
 年こそ十三歳であるのだが、胸の発育っぷりなどは千晴とは比べものにならない。すらりと延びた長い脚や白い太股も、視界に入った瞬間どきりとして、そしてすぐに「義理とはいえ妹じゃないか」と胸の中に沸きそうになったものを押し殺したりすることも少なくない。
(唯も俺と同い年に……十七歳になったら、真希みたいになるのかな)
 脳裏に、昼休みにさんざん拝見した真希の巨乳が蘇る。今はまだちんちくりんな少女臭さが抜けきっていないが、もしあれくらいのプロポーションに成長した唯からモーションを仕掛けられたら、はたして自分は拒絶しきることが出来るだろうか。

 結局、夕食はありあわせのインスタント食品で済ませ、当然の事ながら風呂も別々に入った。自室にもどって、ふと鞄に携帯がいれっぱなしだった事を思いだして取り出してみると、千晴からの通話着信が五件、留守電が一件、メールが二件入っていた。
「…………。」
 往人は留守電は聞かず、メールも開かずに再び携帯を鞄にしまってベッドに潜り込んだ。



 
 

 翌日、往人は真希からさらに詳しい話を聞き出すつもりだった。その願いが通じたかのように、真希は二時限目の終わり際に教室に現れた。しかも眠るわけではなく、やや気怠そうではあるが頬杖をついたまま形の上だけでも授業を聞いているという体勢を保ち続けた。
 ただ、机の上にはノートも教科書も何も広げられていない。呆然と、まるで教師の声をBGM代わりに考え事に浸っている様だった。
 休み時間になり、往人は早速真希の机へと近づいた。
「話し掛けないで」
 一も二もなく、真希は鋭く言うとたちまち席を立ち、教室から出て行ってしまった。その背を追わせないほどの気迫を真希の語気に感じて、往人はしぶしぶ自分の席へと戻った。
「……気を付けた方がいいですよ」
「委員長?」
 席に戻るなり、文庫本に目を落としたままの多恵が呟く。
「愛川さんってあまりよくない連中との付き合いがあるらしいんです。……相場君もその仲間だと思われますよ」
「……へえ」
 言われてみれば、確かに最近後ろ指を指される事が増えたような気がする。それは偏に、部活をサボり続けているせいかとも思っていたが、どうやらそれだけではないらしい。
「別にいいよ。悪く言いたい奴には言わせておけばいい」
「そうですか。…………相場君、変わりましたね」
 ぱたん、と多恵が文庫本を閉じる。
「よく言われる。どうも頭を打ってから、価値観が激変したらしい」
「……私は、前の相場君は嫌いでした。自分勝手で、いっつも掃除をサボって、皮肉屋で口が悪くて、私が本を読んでいるのにしつこく話しかけてきたりして、正直、毎日不愉快な思いをしてました」
「……ごめん、俺が代わりに謝っておくよ」
 往人なりの、一種の冗談のつもりだった。意外にも、多恵は小さく笑みを零した。
「……愛川さんと巧く行くといいですね」
「いや……別に、そういうつもりで話し掛けたりしてるわけじゃ……ないんだけど」
 さすがに、“本当の理由”までは言えない。言ったところで、頭のおかしいやつと思われるのが関の山だろう。
「ただ、なんていうか……あいついつも一人みたいだからさ。俺くらい話し掛けてやんないと可愛そうかな……って」
「そうですね。……そういう事にしておきます」
 ふふふと意味深な微笑みを多恵に向けられ、往人はもう何も言えず、ただ頭を掻く事しかできなかった。


 真希は、次の授業が始まっても、そして昼休みになっても戻ってこなかった。五時限目が終わり、そして六時限目の数学の終わり際に戻ってきた時には、頭に思いきり寝癖がついていた。どうやら、何処かで隠れて昼寝していたらしかった。
(次こそは……)
 と、往人は心に決めていた。HRが終わり次第、真希に問いつめるつもりだった。多少嫌がられようが、こちらとしても引き下がるわけにはいかない。
 担任の話が終わり、多恵の号令と共に教室内に一斉に椅子を引く音が響く。HRが終わると同時に、往人は半ば駆け出すように真希の元へと歩み寄った。真希もまた、それを察知していたかのように、鞄を手に猛ダッシュで教室から飛び出していく。
「なっ、こら! 逃げんな!」
 呼びかけは、完全に無視された。生徒でごった返している廊下を縫うように走り、たちまち小さくなるその姿を、往人は追った。
「ンなろ……元バスケ部エースをなめんなよ!」
 階段を飛ぶように降り、昇降口で漸く追いつきかけた所で、往人の目に思いも寄らぬ人影が舞い込んできた。
「千晴……」
 昇降口、往人のクラスの下駄箱の前に立つ千晴の姿に、往人の足は完全に止まった。その隙に、真希は手早く靴を履き替えて校舎の外へと出て行ってしまう。最早、追いつくのは不可能だった。
 程なく、千晴の方も往人に気が付いたらしかった。
「往人、一緒に帰ろ」
「……ああ」
 嫌だと、断る理由がない。ただそれだけの理由で、往人は千晴の誘いにのった。靴を履き替え、並んで校舎を出、校門を出る。その間、会話らしい会話は殆ど無かった。
「……ねえ、今……携帯……持ってる?」
「鞄の中、かな」
 往人はしぶしぶ鞄の中から携帯電話を取りだした。最早日常の必須アイテムといえるものの筈だが、どうにも身につけておく習慣が無く、いつも鞄に入れっぱなしになってしまうのだ。
「……電池切れだ」
 そして充電もまたよくし忘れる為、電源が落ちたままになっていることも少なくない。
「そっか。だから、返信出来なかったんだね」
 納得した、とでも言うかのように、千晴が笑顔を見せる。昨日も、その前のメールも通話着信も全て無視されている事など、まったく気にしていないか、忘れているかのようだった。
「最近……どう?」
「どうって?」
「色々。往人、最近何も言ってくれないんだもん。勉強とか、テレビの事とか、何でもいいから、往人の話が聞きたいなぁ、って思って」
 だから誘ったの――と、千晴の口調はまるで故人の話でもしているかのような口ぶりだった。
「別に、特に千晴に話すような事は何もないよ」
「本当に?」
 妙なところで念を押され、往人は「ああ」とぶっきらぼうに返事をした。
「そ……っか。往人がそう言うなら、きっとそうなんだね」
「……なんか、引っかかる言い方だな。どうかしたのか?」
「別に……なんでもない」
 それきり、会話が途絶えた。無言のまま歩き続け、気が付くと千晴の家の前まで来ていた。
「ねえ、少し寄っていかない?」
「……ああ」
 本当は、断りたかった。しかし、千晴の今にも泣き出しそうな笑顔が往人に拒絶を許さなかった。
「今日は親の帰りが遅いの」
 玄関の戸を潜るなり、千晴が言った。往人は聞こえなかったフリをしながら、「おじゃまします」と、千晴の後に続いた。
(……覚えてる。“前”はよくこうして、千晴の家に遊びに来てたんだ)
 家具の配置や、階段の何段目が踏むと軋むかまで、体が覚えていた。
(…………大体いつもお袋さんが家に居て、セックスをするのも一苦労だった……)
 階下から聞こえてくるちょっとした物音にいちいちキスを中断したり、階段を上がってくる足音に慌てて服を着たり――そんな思い出が次々に蘇ってくる。
「ねえ、往人」
 階段を上がりきったところで、不意に千晴が足を止めた。
「何処が私の部屋か解る?」
 一体全体何の冗談だろうかと、往人は思った。ちなみに階段を上がった所に廊下が一本左右に走っていて、廊下の左奥にドアが一つ、その左右に二つと右奥の左右に二つずつの系五つのドアがあった。
「解るさ。千晴の部屋はあそこで、向かいが今は大学行って一人暮らししてる姉ちゃんの部屋。あっちが物置で、あそこは親父さんの書斎、最後の一つはトイレだろ」
「うん、正解。そういう事はちゃんと覚えてるんだね」
「まぁ、な」
 改めて、千晴に誘われる形で部屋へと入った。予め家に呼ぶつもりだったのか、往人の記憶の中よりもかなり丁寧に部屋は片づけられていた。
「往人……」
 腕を引かれて往人はベッドに座らされ、半ば強引に唇を奪われた。
「っ……千晴?」
 強引なのは、唇だけではなかった。全身で、体重をかけるようにベッドに押し倒される。千晴はキスを続けながら、カッターシャツのボタンをいくつか外すとそこから手を差し込んでなで回し始める。
 記憶の中にある、千晴の愛撫そのものだった。
「今日は大丈夫な日だから、つけなくてもいいよ」
 一頻りキスをした後、耳元で千晴が囁く。
「往人の……いっぱい、頂戴」
 最後の一言は、なんともぎこちない――恐らくは、千晴なりの精一杯の“誘惑”だったのだろう。てろ、てろと耳を舐めるように囁かれて、思わず反射的に往人は千晴の肩口を掴み、体を入れ替えるようにして逆に押し倒した。
「ぁっ……」
 と、微かに声を上げ、千晴は体の力を抜いた。好きにしていい、という事だと、往人は“経験”で知っていた。
(……いつもは、過剰なくらい、避妊にはうるさかったのに)
 例え安全日でも、中出しなどは勿論の事、スキン着用も義務づけられていた。“相場往人”もまた、渋々ではあるが千晴の要求を呑み、避妊をしっかりしたセックスを遵守し続けたのは偏に、眼前の女性の事を心底愛していたからだ。
「……っ……」
「往人……?」
 そう、自分は――“相場往人”は、間違いなく梶千晴のことが好きだった。
 なのに。
 なのに何故。
「……悪い、千晴。……今日は、ダメだ」
 千晴の側に居ると、まるで親友の彼女に手を出しているような、強烈な罪悪感に苛まれるのだろう。
「ダメ……って、どうして……」
「……勃たないんだ」
 事実だった。千晴の期待に応えてやりたいと思う反面、身を焦がさんばかりの罪悪感が、性欲や肉欲といったものの一切を消し飛ばしてしまっていた。
「だったら、私が口で……」
「いや、いい」
 体を起こし、手を伸ばそうとした千晴を、往人は言葉で制した。
「もう、止めよう……千晴」
「えっ……」
 千晴が、息を飲む。切り出すのは、今しかないと、往人は思った。
「……別れよう」



「愛川、話がある」
 翌日、往人は真希が登校し休み時間になるや否や、逃げようとするその腕を掴んで強引に切り出した。
「大事な話だ。放課後、屋上に来てくれ」
「……何であたしがあんたの話なんか聞かなきゃいけないのよ」
 ふんっ、と鼻を鳴らして真希はそっぽを向くが、往人はその顎を掴み、強引に自分の方を向かせる。
「重ねて言う。“大事な話”だ。絶対に来てくれ。来てくれなかったら、次はお前の家に押しかけてでも話を聞いてもらう」
 そこまで言ってから、往人は漸く真希の手を離した。かなり強く握りしめていたからか、真希は握られていた手を擦ったり、ぷらぷらしてみせたりした後、ぷいと教室から出て行ってしまった。
「委員長、さんきゅ」
 それを見届けてから、往人はさりげなく小声で多恵に礼を言った。実のところ、逃げる真希を捕まえられたのは、絶妙なタイミングでその逃走経路上を多恵が横切り、僅かながらも足止めをしてくれたからだった。
「偶然ですよ」
 素っ気なく言って、多恵は自分の席へと戻ると再び文庫小説を開き、読み始めた。往人もまた席にもどり、次の授業の準備をすることにした。


 放課後、HRが終わるなり真希は颯爽と教室を出て行った。本音を言えば、往人はその腕を掴んででも屋上に――別に屋上でなくとも、ゆっくり二人だけで話ができる場所ならばどこでもいいのだが――引きずっていきたい所だったが、その前に先にやっておかなければならない事があった。
 往人は屋上ではなく職員室へと向かい、見知った人影を捜した。
「安藤先生」
「おう、相場か。どうした?」
 長らく部活を休み続けている相手だというのに、往人に向けられた声は以前耳にしていた安藤の声と少しも変わらなかった。
「……突然ですけど、一身上の都合で退部します」
「うん、そうか」
 意外にもあっさりと、安藤は頷いた。
「皆には、俺から言っとく」
「……先生? ええと、その……俺……」
 ただの一言も引き留めるような言葉はなく、あまりにもあっさりと承諾されて往人は毒気を抜かれたような気分だった。正直、怒鳴りつけられるくらいの事は覚悟していただけに、安藤の態度は不審を通り越して妙に好奇心を擽られた。
「いや、な……お前が頭を打って、人が変わっちまったっていうのは、俺も散々漏れ聞いていた所でな。……まぁ、退部も想定の範囲内ってやつだ」
 安藤は困ったような笑みを浮かべ、所在なさげにぽりぽりと些か薄くなりはじめた頭を掻いてみせる。
「元はと言えば、練習試合中の事故が原因だ。本来なら、俺もお前の両親に謝りに行かなきゃいかん所なんだが」
「義父は外国ですし、別に入院するほど酷い怪我だったわけじゃないですから。気にしないで下さい」
「そう言ってもらえるとな……俺としては救われるわけだが……病院には行ったんだろ?」
「はい。全く異常はない……との事でした」
「そうか。俺の目から見りゃ……異常ありまくりなんだけどな。……お前、敬語なんか使える奴じゃなかっただろ」
 くっくっく、と何かを思い出すように安藤は体を揺する。
「とりあえず退部の件は了解した。しばらくは色々言ってくるやつもいるかもしれんが、気にするな。一度きりしかないお前の人生だ、好きにしろ」
「ありがとうございます」
 頭を下げて、職員室を去ろうとしてはたと、往人は振り返った。
「安藤先生。……その、ひょっとしたら……ですけど」
「何だ?」
「少し、時間がかかるかもしれませんけど……もしかしたら、“俺”がまたバスケ部に戻してくれって言いに来るかもしれません。その時は多分、敬語も使えない奴に戻ってると思いますけど、使ってくれますか」
「おう、勿論だ。お前は忘れてるかもしれんが、うちのエースなんだからな。戻ってきてくれるなら、いつでも歓迎するぞ」
「……ありがとうございます」
 先ほどよりもさらに深く頭を下げて、往人は職員室を後にした。



 

 
 
 職員室を去った後、往人はすぐさま屋上へと向かった。が、真希の姿は無かった。
「あんニャロ……」
 矢張り、退部の件など後回しにしてでも無理矢理腕を引っ張って連れてくるべきだったか。
 仕方なく踵を返し、階段を下りていくその途中で、往人はなにやら諍うような声を耳にした。
「ん……?」
 声を頼りに、さらに往人は階段を下り、二階理科実験室の脇、理科準備室へとたどり着いた。戸に耳をつけるようにして澄ませると、どうやら中で男女が言い争いをしているらしかった。
(しかもこの声は……)
 女の方の声を記憶と照らし合わせるに、怒りとも歓喜ともつかぬ複雑な感情がわき起こる。往人は悩んだ末、戸を少しばかり開けて観察してみる事にした。
「……なぁ、いいだろ? 別に結婚してくれって言ってるわけじゃねえんだ。ちょっと二,三日つきあってみるくらいいいじゃねえか」
「同じ話を何度繰り返す気? いい加減ウザいんだけど」
 理科準備室の中で口論をしていたのは、真希となにやら見覚えのある小柄な男子生徒だった。
(はて、誰だったか……)
 “相場往人”の記憶に照らし合わせるも、その男子生徒の情報がなかなか表面化しないのは、特にこれといった親交は無かったという事だろうか。
(年は一個上で……名前は確か……津田だっけか)
 そう、津田小次郎……たしかそんな名前だった筈だ。ボンヤリと浮かんできた記憶によれば、財閥だか大会社だかの一人息子で、いつも取り巻き二人を連れて何かと親の威を借る、絵に描いたようなボンボン――という噂だった。
(そういや、委員長が愛川はよくない連中との付き合いがあるって言ってたな)
 津田もそのうちの一人なのかもしれない。往人はとりあえず興味深く成り行きを見守ることにした。
「第一、金はちゃんと払うっつってんだぜ? 奮発して日給五万だ。……だから、いい加減大人しく俺の女になれよ」
「あーのーねぇ、銭金の問題以前の話なの。忘れてるみたいだからもう一度言ってあげるけど、あたしは、あんたのことが大嫌いなの!」
「その“大嫌いな相手”とも金次第で寝るんだろ? 知ってんだぜ?」
「……金額に折り合いがつけばそういう事もあるわね。……でもさー、あたし一つだけどうしても我慢できない事があるのよね」
 真希はふう、やれやれ……とでも言いたげなジェスチャーをする。
「あたし、チビって大嫌いなの。特に、あたしより背の低い男となんて絶対つきあいたくないし、例え遊びでも寝たりしたくないワケ。……おわかり? ボク」
 真希の言葉に、津田はみるみるうちに顔を引きつらせ青とも赤ともつかぬ顔色になる。どうやら、“チビ”という単語は津田にとっての逆鱗であるらしい事は、取り巻き二人の怯えたような顔を見るなり往人には容易に想像がついた。
 唯一、想像がついていないのは――。
「……おい、愛川。あんまり俺を舐めんじゃねえぞ」
「あんた達こそあたしを舐めんじゃないわよ。この体、あんたらが思ってる以上に高く売れるんだから」
「へぇ、そうかよ」
 ちらり、と津田が取り巻き二人に目配せをする。たったそれだけで、あらかじめ示し合わせでもしていたかのように、取り巻き二人ががっしりと真希の両手と肩を押さえつけた。
「ちょっと、何すんのよ!」
「恨むなら自分の口の悪さを恨めよ、愛川。俺だってケダモノじゃねえし、なるべくなら穏便に事を進めたいと思ってたんだぜ」
 にたりと。は虫類のような笑みを浮かべて間合いを詰めてくる津田に向かって、真希が蹴りを出す――が、津田は意外に反射神経はあるのか、蹴りにきたその足を小脇に抱えるようにして逆に軸足を払い、苦もなく真希を押し倒しにかかる。
「やだっ、このっ……何処触って……!」
「暴れんなよ。男三人の腕力に勝てるわけねぇだろ?」
 津田は取り巻きによって完全に押さえつけられた真希の体を満足そうに見下ろし、その胸元へと手をはわせ、ボタンに指をかける。
「っっっ……ちょ、嘘でしょ…… 誰か――……!」
 叫び声は、途中で途切れた。おそらくは口を塞がれたか、何かを詰められでもしたのだろう。往人の位置からはもはや津田の背しか見えず、具体的に何が行われたのかを確認する術はなかった。
(ふむ、良くない連中と付き合いがある、っていうよりは一方的に言い寄られてただけみたいだな)
 人の噂というのはアテにならん、と往人は冷静に分析などをし、 やれやれ、とため息をついた。
(……仕方ないな。…………そろそろ助けてやるか)
 ここで行われているのがただの恐喝まがいの愛の告白に過ぎないのならば、とりあえず最後まで見て見ぬふりをするのもアリかと思っていたのだが、“それ以上”に及ぼうとしているのならば、さすがに見過ごすわけにはいかない。
 手始めに、往人は校舎の反対側の端まで音が響く程に思いきり強く扉を開け放った。
「おいッ!!」
 そして一喝。それだけで、真希を押さえつけていた二人の取り巻きは慌てて飛び上がり、準備室の壁に張り付くようにして身構えた。
「……なんだ、バスケ部のエース様じゃねえか」
 一瞬遅れて事態を理解したらしい津田がにへら、と笑みを浮かべるや、さも親友か何かに接するような足取りで往人の側へと寄ってくる。
「勘違いするなよ、別に俺たちは襲ってたわけじゃねえんだ。……ただの“客”さ」
 なぁ、と津田が取り巻きの二人に相づちを求めると、さすがに機微を熟知しているのか声を揃えて津田の意見に賛同した。
「さっきはちょっと“金額”の事で揉めてな、ついヒートアップしちまっただけだ。悪かったな、愛川。……今度は邪魔の入らない場所で遊ぼうぜ」
 キヒヒ、と見る者に不快感しか与えないような、そんな笑みを残して津田は取り巻きを連れて理科準備室から出て行く。――その腕を、往人は掴み上げた。
「待てよ、一つ言っとく事がある」
「何だよ、エース」
 津田は腕を振って往人の手を振り解こうとした。が、往人は渾身の力を込めて離さなかった。
「愛川は俺の女だ」
「へ……?」
「二度と手を出すな」
「……おいおい、何言ってんだよ。その女は――」
「二度と、手を出すな。……もしまたちょっかい出しやがったら、その手頃な高さの頭に全力でダンクをかましてやるからな。貴重な身長を縮めたくなかったら、愛川には二度と手を出すんじゃねえ」
 ギリギリと腕を握りしめ、見下ろしながら眼光のみで“解ったか?”と往人は念を押した。津田は、こうして対峙してみると何とも不甲斐ない小男であり、単純な身長差だけでも往人と二十センチは違った。やがて言葉に詰まった津田が目を逸らしたのを“了解”と取って、往人もまた手を離した。
「けっ!」
 津田がそんな舌打ちとも悲鳴とも付かない声を残して、取り巻きと一緒に早足に準備室を去っていく中、往人は改めて部屋の中へと視線を戻した。
「よう、愛川」
 真希は部屋の隅で、肩を抱いたまま惚けたように座り込んでいた。視線は床に落ちたままで、往人の方は見ようともしない。
 ただ、肩を抱くその手が震え続けているのが、往人にも見てとれた。
「……鞄」
「鞄?」
「鞄、とって」
 丁度足下に真希のものらしい鞄が転がっていた。往人は渋々鞄を拾って、愛川の手に渡してやる。
「ありがと。もう帰ってくれていいわよ」
「……なんだそりゃ」
 つい、心の呟きが口から出てしまった。
「もっとこう、心が浮き立つようなお礼の言葉とかは無いのか。折角助けてやったのに」
「助けてって、あたしが頼んだわけじゃないわ」
 座り込んだまま、真希は露骨にそっぽを向く。
「大体、一体あたしがいつあんたの女になったってのよ! 誤解を招くような事は言わないで!」
「……気にするな、ものの弾み、言葉の綾だ。正しかるべき正義も、時として盲いることがあるって言うだろ?」
「……………………もういいから、帰って。しばらく一人にして」
「なんだ、腰が抜けたのか」
「…………ッ!」
 図星だということは、真希の反応から一目瞭然だった。
「えー、ちなみに腰が抜けるっていう現象は極度の緊張のあと、いきなり“ホッとした”りすると起きる現象で――」
「うるさい! うるさい! もうっ……あんた一体何なのよ、なんでそんなにあたしに構うのよ…………」
「愛川に大事な話がある。……俺は何度もそう言ってるんだが」
 今度という今度は逃がさないぞとばかりに、往人は真希の隣へと腰を下ろした。
「………………大事な話って、何よ」
 それは、さながら自白を決心した犯人のような、そんな口調だった。
「そうだな。まずはこの前の日曜の夕方……俺に声をかけたのは愛川だろ?」
 すぐには、返事は帰って来なかった。たっぷり五分ほど真希は沈黙しつづけ、そして漸くに小さく頷いた。



 真希が立てるようになるや、早々に理科準備室を引き払い、学校を後にした。というのも、「その話をするなら、聞くより見るほうが早い」と真希が訳の分からない事を言い出したからだ。
 校舎を出た後の真希は、およそ誰かを案内しているとは思えない程の早足で歩き出した。むしろ、往人から逃げるかのように――そこまで積極的ではないにしろ、不可抗力的に往人が“撒かれてしまった”場合はこの話は無かったことにしたいとでも言いたげな、そんな足取りだった。
 が、無論往人としても撒かれてたまるかという意気込みで真希の後ろをぴったりマークしていたから、“目的の場所”へとついたのはすぐだった。
(はて?)
 と往人が思ったのは無理もなかった。真希が足を止めたその場所は夕暮れ時の商店街、その一角にある老舗の巻き寿司屋だったのだ。
「ばーちゃん、いつもの四つ」
 真希は暖簾を潜るなり、ほっかむり&割烹着姿の百歳近そうな店員に小気味良く注文した。
「おや、真希ちゃん。今日は四つなのかい?」
 見た目の割には闊達とした声で老店員が尋ね返してくる。皺の形がそのまま笑顔になっているような、何とも優しげな老婆だった。
「おやおや……」
 真希の横に立つ往人の姿を認めるなり、老婆は意味深な微笑みを残してなにやら大きく頷き、これまた年の割にはなんともきびきびとした動きで、“いつもの”を手早くパックに詰め、ビニール袋に入れてひょいと真希に手渡した。
「はいよ、六百円ね。毎度あり」
「ありがと、また来るね」
 真希は代金を払い、颯爽と店から出て行ってしまう。往人もまた、意味深な笑みを浮かべたままの店員に小さく辞儀をして、真希の後に続いた。
 その後は早足に商店街を駆け抜け、そのままいくつか路地裏を抜け、たどり着いた先は人気のない神社だった。鳥居を潜り、両脇に雑草の多い繁った石段を五十段ほど上った先の境内は狭いながらも意外にも手入れが行き届いていて、巨大なモチノキの神木が本殿に向かって大きく影を落としていた。
 真希はまるで我が家に帰ってきたかのように手水舎で丁寧に手を洗った後、本殿の裏手へと腰かける。やむなく、往人も習って手を洗い、その隣へと座った。
「はい、あんたの分」
 と、手渡されたのは弁当箱ほどのサイズの透明なプラスチックのパックだった。割り箸が輪ゴムで止められたそのパックの中には、巨大な三角形型のいなり寿司が斜辺を重ね合うようにして詰められていた。
(……これはまた、何とも美味そうな)
 パックから漏れる香りだけで腹の虫がきゅう、と鳴り始め、往人は一も二もなく輪ゴムの封印を解いて割り箸も使わずに直接かぶりついた。
(ていうか、本当に美味ぇ……!)
 噛むほどに甘辛い汁を出す油揚げと、それにつつまれた中身の五目酢飯の味の深さがまた堪らない。
(ニンジンにシイタケ、レンコンに鶏肉、ゼンマイ……それぞれ違う味なのに、それらを油揚げの甘辛さが全部包み込んで……!)
 気が付くと、往人は瞬く間にジャンボ稲荷の一つを食べ終え、指先についた油揚げの汁をしゃぶっていた。
「ふはぁぁ〜…………ンまかった! 何者だあのばーちゃん……」
 全日本いなり寿司選手権の初代優勝者とかではないのだろうか。それほどまでに、深い感銘を受ける味だった。
「そうでしょ、そうでしょ。あのばーちゃんのお稲荷さんは絶品なのよね」
 真希もまた、往人の反応に満足するかのように、嬉々としていなり寿司を囓る。
「よそのだとさ、酢の匂いがやたらキツかったり、あぶらげがカルキ臭かったり、あぶらげはいい味なのに酢飯がべちゃってしてて台無しだったり、その逆だったりでさ。ぶっちゃけあたしの舌を満足させられるだけのお稲荷さんを作れるのは、あのばーちゃんだけよ!」
「……へぇぇ」
 突然熱く“いなり寿司論”を語り出した真希に、往人は目を丸くしながら、もう一つのジャンボ稲荷を味を噛みしめるようにしながら少しずつ、丁寧に囓る。
「やっぱりさ、あぶらげも大豆の味がちゃんと生きてるやつじゃないとダメなのよね! 豆腐として食べても一級品になるようなものじゃないと、ちゃんとしたあぶらげは出来ないのよ! あと、出来れば揚げる油にも拘って欲しいわ。折角いい大豆を使って元になる豆腐を作っても、変な油で揚げちゃったりしたら風味が台無しだし」
「……愛川はお稲荷さんが好きなのか? それとも油揚げが?」
 もしゃもしゃとジャンボ稲荷を囓りながら尋ねると、ハッと、真希が慌てて口を噤んだ。
「……そうよ、どっちも好きなのよ。悪い?」
 しかし、そこまで力説して否定するのもおかしいと思ったのか、開き直るようにして瞬く間に残りのお稲荷さんをぺろりと平らげてしまった。
「いや、まぁ……確かに目から鱗が落ちるくらい美味いいなり寿司だった」
 そう、確かに美味いいなり寿司ではあったのだが、生憎と往人の用件は「いなり寿司のうまい店を教えてくれ!」ではないのだ。
「……解ってるわよ。あんたが知りたいのは……“コレ”の事でしょ」
 真希はプラスチックのパックをビニール袋に入れ、さらに往人のパックも同様にしてビニールの口を縛ると、自分の鞄の中へと押し込んだ。そして徐に立ち上がると小石を二,三個拾って当たりをキョロキョロと見回し始めた。
「よく見てなさいよ」
 そう言って、真希は無造作に小石を一つ放り投げた。小石は境内の土の上で軽くバウンドしてそのまま転がった。
「……???」
 また同じように、真希が小石を投げた。一つ目の石と同じような軌跡を描いたそれは、一度バウンドした後、不意に往人の視界から消えた。
「えっ……」
 往人が目を剥いた瞬間、真希が三つ目の小石を投げた。それもまた一つ目、二つ目と同じような軌跡を辿り、そして二つ目と同じようにバウンドした後フッ、と跡形もなく消え失せた。……かと思いきや、石が消えた辺りから突然石が飛び出し、ころりと転がった。
 それは、二つ目の石だった。そして数秒遅れて、三つ目の石もフッ、と何もない空間から飛び出しては、同じように転がった。
「……一個目のはただの失敗。でも二個目と三個目は巧く行ったわ」
「何をしたんだ?」
「今、丁度その辺りに、小さい“歪み”があるの。……見えないでしょうけど」
「……確かに、何も見えない」
「角度とか、結構コツがいるんだけどね。後は大きさかな。“歪み”よりも大きなものだと逆に歪みの方が上書きされちゃって消えたりするから」
「悪い、よく分からないんだが……“歪み”っていうのは何なんだ?」
「さぁ。あたしも“歪み”は歪みとしか教えてもらってないから、わかんない。ようはズレてるのよ、空間が、少しだけ」
「空間が……ズレてる?」
「そ。さっきの小石も、別に消えたわけじゃないの。ただ、歪みを通過するときにちょっとだけ時間がズレちゃったのよ」
 ただそれだけの事よ――つまらなそうに呟いて、真希は再び往人の隣に座った。
「夕方とか、明け方とかに出来やすくて、極々たまーに人が通れるくらい大きなのが出来たりするの。それくらい大きいのになると、“呼ぶ”ことがあるから危ないの。大きな歪みはズレも大きいから、こないだのあんたみたいに何も知らずに入っちゃうとワケわかんない場所に連れて行かれて最悪、戻ってこれなくなるわ」
「……明け方、夕方……ズレ……戻れなくなる……」
 真希の言葉のを、要点だけ呟き、何度も何度もかみ砕くようにして頭に刻み込んでいく。これらの中に、自分の現状を打破するようなヒントが隠されていないか、入念に調べる為だ。
(俺が頭を打ったのは朝方でも夕暮れでもない、真っ昼間だ。……てことは、やっぱり関係ない……のか……?)
 ううむと唸っていると、不意に「ねえ」と真希が声をかけてきた。
「疑わないの?」
「疑う?」
 何のコトだろうか。往人ははてなと首を傾げた。
「いきなりこんな話されたら、“何言ってんだコイツ?”って思う所よ。なんであんた、そんな頭から人の話信じてるのよ」
「……? 何言ってんだ。実際に“歪み”とやらがそこにあるってのはお前が実践してみせてくれただろ」
「そんなの、手品かなにかかもしれないじゃない。ここに引っ張ってきたのはあたしだし、前もって何か仕掛けをしてたのかも、って。普通は疑うわよ」
「……なんだ、俺に疑って欲しいのか?」
 真希の言い方は、そうとしか思えなかった。
「……そういうわけじゃないわ。ただ、あんたみたいにそんな……何でも頭から信じてる奴は、いつか痛い目に合うわよって、そう言いたいだけよ」
「……痛い目なら、何度も合ってる」
 ような、気がする――と、往人は胸の内で付け加えた。というのも、はっきりと明言してしまった後で、はて俺ってそんなに人に騙された事あったかなと首を傾げてしまったからだ。
「それに、愛川は嘘ついてるわけじゃないんだろ?」
「………………。」
 こらこら、何故そこで黙る――と、往人は突っ込みかけた。
「……今までは、誰も信じてくれなかったのよ」
 突っ込みかけて、これはそんな――ふざけた態度で出来る話ではないという事を、真希の横顔で思い知った。
「だから、誰ともこういう話はしたくなかったの」
 そして、何故あれ程までに真希が自分を避けるように逃げ回っていたのかも、往人は全て理解した。


「あたしの叔父さんはさ、魔法使いだったの」
 日がもう完全に沈み、境内は闇に包まれた。真希は、独り言のような口調で続ける。
「見た目は、普通の背広を着たサラリーマンみたいな格好なんだけど、いつも黒い傘を持ち歩いてた。髪はオールバックで、左目の横に泣き黒子が二つあって、それがちょっと格好良くて、口癖みたいに“虹色の猫が見つからない”って呟いてた」
「魔法使い……って、自称?」
「うん、自称。他の叔父さんや叔母さん達からは、“気の毒な人”扱いされてたわ。……大分後で知ったんだけど、叔父さんは私が生まれる三年前に船の事故で奥さんと子供二人を亡くしてたの。“魔法使い”を名乗り始めたのはその後からだったらしいわ」
「それは……」
 話を聞くに、完全に……な人ではないのだろうか。
「叔父さんは、確かに何もない所から物を取り出したり、体を宙に浮かせたり……そういう“目に見える便利な奇跡”は起こせなかった。そういう意味では、頭のおかしな人だって、思われてもしょうがなかったと思うわ」
「……だけど、“目に見えず、便利でもない奇跡”は起こした……?」
 真希の文脈から察して、往人は促した。少しだけ、真希は口元を緩ませた。
「“歪み”の事も、叔父さんに教えてもらったのよ。真希になら見える筈だ、って。小さいものならどうって事は無いけど、大きなものは“人を食う”から絶対近づいちゃダメっていうのも、叔父さんに教わった事よ」
「その叔父さんは……今は?」
「死んだわ」
 真希の口調は、あくまで淡々としていた。
「私が小学校に上がったばかりの頃、車に撥ねられたの。殆ど即死だったらしいわ」
「…………。」
 それはまた、“らしくない”死に様だと、往人は思ったが口には出せなかった。人の死に方について、よく知らない者があれこれと言う資格はないと思ったからだ。
「正直、叔父さんが本当に“魔法使い”だったのか、あたしにも解らないわ。だけど――」
「……叔父さんが本物だったかどうかは解らない……だけど、“歪み”があるのは真実……だろ?」
「……そういう事ね」
 少し喋りすぎたわ――そう言って、真希は自嘲気味に笑い、不意に腕時計に目をやる。
「そろそろバイトの時間だわ。帰らなきゃ」
「そうか。……バイトじゃしょうがないな」
「とりあえず、“歪み”について話せる事はこんな所よ。参考になったかしら?」
「どうだかな。正直まだ見当もつかないって所だが……それでも、俺のカンが言ってるんだ。“自分の世界”に帰る鍵は愛川だってな」
「……自分の世界?」
 往人の言葉をオウム返しに呟いて、真希はふふと鼻で笑う。
「あたしも人のこと言えないけど、あんたも“相当”ね」
「こう見えて、結構焦ってるんだ。出来れば、愛川の話をもっと聞きたいし、俺の話ももっと愛川に聞いてほしい。……そうだ、携帯持ってるか?」
「……持ってるけど……何よ、まさか番号教えろっていうの?」
「ダメか?」
「…………絶対他の誰にも番号もメアドも教えないって誓うなら、教えてもいいけど……」
「解った、絶対誰にも教えないから教えてくれ」
 真希は渋々スカートのポケットから携帯を取り出し、液晶画面に電話番号とメールアドレスを表示させて往人の方へと向けた。往人はそれらをアドレス帳に登録し、今度は自分のアドレスを表示させようと慣れぬ手つきで携帯を操作していると、いち早く真希は自分の携帯をスカートのポケットへと仕舞った。
「別に、こっちからあんたに連絡取りたくなる事なんて皆無だから」
 真希の言う事は正論であり、真理であったかもしれない。が、その言い草がどこか往人に釈然としないものを残した。
(……こいつの挑発的な態度にいちいち目くじらをたててもしょうがないって事は解ってるんだが……)
 思い返せば、さっき助けてやった時もろくな礼を言われてない。恐らくは、先ほどのいなり寿司が礼の代わりなのだろうが、どうにも釈然としない。
 ちょっと懲らしめて――もとい、悪戯してやろうかと。そんな考えが往人の頭に沸いた。
「愛川、ちょっと待て」
 帰り支度をする真希を往人は呼び止めた。
「ちょっと横向いてみろ」
「何よ……これでいいの?」
「ああ、やっぱりだ。さっきのいなり寿司の米粒が頬についてる」
「えっ、嘘……どこ、どこ!?」
「こらこら、動くな。髪に絡まったりしたら面倒だろ、俺がとってやる」
 真希がどれほど払うような仕草をしようが、取れるはずがなかった。何故なら、そんな米粒など存在しないのだから。
 往人は真希に身を寄せ、さも暗がりでよく見えない米粒をとろうとしている――という体を装いつつ唇を寄せ、そのまま真希の頬へと重ねた。
「へ……?」
 そんな声を上げて、咄嗟に真希がずざざと後ずさる。
「うむ、ばっちり取れたぞ」
「と、取れたぞって……あああああああんた今あたしに何したあああああ!!?」
「何って……別に、こう……口で、米粒をだな――いでっ、いでででッ!」
 ほんの出来心、ささやかな悪戯――往人はあくまでそのつもりだったのだが。真希は笑って許すどころか、手にしていた鞄で殴りかかってきた。
「いきなりなんて事すんのよ!、信じらんない! 死ねッ、死んで償いなさいこのクズ!」
「いでっ、ちょ……愛川、マジで痛いって、その鞄何か硬くて重い物入って……痛い痛い痛い、悪かった、俺が悪かった! すまん! 心から謝罪する!」
 鞄で強かに打ち据えられ、時折蹴りまで交えられてたまらず往人は降参した。
「はーっ……はーっ……はーっ…………」
 真希は肩を怒らせ、ぜーはぜーはと気炎を立ち上らせながら呼吸を整えていたかと思えば、ぷいと背を向けて参道の方へと行こうとして、三歩ほど歩いた所ではたと、何かを思い出したように踵を返して再びつかつかと往人の方に歩み寄ってきた。
「代金!」
 右手の掌を突きつけるようにして差し出しながら、真希は声を荒げた。
「だ、代金!?」
「そうよ、キス代千円払って!」
「なっ、あんなんで金とるのかよ!」
「口答えしたから二千円! 払わないなら、レイプされかけたって交番に駆け込んでやるわ」
「くっ……」
 今の真希のテンションならばやりかねない。渋々往人は折れて、財布からなけなしの二千円を取り出し、真希に差し出した。
 真希はひったくるようにして金を奪い、スカートのポケットに突っ込むと足音を響かせるような足取りで参道の方へと戻っていった。
「……あーびっくりした、まさかあんなに怒るとは思わんかった」
 胸のサイズを聞いた時といい、相変わらず怒るツボがわからんと、首を傾げながら往人もまた参道を通り、神社を後にした。


 翌朝、普段通りの時間に眼を覚ました往人は、不意に枕元に置いてある携帯を手にとった。珍しく家に帰るなり充電器に繋ぎはしたのだが、履歴を見てみると新しい着信は一件も無かった。
 それが当然だとは思う。今まで一番頻繁に連絡をくれていた千晴には絶縁宣言に近いものを通達し、真希に関してはこちらのアドレスを伝えていないのだから。
「………………。」
 慣れぬ手つきで携帯電話を操作し、アドレス帳を開く。いくつかの友人の名前に交じって新規登録されている“愛川真希”の項目にカーソルを合わせ、通話ボタンを押した。
 別に、何か深い考えがあっての事ではなかった。ただ、万年遅刻王の真希にモーニングコールをしてやることで朝のHRから参加させる事は出来ないかなと、そんな思いつきからの行動だった。
『……はぁい、もしもしぃ……?』
 十数回の呼び出しの後聞こえた真希の声は、まだ夢の世界に片足を突っ込んだままのような響きを含んでいた。
「よう、愛川。目ぇ覚め――」
 往人が喋り終える前に、ぶつんと通話が切られた。はて、電波不良かなにかかなと思い、往人はすかさずリダイヤルボタンを押した。
『……この電話は、お客様の都合によりおつなぎ出来ません』
 しかし聞こえてきたのはそんな無慈悲なアナウンスだった。
(……あンの野郎、いきなり着信拒否指定しやがった!)
 ただ電源を落としただけの場合とは明らかに違うアナウンス内容に、往人は憤慨して飛び起きた。すかさず猛烈な抗議と思いつく限りの悪罵を文章にしたためてメールで送りつけたが、返事は返ってこなかった。
 
 教室につくと、矢張りというべきか真希の席は空席のままHRが始まった。そしていつものように二限目、三限目が過ぎ、四限目の移動教室から戻ると、自分の席で伏せたまま寝ている真希の姿があった。
 往人はつかつかと真希の机の側まで歩み寄ると、ピンピンとまるで猫の耳のような形にはねている寝癖をさわさわと触る。
「……ン……」
 モゾモゾするのか、真希が微かに声を漏らして伏せたまま顔の向きを変える。往人は再び、ぴんと撥ねてる髪の毛をさわさわする。
 真希が顔の向きを変える。
 さわさわする。
 真希が――。
「あーもう、何なのよ! 眠いのよ、寝かせてよ!」
 堪えかねたように机を叩いて立ち上がった。
「おはよう、愛川」
 真希の罵声は完全に無視して、往人はニッコリと天使のような笑顔で挨拶をした。
「う〜〜〜〜〜〜っ…………」
 その笑顔に言葉を失ったのか、それとも呆れたのか、真希は犬のようにうなり声を上げたかと思えば、つかつかと教室を出て行ってしまった。
 その後ろ姿を見送って、往人は自分の席に戻った。
「なかなか面白い見せ物でした」
 くすくすと笑みを漏らしながら、多恵が呟く。
「追いかけなくていいんですか?」
「んー、まぁ……あんまり怒らせても、な」
 第一、往人自身確固たる目的があって怒らせたわけでもなかった。強いて言うならば、ただそこにピンと撥ねた寝癖があったから――その程度の理由だった。

 昼休みが終わると同時に、真希は教室に戻ってきた。そのまま午後の授業はいつも通り気怠そうに受けていたが、時折睨むような視線を往人の方へと向けてきた。
 往人は、その全てを無視した。
 六時限目が終わり、帰りのHRが済むなり真希は脱兎の如く教室から飛び出していった。が、往人はこれも追わなかった。のんびりと自分のペースで昇降口へと降り、靴を履き替えるなり――ダッシュした。
 昨日、真希に連れられた道順には無駄があり、いくつか近道をすれば、十分先回りできる自信があった。
「おばーさん、昨日のお稲荷さん八つ下さい」
 目的の巻き寿司屋へとたどり着くなり、暖簾をかき分け注文する。老婆は往人の顔を覚えていたのか、おやおや……と皺だらけの顔でニッコリ笑った。
「今日は真希ちゃんと一緒じゃないのかい?」
「もうすぐ来ると思います。八つのうち二つは真希の分ですから」
 残り二つは自分の分、あとの四つは唯や弘樹への土産のつもりだった。
「はいよ。お稲荷さん八つね。千円にまけとくよ」
「……いいんですか?」
 商品カウンターの値段を見ると、ジャンボ稲荷の値段は一個百五十円となっている。
「真希ちゃんをよろしくね」
「……ありがとうございます。また買いに来ます」
 ビニール袋を受け取り、暖簾を分けて店の外に出ると。
「あっ」
 今まさに店に寄ろうとしていた真希と鉢合わせた。
「遅かったな」
「……なんで、あんたが居るのよ」
「なんとなくまた喰いたくなってな。愛川も昼飯食べてなさそうだったから、絶対来ると思った。お前の分も買ってある、一緒に喰おうぜ」
「……なによそれ。あたしまだ、あんたの事許してないんだけど」
「許してない……?」
 はてな、と往人は首を傾げた。真希は一体何を言っているのだろう。
(寝癖をさわさわしたのが、そんなに気に入らなかったのか?)
 或いは、朝電話でたたき起こした件だろうか。
「違う! 昨日、神社であんたがあたしにしたことよ!」
 顔色から思考でも読まれたのか、声に出していたわけでもないのに真希は堪りかねたように指摘した。
「ああ、その事か。ちゃんとキス代二千円払っただろ」
「っっっ、あんたね……あれっぽっちの金で――」
「こらこら、こんな所で喧嘩なんかしたらあかんよ」
 真希の言葉を止めたのは、いつのまにか巻き寿司屋から出てきていた老婆だった。
「お稲荷さんばっかりそんな食べたら喉が渇くやろ。ばっちゃんがこれあげるから、仲良うしんさい」
「あ、どうも……すみません」
「……ありがとう、ばーちゃん」
 老婆は両手に持っていたよく冷えたお茶の缶を往人と真希に一つずつ手渡し、もう一度「仲良うせなあかんよ」と言い残して店の中に戻っていった。
「……とりあえず、場所変えようぜ」


 合議の結果、落ち着いた場所で話し合うべく、昨日の神社に行こうという事になった。
「……あんたさ。食べ物使えば、簡単にあたしを釣れると思ってない?」
 その途中で、沈黙に堪えかねたように真希が言った。
「…………言われてみれば、食い物で釣ってばっかりだな」
 思い返せば、最初に顔を合わせた時もファーストフードで釣り、パンと牛乳で昼休みに釣り、そして今まさにお稲荷さんで釣っている。
「愛川って、もしかして一人暮らしか?」
「……どうして?」
「家族と暮らしてるにしちゃ、いっつも腹空かせてるみたいだし、朝も起こしてもらえないみたいだしな。……当たってるだろ?」
「…………。」
 真希は答えない。答えないというのは、肯定の場合が多いという事を、往人は学びつつあった。
「……あんた一体何なのよ。あたしの事何もかも調べ終わるまでそうやって付きまとうつもり?」
「別に。ただもう少し……愛川の叔父さんの事とか、“見えない奇跡”の話がもっと聞きたいんだ」
「……相場、これだけは言っておくわ」
 不意に、真希が足を止めた。
「っと、何だよ。急に」
「あたしは、他の人がなんて言おうと叔父さんの事好きだったし、尊敬もしてた。だから、叔父さんの事を信じてくれたり、その話がもっと聞きたいってあんたが言うのなら正直悪い気はしないし、話だってしてあげる」
 だけど――と、真希はどう見ても“悪い気はしない”どころか、今にも怒髪天を突きそうなほどに怒気を込めて続ける。
「もしそれが、ただの建前で……“不純な目的”の為に叔父さんをダシにしてるだけなら、あたし、絶対にあんたを許さない」
「何だよ、不純な目的って。昨日も言っただろ、俺は……俺の世界に帰る方法を知りたいだけだ」
「…………じゃあ、なんで………………昨日、あんな事したのよ」
 またその話か――と、往人は些かウンザリした。
(あれだけ鞄で人を殴って、罵声を浴びせかけて、金まで払わせたくせに、それでも根に持ってるのか)
 金で体を売ってる割には、些細な事に拘る奴なんだな、と。往人は眼前の女に対する認識を多少改める事にした。
「……わかった、あれはなんつーか……ちょっとした悪戯だったんだ。愛川がそんなに嫌だったんなら、もう二度としない」
「そう。じゃああんたはあくまで、自分の世界に帰りたいとかいう誇大妄想の為に、あたしに付きまとってるだけで、他意は一切無いっていうのね?」
「……なんか、棘がある言い方だな……。まあ、そう思ってもらって結構だ」
 誇大妄想という言われ方も仕方がないと、往人は思う。所詮、他人にはこのどうしようもない違和感は解らないのだから。
「………………解ったわ。相場がそのつもりなら、あたしもそうだと割り切って付き合ってあげる」
 またしても、変に棘がある言い方だが、単純にまだ“昨日のこと”で怒っているからそうなのだろうと、往人は思う事にした。
 つかつかと、再び真希が早足に歩き出した。遅れじと往人もまた早足でその後に続き、やがて昨日の神社の入り口が見えてこようかという頃だった。
「あっ」
 と、またしても真希が足を止めた。
「なんだ、どうした?」
 その横に並ぶようにして足を止めた往人はすぐに真希が足を止めた原因を理解した。
(おや可愛い、三毛猫じゃないか)
 恐らくは、左手側にある茂みからでも飛び出してきたのだろう。丁度真希と往人の真ん前あたりで足を止め、じいと様子をうかがうように耳をぴこぴこさせていた。
「大変だわ……ちょっと相場、これもってて!」
「ッて!」
 ばんっ、と投げつけるように鞄を渡され、やむなく往人は受け取った。真希はすぐさましゃがみ、ちちちと口を鳴らして猫をおびき寄せようと試みる。が、どうやら完全な野良猫らしい三毛は訝しげなうなり声を上げこそすれ、微塵も近寄ってくる気配がない。
「おいで、おいで……良い子だから……」
 まるで別人かと思うような、なんとも優しげな“猫なで声”に後ろで聞いていた往人の方が鳥肌を立たせてしまった。しかしそれほどまでに優しげな声も、やはり野良猫には通じず、ふいと頭を振って逃げるように民家の塀の隙間へと入り込んでしまった。
「ダメよ! 良い子だから戻ってきなさい!」
 悲痛な声を上げたのは真希だ。慌てて塀の隙間でしゃがみ込んで四つんばいになると、右手だけを肩口まで入れて猫を招き寄せようとした。が、隙間はさらに奥まで続いていて、到底捕まえる事など出来なかった。
「……どうしたんだ? まさか、お前んちで飼ってる猫とか?」
「……そんなんじゃないわ。相場、先に行って待っててくれる? あたし、ちょっと用事が出来たの」
「用事って……まさか……さっきの猫捕まえるのか?」
「………………そうよ」
 真希は十秒ほどの沈黙をおいて答えた。
「詳しく説明してる暇はないの。早く捕まえないと……」
 言うが早いか、真希はひょいと塀の上に飛び上がると、そのままたかたかと走っていってしまった。
(身軽なやつだ。………水色か)
 そんな事を思いながら真希の後ろ姿を見送り、はたと。
(もしかして……体よく逃げられたのか!?)
 しかし逃げるのならば鞄は置いていかない筈だと思い、仕方なく往人は言われたとおりに神社の境内の裏手へと向かう事にした。
 そのままそこで三十分ほども待っただろうか。手持ちぶさたなのに堪えきれず、往人は徐に携帯電話を取り出して真希のそれへとかけてみた。
 が。
『おかけになった電話は、お客様の都合により――』
 無機質な音声を最後まで聞く間もなく、往人は通話を終了させた。
「何なんだよ……あいつ……説明くらいしろっての」
 往人は思い出す。さっきの猫を捕まえるのかと問うた時の真希の沈黙を。おそらくそれは逡巡の時間だったのだ。理由を話すべきか否かの、迷いの時間。
(……話してもどうせ信じないって……そういう事か?)
 説明をしている時間が惜しかったのではなく、説明して尚信じてもらえないのが嫌だったのではないか――そう思うと、途端に胸の奥がモヤモヤしてくる。
「……だいたい、あんな野良猫、普通に追いかけてそうそう捕まえられるかっての」
 つまり、真希がやっている事は徒労だ。どんな理由があるのかは知らないが、手伝って欲しいと言われなかった以上、手伝う義理もないと、往人は思う。
「……そのうち諦めて戻ってくるだろ」
 独り言を呟いて、往人はさらに十分ほど待った。不意に立ち上がり、小石を拾ってその辺りに軽く投げたりしてみた。しかし、昨日真希がやってみせたような不可思議な現象はどうしても起こせなかった。
(歪み……か)
 それは一体どのようなものなのだろうか。こういう夕暮れ時や、或いは朝方などに出来やすいと真希は言っていたが、どれほど目を凝らしてみてもそれらしいものは往人には見ることができない。
 ひょっとして、昨日の事は夢ではなかったのかという気すらしてくる。或いは、何らかの仕掛けがやはり施されていて、見事に一杯食わされたのではないかと。
「あーもう……しょうがねえな……」
 悔しいが、“自分一人”では埒があかない――それが悔しくもあり、もどかしかった。やむなく、往人は自分の鞄と真希の鞄、そしていなり寿司とお茶の入っているビニール袋の口を縛って、先ほどまで座っていた拝殿の縁の下へとひとまとめにして置いた。普通に置いておいても場所が場所だけにまさか盗られる事はないと思いたいが、念のために人目につきにくい所に置く事にしたのだった。
「言っとくけど、手伝ってやるわけじゃないからな」
 そう、手伝うわけではない。あくまで真希がさんざん追いかけ回しても捕まえる事の出来ない野良猫を先に捕まえてやることで恩に着せ、挙げ句今後の話を進めやすくするために動くだけだ。
 往人は己の行動をそう定義して、そして境内を後にした。


 往人はまず聞き込みから始める事にした。幸いなことに近くには商店街がある。そこの定食屋なり魚屋なりに尋ねて回れば、一人くらい三毛の野良猫に心当たりがあるのではと思ったのだ。
 しかし、これは初手から思わぬ躓きがあった。
「……野良猫なんて捕まえて、どうすんだ?」
 と返してきたのは、普段は気のよさそうな魚屋の主人だった。その目が明らかに「こいつは野良猫を捕まえて、虐待するつもりなんじゃないか」と語っていて、往人はやむなく“野良猫を捜している理由”を咄嗟に作り出さねばならなかった。
「実は昔、友達があの猫にそっくりの猫を飼ってたんです」
 しかし飼い始めて半年、父親があらたに子犬を貰ってきた際に家出をしてしまい、それきり長らく行方不明になっていたが、その猫というのがどうにもあの野良猫にそっくりで、一度捕まえてちゃんと確認をしてみたい――そんな友人の手伝いをしているのだと、往人は雄弁に語った。
「……そういう事なら、まぁ……」
 と、往人の話を完全に信じたわけではないのだろうが、それでも魚屋の主人は自分が知っている事を教えてくれた。
 商店街では割と知名度のある猫だという事。ミケ、チビ、コロ、タマ、チー等々の名で呼ばれている事。毎日大凡決まった時間に、決まった店の裏に来て食べ物をねだる事等々、特に最後の情報が往人にとっては珠玉の情報だった。
「ありがとうございます。……あ、ついでにこのアジのひらき一つ下さい」
 往人は代金を払い、品物の入ったビニール袋を受け取るや早速三件隣のそば屋の裏手へと移動した。この時間帯ならばその辺に居る筈だと、魚屋の主人に教えてもらったからだ。
(いた!……けど、多いな……)
 丁度店員が小皿に残飯などを盛って置いたばかりなのだろうか。四、五匹の野良猫が額を擦り合わせるようにして群がっていた。
(困った……三毛二匹いるじゃないか)
 悲しいかな、先ほどちょいと眼前を横切られただけの付き合いでは、詳しい柄など覚えてはいなかった。
(どうする……二匹とも捕まえるか……?)
 しかし野良猫を二匹も抱いて逃がさずに真希と合流するのは至難の業に思えた。当然、猫も決して大人しくはしていないだろう。
(……ていうか、一匹でも難しくないか……?)
 捕まえ、この手に抱く事はできるかもしれない。しかし問題はその先だ。恐らく暴れ、噛みつき、引っ掻き、ありとあらゆる手段を用いて野良猫は逃げようとするだろう。そのことを考えると、どうにも自分は浅はかだったと思わざるをえない。
(……しかも、また一匹増えやがった)
 積み上げられたダンボール箱の隙間からひょこっと顔を出した新たな三毛がエサ皿の方へと歩み寄る。が、餓鬼のように食い物を漁る他の猫たちに比べてその三毛だけが、まるで覇気がない。
(……もしかして)
 往人は丹念に記憶の中にある三毛の柄とその猫の柄を比べてみた。……そして、限りなく近しいのではないかと思った。
(仕方ない……一か八かだ)
 往人はアジの開きを取り出し、妙に元気のない三毛猫にむかって差し出してみた。
「ほら、食べるか?」
 三毛はひくひくと鼻を鳴らし、一瞬前に出ようかと迷って、その場に腰をおちつけてしまった。なんとも筋金入りの野良猫らしい反応だった
 往人はやむなくアジの開きを少し千切って三毛の側へと投げてみた。三毛は少し警戒するように往人と破片を交互に見て、そしてぱくりと口に含んだ。
「ほら、美味いだろ? 大丈夫、何もしないから、こっちに来い……」
 往人はアジの開きを千切っては投げ、千切っては投げて少しずつ、少しずつ三毛をおびき寄せる。が、或る一定の距離に達した途端、三毛はぴくりとも近づいて来なくなった。
(……ダメか)
 どうやらそれが“射程距離”だと思われたのだろう。往人が次の一手に苦慮していると、突然ぱたりと三毛がその場に体を横たえた。
「……ん?」
 最初はただ、ごろりと横になっただけかと思った。しかしその横になりかたが妙だった。横になった、というよりはまるで昏倒したような――。
「おい、大丈夫か?」
 往人は思い切って駆け寄ってみた。三毛は咄嗟に逃げようと体を起こしかけたが、それまでだった。後はもう往人がその体を抱え上げ、腕に抱いて尚、ぐったりとしたまま絶え絶えの呼吸を繰り返すばかりだった。
(これ……病気……か? 愛川はこれに気が付いたのか……?)
 獣医学の知識などない往人にも、これが尋常の状態ではないという事は解る。
(……どうする、病院に連れて行くべきか……?)
 常識的に考えれば、それが一番間違いないだろう。自分とは関係のない野良猫の事とはいえ、一度こうして関わってしまった以上、放っておくのはあまりに寝覚めが悪い。
(……でも、病気なら病気って……言うんじゃないか)
 ここに至って往人が考えたのは、何故真希はろくな説明もせずに自分一人で猫を追おうとしたのかという事だ。もし、単純に病気の野良猫が放っておけないという事なら、最初からそう言うのではないか。
(……先に、愛川と合流するべきだな)
 往人は三毛猫を抱いたまま、もう一度真希に電話をかけた。が、しかしまたしても例のアナウンスが流れるのみだった。
(あの、バカ……!)
 仕方なく、メールに“猫捕まえた。神社で待つ”と打ち込んで送ることにした。これでメールまで着信拒否にされていたら、もはや往人には打つ手がない。
「……大丈夫か? もう少し頑張れ。…………愛川ならきっとなんとかしてくれる筈だ」



 


 往人は神社の境内の裏手で真希を待った。腕の中では、もはや藻掻く気力も無さそうな三毛猫がぐったりと、しかし呼吸だけは荒々しく胸元を上下させていた。
「……まだ戻ってこないのか」
 まさに一日千秋。往人は小刻みな呼吸を続ける三毛を宥めるように撫でながら、今か今かと真希が戻るのを待った。
 ざっ、と人の気配と足音がしたのは、境内に戻ってきてから三十分以上は経ってからだった。
「愛川か!?」
 最早日も落ち、ろくな明かりもない境内では瞬時に人影の中身を判別することは不可能だった。
「ごめん、相場……。だいぶ待たせちゃったわね」
 まるで、真希が声を出すのが合図だったかのように、境内の中に設置されていた灯籠状の街灯がチカチカと明かりを灯しだした。それらによって映し出された愛川の姿は泥や埃にまみれ、一体何処をどう探してきたのか、髪の毛には蜘蛛の巣まで張り付いていた。
「待たせちゃったわね、じゃねえ! メール見なかったのか?」
「メール?…………相場、その猫っっ……!」
 往人の腕の中で抱かれている三毛猫を見るや、真希にひったくるようにして奪われた。
「携帯、お前が着信拒否にしてるから、仕方なくメールで送ったんだよ。猫捕まえたからここで待ってる、って」
「ご、ごめん……あたし、携帯……鞄の中に入れてたから……」
 いつも勝ち気な真希にしては、珍しく気弱な、狼狽しきった顔だった。往人は己の中に渦巻いていた怒りの感情が急速に萎んでいくのを感じた。
「でも……どうやって……まさか、ここに来たの?」
「詳しい話は後だ。その猫、随分具合悪いみたいだし…………なんとかしなきゃまずいんじゃないのか?」
「そう……ね。急がないと……」
 真希は指を唇に当て、しばし思案に耽る。
「やっぱり、とても次の満月まで持たないわ……今日やらなきゃ…………相場、自転車持ってる?」
「自転車……妹が買い物に使ってるママチャリならあるが……」
「じゃあそれでいいわ。一度家に帰って、それに乗って学校の裏門まで来て。私はこの子抱いて待ってるから出来だけ急いでね」
「学校で待ち合わせるより、直接俺んちに二人で行った方がよくないか?」
「この子は出来るだけ安静にしておきたいの、ほら、あんたはダッシュ!」
 今にも尻を蹴り上げられそうな勢いでまくし立てられて、やむなく往人は走り出した。
「ったく、人使いの荒い奴だ」
 毒づきながらも走り続け、家に帰るや否やすぐさま台所の壁にかけてある自転車の鍵を手にとり、傍らで夕飯の支度をしている唯の言葉にすら生返事で往人は再び家を出た。
 自転車に跨り、大急ぎで学校の裏門までたどり着くや、
「遅い!」
 と、真希に怒鳴りつけられた。いい加減堪忍袋の緒が切れかかるも、その間すら与えないとばかりに真希が荷台に横向きに腰を下ろし、出発を促してきた。
「ほら、漕いで! 早く!」
「漕げって、どこにいきゃーいいんだよ」
「あんた、七伏山って解る?」
「いや……悪いが、初耳だ」
「じゃああたしが指図するから、とりあえずまっすぐ走ってまずは国道に出て」
「っっあーもう、解ったよ、好きにしてくれ!」
 往人は半ばヤケクソ気味に漕ぎ出した。

 真希の指図通り、かれこれ九十分ほどは走っただろうか。初めは国道沿いに、途中で交差点を右に曲がり、その後も左に右にと指図通りに走っているうちに、気がついた時には人気も街頭もない農道をダイナモライトを輝かせながら爆走していた。
「あの山よ」
 真希が指さしたのは、前方に聳える黒く巨大な塊だった。巨大な、とはいっても山としては決して大きな方ではなく、形も特別というわけではない。木々の生い茂った、これといった特徴のない山に、往人には見えた。
 その山の麓近くまで近づき、道が次第に緩やかな上り坂へと差し掛かり始めた頃、不意に真希が自転車を止めるように指示を出した。
「ご苦労様、あんたはここで休んでて」
 そう言うや、猫を抱いたまま脇の茂みの中へと入っていった。街灯の明かりすらろくに無く、微かな月明かりの中目を凝らすと、茂みの中に微かな獣道のようなものがあり、どうやら真希はそこに入っていったらしかった。
「……休んでろ、だと……?」
 確かに、人一人後ろに乗せたまま二時間近く全力に近い速度でこぎ続けたのだ。元スポーツマンといえども疲労困憊甚だしく、出来ることなら今すぐ道路の上に大の字になってしまいたかった。
「ふざけんな! 俺が何のためにお前なんかに付きまとってると思ってんだ!」
 全ては“目に見えない奇跡”とやらを見る為だ。往人は一分ほどかけてなんとか呼吸を形だけでも落ち着かせるや、真希の後を追って獣道へと入った。
 真希は既に随分先へと行っているらしい。時折草をかき分けるような音が聞こえるだけで、その姿は毛ほども見えなかった。
(こりゃあ……下手すると……遭難するぞ)
 ろくな明かりもなく、道といえば辛うじて草の少ない場所が続いているだけ。それすら見失ってしまえば、大した大きさではない山とはいえ遭難の危険は十分にある。
(息が……)
 勾配が次第にきつく、手を使わねば前に進めない程になると、体力の消耗は一層激しくなった。こんな道を、真希は猫を片手に抱いたまま登っているのかと、歯を食いしばりながら往人は驚嘆せざるを得なかった。
(たかが……野良猫一匹の為に……よくやるぜ……)
 普段の真希からはおよそ想像しにくいあの狼狽っぷりは、滑稽を通り越して感動すら――そう、さながら……子猫を守ろうとする母猫のそれのように――覚える。
(ああいう奴に限って、母性本能ってやつが強い……のかもな)
 食いたい時に食い、寝たい時に寝る。およそ真希の行動は本能に沿っているように見える。“母性”も本能ならば、それに沿うというのはある意味で真希らしいと思う。
(……まぁ、だから何だ、っていう話なんだけどな)
 この苦境の中、何故自分はこうまであの女の事に考えを巡らせているのだろう。その事が妙におかしく、往人は歯を食いしばりながら苦笑する。
(確かに、今こんな目に遭ってるのは、全部あいつのせいではあるんだが……)
 だから憎たらしい、と思うのならば筋が通っているように思えるのだが、不思議とそういう感情は沸いてこなかった。往人の中にあるのは、ただこの先で行われるであろう“奇跡”をこの目で見たいという好奇心だった。

 永遠に続くのではないかと思われた闇の中の登山は、不意に終わりを告げた。
(なんだ……光……?)
 突然、目映いばかりの光が視界一杯に飛び込んできた――ような錯覚を、往人は覚えた。咄嗟に瞼を閉じてしまったが、いくら待っても瞼越しにそのような強烈な光が感じられず、恐る恐る目を開けてみると辺りは闇のままだった。
(いや、違う……)
 完全な闇ではない。仄かな明かり、とでもいうべきか。まるで眼前一帯だけ何らかの作用で月明かりが集約して降り注いでいるかのように、木の葉一枚一枚のシルエットが浮かび上がる程に明るかった。
「相場……あんた、なんで来たのよ!」
 その明るすぎる月明かりに照らされながら、真希が立っていた。手にはまだ、苦しげな三毛猫が抱かれたままだ。
「なんでって……言っただろ。俺はお前の言う“目に見えない奇跡”って奴に興味があるんだ。それを見る為なら、火の中だろうが水の中だろうがついていくさ」
「…………バカ。見せ物じゃないのよ」
 そう言う真希の顔はどこか嬉しそうで、しかし同時に複雑な想いをも孕んでいるように見えた。
「それで、何をするんだ。何か俺に手伝える事はあるのか?」
「何も無いわ。黙ってその辺に座って、余計な口出しをしないで」
 酷い言われようだったが、この土壇場で真希がそう言うからには、本当に手伝える事など何もないのだろう。往人は仕方なく、言われるままにその辺の倒木の上に腰を下ろすことにした。
「……月の光が弱いわ。巧くいかないかもしれない」
 真希は独り言のように呟き、三毛猫を抱いたまま静かに目を閉じる。往人もまた、余計な口は挟まず、辺りの動向を見守り続けた。
 ――が、待てど暮らせど何も起きる気配がない。
(“目に見えない奇跡”とやらは、もう始まってるのか?)
 そうだとしたら、往人としては些か興ざめする思いだった。無論、“目に見えない奇跡”と真希が言うからには、その名の通り自分のような常人には見えないような所業なのだろう。
 しかしそれでも、何かしら非日常的なものが見られるのではないか――そんな期待が、少なからず往人の中にはあった。
(強いていうなら……この場所こそ“妙”だ)
 こうして腰を落ち着けてよく観察してみると、なかなか奇妙な場所であるという事が解る。恐らくは山の中腹の辺りなのだろうが、真希が立っている場所を中心として直径七メートルほどの円上の平地は土が剥き出しとなっていて草一本生えていない。否、平地ではなく中心に向かって微かに土が盛り上がっている様だった。
(それに、この光量だ)
 今宵が満月というのならば、この明るさにも納得がいく。しかし生憎と三日月、しかも殆どが雲に隠れているせいで自転車で夜道を飛ばす際はダイナモの明かりが視界の全てと言っていい程だった。
 それなのにどうだろう。この場所に来た途端、掌の皺に溜まった土垢まで見てとれるではないか。
「……ん?」
 自分の掌を見つめながら往人が極度の疲れにぼんやりしていると、不意に“下”からの風を感じた。
「来た……!」
 真希の声に、往人もまた顔を上げた。“風”は相変わらず“下”から吹き続けているのだが、しかし目の前に居る真希の髪はおろかスカートすら微動だにしていなかった。
「お願い、この子も連れて行って!」
 それはなんとも胸に詰まる、悲痛な叫びだった。次第に、下方からの“風”が強くなる。否、それがもはや風などではないことは、往人にも解っていた。
(なんだ……青白い、光が……)
 目には、何も見えない。しかし“感じ”た。白い、糸のような光が真希の足下から立ち上り、その身を包むようにして天へと登っていくのを。
「……っっ…………!」
 悲鳴とも歓喜ともつかぬ声を真希が上げた時には、光の奔流はその身を余すところなく包み込んでいた。このまま真希が消えてしまうのではないか――そんな危惧から、たまらず往人は立ち上がった。
「愛川……!」
 しかし、往人が立ち上がり、駆け寄ろうとしたその時には不可視の光の奔流は陰りを見せ、みるみるうちにやせ細っていった。後に残ったのは憔悴しきった様に立ちつくした真希と、その腕に抱かれたままの三毛猫だけだった。
 ふらりと、真希の体が揺れ、膝を突く。と同時に腕に抱かれていた三毛猫がふぎゃあと声を上げて飛び退き、茂みの中へと走り去っていった。
「あっ、こら……待て!」
 土の上に倒れ込もうとする真希の体を咄嗟に支えた往人には、三毛猫を追う事はできなかった。
「……いいの。もう、大丈夫だから」
 体を支える往人の腕に、力無く真希が手をかける。
「元々、野良なんだもの……体さえ、治れば……知らない場所でもちゃんと生きていけるわ」
「……何を、したんだ」
 聞かずにはいられなかった。傍目には“何か”が起きて、そして野良猫は元気を取り戻したという事しか解らなかったからだ。
「…………帰りながら、話すわ。悪いけど、少し肩貸してくれる? さすがに、ちょっと疲れちゃった……」
「肩貸すのはいいが……山道を降りるのはちょっと無理じゃないか?」
 手まで使わねば上れないような斜面を、肩を貸しながら降りていくのは困難極まりないのではないか。
「……あっちに行けば、一応ちゃんとした道はあるの。かなり遠回りになるけど……そっちから帰りましょ」
「……解った」
 往人は真希に肩を貸し、指し示された方角へと進む。草をかき分け体にまとわりつく小虫を払いながら進んでいくと、やがて五分も歩かないうちにガードレールが見えてきて、きちんと舗装された道へとたどり着いた。
 が、どうやらそれが限界らしかった。
「愛川……!?」
 ガードレールを越えるか越えないかの所で、真希の体から力が抜け、がくりとその場に膝をつく。
「ごめん、相場……ちょっと、あたし無理みたい。悪いけど、先帰ってて」
 この道をまっすぐ下っていけば、さっきの麓の道に繋がってるから――そう言って、真希はぐったりとガードレールにもたれ掛かる。
「先帰れって……お前、こんな山道に一人残ってどうする気なんだよ。鞄も携帯も神社に置きっぱなしだろ?」
「一人ならどうとでもなるわ。こんな道でも、朝までに車の一台や二台くらい通るでしょ。なんとか止めて、乗せてもらうわ。それが無理なら、一眠りしたあと歩いて帰るだけよ」
「馬鹿言うな。……しょうがねえな、おぶってやるから掴まれ」
 やれやれと、往人は真希の前に背を向けてしゃがみ込む。疲労困憊なのは往人も同じだったが、鍛え方が違う。辛うじて麓まで人一人を背負って歩くくらいなら、恐らく出来るだろう。
「……嫌よ、誰があんたの背中なんかに」
 しかし往人のそんな行為を、真希はぷいと顔を背けるようにして突っぱねた。
「あんたの事だからどうせ、背負うフリして太股触ったり、背中に胸押しつけられるのを楽しんだりするつもりなんでしょ」
「お前なぁ……この期に及んでンな下心出せるほど体力残ってるわけねえだろ! いいからさっさと掴まれ、俺だって早いところ帰って風呂にゆっくり浸かりたいんだ」
「だから、一人で先に帰っていいって言ってるのよ。心配しなくても、“今日の事”とか、あんたが知りたい事は全部、次に会った時にでも話してあげるから」
「…………もう一度だけ言うぞ、これが最後だ。下らないこと言ってないで、おぶされ。じゃなきゃ本当に置いて帰るぞ」
 最後通告のように言い、往人は背を向けたまま待ったが、真希は微動だにしなかった。
「……解った。そこまで嫌がるんなら仕方ない。一人で帰る事にする」
 気が向いたら、警察署にでも寄って女子高生が一人峠道で死にかけてるって通報してやる――そんな捨て台詞を残して、往人は一人で道を下った。



 

 


 


 早足に山道を降り、漸く乗り捨てた自転車が見えてきた時にはもう足が棒のようになっていた。
「……はぁ。これからまた家まで戻んなきゃいかんのか……」
 あれほど飛ばして尚二時間近くもかかったのだ。こんな疲労困憊した状態では一体どれほどかかることやら、考えただけで億劫だった。
 やれやれと自転車に跨り、往人はそのまま“下ってきた道”を逆行した。。
 それは極々自然な行動であり、往人自身己のそんな行動を全く疑問に思わずにペダルを漕ぎ続けた。
(あっ)
 と思ったのは、先ほど歩いて下ってきた山道の半分ほどを上った頃だった。
(何やってんだ、俺は……帰るなら方角が逆だろ)
 疲れで頭まで暈けたかと毒づきたくなる程の失態だった。この期に及んでまだ徒労を重ねるのかと。
「……………………。」
 そして方角が逆だと気が付いて尚、往人は踵を返す事が出来なかった。ここまで来てしまったのだから、ついでに真希を拾っていってやるかと、心の奥底で極々僅かに思い、その考えがどういうわけか、圧倒的多数の支持を跳ね返す形で相場往人のとる行動として通ってしまったのだ。
 真希は、居た。先ほどと変わらぬ場所で、ガードレールにぐったりともたれ掛かるようにして座り込んでいた。自転車のライトに照らし出された肌は病人のそれのように白く見え、もしや死んでいるのではと一瞬危ぶんだ程だ。
「愛川っ」
 自転車を止めて呼びかけると、真希はぴくりと体を揺らし、そしてゆっくりと瞼を開けた。
「……乗れ。帰るぞ」
「………………先に一人で帰ってって言ったじゃない」
「いいから乗れ。自転車の荷台に座るくらいなら出来るだろ」
 真希はしぶしぶ……といった具合に立ち上がり、行きと同じく自転車の荷台に横向きに腰かける。
「勘違いするなよ。まっすぐ帰るにはお前の案内が必要だから迎えに来てやっただけだからな」
「心配しなくても、そのくらい解ってるわよ」
「……とにかく、もうすこしちゃんと掴まれ。落ちるぞ」
 片手で猫を抱かねばならなかった行きは仕方ないとして、今は両手が自由になるのだからしっかり掴まれと、往人は促した。真希はこれまたしぶしぶといった具合に往人の腹の方へと手を回し、掴まった。
「よし。んじゃあ帰るか」
 往人はくるりと車体の向きを変え、山道を下った。麓道までは一切ペダルを漕ぐ必要は無く、時折ブレーキで速度を調節してやるだけで良かった。
「そこ、右に曲がって。ちょっと遠回りだけど、そっちのほうが車も信号も少ないし、坂道もないわ」
 そんな感じで時折真希の出す指示に従い、帰り道の殆どは農道のような道をひたすら走る事になった。そこら中の田圃や畑から虫の声や蛙の鳴き声などが合唱のように響いてきて、これはこれで奇妙な風情があると、往人は疲れた頭で思った。
「……愛川、おい。起きてるか?」
 んっ、と。背中の方から眠気混じりに息づかいが聞こえた。
「疲れてんのは解るが、もう少し我慢しろよ。今寝たら落ちて大怪我するぞ」
「……解ってるわよ。ちょっと、ウトウトしてただけ……」
「眠いなら、何か話でもしてたほうがいいな。…………そういや愛川、今日はバイト行かなくていいのか?」
「バイトは……火曜と木曜と日曜だから、今日は……無いわ」
 そういえば今日は水曜か――と、往人もまたぼんやりと思った。
「ちなみに、バイトって何のバイトなんだ?」
「……レンタルビデオ店のレジとか……だいたい十九時から一時までで時給は平均で千円ちょい」
 平均で、ということは恐らく深夜帯とそれ以外の時間帯では時給が違うという事なのだろう。
「へぇ、意外とまともなバイトじゃないか。今度様子見に行くから、場所を教えてくれよ」
「……嫌。絶対、教えない」
 まあそうだろうな、と往人は苦笑する。
「ねえ」
 微かな沈黙の後、真希がぽつりと呟いた。
「もう少し離れたほうが良いんじゃない?……あたし、汗くさいでしょ」
「気にするな。俺だってお前と同じくらい走り回って、山を登ったんだ。人の汗の匂いなんて気にならないくらい自分のが匂ってる」
「……相場は、いいのよ。……男だもの」
 そう言うなり、真希はまるで往人の背中に鼻をすりつけるようにしてもたれ掛かる。
「何だよ……まさかお前……そんな理由で…………」
 山道を降りる際、頑ななまでに背に負われる事を拒絶したのは、そんな下らない理由だったのかと、往人は憤慨しそうになった。
「……ほんっと、愛川ってワケわかんない奴だな」
 売春をしているのか、と尋ねればあっさり肯定するくせに、頬にちょっと唇が触れたくらいで怒り狂ったりもする。かと思えば人目も憚らず野良猫を追いかけ回し、疲労困憊のくせに汗の匂いを気にして、人に背負われるよりも一人夜の山道に残る方を選ぶのだから、その行動原理や判断基準は往人にとって範疇外と言わざるを得なかった。
「……あたしから見れば、相場のほうがよっぽどワケわかんない奴よ」
「そんな事はない。俺はいつだって単純明快。とっても解りやすい奴だぞ」
 事実そうだと、往人は自負していた。しかし、真希からの同意の声は得られなかった。しばしの間、蛙と虫の大合唱に包まれながら自転車をこぎ続け、再び「ねえ」と眠そうな声で真希が切り出してきた。
「…………今日の事……聞きたいんじゃないの」
「ああ、そうだな。そういや……帰り道に話すって言ってたな」
 不思議なことに、今の今まで往人はそのことを失念してしまっていた。いざあの光の奔流を目にした直後までは、あれが一体何なのか気になって仕方がなかったというのに。
「黙ってるとまた寝ちゃいそうだから……知りたい事があれば聞いて。あたしに解る範囲で答えてあげる」
「それで十分だ。……そうだな、まずは……さっきの猫。あれは一体どうしてあんなに具合悪そうだったんだ?」
「……あれは、魂が重なってたのよ」
「魂が、重なってた……?」
 そう、と真希は頷く。
「どうしてそういう事が起きるのかは、あたしにも解らない。“歪み”が関係してるのかもしれないし、全く関係がないかもしれない。けど、とにかく時々そういう事が起きるらしいの」
「ふむ……?」
「実はあたしも、詳しいことなんてほとんど解らないから、叔父さんの受け売りをそのまま言うわ。……世界は、虹なんだって」
「世界が……虹?」
「相場は、並列世界……っていう言葉、聞いたことある?」
「意味は知ってる」
「叔父さんが言うには、私たちのこの世界の時間の流れを横軸にとった時、それに並ぶように“似た世界”がすぐ側で同じように存在しているらしいの」
 丁度、虹の色が並んでるみたいに――真希の言葉を受けて、往人はその様子を想像してみた。
「虹の色って、隣同士とは似た色をしているでしょ? 並列世界も隣り合っているもの同士はちょっと違うけど似ていて、その“似た世界”の間で何かの拍子に“最も近しい器”に魂が重なっちゃう事があるらしいの」
「もっとも近しい器……」
「“並列世界の自分”の肉体って言えば、解りやすいかしら」
「……つまり、さっきの三毛猫は別世界でも猫で、何かの弾みで魂だけ迷い込んできて、“一番自分に似てる猫”の体に取り憑いた……ってことか?」
「そういう事ね。……でも、それも長くは持たないの。一つの肉体に二つの魂は多すぎるから、放っておくと――」
「死ぬ……?」
「両方の魂がバラバラに砕け散って、ね。だからその前に、送り返してあげなきゃいけないのよ」
「送るっていうのは……さっきの光みたいなのでか?」
 その瞬間、まるでハッとしたように背後の真希が身じろぎをした。
「あんた……“あれ”が見えたの?」
「見えたっていうか、感じたっていうか……目に見えない光みたいなのがフワァァって下から溢れてくる感じがしたっていうか……“あれ”は一体何だったんだ?」
 わからない――真希は呟きながら首を振る。
「あたしはただ、叔父さんがそうしていたのを真似してるだけ。月の光が強い夜に天穴の真下に運んで、地脈の力で余分な魂を弾き飛ばせば、あとは月の光が正しい体へと導いてくれるんだって」
「待て、また知らない単語が出てきたぞ。天穴っていうのは?」
「言ったでしょ、詳しいことは解らないの。あたしはただ、叔父さんがそう呼んでたから受け売りで呼んでるだけ。……なんとなく、“吹き上がる力”を感じる所としか説明できないわ」
「……叔父さんが死んだのは、小学校に上がった直後、だっけか」
 確かにそんな年齢の頃では、例えその叔父さんとやらがきちんと説明をしていたとしても、全てを理解をするのは難しいだろう。
「……そうやって送られた魂っていうのは、ちゃんと元の体に戻れるのか?」
「それも解らないわ。確認のしようがないもの。……だけど、叔父さんは戻れる筈だって言ってた。肉体が死んだ魂はそもそも“横の世界”にズレたりはしない。天国か地獄、上か下に引っ張られる筈だから、そうなっていないのは帰る体がまだあるからだ、って」
「……帰る肉体がまだある――か」
 ならば、魂が不在の肉体はその間どうなっているのだろうか。植物状態にでもなっているのか。それとも、そもそも“叔父さん”とやらの言う事はデタラメなのか。
「……相場、あたし……今あんたが何を考えてるのか、解るわ」
 しばしの沈黙の後、真希が口を開いた。
「こういう場合、残念ねって言えばいいのか、喜んで、って言うべきなのか、あたしにはわからない。だから、余計な事は言わずに、事実だけを教えてあげる」
「何だ? 改まって」
「言ったでしょ。あたしは、歪みを見ることが出来る。それと同じように、多すぎる魂をかかえている生物も、他とは違って見えるの。そのあたしが、あんたに引導を渡してあげる」
「……どういう事だ?」
「あんたには、二つの魂なんて入ってない。だから、あんたにとっての“元の世界”なんてものも存在しない。あんたは間違いなく“相場往人”本人で、自分が自分じゃないような気がする――なんて言ってるのは、ただの気の迷いよ」
「………………。」
「どう、これでスッキリしたでしょ。全部あんたの気のせいなのよ。“自分探し”なんて言って現実逃避してる連中と同じなの」
 それはさながら、死刑宣告でもされたような衝撃を、往人に与えた。文字通り、真希の手によって“引導”を渡されたも同義だった。
「……ちなみに、愛川にはどんな風に見えるんだ? その、“重なる魂”を持つ者っていうのは」
「罅が……見えるのよ。明るいところだと少し見えづらいけど、暗がりになるとはっきり、青白い罅が全身に無数に走ってるのが見えるの。…………あまり、気分の良い光景じゃないわ」
「罅……か」
 往人はおもむろにハンドルを握る己の手へと視線を落とす。もちろん、青い罅など見える筈もない。
「………………そういう事だから、もうあんたがあたしなんかに関わる必要は何も無いの。良かったわね」
「ま、そういう事になるかな」
 事実、往人が真希に接触したのはそういう理由からだった。それが無駄となると、真希の言う通り付きまとう必要性は皆無になったと言わざるを得ない。
 また、会話が途切れて、蛙と虫の大合唱だけが響く。今度は、往人の方が沈黙を破った。
「……そうだ、愛川。俺がどうやって猫を捕まえたのか、知りたくないか?」
「……? 何よ、今更……」
「知っておいたほうがいいと思うぞ。……どうせまた、あの三毛猫みたいなのを見つけたら捕まえて“送って”やるんだろ?」
「言っとくけど、あんなことしょっちゅうやるわけじゃないわよ。前に“送った”のなんて一年以上前だし……“罅”が入ってる子は見つけたのに、間に合わなかったって事も何度かあるわ」
「だから、そうならないように、コツを教えてやるって言ってるんだ。いいか、まずは――」
 往人は、喋り続けた。そうしなければ、胸の内からこみ上げてくるどうしようもないものに翻弄されて、ペダルをこぎ続ける事が出来なくなってしまいそうだったからだ。


 疲れもあって、ちんたらとペダルをこぎ続けた結果、鞄を置きっぱなしの神社へと帰り着いたのは最早深夜と呼べる時間帯だった。
 荷物を回収した後、往人はそのまま真希を家まで送っていく事にした。真希は自宅の場所を教える事をかなり渋ったが、往人も頑として譲らなかった為に渋々明らかにした。幸いというべきか、さほどに遠くはなく、自転車でものの十分とかからなかった。
 そこはツタ系の植物に外壁の三分の一以上を浸食された、絵に描いたような鉄筋ボロアパートであり、その二階の最奥の部屋だと、真希は言った。
 往人にとって意外だったのは、真希が「少し休んでいったら?」と促してきたことだった。自宅の場所は教えようとしなかったくせに、いざ到達すると寄っていくように促すというのはおかしな気がしたが、その理由はすぐに分かった。
「お腹が空いて死にそうなの……」
 と、いまにもヨダレを滴らせんばかりに真希は言った。ようは、その右手にぶら下げているものを食わせろ、と。そういう事だった。
 往人もまた同様であり、ならばと部屋に上がることにした。外観からの期待を裏切る事なく、内部もまたお世辞にも上等とは言い難い間取りだった。入ってすぐの台所は一畳半ほどのスペースしかなく、後は右手側にトイレや風呂、そして奥に四畳半の和室があるだけだった。その和室も半分近くがベッド、残りのスペースもテーブルや勉強机などで占拠されていて、ろくに座る場所もない程に狭かった。
「座布団なんかないから、適当にその辺に座って」
 手を入念に洗った後、言われるままに往人は畳の上に直に座り、早速テーブルの上にジャンボ稲荷のパックを広げた。痛みの度合いが少々気にはなったが、別段陽にさらしていたわけでもなし、一応冷暗所に置いてあったのだから大丈夫だろうと思う事にした。
 真希が不揃いなマグコップ二つに氷だけを入れて居間に戻ってくる。コップの中身は巻き寿司屋の老婆から貰った茶にしようという事なのだろう。往人としても当然異論はなく、そうしてやや遅すぎる夕食が始まった。
 二人とも、餓鬼の如く食らった。当初の予定では二つずつを真希と二人で分け、残りは土産にする予定だったのだが、四つずつを瞬く間に平らげてしまった。
「ふう……」
 これでやっと人心地がついたと、往人は壁に凭れるようにして息を吐いた。全身を心地よくさえ感じる気怠さが包み、猛烈な眠気が襲ってくる。
 事実、普段ならば往人はそのまま眠ってしまったかもしれない。しかし、先ほど真希から聞かされた“事実”が、往人にそのような安寧を許さなかった。
(……俺は、やっぱり“相場往人”なのか)
 違う、と思い続けてきた。そうとでも思わなければ説明の付かないことも多かった。しかし、それは単なる思いこみだと、真希に指摘された。
(……二重人格、ってやつなのか)
 考えてみれば、それが最も無難な結論だったのかもしれない。頭を打ったショックで、本来の相場往人とは別の、もう一つの人格が生まれてしまい、それが自分だとするしか、最早術がないように思える。
 勿論、真希が嘘を言っているという可能性もある。そんな事を言って何の得があるのかという問題を孕んでいるが、嘘を言う事自体は不可能ではなく、不可能ではないということは可能性としては無ではないという事だ。それに、単純に真希がミスを犯しているという可能性もある。
「……なぁ、愛川――」
 かすかな期待を込めて、往人は魔法使いの姪に尋ねてみることにした。
 が。
「愛川?」
 見れば、真希はテーブルに突っ伏したまま、すうすうと寝息をたててしまっていた。
(……どんだけ本能に忠実なんだ)
 食いたいから食い、眠くなったから寝る――という事なのだろう。回りに人が居るかどうかなどおかまいなし、もしくはそれでも尚抑えかねる程に眠かったという事か。
「……まぁいい。また今度聞くか」
 往人は立ち上がり、真希の脇を抱えるようにしてその体をベッドの上へと持ち上げようとした。
「くっそ、重てぇ……」
 その体は意外にも重く、歯を食いしばりながら往人は辛うじて引き上げに成功した。
(乳だ。乳が重いんだ)
 胸元だけで二キロ近く割り増しされているのではないかと、心の中で毒づきながら、往人は続いて足のほうもベッドの方に乗せ、きちんと体を横たえる。
「じゃあな、愛川。……明日は遅刻すんなよ」
 空になったパックを片づけてゴミ箱へと押し込み、コップを洗って食器籠へと戻し終え電気も消して、往人は部屋を出た。出た後で、はたと気が付いた。
(鍵……)
 当然、往人が部屋の鍵など持っているわけもない。掛けずにそのまま帰ってしまおうかとも思ったが、さすがに女の一人暮らしで鍵もかけずに帰ることは不用心極まりないのではないか。
 往人はやむなく部屋へと戻った。
「愛川、鍵どこだ?」
 部屋の明かりを付け、テーブルの上など見てみたがどこにも見あたらない。それとなく鞄の中も漁ってはみたが、やはり無かった。
 となれば、本人が持っている可能性が一番高いのだが。
「愛川、起きろって!」
「ううん……」
 がくがくと肩を揺さぶってみても、呻き声を上げるだけで一向に起きる気配がない。往人はやむなく、自分の手で真希のスカートのポケットを漁ってみることにした。
「くっ……このっ……」
 ポケットの構造上、向き合った状態ではどうにも手を入れづらく、往人は苦戦した。最初に当たりをつけた右のポケットにはくしゃくしゃになったレシートしか入っておらず、ならば左かと。手を突っ込んでモゾモゾやっていた時だった。
「…………ちょっと」
 頭上から、これ以上ないほどの敵意を含んだ声が響いたのは。
「あ、愛川!?」
 顔を上げると、しっかりと両目を見開いた真希が、そのまま汚物でも見るような目で往人を見据えていた。
「誤解すんな! 俺はただ、家の鍵を――」
「……何よ………………あんた…………したいの?」
 それは先ほどの敵意丸出しの声とは違う、さも仕方なそうな……まるで母親が悪戯っ子をあやすような口調だった。
「………………いいわよ、別に。……………………あんたがどうしてもしたいっていうんなら。しても」
「へ……?」
 これには、往人もさすがに絶句した。
(……本当に、家の鍵を捜していただけなんだが)
 疚しい気持ちなど微塵も無かった。神に誓ってそれは言える。――しかし、真希の一言で、事情が変わった。
「……いいのか?」
 つい、尋ねてしまった。同時に、ごくりと。眼下に広がる光景に生唾を飲み込んでしまった。
「……いいわよ。……相場には借りも出来たし。……但し、代金はしっかり払いなさいよ」
 部屋の明かりが眩しい――とでも言いたげに、真希は両手を交差させて顔の上に乗せながら、とんでもない事を言う。
「なっっ……金とんのかよ!」
「当たり前でしょ。好きでもない男にタダでヤらせる程、あたしはお人好しじゃないわ」
「……三万、だっけか」
 それは、女子高生の体を買う相場としてはどうなのだろうか。
「…………あんたの事嫌いだから、三万じゃ嫌。倍は払って」
「ふざけんな! そんなに払えるか!」
 そもそも三万でも無理だと、往人は声を荒げた。何のことはない、期待だけさせて遠回しに拒絶しているのと同じではないか。
「しょうがないわね。じゃあ、あんた……あたしに惚れてるって言いなさい」
「……は?」
「あたしの事好きだって言ったら、特別に……タダでいいわ」
「えーと、愛川……それってどういう――」
「簡単でしょ。たった一言言うだけで、六万がチャラになるのよ」
 だから言え、とでも言うかのように、真希は言外に含めてくる。顔は、相変わらず両手で隠したままだ。
「……嫌だ」
 深い思案などはせず、往人は殆ど反射神経的に口に出していた。
「そんな思ってもいない事は言えない」
「……バカじゃないの? 別に建前でも良いって言ってるのに」
「そういう嘘は、好きじゃない」
 そう、たしかにそういった類の嘘は往人としても毛嫌いする行為だ。しかしそれ以上に、眼前の女に惚れている、或いは好きだといった類の事を口にする事自体に、凄まじいばかりの拒絶反応が起きるのだ。
(……そうだ。やっぱり俺は……こいつの事は大嫌いだ)
 久しく忘れていた――初めて顔を合わせた時にも感じた――どうにも抑えようのない胸のむかつきを往人は感じていた。
(大体なんだよ、コイツの胸は……反則だろ)
 全体を見れば、すらりとした細身のくせに、胸元の質量だけが飛び抜けているのだ。その大きさは恐らく片手に余る程だろう。仰向けに寝て尚その存在を強調するように盛り上がり、見ているだけで寝苦しそうな事この上ない。
 また、ごくりと。喉が鳴った。
「…………強がっちゃって。本当はしたいクセに」
「……ああ、本当は……したい」
 不思議と、“そこ”だけは容易に認める事ができた。しかし、それ以外の事は――先ほど真希が言えと促してきたような事に関しては、例え建前だとしても絶対に口には出来なかった。
(……こんな奴の事を好きなんて言うくらいなら……)
 まだ真っ昼間に学校の屋上から全裸に亀甲縛りで逆さ吊りにされて自分の名前を叫ばされる方がマシだとすら、往人は思う。それはもう、理屈ではなかった。
「……解ったわよ。特別に……今夜だけ、タダでいいわ」
「なんだ、随分譲歩するんだな。もしかして、愛川もムラムラしてるのか?」
 真希は途端に体を起こし、キッ、と睨み付けてくる。が、出てきた言葉は意外にも往人の問いかけを肯定するものだった。
「嫌なら別にいいのよ。……何となく、そういう気分なだけで、別に相手はアンタじゃなくったって構わないんだから」
 その気になれば、セフレなんていくらでもいると、真希は小声で付け足した。
「……それで、どうするの? するの、しないの?」
 真希は体を起こし、詰め寄ってくる。その目が冗談やからかい半分ではなく、多分に真剣味を含んでいて、それ故に往人は困惑した。
(どう……したもんか)
 したいかしたくないかと言われれば、当然したいに決まってる。それは年頃の男子としてごく当たり前の欲求だ。しかし、そんな簡単に決めてしまっていいのだろうか。
(俺は……“相場往人”じゃないって、ずっと思ってた)
 だから、“相場往人”の恋人である千晴には手を出せなかった。出すべきではないと思っていた。
 しかし、“本人”なら――どういう行動を取ろうが何の遠慮もいらないのではないか。
(ヤる、ヤらないは兎も角として、まずは……)
 あの乳に触りたい――それは紛れもない自分の本音であり、第一希望だった。となればもう、往人の答えは決まっていた。



「……ちょっと待って」
 据え膳食わぬはなんとやら。深い考えなど何も為しに、ノリと勢いだけで行為に及ぼうとした往人に、真希が不意に制止をかけた。
「相場ってさ……童貞?」
「……なんでそんな事を聞く」
「いいから、答えなさいよ」
「……多分、違う」
 事実、千晴とは何度も性交渉を持っている。肉体的には間違いなく童貞ではないのだが、それが自分の経験だという実感が持てない為、往人は念のため“多分”をつけた。
「そう、じゃあ……やり方は解ってるのね」
「やり方って……まぁな」
「それが解ってるならいいの。……ちゃんと、力とかは加減しなさいよね。乱暴にしたら許さないわよ」
「……解った」
 過去に童貞を相手にして痛い目にでも遭ったのだろうか――そんな事を思案しながら、往人はそれとなく真希の胸元へと手を這わせる。
「それからっ」
 その指先が触れるか触れないかの所でまたもや真希が大声を出した。
「するのは構わないけど、キスは禁止」
「……何故だ?」
「あんたとはしたくないから」
 ぷいと、真希はそっぽを向く。
(……またか)
 と、往人は思った。
(……愛川の価値基準、判断基準は本当に意味がわからん)
 体を許すのは良くて、唇はダメだというのは往人としてはどうにも理解しがたい事だった。例えるならばそれは、銃で撃たれて死ぬのは良いが、刀で切られるのは例えどんな軽傷でも絶対に嫌だと言われているような、そんな気分だった。
「でも、それじゃ……雰囲気とか出ないだろ」
「いらないでしょ、そんなものは。…………恋人同士じゃあるまいし」
 確かにそうだと往人は奇妙な納得を覚えた。自分と真希とは、別に恋人同士というわけではない。ただ何となく、場の成り行きで体を重ねようとしているだけであるから、“雰囲気”等という目にも見えない形もないものを尊重する事はないのではないか。
(それでも……なんかなぁ……)
 あからさまにお前とはキスをしたくない、と明言されるのは、さすがにテンションが落ちざるを得ない。
(……まぁ、何でもいいや。うだうだ考えるより先に、早いところヤッちまおう)
 細かいことはヤッた後で考えればいい――積み重なった疲れも相まって、往人は粗雑な思考でそんな事を思い、ついにその手を真希の胸へと触れさせた。
「……っ……!」
 ただ、指先がブラウス越しに触れただけだが、真希は俄に身じろぎする。往人はそのまま胸の膨らみを確認するように手を這わせながら、さも自然な動作で唇を奪おうとした。
「っ……こらっ!」
 しかし、その行為は寸前でぐいと顎を押されるようにして阻害された。
(……あくまで、キスはダメってことか)
 そういう事ならばしょうがない。それ抜きで事を進めるまでだと、往人は熟練の手つきでしゅぱぱぱとブラウスのボタンを片手だけで瞬く間に三つほど外してしまった。
(……器用だな、俺)
 と、己のあまりの手際の良さに我ながら感心してしまう程だった。そして感心しながらも、既に右手はブラウスの隙間から侵入し、ブラの上から巨乳の上をはい回る。
「っ……〜〜〜っっっ……!」
 なにやら、真希がもの言いたげに唸るが、往人は無視して愛撫を続ける。ブラからはみ出そうな程にたっぷりの質量を早くこね回したくて、往人はこれまた熟練の手つきで真希の背へと手を伸ばすとあっさりとブラのホックを外してしまった。
「……んっ……」
 余程ブラに押さえつけられていたのか、ホックを外した途端質量が三割ほど増したようにすら、往人には見えた。
「……待って」
 さあブラをずらして、心ゆくまで堪能してしまおうと往人が手を掛けた瞬間、またしても真希が“待った”をかけて手首を掴んできた。
「明かり、消して」
「……消したくないって言ったら?」
 真希は答えなかった。ただ、その沈黙が明かりを消さないならこれ以上の事はさせないと語っていた。往人はやむなく膝立ちになり、蛍光灯の紐を引いて明かりを消した。
 忽ち、部屋が闇に包まれる――が、次第に目が慣れてきた。
(……やっぱり見えにくいな)
 当然の事なのだが、それが酷く意外な事のように往人には思えた。自分ならば、闇の中でももう少し見えるのではと、何となくそんな気がしたのだが、あくまで気がしただけだった。
(……本当は、“目”でも楽しみたかったんだが)
 こうなっては仕方がない。手で思う存分触って、その形や質量を想像しながら楽しむしかないと、往人は思い直す事にした。
「っ……ン……」
 闇の中、さわさわと手を這わせて膨らみの場所を確認するや、早速に往人は捏ね始める。
(……大きい。けど……)
 掌から伝わってくる質量は十二分に往人の肉欲を満たすものだった。ものだったのだが、往人は奇妙な違和感も同時に覚えていた。
(……もっと、こう……スゴかったような……)
 真希の胸を触るのは間違いなく初めての筈なのだが、触れば触る程に奇妙なズレを感じる。それは気のせいだと思いこむにはあまりにも確かすぎる実感で、往人は俄に混乱した。
「……なぁ、愛川」
「何、よ……」
 微かに呼吸を荒くしながら――闇の中で想像するしかないのだが――真希がそっぽを向いたまま答える。
「お前、眠くないのか?」
「……今更、何言ってるのよ……人が気持ちよく寝てた所を、襲おうとしてたのはあんたでしょ」
「……いや、あれは……」
 本当にただ鍵を捜そうとしていただけなんだと、往人は説明をしようとして、止めた。事ここに至ってはそのような討論は最早無駄なのだ。
(違う、俺が本当に聞きたいのは……)
 ひょっとしたら、俺たちは“前”にもしたことがあるのではないか――しかしその質問もまた、口から出ることはなかった。そういった関係ではなかったことは以前にも真希の口から否定されていたし、仮にそれが嘘だったとしても、この違和感の説明にはならないからだ。
(……そうだ、愛川じゃない……もっと年上で……)
 “その先”へと思考を巡らせようとして、慌てて往人は止めた。それはさながら“危険域”へと入る前に自動的にブレーカーが落ちたような、そんな不自然な思考の停止だった。
「ぅんっ……ふっ……ぅ……」
 往人がそのように不安定な思考に揺れている間にも、両手は真希の胸元をまさぐり続けていた。身じろぎをしながら漏らした真希の声で、はたと往人は“現実”へと引き戻される。
(……そうだ、そういう事は後で考えればいいんだ)
 今は、“コレ”だ――往人は次第に巨乳をこね回す手に力を込めながら、そっと顔を近づけ、その先端と思われる微かな輪郭目掛けて唇を寄せた。
「ひゃっ……ぁンっ!」
 ぺろり、と舌先で舐めた瞬間、意外にも真希が弾かれたように声を上げた。
「ちょっ……あんた、何処舐めっっ……」
「……? 別に変な事はしてないだろ」
 何を狼狽えてるんだこの女は、と思いつつ、往人はてろてろと舌を這わせる。余程くすぐったいのか、真希は声を震わせるようにして全身を硬直させていた。
「んっ……少し塩味がきいてるが、これはこれで」
「し、塩味っ……っっっ!?」
 真希が、引きつった声を上げた直後だった。どすっ、と。凄まじく重い衝撃と共に、真希の膝頭が往人の腹を突き上げたのは。
「ごふっ……」
 完全に虚を突かれ、往人は悶絶した。
「退いてよ! シャワー浴びるから!」
「っっ……このっ……今更っ、だろ……」
 確かにお互い半日走り回った挙げ句、山登りまでしたのだ。お世辞にも清潔とは言い難い体なのは違いがない。
「さっき、飯食う前に手なら洗ったし……それに第一、今からまた汗まみれになるんだから、シャワーなんかどうでもいいだろ」
「どうでも良くない! あんたは良くても、あたしはちっとも良くないのよ!」
「愛川、お前……もしかして――」
 ぎゃあぎゃあと暴れる真希を押さえつけながら、往人は不意に浮かんだ疑問を口にした。
「……処女か?」
「えっ……」
 瞬間。ぴたりと、真希が抵抗を止めた。
「何……トチ狂った事言ってるのよ……第一、あんたも知ってるでしょ……あたしの“噂”」
「噂はあくまで噂だ。俺が自分の目で確認したことじゃない」
「そ、それに……どうしてシャワーを浴びたいって言ったら処女っていう発想になるのよ! 飛躍のし過ぎでしょ!?」
「今、急に思ったわけじゃない。前々から何となく、そうなんじゃないかなって思ってて、今の愛川の態度でほぼ確信した。……本当は処女なんだろ?」
 さも、“良い子だから白状してごらん?”とでも言いたげな往人の口調。無論態とであり、そのように言えば眼前の女は間違いなく――。
「っっ……バカにしないでよ! 男と寝たことくらい……何度もあるわよ」
 例え事の真偽はどうであれ、そう言うであろう事は容易に想像が付いた。往人は予定通りの結果に満足し、心の内で静かに頷いた。
「そうか、残念だ。…………愛川がもし処女なら、シャワーを浴びて仕切治したいって言うのも道理だし、そうするべきだと思ったんだけどな」
「だから、どうしてそうなるのよ! 非処女の女は須くシャワーを浴びないとでも言いたいわけ?」
「そうは言ってない。……けど、愛川がもし“経験豊富”なら、普通はもったいないって思うものだけどな」
「勿体ない……?」
 往人の真意が全く分からないのか、真希は心底困惑しているといった口調だった。
「ああそうだ。シャワーなんか浴びたら、愛川の汗の匂いも何もかも消えてなくなっちまうだろ。それが勿体ない」
 なっ……と、真希は絶句するなり今度は全身を往人から遠ざけようとする。――が、往人はそれを許さない。
「その反応が処女だって言ってるんだ。セックスに慣れてれば、むしろ異性の汗の匂いなんて頭がクラクラするくらい好きになってる筈だ」
「っっっ……嘘っ、ぜっっっっったいに嘘よ! そんなのはあんた個人の趣味嗜好でしょ! 一般化しないで!」
「……本当にそう思うか?」
 往人はずいと――闇の中にもかかわらず、なんとも的確に――鼻先が触れそうな程に真希の顔を見据える。
「愛川は、俺の匂い……嫌いか?」
「な、何……言ってるのよ……他人の汗の匂いなんて……普通、嫌いに決まってるでしょ」
「ちゃんと俺の目を見て言え。……嫌いか?」
「……っ…………」
 真希は答えない。答えないという事はどういう事かという事を、往人は今までの経験から知っていた。
「…………あんたは、どうなのよ」
「俺か? 俺は勿論――」
 皆まで言わず、往人は真希の胸元に顔を埋め、態と解りやすく鼻から息を吸い込んでみせる。
「っっ……ちょっとっ、止めなさいよ!」
「嫌だ、止めない」
 往人は真希の腕を無理矢理上げさせ、がら空きになった脇へと顔を近づけ、すんすんと鼻を鳴らす。
「……へぇ、ちゃんと無駄毛処理とかはしてるんだな」
 寝癖は直さない癖に――などと呟きながら、ぺろりとその場所へと舌を這わせる。
「っっっっ……何処、舐めっっ……ひゃぁッ!」
 れろれろと嘗め回すと、真希は甲高い声を上げ背を反らせて悶える。真希のそういった反応が、いちいち往人の中の“何か”を刺激した。
(何だ……この感じは……)
 ドキドキでも、ワクワクでもない。ムラムラとも違う何かが。
(愛川に意地悪をすると……なんでこんなに胸がスカッとするんだ)
 それは、かつて往人が味わった事のない至福、達成感だった。
(もっとだ、もっと……)
 眼前の女の恥辱にまみれた悲痛な声が、泣きっ面が見たいと、往人は己でもどうにもならない黒い衝動に動かされるように体を起こす。
「……相場?」
 突然全ての愛撫が止められ、不審そうに真希が声を上げた時には、往人はもう次の行動に移っていた。
「っっ! やっ……ちょっ、何すんのよ!」
「何って……脱がなきゃできないだろ」
 往人はさも当然のようにスカートの中に手を這わせ、下着を脱がせにかかる。が、思いの外真希の抵抗が強く、巧く行かない。
(だが、甘い)
 このくらいの抵抗など、抵抗とは言えない。不思議なことに、記憶野ではない場所から“こういった場合の対処法”が次々と頭に浮かんできて、往人はさしたる時間も掛けずに真希の下着を取り去ってしまった。
「やだ……何すっ……だ、ダメぇ! ちょっ、ホントに止め……っっ……〜〜〜っ!」
 往人はなんとも自然な、それでいてケダモノのような動きで真希のスカートの下へと潜り込み、両手で足の付け根を巻き込むようにしてがっしりと固定する。
「ッ……ぁ、はぁっ……やっ、だめっ……ぁっ、ぁっ、ぁ……やっ、どこ舐めっ…………っっ……いやっ、だめっ、ぇぇ…………!」
 そのまま、れろり、れろりと秘部に舌を這わせる。忽ち濃厚な“牝の味”が口腔内に満ち、そのことがますます往人を猛らせる。
「い、いやっ……ぁんっ…………だめっ、……ぁあんっ! やっ、舌……そんなっ……所……舐めっ……ひぅぅっ……!」
 スカート越しに真希の手が頭を押しのけるような形で添えられているが、その押す力も徐々に弱く、逆にかりかりと爪を立てるような動きに変わり始めていた。スカート越しでも感じ取れる程に、真希ははあはあと息を荒げ、時折堪りかねるように腰をくねらせては太股で往人の頭を締め付けてくる。
(……たまんねぇ)
 いや、だめ、止めて――真希がその類の言葉を発するたびに、脳髄の奥がじぃんと痺れにも似たものに包まれる。
(……挿れたい)
 そして、次第にそんな思いが強く首を擡げ始める。
「いっ、嫌っ……も、もう……いい加減にして……はぁはぁ……い、いつまで……そんな、所……舐めっ…………くぅぅ……っっ……!」
 そんな己の高ぶりを舌の動きに上乗せし、これでもかという程に秘裂を嬲り続けると、一度は力が抜けて最早撫でるような手つきになっていた真希の両腕が、再び引きはがそうとするかのように動き出す。
 おやおや……と、往人は内心思いつつ、真希の両足を巻き込んだまま両手の指で秘裂を開くようにして、敏感な粘膜にこれでもかと唇を擦りつけ、舌を這わせる。
 時折包皮に包まれた淫核を舌先でてろてろと刺激しつつ、何度も。何度も、じっくりたっぷり舐り続けること十五分強。
 最初は控えめに濡れるだけだったその場所は、溢れんばかりに蜜を蓄え、ぴちゃぴちゃと水音すら立ち始めていた。
「ううぅぅ〜〜…………も、もぉ……ホントに止めてよぉ……」
 はぁはぁと喘ぎ声混じりに肩を揺らしながら、とうとう真希は泣きそうな声を上げ始める。
「だめっ……だめっ、………やっ……だ、ダメッ! そこダメっ……ダメだったら………………ッ! いっ、……イッ…………ッ! ンッ!……〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!!!」
 びくんっ、と。突然真希が腰を撥ねさせ、頭を押さえつけていた手の圧力が消える。恐らくは必死に口を覆い、声を押し殺しているのだろうが、痙攣するように腰をヒクつかせながらでは、往人としては苦笑せざるを得ない。
(なかなか愛い奴じゃないか)
 ふと、そんな仏心が沸いた。“この先”は少しは優しくしてやるかと、ヒクつきっぱなしの秘裂を穿るように舌を這わせ、濃厚な蜜を啜りながら往人はそんな事を思った。


「……愛川、少しだけ明かりをつけるぞ」
 真希のスカートの下から這い出るや、往人は小刻みに蛍光灯の紐を引き、常夜灯だけをつけた。真っ暗闇では、どうにも味気なかったからだ。
「……誰が、つけても、いいって……」
 真希からの返答は随分遅かった。常夜灯をつけた甲斐もあり、その表情や仕草などは最早如実に往人の知るところとなった。勿論、その逆も然りなのだが。
「ひっ……」
 と、真希が悲鳴にも似た声を上げたのは、往人がその衣類を全てとっぱらったからだった。
「……処女じゃないんなら、男の裸なんか見慣れてるだろ」
 往人は猛り狂っている分身を隠そうともせず、ぬけぬけと言い放った。が、しかしその実、こうして真希の前に剛直を晒す事に躊躇いを禁じ得なかった事も事実だった。
(……小さくはない……筈……)
 そんな確信はある。が、同時に“こんなのは俺のものじゃない”という奇妙な見栄もまた、胸の内に存在するのだった。
「…………本当に、するの?」
 今更も今更、そんな呟きを真希が漏らす。
(……むしろ、ここまでしておいて続きをしない男なんて居るのだろうか)
 相手の女が絶対にしたくないと泣いて叫んでいるのならば兎も角、常夜灯の明かりの中浮かび上がっているその姿はどう見てもまんざらでは無さげなのだ。
 ただ、それなりに不安は感じているらしく、そのことが色濃く表情に出ていた。
 往人はそれとなく真希の上に被さり、最後にもう一度だけ口づけを試みた。
「……それは嫌っ」
 しかし、露骨に拒絶された。
「…………解った。じゃあ、挿れるぞ」
 往人は真希の足を開かせ、その間に自分の体を入れた。そして、先ほど十分過ぎるほどに入念に愛撫し、濡らした場所へと狙いを定める。
「……待って」
 堪りかねるように、真希が声を上げた。
「…………初めての時って、やっぱり痛いの?」
「男とはヤり慣れてるんじゃなかったのか?」
「……嘘だって事くらい、とっくに解ってるんでしょ」
 ぷいと、真希は顔を逸らす。
「俺は男だから、どれくらい痛いのかは知らない。…………けど、千晴は……“元”彼女だが……血がいつまでたっても止まらなくて、すげぇ痛そうだった」
 記憶野からその時の情報を引き出して、往人は微かに胸を痛めた。それは言わずもがな、千晴との初めての時の事であり、愛撫が十分でなかったのかそれとも“発育具合”の方が不十分だったのか、兎に角尋常ではない出血に救急車を呼ぼうかという話にすらなったのだった。
 結局、“初めて”の時はとてもそれ以上続けられず、本格的なセックスをするようになるのはその次の次からになるわけなのだが。
(……俺だったら、そんなヘマはしない)
 という、これまた奇妙な自負が往人にはあった。無論、真希に言わせれば“気のせい”の一言で片づけられてしまうのだろうが。
「……なるべく、痛くしないで」
 まるで他人事のように言い、真希は体を投げ出すかのように脱力した。が、その実それは見せかけだけの事で、全身が緊張のあまり強張っている事も往人は見抜いていた。
(痛くしない事は、多分無理だ。だけど……痛みを誤魔化すようなやり方なら、知ってる)
 しかし、それはにべもなく真希に拒絶された。ならばもう、普通の方法しか往人には取る術がなかった。
「……っ……!」
 先端を秘裂に当てて、俄に押し込むとそれだけで真希は掠れたような声を上げた。往人は真希の腰を掴み、ゆっくりと引き寄せるように剛直を埋没させていく。
「ぁ、ぁっ、ぁっ……やっ、……止めっ……痛ッ……」
 “先端”から、ぷち、ぷちと引き裂くような感触が伝わってくる。真希もまた、往人の手を掴み、爪を立てるように握りしめてくる。
 往人はそのままゆっくりと腰を進め、そして一番抵抗が強くなった所で、一気に剛直を突き入れた。
「あッ……ぃッ…………〜〜〜〜〜〜ッ……!」
 声にならない悲鳴とは、こういう声を言うのだろう。先ほどまでは、そういった声を耳にするたびにむしろ恍惚とし、興奮を覚えた筈が今回ばかりはそうはならなかった。
「〜〜〜〜〜〜っっ……このっっ……バカッ!」
 爪を立てていた手が離れたかと思いきや、突然強烈に頬を張られた。
「なるべく痛くしないでって言ったでしょ! メチャクチャ痛いじゃない!」
「……悪い。加減をミスった」
 そういう事にしておこうと、往人は思った。自分なりに可能な限り配慮し、最も痛むであろうという場所はなるべく一瞬の痛みで済むようにしたつもりではあったが、それでも涙がにじむ程に痛い思いをさせた事には変わりがない。
(……ていうか、実は俺……とんでもない事をしたんじゃないか……?)
 はたと、遅まきながらにそのような事を思う。真希が、評判通りに男遊びをしていて経験豊富な女であれば別段そういうことも無かったであろうが、“初めて”となると些か事情が変わってくる。
(……愛川も愛川だ。初めてなら初めてらしくしてろよな)
 そもそも事の発端は真希の勘違いによるものだ。それにつけても、罵声の一つも浴びせて部屋から追い出してしまえばいいものを、「したいの?」等と余計な事を言うからこのような事になってしまったのではないか。
(……行き当たりばったりにも程がある)
 と思うも、その実、往人自身そう悪い気はしていなかったりする。勿論、相手もそうなのかどうかは往人には知る術がないが。
「……もう、いいわ」
 それはもう止めろ、という意味かと、往人は最初誤解した。
「大分、慣れてきたから……動いても、いいわよ」
「……本当に大丈夫か?」
 目尻に浮かんだ涙、早く浅い呼吸を見れば、まだまだ尋常ではない痛みが続いているのではないかと思える。
「よけいな気は遣わないで、好きにしなさいよ。…………あんたがイく迄くらい、我慢してみせるから」
 そうか。そういうことなら遠慮無く――と、途端に腰を振り出すとでも思っているのだろうか、この女は。
「……愛川、一つだけ教えてくれ」
 “細かい事”は行為そのものが終わってからゆっくり考えようと、そう決めた。しかしそれでも尚、往人は聞かずにはいられなかった。
 ひょっとしたら、真希は――
「何よ」
「…………。」
 間が、空いた。往人は言葉に詰まり、漸くに切り出した。
「…………お前が一番好きな体位は何――へぶっ」
 閃光のような張り手が、往人の言葉を遮った。
「痛ぅ……わかった、このままでいいんだな」
 巧くごまかせた――と、往人は内心安堵した。勿論、本当に尋ねたかった事は別の事だった。
 しかし、それは尋ねるべきではないと――少なくとも、その時期はもう逸してしまったと、すぐに気が付いてしまった。
「……動くぞ」
 往人は片手をベッドに置き、もう片手を真希の体に沿える形でゆっくりと腰を引いていく。
「ッ……くッ……」
 それだけで、真希は悲痛な声を上げ、慌てて口を覆うような仕草をする。真希のその反応だけでもう、往人は「今日はこれで止めよう」と切り出したくなるのだが、あえて抽送を続けた。
(狭い……っていうか、硬い……窮屈だ)
 久しぶりの肉襞の感触に脳髄がとろけそうになりながらも、往人はどこか冷静にそのように分析していた。
(もっとこう、ウニウニのにゅるにゅるでキュウキュウな感じだったよーな……)
 そんなイメージだっただけに、なんともこなれていない肉襞の感触が意外でもあり、新鮮でもあった。
(やばっ……段々、堪んなくなってきた……)
 動く、とはいっても極力真希を配慮する動きを心がけてきた。が、それでも尚腰の動きが加速していくのを往人は止められなかった。
(すげぇ……たゆたゆ、って……)
 そして、突き上げるたびに眼下でたゆたゆと揺れる巨乳の存在が、その興奮に拍車を掛ける。むんずと、上下に揺れる乳を掴み、こね回しながら往人はさらに腰を使う。
「っ……くっ、ゥ……ンッ……はっ……ぁっ……ぁふっ……ふうっ……ふっ……!」
 心なしか、真希の漏らす声が苦痛だけではないものに変わり始めているようだった。往人はさらに単純な前後運動の合間に、腰をくねらせるような動きを加える。
「あウッ!……〜〜〜っ……!」
 途端、真希は悲鳴を上げて涙を滲ませた。矢張り、まだあまり無茶はしない方が良さそうだと分析しながらも、往人は己の快感を高めるべく抽送を早めていく。
 次第に、腰の辺りに痺れにもにたものが集まり始める。それを早く解き放ってしまいたくて、往人は遮二無二目の前の牝の体を貪った。
(……このまま……“中”に……)
 出してやろうかと、そんな考えが一瞬頭をよぎり、慌てて往人は首を振った。
(なっ、馬鹿っ……何、考えてんだ……)
 そんな事が出来るわけがない――往人のその考えを嘲笑うかのように、胸の内で誰かがくつくつと笑う。
 孕ませてしまえ――と、“それ”は往人に囁きかけてくる。それが仕置きなのだと。
(馬鹿な……)
 この期に及んで、自分は狂ってしまったのかとすら、往人には思えた。その囁きの主の影響力は凄まじく、どれほど抵抗しても尚、徐々に思考が浸食されていくのを阻止できなかった。
「……っ……だ、め……」
 そんな往人の腕を、不意に真希が強く掴んだ。
「中は……だめ…………出来ちゃう……」
 相手への配慮など何もない、己がただイく為だけの動きに息も絶え絶えになりながら、辛うじて絞り出されたその言葉が、往人に正気を取り戻させた。
「っ……くッ」
 “痺れ”が暴発するその刹那、往人は理性を総動員して剛直を引き抜いた。びゅるりっ、びゅるっ……途端に狂ったように白濁が舞い、真希の全身を白く汚した。
「はーっ……はーっ…………はーっ…………」
 荒く息を吐きながら、往人はどっかりと腰を下ろし、そのまま壁へともたれ掛かる。
(何……だったんだ、今のは……)
 何故、自分はあんな……とんでもないことをしようとしたのか。今更ながらにそのことが身震いするほどに恐ろしかった。
 そして、何故真希は――。
「なぁ、愛川――へぶッ」
「最ッッ低! どうしてくれんのよ、これ!」
 尋ねる間もなく、往人は再び口の中が切れる程に強烈なビンタを食らった。理由は、一目瞭然だった。半脱ぎ状態だったブラウス、スカートにこれでもかと白濁の染みがついてしまっていた。
「ッ痛ぇ……し、仕方ないだろ……中に出すわけにはいかなかったんだから」
「だからって、もう少しやりようがあるでしょ! だいたい、あたしが止めなかったら、あんた中に出す気だったでしょ!」
「……! それだ、愛川。なんでお前、それが解――」
「それだじゃないわよ、この人外鬼畜! 無節操男! そんなの、あんたの顔見てれば察しがついたわよ!」
 げし、げしと散々に蹴られ罵られるも、往人はあえてされるがままに堪えた。一つには、自分にはそうされるだけの要因があると思っていたからだ。
 そしてもう一つは――。
「……気が済んだか? 愛川」
 一頻り蹴り続け叩き続け、はあはあぜえぜえと肩を怒らせたまま漸く暴力を振るう事を止めた真希の体をぐいと抱き寄せ、往人はそのまま強く抱きしめる。
「ちょっと……何すんのよ! 一回ヤッたくらいで馴れ馴れしく――」
「まだ痛むか?」
 真希の言葉を遮り、往人はひどく真剣な顔で問うた。その響きの真剣さが伝わったのか、真希もまたハッと息を飲むようにして声のトーンを落とした。
「……痛いわよ。当たり前でしょ……あんなに乱暴にして」
「悪かった」
 往人は真希を抱きしめたまま、そっと髪を撫でつける。次第に、真希が肩で息をするのを止め、呼吸を落ち着かせる。
「……ちょっと、もういいでしょ。……シャワー浴びてくるから、手……離してよ」
「もう少しだけ、こうさせてくれ」
「…………。」
 耳元に唇を寄せ、囁くと真希は藻掻くのを止めた。
(……愛川、もしかして――)
 先ほど聞けなかった疑問が、不意に往人の胸に沸いた。
 真希からの不自然な誘惑。その動機は――。
(俺を、慰めようとしてくれたのか?)
 それを口に出して確認をとる事は不可能だった。何故なら、例え真実がどちらであろうとも、真希が否定することは目に見えていたからだ。


 明け方、往人が家に帰り着くと既に唯が台所で朝食の準備を始めていた。
「あっ」
 と、往人の顔を見るなりリビングの椅子へと座り、とんとんとまるで無線操作でもするかのような仕草を始める。
「ムスタングツー、ムスタングツー、こちらユイ。ユキ兄ぃが無断外泊した挙げ句、女物のシャンプーの匂いをプンプンさせながら朝帰りしました、どう対処するべきか指示願います」
 誰に言うでもなく、芝居っ気タップリに唯は言う。
「すまん。連絡入れとくべきだったな。ちょっと友達の家に泊まってたんだ」
 後で気が付いた事だが、携帯にはこれでもかと唯からの着信が入っていた。真希の家を出る段階になってやっとその事に気が付き、慌てて返事を返したが手遅れにも程があった。
「“女”友達でしょ? しかもハル姉以外の。ハル姉には電話かけたもん」
「……千晴に電話したのか?」
「したよ? うちには来てないよーって言ってたけど。……あっ、もしかしてマズかった!?」
「……いや、別に悪くはない」
 もう、千晴とは彼氏彼女の関係ではないと、少なくとも往人は思っていた。千晴もそう思い、別段引きずったりもしていないのだろうか。唯への返事を聞くに、そう思えるのだが。

 冷やかし半分、茶化し半分の唯の小言に付き合いながら朝食を胃に収め、往人は学校へと向かった。殆ど寝ていないせいか、まるで一日に二度学校に行っているような気分だった。
(……ダメだ、限界だ)
 気力が尽きたのは二限目の現国の最中だった。そこからぐうぐうと往人は寝続け、時折教師に頭をひっぱたかれて目を覚ますも、それでも寝こけてしまい、漸くひと心地ついて目を覚ましたのは四限目も終わりに差し掛かってからだった。
「んぁ……」
 寝ぼけ眼で回りを見渡し、もぞもぞと今更ながらに授業の用意などをしていると、不意にくすくすと隣の席から忍び笑いが聞こえてきた。
「委員長?」
「すみません。なんだか、愛川さんみたいだと思って」
「…………。」
 確かに、学校には来るが、寝こけて授業は殆ど聞かないというのは如何にもあの女の行動にそっくりではある。
「そういや、愛川は……」
「今日はまだ来てません」
 多恵の言うとおり、真希の席は空席のままだった。
「ふむ……」
 別段これといった感慨も湧かず、往人は再び机に突っ伏し、眠った。そうして蓄えた気力で午後の授業に関しては平常通りに受け、その六時限目の終わり際になって漸く真希はやってきた。
 授業をやっている英語教師を含め、ほぼクラスメイトの全員が「今頃何をしに?」という目で見守る中、真希はいつも通り堂々と教室後ろの入り口から入るや、自分の席へと座った。教科書を出すでもなく、ただ頬杖をついて呆然と窓の外を眺める真希を無視して英語教師は授業を再開し、程なく授業終了のチャイムが鳴った。
(……あいつ、何をしに来たんだ?)
 往人がそんな事を考えていると、程なく担任教師が来てHRが始まり、それもものの十数分で終わるや、真希はそそくさと帰ってしまった。
(……はて?)
 往人は首を傾げたが、それだけだった。



 数日が、過ぎた。
 “あの夜”以来、真希との関係に何らかの変化があったかといえば、全くないというのが往人のみるところだった。
 真希は相変わらず遅刻をしては授業の大半を寝て過ごし、往人の方から声をかけなければ向こうから声をかけてくるという事もない。ひょっとしたらあの日の出来事が全て夢だったのではないかと思いたくなるほどに、ただのクラスメイト然とした関係のままだった。
 だからその日の昼休みに往人が真希に声をかけたのはただの気まぐれ、なんとなくに過ぎなかった。

「おい、愛川」
 売店で買ったパックの苺牛乳を首につけるや、ひぃと声を上げて真希が顔を上げた。
「久々に昼飯でも一緒にどうだ?」
「………………。」
 まるでデジャヴのように、いつぞや同様に真希はチラチラと迷うように目を動かした後、ひったくるようにパンとパック牛乳を奪い、教室から飛び出していった。
 往人はやれやれと、その後を追った。行き先は、前回と同じ屋上の日陰だった。
「一週間ぶりくらいだな。愛川と話するのも」
「………………。」
 真希はパンを口にくわえたまま、何処か恨めしいような目で往人を見据えてくる。
「……なんだよ、その目は」
「別に……」
 真希はぷいとそっぽを向き、そのままむしゃむしゃとパンを平らげてしまう。
「……あんたもう、あたしに用はない筈でしょ」
「まぁ、そういう事になるかな」
 真希に指摘されて、往人もまた自覚せざるを得なかった。頭を打って以来、ずっとこれは本当の自分ではないと思い続けてきた。その状況を打破する鍵を真希が握っていると思った。しかしそれはただの思いこみだと真希に指摘された。
 となれば、往人としては最早真希に付きまとった所で何のメリットも無いという事になる。少なくともそうであると、真希は言いたいらしかった。
「……ただ、バスケ部も辞めて、他に特にやりたい事もなくてな。愛川の尻を追いかけるくらいしか正直、する事がないんだ」
 別段、変な事を言った自覚は無かったのだが、何がまずかったのか真希が途端にパックのストローから口を離し、げほげほと噎せ始めた。
「ばっ……何言うかと思えば……やることないからって、なんでよりにもよってあたしなのよ!」
「何でって言われても困るな……」
 事実、往人は困った。何故なのだろう、自分でも理由が分からなかった。
「いーい、これだけは言っておくわ。“アレ”は、一度きりの過ちであって、それ以下であることはあっても、以上では決してないんだから。それだけは肝に銘じとくように」
「解った。愛川がそう言うなら、犬にでも噛まれたと思って忘れる事にする」
「それはこっちの台詞よ! なんであんたが被害者面するのよ!」
「いやでも……最初に誘ってきたのは愛川の方だろ?」
「手を出してきたのはあんたでしょうが!」
 違う、あれは鍵を――と口にしかけて、往人は止めた。この口論に終わりを見いだせなかったからだ。
 だから、論点を変える事にした。
「ところで愛川。一つ、どうしても気になってた事があるんだが」
「……何よ」
「“例の噂”、ようは全部デマだったんだろ。なのになんで否定しなかったんだ?」
「……別に、言いたい連中には言わせておけばいいのよ」
「お前の気持ちは分かる。けど、やってないことはちゃんとやってないって言ったほうがいいんじゃないのか?」
「いいの、今のままで。あんたも絶対に余計なことはしないで」
「……まぁ、愛川がそう言うんならな」
 無理して味方になってやる義理もないか、と往人も菓子パンにかじりつく。
「……ねえ、あたしも一つ、相場に聞きたい事があるんだけど」
「何だ?」
「…………今日、授業中……委員長と何か話してたでしょ。何の話してたの?」
「はて?」
 と首を傾げたのは、惚けたからではなかった。一体どれのことを言われているのか解らなかったからだ。
「委員長とは割と話するけど、どの時のを言ってんだ?」
「どの時って……全部よ」
「全部?」
「あんた、委員長と話しするとき、しょっちゅうあたしの方チラチラ見るじゃない。……悪口でも言ってたんじゃないの」
「……いや、悪口なんて言ってないし、別に愛川の方をしょっちゅう見てるって事もないと思う」
 むしろ、授業中に多恵と話をする時は、だいたい話題は授業に関する事だ。当然視線の先は黒板の方であるから、窓際の方の席である真希の方へは視線が向く事はなく、あったとしても極々たまにである事は間違いない。
「委員長と話すのは大抵授業の事だ。だいたい、愛川はいっつも顔伏せて寝てるくせになんで俺がお前の方を見てるとか、そんなのが解るんだ?」
 うっ、と。俄に真希が上体を引いたのは、往人の意見が尤もだと思ったからだろう。
「あ、あたしは生憎と耳も良いの! 声の感じとかで、だいたいどっちむいて話してるとか、解るのよ」
「そんなに耳が良いなら、話の内容も聞こえるだろ?」
 これまた尤もだと思ったのか、真希はぐうと黙り込んでしまう。
「と、とにかく! 話し声が気になって安眠できないから、委員長と話すのは止めなさいよね」
「愛川、重ねていうけどな。俺たちは基本的に授業に必要な会話しかしていない、お前はただ寝てるだけ。なのになんで俺たちがお前に気を遣って話すのを止めなきゃいけないんだ?」
 これがトドメだった。真希はぐうの音も出ないほどに黙り、唇を噛んだままぷいと顔を背けた。
(……ものの道理はちゃんと解る奴なんだよな)
 真希自身、己が口にしていることがどれほど不条理なのか頭では理解しているのだろう。しかしそれでも口にせざるを得なかったと言うことは、つまりそれほどまでに――。
(本当に声が気になって安眠できないって事か)
 そう思って見れば、どことなく窶れているように見えなくもない。勿論、気のせいだと言われればそうだと納得できる程度の変化ではあるのだが。
「愛川、もう一つ疑問があるんだが」
 真希は答えなかった。答えないという事は否ではない、と往人は思う事にした。
「バイトでけっこう深夜まで働いたりして、朝起きるのが辛いってのはよく解る。けどそれも別に毎日ってわけじゃないだろ。なのになんでそんなにいつもいつもいつもいつも遅刻して、学校に来ても寝てばかりなんだ?」
「……うっさいわね。そんなの、あたしの勝手でしょ」
「それともう一つ。遅刻はしても、欠席は絶対にしないのは何故だ?。委員長に聞いてみたら、愛川は一年の途中からただの一度も欠席はしたことないらしいじゃないか。ある時なんてインフルエンザにかかったまま無理矢理学校に来て、そのまま保健室送りになったって話も聞いた。……なんでそこまでして無欠席に拘るんだ?」
「……何よ、やっぱりあの子とあたしの話してるんじゃない」
「それは今はどうでもいいだろ。第一、悪口じゃない。……どうしてなんだ?」
「………………答えたくないわ」
「そうか」
 ならば無理には聞くまいと、往人は黙って菓子パンを口の中に詰め込み、苺牛乳で飲み干した。
「ところで愛川。話は変わるんだが」
 往人はころりと、語気を変えて言った。
「今日、放課後暇か?」


 放課後、往人は掃除当番を済ませ、昇降口へと降りた。
「おっ、感心感心。ちゃんと待っててくれたのか」
「……今帰ろうと思ってた所よ」
 声をかけるなり、ぷいと一足先に真希は昇降口から出ていってしまう。往人も急いで靴を履き、後を追った。
「……あんまりそういう事を言うと、ツンデレって言われるぜ」
「あたしの知ったことじゃないわ」
 そりゃそうだと、往人は妙に納得をしてしまった。
「しっかし、本当に待ってるとはな。愛川の事だから、十中八九先に帰ってると思ってた」
「……あんたが、待ってたらばーちゃんのお稲荷さん奢るって言ったから待ってただけよ」
「確かにそりゃ言ったけどさ」
 それでも尚、待ってはいないのではないかと、往人は予想していた。昼休みに話をした限りでは、正直鬱陶しがられこそすれ好印象など気ほども持たれていないと実感した分、たかだかいなり寿司の一つや二つで本当に釣れるとは思っていなかった。
(……ほんと、食い物で驚くほど簡単に釣れるよな……)
 その分金がかかってしょうがないのだが、それくらい別に良いかなと思わせる何かが真希にはあるらしい。
 帰り道、二人で連れ立って巻き寿司屋に行くと、店員の老婆はなんとも嬉しそうな笑みを浮かべ、またしてもお茶缶を二つオマケしてくれた。
(……どうやら俺は、愛川の彼氏だと思われているらしい)
 そうだとしか思えなかった。誤解なのだが、それを口にする事はなんとも野暮のように思え、結局口には出せなかった。
「んじゃ早速、愛川んちに行って食おうぜ」
 えっ、と。そんな声と共に真希が固まった。
「何言ってるの? 神社で食べるんじゃないの?」
「別に愛川の家でいいだろ。ここから近いんだし。神社は何だかんだで蚊とか居るし」
「蚊くらいあたしの家にも出るわよ! ていうかあんた、何!? 放課後いなり寿司でも食べないかってそういう意味で言ってたの!?」
「そういう意味もなにも、まんまの意味だろう」
「嘘ばっかり。それを口実にして部屋に上がり込むのが目的だったんでしょ」
「それも否定しないが……あくまで俺はもう少し腹を割って真面目に話がしたいだけだったんだけどな」
 しかし、いっそのこと真希が言うような事をするのも悪くはない、と往人は思った。
「解った。じゃあそういう事で良いから早く行こう」
「なっっ……そういう事でいいって、ちょっ……背中押さないでよ!」
 いいから、いいからと往人は半ば強引に真希の背を押し、アパートの前までやってきた。そこではたと思い立って、鞄から携帯電話を取り出した。
「……あ、もしもし……唯か? 悪い、今夜ちょっと遅くなりそうだから俺は晩飯はいいや」
 言うだけ言って、唯の反論を待たずに往人は通話状態を終了させ、ついでに電源も落とした。
「な、何よ……今の電話……帰りが遅くなるって……」
「あくまでそうなるかもしれないって話だ。気にするな」
 真希の背中を押しながら、なあなあの内に往人は部屋に上がり込んでしまう。
「さすがにこの季節になると暑いな。クーラーつけようぜ」
 完全に日が落ちれば少しは涼しくなるのだろうが、生憎と日没まではまだ時間がある。真希は何かを言いたそうに(というよりは、ぶつくさと聞こえない音量で何かを呟きながら)しぶしぶリモコンでクーラーのスイッチを入れる。
「うわっぷ……なんだこの風……カビ臭ぇぞ」
「文句があるなら切るわよ」
「待て、待て……うーわ、フィルター埃まみれじゃねえか」
 往人は一端電源を切り、クーラーの蓋を開けてフィルターを取り外す。水洗いしてタオルでよく拭き、ドライヤーで簡単に乾かした後再びクーラーに装着する。再び電源をいれると、まだ微かに黴くさいながらも遙かにマシになったそよ風がさわりと頬を撫でつけた。
「ほら、これでマシになったろ。……フィルターくらいちゃんと掃除しろよ」
「悪かったわね。エアコンなんて客が来た時くらいしかつけないのよ」
 前に客が来たのはいつだ?――そんな疑問が湧いたが、往人は口にはしなかった。フィルターに堪っていた埃を見れば推して知るべしというところだからだ。
(……ひょっとしてコイツ、思ってた以上に“一人”なのか?)
 さすがに面と向かって「お前、友達は居るのか?」と尋ねる事は出来なかった。
「……まぁいいや。さっそく食うか」
 誤魔化すように、往人はてきぱきとテーブルの上にジャンボ稲荷(2つずつ)とお茶缶を並べる。これらを食すという事に関しては、真希も一切の異論が無いらしく大人しくベッドに腰かけるや割り箸をぱきりと開いた。
(……そこに座ると俺の位置からは下着が丸見えなんだが)
 座布団もなしに、畳の上に胡座をかいている往人の真ん前でベッドに座れば、自然とそういう構図になるのだが、真希は全く気が付いていないらしかった。
(ほほう、今日はピンクか)
 なるほど、なるほどと頷きながら、往人もまた割り箸を割り、いなり寿司にかぶりつく。女性の下着をオカズに食べるいなり寿司もなかなかオツなものだと、そんな事を思う。
(ああっ……この甘辛のおあげがたまらん!)
 古代中国では、麻婆豆腐に常習性のある調味料などをふんだんに使い、それによって客をいわば中毒状態に陥れて何度も店に足を運ばせたらしいが、それらの客の気持ちが今なら分かると、往人は思う。
(……三日と空けずに食いたくなる味だ)
 真希が病みつきになるのも頷ける。瞬く間に二人ともぺろりと平らげてしまい、後に残るのはもう少し食べたかったという微かな不満と、それを遙かに上回る満足感だった。
「はぁー……ンまかった……余は満足じゃ」
「……もう少し食べたい、っていう所で止めておくのが、次も美味しく食べる秘訣よね」
 どうやら、二つではたりないと感じているのは真希も同じらしい。二人とも計ったようなタイミングで寿司を食べ終え、お茶まで同時に飲み干し、ふうとついた一息までもがシンクロしていた。
「……ところで愛川。さっきから言おう、言おうと思ってたんだが」
「なに?」
「そこに座るとパンツが丸見え――げぶっ」
 全てを言い終わるより先にテーブルが蹴られ、それが往人の胸を壁との間に挟む形で直撃した。
「見るな! バカ!」
 真希は憤然と立ち上がるや、げしげしとケーブルを蹴りつけてくる。その都度往人はテーブルの角で強かに胸を打ち続け呼吸もままならなかった。
「っっっ……こンの! 見られるような位置に座ったお前が悪いんだろうが!」
 最初こそ下着をたっぷりじっくり観賞しつづけた負い目から我慢していたが、さすがに堪りかねて、往人はテーブルをひっくり返しながら立ち上がる。
「あんたが見なきゃ済む話なんだから、見る方が悪いに決まってるでしょ!」
「見るに決まってるだろ! ただでさえお前は――」
 ひっくり返ったテーブルを踏みつけながら、真希とつかみ合いの口論をしていた往人ははたと、そこで言葉を止めた。
「……お前は――何よ」
 真希もまた、それまでの語気とはうって変わった、どこか神妙な口調で尋ねてきた。
「あー……ほら、愛川って……かなり男好きする体してぶっ」
 またしても、全てを喋り終える前に頬をひっぱたかれた。
「痛ぇな! せめて最後まで言わせろよ!」
「聞きたくないから止めたのよ!」
「訊いてきたのは愛川だろ!」
「ものには言い様ってのがあるでしょ! ……何よ、男好きする体って、官能小説の読み過ぎじゃないの?!」
「なっ、このっ……!」
 揉み合う内に、先に足を滑らせたのはどちらだったか。往人は真希の方だと思うし、恐らく真希に訊けば往人が押したと答えるだろう。
「わぶっ」
「きゃっ」
 二人、ベッドに縺れるようにして倒れ込んだ。計らずも、丁度真希を押し倒したような形になり、目が合うなりハッと二人ともそれぞれ左右に視線をそらせた。
「ちょっと……何してんのよ、退いてよ」
「わ、悪い……すぐに……」
 往人はベッドに手をついて慌てて起きあがろうとした。しかし、実際に往人が手をついたのはあろう事か真希の膨らみの片方だった。
「ちょっっ……何処触っっ……」
「ち、違う! 態とじゃ――」
 さらに焦って手を退かそうとするが、実際に往人が行ったのはその手を円を描くように動かし、巨乳を捏ねる事だった。
(体が……勝手に……!?)
 或いは、見えない糸にでも操作されているかのように、どれほど止めようとしても右手が乳を揉むのを止められない。
「…………っ……早く、退きなさいよ……」
 心なしか、先ほどよりも柔らかな物腰で真希が言う。勿論往人としても止める気は満々であり、事実手を離そうと懸命に指令を送ってはいるのだが、どうにも巧く行かない。
「……んっ……」
 揉む、というよりはさわさわと、ブラウスの上から胸元を撫でつけるようにする動きを繰り返す内、次第に真希が無口になる。そうなると、“往人の手”はますます図に乗り始めた。
(う、わ……俺、何……やってんだ……)
 そう思いながらも、自分の手がブラウスのボタンを外し、ピンクのブラに包まれたたわわな巨乳が露わになる光景から目を逸らすことが出来ない。
「何、してんのよ……いい加減にしないと大声出すわよ」
「いや、俺にも何がなんだか……」
 混乱しながらも、往人の手はブラのホックを外すべく真希の背のほうへと回った。
(……何故背を浮かせる?)
 目的の作業があまりにやりやすく、その大きな要因の一つが真希が自ら背を反らせるようにしてスペースを作った事なのだが、これは純粋な疑問として往人の胸に残った。
「……っ……止めて」
 ブラを上方へとずらし、白いプリンのような巨乳を直に手で触り始めると、真希が掠れたような声で言った。が、勿論往人の手は止まらない。
(っ……す、げ…………)
 指が、埋まる。手のひらに吸い付くような肌にゾワリと背筋に冷たいものが走り、鳥肌すら立つ。
「……愛川、シたい」
 不意に、往人は口に出していた。
「絶対に、嫌」
 しかし、真希は吐き捨てるように即答した。往人はさらに丹念に乳を捏ねながら言う。
「頼む、愛川」
「……っ……い……嫌だって、言ってるでしょ……」
 呼吸を乱しながらも、真希は尚強い口調で言った。むぎゅ、むぎゅと強く力を込めて捏ねると、真希は身じろぎをしながら掠れた声を漏らした。
 その手が、ぎゅうとシーツを掴んで離さない。
「愛川……」
 その先は言わずに、往人は乳を握るように捏ねて先端を立たせ、唇を付ける。ちぅ、と思いきり吸い上げると、真希は堪りかねるように体を跳ねさせた。
(……胸、弱い……んだな。やっぱり……)
 巨乳は感じにくい――というのがセオリーだという事は往人も知っている。しかし、何となく真希は違うのではないかと、そんな気がしていた。
(そして多分……快感にも……)
 食欲、睡眠欲には呆れるほどに忠実な女だ。ということは、三大欲求の内残る一つにも弱いのではないか。
「……いいか?」
 たっぷりと先端をしゃぶりつくし、真希がはあはあと悶える声をさんざん聞いた後、往人は再度尋ねた。
「…………カーテン、閉めて」
 電気も消して――聞き取れないほど小声で言うや、真希は顔を隠すように両腕を交差させた。
 往人は言われたとおりにカーテンを閉め、そして部屋の電気を消した。


「んっ、んっ…………ぅ……!」
 下着の中へと手を入れ、優しく愛撫すると真希は押し殺しながらも声を上げる。
(抵抗は……しないんだよな)
 本当に嫌ならば大声を上げるなり引っ掻くなり噛みつくなりいくらでもやりようはある筈なのに、真希はそれをしない。強引に迫った往人自身首を傾げたくなるほどに、されるがままになっていた。
「……先に、下着……脱ぐわ……汚れちゃう……」
 真希の意を汲んで、往人はショーツに手をかけ、するりと脱がした。
「あんっ……」
 そのまま流れるように巨乳の先を口に含み、舌先で嘗め回しながら、秘部を指で弄る。割れ目をなぞるように指を動かしながら、十分に蜜が蓄えられるや、つぷりと――。
「んっ……あっッ……ぁっ……」
 熱を帯びた肉襞を割るようにして指を入れ、うにうにと動かすと真希の悶え声はますます大きくなった。
「ぁぁぁぁぁ、ぁぁぁ……!」
 さらに空いた手で乳を捏ね、先端を吸うとその声は感極まるような響きになる。今なら、或いは――そんな事を思って、往人はそっと、それこそ水が低地へと流れていくような自然な動きで、真希の唇を奪おうとした。
 が。
「嫌っ」
 往人のそんな動作に気が付くや否や、ぷいと真希は顔を背けてしまった。
「……どうして、キスだけそんなに嫌がるんだ?」
 さすがに往人は尋ねてしまった。ここまで嫌がるのには何か理由があるに違いないと。
「……気持ちが動きそうになるから、嫌」
「気持ちが……動きそうになる……?」
 妙な言い方だと、往人は思った。
「……いいでしょ、別にキスなんかしなくても……はやく済ませてよ」
 さも、自分は不本意で嫌々付き合ってやっているとでも言いたげだった。
(……まぁ、愛川がそう言うなら)
 確かに、これは恋人同士が互いの愛を確かめ合う為に体を求めているわけではない。ただなんとなくムラムラして、快感を貪り合っているだけだ――往人はそう割り切る事にした。
(にしても、ほんっと……乳といい太股といい……)
 たまらない体つきだと、往人は思う。乳の次は太股にしゃぶりつくように舌を這わせながら、その付け根の方へと顔を近づけていく。
「っ……!」
 真希は微かに嫌がるような素振りは見せたが、それだけだった。前回の時のように腕で足を固定して逃げ場を無くすような事をする必要もなく、往人は指で秘裂を開くようにして舌を差し入れた。
「はぁっ、んっ……もぉ……まだシャワーも……浴びて、ない、のにぃ……ぁっ、ぁっ……!」
 スカート越しに真希の手が、かりかりと爪を立ててくる。それはさらなる愛撫を求められているのだと解釈して、往人はさらにちゅぐちゅぐと音を立てながら蜜を啜った。
「っあッ! ……ぁぁぁ……ンッ……ぅッ……」
 びくっ、びくと体を跳ねさせるたびに、ドッと蜜が溢れてくる。その反応が、とても“二回目”とは思えず、往人は内心驚きを隠せなかった。
(千晴とは随分違う……)
 自らの手で処女を奪ったという確固たる証拠がなければ、相当に経験豊富だと思いたくなるような反応の良さだった。
(……挿れたい)
 そして蜜を啜り、真希の喘ぎを聞く度に、衝動にも似た声が胸の内で響く。早く挿れたい、この牝の体を犯したい――と。
「…………? ……な、なんで……いきなり止めるのよ……」
 突然ぴたりと一切の愛撫を止め、往人が体を起こすなり真希が不満をあからさまに声を上げた。
「……いや、そろそろ挿れたいって思って」
「………………ちゃんと、避妊は……しなさいよね」
「それは大丈夫だ。ゴムもつける」
 前回とは違う、と往人は手早く脱衣すると同時に“装着”も済ませた。さていざ真希に覆い被さろうという段階になって、はたと思い直した。
「愛川、四つんばいになってくれ」
「……どうしてよ」
「後ろからシたい」
 真希は一瞬考え、そして渋々ながらも俯せになり、四つんばいになった。往人は改めて被さるようにその秘裂へと剛直を宛い――。
「んぅ……!」
 ゆっくりと先端を埋め、ほぐすように前後させながら埋没させていく。。
「ぁっ……ちょっ……んぅ…………」
「どうした。まだ痛むのか?」
「そ、そうじゃ……なくて……やだっ……ぁんっ……待って、動かないで!」
 真希の懇願を受けて、往人は渋々一切の抽送を中断する。真希は両手の肘をついたまま、しばしはぁ、はぁと呼吸を整えていた。
「……やっぱり、普通に……して」
「どうしてだ?」
「…………なんか、ゾワゾワって……変な感じがするの」
「つまり、痛いわけじゃないんだな?」
 ならば、止める理由はないと。往人は真希の腰をつかみ、抽送を再開させる。
「やっ……こらっ、ダメだって……言ってるでしょ……んっ……やっ……」
「俺には、そうは見えない」
 むしろ、普通に正常位でした前回に比べて格段に反応が良くなっているようにすら見える。勿論、痛みの有無もあるだろうが、“それにしても”と往人は思う。
(後ろからされるのが好きなんだな、愛川は)
 何となくそう思ったからこそ、四つんばいになる様要求したわけなのだが、まさかこれほどまでに変わるとは思わなかった。
(……それに……俺も、この方が……興奮する……)
 ゴム越しに伝わってくる快感もさることながら、それよりなにより眼下に広がるこの光景に、鼻血が出そうな程に往人の興奮は高まっていた。
 これは決して強姦ではない。少なくとも往人はそう思っている――が、“真希を後ろから犯している”かのようなその光景が、際限なく往人の中の牡を高ぶらせていく。
 自然と、動きが荒々しくなる。
「やっ……ちょっ、イヤッ……嫌っ……あんっ! ……う、嘘……どうして、こんなっ……ンッ……だめっ、だめっ……」
「なんだ、もうイきそうなのか?」
 膣内の動きや、体の痙攣のさせ方。なにより、真希の声の極まり方などから予想をつけて、往人はぼそりと囁きかけた。
「う、うるさい! 誰が……あんっ!」
 真希の反論など右から左に聞き逃しながら、往人は両手を前へと回し、むっぎゅむぎゅと好き勝手に乳をこね回す。たちまち、キュキュキュゥゥウ!――そんな凄まじい勢いで肉襞が痙攣するように剛直を締め付けてくる。
(うっ、お……これは、気を抜くと……一気にやられる……)
 脂汗をかきながらも、そういう迫った状況だとは悟られない様に努めながら、往人はさらにぐりぐりと腰をくねらせる。
「ァああああッ!!」
 声を抑えるためにシーツを噛みしめていた真希が、堪りかねたように声を上げた。
(……でも、イかせない)
 真希が今まさにその寸前にあると悟るや、往人は一切の動きを止める。ベッドシーツを握りしめる真希の手首を押さえつけるように上から自分の手を添え、被さり、囁く。
「……愛川、イきそうな時はちゃんと言えよ」
 じゃないと絶対イかせない――囁いて、往人は真希の耳をはむはむと甘く噛む。
「な、何よ……それ……どうして、あたしがそんな事……いちいちあんたに……ッ……」
「別に理由なんかない」
 ただ、そんな気分なだけだと、往人は胸の内で呟きながら、真希が決してイけない程度の抽送、愛撫をひたすらに繰り返した。
 次第に、はあはあと。大した動きもしていないのに真希の呼吸が荒く、全身が紅潮し汗ばみ始めた。
「ね、ねぇ……もう、いい加減……」
 両手をベッドに押さえつけられる形で組み伏せられたまま、真希が堪りかねたように身をモジモジさせる。
「……俺は、愛川の“おねだり”が聞きたい」
「そんなのっ……一々口に出さなくても……あんたには解ってるでしょ……いいから早く……ぁンッ!」
 往人は身を起こし、ぱんっ、ぱんと真希の尻が鳴るほどに強く、四度だけ突き上げた。それ以上は、“寸止め”にならないと判断したからだ。
「ッ……! っ……ぅ……い、いや……だめ……おかしくなる……」
「愛川?」
 続きを欲しかったら……解ってるだろ?――そんな囁きに、真希はクッと唇を噛んだ。
「は、早く……イかせてよ……あんただって、辛いんでしょ!」
「……ま、いいか。今回はそれでいいって事にしとく」
 往人は押さえつけていた手を離して、再び真希の腰を掴むや、ずんっ、と大きく腰を引き、突く。
「ぁあんっ! あんっ、あんっ、ぁっ、ぁっ、ぁっっぁっ、ぁっ…………!」
 そのまま、ずん、ずんとリズミカルに突き上げると、真希はたちまち声を上げる。時折腰をくねらせながら突く場所を変えてやると、さらに甲高い声を上げた。
(……うわ、もう……だだ漏れじゃないか)
 組み伏せるように密着していたから気が付かなかったが、既に太股を伝ってシーツにまで染みが出来てしまっていた。
(そんなに焦らしたっけか)
 或いは、自分が考えている以上に真希は感じやすいのかもしれないと、往人は多少“上方修正”をした。
(ていうか、俺ももう……限界、だけどな)
 後背位ではなく、互いの顔が見れる体位だったならば、真希も脂汗を流しながら平生を取り繕う往人に気が付いたことだろう。
「ぁっ、ぁっ、やんっ……ぁっっ……あッ! お、く……奥っ、にぃ……当たって……ンンぅっ……あぁっ!」
 散々焦らしたせいか、焦らす前に比べて真希は声を押し殺さなくなった。それどころか、自ら尻を押しつけるように腰をくねらせ、貪欲に快感を貪ってくる。
「いい……のぉ……あんっ……もう、あた、ま……痺れ……ぁぁああッ! ひんっ……やっ……だめっ、イくっ……イくっ……イクぅ……! 〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!」
 真希がぶるりと身を震わせ、達したその刹那、往人もまた限界を迎えた。被さり、ぎゅうと体を抱きしめるようにして奥の奥まで突き入れ、どくり、どくりと子種を解き放つ。
(……あぁ、そうだ……ゴム、つけてたんだった)
 “先端”から伝わってくる感触で、往人はその事を思い出し、絶頂の余韻の中で軽い失望を覚えた。これでは満足できないと、胸の奥に眠る誰かが呟くのだ。避妊具越しなどではなく、生で直接犯し、子種を注入して孕ませてやれ――と。
「はーっ……はーっ……はーっ……」
 無論往人はそのような暴論に耳を貸す気はなく、ぐったりと真希の体に凭れるように身を沈める。真希もまた全身脱力し、ただただ荒い呼吸を整えていた。


 どれほどそうしていただろうか。互いの汗が混じり合うほどに身を寄せ呼吸を整え、先に動いたのは往人の方だった。
 剛直を引き抜き、先端にたっぷりと精液の溜まった避妊具をキュッと結んでティッシュにくるみ、ゴミ箱へと放る。そのままさも当然の様に次の避妊具の封を破ろうとしていると、ギョッとしたように真希が身を起こした。
「ちょっと、あんた……何してるの?」
「何って……新しいのつけないと続き出来ないだろ」
「つ、続きって……まだする気なの!?」
 何をばかな――と、往人は相手の正気を疑うような目で真希を見た。
「愛川だって、たった一回シただけじゃ満足できないだろ?」
「なっ……え……えっ……?」
 さも当然のように言う往人に対し、真希は言葉が出ないらしかった。
「ちょっと待って……“それ”が普通なの?」
「当たり前だろ」
 言うが早いか、往人は新しい避妊具を装着し終えて再び真希の体へと手を伸ばす。
「ま、待ってよ……あたしはもう……」
「何言ってんだ。ほら」
 往人は胡座をかき、そこから先は言葉だけで促した。真希は戸惑い、さらに戸惑い、もひとつ戸惑った挙げ句恐る恐る四つ足で往人の側へと寄ってきた。
「やっ……ちょっ……相場っ……ンッ……」
 往人はそのまま真希の体を抱えるように引き寄せ、座位のまま根本まで挿入する。
「後ろからが嫌なら、こういうのはどうだ?」
「ど、どうって…………そんなの、あたしに解るわけないでしょ!」
 足も手もしっかり往人の背の方へと回しておきながら、真希は負け犬のように吼えた。
(俺的には、これが一番しっくり来る……んだよな)
 勿論、“後ろから”というのも捨てがたいのだが、一番しっくり来る体位は何かと言われれば、やはり対面座位だった。
「……何よ、続き……するなら、さっさとしなさいよ」
 挿入したまま、大して動かずに尻肉をさわさわし続ける往人に対して、真希が早くも焦れたような声を出す。
(なんだ、やっぱり満足してなかったんじゃないか)
 自覚があるなしは兎も角、真希の体そのものはさらなる快感を欲しているらしかった。その証拠に、根本まで深々と刺さった剛直にこれでもかと媚肉が絡みつき、まるで催促でもするかのように締め付けてくる。
(まあ、そういう事なら)
 なんの遠慮もいらないとばかりに、往人は真希の体を持ち上げ、落とした。そして再び持ち上げ、落とし、それを何度も繰り返す。
「んっ……んっ……んっ……」
 とんっ、とん、と先端に何かが当たるような感触がする度に、真希が甘い声を上げる。目の前にあるその唇がなんとも物欲しげで、拒絶されると解っていて尚、往人は引き寄せられるように唇を寄せる。
「……嫌だって、言ってるでしょ」
 ぷいと、予想通りの反応で真希は逃げるように顔を背ける。
「……セックスしながらキスなんかしたら……絶対、気持ち動いちゃうんだから」
「よく解らないんだが……動いたら何かまずいことでもあるのか?」
「あ、あるに決まってるでしょ! ……だから、兎に角、絶対ダメ」
「どうダメなのか、詳しく聞きたい」
 小刻みに真希の体を揺さぶりながら、往人はにじり……と、真希に詰め寄る。
「ぁっ、ぁっ…………っ……あたしは…………ンッ……あんたと“特別な関係”になんてなりたくないの!」
「ふむ……?」
「あ、相場だって……あたしなんかに惚れられたら、困る……でしょ」
「……大袈裟だな、愛川は。たかだかキスしたくらいで惚れたりするもんか」
「もしかしたらの話をしてるの! 絶対そうなるとかじゃ、なくて……ンッ……」
 真希の言葉に耳を傾けながら、往人は眼下にある巨乳に顔を埋めながら舌を這わせる。
「自分で……なんとなく、解るのよ…………あたし、絶対キスとかされると弱いって……こんな風に抱かれたまま……ンッ……優しくキスなんかされたら、大嫌いな奴、でも……ぁっ……」
「……気持ちが傾いて、好きになるかもしれない――か?」
 乳から顔を上げて、往人はじいと真希の心根を見透かすように見据える。真希は何も言わず頷きもせず、ただ往人から視線をそらせた。
「……じゃあ、試してみるか?」
「た、試す……って……」
 その意図する所を察した真希が狼狽するのも構わず、往人はそっとその顎に指を当てる。
「ダ、ダメって言ってるでしょ!」
「ただの実験だ。軽くキスしてみて、本当に気持ちが傾きそうになったら止めればいい」
 往人は真希の顎を押さえ、逃げられないように固定したまま、そっと唇を近づけていく。
「い、嫌っ……止め――……んっ……」
 最初は、宣言通り軽く触れあうだけですぐに往人は唇を引いた。
「どうだ? 何か変わったか?」
 何も変わる筈はないと、往人は思っていた。キスはキスで確かに良い物ではあるが、それは雰囲気作りや興奮を高める為の手段として優秀なだけであって、人の気持ちを変えるほどの効力はあるはずがないと。
「……何も、変わらないわ」
「だろう?」
 そういうものだ、と往人は頷く。
「良かったな、愛川。これで心おきなく、いくらでもキスが出来る」
「えっ……ちょっ――んんッ……!」
 今度は、唇が触れ合うだけので終わるような、生やさしいものではなかった。互いの舌と舌を絡め、唾液を啜り合うような、そんなキスを仕掛けながら、おやおやと往人は内心思った。
(……嫌がってない)
 本当にディープキスが嫌なら、歯を食いしばって舌など触れさせなければいいのに、真希はそれをしないのだ。むしろ、辿々しくも舌を絡めてくる様などは、明らかに自ら求めてきている証拠だった。
「んふっ、んくっ……ちゅっ、んむっ、あむっ……」
 どちらともなくそんな声を漏らしながら、舌で舌を舐め合うようなキスは往人自身呆れる程に長く続いた。
 そして。
(んぉ……!?)
 さすがにそろそろ、と往人が顎を引こうとすると、それを真希が追ってきた。まるで、銀の糸に引き寄せられるように唇を重ね、ちゅぐ、ちゅぐと自ら積極的に舌を絡めてくる。
(しかも、キュッ、キュッって……)
 剛直を締め付けながら、うねうねと腰をくねらせるような動きをされ、往人はたまらず体を強張らせた。
(ヤバっ……)
 忽ち上り詰めてしまいそうになり、往人は真希の肩を掴んで無理矢理引きはがす。
「あんっ……もう、急に何よ……」
 良いところだったのに、とでも言いたげな目に、往人は言葉を返せなかった。――否、返す必要もなかった。
(もう、言葉は要らない――か)
 無粋なだけだと。往人は覚悟を決め、再び唇を重ね――今度は、真希も一切嫌がる素振りを見せなかった――そのまま尻を掴み、上下に揺さぶるように奥を小突く。
「んんンゥ……! んふっ、んふっ……んんっ……!」
 キュウキュウと締め付けながら、真希が喉奥で悶える。さらにぐり、ぐりと奥を抉るように動かすと――
「んんっ!? んんっ、んっ、ン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!!」
 往人の腕の中で、びくびくと体を震わせて、真希がイく。しかし、往人は我慢した。
我慢してさらに、突く。
「ンはぁっ! はひっ……ひぃっ……ひんっ……ぁあっ、あんっ……!」
 半ば脱力気味に、真希は往人の肩に顎を乗せたまま、悶える。
「だ、め……気持ちいい……もう……体が……溶けちゃいそう……」
「……安心しろ。……俺も、同じくらい――」
 皆まで言わず、往人はさらに真希の中を抉る。
「あぁぁァ! あぁんっ、あぁっ、あぁ!」
 ギシ、ギシとベッドをきしませながら、真希が髪を振り乱し、声を荒げる。
「あぁぁぁっ……あぁ! 気持ち、いい……気持ちいい、……気持ちいい……あぁぁぁぁぁ!!!」
 真希は譫言のように気持ちいい、を連呼し、自ら腰をくねらせ始める。
「はーっ……はーっ……だ、め……こんなの、だめぇ……バカに、なる……バカになるぅ……!」
「っ……愛川っ……!」
 快楽に乱れる様をアリーナで見せつけられ、否が応にも往人の興奮は最高潮に達する。そして限界を感じた瞬間――くっ、と。真希の尻肉に爪を立てた。
「あぁっ、あぁっぁぁぁぁぁぁあああッ!!! 」
 びゅくりっ――そんなうねりを受けて、真希もまた両手両足でしがみつきながら、声を荒げる。
「んぁ……相場の……びくん、びくんって……震えて…………熱いの、出てる……」
「愛川のだって、ヒクヒクって、痙攣するみたいに絡みついてきてる……絞られてるみたいだ」
 荒い息混じりに言って、往人は僅かに体を引いて真希の顎を肩の上からどけた。そしてそのまま――。
「だ、ダメ……」
「なんだ、今更」
「ダメっ……今は、一番だめ……やっ……ンッ……」
 嫌々をする真希の顎を押さえ、半ば無理矢理に唇を奪った。
「ンンンッ……! やっ、だ、ダメっ………ンンッ……ンーーーーーッ!」
 ぞわぞわぞわ――そんな悪寒めいたものにぶるりと真希が身を震わせるのが、密着している往人にも解った。ギュゥゥゥゥと、背へと回った真希の腕が痛いほどに抱きしめてくる。
「んっ……んぅっ……ンッ……!」
 抱きしめたまま、往人がキス以外の動きを一切の動きを止めているにもかかわらず、真希は断続的に二度、三度とイき、その度にぶるりと体を震わせる。その間もキスは続き、真希は瞳を潤ませながらねっとりとした舌使いで往人の舌を舐めながら、徐々に、徐々に脱力していく。
 往人もまた真希の後ろ髪をなでつけるようにしながらキスを続ける。そのまま、ちゅっ、ちゅっと互いに絶頂の余韻を楽しむように唇を、舌を絡ませ、たっぷり十分以上かけて漸く往人は唇を離した。
「あふっ……」
 魂が抜けた様になってしまっている真希の体を優しくベッドに横たえ、往人は避妊具を外し、前回同様処置をしてぽいとゴミ箱に放り、新しく封を切った。
「ちょっ……」
 そこで、真希が縺れたような声を上げた。
「……何、して……」
「何って、新しいのつけないと次が出来ないだろ」
「つ、次っ……!?」
「愛川だってまだまだシ足りないだろ」
 歯が光り輝きそうな程の往人のスマイルだったが、真希は引きつった顔のままふるふると首を何度も横に振った。
「いいっ、あたしはもういいっ……こんなの続けられたら、絶対頭悪くなる……バカになっちゃう!」
「愛川、ダントツの学年トップだから少しくらい悪くなっても全然構わないだろ」
 何を大袈裟な――と、往人は微笑混じりに真希を三度組み敷いた。
「だめっ……止めて……」
「ダメだ、止めない」
 むしろ、脅えるような真希の目にゾクリと加虐心を煽られ、ますます剛直がいきり立つのだった。


 深夜。泥のような眠りから、不意に往人はぱちりと目を覚ました。
「む……?」
 一体自分がいつのまに眠ってしまったのか、全く身に覚えが無く、もぞもぞと寝返りを打って枕元の目覚まし時計を捜そうとした。――が、どれほど探っても本来そこにあるはずの時計に触れる事ができない。
(……まてよ、ここは……何処だ?)
 そこではたと、往人はそこが自分の部屋ではないという事を思い出した。
(愛川の……部屋だ)
 隣には、死んだように眠りつづける真希の姿があった。往人はやむなくベッドの外に脱ぎ散らかした制服のポケットを漁って携帯を取り出し、時刻を確認した。
(午前二時……)
 なんとも中途半端な時間帯だった。携帯を再びポケットに戻していると、どうやら真希も目を覚ましたらしかった。
「……今、何時?」
「二時だ。朝の」
「…………ていうかあんた、何ちゃっかり泊まってんのよ」
 タオルケットで胸元を隠すようにしながら、真希が口を尖らせる。
「しょうがないだろ。ヤるだけヤって疲れてたんだから。……結局何回くらいシたんだっけ」
「……知らない。数えてみれば?」
 真希はぷいと壁の方を向くなり、ごろりとベッドに横になってしまう。往人は言われたとおりにゴミ箱に入っている“使用済みゴム”の数を数えてみた。
 六つだった。
(たった六回か)
 体感的には、その倍以上はヤッたような気がしていただけに、“たった六回”と往人は思ってしまう。
(いやでも……十分、だよな)
 千晴とは、多いときでも一度に三回しかしたことがなかった事を考えれば、六回という数字は十二分すぎる回数だった。
(…………たった六回……されど六回)
 体に巧く力が入らず、往人もまたごろりとベッドに横になった。
「……ちょっと、狭いんだけど」
「そっちまだ詰められるだろ」
「これはあたしのベッドよ! もうちょっと遠慮して寝なさいよね」
「……俺、これ以上寄ったら落ちちまうんだが」
 とはいえ、まったく譲る気無しの真希の語気に押されるようにして、往人は畳へと落下するギリギリの場所で寝ざるを得なかった。
(……むしろこれなら、いっそ畳に降りた方が……)
 下手に寝がえりでも打って落ちて目を覚ますよりはその方がマシかなと往人が思っていると、不意にすすすと真希が壁の方へと体をずらし始めた。
(おっ……?)
 これ幸いにとばかりに往人は真希の方へと俄に身を寄せる。さらにすすすと、真希が逃げるように身を引くが、これは往人は追わなかった。
 目を瞑り、しばし心地よい疲労感に揺られるように微睡んでいると、不意に「ねえ」と真希が声を出した。
「相場……起きてる?」
「起きてる」
「…………じゃあいいわ」
「……なんだそりゃ」
 寝ている俺には用があったのかと、往人は憤慨しそうになったが、止めた。それよりも微睡みの魔力の方が強烈だった。
(……こないだよりよっぽど疲れた)
 或いは、“疲れの種類”が違うとも言えた。前回は純粋に肉体的疲労のみが極限近くまで募り、今回は精根尽き果てたという具合だ。
 ふぁぁ、と欠伸をしてさあ本格的に寝入ろうかとした矢先、またしても「ねえ」と真希が話し掛けてきた。
「もう寝た?」
 往人は答えなかった。とはいえ、別段狸寝入りをするというわけでもなく、黙って真希の出方をうかがい続けた。
「寝てるのならいいわ。…………これから言う事は独り言だから、絶対に聞くんじゃないわよ」
 往人は黙っていた。程なく、真希が“独り言”を始めた。
「……………………あたし、小学生の頃……同級生に苛められてたの」
 苛める方じゃなかったのか?――もしちゃんと起きて話を聞いていたら、そんな軽口が口を出たことだろう。
「きっかけは、あたしが勉強が出来る事を鼻にかけ過ぎてたせい。まず、女子全員から無視されるようになったわ。その後、男子の一人に告白されて、それを無碍にフッてからかな……“愛川は生意気すぎる”って、苛められる様になったの」
 往人は黙って聞いていた。真希は、さらに続ける。
「最初は、ものを隠されたり、髪を引っ張られたり、水を掛けられたり、そういうのだった。でも、段々……胸を触らせろとか、パンツ見せろとか、そういう要求に変わっていったの」
 小学生で……胸?――と、往人は俄に首を傾げかけたが、今の発育っぷりを見るに恐らく当時から十分に育っていたのだろう。
「ある時、どうしても我慢出来なくなって担任の先生に相談したの。そしたら担任がそれとなく目を光らせてくれるようになって……これでもう苛められない、ってその時は安心したわ」
 しかし、それで終わらなかったであろうことは、往人にも文脈から察する事が出来た。
「担任がさ……若い男の担任だったんだけど、段々あたしに色目使い出したの。大した用事もないくせに資料室なんかに呼び出して体をまさぐってきたり、顔をなめ回してきたり。あたしまだ小五だったのよ?」
 小五でも発育はしてたんだろうなぁ、と往人は不謹慎ながらも“小五の愛川真希”を想像した。結果、全然大人の相手もイケそうだと思ってしまう。
「レイプまがいの事も何度かされて、そのたびに必死で抵抗したり大声上げたりして未遂で済んだんだけど、今度はその担任、あたしを脅してきたの。“ヤらせいないと、男子を焚きつけてもっと酷いイジメをさせるぞ”って」
 段々、寝たふりをしている事が辛くなってくる。相づちくらいはうちたいという思いでウズウズし始めていた。
(でも、もし俺が声を出したら多分――)
 真希は“独り言”を止めるだろう。無論、真希としても往人が本当は眼を覚ましている事など承知の上で独り言を呟いているのだろうが、そういう暗黙のルールだけは往人にも解っていた。
「それであたし、怖くなって……だけどセックスをするのだけは絶対嫌だったから、交換条件を出したの。……口でするから、セックスだけは止めて下さいって」
「………………。」
 往人は黙っていた。黙っていたが、自然と右手が握り拳を作っていた。
「担任が求めてきたら、トイレに行って口で処理する――そんな事が半年続いたわ。六年生になって、もうその先生は担任でもなんでも無かったんだけど、ことある事にあたしに声をかけてきて、そして口でするのを強要してきた。……それをある日、他の生徒に見られたの」
 ふっ、と真希が鼻で笑う。
「結構大きな騒ぎになって、野次馬とかそういうのから身を隠す為に、中学に上がると同時にあたしは母方の祖父の田舎に引き取られたの。殆ど山の中の一軒家みたいな爺ちゃんの家で、学校も行かずに一年過ごしたわ。……表向きはセラピーって事だったけどね」
 真希の言い様から、田舎へと行かされたのは自分の意志ではないという事は解る。そしてどことなく、その田舎での生活そのものは決して悪いものではなかったという事も。
「学年をひとつズラして、学校も大分離れた所に変えたのに、それでも悪い噂ってのはしつこくまとわりついてくるものなのよね。だったらいっそ開き直ってやろうって、そう思ったのよ。苛められてセクハラされてたんじゃなくて、代金とって触らせてやってたんだって」
 成る程、“真相”はそういう事だったのか――往人は漸く理解した。真希が“独り言”をわざわざ口にしたのは、偏に昼間の質問の返答なのだという事を。
「その噂もどんどん尾ひれがついて、子供を身ごもって堕胎したとか、悪い病気を持ってるとかそんな事まで言われる様になったけど、その分“男避け”の方の効果は抜群だったわ。…………中には物好きが居て困りもしたけどね」
 恐らく、津田一味の事を言っているのだろう。
「……待てよ、てことは……愛川って年上なのか!?」
 ハッとその事に気が付き、往人は反射的に口に出してしまっていた。
「……………………そうよ。だからって別に敬語つかったり、さん付けで呼んだりしなくていいわよ」
 茶番はもうお終い、とばかりに真希は往人に背を向け、タオルケットに丸まってしまう。
 その背に何か言葉をかけてやろうとして、往人は止めた。どんな慰めの言葉も、真希は必要としていないと分かったからだ。
(……ただなんとなく、誰かに聞いて欲しかっただけ……だろ?)
 昼間、自分が尋ねた事などはただの切っ掛けに過ぎない。本当はずっと吐露する相手を求めていたのではないか――少なくとも、往人にはそう思えた。
「………………。」
 しばしの沈黙の間、往人は思案をして不意に口を開いた。
「……………………愛川の名前さ……真希って……いい名前だよな」
 ぽつりと、今度は往人が独り言を呟く。当然の様に真希は黙り、まるでさっきの流れをなぞるように狸寝入りをしていた。
「真の希望、って……うん、親の願いがこもってるよな。愛されてる」
「親同士はとっくに別れて、あたしも何年も会ってないけどね」
 こらこら、そこは黙って聞いているのがルールだろと、往人は無言で真希に突っ込んだ。それが伝わったのか、真希はもぞりと寝返りを打つようにして再び寝たふりをする。
「俺の名前……往人、って母さんがつけたんだ。俺が物心ついた頃には父親がもう死んでて……今の義父と再婚はしたんだけど、それまでは母さんが一人で俺を育ててたんだ」
 “それ”は自分ではない、相場往人の記憶だと、往人は思っていた。しかしこの際、どちらでも良かった。
 往人は、さらに続ける。
「自分の親を褒めるってのも何だけど、普通にいい母親だったと思う。俺が悪戯した時はちゃんと叱って、家事とか巧くやった時はきちんと褒めてくれて……義父の連れ子にも分け隔て無く接してたし、ほんと、出来すぎなくらいにいい母さんだった」
 でも――と、往人は俄に声のトーンを落とした。
「俺が中学に上がる前に、病気で死んだ。生まれつき持病があったらしくて、それが悪化して一年くらい入院してて、そのまま家には帰れなかった」
 往人は、思い出す。ベッドの上で点滴やいくつものチューブに繋がれ、苦しげに息をする母親の姿を。目を瞑れば、いくらでも鮮明に思い出す事ができた。
 そして、その母親が今際の際に言った言葉までもが、本当に“自分”が経験した事の様に、具に蘇ってくる。
「……あの日の事はよく覚えてる。ちょうど母の日で、俺は学校帰りにカーネーションを買って、病室に行ったんだ。部屋には母さん以外誰もいなくて、母さんも珍しく具合が良さそうだったからホッとしてた。……そしたら、不意に母さんが親父の話を始めたんだ」
 本当は死んでいない――と、母親は言った。
「俺の父親は、腹に子供が――俺の事だけど――出来るなり、行方を眩ませたらしい。その時母さんは自分はただ遊ばれてただけだって気が付いて、父さんの事も随分恨んで、その子供の俺の名前も父さんへの当てつけでつけたらしいんだ。往人、往く、人……帰って来ない人、っていう意味で」
 お前を愛した事なんか一度も無かった――と、やせ細った母の呪うような声を思い出すだけで、手のひらに汗が滲んでくる。
「その次の日に母さんは意識不明になって、そのまま意識が戻らなかった。だからこの事を知ってるのは家族では俺だけだ」
 そして“家族以外”では真希と、そしてもう一人、かつての相場往人が話した千晴の二人だけ。
「……まあでもほんと、こんな話聞かされても“それが何?”くらいにしか思わないよな。やっぱり忘れてくれ」
 往人自身、何故こんな話を真希にしたのか、自分でも理由が定かではなかった。ただ、他人の秘密を一つ聞いてしまった以上、自分のそれも教えるのがセオリーであるような、そんな気がしたに過ぎない。
「……名前」
 ぽつりと、真希が呟いた。
「あたしの名前……いい名前だと思う?」
「思う。少なくとも、俺のよりは全然マシだろ」
「……あんたの名前も、言葉の響きだけはそんなに嫌いじゃないわよ。……ユキト、って語感は悪くないじゃない」
「そうか?」
「そうよ」
 僅かな沈黙。破ったのは真希だった。
「……もし、あんたがそうしたいのなら――」
 もぞりと、タオルケットの下で真希の手が動いた。何かを捜すように延びて、そして往人の手を捕まえるや、キュッと握りしめてくる。
「二人だけの時は、あたしの事……名前で呼んでもいいわよ。……そしたら、あたしも……あんたのことは往人、って呼ぶわ」
「……考えとく」
 ぶっきらぼうに言って、往人もまた寝返りを打った。真希が離さないから、手だけはそのままにして再び微睡みの世界へと落ちていった。



「……最近、よく起きてますよね」
「ん?」
「愛川さんです」
 多恵に言われて、往人はそう言えばと気が付いた。今はまだ二時限目だというのにしっかり登校して席に座っている事すら前は珍しかったのに、その上起きてちゃんと授業を受けているのは、ほとんど奇跡と言っていい事だった。
(……何か心境の変化でもあったのかな?)
 “この間の事”が一因であるのかもしれないが、それならそれで“秘密”を話した甲斐はあったと、往人は幾分微笑ましい気持ちになる。
「……でもなんだか、機嫌は悪そうですね」
 ぽつりと多恵が漏らしたが、往人もその意見に賛成だった。真希は一見きちんと授業を受けている様には見えるのだが、時折思い出したように斜め後ろの往人の席のほうを振り返っては、睨み付けるような視線を送ってくるのだ。

「……ちょっと付き合いなさいよ」
 四時限目の授業が終わるや、真希はつかつかと歩み寄ってきてぽつりと漏らし、そのまま教室から出て行ってしまった。
「……そういう事らしいから、行ってくる」
「はい」
 何がおかしいのか、くすくす笑っている多恵に見送られて往人は教室を出、それを待つように足を止めて後ろを見ていた真希が再び屋上へと歩き出すのを追った。
「ねえ、往人。あたしちゃんと言ったわよね?」
 いつもの屋上の日陰へとたどり着くなり、真希はいきなり“往人”呼ばわりした。
(……俺が名前で呼んだら、愛川も呼ぶって……そういう話じゃなかったっけか)
 いつの間にか真希の中では、二人きりの時は名前で、という事に決まってしまっているらしかった。
「何の話だ?」
「惚けないでよ。…………委員長とは話をするなって言ったでしょ」
「ああ……あれは悪口を言うなって事だったろ」
「違うわよ。あたしは話をするなって言ったの!」
「普通の世間話や授業の話もダメだって言いたいのか?」
 どうしてそこまでお前に干渉されなきゃいけないんだ?――往人は言外に言い含めて、じろりと真希を見据える。
「……あたしだって、無茶なこと言ってるって事くらい、解ってるわよ。……でも、あんたがあの子と楽しそうに話してるの見てると……凄くイライラするの」
「解った。じゃあ次からは仏頂面で話す事にする」
「そうじゃなくて……ああもう、何なのよ!」
 わしゃわしゃわしゃと、真希は寝癖だらけの自分の髪をもどかしげに掻きむしる。
「まぁまぁ、イライラするのは多分腹が減ってるからだって。休み時間残ってるうちに売店行って何か買ってこようぜ」
 まるで駄々っ子を宥めるような口調で往人が切り出すと、真希は忽ち笑顔を零した。
(……相変わらず、食い物に弱い奴……)
 その事が妙におかしくて、往人が笑い出したいのを我慢していると、真希はとんでもない事を言い出した。
「……あんたの奢り?」
「何でだよ! メシ代くらい自分で出せよな!」
「あたし、実を言うといちご牛乳より普通の牛乳の方が好きなの。パンはアンパンね、できればこしあん。もう一つ甘くないパンもあると尚良いわ」
 言うだけ言って、あとは頼んだとばかりに真希は腰を下ろし、胡座をかいてしまう。
「だから、自分で買えって!」
「うっさいわね! あんたがさんざんあたしをイラつかせたんだから、お詫びに買ってきなさいよ!」
 とんでもない暴論だったが、結局真希に押し切られる形で往人は一人で買い出しへと向かった。
(……ったく……)
 ブツブツと文句を言いながらも、往人は真希の注文通りにこしあんのアンパンとカレーパン、パックの牛乳と後は自分の分のパンと飲み物を買い、屋上へと戻る。
「……ほらよ」
 注文通りの品が入っている紙袋をぽいと真希に放り投げ、往人もまた真希の隣へと腰を下ろした。
「ありがと。…………先に言っとくけど、こんなものであたしの機嫌が直ると思ったら大間違いだからね」
「お前なぁ……」
 往人は呆れるように呟いたが、こんなものでと言いながらさも美味そうにアンパンにかじりつき、牛乳を飲んでいる真希の姿を見ると、最早怒りを通り越して苦笑しか出てこなかった。
「ねえ、往人。今携帯持ってる?」
 一足先にぺろりとパン二つを食べ終えてしまった真希が不意にそんな事を言い出した。
「携帯……ポケットに入れてたかな」
 少し前までは鞄に入れっぱなしだった携帯も、最近漸く身につける習慣がついた。往人はポケットを探り、あまり愛着のない携帯を取り出した。
「ちょっと見せて」
「あっ、おい!」
 まるで盗賊のような手並みで真希に携帯をひったくられるも、往人は無理に取り返そうとはしなかった。別段、見られてこまるような情報など、何も入っていなかったからだ。
 真希は神妙な顔つきでボタンを操作し、食い入るように液晶画面を見ていた。往人はパンを囓りながら、一体何を見たいんだろうとむしろ好奇心をそそられる形で真希の動向に注目した。
「ねえ、ちょっと……この“唯”って誰よ」
 どうやら、着信履歴を見ているらしい。
「妹だよ。義父の連れ子」
「……いくつ?」
「十三だけど、それがどうかしたのか?」
「別に……」
 真希はさらにボタンを操作し、いちいちムッという表情を作る。
「何よ、アドレス帳になんでこんなに女の名前があるの!?」
「……はて、そんなにあったっけか」
 どれどれ、と往人は真希に身を寄せるようにして自分の携帯の液晶画面を覗き込む。
「……たったの五人じゃないか」
 “こんなに”と言われる程じゃないと往人は思った。元々、千晴が嫌がるから女子の知り合いのアドレスなどは極力入れないように努めていて、どうしても残さざるを得ない四人のものしか残っておらず、五人目に関しては他ならぬ真希なのだ。
「この“梶 千晴”っていうのは確か――」
「……元カノだ」
 それ以上は語らず、往人は黙り込んだ。
「“相場 志穂”……これは?」
「従姉妹だよ。名字でだいたい解るだろ?」
「“相場 玲子”これは?」
「従姉妹のかーちゃん。つまり俺の叔母さん」
「ふぅん……」
 真希は得心がいったのかいってないのか、判断に困るような声を漏らしながらも、さらに携帯を弄り続ける。
「もういいだろ。気が済んだなら返せ」
 パンを食べ終えた往人が促すと、真希は渋々ながらに携帯を返してきた。それをポケットへとしまうなり、往人もまた切り出した。
「愛川、お前の携帯も見せろ」
 別段、真希の携帯に興味があるわけではなかった。ただ、自分のを見られた以上、この要求は当然の事だと往人は思った。
 しかし真希は、まるで往人の言葉が聞こえないかのようにつーんとそっぽを向いたままパックのストローに口をつける。
「おい、愛川!」
 またしても、無視。そこで漸く、往人にも真希の意図が分かった。
「…………“真希”の携帯も見せろ」
「嫌よ」
 返事は帰ってきたが、それは拒絶の言葉だった。
「……今持ってないの。教室の鞄の中だから見せられないわ」
「じゃあそのポケットから出てるストラップは何だ?」
 ハッとしたように、真希が慌ててストラップをスカートのポケットの中へと押し込んだ。が、最早手遅れというものだった。
「……あたしのはいいでしょ、別に」
「良くない。俺のを見たんだから、俺だって真希のを見る権利がある」
「見たってつまんないわよ」
「つまんなくてもいいから見せろ」
 往人は譲らず、渋々真希もまたポケットから携帯を取り出し、往人へと手渡した。やや旧式の折りたたみタイプで、そのくせ新品のように見えるのは殆ど使われていないからなのだろう。
 往人は携帯を開き、とりあえず着信履歴を見てみた。
 バイト先。
 バイト先。
 相場往人。
 バイト先。
 爺ちゃん。
 バイト先。
 バイト先。
 バイト先。
 バイト先。
 日時はだいたい平均して二〜三日おきで、往人からの着信が一つある以外は全て“爺ちゃん”と“バイト先”の二つの着信のみだった。
「……なんだこりゃ」
「うっさいわね……気が済んだなら返してよ」
「いや、もうちょっと待て」
 往人は今度はアドレス帳の方を見てみた。登録されているのは全部で五件。それぞれ“父”“母”“爺ちゃん”“バイト先”“相場往人”の五項目だった。
「……真希、お前……友達とか居ないのか? ――痛っ」
 やや乱暴に、それこそ爪で引っ掻くように真希が携帯をひったくった。
「あたしに話しかけてくるような物好きは津田みたいなクズを除けばあんたくらいよ」
 憤然としながら、真希はスカートのポケットへと携帯をしまいながら、ぽつりと漏らした。
「…………だから見せたくなかったのよ」


 
 


 夕方、家に帰るなり往人は巫女姿の唯に飛びつくようにして出迎えられた。
「ユキ兄ぃ、お帰りー! 御飯にする? お風呂にする? それとも――」
 つつつ、と唯は男を累計百人は騙してそうな悪女っぽい笑みで、つつつと顎の下を指で撫でてくる。
「唯とイケナイ遊びする?」
「……とりあえず飯で」
 てい、と唯の体を引きはがすや、往人は部屋に鞄を置きに階段を上がる。
「もう! 最近のユキ兄ぃノリ悪すぎ! 届いてない! 愛が全然届いてないよ!」
 階下で唯がなにやら叫んでいたが、往人は無視して部屋へと入るなり、鞄を机に置いてごろりと横になる。
「………………。」
 モヤモヤとしたものが、胸の中を渦巻いていた。目を瞑ると、何故か昼間見た真希の携帯の履歴が克明に蘇ってきた。
「……ッ……」
 舌打ちを一つして、往人は着替えて階下へと降りた。台所では、先ほど無碍に扱ったせいかぶすーっとした顔の唯が一人でジャガイモの皮むきをしていた。
「唯、飯の支度手伝うぜ」
「えっ……ユキ兄ぃどうしたの?」
「何作るんだ? カレーか? これの皮を剥けばいいのか?」
「う、うん……あ、ユキ兄ぃ先にちゃんと手洗って」
 言われるままに手を洗い、往人はそのまま夕飯の支度を手伝った。何かをしていないと、胸の奥のモヤモヤに押しつぶされてしまいそいうだった。

 夕食を終え、風呂にも入っていつも通りの時間に往人は就寝した。
 が、深夜、携帯の着信音にたたき起こされた。
「ん……?」
 寝ぼけ眼を擦り擦り、携帯を捜すが見つからない。そうだ、制服ズボンのポケットの中かと思い出してベッドから這い出ようとした矢先、不意に呼び出し音が止まった。
「む……」
 呼び出し音が途絶えた瞬間、気力も萎えた。往人は再びベッドに横になる――が、またしても呼び出し音が鳴り始める。
「ああもう、誰だよこんな時間に!」
 怒鳴りつけてやる!――意気込みながらベッドを抜け出し、携帯を取り出して着信中の番号と名前を見た。
 真希だった。
「おい、愛川! 何時だと思ってんだ!」
 通話ボタンを押すなり、往人は思いきり怒鳴りつけた。怒鳴りながら枕元の時計の蛍光文字盤を見る。午前一時過ぎだった。
『……ごめん、寝てた?』
「寝てるに決まってるだろ……何の用だよ」
『あたし、さっきバイト終わった所なんだけど……ちょっと今から会えない?』
「……今から?」
 往人は再度時間を確認する。午前一時過ぎに間違いはなかった。
「明日じゃダメなのか?」
『うん……今じゃないとダメ』
「……解った。何処に行けばいい?」
『そうね……じゃあ、今から二十分後にいつもの神社の鳥居前。来れる?』
「多分大丈夫だ。とりあえず顔洗ってすぐ向かう」
 ぷつん、と通話を切るなり、往人は階下へと降りて顔を洗い、すぐさま出かける準備をする。ふああ、と大あくびをしながら自転車に跨り、神社へと向かった。
「遅い!」
 往人の姿を認めるなり、真希が一喝した。
「……お前なぁ、いきなり人を呼び出しておいてそりゃねえだろ」
 ふああ、と欠伸をしながら、往人はまじまじと真希の姿を見る。色の抜けたジーンズに白のTシャツという出で立ちなのだが、これがまた体のラインがくっきりと出ていて微妙に目のやり場に困ったりもする。
(……そういや、愛川の私服姿見るのってこれが始めてだな)
 短いスカートから延びた生足も悪くないが、これはこれで悪くないと、往人は思う。
「……で、何の用だ?」
 ひとしきりジロジロと真希の姿を舐めるように見た後、往人はぶっきらぼうに尋ねた。なまなかの用件では許さないぞ、という響きを込めたその問いに、真希はあっさりと答えた。
「散歩しようよ」
「……は?」
 聞き間違いだと、往人は思った。
「ほら、見てよ。月があんなに綺麗」
 往人は真希の指さす方へと目を向けた。確かに、夜空には丸く肥え太った月が煌々と輝いている。
「だから散歩」
「…………………………帰る」
 往人はただそれだけを言い、自転車へと跨った。
「ちょ、ちょっと! 何よ、あんたには風情ってものがわからないの!?」
「月は綺麗だと思う。そんな夜に散歩するってのも悪くはない。……けど、寝てる所をたたき起こされてまで呼び出される用件とは思えない」
 往人は真希に構わずこぎ出そうとした。が、自転車は前に進まなかった。真希が荷台を掴んだまま踏ん張っていたからだ。
「……愛川、手ぇ離せ」
「嫌よ。良いじゃない、少しくらい付き合ってよ」
「離せって言ってる」
 怒鳴りつける一歩手前のような口調で言うと、真希はさすがに手を離した。往人はそのまま漕ぎ出したが、数メートルも走らないうちにブレーキをかけた。
 振り返ると、月明かりの下、まるで家族旅行の際に一匹だけ置いて行かれる飼い犬のような真希の顔が見えた。
 はあ、と往人は大きくため息をついた。
「わかったよ……少しだけだぞ?」



 


 

「ほら、早く漕いでよ」
「……散歩じゃなかったのか?」
 真希はちゃっかりと荷台に腰かけ、往人の腰へと捕まるなり急かすように背中を叩いてくる。
「往人が徒歩で来たらそうするつもりだったけど、自転車があるならこれでいいじゃない」
「解った。で、どこに行けばいいんだ?」
「何処でも良いわ。適当にその辺を走って。……あ、なるべく高い建物が無い道を選んでね、月が見えなくなっちゃうから」
「りょーかい」
 往人は多少フラつきながらも漕ぎ出し、建物の少ない方、農道の方へと進路をとった。
「ねえ、往人。……なんだかワクワクしない?」
「いや、俺は別に……」
「あたしは夜の散歩って大好き。なんかさ、“あたしの時間が来た!”って感じがする」
 俺には解らない感覚だな――と、往人は思ったが口には出さなかった。
「月の光を浴びるのも好き。あたしじゃない“何か”に変われる気がして、ドキドキするの」
「……まるで今の自分が嫌いみたいな言い方だな」
 ハッと、背中の向こうで真希が息を飲むのが解った。
「……好きなわけ、ないじゃない」
 とん、と。真希は額で往人の背中をこづいてくる。
「こんなのは本当のあたしじゃない、って……ほとんど毎日思ってるわ」
「……なんか、どこかで聞いたセリフだな」
 往人はつい苦笑してしまう。成る程、「今の自分は本当の自分じゃない」というセリフは人から聞くとこのように感じてしまうものなのかと、目ではなく耳から鱗が出る思いだった。
(今の自分は自分じゃない、なんて言うのはただの“逃げ”か……)
 かつて、真希に言われた事だった。しかし、ひょっとしたらそれは、自分自身への言葉でもあったのではないだろうか。
「……ねえ」
 奇妙な感銘を受ける往人をよそに、真希はころりと話題をかえてきた。
「往人は、“前世”って、信じてる?」
「いや、否定する気はないけど、特に意識する事もないかな」
「あたしは、信じてる。前世であたしはきっと、猫とかイタチとか……夜行性の動物だったのよ。だから、夜になるとこんなにワクワクするんだわ」
「きっと猫だな。自分勝手で、昼間は寝てばかりだし、そっくりだ」
 言いながら、往人はかつて真希にした二つ目の質問の答えが漸く分かった。昼間寝てばかりなのは、恐らく普段からこうして夜中に一人でほっつき歩いているからなのだろう。
「……往人の前世は何かしら」
 不意にぽつりと、真希が漏らした。
「自分では何だと思う?」
「さあ、想像もつかないな」
「当てずっぽうでいいから、言ってみてよ」
「…………キツネ……」
「キツネ? どこら辺が?」
「いや、当てずっぽうでいいって言っただろ。何となく真っ先に浮かんだのがキツネだったんだ」
「ふぅん……全然似てないと思うけど」
「だよな。俺もそう思う」
「あたしは、往人は前世でも人間だったと思うな。そして、猫を飼ってたのよ」
「可能性は否定できないな。んで飼ってるのはとびきり可愛くて、そしてもの凄く食い意地のはったメス猫だな」
「可愛いのは認めるけど、食い意地がはってるって何よ」
「別に愛川の事だなんて言ってないだろ。あくまで俺が前世で飼っていた猫の話だ」
 くつくつと往人が笑っていると、こつん、と背中に真希が頭突きをしてきた。
「名前」
「ん?」
「二人きりの時は名前で呼ぶって約束したでしょ。何度も言わせないで」
 はて、そういう約束だっただろうか――往人は記憶を探ろうとして、途中で馬鹿馬鹿しくなって止めた。
「……そうだ、猫で思い出した」
「うん?」
「例の、魔法使いだったっていう叔父さんの口癖。……“虹色の猫が見つからない”だったっけ」
「それがどうかしたの?」
「いや、何となく気になってたんだよな。“虹色の猫”っていうのは何なんだ?」
 まさか、言葉の通り本当に虹色の猫の事なのだろうか。往人は好奇心に胸をときめかせながら真希の返事を待った。
「“絶対に存在しないモノ”」
 しかし、真希の言葉は往人の期待していたようなおちゃらけた内容ではなく、ひどく重々しい響きを含んだものだった。
「……おとぎ話よ。虹色の猫っていうのは、絶対に存在しないものの例え。でも、もし見つける事が出来たら、見つけた者の望みを一つだけ何でも叶えてくれる――そういうおとぎ話」
「絶対存在しないが故に……もし見つけたら何でも望みを――か。確かにおとぎ話だな」
 ただの荒唐無稽で矛盾した言い回しが、真希の唇を経るだけで預言書かなにかの引用のように聞こえるから不思議だった。
「…………俺も一度会ってみたかったな、その叔父さんに」
 真希からの返事はなかった。ただの世辞――とでも受け取られたのかもしれない。
(…………本当に、叔父さんの事が好きだったんだな)
 それが微笑ましくもあり、少しだけ妬ましくもあった。
(いやいや、別に妬ましくはないな、うん)
 かすかに胸の中に沸いた感情を即座に否定しながら、往人は黙って自転車をこぎ続けた。真希もまた往人の背中に凭れるように頭と体を預けたまま黙り込んでいた。
「あー……っと、……真希?」
「……うん?」
「いや、急に黙ったからもしかして寝てるんじゃないかと思ってな。……ちなみに、俺はいつまでこうやってこぎ続けてればいいんだ?」
「朝まで」
「おいおい」
「嘘。もう少しだけでいいから、付き合ってよ」
 きゅっと、真希が両手でしがみつくように手を回してくる。
「……一人の散歩は楽しいけど、寂しくなるの」
「……これからは俺が付き合ってやるよ。…………時々だったらな」



 翌朝、往人は一つの決心を固めた。
「委員長、ちょっと話があるんだけど、いいかな」
「何ですか?」
 朝、教室へと入るなり往人は真っ先に多恵に相談を持ちかけた。登校中いろいろと思案した結果、多恵の協力を仰ぐのがベストだと判断したからだ。
「委員長ってさ、結構女子に顔が広いだろ?」
「どうでしょう、自覚はありませんけど。……それがどうかしたんですか?」
「ちょっと、手伝って欲しいことがあるんだ。……愛川の事で」
「また愛川さん絡みですか」
 くすくすと、多恵はまるで子供の遊びを見守る母親のような、そんな慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「解りました。詳しく話を聞かせてください」
 往人としてもそのつもりだった。この作戦はそもそも多恵の全面協力がなければまず成功はしないからだ。

 真希は、三時限目の途中にやってきた。が、バイトの疲れがあったのか、それともその後の“夜更かし”が効いたのか、いつものように机に突っ伏して寝入ってしまった。
 往人は特にこれといった手出しをせず、昼休みも普通に級友の男子と話をしながら昼食をとった。真希は昼休みも寝続け、五時限目になってからやっと起き、その後は机に突っ伏す事はなかった。
 HRが終わり、真希は脱兎の如く教室を飛び出した。が、出口で一瞬足を止め、ちらりと往人の方を振り返った。そしてまたつかつかと廊下を早足に歩いていく。
「……じゃあ、そういうことで委員長、巧く行った時は後のことは頼む」
「解りました。……“説得”うまくいくといいですね」
 往人もまた教室を飛び出し、早足に真希の後を追った。真希は思ったほど先へは行っておらず、昇降口の手前で往人は追いついた。
「真希、ちょっといいか?」
「……何?」
 さも面倒くさそうに言いながら、真希は昇降口で靴を履き替える。同じく往人も靴を履き替えながら切り出した。
「今日の帰り、真希んち寄ってもいいか?」
「……………………どうして?」
「別に、何となく。今日はバイトもないだろ?」
「……ばーちゃんのいなり寿司は?」
「………………解った、いなり寿司も奢ってやる」
「それなら……いいわ。先に巻き寿司屋で待ってる」
 ぷいと、真希はまるで顔を隠すように背けるや、そのままたかたかと走り去ってしまった。
「……さて、第一段階は成功……と。問題はこの後だな」
 さてさてどうしたものか――思案をしながら、往人もまた巻き寿司屋へと向かった。

 巻き寿司屋の前までいくと、絶望的な顔をした真希が呆然と立ちつくしていた。
「どうした?」
 尋ねると、真希は無言で店の方を指さした。見れば、店にはシャッターが降りていて、しばらく営業を休む旨が張り紙で告知されていた。
「あちゃ……マジかよ……もう胃袋が完全に婆さんのいなり寿司モードだったのに」
「あたしだってそうよ! 困ったわ……あんなに美味しいお稲荷さん売ってるお店なんて他に無いのに」
 まるでこの世の終わりがきたような声で言い、はあ……と真希はため息をつく。
「まあ、無いものは仕方ないな。適当になんか菓子でも買って行くか」
「……だったらあたし、行ってみたい店があるんだけど」
 先ほどまで死にそうな顔をしていた真希が、けろりと目を輝かせる。
「……あんま高いのは無しだぞ」
「高くないわよ。ドーナツのチェーン店だもの。いま丁度全品百円セールやってるのよ。しょうがないから、今日はそれでいいわ」
「へーへ、了解。何でもお姫様のお気に召すままに」
 往人は腕を引かれるようにして、商店街の奥へと誘われた。

「……ふう、ごっそーさん。ばーちゃんのお稲荷さんには遠く及ばないけど、それなりに満足したわ」
「……あんな甘いドーナツをよくも一気に七個も食えるもんだ」
 真希に誑かされて買った持ち帰り用ドーナツは計十個。本来五つずつ食べる筈が、往人は三つでギブアップし、残りは全て真希が平らげたのだった。
「……あたしはほら、あんたと違って昼飯食べてないし」
「それにしても、な気がするけどな」
 きっと、乳や尻の肉付きを維持するために、体が多量の糖分や脂肪分を欲しているのだろう。そうとでも思わなければやっていられなかった。
(で、問題はここからなんだよな)
 予定通り、邪魔の入らない場所で真希と二人きりになる事はできた。が、ここからが難しい――と、往人は見ていた。
(……素直に人の言うこと聞くような奴じゃないだろうしなぁ)
 目的を完遂するためには何か仕掛けを打つ必要があるのだが、巧い手がどうにも思いつかない。ううむ、と腕組みをして往人が考え込んでいると、「ねえ」と真希が話し掛けてきた。
「後かたづけ、もう終わったわよ」
「ん、そうか」
 見れば、テーブルの上にあったドーナツの空箱やらなにやらが綺麗に片づけられていた。だからどうという事もなく、往人は再び思案に耽ろうとした矢先、またしても。
「ねえ……」
 くいくいと、カッターシャツの袖が真希に引かれた。
「ん、何だよ」
「何だよじゃないわよ、何か用があってあたしんちに来たんじゃないの?」
「うん……用はあるんだが……」
「……用があるんなら、さっさと済ませなさいよ。……あたしだって、暇じゃないんだから」
 どこかソワソワしながら、真希がぷいと顔を背ける。それで、往人にも真希が言わんとする所が解った。
「なんだ。腹が満ちたから、今度は性欲を満たしたいのか?」
「なっ、バッ……違うわよ! エロい事考えてるのはあたしじゃなくて往人の方でしょ!?」
「いいや?」
 事実、毛ほども考えていなかったから、往人はさも平然と否定した。
「……最初からずっと思ってた事だが……なんだかんだ言って、そういう方向へそういう方向へって水を向けるのは真希の方だよな。本当は真希こそ、シたくてシたくて我慢できないんだろ?」
「人を異常性欲者みたいに言わないで! だいたいもっとシたい、もっとシたいって底なしに求めてくるのはいっつもあんたの方じゃない!」
「そりゃあ一度ヤッた後の話だろ。俺が言ってるのは始める前の事だ」
「そ、それだって……そもそもあんたが部屋に行っていいかって言い出さなきゃあたしだって……」
「……待てよ」
 ピキーンと、往人の頭の上に電球が浮かんだ。
「そうだ、その手があった!」
「な、何よ……急に……ちょっ、やんっ……!」
 一も二もなく、往人は真希に詰め寄ると、ぎゅう、とその体を抱きしめる。
「真希、賭けをしないか?」
「……か、賭け……って、どういう賭けよ」
 往人の腕の中で、真希はみるみる顔を真っ赤に染め、それを見られまいとするかのようにぷいとそっぽを向く。
「これから、真希にいろいろエロい事をしようと思う」
「ッ!……ちょっ、何、言って――」
「それで、もし真希が“お願い、何でも言うこと聞くからもう許して、堪忍してぇ!”って言ったら、真希の負け。言わせられなかったら俺の負け」
「なっっ……」
「負けた方は、明日一日勝った方の言うことを何でも聞く。……どうだ?」
「どうだじゃないわよ! なんであたしがそんな賭けに乗らなきゃいけないの!?」
 うがーっ、と怪獣が吼えるような剣幕で怒鳴りつけられ、往人は一端耳を塞がねばならなかった。
「……真希、よく考えてみろ。この賭け、どう見たってお前に有利だろ? なんせ、お前が辛抱すればそれだけで勝ちが決まるんだから」
「そ、そうだけど……」
「もしお前が勝ったら、焼き肉食い放題でも何でも、俺の小遣いと貯金が許す限り奢ってやるぞ。なんせ、一日相手のドレイっていう、そういう賭けだからな」
「や、焼き肉……いいの?」
 じゅるり、と今にもヨダレが滴りそうな顔で、真希が聞き返してくる。往人はそうだとは悟られぬ用、胸の中でしたり顔をした。
「ああ、男に二言はない」
「……痛くして無理矢理言わせるのとかは無しよ?」
「勿論だ」
「………………やっぱり嫌。その賭け、乗らないわ」
 しかし、土壇場で真希はそんな事を言い出した。
「どうしてだ?」
「……だって、往人自信たっぷりなんだもん。……何かろくでもない事考えてるんでしょ」
 しまった――と、往人は後悔した。真希の言うとおり、賭けを持ちかけておいて、如何にも勝つ気満々というのは愚かしかったと。
「勘ぐりすぎだ。……強いて言うなら、真希がエロ可愛く悶えながら懇願する所が見てみたいって、そう思っただけだ」
「だ、誰がっ! 大体あんたッ……んぅ……」
 渋る真希の胸元を、往人は撫でるように手を這わせ、やんわりと捏ねる。
「やっ……往人、そういうの、狡い……」
 胸元を捏ねる往人の手の動きを抑制するかのように、真希が手首を掴む。が、それだけだった。
「いいだろ、真希」
「だ、ダメだって言ってるでしょ……ッ……」
 今度は、乳を捏ねながら耳をはむはむしてみる。目に見えて真希が身を固くし、強張らせるのが解る。
「い、嫌……耳だめっ、……あんっ……!」
 さらにボタンを一つ二つ外し、蛇のようにするりと手を忍ばせ、ブラをずらすなり直接乳肉を捏ねると、忽ち真希は息を乱し始めた。
(相変わらず、弱い……)
 食欲にも、そして快感にも。
「真希?」
「……っぅぅ……い、いや…………ンンッ!」
 トドメとばかりに、往人は真希の唇を奪った。咄嗟に、引きはがそうとするかのように真希が往人の両肩を掴む。が、その手からやがて力が抜け、撫でるような動きで後ろ髪へと添えられたとき、往人の勝利は確定した。



 

 翌朝、往人はいつもより三十分早い時刻に家を出、そのまま真希のアパートへと向かった。
 部屋の前まで来てインターホンを押す――が、反応がない。
「おーい、真希ー! 起きてるかー!」
 軽くドアを叩いてみるが、やはり反応が無い。やむなく携帯電話を取り出し、呼び出している最中。
「うっさいわね! 起きてるわよ!」
 既に制服に着替えた真希が蹴り飛ばすような勢いでドアを開けた。
「ちゃんとリボンも付けろよ」
「解ってるわよ、捜してるけど見つからないのよ!」
「鞄もよこせ。ちゃんと教科書が揃ってるかチェックしてやる」
「細かいわねぇ……好きにしなさいよ」
 鞄を往人に投げつけ、真希は肩を怒らせながら部屋の中へと戻っていく。やれやれ、矢張り早めに家を出てよかったと、往人は安堵の息をついた。
 どたばたと、まるで小熊かなにかと格闘しているような物音が響き、十分ほど待って漸く真希は再び姿を現した。
「……どう、これで満足?」
「ふむ」
 胸元のリボンもちゃんとつけ、靴下も履いている。寝癖も普段に比べれば幾分マシにはなっていた。
「まぁ、及第点って所だな。んじゃ学校行くぞ。遅刻しちまう」
 さあ部屋を出ろ早く出ろと急かし、往人は真希を連れ立ってアパートを後にした。
「……ったくもう……なんであたしが……」
 ぶつぶつと、不満タラタラに歩く真希の腕を時折引くようにして、往人は急ぐ。腕時計の指す時刻は、決してのんびりしてられる時間ではないからだ。
「……こら、真希! 靴もちゃんとはけって言っただろ」
「うっさいわね、踵踏むくらいいいでしょ!?」
「……賭けに負けたのは、真希だろ?」
 ぽつりと、低い声で往人は呟いた。
「な、何が賭けよ! あたしは嫌だって言ったのに、あんたが無理矢理しかけてきたんじゃない!」
「でも、ちゃんと約束通り真希に言わせただろ? えーと、なんだっけか。確か――」
「っっっっっ……!!!」
 真希は冬場であれば湯気を噴きそうな程に顔を真っ赤にし、大あわてで靴をきちんと履き直した。
「いーい!? 今回だけは、あんたの言うこと聞いてあげるけど、二度同じ手は通じないと肝に銘じておきなさいよ! それとっ」
 ぐいと、真希は往人の胸ぐらを掴み、引き寄せる。
「“昨日の事”、もしまた仄めかしたり、誰かに言ったりしたら、命はないと思いなさい!」
「解った。俺もまだこの若さで死にたくないから、胸の奥にしまっておく」
「しまわなくていい! 早く忘れろ!」
 がっくがっくと揺さぶられながらも、往人はこの結果に満足していた。
 “明日一日、きちんと制服を着て、朝からちゃんと授業に出て、クラスメイトとも仲良くする事”――それが、賭けに勝った往人の出した条件だった。
(そして、“その後”の事は……委員長に頼んである。きっと巧く行く……筈だ)
 校門を潜り、昇降口を過ぎた辺りから、次第に往人は人目を感じるようになった。勿論見られているのは往人ではなく真希の方だ。
(まぁ、学校一の不良が突然真面目に登校してきた……みたいなもんだからなぁ……)
 生徒よりも教師連中のギョッとした顔が面白く、往人は吹き出しそうになるのを堪えながら、真希を連れて教室へと急いだ。
「……真希、解ってるな?」
「解ってるわよ。いちいち言わないで」
 真希は教室の戸の前で一度足を止め、すう、はあと深呼吸した。
「おはよう!」
 大きく、そして明朗な声が教室内に響いた。真希はそのまま堂々とした足取りで自分の席へと着席した。
 その間、教室は水を打ったように静まりかえっていた。教室内には半数近くのクラスメイト達が居たし、それぞれが思い思いに雑談をしていたのだが、皆が皆“ありえないもの”を見たかのように一斉に動きを止めてしまっていた。
 往人もまた真希に遅れて自分の席へと座るなり、隣の多恵に声をかけられた。
「どんな魔法を使ったんですか?」
「根気よく説得しただけだ。……おっと」
 多恵と話をしていると、耳ざとく真希が振り返り、視線だけで射殺そうとしているかのようなすさまじい眼光を放ってくる。仕方なく、往人はジェスチャーで「そういう事だから、後は頼んだ」と多恵に伝えた。多恵もまたふざけて身振り手振りで「わかりました、任せて下さい」と返事を返した。


 午前中は、何事もなく過ぎた。真希は一応おざなりにノートを広げ約束通り授業を真面目に受けていたし、何度か欠伸はしていたもののそのくらいは愛嬌として許すしかなかった。
 しかし、あくまでそれだけだった。休み時間になっても真希に話しかけるクラスメイトは居ないし、往人もまた動かなかった。一人、椅子に座ったままぼんやりと頬杖をつき、退屈そうに窓の外を眺めているその姿に、往人は幾度となく席をたちかけたが、多恵の作戦を信じて動かなかった。
「愛川さん」
 四時限目が終わるなり、多恵はすぐさま席を立ち、真希の方へと歩み寄るや声をかけた。
「えっ、……あたし?」
 名前を呼ばれたにもかかわらず、そんな反応を返してしまったのは余程予想外だったからなのだろう。狼狽し、ちらちらと往人の方を見てくる真希を視界の隅で見ながら、往人はさも我関せずとばかりに机の中の整理などを始める。
「良かったら……お昼、私達と一緒に食べませんか?」
「えと……悪いんだけど、あたし昼は食べないから……」
「何言ってんだ、今日は弁当持ってきてるだろ?」
 さりげなく、往人は横やりをいれる。
「あ、相場……何言って……」
「さっき見たぞ。鞄の中に弁当包みが入ってるの」
 そこまで言えば、決して頭の悪い方ではない真希の事。何事かを察したらしく自らの鞄の中を確かめ始めた。
 弁当包みは、確かに出てきた。それもその筈、昨夜唯に無理を言って頼み、“女子用の弁当”を作ってもらい、朝鞄をチェックする際にこっそり往人自身が入れたのだから。
「……あっ、なんかお弁当……あるみたい」
 鞄の中からピンク色の弁当包みを取り出すなり、何故か真希は強烈に睨み付けてきた。が、それは一瞬の事で、すぐに多恵に向けて困ったような笑顔を向けた。
「じゃあ丁度良いじゃないですか。一緒にどうですか?」
「……うん……じゃあ……そうする」
 渋々真希は席を立ち、多恵に誘われて五人ほどの女子グループの環の中へと入っていった。
(委員長、ナイス!)
 それを横目で見届けてから、往人は一人教室を後にした。
(……あとは真希が余計な事言ったりせずに普通にしてりゃ、きっと委員長が巧くまとめてくれるだろう)
 噂や評判こそ最悪であるが、実はそれほど悪い奴ではないということを、昨日の相談の際に往人は多恵に説明した。だから友達になってやってくれないか、出来れば他の女子との橋渡しも――と。
 ただしこの膳立ても真希自身が変な意地を張って台無しにしてしまうという可能性があった。その可能性を摘むために、往人はさんざん苦慮し、結果あのような“賭け”を持ちかけざるをえなかったわけなのだが。
(……巧くやれよ、真希)
 俺に出来るのはここまでだ――と、往人は不意に昨日の出来事を振り返った。多恵との相談の末、昼食を通して自分や他の女子との親睦を深めるという作戦が一番無難ではないかという事になり、その際に真希だけ売店のパンというのはどうにも仲間はずれな感が否めないのではという事になった。
 ならばいっそ全員売店のパンで統一するか、あるいは多恵が二人分の弁当を持って行っても良いと言ってくれたのだが、それでは真希は受け入れないだろうという変な確信が往人にはあった。
 故に、こっそりと手作り弁当を真希の鞄に紛れ込ませておこうと思ったわけなのだが、それをどう唯に頼むかという事でこれまた往人はずいぶんと頭を悩ませる羽目になってしまった。
 結局、成り行きで女子の一人に弁当を馳走になってしまい、お返しをしたいから俺の代わりに作ってくれ――そんな微妙な言い訳でごり押し、作ってもらったのだった。
(一応、俺が食うわけじゃなくて他の女子に食わせるって予定の弁当なんだから、そうそう不味い弁当にはなってない筈なんだが)
 もし不味かったらすまん、真希――そんな謝罪を心の中でしながら、往人はいそいそと売店へと向かう。
 ――その途中で、いやな顔を見た。
「よう、元エース」
 津田だった。気が付けば、背後にも二人、取り巻きが包囲するように立っていた。
「ちょっとツラかせや」
 


 津田に連れられ、往人は校舎裏へとやってきた。
「俺に何か用ですか?」
 校舎にもたれ掛かりながら、往人は尋ねた。校舎を背にしたのは、万が一取っ組み合いに発展した際、背後からの奇襲を防ぐ為だった。
「そうビビんなよ。別に三人がかりでヤッちまおうとか、そういう話じゃねえから」
 津田がポケットからタバコを取り出すと、取り巻きの一人がホストのような手つきですかさず火を付ける。津田は胸一杯に煙を吸い、そしてはぁと満足そうに吐いた。
「聞いたぜ。お前本当に愛川と付き合ってんだって?」
 往人は、答えに窮した。真実よりも、どう答えれば真希には累が及ばないか――その判断が難しかったからだ。
「それなりに仲良くはしてますよ」
「とぼけんなよ。もうヤッたんだろ?」
 くっくっく、と津田は肩を揺らして笑うが、往人には今の会話の何処にそのような笑いの要素が入っていたのか検討もつかなかった。
「あいつマジいい体してるよなぁ……俺も一度でいいからヤりたかったぜぇ」
「すみませんけど、とくに用事がないなら教室に戻ってもいいですか。俺、飯まだなんで」
 そんな愚にも付かない話など聞きたくないとばかりに、往人が立ち去ろうとすると、慌てたように、津田が声を上げた。
「待てよ! なんつったっけな……そうそう、チハルちゃんだ。チハルちゃんもけっこーヤラしい体してるよなぁ」
「……ちはる……?」
 今度は、往人が焦る番だった。
「あれ、聞いてねえの? 俺たち今付き合ってんだぜ? なあ」
 津田の声に、取り巻き二人がそれぞれ相づちを打つ。
「チハルって……二年の梶千晴の事ですか」
「そーそ。これこれ……元彼のお前なら見覚えあるんじゃねえの?」
 津田がポケットから携帯を取り出し、なにがしかの操作をして液晶面を往人の方へと向けた。
「なっ……!?」
 どくんと、心臓が大きく高鳴った。
 そこに映し出されていたのは、画面一杯の女性器の静止画像だった。携帯についているカメラで撮影したものだろう、モザイクの類などは当然一切入っていなかった。
「あー、コレじゃあさすがにわからねえか。んじゃもうちょっと引いたやつを……」
 津田が携帯を操作し、新たな画像を見せてくる。それには、顔を隠した男に抱えられるようにして足を広げられた全裸の千晴の姿が映し出されていた。
「おーっと、勘違いすんなよ元エース。何も俺は無理矢理襲ったわけじゃあねえんだ。その証拠に見ろよ、ちゃんとラブラブなのも撮ってるだろ?」
 立て続けに、同じく全裸の千晴と抱き合ってピースサインなどしている津田本人の画像などが映し出される。しかし、往人の目にはどう見ても千晴は嫌々やらされているようにしか見えなかった。
「胸も尻もねえ女がいきなり私と付き合って欲しいーなんつって来たときは正直ちょいとばかし驚いたけどよ、これが実はすげぇ淫乱でやんの。殆ど毎日ハメまくりなんだぜ?」
「っっ……津田ぁ!」
 往人は怒りを抑えかね、津田につかみかかった。しかし、往人に出来たのは津田の胸ぐらを掴む所までだった。
「ってぇな、勘違いすんなっつってんだろ」
 すかさず、取り巻きの二人に両腕を固定されるような形で往人は津田から引きはがされる。
「何度も言うが、俺たちはラブラブなんだよ。なんなら、チハルちゃん本人に聞いてみろよ。俺たちはただ、チハルちゃんが“どうにでも好きにして”っつーから、好きにしてるだけなんだぜ?」
「っっ……千晴が、そんな事を……!?」
 ありえない、津田の嘘だ――そう思った。しかし同時に、往人の脳裏にフラッシュバックしたのは、最後に千晴と話をしたときの、別れ際の顔だった。
 そう、あれはまるで全てを諦めた様な――。
「まーでも良かったじゃねえか。お前はお前でチハルちゃんと別れて愛川ゲットして、チハルちゃんにも俺たちっていう彼氏が出来たんだからよ」
「俺……たち……?」
「あー……だってほら、悪いだろ? こいつ等の前で俺だけヤッてちゃ。お裾分けってやつだよ、なぁ」
 取り巻きの二人が、ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべる。
「ま、そーいうワケだからよ。チハルちゃんは俺たちがタップリ可愛がってやっから、お前も愛川と楽しくやれや」
 津田はタバコを捨て、火を踏み消すや往人の肩を馴れ馴れしく叩き、校舎裏を後にする。それに続いて、取り巻き達も往人の拘束を解き、津田の後に続いた。
「……千晴…………っ……!」
 往人は、すぐに駆けだした。



 


 千晴のクラスへとたどり着くや、往人はすぐに見知った顔を捜した。
「居た……千晴!」
 教室の中で級友と雑談していたらしい千晴は往人の声を聞くなり、露骨に眉を寄せた。――そう、何か醜悪な生き物でも見つけたかのような、そんな顔だった。
 しかし、すぐに千晴は往人から視線を外し、雑談を再開させた。往人は堪りかねて教室の中へと入り、女子をかき分けるようにして詰め寄った。
「千晴、話がある」
「…………何? 馴れ馴れしく名前で呼ばないでくれる?」
 それは、かつての千晴と同一人物かと疑いたくなるような、嫌悪感を多分に含んだ声だった。級友のあからさまな声の変化に戸惑ったのか、それまで騒いでいた他の女子達が一斉に黙り込み、何人かは後退りをする。
「……とにかく、話がある。こっちに来てくれ」
 腕を掴み、教室から連れ出そうとした――が、千晴は力任せにそれを振り解いた。
「止めてよ! 汚い手で私に触らないで!」
 病気が伝染ったらどうしてくれるのよ――まるで唾でも吐き捨てるように、千晴が呟く。
「病気?」
「ええそうよ。あんな誰とでも寝るような売春婦と付き合ってる奴なんて、どんな病気もってるかわかったものじゃないわ」
 売春婦――それは最大限に悪意を込めた真希のあだ名だ。往人は反射的に握り拳を作った 。
「…………その事は、今はいい。とにかくこっちに来てくれ」
「嫌。私には往人と話す事なんて何もないんだから。いつまでも彼氏面しないで」
「……わかった、じゃあここで言わせてもらう。津田達と付き合うのは止めるんだ」
「はぁ? なんでそんな事あんたに指図されなきゃいけないの? 私が誰と付き合おうと関係ないでしょ」
「指図じゃない、忠告だ。とにかく、他の誰と付き合ってもいいから、あいつらだけは止めろ。取り返しのつかないことになる前に縁を切るんだ」
「……何を今更。人の人生メチャクチャにしておいてよく言えるわ」
「何だと……?」
「本当のコトじゃない」
 ふっ、と。千晴は鼻で笑い、そして徐に椅子から立ち上がる。
「私の成績なら、もっといい高校だって行けたのに、往人が一緒の高校が良いって言うから志望校のランクだって下げた! 往人が側で応援して欲しいって言うから、陸上部にも入らないでマネージャーになった! それなのに何? 頭打ったから価値観が変わった? だからもう別れたい? 人をバカにするのもいい加減にしてよ!」
「……っ……千晴っ……」
 両目に涙を溜めた千晴の剣幕に、往人は何一つ言い返す事ができなかった。
「……もう私には一切関わらないで、超ウザいから。……ほら、早く教室から出てって。同じ部屋の空気吸ってるのも嫌だから、私の視界から消えて!」
「待ってくれ、千晴……俺は――」
「消えろって言ってるのよ!」
 千晴は机の中から教科書を一冊取り出すなり、往人の体めがけて投げつけてくる。往人は棒立ちのままそれを受け、教科書はそのまま静まりかえった教室にぺしんと音を響かせて床に落ちた。
「………………っ……わかった」
 千晴の罵声と、クラスメイトから向けられる冷ややかな視線に追い立てられるように、往人はその場を後にした。
 そのままフラフラと廊下を歩き、自分の教室の近くまで来た――その時だった。
「うっ……」
 “それ”がはたして痛みだったのかどうかも、往人にはわからなかった。ただ、胸の奥に鋭い衝撃が走った瞬間、突然四肢が動かなくなった。意識までもが急速に失われていく最中、往人は遠くで自分の体が床にぶつかる音を聞いた気がした。



「……っ……」
 眼を覚ますなり、往人は真っ先に強烈な痛みを感じた。或いは、その痛みのせいで目を覚ましたのかもしれない。
「ん、起きた?」
「……真希?」
 意識が、急速に覚醒する。どうやら自分は保健室のベッドに寝かされていたらしい。そして隣のベッドには真希が座り、暇そうに足をぶらぶらさせていた。
「俺……なんで……痛ぅ……!」
 体を起こすと、またしても右目の上あたりが鋭く痛んだ。触ってみると、絆創膏が貼られていた。
「あんまり触らない方がいいわよ。倒れたときに床に思いきりぶつけたみたいだから」
「俺……倒れたのか?」
「自分で覚えてないの?」
 そういえば――と、往人は記憶を探り、そして思い出した。四肢が急に凍り付いたように動かなくなり、そのまま倒れてしまった事を。そして、“その前”の事も。
「保健の先生も大したこと無いって言ってたから、先帰っちゃおうかと思ったんだけど、あんたに一言文句言ってやりたかったから、わざわざ目覚めるの待っててやったのよ」
「文句……?」
「今日のこと、どこまであんたの仕込みなのかなんて野暮な事は聞かないわ。弁当だって、どうせあんたが忍ばせたんでしょ。……でもね、アレはいくらなんでもないんじゃない!?」
「不味かったのか?」
「違うわ! 味は……良かったわよ、うん……すごく美味しかったわ。だけどっ、よりにもよって痛弁にしなくてもいいでしょうが!」
「イタ弁……」
「そりゃーもうすんごいクオリティだったわよ! 他の女子がドン引きしながらうわぁ、って言うくらい神がかってたわよ! 愛川さん絵が巧くて料理も上手なのねー、なんて言われて、あたしが自分で作った事になっちゃったじゃない!」
「……悪い、俺も妹に女子用の弁当作ってくれって頼んだだけだから、中身がどんななのか知らなかったんだ」
「……まぁ、おかげで変に話も弾んだし。怪我の功名って言われたらそれまでなんだけど。…………とにかく、一言あんたに文句は言っておきたかったの」
 そうか、と呟いて、往人は体の他の場所の怪我などを確認した。どうやら、頭の怪我以外は軽い打ち身程度のもので済んだらしかった。
「で、あんたの方は一体全体何があったのよ。何であんな所で一人倒れたの?」
「……多分貧血かなんかだと思う。急に頭がくらっとして、そんで意識が無くなった」
「危ないわね……道路横断中とかだったら車に撥ねられてる所よ? ちゃんと鉄分とかとりなさいよね」
「ああ、そうだな……今、もう放課後なのか?」
「そうよ。HRもとっくに終わってるわ。あんたの鞄も持ってきてあげたんだから、歩けるならすぐ帰るわよ」
「そうだな、帰るか」
 真希から鞄を受け取り、往人はベッドから出た。生憎と保健医が留守だった為、ノートを一枚千切って目が覚めたから帰ります、と一筆沿えてから保健室を後にした。
「あっ」
 と真希が声を上げたのは、昇降口を出た辺りだった。
「委員長からのメールだわ」
 ポケットから携帯を取り出すなり、真希がそのような事を言い、すぐさまぽちぽちと、あまり慣れていない仕草で返信を始める。
「あんたの具合はどうだって聞いてきたから、もう目覚ましてピンピンしてるって返しておいたわ」
「……委員長にも心配かけちまったんだな」
「そりゃあね。だってあんた、教室の真ん前で派手な音立ててぶっ倒れてたもん」
「…………。」
 不意にズキリと。胸の奥が痛んだ。
「……委員長ってさ、いい子だよね。今日、いろいろ話して、そう思った」
 そうだな、と往人は条件反射的に相づちを打つ。
「あたしってさ、なんかすんごい怖い人みたいに思われてたらしいの。だから、話をしてみたら意外にフツーって、みんなに驚かれたわ」
「……普通じゃあないと思うけどな」
「想像していたより、っていう意味よ。多分」
 真希が笑う。あまり見たことのない、照れるような笑みだった。
「委員長の友達もみんないい子でさ。今度勉強教えてーとか、一緒にカラオケとか行こうって、アドレス教えてくれたから、あたしも教えたりしてさ。往人や委員長のお膳立ての上でのただの接待だって解ってても、悪い気はしなかったわ」
「……接待とか、酷い言い方だな。楽しかったなら良いじゃないか」
「うん、凄く楽しかった。……学校って、こういう場所だったんだな、ってちょっと感動した」
 そうか、良かった――往人は胸の内だけでそんな相づちを打つ。
「ねえ、往人はカラオケとかって行ったことある? 実はあたし……一度も無いのよね。どういう所かっていうのは知ってるんだけど……」
「今時カラオケにも行った事ないってのはちょっとヤバいんじゃないか?」
「う……やっぱりそうなの? どうしよ、あたし童謡とか子守歌とかしかまともに歌えないんだけど……」
「童謡……子守歌……」
 そのジャンルがあまりに真希に似つかわしくなくて、往人は渇いた笑みを漏らした。
「ダメだわ、誘われる前に、一回予行演習しとかなきゃ。……往人、あんた付き合いなさいよね。もともとこんな事になったのはあんたのせいなんだから」
「ああ、そうだな」
 それも、半ば無意識的な返事だった。真希の言葉は、確かに耳には聞こえていたが、往人は全く別の事を考えていた。
 千晴の事だった。
(なんで……よりにもよって……)
 津田なのだと、往人は思う。あの男の評判の悪さは全校に轟く程だ。無論千晴とて百も承知な筈なのに、何故あんな――自分を捨てるような真似をするのか。
「……っ……」
 ズキリ、と。また胸の奥が鋭く痛む。今度は手足に痺れにも似た衝撃が走った。よもや、また倒れるのではと危惧したが、そこまでには至らなかった。
 代わりに、“何か”が。
「――え、ちゃんと聞いてる?」
「ん……?」
「だからっ、いつ予行演習に行くかって、その話!」
「悪い、ちょっと聞いてなかった。何の予行演習だ?」
「………………ねえ、往人。ちょっとあんた変よ? 大丈夫なの?」
「大丈夫だ。頭を強く打ったからって、真希の事また忘れたり、今度はバスケがしたくなったりなんて事もない」
「……心配だから、今日は家まで送っていってあげるわ。カラオケの件はまた今度、改めて決めましょ」
「……いや、いい」
 往人の言葉の意味を計りかねたのか、真希がえっ、と声を漏らした。
「……それより、真希の部屋に行きたい」
「あ、あたしの部屋にって……どういう意味よ」
「そのままの意味だ。……真希と、シたい」
 なっ――と、真希が絶句する。
「何言ってるのよ! 昨日、あんなにいっぱいして……それに、今日はバイトもあるし……だ、第一あんた怪我してるじゃない!」
「関係ない。とにかくしたいんだ」
「だ、ダメよ……そういうのは、せめて、もうちょっと時間がとれる時に……」
「今日一日は俺の言うことを聞く。……そういう約束だったろ」
 だから、ヤらせろ――往人は黒い衝動の赴くままに、真希に強引に迫った。そして内心、あくまでこちらが譲らなければ、真希が必ず折れるという事まで見抜いていた。



 

「ね、ねぇ……往人……今日は本当に時間がないから……」
 半ば強引に真希の部屋に上がり込み、往人は鞄を乱暴に放るや、真希の肩を押さえつけるようにして跪かせる。
「口でしろ」
 えっ、と。真希は信じられない言葉でも聞いたように往人を見上げる。
「嫌よ……知ってるでしょ、あたしが……それ、ダメなの……」
「真希に拒否する権利なんか無いだろ。今日一日は俺の奴隷……そういう約束だ」
「でも……!」
「いいからしろよ。時間ないんだろ」
 往人は真希の頭を掴み、既にズボンの下でパンパンに膨らんでいる剛直に擦りつけるようにして急かす。
「……っ……わかった、わよ……」
 真希は観念したように呟いて、ジッパーを下ろし、中から剛直を取り出すや恐る恐る口に含んだ。
「んく……」
 先端から、暖かい粘膜に包み込まれる感触。往人は真希の頭に手を置き、さらなる愛撫を促した。
「んふっ……んっ……はっ……んぁっ……れろっ……んちゅっ……」
 辿々しくはあったが、真希がやるそれは明らかに、どうすれば男が喜ぶのかを知っている仕草だった。
 ――そのことが、往人には無性に腹立たしく思えた。
「さすがだな」
 頭を撫でながら、往人は呟く。
「散々担任のを咥えさせられただけの事はある。巧いぞ、真希」
 キッ、と。一瞬だけ真希が見上げるようにして睨み付けてくる。が、すぐに視線を落とし、ぐぷ、ぐぷと音を立てるようにして頭を前後させてくる。
「くぉっ……それ、めっちゃいい……もっと、もっとだ……」
 往人は急かすように、自ら真希の頭を掴み、前後に動かした。限界は、驚くほどに早く訪れた。
「真希……出すぞ、全部……飲めよ」
 ぐいと、真希の頭を引き寄せ、喉奥まで突き上げるようにして往人は白濁を打ち出した。
「ンぐ……んんんっ!!!!」
 苦しげに真希が喉奥で叫んだが、往人は力を一切緩めなかった。
「何嫌がるフリなんかしてんだ。……好きだろ? 精液飲むの」
 真希は藻掻き、呻き、しかしそれでも言われたとおり、こくん、こくんと喉を鳴らして白濁を飲み込んだ。
「っはぁ…………うぇぇ……」
 剛直を引き抜くや、涙混じりに今にも吐きそうな声を上げる。真希のそんな顔を見ていると、またしても苛立ちにも似た“何か”が、往人の中に沸き起こる。
「……もう一度だ」
 ぐいと、真希の髪を掴み、その頬に剛直を擦りつける。
「もう一度、口でしろ」
 真希はもう、反論すらしなかった。ただ、事務的に剛直に舌を這わせ、てろてろと全体を舐めるようにした後、再びくわえ込む。
 真希が口での奉仕を相当に嫌がっていることは明らかだった。だからこそさせたい――そんな歪んだ欲望に往人は支配されていた。
「っ……なぁ、真希。本当はこうやって男のものをしゃぶるのは好きだったんだろ?」
 好きじゃなきゃ、いくら脅迫されたとはいえ一年近くもいいなりになったりはしない筈だと、往人は優しく真希の髪を撫でながら、呟く。
「ほら、自分で言ってみろよ。“あたしは小学生のうちから担任教師にフェラチオを仕込まれて、男のものをしゃぶるのが大好きになった淫乱女です”って」
 往人は自ら腰を使い、真希の口を女性器に見立てるように動かしながら意地悪く呟く。
「ほら、言えよ、真希!」
「っ……! うグッ……げぇっ!」
 催促するように喉奥を突くと、忽ち真希はしゃくりあげるようにしながら剛直から唇を放した。
 ちっ、と往人は舌打ちをする。
「……ベッドに仰向けになれ」
 けほ、けほと噎せている真希に、往人は“命令”する。呼吸を整えながらも、言われるままに真希はベッドに寝そべる。往人は乱暴にブラウスのボタンを外し、ブラを剥ぎ取るとたわわな巨乳の間に剛直を挟み込んだ。
「ふーっ……ふーっ……ふーっ……」
 まるで獣のような息づかいで、往人は滑稽なまでに腰を振る。ずっと、こうしてやりたいと思っていた。この高校生らしからぬふしだら極まりない巨乳にはこういう扱いこそ相応しいと。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
 純粋な意味での快感は、さほどではなかった。しかし、剛直が埋まってしまいそうな程にたわわな巨乳と、どこか虚ろな目で往人から露骨に視線を逸らし続けている真希の冷めた顔が、さらなる興奮を呼ぶ。
「っ……うぅぅッ……!」
 興奮は、すぐに最高潮に達した。巨乳の合間から打ち出された白濁が真希の顔を、髪を、これでもかと汚す。
 しかし、二度の射精を終えても尚、往人の昂りは収まらなかった。
「壁の方を向いて尻を上げろ」
 真希は、逆らわなかった。往人はスカートを捲り、下着を下ろすやすぐに秘裂に剛直を宛った。
(……濡れてやがる)
 既に、男を十分に受け入れられる程に。そのことがまた――腹立たしかった。
「っ……んんっ!」
 乱暴に剛直を突き挿れると、真希が苦しげな声を上げた。構わず、往人は乱暴に腰をう。
「ッ! んんっ、んんんっ……!!」
 真希は上体をベッドに伏せ、シーツを噛みしめるようにして声を押し殺していた。小賢しい――と、往人は思った。
「真希、顔を上げろ」
 ずんっ、と力任せに膣奥を小突く――が。真希は顔を上げない。
「ちゃんと声を出せ」
 それにも、真希は逆らった。いらだたしげに、往人は乱暴に突き上げ、覆い被さるようにして両胸をこね回す。その高校生らしからぬ巨乳がまた、往人にわけのわからない苛立ちを与える。
「声出せって言ってるだろ。いつもみたいにヒィヒィよがってみせろよ」
「っ……ぁッ……くっ……ッ……!」
 後ろ髪を掴み、強引に頭を持ち上げようとするも、真希は頑なにシーツを噛みしめて逆らい続ける。やむなく、往人は真希の腰のくびれを両手で掴み、好き放題に突き上げる。
 ――そう、そうやって陵辱することで、まるで憂さを晴らそうとするかのように。
「イけよ、ほら、真希。淫乱だから、どうせレイプされても簡単にイくんだろ? ほらっ!」
「……ッッ! ………………〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!」
 びくんっ、びくっ、びくっ!
 決して声は上げず、シーツを噛みしめたままだが、体の反応から真希がイッたことを知って、往人はいびつな笑みを浮かべる。
「ホントにイきやがった。……マジで淫乱だな、自分でもそう思うだろ?」
 小刻みに震える真希の尻を叩きながら、往人もまた息を荒げながら抽送を早めていく。
「っっ……い、いやっ…………止めっ……――!」
 それが何を意味するかを悟り、真希が掠れた声を上げた瞬間――往人は最奥まで剛直を突き入れるや、問答無用で射精を開始した。
「……ッ……!」
 真希が、全身を強ばらせるのが解った。構わず、往人は欲望の限りを、その中へと撃ちだしていく。
「はぁぁぁ…………たまんねぇ……」
 真希の腰を掴んで引き寄せながら、ドクリ、ドクリと子種を打ち出す。頭の芯まで痺れるような快楽と共に、往人は己の征服欲が完璧に近い形で満たされるのを感じた。
 往人は、あえてその脳裏に普段の――我が儘で生意気な真希の姿を思い浮かべていた。自分は今、あの鼻持ちならない女を犯し、無慈悲に子種を植え付け、屈服させているのだと思うことで、射精の快感は数倍にまで跳ね上がった。
 真希はといえば、文句を言うでもなく、シーツを握りしめ身を竦めるように縮めたまま殆ど微動だにしなかった。
 さながら、“嵐”が過ぎ去るのをただジッと身を縮めて待つ子羊のような――そんな態度が腹立たしくて、往人はさらに黒い衝動のままに真希を犯し続けた。


 獣のような息づかいと、早鐘のような鼓動。全身を覆う抗いがたい疲労から往人が漸くにして“その行為”を止めた時には、既に日は落ち部屋の中は暗闇に包まれていた。
「はーっ…………はーっ…………」
 がっくりと、尻餅をつくようにして、往人は真希から離れた。眼前には、今の今まで陵辱の限りを尽くした体が火照った肌に玉のような汗を浮かべていた。
 秘裂から太股へと、とろりとしたものが溢れてくる。言うまでもなく、幾度と無く注ぎ込んだ白濁液だった。昨日の今日でどうしてこんなに――と思うほどに多く、青臭いほどに濃厚だった。
 しかし、それを不思議と思う心は、往人には無かった。むしろそれが当然なのだとすら思った。
「……気が済んだ?」
 往人の呼吸が漸く整おうかという頃合いになって、真希がむくりと身を起こした。口調は、ひどく冷淡なものだった。
「バイトに行くから、帰って」
 それは全く感情を孕んでいない声だった。怒りも、悲しみも、何も無い。無機質な、機械かなにかのような声だった。
 往人は無言のうちに身支度を済ませ、真希の部屋を後にした。


「おっかえりー、ユキ兄ぃ、お弁当どうだった?」
 玄関のドアを開けると、右手にカルテ、左手に注射器、そしてナース服という出で立ちの唯に出迎えられた。
「……ああ、凄く美味しかったって言ってた」
「んもぉー、そんなのは当たり前なの! 今日のは“見た目”にもすんごい凝ったんだから」
「そういや痛弁だったって言ってたな。しかもすげえクオリティが高かったとか」
 往人は階段を上がり、部屋に入るなり鞄を置く。その後ろを、まだまだ話し足りないらしい唯が追いかけてくる。
「くふふ、そうでしょそうでしょ。朝四時に起きて腕によりをかけて作った傑作だったんだから! いっそ食べないで真空パックかなにかで――ユキ兄ぃ?」
「ん?」
「どうしたの? また怪我してる」
「ああ、これか。ちょっと貧血起こして頭からモロに転んだんだ」
「ふぅん……痛いの?」
 見るからに触りたくてうずうずしている唯からやや距離をとりながら、「まあそれなりに」と往人は無難に返事をした。
「……とりあえず着替えるから、一端部屋から出ろ」
「ええー、どうしてぇ? 良いじゃない、私ここでユキ兄ぃの着替え見たいなぁ」
 唯は注射器とカルテを勉強机の上に置き、ベッドに腰を下ろすやこれ見よがしに――往人に下着が見えるような仕草で――足を組む。
「そ、れ、に……私まだ、ユキ兄ぃにお礼貰ってないし」
「お礼?」
「お弁当のお礼。作ったら、一つだけなんでも言うこと聞いてくれるって言ってたでしょ?」
「ああ……」
 そういえば、ものの弾みでそんな約束をしたような記憶があった。
「それで、唯は俺にどうして欲しいんだ?」
「んふふー、そうだねえ、何してもらおっかなー……」
 ニヤニヤと、唯が悪女のような笑みを浮かべる。恐らくはその頭の中ではこれでもかというくらいに悪巧みが渦を巻いているのだろう。
「ユキ兄ぃ、最近ノリ悪いし、全然構ってくれないから唯も結構“溜まってる”んだよね」
 そしてぴょんとベッドから飛び起きるや、ぴたりと密着してきて、そのまますすす……と股間の辺りを指で撫でてくる。
「ねぇ、ユキ兄ぃ。……唯ね、ユキ兄ぃにイケナイお注射シて欲しいなぁ」
「注射?」
「うん、ユキ兄ぃのでね……唯の処女膜破いて、そのまま子宮までずんって突いて欲しい」
「………………。」
「それでね、ユキ兄ぃの濃くて熱いの、いっぱい唯の子宮に注ぎ込んで欲しいの。何度も、何度も、唯のお腹が膨れちゃうくらい」
「……エロ漫画の読み過ぎだ」
 往人は鼻で笑った。
「ねぇ、ユキ兄ぃ……いいでしょぉ? 唯の処女貰って?」
「……わかった。本当にそれでいいんだな?」
 えっ――と、声を漏らした唯を、往人はそのままベッドへと押し倒した。
「えっ、やだっ……ちょっ……ユキ兄ぃ!?」
「処女を貰って欲しいんだろ。……望み通りにしてやる」
 往人はナース服の前面を掴むと、そのまま乱暴に左右に開いた。ボタンが千切れるような音がして、たちまちブラにつつまれた小振りな乳が露わになる。
(……中一にしては)
 既にBカップ近くはあるだろうか。さすがに真希とは比べるべくもないが、千晴のそれに比べれば遙かに女らしい体つきをした中学一年の義妹に、往人はごくりと生唾を飲み込む。。
「や、止めてよ! 嘘、冗談だって! やっ、ユキ兄ぃっ……」
 そんな事など、往人は百も承知だった。いつもいつも、男を誘うような言葉と素振りで誘惑はしてきても、その実そこから先へと踏み込む勇気も覚悟も無い事など、往人には解っていた。
(……これは、仕置きだ)
 性悪狐への――否、悪戯猫への。あのような男をからかうような真似ばかり続けていたら、いつか痛い目にあうという事を体で学ばせてやるのだ。
「イヤッ、嫌っ…………ねえ、ユキ兄ぃ……きゃんっ!」
 ブラを力任せに引きはがすと、お椀型の小振りな乳が微かに揺れた。往人は暴れる唯の手を頭の上で重ね、左手で押さえつけながら、右手でまだ堅さの残る乳をサワサワと愛撫する。
「やぁっ、こんなのやぁっ! お願い……ユキ兄ぃ、もうからかったりしないから止めてよぉ……!」
 唯の懇願は涙混じりになっていた。が、往人は一切止める気など無かった。
「……唯、暴れるな」
 懇願などは聞き入れず、往人はただ己の要求のみを言った。
「暴れたら、痛くするぞ」
 低く、脅すような声で言うと、唯はひいと声を漏らしてそれきり大人しくなった。往人は漸く左手を離し、唯の全身をまさぐるようにしながら小振りな乳へと舌を這わせる。
(……真希と、あんなのにシたのに)
 既にズボンの下ははち切れそうな程に膨張しきっていた。眼下ですっかり脅え、嗚咽を漏らしている若い牝に早く種付けをしてやりたくて我慢ならないとばかりに。
(ああ、そうだ……そうしてやるべきだ)
 まるで、それが至極当然の事のように思えて、往人は唯のショーツへと手をかける。その瞬間、それまで大人しかった唯が半狂乱になったように暴れ出した。
「い、嫌っ! それだけはイヤッ! ユキ兄ぃ許してぇ!」
「……処女を貰って欲しいんだろ。貰ってやるから暴れるな」
「嘘っ、全部嘘なのぉ! 本当はユウ君にあげたいの! ユキ兄ぃにはあげられないのっ、だからお願い!」
「……ダメだ」
 そんな事は許さない――往人は容赦なく唯の下着を脱がしにかかる。が、唯も賢明に足をばたつかせ、手で下着を掴むようにして抵抗する。
「イヤッ! イヤイヤイヤイヤイヤいやァァァァッッ!!! 助けて、ヒロ兄ぃ、助けてぇええ!!」
「ヒロ兄ぃ……?」
 はたと、往人は背後に人の気配を感じた。
「おい」
「えっ…………がッ……」
 声をかけられ、振り返った瞬間、頭に何かひどく硬いものが振り下ろされた。
(ああ、そうだ……ヒロ兄ぃの部屋は――)
 隣じゃないか。こんな騒ぎをしていたら、気が付かないわけがない。
 ゴッ、ともう一度硬いもので頭を殴りつけられ、往人は再び意識を失した。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ン…………」
 目を覚ますと、後頭部に鈍痛が走った。“その流れ”が最早通例にすら思えて、往人は真っ先に苦笑を漏らした。
「いちち……朝、か……」
 カーテンの隙間から差す光で、どうやら目が覚めたらしい。何か、酷く不快な夢を見たような気がしたが、内容についてはまったく思い出せなかった。
  往人はむくりと体を起こし、そっと後頭部を撫でてみた。恐らくは、弘樹に殴られたであろうその場所にしっかりとコブが出来ていた。
「…………夢――じゃ、なかったんだよな」
 義理の、とはいえ妹を襲おうとした事は、紛れもない現実だったのだという事が、その痛みではっきりと自覚できた。
「……ッ……」
 不思議と、後悔はなかった。ただ、瘤のそれよりも鈍く、低くうねるような痛みが胸の奥に走った。
 階下へと降りてリビングに行くと、台所で朝食の支度をする唯と、そして珍しく弘樹がこの時間帯に起きて新聞を読んでいた。
「あっ……」
 と、唯は往人の存在に気が付くなり、脅えたような声を上げてリビングから出て行ってしまった。
「……昨日のことは」
 弘樹はコーヒーを片手に、新聞から視線を外さずに言った。
「唯と相談して、親父にも知らせず警察沙汰にもしない事にした」
「…………。」
 往人は言葉に困り、黙って弘樹の前の席へと座った。
「ただ、もうお前と一緒には住めない。俺は兎も角、唯が怯えてしまっている」
 弘樹の言う事は、先ほどの唯の反応を見れば至極当然だと思えた。
「親父から振り込まれる養育費のうち、お前の分はちゃんとお前の口座に分ける。学費や生活費には十分な額の筈だ。だから可能な限り早く家を出てくれ」
 話は以上だと、弘樹は新聞を畳み、コーヒーカップを流しに置いてリビングを出た。
「……お前もいい年だ。あいつがふざけてるのか、本気なのかくらい分からなかったのか」
 リビングを出る際、弘樹はぽつりと漏らした。
 往人は一人残されたリビングで、意味もなく周囲を見回した。当然の事ながら、そこにはだれの人影もない。昨日までは、唯がフリフリのエプロンをつけて冗談交じりに朝食の用意をしていたが、もう二度とそれを見る事も無いだろう。
「……はは、は……」
 不意に、笑いがこみ上げた。
「ははははっ、ははっ……あはははははははははははははははっ!!」
 訳も分からず、往人は笑った。
 笑いながら――泣いた。



 


 学校へ行き、教室に入るなり往人は違和感を覚えた。
(ん……?)
 はてなと首を傾げながら自分の席に座る――が、違和感は消えない。強いて言えば、空気が違うのだ。
「気にしない方がいいですよ」
 そう言ってきたのは、多恵だった。
「ちょっと、悪い噂が流れてるみたいです。相場君と、梶さんの事で」
「ああ……」
 なるほど、と往人は納得した。恐らくは、昨日の昼休みでの悶着が、変な具合に噂として広まってしまったのだろう。
「頭の怪我、大丈夫ですか?」
「ああ、ちょっとぶつけただけだから問題ない」
「そうですか、愛川さんが随分心配してましたよ。早く救急車呼んで!って、保健の先生につかみかかってました」
 くすくすと、多恵が思い出し笑いをする。
「そういえば、愛川さんは今日はまた遅刻みたいですね。……明日も朝から来るって、そう言ってたんですけど」
 往人は黒板の上の壁掛け時計に目をやった。時刻はやがて八時半、HRの始まる時間だ。
「……愛川さ、巧くやれそうだった?」
「“思ってたよりもいい人”だって、私も含めてみんなそう感じたと思います。あとは、愛川さん次第ですよ」
「そっか」
 良かった――往人はふっと空席になっている真希の席へと視線を走らせ、そして再び多恵の方へと戻した。
「委員長さ……今付き合ってる男子とかいる?」
「……? どうしたんですか? 急に……」
 そんな人いませんけど――と、多恵はやや小声で呟いた。
「良かったら今度、俺とデートしてみないか?」
 よほど虚を突かれたのだろう。多恵は一瞬目を丸くし、そしてすぐに嫌悪感を露わにした。
「…………。……そういう冗談は嫌いです」
「ごめん。ちょっと言ってみただけだ」
 冗談めかして笑い、そして謝った。往人自身、どうして自分がこのような事を切り出してしまったのか、まるで解らなかった。



 昼休みになって、そして午後の授業が始まっても、真希は来なかった。そしてとうとう帰りのHRが終わるまで、その席は空席のままだった。
「相場、ちょっといいか」
 HRが終わるなり、往人は担任に呼びつけられた。
「お前、愛川と仲が良いだろ。帰りにちょっと様子見てきてくれんか。連絡がとれんのだ」
 担任の言いたい事は良く解った。遅刻はしても欠席は絶対にしない女という評判の真希が欠席したのだ。並々ならぬ事が起きているのではと危惧するのも無理はなかった。
「解りました。帰りに寄ってみます」
「頼む」
 そう言い残して、担任は出席簿を手に教室から出て行った。程なく、往人も学校を後にした。
 帰り道、件の巻き寿司屋に寄ると未だにシャッターがしまったままになっていた。張り紙も変わらず、しばらく休むという旨が書かれているだけだった。往人はそのまま店の前を通り過ぎ、真希のアパートへと向かった。
 インターホンを押す――が、反応はない。二度、三度と押して軽くドアを叩いてみるがやはり反応は無かった。
 しばらくそんな事を繰り返して、結局往人は諦めて帰る事にした。唯はまだ帰っていないらしく、家の中は耳が痛くなるほどに静かだった。恐らく弘樹は部屋にいるのだろうが、元々騒がしくする男ではないから、静かな事に変わりはない。
「………………。」
 しばらくベッドの上にごろりと横になり、はたと思い立って往人は携帯電話を取り出した。アドレス帳を開き、愛川真希の項目を選ぶ。
 呼び出し音が正常に鳴る所を見ると、どうやらいつぞやの着信拒否設定は解除されているらしかった。そのまましばし呼び出しが続き、ぶつりという音と共に無機質な留守録のメッセージが流れ出した。
「……もしもし、真希……俺だ。……昨日は悪かった」
 往人自身、何故今になって真希へと電話をかけたのか解らなかった。ただ、“最後”に一言、何かを伝える相手を選ぶとするならば、真希をおいて他に居ないとそう思ったに過ぎない。
「謝って済むような事じゃないってのは解ってる。それでも、言わせてくれ……本当に悪かった」
 数拍おいて、往人はさらに言葉を続ける。
「……今日、真希が学校を休んだのは、俺のせいだって事も解ってる。だから、こんな事を言う資格はないのかもしれない……でも、委員長達の為にも、出来るだけ学校に出てきて欲しい。みんな真希の事を心配してたぞ」
 真希さえきちんと学校に来るようになれば、きっと巧く行くだろう――例え自分が居なくなっても、委員長に任せておけば間違いはない筈だ。
「それから、最後にこれだけは言っておきたい。俺はお前の事――」
 そこまで口にした刹那、ピーッと留守録時間終了の発信音が劈くように鳴り響いた。往人は静かに携帯を耳から離し、机の上に置いた。
 しばらく椅子に座ったまま呆然として、そして唐突に立ち上がるなり手早く着替えを済ませた。財布の中身を確認し、携帯を持っていくべきか一瞬悩み、最早誰とも話す事もないと思い直して机の引き出しへとしまい、家を出た。
(あの場所へ――)
 そんな衝動にも似た思いが、胸の奥から急激に突き上げてきていた。根拠など何も無い、ただ、“今夜ならば帰れる気がする”――という、漠然とした思いにしたがって、往人は大通りまで出るなり、バスに飛び乗った。
(俺は……帰らなきゃいけないんだ)
 夕日に染まった空を見上げると、うっすらとした満月が静かに往人を見下ろしていた。


 
 


 バスに揺られる事三十分。最寄りのバス停で降りた往人は記憶を頼りに徒歩で七伏山へと向かった。既に日は落ち、山に近づけば近づく程に街灯は少なく、辺りを照らすものは減っていく。
 しかし、奇しくも満月。ただ夜道を歩く分の明かりには不自由する事はなく、小一時間ほど歩いて往人は件の獣道の入り口までやってきた。
 道沿いにしばらく登り、ある地点でガードレールを越えれば比較的楽に到達できる事は知っていたが、往人はあえてこの獣道を進む事にした。あの夜に比べて明るい、とは言っても山の中の事。足下は殆ど見えず、往人は時折つんのめるようにして転びながらも、漸く目的の場所へと到達した。
「すげぇ……」
 光が溢れている――とは、まさにこういう情景の事を言うのだろう。“あの夜”とは段違いの光量に目の眩むばかりだった。まるで木々の葉に降り注いだ月光が反射し集約されでもしているかのように、辺り一面に黄金色の光が充ち満ちていた。
 往人は恐る恐るその光の中へと手をさしのべてみた。
「っ……!?」
 一瞬、ふわりと体が浮き上がるような感覚があった。が、それだけだった。往人は思い切って全身を集約された光の中へと晒してみた。しかし、全身に心地よい光が降り注ぐだけでこれという変化は何も起きなかった。
「……ダメ、か」
 ひょっとしたら――という思いはあった。真希に言われたことは間違いであり、自分は本当は“重なる魂”を持つ者なのではないかと。
 しかし、その可能性はたった今完全に否定された。あの時、真希は月の光が重要だと言った。ならば満月である今夜でダメならば、いついかなる時でもダメという事ではないか。
「……真希は、嘘は言ってなかったって事か」
 そもそも、疑っていたわけではなかった。ダメで元々という言葉の通りに、一度試してみたかっただけに過ぎない。
「……どう、すっかなぁ……」
 出て行って欲しい、と願っている二人の居る家へと戻る気も起きず、かといって他に行く宛も無く。
 往人は倒木の上に腰かけ、ぼんやりと月の光を眺めていた。眺めながら、ふと思い出した。
 いつだったか、真希と月夜の散歩をしたときに聞いた話。月の光を浴びると、自分ではない何かに変われる気がしてワクワクする――真希はそう言い、往人は鼻で笑ったが今ならば多少は真希の気持ちが分かる気がした。
(だけど、あくまで“気がする”だけだ)
 本当に変わる事など出来ない。あくまで自分は自分なのだという事を、往人は月の光によって思い知らされたのだった。
 

 がさがさと、何かが接近してくるような物音に、往人は不意に意識を覚醒させた。
(ん……寝ていた……のか?)
 知らぬ間に寝入ってしまっていたらしい。物音は、さらに近づいてくる。耳を澄ませば、激しい息づかいのようなものも聞こえた。
(猪……? まさか熊……?)
 今更命を惜しむ気持ちも少なかったが、往人はとりあえず立ち上がり、身構えた。がさがさと、草をかき分けるような音はさらに近づいてくる。
(光が……)
 月が隠れでもしたのか、あれ程降り注いでいた光が全く無くなっていた。その為、辺りの視界は殆ど効かず、うっすらと木々の輪郭のみが見える程度だった。
 音は、さらに近づいてくる――が、それが不意に途絶えた。往人は注意深く辺りを見回しながら腰を落としてどの方向からの攻撃にも対処できるようにした。
 その矢先――。
「ウガーッ!!!」
 突然背後の茂みから巨大な何かが雄叫びと共に飛び出してきて、往人は悲鳴を上げながら飛び退った。
「なっ、なっ、なっ……………………?」
 地面を転がるようにして距離を取りながら背後を振り返ると、巨大な影は両手を掲げるように立ちつくしたまま微動だにしていなかった。しかもよく見ればそれは全く“巨大”などではなく、せいぜい大柄な成人男性程度の大きさだった。
 極めつけは、その身長の大半が葉っぱなどで割り増しされている事だった。
「ふっふっふー…………往人、みぃぃぃっっけ!」
「……真希、か?」
 言うが早いか、真希が恐らくわざわざ拵えたであろう葉っぱの仮面を脱ぎ捨てた。
「捜したわよぉ、こんのバカ往人! 人の携帯にワケわかんない留守電残して消えるんじゃないわよ!」
「ワケわかんないって……いや、その前にどうしてここが解ったんだ?」
 確かに留守電は残した。しかし今から何処かに行くとも言ってなければ、ましてやこの場所に行く事など匂いも残さなかった筈なのに。
「最初から解ったわけじゃないわよ! 初めはあんたの携帯にかけなおして、ちっとも出ないから仕方なく家に行って……住所わかんなかったから、ここでもの凄い時間食っちゃって、結局あんたの兄貴って人に家には居ないって教えられて、きぃぃぃーーーってなった後、ふと気が付いたのよ。今夜は満月だって」
「……それだけで?」
「だって往人、あからさまに様子ヘンだったし、頭も悪いし、なんか思い詰めてたみたいだし、普段から誇大妄想に取り憑かれてるような奴だから、もしかしたらって思って来てみたら――」
「……どうしてそこまでして捜そうと思ったんだ?」
 多少留守電が気になった所で、次の日に学校で会った時にでも話せば済むことではないか。無論、往人が学校に来るかどうかというのはまた別問題ではあるが。
「あんたねえ……あんな遺書みたいな留守電残されたら、普通何かあったって思うでしょ! 捜すでしょ! ましてやそれが――」
「それが?」
「〜〜〜〜〜っっ……とにかく、試してみてもう気が済んだでしょ! あんたは間違いなく相場往人! いつまでも夢見がちなOLみたいな事言ってないで現実をちゃんと見据えなさい!」
「…………安心した」
「はぁ……?」
 ぽつりと漏れた往人の言葉に、真希は露骨に声を裏返らせた。
「いや……真希が思ってたよりも元気そうだから。……部屋で布団にくるまって泣いてるのかと思ってた」
「……平気じゃあなかったわよ。あんな酷いことされたんだもの。……でも、往人が何もなしにあんなことするような奴じゃないって事くらい、解ってるつもり」
「それは買いかぶりすぎだ。俺は女と見れば誰だって手を出す最低の男だ」
「そんなことないわ――なんて言わないからね。……あたしに甘えるのも大概にしときなさいよ」
「……そうだな。悪かった」
 あたしに甘えるな――その言葉が鋭く胸を貫き、往人はハッとする思いだった。あの八つ当たりのような陵辱は、甘え以外の何物でもなかったのだと、この瞬間気づかされた。
「とにかく、話は後。急がないと帰りのバスが無くなっちゃうわ」
 真希に急かされ、往人は舗装された道路へと戻り、帰路についた。が、バス停へとたどり着いた時には時刻は零時を回っていて、とうに終バスは無くなっていた。
「って事は……」
「歩きね。……ま、三、四時間も歩けば帰れるでしょ」
「随分前向きだな、真希は」
「さすがにこんな所で始バスなんて待ってらんないし、それにほら……あたし、夜道歩くの大好きだし」
「さらに言えば、満月だし、な」
 夜遊び大好きな真希としては、四時間の道のりなどさして苦じゃないということだろうか。
(……でも、本当に意外だ)
 “あんな事”をしてしまった後だというのに、真希はどう見てもいつも通りにしか見えない。否、むしろいつもより元気溌剌としているようにすら見える。
(学校休んで、ずっと家で寝てた……とか?)
 それならば、最後のHR前にでも来て一応の出席扱いにはするのではないか。それすらしなかったのは偏に相場往人と絶対に顔を合わせたくないからだと踏んでいたのだが。
「なぁ、真希……今日、どうして学校休んだんだ?」
 うだうだ悩むよりも、往人は直接聞いてみる事にした。ここで真希がはっきりと「あんたと顔を合わせたくなかったからよ」と言うのならば、それはそれでスッキリするからだ。
「……委員長達とも約束してたし、本当は今日もちゃんと行く予定だったのよ。……あんな事があったばかりなのに、あたしエライでしょ?」
 そう言って、真希は無理矢理な笑顔を作ってみせる。が、それはすぐに泣き出しそうな顔へと変わった。
「……ばーちゃんが死んだの」
「ばーちゃんって……巻き寿司屋のか!?」
 うん、と真希は頷く。
「朝、学校に行く途中で……商店街の人が話してるの聞いちゃって……今日、お葬式だって言ってたから……ばーちゃんの家教えてもらって、お葬式行ってたの」
「なんで――」
 教えてくれなかったんだと言いかけて、往人は黙った。真希は平気なフリをしているが、やはり昨日の事はショックだったのだ。そうでなければ、いの一番に知らせてくれたに違いない。
「そうか……あの婆さん、死んだのか……」
「九十六歳で大往生だって。ちゃんと往人の分もお線香あげてきたから、きっとばーちゃんも喜んでるよ」
「……そうだといいな」
 目を瞑れば、否が応にも老婆の笑顔が思い浮かぶ。皺の形がそのまま笑顔になっているようなあの老店員にはもう会うことはできないのだと思うと、胸の奥が鋭く痛んだ。
(……だから、学校を休んだのか)
 連絡もいれなかったのは、単純に忘れただけか、親戚でもなんでもない他人の葬儀などは欠席の理由にならないと思ったのか。恐らく前者だろうと往人は思った。親しい人が亡くなった時の衝撃に比べれば、欠席の理由などどうでも良いに違いないからだ。
「本当は――」
 夜道を並んで歩きながら、真希は苦しいものでも吐き出すように言う。
「どんな事があっても、欠席だけはしないって決めてたの。……それがばーちゃんとの約束だったから」
「婆さんとの約束……?」
「……まだ一年の初めの頃だったと思う。あたし、学校行くのが億劫でさ、しょっちゅう休んだり、行ってもすぐ早引けしてサボったりしてたの」
 教室に居てもつまんないだけだったし――と、真希は小声で呟く。
「そんな感じで、学校サボって神社の境内の裏で昼寝してたらさ、お参りにきたばーちゃんに見つかって、いきなり説教されたの」
「学校にはちゃんと行け、って?」
「うん、だいたいそんな感じだったと思う。あたしが学校の勉強くらい授業受けなくても全部解るからサボっても問題ないのよ、って言うと、今度は“本気の顔”で怒られたわ」
「本気の顔……」
 往人は老婆の顔を思い出す。しわの形がそのまま笑顔になっているような優しい面影しか思い出せず、とても怒った顔など想像もできなかった。
「最初はさ、なんで赤の他人にここまで怒られなきゃいけないんだろうって。腹が立つのをぐっとこらえて聞いてたんだけど、ばーちゃんがあまりにしつこくて、だんだん抑えがきかなくなって、あたしもつい怒鳴っちゃったのよね。…………学校なんか行ってもちっとも楽しくないから行きたくない、って」
「………………。」
「友達なんて居ないし、それ以前に話をする相手も居ないって。たまに声かけてくるのはあからさまに体目当てだったり、ただのからかい半分だったりでもううんざりだって。気がついたらあたし、半分涙声みたいになっててさ、ひとしきりばーちゃんに言い返した後、ちょっと待ってなさいって言われて、……しばらく待った後、ばーちゃんがお稲荷さんを持ってきてくれたの」
 凄くしょっぱかったわ――真希は苦笑いをしながら、そんな言葉を漏らした。
「しょっぱいけど、美味しくて……お稲荷さんを食べてたら、ばーちゃんが言ったの。あんたは綺麗だし根も素直ないい子だから、今は居なくてもいつかちゃんとした友達が出来る、って。そのためにはこんな所に一人で居ちゃダメだって」
「……友達、か」
「勉強なんかどうでもいいから、学校には毎日行きなさい。そして友達が出来たら、真っ先に婆ちゃんの店に連れてきなさい、って。それまで、毎日とびきりのお稲荷さん作って待ってるから……って……」
 不意に、真希が言葉を詰まらせたのは、“涙声”になりかけたからだった。往人はあえて何も言わず、夜道を並んで歩きながら真希が持ち直すのを待った。
「……ばーちゃん、さ……」
「うん」
「本当は、もう結構前から体の具合とか、悪かったらしいの。……でも、約束だから、って……無理してお店やって……それで……」
「……そうだったのか」
 ほんの二,三度しか顔を合わせてはいないが、とてもそのようには見えなかったのは、必死に隠そうとしていたのだろうか。
(……そういや、あの婆さん……初めて俺を見た時、すっげぇ嬉しそうだったな)
 あのときは、単純に年寄りの野次馬根性かなにかかと思ったものだったが、真希とのやりとりを聞いてしまった今となっては、あの笑みがひどく深いものに思えてならない。
(真希ちゃんを宜しくね、か……)
 それはきっと、言葉通りの意味なのだろう。しかし込められた気持ちは、途方もなく大きかったに違いない。
「……真希、改めて言わせてくれ。…………昨日は本当に、悪かった」
「…………もういいのよ、その事は」
 真希の声は、表面上はいつもの、快活とした声に戻っていた。
「今回の事は……一回限りで許すことに決めたんだから。……そうしろって、ばーちゃんに言われた気がしたの」
「…………。」
 仲良うせなあかんよ、という老婆の言葉が、一瞬往人にも聞こえた気がした。



 夜道を歩きながら、往人は思案していた。否、それは思案などではなく、ただの“迷い”であったのかもしれない。
「……真希、白状する」
 帰路も半ばにさしかかった頃、そんな往人の“思案”は要約にまとまった。
「何よ、急に」
「俺は、……精神異常者だ」
「へ……?」
「多分、最初に頭打ったせいだと思う。興奮して、時々ワケわかんなくなるんだ。そういう時は、回りにいる女子がエサか何かにしか見えなくなって、陵辱する事が至極当然みたいに思えてくるんだ」
「あたしも……そう見えたって事?」
「真希だけじゃない。……昨日、あの後……妹を襲おうとした」
「ぶっ……ちょっ、あんた……それはいくらなんでもまずいんじゃないの?」
 真希のそんな反応を見て、往人は目頭が熱くなった。ああ、こいつは本当にいいやつだな、と。
(……自分だって、相当な目に遭わされたくせに)
 今すぐ真希を抱きしめてやりたい衝動にかられながらも、往人は“告白”を続けた。
「……ただまぁ、すんでの所で兄貴が止めてくれたから、大事には至ってない。……けど、妹には相当なトラウマになったらしい。…………家を出てくれ、って兄貴に頼まれた」
「そんな……いきなり出て行けだなんて……」
「仕方ない。俺はヒロ兄や唯やその父親とは血が繋がってないし、そんな俺に襲われかけたんだ。むしろ警察沙汰にせずに穏便に済ませてくれただけで御の字だ。……家を出て行けとは言われたけど、養育費は回してくれるらしいし」
「それでも……そうだ! あたしがあんたの“病気”の証人になってあげるっていうのはどう? 往人が頭打ったせいでそういう風になっちゃう事がある、って証明できれば、家を出て行かなくてもいいんじゃない?」
「……難しいと思う。第一、本当に病気なのかどうか解らないし、再発しないための手だても無いんだ。それじゃあ結局、いつ同じ事が起きるかわからないって事になる」
「じゃ、じゃあ……とりあえず病院に……」
「それも望みが薄い。病院には、最初に頭を打った後に行ったんだ。……異常はないって言われたよ」
 或いは、脳外科などではなく、もっと精神的な部分を担当する医者にかかれば、効果があるのかもしれない。しかしそれでも、根本的な解決にはならないのではないかと、往人は薄々思っていた。
「じゃあ、どうするの? 家出ろ、って……アパートとか借りて一人暮らしするって事?」
「………………。」
 これから口にする事は、往人にとってとても勇気が居る内容のものだった。しばしの沈黙の後、往人は恐る恐る切り出した。
「……真希に、頼みがある」
 一拍置いて、往人は言葉を続けた。
「俺には、いきなり一人暮らしを始めるような貯金なんてない。ひょっとしたら兄貴に頼めば、最初の敷金礼金くらいは出してくれたりするかもしれないけど、そこまで世話にはなりたくない。……だから、家は出来るだけすぐに出て、まずはバイトして金を貯めてから、一人暮らし用のアパートを借りたい」
 だから――往人は渇いた舌で、恐る恐る言葉を続けた。
「……もし、真希が許してくれるなら……金が貯まるまでの間部屋に置いて欲しい。勿論、家賃や光熱費、食費は半分もつ。それくらいは多分、兄貴から貰える養育費で賄える筈だ」
「え……あたしんちに、居候するの?」
 絶句するように、真希が声を裏返らせた。やはりダメか――と、往人が失望しかけた矢先。
「まぁ、別に良いけど……うち狭いわよ?」
「……いいのか?!」
 まさかそんなに簡単にOKが出るとは思ってなくて、往人は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「だって、他に行くところも無いんでしょ? 仕方ないじゃない」
「確かに行くところはないけど…………でも、また……」
 往人が最も危惧するのは、“再発”だった。一緒に暮らす以上、真希は常にその対象になる危険を孕んでいる事になる。了解を得る前に、そのことをちゃんと伝えておかねばならない。
「その時はその時。今度は容赦なくひっぱたいてたたき出すから、そのつもりで必死に自制しなさいよね」
「……そうだな。うん、……真希の言うとおりだ」
 自分は異常者だ――と自覚するだけではただの“甘え”だ。自覚して尚自制してみせなければ何の意味も無いのではないか。
「但し、あんたがアパート見つけるまでの間だけよ? いくらなんでもそのまま居座られたらたまらないわ」
「勿論だ。可能な限り早く出て行く」
 別にそんなに急がなくてもいいけど――と、真希は口を尖らせ、そしてはたと慌てて話題を切り替えた。
「そうだ、ねえ……往人」
「何だ?」
「さっきの留守電さ、最後……何言おうとしたの?」
「……はて?」
「はて? じゃないわよ! 惚けないで答えなさいよ」
「いや、本当に忘れた。そもそも俺どういう留守電入れてたっけ」
「……もういいわ! そこまで惚けるんなら、あたしも聞かなかった事にする」
 ぷいとそっぽを向いて、真希がやや早足になる。往人もその後を追おうかとして、止めて不意に空を見上げた。
 月が、綺麗だった。



 週末に簡単な身のまわりのものや、着替え。その他勉強道具などを真希の部屋に移して、奇妙な同居生活がスタートした。
「いーい、まず、家事は分担。但し洗濯は自分の分は自分ですること、これはいいわね?」
「異論はない。折角だから、後で揉めないように先に当番も決めとこうぜ。何曜日の朝の食事はどっちが作る、とか」
「そこまできっちりやらなくてもいいと思うけど……まぁ、往人がそうしたいなら」
 往人はノートの切れ端に簡単な表を作り、ジャンケンで順番を決めて交互に好きな曜日の好きな当番をとった。
「それから、お風呂なんかは当然あたしが優先ね。トイレもそう、特に往人はあたしの後は、最低十五分は換気扇全開にしてから使うこと!」
「そこまで細かく決めなくていいんじゃないか? 風呂は兎も角、トイレくらいいつ使ってもいいだろ」
「ダメに決まってるでしょうが! 守れないのなら同居は無しよ!」
「……解った、守る」
「よろしい。あとは……そうねえ、ベッドで寝る順番とかも決めておかなきゃ」
「そんなのは別に一緒に寝りゃいいだろ? 他に布団があるわけでもないし」
「何言ってるのよ! 毎日一緒に寝るだなんて冗談じゃないわ!」
「……真希がそこまで嫌がるなら、俺は別に畳の上でもいいけど」
「嫌っていうか……ほら、二人で寝ると狭いし……それに……」
「それに?」
「…………往人、絶対エッチなことしてくるでしょ?」
「絶対しない……とは誓えないな」
「だからダメ。そういう風にダラダラエッチするのって一番駄目だと思うの」
「まぁ、真希の言いたい事は解った。んじゃ寝るのは俺が畳の上で、真希がベッドって事で」
「いいの? それで。畳の上っていっても、寝心地は絶対良くないわよ?」
「どうしても寝苦しかったら、こっそりベッドに入って朝までには出るさ」
 往人はペンを手に、“決まり事”をノートの切れ端にメモしていく。他にも、毎日風呂の用意をするのは往人の仕事、二日に一度は昼食用の弁当を往人が用意する事、真希がバイトの日は帰って来るまでかならず起きて待っている事といった具合に、殆ど真希の我が儘としか思えないような取り決めも、居候する手前無碍には断れず、苦笑混じりに往人はメモをとっていく。
 その右手に、突然電撃が走った。
「痛っ……」
 鋭い痛みに、往人はペンを落としてしまった。
「……? どうしたの?」
「いや、何でもない……なんかいきなり手が痺れた」
「肘でもぶつけたんじゃないの?」
 真希の言うとおり、部屋は狭くテーブルを挟んで座ると往人はほぼ壁に背中をくっつけるような形になる。メモに夢中になってうっかり肘を壁にぶつけた可能性は否定できなかった。
(そういう痛みじゃなかったと思うんだが……)
 まだ痺れの残る右手の指を開いたり閉じたりしながら、はてなと往人は首を傾げた。

 当然の事ながら、“同居”の件については学校は元より友人連中全てに秘密にせねばならなかった。一番気を遣うのが登校時と下校時であり、これは意図的に教室に入る時間をずらしたり、はたまた帰る時間帯をずらしたりすることで一応の解決を見た。
 級友達の中には薄々気が付いた者達も居ただろうが、決して噂にまでなる事はなかった。或いは、それ以上に“面白い噂”を囁き合うのに執心していただけなのかもしれないが。
 同居生活そのものについても、最初はつまづきの連続だった。幾度と無く口論をし、つかみ合いの喧嘩にまで発展することもザラだった。しかし結局は真希が、或いは往人の方が己の非を認め、素直に謝罪することでその場は収まり、さらにその後の濃厚なセックスによって蟠りも全て消えるというサイクルができつつあった。
(ひょっとして、狙ってやってるんじゃないか)
 と、思いたくなるほどに、真希は時折言いがかりとしか思えないような難癖をつけてきて無理矢理喧嘩に発展させ、往人が本気で怒る一歩手前であっさりと謝り、その後はいつもの流れで――という事が何度もあった。そのパターンがあまりに多く、或いは“喧嘩の後のセックス”自体が目的で難癖をつけてきているのではと、危ぶみたくなる程だった。
 真希と多恵や他のクラスメイトとの関係も概ね良好と言えた。昼休みにはよく一緒に環を作って昼食をとり、学校帰りにもちょくちょく遊びに行ったりもしているらしかった。真希がそうやって多恵や他の女子達と遊ぶことに関しては往人としても文句はなく、むしろ奨励する所だった。
 しかし、その逆は真希がなかなか許してくれなかった。
『……本当に男友達?』
 学校帰りなどに級友の家に寄り、やや帰りが遅くなる時など気を利かせて真希に電話を入れると、決まって疑われた。挙げ句、電話を代わらされたりする事も多々あった。
「お前尻に敷かれてんのか?」
 と、何度級友達から失笑を買っただろうか。どうやら回りからは自分と真希は恋人同士かなにかに見えるらしいのだが、この事に関して往人は甚だ不満だった。
(……行きがかり上、一緒にいるだけだ)
 一人一人に詳しい経緯を説明してやりたかった。決して恋愛感情によるものなのではなく、実利や生活上の必要性などからやむなく同居をしてはいるものの、それ以上の関係では決してないと。
 ましてや尻に敷かれている等と思われるのは甚だ心外であり、あまりの邪推に反論する気力すら沸かなかった。
(……まぁ、悪い奴じゃないってのは認めるが)
 それ以上の好意を真希に対して懐く事は、往人の“魂”が許さなかった。

 そんなある日のことだった。
「今日は放課後ちょっと用事があるから先帰ってて」
 先に帰れも何も、そもそも意図的にバラバラに帰るようにするのが通例となっているのだから、真希さえ何も言わなければ往人は一人で勝手に帰っていた所だった。
「用事って何だ?」
「ちょっと、ね。いいじゃない、別に」
 無理矢理聞き出そうかとも思ったが、往人は追求しなかった。まだ十日足らずの同居生活だが、一つ解った事があった。
 それは同居をしているからこそ、互いのプライバシーは尊重しなければならないという事だった。
(……まぁ、俺にはそんなものは無いんだが)
 携帯は毎日チェックされ、友人と遊んでいる時でも二時間おきに電話がかかってきたりと、時折「俺はお前の“何”だ!」と声を張り上げたくなるのだが、そこはそこ、居候の弱みというものだった。
 真希の言うとおり一度は先に帰ろうとして、結局往人は待つ事にした。昇降口の傘立てに腰かけ、時折廊下を行き交う教師らから隠すようにしながらバイト情報誌などを読みふけり、待つこと一時間。
「何よ、待ってたの?」
「ん?」
 真希の声に、往人は情報誌から顔を上げた。
「あぁ、まぁ……何となく気になってな。……真希、頬……どうしたんだ?」
「んー……ちょっとね。女子と喧嘩してきたの。一発ぶたれたけど、あたしは三発ぶってやったからこっちの勝ち」
「……用って喧嘩だったのか!」
 いろいろ推測はしていたのだが、喧嘩という発想は無かった。そうだと予想がついていればそもそもこんな場所でのんびりと待っては居なかったのだが。
「なんでまた……」
「まぁいいじゃない。帰ろっ」
 真希に腕を引かれ、往人は情報誌を慌てて鞄にしまい、昇降口を後にする。
「……本当は、あたしが口出すような問題じゃないって気もしたんだけど、なんだか我慢出来無くなっちゃって」
 学校の敷地を出た辺りで、不意に真希が漏らした。
「梶さん……だっけ。あの人と会ってたの」
「……千晴と?」
 どぎんっ――と、心臓が大きく揺れた。
「なんで――」
「だから言ったでしょ。我慢できなくなったって」
「いや、だから何がどう我慢出来なかったんだ?」
「……“噂”」
 その単語一つで、往人には真希の言わんとする所のおおよその見当がついた。
「今、みんな噂してるじゃない。あの子の事……」
「…………。」
 往人は返事に窮した。無論、皆が千晴の噂をしているという事は往人も知っている。問題はその内容だった。
(……誰とでも寝る……か)
 恐らくは、大々的に吹聴したのは津田の一味ではないかと往人は思う。兎に角、デートだろうがセックスだろうが、頼めば相手の美醜など一切関係ナシに二つ返事でOKする女だと――そのような噂が流れているのだ。
 そして、千晴をそのように変えたのは他ならぬ相場往人であるという事まで。
「最初はさ、あの子呼び出して、見苦しい真似はやめろって注意するだけのつもりだったのよ。あんたが好きにして自分の評判落とす分には構わないけど、往人の悪口まで言うのは止して、って」
「……そりゃあ」
 今の千晴にそんな事を――しかも真希が言えば、結果はどうなるか火を見るよりも明らかだった。
「向こうもあたしの事知ってたみたいでさ、そりゃーもー耳が痛くなるようなキンキンした声でまくし立てられたわ。やれ泥棒猫だのなんだのって。向こうが一息ついた時に倍言い返してやろうと身構えてたらいつまでたっても止まらないから、先に手が出ちゃった」
 ぺろりと真希は舌を出し、たった今千晴の頬を張ってきたかのように右手をぶらぶらさせる。
「そしたら今度は泣きながら怒鳴り返されたわ。その内容がまた幼稚でさ、鼻で笑っちゃうような話なのよ。あんたなんかに何が解るの、私と往人は幼稚園の頃からの付き合いだのなんだのって。それでまた頭きたから、ひっぱたいちゃった」
「……もうちょっと口と頭を使えよ」
 としか、往人には言えなかった。
「言っても無駄な感じがしたのよ。結局さ、あの子はまだ往人の事が大好きで未練タラタラで、往人の興味を引きたくて気に掛けて欲しくて、それであんな手段しかとれなかったわけ。そんなバカな自分に薄々気付いてるくせに意地はっちゃって捨て鉢になったフリしてるお子様なのよ」
「お子様……ね」
「まーその辺の事をズバリ面と向かって言ってやったのよ。あんたがそんなお子様だからあたしなんかに彼氏寝取られるのよーって。そしたらこれよ」
 と、真希が自分の頬を指さす。
「頭に来たからすぐに殴り返してやったけど」
「どんだけ短気なんだよ…………ていうかちょっと待て。今さらりととんでもない事を言わなかったか?」
 あまりにも真希が当たり前の様に言った為、往人は危うく聞き逃す所だった。
「お前が寝取ったって……言っとくけどな、俺が千晴と別れたのは、お前とヤる前だからな!?」
「まーまー、その辺はモノの弾みっていうか、あの子をきっちり諦めさせる為の方便って事でいいじゃない」
 よくない、と言いたいのは山々だったが、往人はあえて黙ることにした。言い方は粗雑でやり口も乱暴極まりないが、ようは真希もまた千晴の為を思ってやった事だからだ。
「ていうか、本当はあんたの役目でしょうが! なんであたしが同居人の女づきあいの不始末の尻ぬぐいまでしてやんなきゃいけないのよ!」
「……別に頼んだわけじゃないんだが……礼は言っとく。ありがとう、真希」
 まだ、問題が解決したわけではない事は重々承知の上だった。しかし、これで多少なりとも千晴が“これから”の事を考えてくれれば――と、往人は甘いとは言われてもそういった観測を持ちたかった。
(……そうだよな、確かに、俺の役目だった)
 どれほど憎まれ、蔑まれても、きっちりとケジメをつけるべきだったのだ。そうすれば、或いは千晴もあそこまで捨て鉢にはならなかったかも知れない。
「……まぁ、あたしも影でいろいろ言われる辛さはよく解ってるからね」
 でも――と。真希はずいと、睨むようにして言葉を続ける。
「もしこれでこの先、あんたがあの子と寄りを戻したりなんかしたら、絶対許さないからね」
「…………何でだ?」
 当然の疑問を、往人は口にした。
「何よ、まさか本当に戻す気なの!?」
「いや、そんなつもりはない。つもりはないが、どうして寄りを戻したら真希が許さないんだ?」
「ど、どうして……って……」
 自分が言っている事の支離滅裂さに気づいたのか、あたふたと。真希がなにやら不思議な踊りでも踊るように手をばたつかせる。
「だ、だいたいあんたの女癖が悪いからこんな事になっちゃったんでしょうが! それなのにあっさり寄りを戻したりなんかしたら許さないって、そういう事よ!」
「なるほど、つまりあっさり元に戻るようでは俺も千晴も反省が足りない、と」
「そ、そう……それが言いたかったの!」
 ぷいと顔を背けて、真希が早足になる。往人はその背を追い、人目も憚らず抱きしめた。
「なっ、ちょ……」
「真希、帰ったらエッチしないか?」
 えっ――と、真希は呆気にとられたような声を上げる。
「今日はバイトもないだろ?」
「そ、そうだけど……」
「ならしよう」
 往人は真希を抱きしめている手を離すなり、今度は自分が早足に真希の腕を引くようにして家路を急いだ。まんざらでもない証拠に、真希もすぐに歩調を合わせてきた。


 部屋に入るなり、鍵も掛けずに往人は再び真希の体を抱きしめた。
「ちょっ、やだ……!」
 何ともおざなり気味な抵抗をする真希の体を両手でまさぐり、とくにその胸元の辺りを重点的に揉みほぐす。
「もうっ……するときはちゃんとシャワー浴びてからって決めたでしょ!」
「待てない。今日はすぐしたい気分なんだ」
「ダメ! ちゃんと先に……んぅ……」
 ブラウスのボタンを外し、ブラを上にずらすようにして直接乳を捏ねると、忽ち真希は色めいた声を上げた。
(……真希の弱い所なんて、全部解ってる)
 キスで口封じをするまでもない。こうして背後から抱きすくめ、直接乳を捏ねながら指先で先端を弄ってやるだけで真希が抵抗出来なくなることを、往人は経験で知っていた。
「やだ……往人の……お尻に当たってる……」
「言っただろ。帰ってすぐしたいって」
 怒張した分身を真希の尻にスリ当てるようにして強調し、いい加減真希の体から力が抜けてきた所で往人はひょいとその体を抱え上げた。
「……もうっ……バカ……」
 ベッドに体を運ばれるまでの間、真希は照れくさそうに顔を背けていた。往人は居間へと入るなり真希の体をベッドに横たえ、その上に被さった。
 その時だった。
「ぐがッ……ァ……」
「往人……?」
 真希のたわわな乳へと手を這わせ、むんずと握りしめた瞬間、右手に凄まじい激痛が走った。それも一度ではなく、二度、三度と絶え間なく何度も続いた。
「ぁっ、ぁぐッ……ぁぁぁぁッ……」
 まるで、腕の中で猛毒を持ったムカデかなにかがはい回っているかの様だった。往人は脂汗を流しながら痛みに耐え続ける。
「どうしたの、往人、ねえ!」
 真希の声が、ひどく遠くに聞こえた。すさまじい痛みは一分ほど続き、やがて次第に収まってきた。はあ、はあと呼吸を整えながら、恐る恐る右手の指を動かしてみた。多少の痺れは残っていたが、痛み自体は完全に治まっていた。
「……悪い、真希。なんか……右手がすっげぇ痛み出して……今はもうどうも無いんだが」
「右手が……? ……――ッ……!」
 怪訝そうな声を出して往人の右手を見るなり、真希がいきなり顔を引きつらせた。
「真希……?」
「なによ、なんともなってないじゃない!」
 何故かぽかりと、往人は軽く頭を叩かれた。
「顔真っ青にしてるから何事かと思ったじゃないの!」
「いや、でも本当にすげー痛かったんだ。見ろよこの脂汗」
「……腱鞘炎じゃないの? 往人ってほら、いっつもむぎゅむぎゅって、力任せにおっぱい触るじゃない。そのせいよ」
「腱鞘炎……ってあんなに痛むものなのか?」
 漫画家などが職業病として抱えて苦しむものだという知識はあるが、あれほどまでに凄まじい痛みなのだろうか。
「……しばらくエッチは禁止したほうが良さそうね」
「なぬ!?」
「だって、また痛み出すかもしれないでしょ?」
「そりゃそうだが…………」
 ちらり、と往人は自らの股間へと目をやる。あれほどの凄まじい痛みの中でも、まるで別の生き物のように屹立しきっているそれは、どうみてもこのままでは収まりそうにない。
「とにかく、エッチは禁止! しばらく様子見てそれでも痛むようなら病院で診て貰ったほうがいいかもね」
「いや、俺としてはとりあえず痛んでもいいから続きを……」
「だーめ! 触らせない!」
 いつものようになし崩しにエッチに持ち込もうと延ばした手が、無慈悲に打ち払われる。どうやら真希の意志は相当に固いらしかった。
(……仕方ない、か)
 真希がそこまで嫌だというのならば、往人としても強行するわけにはいかなかった。



 夜。
 風呂も夕飯も済み、後は寝るだけという段階になると、途端に手持ちぶさたになった。
「なぁ、真希。やっぱりテレビくらい買わないか?」
「どこに置くのよそんなもの。これ以上狭くなったらテーブルも置けなくなっちゃうじゃない」
「まぁそうなんだが……」
 四畳半の居間にベッドや勉強机、そして食事用のテーブルを置いてしまえば最早テレビを置くようなスペースは残らない。今までは夕食も風呂も済んだ後は日によって真希の大好きな夜の散歩をしたり、はたまたベッドの上でイチャイチャしたりとさして気にもならなかったのだが、その片方を封じられてしまうと往人は途端にやることが無くなった。
「真希、やっぱりちょっとだけ――」
 と、往人は部屋着であるTシャツ&スパッツに着替えている真希の太股に手を伸ばすが、ぺしりと打ち払われた。
「ダメって言ったでしょ」
「じゃあ見るだけ」
「だーめ! 一日くらい我慢して安静にしてなさい」
 めっ、と叱りつけるような口調で言われて、往人ははたと思い出した。普段はさも同級生かのように付き合ってはいるが、一応真希は年上なのだという事を。
「……わかった。んじゃもう今日は寝るか……外も雨だしな」
 夕方から降り出した雨が夜になっても止まず、今尚しとしとと降り続いていた。これではさすがに散歩というわけにもいかない。
「往人、今日はベッドを使う?」
「いやいい。なんだかんだで畳も慣れた」
 決して寝心地がいいとは言い難いが、慣れてしまえば眠れないこともないという程度の不便だった。夏場の内は掛け布団も必要なく、ただ腹だけは冷やさぬ様バスタオルを腹の上にかけて寝るのが往人の定番スタイルとなっていた。
「今日はあたしが下で寝るから、あんたが使いなさいよ」
「いやいいって。別に俺病気とかなわけじゃないし」
「いいから! 人の好意は素直に受ける!」
 最後には叱りつけられるようにして、往人はベッドに押しやられた。
(……なんだってんだ)
 真希の態度に些か腑に落ちないものを感じるも、ベッドで寝て良いと言われるのをあくまで畳がいいと突っぱね続けるのもバカらしく、往人は素直に横になる事にした。
「電気消すわよ」
「ああ」
 真希が蛍光灯の紐を引くや、室内が闇に包まれる。
(やれやれ……ちゃんと眠れるかな)
 お預けを食らった下半身は勃起こそ収まったものの、今尚熱を孕んだままだった。“これ”を如何に早く忘れるかが就寝の秘訣だな、等と思いながら往人は目を閉じ、羊の数を数え始めた。
 しとしとと、外からは雨雫の滴る音が絶え間なく聞こえてくる。さて、明日は晴れるかな――などと思いながら、往人が三百匹ほど羊を数えた時だった。
 不意に、すぐ側で衣擦れの音がした。
(……ん?)
 往人は目を開けたが、殆ど完全に闇となっている室内では視界はまったく利かない。ただ、気配で真希が体を起こしたというのだけは分かった。
「真希?」
 声をかけるも、返事はなかった。やがてぎしりと、ベッドの端が軋むような音がして、往人は反射的に壁の方へと寄った。黒い影がベッドに上がってきて、そのまま往人にしがみついてくる。
「……真希、どうした?」
 寝ぼけているのか?――真希の意図が分からず、往人も身動きがとれなかった。やがて、真希がぽつりと漏らした。
「ねえ、……口でしてあげよっか?」
「なぬ……?!」
 信じられない言葉を聞いて、往人はやはり真希は寝ぼけているのではないかと思った。
「どうしたんだ、急に……あんなに嫌だって言ってたろ?」
 事実、口での奉仕には相当なトラウマがあるらしい事は、直接真希の口から聞かないまでも往人は十分に感じ取っていた。何より、往人が“暴走”して無理矢理口でさせた時を除いては、ただの一度も真希はしてくれなかった。
「別に……なんとなく、してあげてもいいなって、思っただけ。……往人がして欲しくないなら止めるわ」
「いや、して欲しくない事はない。……けど、真希が嫌なのを無理に我慢してまでしてほしいとは思わないってだけだ」
「……本当に、心底嫌なら……自分からこんな事言い出さないわ」
 成る程、尤もな意見だと往人は思う。
「どうなの? 往人はしてほしいの?」
「そりゃ……まぁ、でも別に俺は普通のエッチでも……」
「それはダメ。……体に負担がかかるでしょ」
「いや、別に……ちょっとやそっと手が痛んだくらいで……っ……」
 言葉の途中で、真希がさわりとハーフズボンの上から股間を撫でつけてくる。お預けを食らいっぱなし立った分身はたったそれだけで、待ちわびたとばかりに屹立した。
「往人は動いちゃダメよ」
 釘を刺すように言って、真希はもぞもぞと往人の下半身の方へと体をずらしていく。往人は言われるままに仰向けのままじっと身じろぎ一つせずに真希の愛撫を待った。
「うおっ……」
 やがてハーフズボンのジッパーが下ろされ、剛直が解放された。それを真希の手が握り、れろりっ……と舌が這ってくる。
(これは……なかなか……っ……)
 目を開けても閉じてもほとんどかわらないような闇の中、自分が最も弱い場所を責められるというのはむず痒いようなえもいわれぬ快感があった。
(しかも、真希が……自分から……)
 いつぞやのように無理矢理やらせているわけではない。真希が自分から言い出して奉仕しているのだ。そのことが、往人に奇妙な興奮を覚えさせた。
「……どう? こんな感じでいい?」
「ああ……凄く良い。もっと、いろいろやってくれ」
 返事はなく、代わりにくぷっ……と先端から唇に飲み込まれるような感触が襲ってきた。
「うはぁ……」
 それは挿入にも似ているようで、しかし決定的に違う感触だった。れろ、れろと裏筋を舐めるようにされながらくぷ、くぷと音を立てて吸われ、真希の頭が前後するたびに往人は尻を持ち上げるようにして快感に堪えねばならなかった。
「真希……ヤバい……出そう……」
「もう?」
 くすりと、含み笑いを漏らされて往人は少しだけ傷ついた。
(言っとくけど、俺はずっとムラムラしっぱなしだったんだからな!?)
 と、心の中で弁解した。だから多少早いくらいは仕様がないのだと。
「どうしよっかなー、往人はすぐイかせて欲しい?」
「そりゃあ、まぁ……」
「じゃあ、“イかせて下さい”って言ってみて」
「なぬっ!?……くッ……」
 にゅり、にゅりと竿を扱くようにしながら、真希がさらに言葉を続ける。
「言ってくれなきゃ、イかせてあげない」
「っ……誰が……はうぅッ……!」
 ゾゾゾと根本から舌を這わされ、そのまま窄めた舌で先端を穿るように舐められて、往人は情けない声を上げてしまう。
「往人、ほら。……イきたいでしょ?」
「………………。」
 往人は、揺れた。二つの選択肢の狭間で――だ。
(いっそ、押し倒してやろうか)
 というのが一つの選択肢だった。自分に対してこのような真似をしたらどういう目に遭わされるのか体に覚え込ませてやれと胸の内で誰かが囁き続けていた。
(……それとも、真希の遊びに乗ってやるか)
 初めて自発的にフェラをしてくれようとしている真希に対し、大人げない真似をするよりは乗っかってやるべきかと、往人は思う。
「……イかせて――」
 とはいえ、それは矜持がある人間には容易に言える事ではない。往人は口籠もりながら、小声でさも仕方なそうに呟いた。
「……下さい」
「ちゃんと大きな声でもう一回」
「……っ!……うッ……!」
 真希の無慈悲な言葉に往人が声を荒げようとした矢先だった。ちゅっ、ちゅっ、と立て続けにと先端部が吸われた。
「う、そ。…………今回はそれで許してあげるわ」
「っ、このっ……あんときの仕返しかっ…………くはぁぁぁぁっ…………!」
 剛直が、一際深く飲み込まれる。先端に触れているのは喉だろうか。そのままぐぷ、ぐぷと音を立てながら激しく擦り上げられ、往人はたまらず背を反らせながら白濁を溢れさせた。
「んんっ……んっ……」
 真希は苦しげに呻き、白濁液を口に溜めたまま眉根を寄せる。
「だ、大丈夫か? 真希……ほら、はき出せ」
 往人はティッシュ箱を引き寄せ、ぼっしぼっしと五枚ほど束にして真希の方へと差し向けた。が、真希はそれを受け取らず、しばし唸るような声を上げた後ごくりと喉を鳴らした。
「んっぅ……やっぱり……変な味……」
「吐き出せって言っただろ。……無理して飲んだりしなくたっていい」
「いいのよ。あたしが……そうしたかったんだから」
 そんな筈はないだろう――往人のそんな思いは、口から出ることはなかった。
「……ごめん、往人。ちょっと口だけ濯がせて」
 真希は口元を抑えたまま、さも申し訳なさそうに早口で言って、足早に洗面台へと駆け込んだ。
 一人残された往人はいそいそと後始末と身支度などを整え、ごろりとベッドに横になった。程なく真希が戻ってきて、さも当然のようにベッドに潜り込んできてぴったりと身を寄せてきた。
「どう、往人。…………これで少しはぐっすり眠れる?」
「あ、あぁ……まあ、少しは……」
 実は、一端は収まったものの今こうして真希にしがみつかれたせいでまたしてもトランクスの下でギンギンだったりするのだが、往人にはそう答えるしかなかった。雰囲気的に「できればもう一回……」等とは死んでも言えなかった。
(……ていうか、今夜は一緒に寝るのか)
 もしや強引にベッドに寝かされたのは最初からこういう形に持ち込むつもりだったのではと、往人は今更ながらに思った。
「ねえ、往人」
「なんだ?」
「……………………なんでもない」
「言えよ。気になるだろ」
「なんでもないの」
 何でもない、と言いながら真希は一際強く抱きついてくる。
「真希、苦しい」
 窘めても、真希は抱擁を緩めなかった。往人はやむなく、そのまま眠るように努めた。



 翌日の授業中、またしても往人は不意の激痛に襲われた。
「がッ……」
 ペンを持つ右手に凄まじい痛みが走り、往人は悲鳴を上げそうになった口を咄嗟に押さえつける。
「…………ッ……!」
 右手が勝手に撥ねそうになるのを賢明に堪える。昨日と同じ、腕の中で猛毒のムカデがはい回っているような耐え難い激痛は一分ほど続き、そして徐々に和らいでいく。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
 顔中に脂汗を滲ませながら、往人は静かに呼吸を整える。痺れる右手をなんとか動かしてペンを握り、さも普通に授業を受けている風を取り繕う。
「……相場君? 具合でも悪いんですか?」
「いや、なんでもない」
 さすがに隣の多恵には何事かと思われたらしかったが、往人は平生を装った。ちらりと横目で斜め前の方の席を見ると、真希もまた往人の方を振り返っていた。

「また痛んだんでしょ」
 休み時間になるなり、珍しく真希の方から声をかけられた。
「…………病院、行ってみる?」
「……そうだな。家に保険証取りに戻らないとな」
 それがやや億劫ではある。弘樹は兎も角、唯には会わせる顔がない。
「……あたしも今日はちょっと帰りに寄りたい所があるから。別々に帰りましょ」
「そうだな。そうするか」

 放課後、往人は重い足を引きずるように実家へと帰った。幸い、唯とは顔を合わせることなく手早く保険証を手に往人は家を出た。
(はて、何科に行くべきだろうか)
 一応腱鞘炎の疑いがあるから整形外科かな――と思い、バスケ部在席時代に何度か世話になった病院へと往人は赴いた。医師に時折右手が激しく痛む旨を伝え、触診やレントゲン、はたまた採血までしてもらったがどこにも異常は見あたらないとの事だった。最も、血液検査に関してはもう少し日数をかけないと詳しいことは解らないらしいのだが、やはり何も異常は見あたらないのではないかと往人は薄々感じていた。
「おっ……?」
 帰り道、丁度目の前のバス停に止まったバスから見知った人影が降りてくるのを見つけて、往人は咄嗟に駆け寄った。
「奇遇だな、真希。どこ行ってたんだ?」
「往人……!?」
 真希はギョッと目を剥くなり、手に持っていた包みを慌てて体の後ろに隠す。
「ん? 何隠したんだ?」
「な、なんでもいいでしょ! ジロジロ見ないで!」
 往人はぐるぐると真希の回りを回るようにして品物を確認しようとするが、確認できたのは薬局の包みという事だけだった。
「わざわざバスにまで乗って生理用品でも買ってきたのか?」
「っっ……そうよ! いつも使ってるのが、近くの薬局に無かったから……」
「そっか。女は大変だな」
 なるほど、だから制服ではなく私服なのかと、往人は納得した。恐らく学校帰りに最寄りの薬局に寄り、見つからなかったから一度帰ってから改めて遠出したという事なのだろう。
「……往人の方はどうだったのよ。……原因、解ったの?」
「いや、異常は見あたらないってさ。間違いなく腱鞘炎じゃあないらしい」
「そう……」
 それきり、真希は口を開かなかった。往人もまた、黙ってその隣を歩いた。



 “決まり事”通りに往人は真希がバイトから帰ってくるのを起きて待ち、その後かなり遅めの夕食を軽く食べて就寝――という流れになった。どうやら昨夜同様セックスは禁止という事らしく、そのくせ真希はベッドで一緒に寝たがった。
「真希……これって結構な拷問だと思うんだが」
 ぴったりと体を密着するように添い寝されて、往人はたまらず声に出した。
「暑苦しい?」
「それも少しある。……けど、それ以上に……」
「昨日、口でしてあげたばかりじゃない」
「……あれっぽっちじゃ全然足りない。……ちゃんとシたい」
「だーめ。手の痛みが無くなるまでは、セックスは禁止!」
 その二つの事柄に関連性が見いだせない往人としては真希のその方針に甚だ異議を唱えたくなるのだった。
「…………また、どうしても我慢できなくなったら、口でしてあげるから。……兎に角セックスは禁止」
 そう言って、真希は息苦しいほどにしがみついてくる。そのまま往人の胸に顔を擦りつけながら目を閉じた。やむなく、往人もまた真希の背へと手を回し、眠るように努めた。

 激痛は、明け方にやってきた。
「……っっ……………………!?」
 まだ夢現だった往人は、そのあまりの痛みが一体何なのか分からないままベッドの中で悶え続ける。急速に意識が覚醒していく中、往人は右腕を押さえつけながら一つの事実に気が付いた。
(真希……?)
 傍らで寝ていた筈の真希の姿が何処にもないのだ。どくん、どくんと心臓の鼓動に合わせるように右腕が疼き、少しずつではあるが痛みが引いていくのを感じながら、往人は闇の中で真希の姿を捜した。
 最初は、寝返りでもうって畳におちてしまったのかと思った。しかしどう見てもそれらしい人影はない。既にカーテンの隙間からは仄かな朝日が差し込んでいて、それなりに視界に不自由はしないから、部屋の中に真希が居ない事は間違いなかった。
 往人はベッドから身を起こし、台所の方へと向かった。そして、すぐに疑問が氷解した。
(なんだ、トイレか)
 ドアの隙間から光が漏れているのを見るなり、往人は奇妙な安堵を得てベッドへと戻った。
 程なく真希も戻ってきてそしてまた息苦しい程に抱きしめられた。
(こらこら、俺はお前の抱きマクラじゃないぞ?)
 そう注意してやろうかとも思ったが、往人は我慢した。実は真希にそうされるのはそれほど嫌ではなかったからだ。


「ねえ往人。バカンスに行かない?」
「は……?」
 期末試験も終わり、夏休みも目前に迫ったある日、これまた珍しく真希に一緒に昼食でもどうかと誘われ――最近の真希は多恵達と一緒に食べるのが日課になっていた――懐かしくも屋上で二人パンを囓っていた矢先の事だった。
「ほら、もうすぐ夏休みじゃない。あたしいいとこ知ってるのよ。タダで泊まれて空気も美味しいくて最高の避暑地!」
「……悪いけど一人で行ってくれ。俺は新しいバイトを一刻も早く決めなきゃいけないんだ」
 つい先日決まったバイトは、“とある事故”のせいで三日と経たずに辞める事になってしまった。“期限”の方は刻一刻と迫ってくるというのに、肝心の資金のほうは遅々として溜まらないのだから、さすがの往人も焦りを覚えていた。
「バイトなんて夏休み終わってからでもいいじゃない。高二の夏は今しかないのよ!?」
「まあ、そうなんだけどな。いつまでも真希に世話になりっぱなしじゃ悪いし、早いところ金貯めて出て行かないとヒモになっちまいそうだしな」
 パンを囓りながら、往人は早速ぱらぱらとバイト情報誌をめくる。――それが、不意に往人の視界から消えた。
「あっ、こら! 何すんだよ!」
 真希は情報誌をかっさらうや否や、乱暴にびりびりと引き裂いた。
「バイト決めるのは後! だいたいあんた、そんな体でまともに働けると思ってるの?」
「…………痛みは大分マシになってきてる」
 往人は、咄嗟に真希から視線を逸らす。嘘だった。痛みは治るどころか、ますます酷く、激痛が走る間隔も徐々に短くなってきていた。
「嘘ばっかり。夜中に何度か起きて唸ってるの、あたしが知らないとでも思ってるの?」
「…………。」
「こないだのファミレスのバイトをクビになったのも、本当は“発作”のせいなんでしょ。あんたは黙ってれば解らないと思ったのかもしれないけど、あたしちゃんと電話して店長に聞いたんだから」
「……まるで俺の保護者みたいな口ぶりだな」
「保護者みたいなものでしょ。あんたは忘れてるかもしれないけど、一応あたしのほうが年上なんだからね」
「……じゃあ、バカンスに行けばこの手が治るのかよ」
 つい喧嘩腰な口調になってしまったのは、余裕の無さの表れだった。原因は解らず、ただただ症状だけが悪化していく中、さもお気楽に遊びに行こうという真希の無神経さが腹立たしくもあった。
「……治るかもしれないわ」
 しかし、真希の答えは往人の予想を遙かに上回るものだった。
「ネタバレしちゃうけど、最高の避暑地っていうのはあたしの爺ちゃん家なのよ。ド田舎の山の中の一軒家なんだけどさ。今はもう引退しちゃってるんだけど、元は超腕利きの鍼灸師で、都会の大きな病院でサジ投げられたような患者さんを治した事もあるくらい凄腕なんだから」
「この手が……針やお灸で治るっていうのか?」
「そんなの、試してみないと解らないじゃない。藁にも縋るってやつよ」
「……そうか、そうだな」
 往人は目を伏せ、真希から視線を逸らした。真希もそれ以上は何も言わなかった。



 “症状”は日増しに悪化していた。初めは右腕だけだった痛みが次第に他の場所へと伝播し、四肢や胴体まで痛むようになっていた。周期は不規則ではあるが、多いときは一日五回も全身を激痛が襲い、あまりの痛さに食事も満足にとれないという事が続いた。
 何より往人が辛かったのは、自分がそうなる様を真希に見られる事だった。一日の殆どを共に過ごしている以上、当然のように発作は真希の側に居る時に起こる。だが側に居たからといって何ができるわけでもない、
「痛くない、痛くない……」
 苦しむ往人の傍らで、真希は毎回泣きそうな声で呟きながら、必死に往人の右手をさすってくる。
「治れ、治れ……治れ……」
 発作の度に念を刷り込むかのように腕をさするその仕草が往人には激痛以上に辛く、見ていられなかった。
 次第に、往人は真希の祖父とやらの存在に縋るようになっていた。本当にこの痛みから解放されるのなら、お灸だろうが針だろうがいくらでも受けて立つと。そういった“希望”が無ければ、或いはあまりの激痛に発作的に刃物で首を掻き切ってしまったかもしれない。
「なぁ、真希……学校休んでその爺ちゃんの所行くっていうのはダメなのか?」
 真希にそう切り出したのは、一度や二度ではなかった。朝の登校前に発作が起き、両足が痺れて結局学校に行けない――という事も何度かあった。そういう事が続くくらいならば、いっそ学校を休んででも治療を受けに行くべきではないのかと往人は思ったのだ。
「そうね。都合がいいかどうか、爺ちゃんに聞いてみる」
 そして真希はかならずそう答え、その後電話をしてみたが今は都合が悪いみたいと言うのだった。
「でも、夏休みになったら大丈夫。ダメだって言われても、往人連れておしかけてやるんだから」
 そう言って、真希は殆ど柵だけのベランダに腰かけるようにして、願うような顔で夜空を見上げた。
 毎日、毎日。何かを待っているかのように、真希は夜空ばかりを見ていた。

 


「忘れ物はない? 片道だけで半日近くかかるんだから、途中で引き返したりとかは出来ないわよ?」
「大丈夫だ。着替えに、財布、携帯。全部持ってる」
「OK。んじゃ出発するわよ」
 ガラガラと、キャリーバッグを手に真希が勢いよく歩き出す。往人もまた着替え類を詰めたバッグを肩から提げ、真希の後に続いた。
 終業式の翌日、早速とばかりに往人は真希と共に真希の祖父の家へと向かう事になった。この旅行の為に真希も長期の休みをバイト先に申請し、結果それが通らず辞める事になってしまったのだが、これに関しては真希はあっけらかんとしていた。
「そんなの、帰ってきてから二人で一緒に新しい所捜せばいいじゃない」
 真希の言葉は、真希の祖父が往人の体を治せる事が前提となっているものだった。往人もそうであればいいと信じ、真希のしたいようにさせることにした。
 最寄り駅から下りの電車に乗り、十分ほど下った所でさらに特急に乗り換え、下り、乗り換えては下りと電車だけでかれこれ七時間は移動した。その間、二度ほど軽い発作が起きたが、座席に踞ったままなんとか声を押し殺して堪えた。
 真希に連れられ、駅員も居ないようなさびれた駅で降りた後、路線バスを乗り継ぎながら山道を登る事一時間。最後に降りた山の中のバス停の時刻表にはたった一つの時刻しか載っていなかった。
 夕日が差す中、そこからさらに舗装された道路を一時間歩き、舗装されていない獣道を三十分ほど歩いて漸く、民家らしいものが見えてきた。
(……やっとついた……)
 これまた見事なかやぶき屋根の日本家屋であり、傍目からはとても真希が言うような凄腕の鍼灸師の住処には見えなかった。
(……どんな家でもいい……早く、座って楽になりたい)
 我ながら、体がすっかり衰えたものだと思う。たかだか半日、それも殆どは電車やバスに揺られていただけだというのに、もう足が棒のようになってしまっていた。
「あっ、爺ちゃん! 来たよー!」
 家へと大分近づいたとき、真希が黄色い声を上げて手を振った。視線の先へと目をやると、猟師のような格好をしたごま塩頭の老人が縁側でなにやら作業をしていた。
「……真希か。よう来たな」
 老人はちらりと顔を上げるや、にこりともせずに言う。そしてそのままその両目は往人へと向けられた。
「ああ、こっちは友達の相場往人。ほら、電話で話したでしょ?」
「ふむ……。確かに具合悪そうやな。まぁ、ゆっくりしていけや」
 老人はぶすっとした顔で言って立ち上がるや、母屋の脇に建っている小屋の方へと歩いていく。
「とりあえず、荷物置きましょ」
「ああ、そうだな」
 真希に連れられて家の中へと入り、その一室に荷物を置くや往人は座り込んでしまった。
(あの爺さんが凄腕の鍼灸師……か)
 一見しただけではとてもそうは見えなかった。まだ家の中を全てみたわけではないが、今居る和室――恐らく寝室――も途中通った板張りの囲炉裏のある部屋にも、どこにもそれらしい器具は見あたらなかった。
「なぁ、真希――」
 疲労困憊の往人とは別に、てきぱきとなにやら動き回っている真希に尋ねてみようと声をかけるが、それよりも遙かに大きな「真希っ!」という声に呼ばれて真希は縁側へと駆けだしていった。
「なーに、爺ちゃん」
「俺はちょっと街の方に用がある。家は好きに使え」
 往人が這うようにして囲炉裏のある居間まで行くと、縁側の向こうにタンデムシートの単車に跨った先ほどの老人の姿があった。
「それからな、いつもの所に牡丹がある。食わせてやれ、精が付く」
「うん、解った。行ってらっしゃい」
 真希が手を振ると、老人は爆音を立てて走り去っていった。後にはぽかんと、状況を飲み込めない往人だけが残された。
「真希……爺さん行っちまったぞ」
「ああ、爺ちゃん今ね、街のスナックの女の子にゾッコンらしいの。だからまた口説きに行ったんじゃないかな」
「いや、そんな事を聞いてるんじゃなくて……治療は……」
「ああ……」
 まるで忘れていた、とでも言うかのように、真希がぽんと手を叩く。
「大丈夫よ。多分明日には帰って来るわ。……今夜はとりあえずゆっくりして旅の疲れを抜きましょ」
 今夜は牡丹鍋よ!――今にもヨダレを垂らしそうな顔でノリノリに言われ、往人としては渋々真希の意見に同意するより他になかった。


「牡丹って、猪肉の事だったんだな」
「何よ。そんな事も知らなかったの?」
 囲炉裏を挟むようにして――というよりは、殆ど並んでいるような位置取りだが――真希と鍋を突きながら、往人は初めて食べる猪肉の旨さに軽い感動を覚えていた。
(そりゃあ……いつでも食えるように飼ってやろうって、昔の人が思うわけだ)
 豚肉とはまた一風変わった癖があるが、それが決して不快ではなく、むしろ野趣溢れる味として食欲を増進させるのだ。
「今は夏だからねー、冬場はもっと脂がのってて美味しいのよ」
「ていうか、なんか色々野草とかも入ってるみたいだけど、これ全部ちゃんと食えるのか?」
「あったり前でしょ? 肉ばっかり食べてないで根野菜もしっかり食べなさい。栄養があるんだから」
「……そう言う割には、真希の椀には肉しか入ってないように見えるんだが」
「あたしはいいの! 半病人のあんたと違って育ち盛りなんだから。兎に角タンパク質とらなきゃ!」
 おいおい、それ以上どこを育てる気だと往人は突っ込みそうになる。
「……しかし意外だな。真希って結構料理できるんだな」
 一月近く同居はしたが、あまり手の込んだ料理など見なかっただけに、真希の意外な手腕に往人は素直に驚いていた。
「……別に猪鍋なんて、鍋に水と野菜と肉放り込んでアク取りながら煮て味噌いれちゃえばそれで終わりだもの。爺ちゃんだったらきちんとダシとったり、コンニャクを下ゆでしてアク抜きしたりするんだろうけど」
「面倒くさいから真希はしなかった、と。……でもまあ、十分過ぎるくらいに美味いな」
「うん。…………往人もちゃんと食べられるみたいだから、本当に爺ちゃんに感謝しなきゃ」
「……確かにな」
 ここしばらくまともに食欲が湧かず、半ば無理矢理のようにして栄養のあるものを摂取し続けてきた往人としては、本当に久しぶりの“食事”だった。
「ここに来てから、なんか具合もいいし。…………ひょっとしたら、本当に治るかもしれないな」
「……ここは近いしね。そのせいかしら」
「近い?」
「………………自然に、って事。…………ここなら、ひょっとしたら往人も……………………ううん、やっぱりきっとすぐに誤魔化しが効かなくなっちゃうんだろうな」
「……真希?」
「…………ほら往人、ぶつくさ言わずにさっさと食べる! ぼやぼやしてたらお肉全部あたしが食べちゃうわよ?」
 言うが早いか、真希は鍋の中から肉ばかりをお椀にとり、がつがつと食べ始める。往人もまた負けじと椀に取り、がっつくようにしてその日の夕食は終わった。


 真希の祖父の家は意外にも水道と電気は通っていて――但しコンセントは一つしかなかったが――風呂は薪を使っての五右衛門風呂でトイレもくみ取り式である事を除けば、なかなかに過ごしやすい家だった。
(何より、涼しい)
 和室に布団を敷き、蚊帳を張りながら、往人は夜風の涼しさに呆れる思いだった。その分きっと冬場の寒さは凄まじいのだろうな、と愚にも付かない事を考えながら、程なく蚊帳の展開を終え、往人は滑り込むようにしてその中へと退避した。
 しばらくして、簡単な戸締まりなどを終えた真希も蚊取り線香を手に寝室へと戻ってきた。
「っ……真希、その格好は……」
「あ、これ? いいでしょー! 死んだ婆ちゃんが昔使ってた浴衣勝手に借りちゃった」
 桃色の浴衣姿の真希は、それはそれは色っぽく見えた。しかしそのことよりも何よりも和服姿の真希に、往人の胸は奇妙な程にときめいた。
「往人……今ごくんって生唾飲まなかった?」
「なっ、飲むわけないだろ! 浴衣楽そうでいいなぁ、って思っただけだ!」
「なんなら往人も着る? 多分捜せばどっかに爺ちゃんのがあると思うけど」
「いやいい。……今日は疲れたからもう寝る」
 浴衣姿の真希を見ていると動悸が止まらなくて、往人は逃げるように視線をそらせて申しわけ程度の掛け布団を被った。
(…………あんな、今にも零れそうな乳……見せられたら……っっ……)
 帯の上に載る、とでも言えばいいのだろうか。発作のせいで久しく忘れていた性欲がむらむらと途方もなく突き上げてくるのを感じる。
(だめだ……なんでこんなに……胸が苦しいんだ……)
 “零れそうな乳”のせいだけではないのは明白だった。何より、“浴衣姿”の真希が瞼の裏に焼き付いて離れず、どうしようもなく胸がドキドキした。
「ねえ往人、どうしたの?」
 いつの間にか蚊帳の内側へと入り込んだ真希が、ずいと両乳を横になっている往人の腕の上に乗せるようにして声をかけてくる。
「ひょっとして、また痛むの?」
「い、いや……痛くはない……」
「じゃあほら、そんなにすぐ寝ちゃわないで話とかしようよ。今なら具合もいいんでしょ?」
「いや、でも……」
 往人の声は掠れていた。だめだ、今はとても真希と顔を合わせる事などできない。もし合わせてしまったら――
「ほーら、ちゃんとこっち向いて!」
 肩口を掴まれ、強引に仰向けにさせられる。自然と、被さるような位置取りの真希と目が合った。
「………………。」
「………………。」
 言葉がなかった。
 往人は真希を見て、真希は往人を見た。
 そして、どちらが先――でもなかった。
「……んっ……」
 ただ、そうなるのが当然のように、唇が重なった。


「……久しぶりに、する?」
 短いキスが終わるなり、真希が照れるように言った。
「いいのか?」
 元はと言えば、真希が断固として嫌がるから途絶えていた事なのだ。真希さえその気なら、そもそも往人には異論は無かった。
「……うん。……今日はなんだか、すごく……したいの」
 猪肉のせいかしら――真希はそう言うなり、ふっと体から力を抜き、仰向けになった。入れ替わりに往人が被さるように上になる。
「……っ……!」
「どうしたの?」
「いや……真希の浴衣姿が……なんていうか……」
 エロいと言うべきか、似合ってると言うべきか、往人は迷った。
「往人って……ひょっとして和服フェチ?」
 そうかもしれないと、往人は思った。同時に、真希以外の女性が――例えば千晴が同じように浴衣姿になっても、はたしてこれほどに胸がときめくだろうかという疑問もあった。
(……真希だけな気がする)
 しかし、それは口には出さなかった。代わりに、胸元からするりと手を忍ばせ、久方ぶりの巨乳の感触を堪能した。
「んぅ……もう、往人っていっつもそれね」
「仕方ないだろ。……一番目立つ所なんだから」
 それに、真希もよく感じる場所なのだから、最初に触る場所として間違いではないと往人は思う。
「んっ……んっ……ぁっ……はぁっ……」
 胸元を割開き、両手を使って乳を捏ねる。白い塊が微かな月明かりの下で自由自在に形を変えるその様はどこか神々しくすら思えた。
「やだっ……ぁんっ……久しぶり、だから……凄くっ……ぅんッ……」
「感じる?」
 早くも肌を上気させながら、真希はこくりと頷いた。
「俺も、真希の胸触るのすげぇ久々だから…………興奮する」
 むぎゅ、むぎゅと捏ねながら、往人は眼下の二つの塊の間に頬ずりをするように顔を埋める。柔肌の感触がたまらなく心地よく、ピンピンにそそり立った先端に頬を擦りつけるようにして、そのまま口に含んだ。
「ぁっ……! やっ……」
 びくんと、真希は微かに背を反らす。往人は右手でむぎゅむぎゅと捏ねながら、まるで母乳でも吸うかのようにちうう、と強烈に吸い上げ、舌先で押しつぶすように先端を弄る。
「あぁンっ! ぁ、ぁっ、ぁっ……だめっ、やっ……ぁっ……そんっ……吸っ……ぁあァ……!」
 かり、かりと往人の後ろ髪を掻きながら、真希が悶える。往人は逆側の乳も同じようにたっぷりとねぶってやり、さんざんに真希に声を上げさせてやった。
(俺がどれだけこの乳に触りたかったのか、思い知れ!)
 そう言外に含めるように、往人は特に執着して真希の乳を嬲る。
「ね、ねぇ……往人……そのまま……」
「うん?」
「その、ね……口で……シて……?」
 真希の言わんとする所を察して、往人は下着を脱がせながら、徐々に体を下方へとずらしていく。
「んっ…………ぁっ……ぁアッ……!」
 真希の足を開かせ、早くもたっぷりと蜜を蓄えているそこを指で割開き、唇をつける。鼻腔を擽る女の香りと味に、往人自身興奮を禁じ得ない。
「ぁあっ……ぁンっ……やだ……すごく、感じる……溢れちゃう……!」
 真希は悶え、往人の髪を掻きむしりながら身をよじる。勿論往人は、どうすれば真希がもっとも感じ、たまらなくなるのかは百も承知だった。その上で、あえてその最良の手法はとらず、徐々に真希が“もどかしい”と感じる程度にまで舌と指の動きを弱めていく。
「ぁぁっ……いや、いやッ……意地悪、しないでぇ……」
「だったら真希……俺のも……」
 それ以上の言葉は不要だった。今度は逆に往人が布団に寝そべる形になり、真希はその頭を跨ぐようにして逆向きに被さった。
「んくっ……んむっ……んんっ……!」
 かつてあれほど難色を示していたとは信じがたいほどに、文字通りしゃぶりつくといった勢いで真希が剛直に食らいつく。唇と、舌が絡んでくる感触に思わず往人は背を仰け反らせるようにして呻き声を上げ、そしてすぐに自らも真希の尻を掴むようにして引き寄せ、滴らんばかりに蜜を蓄えたその場所へと唇を付ける。
「ンンンンッ!!」
 剛直を咥えたまま、真希が噎ぶ。そしてお返しとばかりに剛直に吸い付き、舐め、しゃぶり、舌を細めては穿るようにして鈴口を刺激してくる。往人はまたしても情けない声を上げかけるもなんとか我慢し、真希が最も弱い場所へと復讐を試みる。
 もちろんイかせはしない。そうさせない程度に時折愛撫を加減し、焦らす。それは真希も同様だった。往人が射精間近であると察すや、とたんに唇を離してしまい、にゅりにゅりと唾液を絡めた手でやさしく扱くだけに留め、焦らしてくる。
 挿れたい、或いは欲しい――先にそれを口にしたほうが負け。暗黙のうちにそんなルールが出来上がってしまっていた。往人は真希に先に音を上げさせるべく努力をし、真希もまた負けじと往人に脂汗をかかせた。
 結局、先に我慢ができなくなったのは真希の方だった。
「だめ……もう、降参……おかしくなりそう……」
 糸を引きながら剛直から唇を離し、真希が堪りかねた口調で言う。
「往人の……欲しい……」
 真希の言葉に、往人もまたほっと安堵の息を吐いた。真希の猛攻に耐える為に数え続けた素数がそろそろ五桁に達そうとしていて、気力も忍耐力もそして暗算力も限界に近かったのだ。
「じゃあ、真希の負けでいいんだな?」
 往人は精一杯余裕の笑みを浮かべ、真希の下から脱すや、再び組み敷くようにして上をとる。そして、いつものように避妊具を使おうとしてはたと気が付いた。
(しまった、ここは真希の部屋じゃない……)
 当然、避妊具などはない。旅行の準備をする際にも、完全に失念していた。当然だ、具合が良くなるまでセックスは無し!と真希に言われてからというもの、日に日に容態は悪くなり、次第に往人自身それどころでは無くなったからだ。
 まさか、旅行先でここまで体調が回復するとは夢にも思わず、もしそうだと解っていればいつもより多めの量を用意していた所なのだが。
「……いいよ。つけずに……シて」
「……いいのか?」
 真希と生でシたのは、成り行きでヤッてしまった初回と、“あの時”だけだった。千晴同様、真希も意外と避妊には厳格で、たとえ最後は外に出すからと往人が懇願しても決して生ではヤらせてくれなかった。
「今日、大丈夫な日だし…………それに、私も……直接往人を感じたいの」
 何より、これ以上我慢なんて出来ない、と。真希は往人から視線を逸らし、まるで独り言のように付け加えた。
「そういう事なら……」
 往人としても異論はない。まさか生でさせてもらえるとは夢にも思っていなかっただけに、この土壇場で鼻血が出そうな程に興奮が高まる。
(っ……生、か……)
 剛直を秘部へと宛いながら、往人はごくりと生唾を飲んだ。一瞬、今挿れたら長くはもたないのではないか――そんな危惧が沸き、往人は俄に躊躇った。
(……かまう、ものか……)
 早いと言われようが構わない。一刻も早く真希の感触を味わいたくて、往人はぐいと腰を押し出した。
「ンぁッ!……やっ…………ぁぁぁぁぁあッ!」
 悲鳴のような声を、真希があげた。往人もまた、先端部が粘膜をかき分けていくその感触に情けない声を漏らしそうになる。
「だめっ、やっ……待っ……っ……ひぅッ……〜〜〜〜〜ッッ!!」
 とんっ、と先端が奥を小突いた瞬間、不意に真希が声にならない声を上げた。ぎゅううっ、と敷き布団を握りしめながら身を強張らせ、その下半身はひくひくと痙攣するように揺れる。
「ッ……真希っ……!?」
 きゅきゅきゅっ……!――剛直をこれでもかと締め付けられながら、往人は歯を食いしばって快感に堪えた。
「〜〜〜っっ!!……はぁっ…………はぁっ…………はぁっ…………」
 “痙攣”が終わるや、真希はくたぁと脱力し、大きな胸を揺らしながらぜえぜえと呼吸を整える。何が起きたのかは、言わずもがなだった。
「……真希、不意打ちは無しだ」
「っ……バカッ……あんたが……散々焦らしたからでしょ!」
 それに――と、真希が小声で続ける。
「……“生”でするとこんなに違うなんて……思わなかったし……」
 “前”の時とは全然違うと、真希は顔を赤らめながら呟く。
「なんだ、真希も生の方が良かったのか。…………だったら、もう少しさせてくれればよかったのに」
「……子供が出来たらどうするのよ。責任なんて取れないでしょ」
「そりゃあ、な。……じゃあやっぱり止めるか?」
 避妊具をつけないセックスは、例え最後に外に出したとしても妊娠の危険が付きまとう事には代わりはない。避妊を真剣に考えるならば、例え安全日といえどもきっちり避妊をするべきなのだ。
「……今日は、いいの。……大丈夫だから、最後まで……して」
「……わかった」
 往人は改めて体を起こし、ずんっ……と突き上げる。
「ぅんっ! ぁ……あんっ……ぁっ、ぁっ、ぁっ……ぁっ……!」
 そのままずん、ずんと抽送を開始すると、忽ち腰の回りが熱くなってくる。
(う、ぁ……真希のナカ……たまんねっ…………もう、出ちまいそうだ……)
 とろとろの蜜を潤滑油とした粘膜との摩擦に、少しでも気を抜けば忽ち子種を放ってしまいそうで、往人は歯を食いしばりながら腰を使わねばならなかった。それでなくとも眼下でたゆたゆと揺れる巨乳がこれでもかと興奮をかき立て、そしてそれ以上に――。
「真希……すっげぇエロい顔してる……」
「っっ……バカ……ジロジロ見るんじゃないわよ……んっ……あっ、あんっ……!」
 頬を上気させ、はあはあぜえぜえ――荒い吐息の合間に甘い声を漏らす真希の姿に、往人は忽ち限界を迎えた。
「……っ……真希、頼みがある……」
 “暴発”してしまわないように、往人は腰の動きを弱めながら切り出した。
「このまま……中で、出したい……」
「中で……?」
 真希はとろけたような声で、オウム返しに呟いた。そして、くすりと微笑んだ。
「……いいわ。…………受け止めてあげる」
「っ……真希……!」
 往人は感極まったように真希を抱きしめ、そしてそのまま強く突き上げた。
「やっ……ぁっ、あんっ! はぁはぁ……んっ! ぁっ、あぁっ、ぁっ、あぁっ、あッ!!!」
 耳のすぐ横で真希が声を上げるのを聞きながら、往人はグンと一際深く剛直を突き入れ、そのままグリグリと先端を擦りつけるようにして――果てる。
「ァッ、ァ、ァっ……だ、抱いて……強くっ……んんっ……ぁっ、ぁっ……あァァーーーーーーッ!!!」
 くっ、と背中に爪を立てられるのを感じながら、往人は言われるままに強く抱きしめ、どぷ、どぷと夥しい量の白濁を真希の体へと注ぎ込む。
(く……はぁ……す、げぇ……出る……)
 体の中身がドロドロに溶けてそのまま飛び出しているのではないかと思いたくなるほどに大量の射精がこれでもかと長く続いた。真希の膣が絞るように収縮してくるのも、拍車をかけた。
「ば、か……出し過ぎ、よ……こんなに……沢山……んぅ……」
 ぜぇ、ぜぇと肩で息をしながら、真希が憎まれ口を叩いた。
「……真希がエロい声出すのが悪い」
「ひ、人のせいに……ンッ……」
 言葉は無粋、とばかりに往人は真希の唇を奪った。てろ、てろと舌を絡め合わせながら、腰を使い、こちゅ、こちゅと奥を刺激すると、たちまち真希が喉奥で噎び出した。
「ンンッ……んっ、んんっ!!!」
 逃げようとするかのように暴れる真希の体を押さえつけ、往人は何度も、何度も白濁液を塗りつけるように腰をくねらせる。考えての行動ではなかった、そうするのが当然だと、無意識的に往人は動いた。
「ンッ……ンンッ……ンーーーーーーーーーッ!!!」
 ぶるり、と真希が身を震わせるなり、またキュキュキュっ……と剛直が締め付けられる。その痙攣が収まるまで、往人は優しくキスを続け、腰もやんわりとだけ動かし続ける。
「っ……はぁ…………ばか、ぁ……なんてこと、すんのよぉ……」
 唇を離すなり、真希が両目を潤ませたまま文句を言ってきた。
「……でも、良かっただろ?」
「…………知らない」
 真希がぷいとそっぽを向く。その耳に向けて、往人はそっと唇を近づけた。
「真希、後ろからシたい」
「…………ばか」
 それは承諾の言葉だと、往人は理解することにした。



「……あたし、後ろからされるの……あまり好きじゃない」
 四つんばいになりながら、真希はぽつりと漏らした。
「どうして?」
「…………なんか、ゾワゾワって変な感じするし……それに、キスもしにくいし」
「あれ、キスは嫌なんじゃなかったっけか」
 既に、何度も交わした後なのだが、往人は態と惚けてみせた。
「……いいのよ、もう」
 真希はぷいと往人から視線を逸らした。
「……動かない所まできちゃったら、関係ないわ」
 なんのこっちゃ、と思いながら、往人はにじりにじりと真希の尻に近づき、剛直を宛い、一気に貫いた。
「ンンン……! ……ぁっ……ほらっ、やっぱりぃ…………ゾワゾワって……来るっぅ……」
「それって、気持ちいいって事だろ?」
 経験から、往人はそうだと見抜いていた。現に、真希の腰のくびれを掴み、尻に腰をうちつけるようにして突いてやると――。
「あァン! あんっ!……アァァッ……っ……ぅ……はぁはぁ……やっ、往人……ちょっ……早っ……ぁぁぁあッ!!」
「悪い。真希が好きじゃなくても……俺は、後ろからするのすげえ好きなんだ。……なんか、真希を無理矢理犯してるみたいで……凄く、興奮する」
「な、何よ、それぇ……犯す、って……ァァッ! ひっ……んっ……だめっ、だめっ……やっぱり後ろからするのだめぇッ……こんなっ、こんなの続けられたら……あたしっ……」
「すぐイッちゃう……か?」
 真希の全身の反応から察しをつけて、動きをやや緩めながら往人は被さるようにして、むっぎゅむぎゅと両乳をこね回す。
(そう、これがまた……たまらん……!)
 腰を使いながらむぎゅむぎゅと乳をこね回すと、真希がか細い声を上げてキュゥゥと締め付けてくる。それが堪らなくて、往人は収縮した膣をこじ開けるように何度も何度も小突き、真希に声を上げさせた。
「はぁっ……ぁあんっ! ンッ……んぅっ! はぁっ、ひぃっ……生っ……やぁっ……いつもと、全然っ……違うっ……だめっ……も、イく……イきそ……やぁぁ……」
「いいぞ、好きなだけ、イけ……真希」
 真希をイかせようと、往人はぐりぐりと腰を使うが、真希はかぶりを振って拒絶した。
「いやっ……いやいやっ……一緒がいい……往人と一緒がいいのっ……一緒に、イきたいの……!」
「……一緒に、か……じゃあ真希、もう少し我慢出来るか?」
 我慢出来るか?――と尋ねながら、その実我慢させる気など更々無く、往人は真希の顎へと手を沿えて無理矢理後ろを向かせるようにして口づけをした。
「んんっ……んん!」
 たっぷり舌を絡めていい加減真希の目がトロトロになった所で唇を離し、往人は再び真希の腰を掴み、乱暴に突き上げた。
「あぁぁあンッ! ぁぁっっぁっ、ぁっ、ひぅっ……ひぃっ……ひぃっ………………やっ……あんっ、あっ、ぁっ、ぁっ! ひっ、ぁっ、ぁっ……〜〜〜〜〜〜ッッッ!」
 真希は上体を伏せながらマクラを引き寄せ、顔を埋めるように声を押し殺す。そうすることで、怒濤のような快感から逃げようとするかのように。
(……我慢、してるんだな)
 一緒にイきたい――真希の気持ちが、痙攣する粘膜を通して伝わってくるかのようだった。そんな真希を――不覚にも――往人は可愛い、と感じてしまう。
「真希っ……」
 尻だけを持ち上げ、突かれるままになっている真希に被さり、ぎゅう、と抱きしめる。
「真希、真希……」
 耳元で名前を囁きながら腰を使うと、真希の反応は目に見えて変わった。
「ぁっぁぁぅっ……やっ……往人……やぁっ……だめっ、そんな風に、名前っ……呼ばなっ……つ、突きながら、なんて……あぁぁぁぁァァ!」
「真希、真希……真希……」
 こちゅん、こちゅんと“奥”を小突くたびに、往人は真希の名を口にする。
「それ、だめっ、イッちゃう……ホントにイッちゃうから、だから止めてぇ!」
 殆ど泣き叫ぶような声で、真希が懇願する。
「イッていいんだ、真希。ほら……解るだろ、真希の中が気持ち良すぎて、俺ももうかなりヤバいんだ」
「ぁっ、ァっ……ゆき、とぉ……いっしょ、いっしょ、に……」 
 はあはあ、ぜえぜえ。
 真希が悶えながら、必死に背後を振り返ろうと身をよじってくる。
「ああ、もちろん一緒だ。…………っ……真希っ……」
「あっ、あっ、あっ、あーーーーーーーーーーーーッ!!!!」
 ギュッ、と。往人が両手で真希の体を抱きしめ、最奥を小突く。同時に、真希が叫ぶように声を荒げてイき、往人もまた果てる。
「くはぁっ、ぁ……」
 射精を繰り返しながら、往人は途方もない満足感を感じていた。真希を背後から組み伏せるようにして犯し、イかせ、子種を注ぎ込むその行為そのものが興奮を呼び、これこそが自分の生き甲斐という気さえしてくる。
(もっとだ……もっと、真希に……中出ししたい……)
 孕ませてやりたい――いつかのように、そんな歪んだ欲望さえ頭を擡げてくる。
「はー……はーっ…………また、こんなに、出してぇ…………クセになったら……どうしてくれるのよぉ…………」
「……それは、こっちのセリフだ」
 中出しがクセになるのが女の方だけだと思うなよ?――そんな思惑を込めるかのように、ぐり、ぐりと再び擦りつけるように動くと、忽ち真希は尻を震わせて甲高い声で鳴いた。
「……次、あたし……」
「ん?」
 ぜえぜえと、荒い息の合間に真希が堪りかねたように言った。
「次、あたしがする!」
 どんと、往人は突き飛ばされる形で布団に転がった。その上に、真希がずいと跨ってくる。
「ふーっ……ふーっ……んんっ……!」
 やや座った目をした真希が鼻息荒く剛直を自らの秘裂に合わせ、ずぬぬと腰を落としていく。
「あっ、ぁっ、う……くふっ…………」
 ふるふると体を震わせながら最後まで腰を落とし、往人の胸に両手を突いた。
「ふふ、ふ……往人……?」
 真希は妖女のような笑みを浮かべ、胸板についた手をつつつと往人の口元まで這わせる。
「……真希、実は俺は……騎乗位はあまり好きじゃない」
 往人は素直に白状をした。特に、こうして真希に跨られると、とてつもなく嫌なことを思い出しそうで――それでいて記憶の中にはそれらしいものは何も該当しなくて――冷や汗が出そうになる。
「そう。……あたしは好きよ。往人の顔がようく見えるし」
 ぐりん、と真希が腰をくねらせる。
「……どう動いたら往人が弱いかも、全部解るし」
「さて、どうかな……演技かもしれないぞ?」
「演技……できるものなら、やってみるといいわ」
 さっきまでのお返しだ、とばかりに真希は腰をくねらせ、締め付け、締め付けたまま腰を上下に動かしてくる。
「っ……くっ……ッ……!」
 思った以上の刺激に、往人は咄嗟に敷き布団に爪を立ててしまった。それを真希が目ざとく見て、にたりと笑う。
「気持ちいい? 往人」
「…………まぁ、ぼちぼちだな」
 往人はぷいと、顔を背けた。嘘でしょ?とでも言うように、きゅっ……と剛直が締め付けられる。
「ねぇ、往人……触って?」
 真希に手を掴まれ、そのまま胸元へと導かれた。
「強く、握って」
 言われるままに、往人は手に力を込めた。
「もっと、強く……痕、残っちゃうくらい……」
「……痛くないのか?」
 いくら脂肪の塊とはいえ、痕が残るほどに強く握られれば痛いだろう。
「いいの、……往人の痕を、もっとあたしに刻んで」
 蕩けたような声で言いながら、真希は徐々に腰の動きを早めてくる。それに抵抗するかのように往人は両手で真希の乳を揉み捏ね、時折先端を抓るように強く引いた。
「ンぁあッ! あぁんっ、あぁン! んっ……あんっ! はぁっ……はぁっ……いい……すごく、いいの…………はぁはぁ……往人の、凄く硬くて……とろけそう……」
「真希の中だって熱くて、トロトロで……こっちが溶かされそうだ……ッ……」
 乳を捏ねていた手がさわさわと最早ほとんど帯だけになっている浴衣を越え、真希の太股を撫で、再び乳へと戻る。もどかしげなその手つきは、早くイかせてほしいという往人の意識の無言の代弁なのだが、往人自身自分がそんなサインを出してしまっている事に気が付いていなかった。
 しかし、奇しくも相手には伝わった。
「……ふふ、……往人、イきそう?」
「いや、別に……」
 痛みのためではない脂汗を流しながら、往人はけろりと言った。ふふふと笑って、真希がぐりん、ぐりんと腰をくねらせる。
「あたし、往人がイきそうなの必死に隠してる顔……大好き」
「ッ……誰が……ッく……!」
 回転の動きに加えて、時折不意打ちのようにきゅん、きゅんと締め付けてくるのだから堪らない。
「往人が我慢してる時の顔……すっごくドキドキするの…………」
 気がつくと、真希の体を撫で回していた両手の手首が真希に掴まれ、布団へと押しつけられる形で、真希が被さってくる。
「こ、こら……真希、何の真似だ」
「いいじゃない。……もっとよく見せてよ」
 被さり、殆ど鼻先が触れ合う程の距離でガン見しながら、真希が腰を使い始める。
「んっ、あんっ……あんっ……ふふっ……往人ったら、すっごい汗……」
「あ、汗だくなのは……お、お互いさま……だろ……」
 ぷいと、照れ隠しに往人は視線を逸らした瞬間――まるで咎めるように、キュッ、と。痛い程に剛直を締め付けられる。
「くっ」
「だめ、目をそらさないで。……ちゃんと、あたしを見て」
 促されて、往人は渋々視線を真希のほうへと戻す。――戻すなり、まるで不意打ちのように、唇が奪われた。
「っ……!?」
 ぬろりと、まるで触手かなにかのように、真希の舌が口腔内へと進入してくる。
「んふっ、んふっ、んふっ……んんっ……!」
 ぬちょぬちょと舌同士が絡み合い、それをなぞるように真希が腰を使い、剛直の表面が余すところなく肉襞で刺激される。堪りかねるように往人が背を反らすと、真希は途端に唇を放し、勝ち誇ったように微笑んだ。
「な、なんだよ……」
 往人は掠れた声で強がるも、真希は意味深に微笑んだまま、さらに体をかぶせてくる。そのたわわな胸元がぎゅう、と押し当てられ、往人はさらに己の分身の硬度が増すのを感じた。
「往人」
 その瞬間、これ以上ないという程になまめかしい声で、真希が往人の名を呼んだ。
「往人、往人」
 さらに耳元で囁きながら、真希がクイクイと腰を使い始める。
「……やめろ」
 胸の奥から不吉なものがこみ上げてくるのを感じて、往人は堪らず声を荒げた。
「そんな風にっ……俺の名前を呼ぶな……ッ……!」
 まるで、“恋人の名”でも口にするような声で、俺の名を呟くのは止めろ――さすがにそこまでハッキリとは口に出来ないまでも、さながら足下の地面が崩れ落ちるような言いしれぬ不安を覚えて、往人は声を荒げずにはいられなかった。
 くすりと、真希が耳元で小さく笑う。さっきあんたがやった事でしょ?――真希の微笑は、さもそう言いたげだった。
「ゆきと」
 真希はさらに艶めかしい声で、往人の名を呼ぶ。
「ゆきと、ゆきと、ゆきと……」
 呼びながら、腰を使う。名を呼ぶ事で自らも興奮を高めているのか、耳元に当たる喘ぎが加速度的に荒々しくなる。
「やめろ、やめろ……!」
 言葉とは対照的に、既にこれ以上ないという程に猛っている剛直がさらに硬く、そして膨れあがるのを感じる。ぜえぜえと瀕死の重傷でも負っているかのように息を荒げながら、往人は絶頂を拒絶するように敷き布団に爪を立てる。
「やめろ、やめてくれ!」
 なんとも情けない、まるで泣きじゃくる子供のような声で、往人は懇願する。――その瞬間、唐突に真希は往人の名を呼ぶのを止め、体を起こした。
「意地っ張り」
 悪戯っ子のような口調で言って、軽く唇が触れるだけのキス。
「じゃあ、“一緒にイきたい”って言ったら、止めてあげる」
「い、一緒に、イきたい!」
 往人は、即答した。しかし何故か、真希は一瞬――ほんの一瞬だけ、寂しそうな顔をした。
「わかった。…………往人……一緒にイこ?」
 真希が、再度体をかぶせてくる。胸板にたわわな乳を押しつぶすようにして、唇を重ねる。
「ンッ……んふっ……んっ……!」
 唇を重ねたまま、真希がやんわりと腰を使ってくる。
「ンンッ、んっ、んふっ、んんっ!!」
 腰の動きが、徐々に荒々しくなる。既に限界ギリギリまで追いつめられていた往人にとって、それは最後の一線を越えるのに十分すぎる快感だった。
「んっ、んんんっ!!」
 がしっ、と真希の尻肉を掴みながら、往人は腰を浮かしながらその体内に全てを解き放つ。
「ンンンぅぅぅうぅう!!!!……んんっ……んっ……!」
 そのうねりを受けて、真希もまたイき、心地よさそうに喉を鳴らす。さらに断続的にキュキュキュっと、まるで精液を搾り取ろうとするかのように締め付けてくる。
「……ごちそうさま」
 唇を離すなりそう言って、ちゅっ……と触れるだけのキスをして真希が体を起こした。
「……まだする?」
 月明かりの中、きらきらと野生の獣のように瞳を輝かせながら、真希が妖艶に問うてくる。
 愚問だと、往人は思った。



 「はーっ……はーっ……んっ……ぁっ、あぁッ、ぁあ!」
 上になったり、下になったり。
「ぁあっ、ふぁっ……んっ、ぁっ……あんっ! ぁあっ……ぁあああ!!」
 押し倒したり、押し倒されたり。互いの肌で唇が触れてない場所なんてどこにもないくらいキスをして、最後の最後にたどり着いた形は――。
「はーっ……はーっ……ゆきとっ……ゆきとぉっ……も、らめ……あたし、…ァァァァぁあッ!!!」
 胡座をかき、真希の尻を掴んで上下に揺さぶりながら、往人はそれでも動くのを止めない。
「ひぁっ、ひぃっ……んひぃっ……らめっ、らめっ……やっ、また、来る……い、イくっ……イくぅううッ!!」
 辛うじて背中に回した手の指先を肩に引っかけてるだけ――そんなか細い抱擁だったが、それでもイく瞬間だけはびくんと力強く体を跳ねさせ、痛いほどに剛直を締め付けてくる。
「はーっ……はーっ…………はーっ……やっ、もう、キスは……んんっ……やっ……んんっ!!」
 ひく、ひくと痙攣する膣内の感触に嘆息を漏らしながら、往人は嫌がる真希の唇を奪う。ゾクゾクゾクッ――真希の体が往人の腕の中でそのように震えて、目に見えて瞳がとろける。
「はっ……あふ……ら、めぇ……気持ち、良すぎて…………おかしく、なりそ…………んんっ! ぁあっ、ァあアッ!!」
 殆ど連続――と言ってもいいテンポでイき続ける真希がなんとも可愛く見えてくる。“先ほどの失態”を誤魔化す意味でも、もっとイかせてやりたいと、往人は思う。
「真希……」
 囁き、その耳の中へと舌を這わせる。
「ひっ……やっ、耳らめっ……ぁぁぁぁぁあ!」
 れろり、れろりとなぞりながら、むぎゅむぎゅと乳をこね回す。捏ねながら、突く。
「ぁぁっ、ぁっやぁっ! らめっ、らめっ……イき過ぎて……頭の中……沸騰しちゃう……また、頭悪くなるぅっ…………くひっ、ぃい!」
「そんな事気にするな。……好きなだけイッて、バカになればいい」
「い、いやっ……イヤッ……らめっ、イヤッ……んんっ、んんっ、んんんんんっ!!!」
 イヤイヤをする真希の顎を掴み、再び唇を奪う。それが、最後のキスだった。
「んんんんんんんンン!!!」
 どくりっ、と最後の子種を吐きだし、それを受けた真希が腕の中でイくのを感じながら、往人は力一杯抱きしめた。
(真希……っ……)
 れろ、れろと舌を絡み合わせながら、にゅぐにゅぐと腰を使い、往人は絶頂の余韻に酔いしれた。そのままどちらともなく布団に倒れ込み、倒れ込んでも尚キスを続けた。

 火照った全身を夜風に晒し、度重なる絶頂の余韻に酔いしれながら、どれほどそうして、身を寄せていただろうか。
「ねえ、往人……」
 不意に、真希が語りかけてきた。
「最初に会った頃の事、覚えてる?」
「それは、“俺”が真希と会った頃……っていう意味か」
 うん、と真希は往人の腕をマクラ代わりにしたまま頷いた。
「往人さ……いきなりひっぱたいてきたよね」
「……そんな事もあったな」
 往人は目を閉じ、思い出す。HRが終わるなり教室を飛び出していった真希の背を追い、昇降口で追いつき顔を見るや否や、むかむかと耐え難いほどに気分が苛立ち、反射的に手を出してしまったのだ。
「しかもその後頬を抓るわ髪の毛引っ張るわで……何なのコイツ!?ってすんごい頭に来たの覚えてるわ」
「まぁ、当然の反応だな」
 まるで人ごとのように言って、往人は苦笑する。あの時は、まさかこのような関係になるとは夢にも思わなかった。
「その後も何かと絡んできてさ。正直ウザいって思ったことも一回や二回じゃなかったけど……」
「けど……何だ?」
 ていうか、そんなにウザがられてたのか俺は――往人はややショックを受けた。
「けど……往人のおかげで、委員長達とも仲良くなれて……それに、あの猫だってあんたが居なかったら助けられらんなかったかもしれないし……そう考えると、往人との出会いもそんなに無駄じゃなかったかなぁ、って思えるわ」
「……そうだな。真希にそう思ってもらえるなら、俺も付きまとった甲斐はあったかな」
「……あとは、そうね。往人とセックスするのも……そんなに嫌いじゃないわ。……もうちょっと加減を覚えて欲しいところだけど」
 あんなの続けられたら、本当に頭悪くなっちゃうわ、と真希はボヤく。
「……どっちかっていうと、真希がもっともっとってねだってくるから……っていう気がするんだが」 
「何よ、それ。あたしが悪いって言いたいの?」
「そうじゃなくて……まぁいいや」
 皆まで言うこともなかろう、と往人は言葉を途中で止めた。
「そうじゃなくて……何?」
 しかし真希はしつこく尋ねてきた。往人は瞼を閉じ、ぷいと真希から顔を背けた。
「もう!……バカ」
 それきり、真希も追求はしてこなかった。



 久方ぶりにがっつりと絡み合った疲れは、昼近くまで寝ていても尚抜けなかった。山の中、とはいえ日が昇ればそれなりに気温も高くなり、「爺ちゃんが帰ってくるまでに後始末しなきゃ」という真希の言葉もあって、往人は渋々寝床から這い出る事にした。
 真希が纏っていた浴衣や、布団カバー等々を洗い――勿論洗濯機等というものは無く、川まで運んでの手洗い足洗いだったが――干した。
「往人は寝てていいわ。まだ疲れとれてないんでしょ」
 そう言って、それらの後始末は実のところ真希が一人で殆どやった。往人も手伝おうとはしたのだが、昨夜真希と絡む際にあれほど沸いてきた力が嘘のように体中に力が入らず、立ち上がるだけで目眩がした。
(…………まるで真希に命を吸い取られたみたいだ)
 事実、そうなのかもしれないと往人は苦笑する。命の源ともいえる子種をあれだけ、文字通り根こそぎ真希に注ぎ込んだのだ。ましてや、そもそも体調が万全だったというわけでもない。立てなくなるほどに消耗するのも道理か、と思ってしまう。
(避妊……しなかったんだよな)
 今更ながらに、往人はそれが気にかかった。昨夜は、興奮や暴走気味の性欲もあって深く考えずに欲望のままにヤッてしまったが、今更ながらにあれはまずいのではと言う気がしてきたのだ。
(……だいたい、真希らしくない)
 これまであれ程に避妊に厳格だったのに、ここに来て生も中出しもなんでもアリというのが解せない。安全日だから、と言っていたがそうそう都合良く安全日が来るものだろうか。
 ひょっとして――と、思考をその先へと進めようとした矢先、部屋の隅に放りっぱなしにしてあったバッグの方から聞き慣れた音が鳴り響いた。


「携帯……? 電波はいるのか、ここ……」
 そのことが意外で、往人は飛びつくようにしてバッグを漁り、携帯を取り出した。そしてその液晶画面に出ている名前を見て、戦慄した。
 唯――と。携帯は着信相手の名前を悪びれもせずに表示していた。
 往人は、恐る恐る通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『もしもし……ユキ兄ぃ?』
 それは紛れもない、義妹の声だった。往人は冷たい手で胃を握りしめられたような気がした。
『…………元気にしてた?』
「ああ……唯はどうだ?」
『うん、私は……大丈夫』
 そうか――と、そこで会話が途切れた。ジーワジーワと、蝉の声ばかりが木霊する。
『…………ユキ兄ぃ、今……どうしてるの?』
 それは、どこに住んでるのかという意味だと、往人は解釈した。
「友達に頼んで、家に泊めてもらってる。そのうちバイトを見つけて、一人暮らしをする予定だ」
『…………ごめんね。私のせいで……』
「いや、唯のせいじゃない。……悪いのは俺だ」
『違うよ。……ユキ兄ぃは悪くない、私がふざけすぎたんだよ。……ユキ兄ぃだって男の子なのに、ふざけてあんな事言って……だからユキ兄ぃ、叱ってくれようとしたんだよね?』
 答えに窮して、往人は黙り込んだ。
『…………あの後ね、私……考えたの。やっぱり、一番悪いのは私で、ユキ兄ぃを追い出したりするのは間違ってるって……ヒロ兄ぃとも相談して、私なら大丈夫だから、ってちゃんと説得もするつもり。だから……だからね、ユキ兄ぃも、もう――』
「悪い、唯。…………そう言われても、俺は帰れない」
『え……』
「今、その友達と一緒に旅行中なんだ。……だから、それが終わるまでは……途中で家に帰ることなんて出来ないだろ」
 あっ――と、唯が受話器の向こうで黄色い声を上げる。
『じゃ、じゃあ……ユキ兄ぃ、また……一緒に暮らせるの……?』
「唯と兄貴が俺を許してくれるのなら……家を出る理由なんて無くなるからな」
『許して貰わなきゃいけないのは私の方だよ。……ユキ兄ぃ、本当にごめんね。私、待ってるから……………早く帰ってきてね?』
「……ああ。旅行が終わったら、すぐに帰る」
 じゃあな――そう言って、往人は通話を切った。縁側に立つ人影には、その前から気が付いていた。
「……誰からの電話だったの?」
「妹。レイプされかけた事は忘れてやるから、家に帰ってこい……だとさ」
「本当!? 良かったじゃない!」
「そうだな。……とりあえず、これで真希の部屋のせまいベッドからは解放されるな」
「狭いのは二人で寝てるからよ! 一人ならあれで十分なんだから!」
 そうだな、と相づちを打って、そしてはたと往人は気が付いた。
「真希、何を囓ってるんだ?」
「何って……干し肉だけど」
 喋りながらも、真希は手に持っている茶色っぽい塊をぐいと引きちぎるようにしてもぐもぐと咀嚼する。
「起きてから何も食べてないから、お腹空いちゃって」
「………………。」
 この女は自分と同じ時間に飯を食った同居人が自分と同じく腹を空かせているのではないかという想像力は持てないのだろうか。
「あ、往人も食べる?」
 じとぉ……という目を散々向けて漸く真希は気が付いたらしかった。
「んもう、しょうがないわねぇ……ほら、あーん」
「あーん……って何を食わせる気だ!」
 真希に釣られて口を開けてしまい、そのまま口移しをされかけて往人は慌てて後退った。
「嘘、嘘。冗談よ、これでも囓ってて。他にもいろいろ保存食あったから持ってくるわ」
 真希が放り投げた干し肉を受け取るやいなや、往人は引きちぎるようにして塊を口に含んだ。多少塩辛いが、噛めば噛む程に肉の味がしみ出てきて空きっ腹には十二分に有り難かった。


 真希の祖父は、日暮れ前になって漸く帰ってきた。
「あ、爺ちゃんお帰りー、どうだった?」
 バイクを納屋らしき場所に仕舞う祖父――次郎という名前らしい――に真希が声をかけるが、次郎翁はふんと鼻を鳴らしただけで何も言わなかった。
「フラれたらしいわ」
 と真希は往人にだけ聞こえるように耳打ちする。やがて納屋を閉め、次郎が出てくるなり往人は改めて頭を下げた。
「相場往人です、お邪魔させてもらってます。昨日はちゃんと挨拶出来なくてすみませんでした」
 次郎翁は往人を一瞥するや、ふんと鼻を鳴らしただけでその前を通り過ぎ、母屋の方へと歩いていった。無視されたのかな?と往人が微かに気に病みながらその後に続くと、不意に、
「牡丹は食ったか」
 背中越しに尋ねられた。
「はい、頂きました。とても美味しかったです」
「そうか。なら、ええ」
 顔半分だけ振り返って、次郎翁はニッコリと笑った。

 その日の夕飯は次郎翁と真希が二人で作った。料理は昨夜と同じ猪鍋だったが、真希が作ったそれとは次元が違う程に旨かった。
「んぅー! やっぱ爺ちゃんの牡丹鍋は最っ高! あたしが作るのとなんでこんなに違うんだろ」
「……お前ェが下ごしらえで手ぇ抜くからだって、いつも言ってんだろが」
「だってぇ、面倒くさいんだもの」
 けらけらと笑い声を上げながら、真希はそれこそ餓鬼のようにがつがつと食らう。
「ほれ、お前ぇも食え」
「はい、頂きます」
 促されて、往人もまた木彫りの椀に味噌味ベースの猪汁をお代わりする。早速、とばかりに猪肉を口の中に放り込む。
 よく煮込まれ柔らかくなった猪肉はその旨さを余すところなく往人の口の中にまき散らしていく。牛肉とも豚肉とも違う、野趣溢れる味は筆舌に尽くしがたく、喉越し過ぎた後は思わずため息を漏らしてしまう程だ。
「ちょっと、往人! あんたはあんま肉食うんじゃないわよ! 野菜を食べなさい、野菜を」
「野菜も食う、けど肉も食う! 真希こそ肉しか食ってないじゃねえか! もうちょっと栄養のバランスとか考えろよな!」
「肉はまだまだある。好きなだけたんと食え」
 次郎翁がぐらりと大鍋をかき回すと、もう鍋から消えてしまったかと思われた猪肉がこれでもかという程に現れた。たちまち真希がひょいひょいと肉ばかりを自分の椀に取り始め、やむなく往人も自分の椀に肉を取り始める。
 がっはっは、と大笑いを浮かべたのは次郎翁だ。
「お前ぇ達はアレか、できてんのか?」
 ぶっ、と次郎翁の突然の質問に往人は思わず肉を吹き出しそうになってしまった。
「いえ、別にそんなんじゃ……」
 否定する往人を意味深な笑みを浮かべながら無視して、まるで人ごとのように肉を食らい続ける真希のほうへと次郎翁は視線を向ける。
「なぁ、真希。もう女になったか?」
 ぴくり、と真希は一瞬箸を止めたが、無言でまたがつがつと猪肉を食い出す。必要以上に椀を傾けているのは顔を隠す為だろうか。
「真希もだんだん死んだばーさんの若い頃に似てきたなぁ。……ほれ、ばーさんもな、コレが凄くてな」
 次郎翁は“コレ”と言いながら自分の胸の前でくるりと出っ張りを作る。
「…………なるほど、凄い“コレ”をお持ちだったんですか」
 往人もまたいったん箸と椀を起き、自分の胸の前で手首をくるりと縦に回転させる。
「あぁ、そりゃーもうつきたての餅みたいでなぁ。そんなもん見せられたら、辛抱なんかきかんべ」
 がっはっは、とまた次郎翁は高笑いを上げる。
(……わかります)
 と、往人は心の中だけで同意していた。
(このお爺さんは、同類だ)
 とも思った。
「まぁ、それでも食い物もロクになかった時代だからなぁ。ばーさんもなかなかだったが、今の真希には敵わんだろうなぁ」
 じぃ、となにやら熱のこもった目で真希の胸元をみる次郎翁の視線を往人はとっさに遮りたくなる。
(“コレ”は俺のですよ?)
 という、変な縄張り意識のせいだった。
(しかし、見た感じもう九十に届きそうに見えるのに……)
 なんともたくましいことだと、往人は思う。自分もかくありたいとさえ。
 その後も、次郎翁との談話はなかなかに花が咲いた。同じ“趣味”を持つ男同士故か、話をするのが往人は本当に楽しかった。
 ただ、真希はほとんど終始口をつぐんでいた。たまに次郎翁や往人がそれとなく話を振るが、無視か、どうしても答えねばならない時だけなんとも曖昧な返事だけをぽつりと返すだけだった。
(……さっきの話が機嫌を損ねたのかな?)
 往人はうすうすそのようにあたりをつけていた。やれ乳がどうたらという話を人にされるのは真希の性格上あまり愉快ではなかったのかもしれない。ただ、それにしてもこれほど黙りを決め込むほどではないのではないかと、往人は思う。
 三人で囲んだ鍋の残りもわずかとなり、シメにはこれだと次郎翁が持ってきた冷や飯で作った雑炊を最後に三人で分け、夕食は終わった。
 最初に席を立ったのは真希だった。
「お風呂の湯加減見てくる」
 おう、と次郎翁は見送り、途中ではたと呼び止めた。
「真希、今夜やるのか?」
「……うん」
「そうか」
 次郎翁はそれきり口をつぐみ、空になった鍋を囲炉裏から外して縁側へと出ていった。
 後には、往人だけが残された。




「星を見に行こうよ」
 風呂をすませ、次郎翁から借りた浴衣を着た往人が寝室でくつろいでいると、同じく浴衣姿の真希が唐突に誘ってきた。
「星……?」
「うん、星。都会と違って空気が澄んでるからとってもよく見えるわよ」
「そっか。それもいい記念だな」
 往人はよっ、と勢いをつけて飛び起き、玄関へと向かった。その途中で、往人は後ろを歩いていた真希にくいと袖を引かれた。
「ん?」
 当然、往人は足を止め、振り返った。が、しかし真希は自分自身何をしたのか理解していないという顔できょとんと首をかしげていた。
「今、引っ張らなかったか?」
「あたしが?」
 気のせいか――と思い、玄関でこれまた次郎翁に使えと言われて出してもらった草履を履いていると、そこでまたくいと、今度は間違いなく引っ張られた。
「何だよ」
「……何でもない」
 真希はぷいと顔を背けるなり、自分の草履を履いて一足先に庭へと飛び出していった。
「爺ちゃん、行ってくるね」
「おう」
 家の裏手で風呂用の薪の整理をしているらしい次郎翁に挨拶をして、往人は真希の案内するままに獣道を進む。
 懐中電灯は要らなかった。なぜなら、辺り一帯は影ができそうな程に明るい月夜だった。
「とっておきの場所があるの」
「へぇ」
 前を歩いていた真希が少しずつ速度を落とし、やがて往人の隣へと並んできた。
「往人、流れ星とか見たことある?」
「実は自分の目では一度も見たことがないんだ」
「そうなの? じゃあ願掛けとかしたことないんだ」
「たとえ流れ星を見ることがあっても、願い事はかけないだろうなぁ」
 くつくつと、真希の少女趣味がおかしくて往人はつい含み笑いを漏らしてしまう。それが不満なのか、真希はぶうと頬を膨らませてそっぽを向いた。そのくせ、その指先がさっきからつん、つんと。まるで小魚が住処としている珊瑚をつつくかのように、往人の手に触れてくるのだ。往人は“つん”のタイミングでそっと真希の手を握ってやった。もちろん真希は嫌がらなかった。
 道は、山の中へと続いていた。時折獣道どころか完全に草木に浸食されて先がふさがっているような場所も通った。
「……真希、ちゃんと帰り道わかるのか?」
「大丈夫よ。この辺の山はあたしの庭みたいなものだもの」
 目をつぶったって迷わないわ、と。真希はさも自慢げに言った。
「その割には、なんかさっきから同じ所ぐるぐる回ってるよーな……」
「気のせいよ」
 真希は、さらに進む。すでに道が細くなり過ぎ、並んで歩くことは困難になっていた。真希が道を開き、往人がその後に続く――丁度、七伏山をそうして上ったように。
「……なぁ、真希」
「何よ」
「昼間、聞きそびれたんだが……お前さ、もしかして――」
「ついたわ」
 往人の言葉を切るように、真希が声を上げるやひょいと視界から消えた。その刹那、往人の視界に光があふれた。
(あぁ……)
 やっぱりな、と往人は驚愕でも失望でも落胆でもなく、納得した。
 眼前に広がったそれはまさに、七伏山の“あの場所”そのものだった。



「お爺さんが凄腕の鍼灸師っていうのは嘘だったんだな」
 それは、薄々感じてはいたことだった。うん、と真希は悪びれもせずにうなずく。
「俺にも、罅が見えたのか」
 うん、と真希はうなずく。
「……往人が最初に右手が痛いって言って見せてくれた時があったでしょ。……あのときに、初めて見えた」
「そうか」
「“重なる魂”の罅って、初めから見えるものじゃなかったのね。……“末期”になると見えるようになるんだわ」
「つまり、今の俺は末期ってことか」
「……ごめんね、往人。……気のせいだなんて……勝手に決めつけちゃって」
「…………罅とやらが見えなかったんならしょうがないさ」
 ここに来て、往人は自分の内側が奇妙な達観めいたものに満たされていくのを感じていた。無感動――というよりは、やはり納得によるものが大きかった。
(……“保険”をかけておいて正解だったな)
 そうでなければ、とてもこれほど落ち着いてはいられなかった事だろう。
「……お爺さんも、このことは知ってたのか」
「爺ちゃんは、叔父さんの唯一の味方だった人。叔父さんが生きてた頃は、時々罅の入った人を連れてきてここから送ったりしてたから、往人のことは友達としか説明しなかったけど、あたしや叔父さんが爺ちゃんの家に人を連れてくる用なんてそれしかなかったから、察したんだと思う」
「叔父さんが死んだ後は……もしかして――」
「うん。“人”は初めて。ここには、一人で時々来てたけどね」
 仄かにに黄金色を湛える大地、その中央で真希はくりんと踊るように回る。
「……あそこじゃ、ダメだったんだな」
「うん。……叔父さんの言葉を借りれば、人の魂はほかのに比べて重たいんだって。だから、“飛ばす”のにはもっと勢いがいるの」
 なるほど、と往人は苦笑した。以前、満月の夜に七伏山の天穴で感じたかすかな浮揚感。あれは、魂が飛ぶほどの浮力を得られなかっただけだったのだ。
「どうして隠してた? 別に教えてくれてもいいだろ」
 罅が見えなかった初めの頃は仕方がない。しかし、見えたのなら、すぐに教えてくれてもよかった筈だと、往人は詰め寄ろうとした。
「だって――」
 真希は目を伏せる。そのまま往人に背を向けた。
「教えたら、“本当”になっちゃいそうだったから」
「本当?」
「罅なんか見えない。気のせいだって、そう思いこもうとしてたの」
「だから、どうしてだ」
 往人は、半ば苛立ちを隠そうともせずにさらに問いつめた。真希が真実さえ語ってくれていれば、あれほどに苦しい思いはしなくて済んだかもしれないと思うと、よけいに腹が立った。
「……わからないの?」
 真希は、問いつめる往人をむしろ信じられないという目で見返した。
「ねえ、本当にわからないの?」
「わからない。だから教えろと言ってる」
「っっ……ッ……!」
 真希は口を開きかけて、すぐに唇をかみしめ、涙をにじませた目で睨みつけてきた。
「そんなにわからないなら教えてあげるわ。痛みが罅のせいだってことも知らずにのたうち回るあんたを見てるのが楽しかったからよ」
「な……にぃ……!?」
「ほんと、いい気味だったわ。マヌケ面して病院通ったりなんかして、そんなので治るわけないのに。あんたは気がつかなかったでしょうけど、発作を起こすたびに影で腹抱えて笑ってたんだから」
「………………。」
「この際だから言っておくけど、あたし最初からあんたのこと大ッキライだったわ。鬱陶しくてウザッたくて、ほんの気まぐれで体を許したら慣れ慣れしく同居までしてきて。寝ているあんたの首を絞めてやろうと思ったのも一度や二度じゃないんだから」
「……もういい」
「ここにつれてきてあげたのだって、ただ単に人の体が弾けてグチャグチャの肉塊になっちゃう所なんて見たくなかっただけよ。よかったわね、これでもう“ズレた世界”ともおさらばよ。元の体に戻って、本命の彼女と好きなだけイチャつけるじゃない」
「もういい、止めろ!」
 往人は声を荒げ、真希の体を抱きしめた。そのまま指先で、ずっとあふれ続けていた涙をぬぐう。
「……俺が悪かった」
 往人は、ただそれだけを言い、強く抱きしめた。
「……もうすぐ、“波”が来る」
 往人の腕の中で、真希がつぶやく。
「七伏山の小さな天穴とは桁外れの光の奔流が来るのよ。……それが、あんたの……“相場往人”としての最後の瞬間」
「……真希、一つ、聞きたい」
「質問は手短にしなさいよ。……もう、そんなに時間がないから」
「“送った後”の人は……どうなるんだ。重なってた間のことは覚えてるのか」
「…………重なっていた間のことをまともに覚えていた人はいなかったわ。長い夢でも見てたような感じらしいけど、個人差もあるみたいだったし、往人がどうなるかはあたしには解らない」
「そうか……なら、記憶は持っていけるのかな」
「望みは薄いわね。現に往人は“前の体”のこと、何も覚えてないんでしょ?」
 確かに、真希の言う通りだった。
「ただ、それでももしかしたら……ただの肉体的な記憶じゃない。魂にまで残るくらい強い想いなら、ひょっとしたら持っていけるのかもしれないわ」
「……魂にまで残るような、強い想い……か」
 不意に、往人は真希との初顔合わせの時を思い出した。あの時、真希の顔を見るなりムラムラと沸き上がってきた怒りにも似た感情は、もしや――。
「ねえ、往人」
 真希が顔を上げ、往人の腕の中から離れた。
「これでもう、本当の本当に最後なのよ。…………何か、あたしに言っておきたいことがあるなら、今しかないわよ」
「……真希に言いたいこと、か」
 往人は、俄に思案した。
「そうだな、俺が居なくなっても、ちゃんと毎日遅刻せずに学校行けよ」
「……分かったわ。他には?」
「ちゃんと毎日歯磨いて、肉ばっかりじゃなく野菜も食えよ」
「なるべく努力するわ」
「夜中の散歩も、一人歩きは危ないからなるべく明るい道を選べよ」
「……考えとく」
「何か困ったこととかあったら、とりあえず委員長に相談するんだ。そうすればまず間違いはない」
「…………。」
「それから――」
 言いかけた唇を塞ぐ様に、真希の人差し指が触れた。
「往人の意地悪」
 真希は指を引き、一歩、二歩と後ずさりをする。
「本当はなんて言って欲しいか、百も承知のくせに」
「…………。」
「とうとう最後まで、ただの一度も言ってくれなかったわね」
「……さて、どうかな?」
 それが、往人に言える精一杯の強がりだった。
「あ、そう。往人がそういうつもりなら、あたしも教えない」
 また、真希が後ずさりする。
「とっても大事なこと、教えてあげない」
「大事なこと……? 何だ、それ、は――」
 往人は咄嗟に訪ね返そうとした。しかし、声が出なかった。
 足下から地鳴りのような音がして、すさまじい光の奔流が立ち上り始める。足の裏がぐいぐいと押され、今にも体が浮き上がってしまいそうだった。
「……始まったみたいね」
 “光の壁”の向こうで、真希がぽつりと呟いた。
「これで本当にお別れね。往人は元の生意気でいけ好かない相場往人に戻って、バスケ部のみんなに頭を下げて部に戻って、梶千晴とよりを戻して、あたしは自由気ままな一人暮らしに戻る……なんだ、これってハッピーエンドじゃない」
「……っ……!」
 真希、と往人は声を上げたかった。しかし、もはや声も出ない。体の自由も効かない。
 魂が、“剥がれ”かかっていた。
「あんたも、“向こう”に居るんでしょ? どうしようもないくらい好きで好きで堪らなくて――そして多分、とっても意地悪で、“誰かさん”にそっくりな相手が。だから、あんなにも執拗に元の世界に戻るって、そう言ってたんでしょ?」
 それは、嫉妬とも羨望ともつかないものが入り交じった笑顔だった。そんな相手の事など覚えていないと言い返してやりたくて、往人は懸命に声を出そうとした。
 しかし、唇は動かせても何一つ言葉を発する事は出来なかった。
「バカ。さんざん平気そうにしてたくせに、今更なに泣きそうな顔してんのよ……言っとくけどね、あんたあんまりあたしを舐めるんじゃないわよ?」
 ずっと泣きそうな顔をしていたくせに――むしろ泣いていたのだが――真希はここに来て自信ありげに胸を張る。
「あたしは、“魔法使いの姪”よ。……いつか、いつか本当に虹色の猫を捕まえて、あんたの本当の顔拝んでやるんだから。そのとき、もしあたしのこと覚えてなかったら……ひっぱたくだけじゃ済まさないんだからね!」
 虹色の猫――それは絶対に存在しないものの例え。故に、捕まえた者は何でも望みが叶うというおとぎ話。
(……まっ……きっ……)
 忘れるものか――往人は歯を食いしばり、すべてを。真希との思い出、記憶を全て魂に刻み込むべく何度も、何度も思い出し、反芻する。
 だが、それもすさまじいばかりの光の奔流に遮られるようにして中断させられた。
「――――ッ!! ――――ッ!!」
 往人の必死の叫びは、やはり声にならなかった。ずるりと、自分の体が“何か”から抜けで、暴力的なまでの浮揚感に支えられて天へと上っていくのを、往人は感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 きっかけが何だったのかは思い出せない。

「そういえばさ、往人の誕生日っていつ?」

 そう。その時の会話の流れは思い出せないが、そう切り出したのは自分の方であった事だけは覚えていた。

「4月25日」

 不遜な同居人は、愛想のない声で唇を尖らせながら即答した。

「へー。じゃあ今は同い年なんだ」

 そう返しながら、実のところ少しだけ期待をしていた。「真希の誕生日は何月何日なんだ?」――そう尋ねられるのを。
 しかし、意地っ張りで意地悪極まりないあの男はあろうことか「ふーん」の一言で片づけやがったのだ。
 別に、誕生日を祝って欲しいわけではなかった。ただ、尋ねられたからには自分も尋ねるのがマナーではないかと真希は思った。
 とはいえ、聞かれもしないのに自分から教えてやるのも癪だから、結局その話はそこで終わった。
 それはまだ、往人が魂の重複による激痛に苦しみ始める前の事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ピンポーン。


 ベッドに突っ伏し、ウトウトとまどろんでいた所に、そんな無粋な音が飛び込んでくる。
 が、どうにも起きあがる気になれず、そのまま鼻先を擦りつけるように寝返りを打ち、半分だけ持ち上げた瞼を落とす。
 ピンポーン――再度、インターホンが鳴るが、無視する。ジーワジーワと、窓の外から聞こえてくる蝉の声が徐々に遠くなり、再びウトウトと眠気の命じるままに意識を深く沈めていく。
 三度目は鳴らなかった。――否、鳴っても気がつかない程に深く寝入っていただけのかもしれない。もはや、自分が起きているのか寝ているのかすらも解らない状況が小一時間ほど続き、しかし唐突に愛川真希はその体をベッドから起こした。
 理由は、ただの自然な欲求だった。寝ぼけ眼をしょぼしょぼさせながらトイレへと赴き、用を足して再度ベッドに突っ伏す――が、眠れない。
 長らく締めたままのカーテンの向こうから響いてくる、蝉たちの大合唱から耳を塞ぐようにベッドに伏せ続ける、
 まるで、ベッドに残る微かな残り香――残滓を惜しむように。

 異変が起きたのは、眠れぬままさらに小一時間ほど経過した頃だった。窓の外から響いてくる大合唱に混じって聞こえていた、エアコンの室外機の唸り声が唐突に途絶えた。同時にエアコン自体も動きを止め、締め切られた室内はたちまち蒸し風呂のような暑さになった。
 真希は手探りでエアコンのリモコンを手にとり、再度電源ボタンを押す――が、何の反応も返ってこない。体を起こして、リモコンをエアコンのほうへと近づけて何度も何度も様々なボタンを押してみるが、うんともすんとも言わない。
 故障してしまったのだと、遅まきながらに理解した。
 仕方なく窓を開け、押入から扇風機を引っ張り出してきてコンセントを差し込み、“強風”のボタンを押す。無風状態よりは些かマシにはなったものの、その快適さはエアコンのそれには比べるべくもなく、全身から汗が噴き出るのを止められなかった。
 喉の渇きを覚えて冷蔵庫を開けるも、中にはとうに空になった水差ししか入っていなかった。中に入っていた麦茶を前回飲み尽くした後、新たに作っていないのだから当然と言えば当然だった。
 ついでに言えば、冷蔵庫の中身は空の水差しに代表されるように見事なまでに空だった。入っているのはいくつかの調味料と、味噌の入ったカップのみであり、備蓄の米と合わせても作れる料理は具なしのみそ汁と白米、あるいは塩おにぎりという有様だった。
(……買い物、行かなきゃ)
 食欲など殆ど無いに等しいが、いつまでもこうしていて餓死するわけにもいかない。のそりと立ち上がり、バスルームへと向かう。汗を流して体を洗い、薄い水色のキャミソールとジーンズにサンダルという出で立ちで、中学の頃から愛用しているポシェットに財布をしまいながら、真希はアパートの外へと出た。



 

 外に出るのは一体何日ぶりだろうか。
 熱気で歪んで見えるアスファルトの道を、真希は空腹と喉の渇きでフラフラになりながら歩く。最寄りのスーパーまでは徒歩で十分ほどなのだが、今の真希にはフルマラソンよりも長い距離に感じられてならなかった。
 そうして苦労してたどり着いた先に待っていたのは、店の入り口の前に張られた“臨時休業”の張り紙だった。カッと頭に血が上り、真希は張り紙を引っぺがして破り捨てる寸前までいったところで俄に冷静さを取り戻し、元の場所へと貼り付けた。
 こんなことなら最初から大人しく商店街の方に行けば良かったと、そんな後悔をしながら、真希はとぼとぼと踵を返す。空腹はともかく、喉の渇きの方は如何ともしがたく、やむなく途中の自販機で500mlの清涼飲料水を買い、一息に飲み干した。
 そんな真希の傍らを一人の女子生徒が自転車に跨り、立ちこぎで走り去っていった。この暑い最中、学校指定の臙脂色に白いラインの入ったジャージを上下に着込み、自転車の籠には見るからに重そうな大量の缶ジュースの入ったビニール袋を満載し、そのくせ喜々とした様子で遠ざかっていく後ろ姿には見覚えがあった。
 方角的に、向かう先は恐らく学校だろう。
 だとすれば――。
「…………。」
 一度は商店街の方へと向きかけた足が、止まる。気がついたときには、真希は女子生徒が走り去って行った先――学校へ向けて歩き出していた。


 学校内は、およそ夏休み中だとは思えない程に活気に満ちていた。グラウンドの方からはひっきりなしに陸上部らしきかけ声が聞こえ、プールの方からも甲高いホイッスル音や水の跳ねる音などが聞こえてくる。
 柔道場、剣道場の方からは気合いの入ったかけ声と共に、畳を打ち付ける音、竹刀と竹刀がぶつかる音が響いてくる。それらの喧噪の中、真希はまるで部外者のような足取りで体育館へと向かう。
 近づくにつれて、ダム、ダムと重いものを床にたたきつけるような重低音が響いてくる。確認するまでもない、それはバスケットボールのドリブル音だった。
 真希はさらに近づき、体育館の壁の下側に位置する通気窓からそっと中の様子をうかがった。
 キュキュキュとバッシュの擦過音を響かせながら動き回る、十数名の私服(とはいっても、Tシャツにハーフズボンといったバスケ用の出で立ちだが)の男子生徒。女子バスケの部員が見あたらないのは練習時間を分けているのかもしれない。皆が皆汗だくでコート狭しと走り回っている中、真希の目は体育館の隅にいる三人組に釘付けになった。
 一人は、長身のバスケ部員であり、恐らくは三年生なのだろう。何かと高圧的な態度で指示出しをしていた。もう一人は、先ほど見かけたジャージ姿の女子――梶千晴だ。そして最後の一人の顔を見た瞬間、真希は息苦しさを感じて思わず視線を逸らしてしまった。
 汗だくになって三年生と1on1をしているのは、相場往人。かつての同居人。恐らくは部に戻る際に――自発的かどうかは解らないが――丸めたのだろう、頭は丸坊主であり、それがいっそう真希の中にある面影を否定していた。
 死にものぐるいとは、まさにこのことだろう。往人はまるで奪われた己の心臓を取り返そうとしている亡者のような必死の形相で、上級生の持つボールを追いかけ、食らいつかんばかりに動き回る。そして、そんな“恋人”の姿を目をきらきらさせながら見守る千晴――それはもはや、一つの完成された世界だった。
 次第に、後悔の念が募る。一体自分は何をしているのだろうと。相場往人がもはや自分の知っている往人ではないという事くらい、とうに分かり切っていた事ではないか。
 帰ろう――そう思って屈んでいた背を伸ばそうとした時だった。丁度真希が覗き込んでいた通気窓の格子にバスケットボールがぶつかり、すさまじい音を立てた。
 ボールをぶつけたのは、往人だった。
「おい、てめえ」
 往人は真希を指さし、声を張り上げながら走り、あっという間に体育館の外へと飛び出してきた。一瞬、真希は逃げようかと迷い――結局その場に立ちつくした。
「何コソコソ見てんだよクソが。ぶっ殺すぞ」
 およそ、親しさの欠片もない罵声と共にどんと胸元を突き飛ばされ、真希は二歩、三歩と後ずさる。
 遅れて、往人の後ろに千晴が現れる。その顔は、人生の勝利者のような笑みに満ちていた。まるで、そんな千晴に後押しされるように、往人が再び距離を詰めてくる。
「何しに来たんだよ。答えろよ、ブス女」
 べつに――途中で声が掠れて、それ以上の言葉は口に出来なかった。そんな真希の反応にさらに苛立ちを募らせるように、往人の顔が怒りに歪む。
「止めなよ、往人。……可哀想じゃない」
 咄嗟に、千晴が二人の間に割って入って来るが、真希には解った。千晴の言葉は決して同情などではなく、むしろ蔑むためのものだと。
 けっ、と。往人が舌打ちしつつ、千晴に押される形で後ずさる。
「あーくそ、マジ胸糞悪ぃ。てめぇもう学校辞めろよ。顔見てるだけで吐き気してくるぜ。九月になってまだ教室に居やがったらマジでぶっ殺すかんな」
 顔を見るだけで腹が立つ――かつて同じ口で、同じような言葉を真希は言われた。しかし、感じる痛みは比較にならなかった。
「だめだよ、往人。この人一応“記憶喪失中”にいろいろ面倒見てくれてたんだから、そんなに邪険にしたら悪いよ」
「ンなの知るかよ。勝手にあんなワケわかんねード田舎まで人を攫いやがって。おかげでこんな頭にするハメになっちまったし」
 ちっ、と舌打ちをしながら、往人は坊主頭をしゃりしゃりとかきむしる。それは自分とは関係ない筈だと、真希は思う。
「ねえ、もう放っとこうよ。……こんな人どうでもいいじゃない、往人には私がいるんだから」
「…………それもそうだな。千晴、愛してるぜ」
 往人は千晴の腰へと手を回し、その体を抱え上げるようにして――口づけをする。真希が覚えている限りでは、二人ともこうも人前でどうどうとイチャつくカップルではなかった筈なのだが、“離れていた時期”が互いの想いに変化をもたらしでもしたのだろうか。
 この往人は、あの往人とは違う。そんな事は百も承知だ。なのに、目の前で熱烈なキスを交わす二人を見て、真希は反射的にギリッと歯を鳴らしてしまった。――しかも、その様を横目で千晴に見られたらしく、
「んーーーっ」
 千晴はさらにこれ見よがしに両手を往人の後頭部へと回し、ちゅっ、ちゅっ、と露骨に音を立てながらキスを続ける。
 文字通り、見せつけるように。
「おい、相場ァ! てめーいつまで油売ってんだ!」
 二人のイチャイチャは三年生の罵声が飛ぶまで続いた。ちっ、と三度舌打ちをし、往人は真希の足下目がけて唾を吐き捨て、体育館の中へと戻ってった。
「くすくす……往人の言うとおり、もう学校辞めちゃえば?」
 嫌味たっぷりに言って、千晴もまた体育館の中へと戻っていく。
 程なく、真希もその場を後にした。


 学校を出て当て所無く歩きながら、真希はふと思い出していた。かつて、往人に捨てられ自暴自棄になっていた千晴に説教をした時の事を。
 あの時は、子供の駄々にも似た千晴の行動に心底腹を立てた。しかし、今は少しだけ――ほんの少しだけ、千晴の気持ちが解る気がした。
「……っ……」
 大して強く押されたわけでもないのに、先ほど往人に突き飛ばされた辺りが酷く痛んだ。そしてすぐに、痛いのは突き飛ばされた場所ではなく、“その奥”なのだと理解する。
 とぼとぼと何の気なしに歩き続け、気がつくと自宅アパートの前まで戻ってきてしまっていた。そういえば買い物をする為に出かけたのだという事を思い出すも、気力の方が萎えてしまって踵を返す事が出来なかった。
 ポストに入っていたチラシやらなにやらを一緒くたに掴み出して、そのまま部屋の中へと戻る。むっとした熱気にうんざりするも、それをどうにかしようという気力の方が尽きていた。真希は手に持っていたチラシの束を無造作にテーブルの上へと放り、畳の上に膝を突いて崩れ落ち、ベッドに突っ伏した。
 鼻先をベッドに擦りつけ、思い切り息を吸い込む。鼻腔の奥にほんの僅かだけ感じるその残り香は、もはや二度とこの部屋に戻っては来ない人物のものだ。
 しばしそうして鼻先を擦りつけた後、真希は不意に体を起こして、一畳半のキッチンスペースへと移動した。流しの上に設置された申し訳程度の食器棚に置かれている赤と白の二つのマグカップ。元々部屋にあった二つのマグカップのうちの片方を、ある日往人が割ってしまい、弁償として買ってきたものがそのまま専用のマグカップとなったものだ。
『赤は真希専用、白は俺専用な』
 凡そ居候とは思えない横柄な態度で言われた時は、少なからずムッとしたものだった。くすりと、思い出し笑いをしながら、真希は白いマグカップを手に取り、慈しむように撫でる。
 マグカップを元に戻し、今度は脱衣所兼洗面台へと移動する。歯ブラシ立てには二本の歯ブラシ。ピンク色のものが元々真希が使っていたもので、水色のものが往人が持ってきたものだ。うがい用のコップが往人のものしかないのは、一人暮らしをしていた時はマグカップを代わりに使っていたからだ。
 浴室に入ると、二種類のシャンプーとリンス、そしてボディソープが寂しげに佇んでいた。それぞれ真希用と往人用であり、あえて“香り”がバッティングしないように違うメーカーの全く香りの違うものを選んであった。
 理由は勿論、第三者に同居を悟らせない為だった。同じクラスで、毎日あからさまに同じシャンプー、ボディソープの臭いをさせていたら誰に何を勘ぐられるか解ったものではない。現に一度朝帰りをした際に、妹に「女物のシャンプーの匂いがする」と指摘されたのだと、往人は苦笑混じりに漏らしていた。
 居間に戻り、中央で上下に仕切られた押入の下段を開けると、二列二段の衣装ケースが並んでいた。元々真希が所持していた衣装ケースは二つだけであり、残りの二つは居候であった往人が使っていたものだ。中を開ければ、往人が残した衣類はそっくりそのまま残っていた。持ち主の所へ返すべきなのだろうが、今の往人にはどうにも近づきがたくて、結局行動に移せないままだった。
 真希は再度、キッチンへと移動する。箸立てに入っているのは二膳分の箸。スプーンもフォークもきっかり二本ずつ。それらを順番に手にとり、撫でた後は再び居間へと移動した。壁掛けカレンダーの横に張ってあるのは、同居を始める際に二人で決めた“当番表”だった。
 月曜日の朝食当番は往人。夕食は真希。火曜日の朝食は真希で、夕食は往人。水曜日の朝食は往人で、さらに水曜は弁当の日でそれを作るのも往人の仕事。夕飯は真希、木曜日の朝も真希、夕食は往人……。
 毎日の風呂の掃除と用意は往人の仕事。火曜日の朝と金曜日の朝のゴミ出しも往人の仕事。夕飯の買い出しはその時々にじゃんけんで決める。――但し、これは実際にじゃんけんで決めた事は殆ど無く、同居開始から一週間も経った頃には二人一緒に行くのが常になった。
 洗濯は自分のものは自分でやる事……これも表にはそう書かれているが、きちんと守られたのは最初の三日だけだった。言うなれば、その時点で真希は同居人に自分の下着を触られる事に慣れてしまったのだった。
 結果、暗黙のうちに洗濯は往人の当番となり、逆に往人が本格的に体調を崩してからは真希が往人の分までも洗濯を請け負うようになった。
 真希は表に書かれている取り決めを、一つ一つ指で追いながら、それを決めるに至った口論にも似たやりとりを思い出し、時には吹き出すように口元に笑みを浮かべる。
 故意かそうではないかに関わらず、当番をサボってしまった場合は罰として翌々日までの全ての家事を請け負うこと。
 食器や家具などをもし破損させてしまった場合、破損させた者が自腹で弁償すること。
 もし帰りが遅くなる時などは……
「……ぁ……」
 じわりと、視界が歪み、文字が判読出来なくなる。咄嗟に目元を拭うも、後から後から涙が溢れてきて止まらない。
 表の文字を追っていた指から力が抜け、ふらりと腕が下がる。そのまま真希は膝から崩れ落ちた。
「あぁぁ……うぁぁ……ぁぁぁぁああぁ…………」
 ひとたび嗚咽が漏れ出すと、もはや止める事など出来なかった。
 真希はただ、子供のように声を上げて、泣いた。


 
 

 不意に何かに呼ばれた気がして、真希はベッドから顔を上げた。どうやら知らぬ間に眠ってしまっていたのか、カーテンの隙間からは西日の赤い光が差し込んでいた。
 真希はのそりと立ち上がると、洗面台で顔を洗った。居間へと戻り、明かりをつけるなり――またしても呼ばれたような気がして、真希はふとテーブルの上へと視線を落とす。そこには、先ほどポストから持ってきた大量のチラシの束が無造作に放られていた。
 それらを一枚一枚、丁寧に取り分けていく。業者からのダイレクトメールやチラシが大半を占めるその中に一枚だけ紛れていた紙片を見るなり、真希は体が震え出すのを止められなかった。
 それは何の変哲もない、ごく普通の――いわゆる“不在票”だった。
 しかし、そこに記載されている送り主の名前が、真希を震えさせた。
 すぐさま携帯を取り出し、不在票に記載されている連絡先へと電話をかける。電話は配達に来たであろうドライバーの携帯へと直接繋がり、時間帯的に今からの再配達は無理だと言われるも、真希は何時になってもいいからどうしても今夜持ってきて欲しいと食い下がった。
 結局先方が折れる形で本日中の配達をとりつけ、通話を切るなり真希は居てもたってもいられず、アパートのドアの前へと躍り出た。先方の口ぶりから、どう考えても十分や二十分で配達されるわけはないのだが、それでも待たずにはいられなかった。
 小箱を脇に抱えた不機嫌そうな配達屋の男がやってきたのは午後九時過ぎ――電話をかけてから三時間以上が経った頃だった。まさか部屋の前で待っているとは思わなかったのか、男は真希の姿を見るなりギョッと足を止め、途端に愛想笑いを浮かべながら小走りに駆け寄ってきた。
「お、お待たせしました……ここに受け取りのサインをお願いします」
 ボールペンを渡され、署名をする手は震えたままだった。ただでさえかつての同居人に“幼稚園児が泣きながら書いたような字”だと揶揄された字が、さらに判読の難しいものになる。配達員も困った顔をしていたが、さすがに書き直しを求められる事は無かった。
 手続きを済ませ、配達員から小箱を受け取って真希は部屋の中へと戻る。配達されたのは、一辺が二十センチほどの正方形のダンボール箱だった。
 真希は再度、ダンボール箱に張られた荷札へと視線を落とす。送り主の欄には間違いなく“相場往人”と書かれていた。


 さながら、死人から手紙を貰ったような気分だった。――否、比喩ではなく、真希にとってはまさしくそうだった。
 箱を開ける事を躊躇わなかったと言えば嘘になる。送り主は相場往人――その表記が意味するものが何か、真希にはよく解っていた。
 震える手で、ダンボール箱を開封する。中から出てきたのは、赤白のチェック柄の包装紙に包まれた、一回り小さな正方形の箱だった。
 包装紙を剥がす――包まれていたのは、新品の目覚まし時計の箱だった。可愛らしいペンギンの形をした目覚まし時計であり、さらに包装紙の中にはメッセージカードも同封されていた。
 カードの表には“食いしん坊の猫へ 飼い主より”の文字。裏には“俺が居なくなっても遅刻するなよ”とだけ書かれていた。
「まさか……」
 真希は顔を上げ、視線をカレンダーへと向ける。今日は、8月11日。それは真希の、18才の誕生日だった。
 真希は咄嗟に、かつて往人としたやりとりを思い出していた。あの時、往人はさも興味ないとばかりにそっぽを向いていた。真希も教えなかったし、尋ねられる事もなかった。恐らく、こっそりと生徒手帳なり保険証なりを盗み見て調べたのだろう。いくらなんでも偶然この日に届いたとは考えられない。
「……何よ、偉そうに……年下のくせに」
 胸の奥からこみ上げてくるものに、真希は目頭が熱くなるのを感じた。しかしそれは嬉しさ故のものではなかった。喜怒哀楽で判断すれば、“喜”ではなく“哀”に属する感情だった。
 往人が自分の置かれた状況についてうすうす感づいていたであろう事は、最後の夜のやりとりからも解る事だった。だからきっと、あの男はあの男なりに、自分が居なくなった後の事が心配で――そのくせ、意地っ張りだからこんなひねくれたメッセージしか残せなかったのだろう。
 プレゼントに目覚まし時計を選んだのも、きっとそれがギリギリだったのだろう。今にして思えば、夏休みに入る直前の往人の行動は異常だった。発作でまともに働ける状態ではないにもかかわらず、無理にバイトの面接に向かっては、採用されても2,3日と経たずにクビになるといった事を繰り返していた。
 あれは、このためではなかったのかと真希は思う。養父からの養育費ではなく、自分で稼いだ金で何かを残したくて、往人は動かない体に鞭打っていたのではないか。
 それほどまでの思いで贈られたプレゼントなのに、真希は悲しくて堪らなかった。そんな自分を殴りつけたいほどに嫌悪しながらも、それでも思わずにはいられなかった。
 違う。
 違うのだと。
 プレゼントなんかどうでもいい。
 ただ一言……そう、“その言葉”さえ聞かせてくれれば、決断する事が出来たのに。
 かつての往人からの贈り物ならば、ひょっとして――そんな淡い期待は、メッセージカードの表と裏の文章によって裏切られた。
 正真正銘、これが最後のチャンスだった。もう二度と、“あの往人”に会う事はない。その真意を尋ねることも出来ない。
 胃を絞られるような強い後悔が、真希の体を支配していた。
 何故あのとき、自分はもっと強く詰め寄らなかったのだろう。もう二度と会うことは出来ないのに、中途半端に格好つけて追求をやめてしまったのだろう。
 解っている。単純に勇気が無かったのだ。自分からはどうしても切り出せず、往人の方から言わせようとし向けたのがその証拠だった。
 
 瞬間、真希の脳裏にフラッシュバックのように浮かんだ光景があった。
 あの夜。月光に似て非なる光の奔流に包まれながら、相場往人を送った夜。
 これがもう本当の最後だからと、真希は“本音”を聞き出そうとした。
 それまでさんざんにはぐらかされ、誤魔化されてきたが、今ならばきっと――そんな懇願にも似た淡い期待は、無惨にも裏切られた。
『――とうとう最後まで、ただの一度も言ってくれなかったわね』
 涙を堪えながら、震える声で言う真希に、あの男はいつも通りの態度でこう言った。
『……さて、どうかな?』
 それは、真希の目にも強がりにしか見えず、事実そうだと思った。

 あの時、往人は「さて、どうかな?」と言った。あれはひょっとして強がりでも何でもなくて、事実だったのではないか。「既に言っている」という意味ではないのか。
 その事に気がつく――まるでそれ自体が“鍵”であったかのように、真希は手の中にあるメッセージカードの違和感に気づいた。よく見ればそれは不自然な厚みがあり、カードの端を指先で丁寧に触ると、ぺりぺりと二つに剥がれたのだった。
 そう、巧妙に貼り付けられてはいたが、メッセージカードは元々二つ折りのものだったのだ。そして隠されていた本当の“裏面”へと視線を落とした瞬間。
 真希は、熱いものが頬を伝うのを感じた。
「何よ、バカ……」
 嗚咽混じりの声で、真希は呟く。
「こういう事は……面と向かって……口で言えっての」
 臆病者、ひねくれ者、チキン野郎、意地っ張り――汚い言葉で次々に罵りながら、真希は再度涙を溢れさせる。
 真意である確証などない。あの意地悪な男が冗談半分に書いた言葉なのかもしれない。
 それでも。たとえ嘘であっても。
 真希は、己の中にあった最後の迷いが霧散するのを感じた。
「………………っとにもう…………どんだけ意地悪なのよ、アイツ…………」
 まるで、体中に絡みついていた見えない鎖が粉々に砕け散ったかの様。同時に、真希は沸々と、血が沸騰するような強烈な怒りがこみ上げてくるのを感じていた。
「年下のくせに……あんたが居なくなってから、あたしがどんだけ………………あーーーーーーーもうっ、腹立って来た!」
 真希はそのまま怒りにまかせ、カードを二つに破り捨てようとして――しかし、出来ない。唇を噛みながら、カードを摘んだ両手を下ろす。
「そっちがそういう気なら、あたしだって…………あんたに……っ………………!」
 じわりと、涙腺に熱いものがこみ上げてくるのを感じて、真希は己の感情を無理矢理に怒りで塗りつぶした。
 “着信”があったのは、まさにその時だった。
「…………っ……」
 突然震え出した携帯電話に、真希はありえぬ程に驚いた。まさか、この着信もあの男の仕込みでは――そんな淡い期待は、液晶画面に表示された名前によって打ち消された。
「…………もしもし」
『あっ、愛川さん……今大丈夫ですか?』
「うん」
 なるべく多恵に失望を気取られぬ様、真希は普段通りの声色を真似たつもりだった。が、電話口で微かに息を呑むような気配を感じる。自分で思うほどには巧く出来なかったらしい。
『…………ええと、その……愛川さん、明日何か予定あったりしますか?』
「……今のところ予定はないけど……」
『じゃあ……もし良かったら、明日一緒に出掛けませんか?』
「あたしが? 委員長と?」
『愛川さんさえ良かったら、他にも何人か呼ぼうかと思ってるんですけど……ほら、前に一緒にカラオケに行こうって話をしたじゃないですか』
 真希にはもう、多恵がどうして突然電話などかけてきたのか分かる気がした。恐らくは、往人や千晴らとの事が噂にでもなっているのだろう。それで心配をした多恵は、気晴らしに誘ってくれているのだ。
「…………うん、いいよ」
 受話器越しに安堵の息使いが聞こえた。多恵は多恵なりに、一大決心をして電話をかけてきてくれたのだと、改めて理解する。
(…………昼までのあたしだったら……)
 間違いなく断っていただろうな――そんな事を思う。たとえ多恵がこちらを慮って誘ってくれたのだとしても、そんな多恵を気遣う余裕すら無かっただろう。
 多恵と細かな待ち合わせのやりとりをして、真希はそのまま通話を切った。
「…………まさか委員長からの電話もあんたの仕込みじゃないでしょうね?」
 呟いて、真希は再びメッセージカードを手に取る。
「……全く、あんたの事なんて忘れちゃおうって、そう思ってた所だったのに」
 自然と口元がニヤけそうになってしまう。気づいて、慌てて引き締める。
「ねえ、ユキト。……あんた、あたしの“返事”を聞くのが怖かったんでしょ? だからこんな……“勝ち逃げ”みたいな形でしか言えなかったんでしょ?」
 ペンギン型の目覚まし時計へと手を伸ばし、そっと撫でつける。つるつるの表面がひやりと冷たく、手触りが良い。
 真希はそれを、まるで宝物でも抱くかのように、両手で抱きしめる。
「でも、ご生憎様。あんたの百万倍、あたしは負けず嫌いなの。こういうことをされたら、意地でもあんたの“困り顔”が見てやりたくなったわ。あんたが居なくなってから今まで、死にたくなるくらい辛かった分、全部あんたに返してやる。めいっぱい意地悪して、あんたを困らせてやる」
 隔たる世界への渡り方など知らない。知っている者の宛てすらない。しかし何故か真希には、それが不可能な事であると思えなくなっていた。
 何度も考え、しかしそれは絶対に不可能なのだと諦め続けていたその道を歩む決意が、まさか“勝ち逃げは許さない”という思いから生まれるとは、真希自身予想だにしなかった。
「どんな手を使ってでももう一度あんたに会ってやるんだから。顔が違っても、あたしのことを覚えてなくても必ず見つけ出して……今度は、自分の口から言わせてやるんだから」
 絶対に逃がさない――想いを体現するかのように、真希は目覚まし時計を強く、強く抱きしめ続けた。


 


 

ヒトコト感想フォーム

ご感想をひとことどうぞ。作者にメールで送られます。


ヒトコト

 

 

Information

現在の位置