H.AKIKO
昭和46年10月11日生まれ  頚髄損傷C1レベル 24時間の人工呼吸器使用

月     日 第1章・・・アメリカでの事故から日本に帰国まで
1998年 6月 3年間のOL生活後渡米
アメリカカルフォルニア州アーバィンのUCI大学に語学留学
1999年 3月 22日 留学先で交通事故に遭う、アメリカサンタナ州メディカルセンターに入院する
夜、学校から帰宅途中信号機のない横断歩道を歩行中、時速100キロ程で
乗用車にはねられる!事故直後、後続のドライバーが心臓マッサージを施してくれたそうだ。

病院にて蘇生、加害者は無職のベトナム人、事故の補償なし、私は事故前後の記憶がまったくなかった。

2日後家族が日本から渡米。意識はあったそうだが、記憶がない、肺が潰れ、右足ひざ下骨折腰、尻、太もも打ち身擦り傷。
4月 22日 留学先の病院に1ヶ月入院
意識表示YES・・まばたき一度  NO・・まばたき2度
日本での受け入れ先の病院がなかなか見つからず、父が大変苦労したと聞く
26日 日本に帰国
看護師、呼吸器技師、母と共に人工呼吸器を付けストレッチャーで
(入院先病院ー搬送業者ーロサンゼルス空港ーーJAL成田空港ー搬送業者ー県立病院(現私立病院)
午後10時県立病院(現私立病院)に到着
何人もの医師や看護師が待っていた、当たり前だけど日本人ばかり、日本に帰って来たことを感じた。人から見たら意識がはっきりしているかどうかもわからない私に「おかえりなさい」と言ってくれた先生がいた。びっくりしたし、嬉しかった。
第2章・・・日本での入院生活
5月 12日 県立病院(現私立病院)での入院生活がスタートした
胃瘻留置手術・・栄養を胃に直接入れるための管挿入。水も飲めない経管栄養の日が続く。
嚥下(飲み込み)が出来るか試す、初めてゼリーを口にする。うまくいく、アイスクリーム・プリンもOK!

日本食に飢えていたので頭に浮かぶものは食べ物のこと、思いつくままに言って見る少しずつ病院に届く(うなぎ・焼き鳥・ラーメン)アメリカにいるときに無性に食べたかった生卵かけご飯、みたらし団子、大福など誤飲に気をつけながら少しずつ食べられた。大福を内緒で食べて事後報告。先生がびっくり、病院食開始
19日 膀胱瘻留置手術・・尿を膀胱から直接流すための管を挿入
6月 11日 腸閉塞の手術・・傷口がつかず転院が1ヶ月延期となる
8月 25日 神奈川リハビリ病院へ転院
12月
呼吸器のアラームが鳴ると、ナースセンターに直接ブザーが鳴るように設置
入院目標・・・{1}発声が出来るように {2}残存機能の活用 {3}在宅に向けての準備

*発声ーーカフを抜いて5分から少しずつ時間を延ばしていった、スピーチバブルを試  したが苦しくて駄目。
*ナースコールーー舌タッチ
*ーー環境制御装置の活用、テレビのチャンネルを切りラジオのON・OF ワープロ   の練習

首が安定しないので、頭がずれて舌がセンサーに届かなくなるとナースコールが使えないのでチッチと舌打ちをして呼ぶ。
在宅に備えての家探しや家の改造、家族は大変だったと聞く。

この頃発声は途切れ途切れだがおおよそ理解してもらえるようになった。
食事はすべて口から何でも食べられた。週に一度車イスに乗り訓練室に行くようになった。

訓練の時は洋服に着替えた。まさか洋服が着られるとは思ってもなかったので、できるだけ気に入った服を選んで着せてもらった。おしゃれが好きだったので、洋服が着られるのは嬉しかったけど、カッコよく着られなかったことが悲しかった。
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