〈このコーナーの趣旨〉
このコーナーでは、近年いよいよ失われつつある命の尊厳について様々な角度
から記して行きたいと願っています。社会という面からは、命の尊厳を失わせた
現代社会のあり方、あるいは、生命軽視に由来すると思われる現代社会が持つ様々
な問題について共に考えられたらと願います。また、聖書からは、命の尊厳に関
する記述を取上げ、生命尊重に対する聖書的根拠を示したいと考えております。
さらに、医療技術や生殖技術の飛躍的発展に伴って発生した倫理上の問題につい
ても、聖書的生命観の立場から言及できれば感謝です。では、このコーナーが人
間の生命が「なぜ、大切にされなければならないか」と「なぜ、大切にされてい
ないのか」の両方を学ぶよい機会となればと願いつつ。
命に対する価値付けと尊厳の問題はこれまで書いてきましたように密接な関係がありま
す。聖書によれば、私たち人間の生命に対する価値付けの根拠は神御自身にあります。
聖書中、神様が私たちの価値を宣言しておられる箇所は、幾つもあるのでしょうが、最
もストレートな表現はイザヤ書43章4節の御言葉でしょう。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と神様は
御自身の民にその価値と御愛とを宣言しておられます。さらにここには「わたしの目」
という絶対的な価値基準と「わたし」という絶対的な愛の主体も明記されているわけで
す。つまり、「他の誰かが、価値がないと言ってもこの私はあなたに価値を見出す。世
界中の人々があなたを軽蔑し、憎み、見捨てても、私だけはあなたを愛している」とい
う神様の絶対性も描かれているのです。
では、「高価で尊い、愛している」と神様から熱愛を告白されているこの民はどのよ
うな民であったでしょうか。この43章は「だが、今、ヤコブよ」という言葉で始まり
ます。この冒頭の「だが」は何に対しての「だが」でしょうか?それは民の現状、有り
様に対しての「だが」でした。当時の民は、不従順、不信仰に陥り、偶像礼拝を続けな
がらも、それに対する悔い改めを拒み続けていました。本来なら神様のからの選びの民
としての身分を剥奪されても当然の状態であったのです。43章はそのような民の状態
に対しての「だが」で始まり、終始「だが」の文脈で神様が語り掛けておられるます。
「だが、あなたは私が選んだ民なのだ。私はあなたを決して見捨てない。私の選びは変
ることがはい。だから、もう一度、選びの民としての自覚をもって、私に立ち返りなさ
い」と神様は呼びかけておられるのです。
今回考えてみたい事、それは、神の愛の性質です。どうして、そのように愛するに値
しないと思えるような民さえ、神様は心変わりすることなく、真実に愛されるのでしょ
う。それは神様の愛が言わば、「価値創造的愛」だからです。神様の愛は相手の価値を
根拠に愛する「価値発見的愛」はないからです。神様の愛と人間の愛を比較する時、よ
くこの「価値創造的愛」と「価値発見的愛」という言葉が対比して用いられます。
私たち人間の愛は大方価値発見的愛です。相手の長所や魅力などの価値を発見して、
その価値を根拠に愛します。ハンサムだから、美人だから、学歴があるから、金持ちだ
からと外側の価値を根拠に異性を愛する場合があります。また、優しいから、一緒にい
ると安心するから、自分を大切にしてくれるから、理解してくれるからというような心
情的価値、自分にとっての精神的価値で誰かを愛する場合もあるでしょう。また、価値
観や趣味が同じだから、感性が合うから、使命を共にできるからというような共有や一
致という価値を根拠に相手を愛する事もあるでしょう。よく考えてみると私たち人間の
愛は、多くの場合、相手に何らかの価値を発見し、その価値を根拠に「価値の所有者」
である相手を愛するもののようです。
ですから、逆に言えば、価値がなくなれば、愛も消え去ってしまいます。相手が「価
値の所有者」でなくなれば、私たちの愛もなくなってしまいます。立場を変えて言えば、
自分が愛される価値を失えば、愛されなくなるという恐れが生じます。
昔から「金の切れ目が縁の切れ目」と言います。リストラにあって経済的価値がなく
なれば、妻に捨てられる夫がいます。齢を重ね、美しさにかげりが見えてくると、夫や
恋人に捨てられる女性がいます。精神疾患者となった伴侶に離婚届を突きつけるベテラ
ン夫婦がいます。愛を注いだ子どもがやがて犯罪者になれば、親子の縁を切る場合もあ
ります。相手が自分に利益を与えないくなれば、様々なパートナーシップは崩壊に向う
ものです。要は愛される側の価値が消滅すれば、愛する側の愛も消滅するのです。
しかし、神様はこの堕落腐敗しきった民を愛し続けていました。なぜなら神様の愛は
「価値発見的愛」ではないからです。民の内に、愛すべき価値が消滅した時にさえ、神
様の民に対する愛は消滅しないのです。神様の愛は、愛する相手の状態に全く依存をし
ないのです。愛の対象の価値の有無や大小は神様の愛する意志には微塵の影響も及ぼし
得ないのです。神様の愛は価値発見的であるとともに、絶対的、主体的な愛であると言
えるでしょう。
神様の愛のは民の現状に左右されないどころか、神様は愛を伝えて、この民の内に価
値を与えようとしておられるのです。選ばれた民としての自らの価値を発見し、この愛
に応えて立ち返るように呼びかけて下さっているです。神様の愛を人間の愛の延長線上
に考え、自分たちは神様にとって無価値であり、愛を受けることはもはやないと考えて
いた民に対して、神様は民自らの価値と自らに注がれている神の愛を自覚させようと願
っておられるのです。
このように生命の価値と尊厳の関係は、人間と神とではその方向性が異なるのです。
人間の場合は価値が先にあって愛が生じますが、神様にあっては愛が先行し、価値が
後続するわけです。私たち人間は、様々な基準で自らと他者の生命の価値付けをし、
生命の絶対的尊厳を見失いやすいようです。性別、人種、出身地、学歴、職歴、容姿、
能力、体力、健康など、数え上げればきりがありません。人類はそれらの基準で生命を
価値付け、序列化してきました。その結果、生命の尊厳の絶対性は見失われ、それが相
対化されてしまいました。特に、世俗化が進み経済至上主義的になった現代社会におい
てはそのことは顕著です。
聖書が語る生命の尊厳の絶対性の根拠は神の価値発見的愛にあります。神様はその命
の状態に関係なく、人類すべての命を愛しておられます。それ故にすべての人命には絶
対的な価値があるのです。「私たちの目」は、自らと他者を価値付けし、愛すべき命と
愛すべきでない命を選別し、命の尊厳を損なわせているのかもしません。しかし、「私
の目」すなわち神様の目はすべての命を愛し、そこに命の質に一切依存しない絶対的な
価値をお与えになられました。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
生命の価値基準は「わたしの目」という絶対者だけが有しているのです。そして「わたし
はあなたを愛している」という絶対的な愛の主体こそが私たちに生命の尊厳を保障してく
ださるのです。