「ひろみ記念ホーム」建設まで
2005年2月6日現在
本日は、インドのケーララ州の山岳地帯に建設された「ひろみ記念ホーム」について、その建設資金寄贈者、佐藤京子さん(日本ケーララ友好協会副理事長)に、「ホーム」建設に至る話を伺います。 以下「光」は島岡、「京」は佐藤京子さんです。 文責:島岡 光一 |
光:京子さん、こんにちわ。お久しぶりです。 京:ほんとにお久しぶり。光ちゃん、お元気だった? 光:はい。なんとなく、カラ元気を出しています。今日は、京子さんに例のケーララにある「ひろみ記念ホーム」がどのようにして建設されたか?お伺いに参りました。 ぼくは、2003年11月にケーララにスタディツアーを行う前まで、あまり知らない土地だったのですが、京子さんはどうしてこのような日本では名もない土地に母子寮を建てようと思われたのですか? 京:なんだか、あらたまって恥ずかしいわね。私ね、光ちゃんのホームページをこっそり、長い間覗いていたのよ。そうしたら光ちゃんが「ケララに興味がある」と書いていらっしゃったでしょう?私こそびっくりしてしまったわよ。「え?どうしてどうして?」て思ったの。姉のひろみの導きかしら?って思ったわ。建設資金はその亡くなった姉のひろみの遺産をあてたんです。 光:・・・・お姉様は、いつお亡くなりになったんですか? 京:1998年のことです。4年間、患っておりまして・・・姉のひろみは生前、堀田善衛さんの『インドで考えたこと』とか、藤原親也さんの『インド漂流』を読んでおりました。そのとき、「どんな状況にあっても人間は生きなければならないね」言って、それらの本から生きる力を得たように思いました。私自身も姉の生き方に少なからず影響を及ぼしていたと思います。でも、実際には、力尽き、その年の秋に急逝しました。姉の死は私の生き方を揺すぶりました。 光:そうですか・・・お姉様と親しくしていらっしゃったんですね?京子さんもお力を落とされた? 京:はい。私も(姉の死後)苦しい日々の中で思ったことは、インドの人々のために姉の残した遺産で何か形のあるものを残せないかということでした。そんな時、ネパールに小学校を建てた日本人の男性のことをテレビで知り、私も小学校を建てようと、朝日新聞の「声」欄に投稿したの。 光:それがヒロミメモリアルホームができるきっかけになったんですね?その「声」に投稿した文書を拝見できますか? 京:お恥ずかしいのですが、ご覧になる?これよ。
光:これでは、もっぱら小学校を建てようと思われていたのですね?それがどうして「ホーム」つまり母子寮に変わったのですか? 京:30通以上、ネパール、インド、バングラディシュなどの学校や身体障害者の施設を建てた日本の団体から、資料が送られてきたり、また金銭の協力をお願いしたい旨の連絡がありましたが、いずれも金の無心のように思われ、気持ちはもう一つ定まりませんでした。 光:ほほ〜〜。そんなに反応があったのですか? 京:はい。そこで、投稿を読まれた所沢在住のAさんからケララ在住の(日本人)KFさんを紹介され、KFさんが日本に戻られたときお目にかかりました。お目にかかり、彼女が信頼できる方であり、その運営管理がカトリック教会であることを考え、現地との連絡、土地の決定、家の設計等を全部KFさんにお任せすることにしました。 光:わ〜〜!勇気の要ったことですねえ。見ず知らずの方だったんでしょう?そのKFさん。 京:はい!もうご信頼するしかありませんでしたし、カソリックも信用するしかありませんでした。その際、”ケララでは、学校は十分いきわたっています。欲しいのは母子寮か老人ホームです”とのことでした。 光:ははあ〜〜。そういうものですか!現地ならではの発想ですねぇ。 京:そうなんです!KFさんの案は最も具体的でしたし、なによりも、生涯、乳児院で働いた姉に相応しいように、母子寮となったのです。 光:お姉様のひろみさんは、乳児院で働いてらっしゃったのですか! 京:ええ。2001年2月KFさんのご尽力でヒロミメモリアルホームが完成しました。10日オープニング・セレモニーに出席した私は、実際に入所することになる女性と子どもたちに会い、彼女たちのこれからの幸せを祈らずにはいられませんでした。 光:ありがとうございました。お姉様のことを思い出させてつらい思いをされたことでしょう。ごめんなさい。そのお姉様も少年時代のぼくもお会いしたことがあるはずですよね。他人事とは思えませんでした。でも、お姉様のご遺志がこんなに具体的に姿を現わしたこと、第3者のぼくも感動しました。その「ホーム」建設で現地でご尽力いただいたKFさんが、こんどはぼくたちの研究のお役に立って頂くなんて、不思議の感に堪えません。 京:そうねえ。光ちゃんも、お身体を労ってよ。そして、またケララ・ツアーを計画してね。 光:はい。必ず。 |