- 幼少から書が好きで6歳から高校まで書道塾に通っていた。
好きこそものの上手なり・・・小学生時代は賞を貰って皆に誉められてうれしくて本当にうれしくて。いろいろやったが結局続いたのは書道だけでした。
- これからどうするんだ?と自問自答した18才の頃
勉強嫌いのわりには高校は進学校、ロックバンドのボーカルをやってライブ活動した り・・楽しかった・・・でも、これでは食っていけないだろう・・・何をすればいいのか?
いったい自分は何が出来るんだろうか?と真剣に考えだしたこの時期。
この時期は勉強しているふりをして、九成宮禮泉銘を部屋にこもって毎日深夜まで
臨書してた。
- 絶対通ると豪語した大学へは2度も落ちる
今まで続けてきた書をいかせる道へ進もうと某大学を受験、この大学は書ではかなり有名、ここでと決心。しかし、見事不合格。一浪して学校の推薦で受験した翌年も見事不合格!
なんでや!
- もうこの道しかないと東京へ19歳の春
一浪していた時、父の建設業のアルバイトや喫茶店でのアルバイトを経験する。
<その頃の私と父のやりとり>
私:「将来は何とか書の道で生活できるように頑張る・肉体労働は辛いわー。」
父:「筆をぶらぶらさせて飯が食えるんやったら食うてみー。」
そんなやりとりのなか、大学へも行けずに途方に暮れる。どうすればいいんだー。
- 東京目黒“日本書道専門学校”へ
好きな書道に関する勉強だけすればいいんだから、これも悪くないか・・・
中国書道史・日本書道史・日本文学・碑法帖解議等など実技と併せて数々の知らな かった事柄を学ぶ。必死に勉強した三年間!
- 専門学校時代
この頃はまだ雅号はなかったが、本名;達義。毎日書いた作品を何百枚と風呂敷きにつめ込んで専門学校へ・・・。
少しでも親に迷惑をかけたくないと喫茶店でアルバイトを・・・終わるのが11:00。それから夜が明けるのも忘れて毎日書いて書いて書きまくった。
- この師ありて今の我あり
その作品を先生方に見てもらおう・・・いろんな先生がいた。もっと枚数減らせ・・・とか、日曜日に私の家に持ってきなさい・・・とか、下手な臨書は何枚やっても同じよ・・・とか、言ってる事を頭では何とか理解しようとしたけど・・・。
“こんなに毎日必死に頑張って書いているのに、それを先生と呼ばれる方々がなんとも情熱の無い教え方やんけー、もっと真剣にみてくれー。”
ある日のお昼の休憩時間、いつもと同じように風呂敷き作品を持ってあまり期待もせず望月虚舟先生のもとへ・・・しかし、この先生だけは一枚一枚の作品をすべて裏返しながら一言ずつ丁寧にアドバイスをしてくれました。
今思うと、他の先生方の言っていた事もよく解るし、迷惑な話やったやろなと・・・でも、その時、その時は涙が出るほど嬉しかった。明日も書くぞーと思えた。
- またまた挫折22歳
専門学校での勉強も充実。このまま東京で頑張るか・・・・
しかしこの年、大失恋!傷心し大阪へ戻った。やる気も失せて途方に暮れていた。
でも、なんかせーなアカン。と書道用品店へ就職。
- 出会いと苦悩の日々 22歳〜29歳
勤め先の書道用品店によく来られていた先生に「うちへ来て書の道で
頑張ってみないか」と誘っていただき、それから8年間ほど関西の一流の
書道団体に身をおく。この時期に本当にいろいろな事を教えていただき、そしてそれらを踏まえて、これから自分がどうして生きたいのかがはっきりと見え始めました。
- 青霄書法会設立 29歳
今まで学んだことをベースに自分が主宰する書道団体を設立!
2004年の6月で設立10周年を迎えました。青霄で“せいしょう”と
読み雲ひとつない青空を意味する。
- 大阪市内に教室を展開
難波・心斎橋・梅田と教室を展開、夜の授業が主だったので、午前中は
御堂筋を行ったり、来たりしてチラシを毎日手配りしました。
- 現在では一般・学生合わせて約1,200名の生徒数を数える。
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