1)しまおかこういちは、東京近郊の埼玉大学教育学部の大学教員です。約30年間勤務しています。
教育学部で「経済学」の教育・研究していますが、知らず知らずのうちに経済学部の「経済学」と大きくかけ離れたものなっています。経済学に関する学会にいくつか所属していますが、近年ますます違和感を禁じ得なくなっています。その原因は、経済学であつかう人間像の貧困にあります。その人間像は「功利」「厚生」を追求する規格化された人間像です。ぼくはいつしか教育の視点から人間の多様性と多義性、可変性を観ているからです。公「教育」という規格化されたお仕着せの人間像は「経済学」の対象としてきた人間像と大差がありません。

2)しまおかこういちは経済学と教育感とは本来、融合するものと思います。なぜなら経済に適応される法則は人間に適応される法則の特殊な一部だからです。それだけではなく、もともとしまおかは「経済成長(開発)論」を専門としてきました。それは直に「人間成長(開発)論」と結びつかなければならないと感じています。それはとりもなおさずしまおか経済学は直に教育感と一体のものであることを意味します。人間は特異的に多様で、多義的に成長・開発されます。またそうでなくてはならないと信じているからです。
しまおかの経済学は人間の関係力を基礎に展開されようとしています。関係力には関係を創る力だけではく、関係を引き込む力も含まれています。関係を引き込むとはたとえば絶対的「弱者」(重度障害者、老人、赤ちゃんなど)は関係を引き込む力をもっています。引き込むことによって関係を創出します。非常に多くの古今東西の先学の教えを受けつつも、このアイディアはまったく独自のしまおか経済学の創出を意味します。だからみずからを「不経済学者」と呼んでいます。

3)しまおか経済学は同時にしまおか教育感・教育方法の不断の変革を要求します。教育における場所性と身体性を重視しています。野麦峠越えの20年がその一つです。野麦峠越えが終わっても、たえず授業方式を変革しています。教育にしばしば芝居を芝居を取り入れるのはそのためです。教育に「場所性」、身体性そして述語性を取り入れ、「講壇経済学」を拒否しています。ここで教育感と「感」をわざわざ使ったのは教育学にもとづくりっぱな教育ではないからです。

4)しまおかこういちは、一女一男の父親です。2002年9月22日に、娘の娘が生れました。ハーフです。息子は作曲を目指して勉強しているかたわら、芝居、海外旅行など精力的に活動しています。でもしまおか家はみな世渡りがとても下手です。びんぼうで出世はできないでしょう。

5)しまおかこういちは、心臓の難病である「拡張型心筋症」の患者です。心不全、左下肢の血栓症、そこからくる鬱病、そしてアルコール依存症などたびたび入退院をくりかえしています。死への覚悟?いや死を楽しみに迎えることができます。究極の楽しみです。「楽しくなくっちゃ勉強じゃない、楽しくなくっちゃ仕事じゃない、楽しくなくっちゃ人生じゃない」というフレーズはとても気に入っています。どうやら、鬱病とアルコール依存だけは断ち切りました。もともとそんな病症はなかったのかも知れません。これからは、かつて医者が禁じていたすべてのことをやる決心をしています。

授業中、学生が撮ってくれたものです