命の尊厳、その回復を願って  第6〜10回

〈このコーナーの趣旨〉
このコーナーでは、近年いよいよ失われつつある命の尊厳について様々な角度
から記して行きたいと願っています。社会という面からは、命の尊厳を失わせた
現代社会のあり方、あるいは、生命軽視に由来すると思われる現代社会が持つ様々
な問題について共に考えられたらと願います。また、聖書からは、命の尊厳に関
する記述を取上げ、生命尊重に対する聖書的根拠を示したいと考えております。
さらに、医療技術や生殖技術の飛躍的発展に伴って発生した倫理上の問題につい
ても、聖書的生命観の立場から言及できれば感謝です。では、このコーナーが人
間の生命が「なぜ、大切にされなければならないか」と「なぜ、大切にされてい
ないのか」の両方を学ぶよい機会となればと願いつつ。

第10回「いのちの尊厳、その聖書的根拠(3)〜神の交わりの相手として」


どうも、「本質的なことは問わない」というのが日本社会における暗黙の了解
のようです。「何のために勉強するのか」を問わないで生徒は勉強し、労働者た
ちは「何のために働くのか」を考えないように仕事に追われ、多くの男女が「何
のために結婚するのか」が明確でないまま、結婚します。結局「何のために生き
るのか」わからないままで生き続け、「死んだらどうなるか」も知らず、行き先
不明のままこの世を去るというのが平均的日本人の一生ではないでしょうか。

その中にあって「なぜ、人を殺してはいけないのですか?」という問いは、日
本中を震撼させました。問い掛けた側の異常性だけが、恐怖を抱かせたのでしょ
うか?むしろ、問われた側が震撼した理由は、自らの内に答えを持ち得ないから
ではないでしょうか。極めて本質的な問いが明確な解答を持たぬ時、それは問わ
れた側を震え上がらせるだけの力を持つようです。
「なぜ、人を殺してはいけないのですか?」それは、「御互いそれは問い掛け
ない事にしよう。それを問い掛けたらやっていけないから」という日本社会の暗
黙の了解を打ち破るアナーキーな問いかけであったに違いありません。

創世記2章前半には人を殺してはならない明確な根拠が記されています。「そ
の後、神である主は、土地のちりで人を形作り、その鼻にいのちの息を吹き込ま
れた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2章7節)

ここでも、やはり人間と他の被造物との決定的な違いが描かれています。人間
は「神の息」、言いかえるなら「神の霊」が吹き込まれているのです。他の動物
はこの神の霊を持っていません。人間だけが神様の霊を所有しているのです。
そして、この神の霊を持つ者だけが神様との交わりを持つ事ができます。すべ
ての被造物の中で礼拝行為ができるのは人間だけです。以前、ジュースの自動販
売機の横面に随分宗教的な落書きを見た事があります。「人と生まれし喜びは合
わす手のあるありがたさ。」多分、どこかの新興宗教のキャッチフレーズか何か
でしょうが、見事な句だと感心しました。人間のだけが唯一宗教性を持つ生命体
であることを端的に表現しているからです。

わが家には電話もファックスも電子メールもあり、私は実に様々な形でのコミ
ュニケーションが可能です。ところがいつも問題になるのは「相手がそのような
手段を持っているか」どうかです。図面や楽譜を送りたい時に「ファックスをお
持ちですか」と尋ね、コンピュータで読み取るデータを送る時は「電子メールの
アドレスはお持ちですか」と御聞きしなければなりません。電話もファックすも
電子メールも両者が所有していて始めて交わりが可能となります。

礼拝という宗教的な交わりも同様です。神と人との両者に共通のコミュニケー
ションの手段がなくてはなりません。その共通のコミュニケーションの手段とい
うのが「神の霊」なのです。霊的な存在の語り掛けに対して応答できるのは霊的
な存在である人間だけなのです。
ですから、神様の目からご覧になるから、人間と他の生命とは絶対的に異なる
わけです。その違いは「呼べば答える相手」と「呼べども答え得ぬ相手」と表現
しても良いでしょう。「応答性の有無」と一言で言ってしまう事も可能です。「生
身の人間」と「人形」の違いだと表現すれば、さらに実感できるでしょうか。

神様にとっては人間と他の被造物とは、わが子とぬいぐるみの人形ほどの絶対
的な違いがあるはずです。人間だけが特別な意味において神様の交わりの相手で
あり、故に愛の対象なのです。ですから、人間の命は神様にとって絶大な価値あ
るものなのです。そのような神様の交わりの相手であり、熱愛の対象である人間
の命を神様の許可なしに奪う事は最も神様が悲しまれる事なのです。


第9回「いのちの尊厳、その聖書的根拠(2)〜他の被造物との役割の違い」

ペットの処分場という施設があります。行き場のなくなったペットたちが文字
通り最後に行き着く場所のようです。飼い主は自ら手を下すわけではないのです
が、結果的にペットを死に追いやるという悲しい現実があります。牧畜業の多く
も育てた家畜を最終的には殺す事で生計を建てています。人間は何らかの形で動
物を死に至らしめています。
人間の側がペットや家畜などの動物を殺す事に対しての感じ方、考え方や判断
は人それぞれでしょう。しかし、ペットや家畜の側が飼い主を殺したとなると、
もうこれは大変なことです。飼っていた猛犬に噛まれた飼い主が死亡、馬に蹴ら
れて即死の馬主、象に踏み潰された象使い、どれもありえない話してはないでし
ょう。その場合、それを見聞きした人々の内に起こる思いは大差がないでしょう。
どうも、人間が動物を殺す事と、動物が人間を殺す事は本質的に違うようです。
どちらも痛ましい事柄でしょうが、後者の方が遥かに痛ましく感じるものです。
それは、私たちの考え方や感じ方が「人間と他の動物との決定的な違い」を前提
としているだと考えられます。

創世記1章28節には次のように書かれています。「神はまた、彼らを祝福し、
このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。
海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」

この聖書箇所は一般に文化大命令と呼ばれます。ここで神様は人間に対して他
の被造物への支配を命じています。人間が他の被造物を支配することは、神様の
御心なのです。それどころか人類に対しての最も基本的な命令と言ってもよいで
しょう。
支配権と言ってもそれは、神様からの委託に過ぎません。神の似姿に創造され
た人間があくまで神様の代理として他の命を支配するのです。ですから、この支
配は「恵みの管理」あるいは「神の栄光を現す限りにおいての支配」と言いかえ
る事も可能でしょう。たとえば、経済的な利益追求による環境破壊などは最も御
心に反した行為と判断されます。それは、神様から委託された権威の御用乱用で
あり、神の栄光という目的を自己の栄光に置き換えたものと評価すべきでしょう。
ここにおいて、人間と他の被造物との関係は「支配者」と「被支配者」という
関係が成り立ちます。このような「神」「人間」「被造物」というヒエラルキーは
何千年にも渡り西洋文明を支配してきました。もっとも、最近ではこういう考え
方は人気がないのかも知れません。一部のエコロジー団体や動物保護団体からは
ご批判をいただきそうです。

もちろん、人間以外の生命にも尊厳があります。地球環境は他の生命のためで
もあります。しかし、聖書的な世界観から見るなら、その生命の尊厳は相対的、
あるいは条件付きと言うべきでしょう。やはり、聖書によれば、他の被造物は「神
の栄光のため」であると同時に「人間に支配されるもの」と位置づけられるので
はないでしょうか。他の動物を人間が食べる事、利用することは、原則的に神様
の御心にかなった事と言えそうです。

しかし、人間の命には絶対的な尊厳が与えられています。人間の命に関しては、
神以外の誰にもそれに対する支配権が与えられていないのです。動物の命の支配
権を持つのは飼い主や所有者などの人間です。しかし、人間の命の支配権を持つ
のは神様お一人だけです。人間は決して他の人間の命に対して(その生命の尊厳
を損なうようなレベルでの)支配権を持ってはならないのです。
奴隷制度(主人がその生命に対して絶対的な支配権を持つ)はその意味におい
ても、究極的には廃止されるのが聖書的だと私は個人的には考えています。また、
世界中の人権問題(権力が特定の人物に支配権を持つ)もそのような聖書的視点
からとらえるべきだと思います。胎児が人間であるという前提に立つなら、人口
妊娠中絶も、胎児の生命に対する神の支配権の侵害と解釈することもできます。

「人は所有する動物の命には一定の支配権を持つが、他の人間の命に対しては
支配権を持たない」だから、ゴキブリは殺してよくても、人間はいけないのです。
殺すという行為は他者の命の尊厳を否定する事だからです。殺人とは他者の命に
対して間違った支配権、本来持ち得ないはずの支配権を行使する事だからです。
人間の命の支配者は神様です。他者の生命を奪う事はその支配権に対する越権行
為です。人間の領分を超えた行為であり、故に神様に罰せられるべきものなので
す。


第8回「いのちの尊厳、その聖書的根拠(1)〜神の似姿としての人間」

ある時、豊臣秀吉が千利休に尋ねたそうです。「下々の者どもは、わしのこと
を猿に似ておると申しておるそうじゃが、そのたはどう思う?わしは猿に似てお
るかの?」
そこで問われた千利休、「似ておりませぬ」と申し上げてはあまりにも白々し
い、しかし、「似ております」と言っては身も蓋もない。そこで千利休の名解答
「秀吉様が猿に似ておられるのではありません。猿どもめが秀吉様に似ているの
でございます。」
まるで一休さんのとんち話のようです。

よく神様は人格的な存在だと言われます。しかし、聖書を読みますと、どうも
この表現は不正確なように思われます。神様が人間に似ているのではなく、人間
が神様に似ていると言う方がより聖書的には正確なのでは?と思います。神様が
人格的な存在なのではなく、むしろ、人間が神格的存在と表現する方がより聖書
的なようです。
人格的な神様、人間に似た神様なら、古事記やギリシャ神話の神々の方が、適
任でしょう。嘘はつく、争う、盗む、殺す、不倫する....と、私たち人間そっ
くりではありませんか。まさに、人間が自らの延長線上に作り上げた神々こそ、
人格的な神と表現すべきでしょう。「神は御自分に似せて人を造られた。一方、
人は自分に似せて神(偶像)を造った」という言葉があります。これは、聖書の
神観を簡潔かつ的確に表現していると思います。

創世記1章26節には次のようにあります。「そして神は『われわれに似るよ
うに、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、産みの魚、空の鳥、家
畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」
聖書は私たち人間を「神の似姿」として描いています。創世記1章によれば、人
間以外の被造物は「〜〜あれ」または「〜〜を生ぜよ」などの言葉によって自動
的に発生しました。ところが、人間だけは自動的に発生したのではありません。
神様は人間を特別のデザインで創造なさったのです。
それが「われわれのかたち」という言葉の意味です。「かたち」といっても神
様に外見上の形はありません。外側の形があるのは神ならぬ神、偶像です。では、
この「かたち」とは何でしょうか。英語ではこの「かたち」という言葉は、イメ
ージと訳されています。外見上の形を意味するシェイプやフォームではないので
す。つまり、人間が神のかたちに造られているということは、神様が知性や情緒
や意志を持ち、そして霊的な存在であるように、私たちも知情意を備えた霊的な
存在であるということを意味するのです。

ここに人間と他の被造物との決定的な差異が生まれます。基本設計が本質的に
異なるのです。「ゴキブリは殺していいのに、なぜ人間は殺してはいけないの
か?」という言葉が日本中を震撼させました。そのような本質的な問いに対して
の明確な答えを与えるためには、人間と他の生物との絶対的な違いを示す事が不
可欠です。
もちろん人間以外の生命に尊厳がないわけではありません。どれも神による被
造物としての尊厳はあるでしょう。しかし、それは相対的なものに過ぎません。
次回に示します人間の支配権との関係に左右されるものです。ですから、絶対的
な尊厳は神の似姿である人間にのみあるのです。神の似姿だからこそ、神様のか
たちに造られているからこそ、人間の生命は絶対的な尊厳を持つのです。


第7回「生命軽視の原因(7)〜命を管理し序列化する教育現場」


私は元高校教師です。かつて、私の同僚の中には「教師よりも教師を辞めた人
間の方が成功する」という自虐的なジンクスがありました。確かに世の中には、
もと教師という肩書きをお持ちの有名人がおられます。歌手なら、スティングで
しょう。日本ではBzの一人が教師であったとか聞いた覚えがあります。文学の
世界では、古くは夏目漱石を筆頭に教師経験者が多いようです。私も皮肉なこと
に教師を辞して「転職」して「天職」に着いたというのが実感です。
私の周囲には元教師の友人が何人かいます。会話の中で出てくることのひとつ
は、かつての教育現場の異常さ、その教育内容の空しさです。私などは、教育の
名を借りて、教育ならざるものに荷担してしまったという罪悪感すらあります。
今思えば、クリスチャンとして「地の塩」「世の光」としての使命を十分果たし
得なかったことを後悔するばかりです。
残念ながら、こういうことは、現場を離れて後、自らと教育現場を客観視して
初めてわかるようです。現場にいる時は、結局自分が見えていなかったのですね。
管理教育がよく批判されますが、管理されているのは生徒だけでなく教師も同様
です。自由な発想や大胆な試みは許されず、高尚な教育的理想など捨てさせられ、
上からの命令に従い、その意向を実行することに専念せざるを得ない組織的かつ
構造的な悪が、多くの教育現場には蔓延しているのです。

しかし、かわいそうなのは、教師よりも子どもたちです。一部の例外を除けば、
現在の日本の教育は「教育」ではなく、「加工」と呼ぶべきでしょう。教育とは
本来人格を含めた人間の全存在を育てることのはずです。ところが、よく知育偏
重教育と批判されるように、現在の教育は人格そのものでなく、付加価値(能力
や技術)を高めるようなものとなっています。人格と違い能力や技術は目に見え
て発表することも容易です。数値化して他の生徒や他校と比較することも可能で
す。ですから、学校側としては最も教育成果を父兄や地域にアピールしやすいわ
けです。また、日本の受験システムも、人格でなく、数値化できる学力を基準と
して合否が決められるのですから、人格育成より付加価値に重点が置かれるのは、
残念ながら当然の帰結でありましょう。
そういった知育偏重教育にあっては、子どもは人格ではなく製品です。そして、
より高い付加価値を持つ加工品が評価されるわけです。教育現場では人格の価値
よりも、付加価値が評価されると言う本末転倒が起こっています。さらに、付加
価値を高めるためには、その効率化のため画一的な基準で教育が為されます。よ
り良質の加工品をより大量に生産する工場と同じ発想です。当然、子どもたちは
良質の規格品という目標に向かって加工されます。
従って、規格から逸脱する命は学校社会の中ではその価値が認められません。
規格に当てはまらない多様な命、個性的な命は、本来、教育上評価されるべきで
しょう。しかし、現在の教育家では、それは規格外の不良品として評価されます。
「規格を外れた命は価値のない命」それが、管理教育の生み出した生命観です。
良質の規格品になり得た「いい子」や「優等生たち」は、学力はあるが人格は
育っていない場合が多々あります。確かに学校の優等生は一部の能力は高いので
す。学んだことをより迅速に忠実に再現することには長けています。しかし、現
実生活での判断力、複雑な人間関係を生き抜く能力などは、決して学力に比例す
るわけではありません。勉強はしてきたが学習はしてこなかったというタイプも
少なくないように聞きます。学校の優等生が必ずしも社会での優等生になり得な
いのは周知の事実でしょう。
一方、ただ、個性的であるだけ、多様なあり方の一部であるだけの理由で規格
外の不良品として烙印を押された子どもはどうなるでしょう。誰からも評価され
ず、自己の存在価値を持ち得ないのです。勉強やスポーツ以外にも自己の価値や
長所を発見することはあるはずですが、偏狭な大人たちはそれ以外の分野を評価
し、認めようとしません。最も子どもを正しく評価すべき親も、我が子が規格外
となることを極度に恐れています。一旦、規格外となった子どもを評価してやる
最後の砦は親であるはずなのに、親が「最後のとどめ」をさしている場合もなき
にしもあらずです。
「人間が管理のために規格を設け、それを基準に命を評価し、序列化し、価値
のない命を社会的に抹殺する」。それは学校教育が無言の内に生徒に叩き込んで
きたことではないでしょうか。命の持つ絶対的な価値、それを根底から覆してい
る責任の一端は学校教育にあると言えるでしょう。もちろん、学校だけを責める
ことはできません。学歴信仰に躍らされ、そのような学校教育を是認してきた国
民全体に責任は問われるべきでしょう。

今でも思い出すたびやりきれない思いがする事件の一つに「女子高生コンクリ
ート殺人事件」があります。加害者の少年の一部が出入りしていた暴力団の組員
の一人が、こう語ったそうです。「俺たちにはあんな恐ろしいことはできない、
最近の若い連中は本当に恐ろしい。」
加害者少年たちが暴力団に比べて、より凶悪であった訳ではありません。やは
り、暴力団はプロですから、悪においては暴力団が上です。少年たちがより残虐
であったのは、少年たちが未熟であったからに他なりません。成熟した悪は狡猾
です。成熟した悪は、決して残虐性を表面に出しません。暴力団の世界を見れば
それは明らかです。彼らの悪は悪のルールの中で行われ、闇の中で終結します。
その残虐性が社会に知られることはめったにありません。しかし、未成熟な悪は
愚かなまでに残虐性を呈します。悪のルールさえ逸脱して秩序なき暴走をします。
それが暴力団の悪より恐ろしいのは当然です。従来の悪の世界にもなかった悪を
生み出すからです。
近年に見られる少年犯罪の残虐性は、少年たちが以前に比べて凶悪になったこ
とを意味するのではありません。むしろ、未成熟であること、本質的なものが欠
落していることを意味します。幼児期から少年期に、人間として当然獲得すべき
ものをしないで来てしまったことが問題なのです。本来、家庭教育や学校教育を
通じて獲得させることを失敗した大人側のエラーと言うべきでしょう。
現在の教育が、規格外の少年犯罪者であれ、規格品のエリートであれ、著しく
人格の未成熟者を作り出しているのは疑いようのない事実でしょう。人格形成に
おいて必須である「命の絶対的尊厳」を教えないどころか、それに最も反する理
念に基づいて学校教育が行われている現実を知って頂きたいと願います。そこか
ら、管理教育、生命軽視、少年犯罪、この三つの密接な関連性が見えてくるはず
です。


第6回「生命軽視の原因(6)〜命までも数値化する経済至上主義社会」

2001年2月、信徒の方々とまた、某宣教団体の責任者と共にカンボジアを
訪問しました。目的は我が教会が派遣している宣教師を訪問しつつ、自らもカン
ボジアから学ぶためです。最初の2日間はアンコールワット等の遺跡を見学しま
した。
某宣教団体責任者であるこの先生は、大変フレンドリーな方です。外国の旅行
者にも気軽に話し掛けます。確かアメリカ人と先生とのやり取りで次のようなも
のがあったように記憶しています。英語での会話なので自信はありませんが、私
なりにその会話を再現してみます。
「そうか、あんたは日本から来たのか。ところで日本人は何を信じているのか?」
「日本人の多くは仏教徒だが、名目上に過ぎない。実質は何の宗教も信じていな
い。」
「そうか、では、日本人は無神論者なのか?」
「いいや、無神論ではないんだよ。無神論というのは強い思想だ。日本人は神を
信じないが、無神論者でもない、単なる物質主義者だ、さらに言えば金がすべて
なのだよ。」
「そうか、よくわかった、ありがとう。」

神を信じない人生観を無神論と呼んではならないでしょう。それでは無神論者
に失礼というものです。無神論とは本来、強く積極的な思想です。無神論者とは
神が存在しないという前提の上に明確な世界観、人生観を築き上げ、そのポリシ
ーに従って生きる人のことです。神なしに人生の目的を定め、人間存在の価値を
上からでなく、下から築き上げるのですから、それは一つの強烈な思想でありま
す。神はいないと言いながら、縁起を担ぎ、たたりを恐れる多くの日本人は、自
らを無神論者と呼んではならないでしょう。結局、貧困な神概念しか持たず、ヨ
ーロッパのようにキリスト教文明を通過した上での無神論を持たない日本人は、
ただの物質主義者であり、極論すれば拝金主義だと判断するのが妥当のようです。

そこで考えたいのが現代日本に代表される経済至上主義社会であります。本来、
資本主義経済というものは、根底に聖書的価値観があると言われます。その経済
活動には常にキリスト教的倫理が根底に流れているのです。
ところが日本における資本主義経済は神なき資本主義となってしまったようで
す。聖書的な商業倫理を持たない資本主義は必然的に利益最優先主義に陥ります。
神なき経済活動は単なる儲け主義となります。結局、経済活動の中に神がないの
で、人間の欲望や金銭自体が神となります。それは、神ならぬものを神の位置に
置くのですから、まさに偶像崇拝です。かくして、日本経済の下、国民の多くは
金を求め、金に仕え、金に献身します。物質的豊かさが幸福を与えるという盲信
の中、家庭と健康を犠牲にしてまで、金の出所である会社に献身している様は、
何か悪い宗教に取り付かれているようです。

このような高度経済社会は、ついに私たちの人間観や生命観にまで変革をもた
らしました。その変革の内容とは「すべては経済原則に基づいて価値が計られる」
というものです。人間すら、その所有や生産性に基づき価値がはかられ、序列化
されてしまいます。卑近な例で言えばいわゆる「三高」などはその典型でしょう。
「高学歴」「高収入」「高身長」そのどれもが、偏差値、金額、センチメートルと
いう数値で表現可能なものばかりです。結婚相手の条件は「三高」に限るなどと
本当に考えている女性がいるとすれば、かなりおめでたい人ですね。結婚の本質
においても、異性理解においても、可哀想なくらいはずしていますね。

結婚の条件だけならまだいいでしょう。日本国民は一生の間、数値化され評価
されいるのですから。子どもはテストの点数や通知票の数字、そして偏差値で計
られます。大人になれば、営業成績や給与、職業や勤務先のランク付けで評価さ
れます。そのように自分が、散々数値化され傷ついてきたにもかかわらず、次に
は自分の子どもを数値化して評価します。高度経済成長の中、どうも、そのよう
な生命観が日本には浸透していしまったようです。
当然、そのような生命観に立てば、人間が人格としてとらえられるのでなく、
機能、役割、社会への貢献度でとらえられます。そして人間の生命が数値化され、
序列化され、評価されます。そこでは、「より優れた命」と「劣った命」、「好ま
しい命」と「好ましくない命」が判別されます。
この生命観は、実際にはどのような形で日本の社会に現われているでしょう。
一般的には財政に負担をかけ、経済的に貢献度が少ないとされる高齢者、障害者
は生きる価値、生まれてくる価値すら疑問視されていまいます。そこからは、老
いや障害をマイナスとしてとらえる発想しか生まれてきません。「共に生きる」
などという発想などは、最も経済効率の悪いものでしかありません。また、いじ
めなどの問題も「劣った命」「好ましくない命」を否定することで自らの命の価
値を確認する行為として解釈することも可能です。

聖書は私たちに教えます。「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えると
いうことはできません。」人生二者択一なのです。どちらに仕えるかで、私たち
の生命観は二分されますし、また、その生命観に立つ社会も大きく異なるのです。