命の尊厳、その回復を願って  第11〜15回

 

〈このコーナーの趣旨〉
このコーナーでは、近年いよいよ失われつつある命の尊厳について様々な角度
から記して行きたいと願っています。社会という面からは、命の尊厳を失わせた
現代社会のあり方、あるいは、生命軽視に由来すると思われる現代社会が持つ様々
な問題について共に考えられたらと願います。また、聖書からは、命の尊厳に関
する記述を取上げ、生命尊重に対する聖書的根拠を示したいと考えております。
さらに、医療技術や生殖技術の飛躍的発展に伴って発生した倫理上の問題につい
ても、聖書的生命観の立場から言及できれば感謝です。では、このコーナーが人
間の生命が「なぜ、大切にされなければならないか」と「なぜ、大切にされてい
ないのか」の両方を学ぶよい機会となればと願いつつ。

第15回「命の尊厳その聖書的根拠(8)〜数値化されない愛の故」


 ある高校に二人の女子高生がいました。二人は大の親友でともに成績優秀で品行方正
な優等生でした。仮にその二人の名前をA子とB子としましょう。
常にトップクラスの成績を収め、教師からも信頼の厚い二人に異変が起こりました。A
子が一人の男子に熱烈に恋をしたのです。しかし、その恋は片思いでした。授業中も家
に帰って机の前に座っても、頭の中は彼のことばかりで、勉強は全く手につかなくなっ
てしまいました。やがて、A子の成績は見る見るうちに落ちて行きます。親も教師も心
配します。
その中でたった一人、A子の成績不振の理由を知っていたB子は何と言ったでしょ
う?「このままでは希望の大学に入れないわよ。」と心配したでしょうか?それとも「A
子、だめじゃないの、そんな恋はあきらめて勉強に励みなさい」と叱ったでしょうか?
いいえ、B子はA子にこう訴えたそうです。「私はあなたがうらやましい、私も成績が
下がるくらい一人の人を本気で愛してみたい」と。

これは実話なのですが、私はこの話を聞いて大変感動を覚えました。なぜなら、私は
ここに愛の至高性や愛の本質的性質を見るからです。真実な愛は計算ができません。損
得勘定を越えてしまいます。愛はその究極においては超理性的で非合理的です。成績が
下がっても愛し続けるA子にも、そのような恋愛に至高の価値を認めあこがれるB子の
姿にも私はそれらを見るのです。

聖書にもそのような愛の本質が描かれています。イエス様はおっしゃいました。「あ
なたがたのうちに羊百匹を持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人
は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょう
か。」(ルカ15:4)

イエス様はここで愛の本質を問い掛けておられるようです。一匹のために九十九匹を
野原に残すのが愛の本質ではないかと聞き手の同意を求めておられます。羊飼いが迷い
出た一匹を捜し求めるなら、野原に残された九十九匹は、大変な危険にさらされます。
羊飼いのいない羊は自分を守る事すらできない弱い存在です。行く道すら分からない愚
かな動物です。ですから、残された九十九匹は、獣に襲われるか、穴に落ちるか、行方
不明になるかという大きな危険にさらされることになります。
これはたとえ話しですが、もし、これが実話であり私がこの百匹の羊のオーナーであ
ったらどうでしょう。私はこの羊飼いを即時解雇にするでしょう。なぜなら、この羊飼
いは九十九匹という圧倒的多数派に対する責任を放棄したからです。オーナーの財産の
99パーセントを失わせる危険を冒したからです。迷い出た一匹は諦めて、九十九匹を
牧するのが財産管理の観点からは正解なのです。

数学の世界では1<99です。ところが愛の世界においては1>99となってしまう
事もあるのです。これに続く銀貨のたとえや放蕩息子のたとえでも同様です。そこには
あたかも「一枚が全部」であり「一人がすべて」であるかのような神様の愛が示されて
います。愛は数値化できません。故に愛の対象となる命の価値を比較することもできま
せん。また、多数の命の価値を分割して考える事もできません。

このような神様の愛はイエス様によって究極の形で表現され、実現されました。イエ
ス様は「私は、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(ヨハネ10:
11)と宣言されました。そして、その言葉の通りを実行されました。私たちに羊にま
ことの命を得させるために、御自身を捧げられたのです。
良い羊飼いはその真実な愛の故に人間である自分の命と家畜に過ぎない羊の命の価値
をも計算できなくなるのです。イエス様はその真実な愛の故に神である御自身の命と罪
人に過ぎない人間の命との価値を計算比較する事ができなくなったのです。九十九匹の
命が危険にさらされたという事実だけでも、一匹の命の重みは測り得ないものです。ま
してや、羊飼い自身が命を捨てたとなれば、一匹の羊の命、その価値はいかほどでしょ
うか。

「一人の命は地球よりも重い」という言葉は決して偽善的でも、奇麗事でもありませ
ん。それは聖書的とさえ言えるでしょう。なぜなら、一人の命は神の命よりも重いから
です。計算し得ない程の真実な神様の愛の対象だからです。払われた代価とその愛の故
に、私たち人間の命の価値は絶大なものなのです。


 

第14回 「命の尊厳その聖書的根拠(7)〜キリストの体の一部として」

ある書物で読んだアリを用いた興味深い実験のお話です。アリの世界を観察するとよ
く働いているアリは全体の2割で、次の6割はほどほどに働き、最後の2割はほとんど
働かずに歩き回っているだけだそうです。
そこでよく働くアリだけを捕まえて、集団を作ります。すると、やはり2割の働かな
いアリが出てくるのです。その逆に、働かない方の2割をピックアップして集団として
も、やはり2:6:2の割合に落ち着くのだそうです。
そして、興味深い事にこの原則は企業社会にもある程度にも当てはまるのだそうです。
業績の悪い、貢献度の低いと思われる2割の社員を解雇したら、その会社は精鋭軍団に
なるかのように思ったら、それは大間違いのようです。
アリの社会と同様に、やはり2割は貢献度の低い社員が生まれると言います。

どうも働きの悪いアリや貢献度の低いと思われる社員も、組織全体の中にあっては必
要なのかもしれません。それは「必要な悪」というより「必要な善」と考えた方が正し
いのではないでしょうか。もしかしたら、神様は生産性や貢献度が低いと思われる命の
必要性や大切さを自然の摂理を通して私たちに示しておられるのかもしれません。
自然を通してのは啓示は確かではありませんが、御言葉を通しての啓示は明らかです。
聖書にはそのような生産性や貢献度が低いと思われる命の必要性や大切さを私たちに教
えます。
「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえって
なくてはならないものなのです。」(Tコリ12:22)
「また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、こと
さらに尊びます。」(Tコリ12:23)

ここではクリスチャンが器官に喩えられていますから、実際には教会内での弱いと見
られる人、尊くないとみなされる人のことを意味しています。事実弱いのではなく「弱
いと見られる」のです。また、神様の目から尊くないのではなく、世間一般の目から見
て「尊くないとみなされる」のです。多分、「弱い」とは能力問題のことを、「尊くない」
とは社会的な身分を意図しているのでしょう。
教会という共同体はキリストの体です。この世界のどの組織よりも神様のご意志が実
現されるべき組織です。ですから、教会においては、誰もが能力や社会的評価と関係な
くキリストの体の器官として、かけがえのない存在としてその価値を認められるべきで
しょう。言うまでもなく、生産性や貢献度などで信徒も教職者も価値付けされてはなら
ないのです。

私たちは生命の尊厳を失いつつある教会の外側の世界を批判する前に、まず、教会の
内側の世界について謙虚に評価すべきではないでしょうか。教会の内部にあっても経済
力のある人物、賜物豊かな人物、奉仕に熱心な事物、高い社会的地位を持つ人物などが
優遇されているという現状はないでしょうか?心身ともに弱さを持っておられる方が教
会の中で十分受け入れられているでしょうか?社会的な立場としては評価されにくい方
も教会役員の一人として活躍しておられるでしょうか?
教会が成長第一主義に陥るなら、その教会経営も効率主義化し、生産性や貢献度など
で信徒が価値付けされるのは、ある意味で当然の結果なのかもしれません。実は教会の
中にも経済至上主義の波や生命の尊厳を軽視する傾向は流れ込んでいるのではないでし
ょうか。さらに、正確に言いますなら、教会を形成する私たち一人一人の心の中に、そ
のような影響が及んでいるのはないでしょうか。
「まず、教会の内側の世界について謙虚に評価すべし」と言ってもそれは、決して教
会批判にはならないはずです。なぜなら、ここで問われている事は、キリストの体の一
器官である私たちが他の器官をどう評価するかにかかっているからです。私たち個人が
「弱いと見られる」器官をなくてはならぬものと評価しているか、「尊くないとみなさ
れる」器官をことさらに尊んでいるかが問われるのです。御互いは神様の前に、御言葉
を通じて問われるのです。「あなたは、教会内部で弱い他の生命に対して、あるいは尊
くないと見える他の生命に対して、そのかけがえのない尊厳を信じて接しています
か?」と。

 

第13回 「命の尊厳その聖書的根拠(6)〜生産性を超えた生命の価値」


「あなたの父と母とを敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの
齢が長くなるためである」(出エジプト20:12)
この御言葉は言うまでもなく十戒の中の第五戒です。この御言葉はよく未成年者の子
どもが親を尊敬し従うための戒めとして用いられるように思います。いわゆる親孝行の
聖書的根拠のように理解されがちです。この御言葉をもって、未成年者たちに両親を敬
うように教える事は決して間違いではありません。しかし、それはあくまでこの第五戒
の持つ二義的な意味なのです。
実は、第五戒については、「成人である子供」が「高齢となった親」を敬うべき事を
教えているというのが聖書学者たちのほぼ一致した見解のようです。十戒は本来、日本
国憲法同様に大人を対象として語られたものですから当然でしょう。ですから第五戒は、
第一に神様の御心としての高齢者扶養義務を命じているのです。さらに分かりやすい表
現をするなら、「聖書における姥捨て山禁止令」と呼ぶこともできるでしょう。
十戒を直接与えられた出エジプトの民は当時、約束の地カナンに向って移動中でした。
まず、第五戒はそのような現場に即して解釈されるべきです。
荒野の厳しい旅において、敬いたくなくなる親とはどのような親でしょう。
病気の親、歩く事がでない親、老いによって衰えた親など、移動するに当って不都合
な高齢者たちがいたはずです。当然、そのような親が荒野に置き去りにされたり、旅の
途中で見捨てられるという事態が予想されます。
それでは、一方親を見捨てる子どもはどのような年齢でしょう。それは成年に達し、
自らも親となっているような年齢の子どもであったはずです。親を見捨てるのですから、
その中には家庭において決定権を持つ家長が含まれていたでしょう。
このことは出エジプトの民だけでなく、イスラエル民族全体、約束の地への移動中だ
けでなく、約束の地への定住後も続きます。 以下の二つの聖書箇所は第五戒の実践的
な命令であると思われます。

「父に乱暴し、母を追い出す者は、恥を見、はずかしめを受ける子である」 (箴言
19:26)
「自分の父や母をのろう者、そのともしびは、やみが近づくと消える」
(箴言20:20)
私たち現代の日本社会に生きる者は、このような御言葉を自分たちの見聞きする社会
現象に即して理解してしまいやすいものです。この二つの御言葉から私たちの心には親
に暴力を振るい、暴言を吐く10代の若者の姿が思い浮かぶかもしれません。
しかし、古代社会においてはそうではなかったでしょう。父母に乱暴を行い、追い出
す理由、親を呪う理由は何だと推測されるでしょうか。それは高齢者となった親の非生
産性です。その存在がもたらす家庭の経済と経営への負担です。
そして、その背後にあるのは日々の食事さえままならぬような厳しい貧困なのです。
限られた食物で飢えをしのぐような貧しさの中、家庭内での高齢者の存在は大きな問題
となります。その中での家長夫婦らが行う可能性があったのが「乱暴する」「追い出す」
「呪う」という行為なのでしょう。そして、それらが具体的にどのようなものであった
かは予想がつきます。基本的に貧しい日本の農村における「姥捨て山」と同じ状況であ
ったのです。
高齢者福祉施設などなかった当時の社会の中で、働くことのできない高齢者が家庭か
ら追い出された場合どうなるかは明らかです。高齢者の家庭からの追放は、そのまま死
を意味していました。当時の社会的な状況を考えると、この高齢者扶養義務の切実さが
分かります。このように考えますと、第五戒は子どもの世代にとっては「高齢者扶養義
務」を命ずるものであり、一方、高齢者にとっては「高齢者の生命の保護」であること
が分かります。

時代と民族と文化を超えて、人類共通の現象があります。それは生命の価値が生産性
や経済効率で測られ、価値が低いと判断された命は共同体から排除さるという社会現象
です。物質主義、効率主義的な社会にあっては、働く事ができない高齢者の命は非生産
的であり、経済効率においてはマイナスであると評価されてしまうでしょう。故にその
命は「全体にとっての不利益となる命」「不在が望ましい命」というレッテルを貼られ
ます。特に貧しさの中でその傾向は露骨となり、排除に向う力は強まるのでしょう。

神様は以上のように、高齢者扶養義務を通じて物質主義や功利主義、効率主義などを
超越した絶対的な生命の価値を私たちに示しておられます。日本は今や、人類がかつて
経験したこともないような超高齢化社会を迎えようとしています。生命倫理の問題は、
将来私たちがどのような社会を作っていくかを方向づけるものです。十戒が単なる道徳
上の律法ではなく、現実的な社会形成における基本理念であったことを忘れてはならな
いでしょう。

第五戒を実行する者には大きな祝福が約束されています。「あなたの神、主が与えよ
うとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」と神様はイスラエル社会に
おいて第五戒実行者を祝福されるのです。そのことは21世紀の日本社会も同様のはず
です。もし、日本社会が高齢者の生命を生産性や経済効率で価値づけることを止め、そ
の生命の尊厳を認めるような社会形成をするなら、日本は祝福された社会となる事でし
ょう。日本社会にあっては「生命観における脱経済化」こそが「生命の尊厳に生きる社
会」を作り上げる分岐点であるように思います。


第12回 「命の尊厳その聖書的根拠(5)〜殺人禁止の真意」


十戒の第六戒にあたる御言葉「殺してはならない」(出エジプト20:13)は、人
間の生命の尊厳を最も単純にかつ力強く示すものです。ところが、イエス様が生きられ
た時代にはこの御言葉は真意を失っていました。そこでイエス様は山上の説教の中で、
律法の真意の回復を試みられました。
イエス様は「昔の人々に『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなけれ
ばならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。」(マタイ6:21)と切り
出されたのです。イエス様は「聖書に書いてあります」「律法にあります」とはおっし
ゃいませんでした。「昔の人々が言った」と表現されました。そうです。これは聖書の
言葉でも律法でもなく、人の言葉、言い伝えに過ぎないのです。
「人を殺してはならない」(第六戒)も「人を殺すものはさばきを受けなくてはなら
ない」(民数記)も、本来は聖書の言葉、律法です。しかし、本来別々であったこの律法
を、当時の人はこれを一つにして解釈していたようです。後者を前者に付け加えること
によって前者の持つ本来の意味はどのように歪められたでしょう。「人を殺してはなら
ない」は普遍的な生命の尊厳を示します。それに「人を殺すものはさばきを受けなくて
はならない」という司法上の律法を付け加えるなら、第六戒は単なる刑事上の殺人行為
の禁止という意味になってしまいます。そうです、生命の尊厳という崇高な神様からの
啓示は殺人行為の禁止という意味に矮小化されてしまっていたのです。

 そこでイエス様は22節以下で、具体性をもって第六戒が本来意図していた生命の尊
厳を回復されます。イエス様は、殺人行為ではない、兄弟に向って腹を立てること、「能
なし」と言うこと、「ばか者」と言うことの三つを第六戒への違反行為の具体例として
示されました。
「腹を立てる」とは瞬間的にかっとするような感情レベルの心理状態ではありません。
怒りを蓄積し、恨みや憎しみを抱き続けるような心理状態です。つまり相手の存在価値
を否定する第一歩です。
次の「能なし」は口語訳では「愚か者」と訳されています。原語は「ラカ」です。そ
の意味は言葉の響き通りのニュアンスです。日本語では汚い言葉で申し訳ありませんが、
「ばか」「アホ」の類でしょう。これは、能力や生産性によって他者の価値を測り、基
準に満たない者の存在価値を認めない言葉です。あるいは、自分にとっての貢献度で他
者の価値を計り、貢献度の低い者を切り捨てる言葉です。
 最後の「ばか者」と訳されている言葉は道徳的に相手を侮辱する言葉です。日本語で
は「外道」「畜生」「人間のクズ」というようなニュアンスでしょうか。相手の人格を真
っ向から否定する言葉です。

 ここに見られるのは相手の不在を望む心です。自分にとって不都合な命、不利な命、
不快な命の存在価値を認めようとしない思いです。「あの人がいなければよい」という
その思いはもはや第六戒が禁ずる殺人行為であるというのです。思いの世界における殺
人、内的な殺人行為なのです。
 そして、そのような思いが言葉で表現されるとき、それは人を殺す言葉になります。
「能なし」「ばか者」など、相手の人格や存在意義を否定する言葉は、人を人格的に殺
すことが可能です。あるいは社会的に葬り去ることもできるでしょう。
確かに人を殺す思いや言葉は刑事上の罪にはなりません。しかし、神様の前には罪な
のです。人を殺すような言葉、その心にある憎しみの問題、それが「殺すなかれ」とい
う律法の心、真意なのです。
 主の器、ポール・トゥルニエ師は言います。「山上の説教は、我々が安易に作り出す
行為と思いの間の垣根を取り壊すものである。」まさに神様が「殺すなかれ」とおっし
ゃったその真意は、生命の尊厳が私たちの思いの世界や言葉の世界にまで徹底されるこ
とだったのです。

私たちの周囲には不都合な命、不利な命、不快な命が存在するかもしれません。激し
い競争社会の中、「あいつさえいなければ」という思いや、ストレスの多い人間関係の
中「あの人がいなくなれば」という願いを持つこともあるでしょう。そのような時にこ
そ、私たちは聖書の示す生命の尊厳に生きるか否かが問われるのでしょう。

 

第11回 「命の尊厳その聖書的根拠(4)〜人にとっての交わりの対象」


「あなたにとっての奥様の存在を喩えるとすると?」と問われると、年配の男性たち
はよく「空気のような存在」とお答えになります。それは「存在感がない」、「何の刺激
もない」、「風景の一部」というようなことでしょうか。そうは言いつつも「自分にとっ
てなくてはならないもの」という思いも見え隠れします。
 創世記2章18節によれば神様は「人が一人でいるのはよくない」と判断されました。
人間が単に神様との交わりだけで生きることは、人間にとってふさわしくないと考えら
れたのです。そして神様は「彼にふさわしい助け手を造ろう」と決断されました。そう
です。私たち人間は一個人として神様に仕えるだけでなく、他の命との交わりの中で、
民として神様に仕えることが神様の御心なのです。他の命と共に生きることが人間の本
分ということでしょう。
 そこで、神様は様々な動物を連れてきますが、どれも役不足なのです。神様は動物に
は「ふさわしい助け手」が勤まらないことを確認し、最後にもう一人の人間を創造され
ます。つまり、アダムがと共に生き、共に神様に仕える交わりの相手として、他の人格
エバを造られたのです。

 確かに共に人生を歩むパートナーに動物を選ぶ人はあまり見たことがありません。
「私は猫のタマと人生を共に歩みます」という愛猫家もそうはいませんでしょう。「僕
の人生の伴侶は犬のポチです」という愛犬家も少し寂しい気がします。「わしは牛のハ
ナコと共に神様に仕える」という牧畜業のクリスチャンもいないように思います。人間
以外の動物も愛情の対象とはなるでしょうが、共に人生を歩む伴侶、共に神様に仕える
パートナー、ふさわしい助け手とはなり得ません。
 人間には動物では決して果たしえない役割が与えら得ています。それは互いがかけが
えのない交わりの対象、共に生きるべきパートナーということです。その最小の単位と
して、あるいは最も深い交わりとして神様は夫婦という関係をお与えになりました。そ
して、夫婦以外の関係は、それに準じて大切なものとなります。
 人間にとって他者(他の人格)とは本来、競争相手でも敵でもなく、共生の対象、愛
し合い仕え合うべき存在であったのです。ただ、それが創世記3章以降の罪の侵入によ
って破壊されただけです。
 先に神様にとっての交わりの対象として人間が他の被造物とは絶対的な差異のあるこ
とを見ました。そのことは、人間にとっての交わりの対象という視点からも同様です。
やはり、人間にとっての交わりの対象を考えた場合、人間は、動物とは絶対的な差異を
持っているのです。動物では決して勤まらない役割や使命を私たち人間は他の人間に対
して与えられているのです。

ですから、夫にとって妻は第一に人格のです。妻は動物ではありません。決して家畜
やペットのように考えたり、扱ってはならないのです。残念なことに日本の社会におい
て、かつて女性は、家畜のように扱われていました。家制度の中では、結婚した女性に
期待されたことは子孫を残すことでした。不妊は正当な離婚理由でした。これでは、繁
殖のための家畜と大差ありません。また、女性は、農業などでは労働力として扱われま
した。病弱で働けない嫁は失格者であったようです。かつての日本では、このように女
性が人格的な交わりの対象としてより、子孫繁栄の手段と労働力として扱われていたの
です。
 現代でもそのような傾向がないわけではありません。「お袋に孫の顔を見せたいか
ら」と子孫繁栄を第一の理由として結婚もあるでしょう。妻を第一に労働として迎える
ような態度が農家や自営業にはあるかもしれません。男性が自分の高齢者となった自分
の親を介護させるための結婚というパターンも時々耳にします。

 そう考えますと、既婚男性者の場合、妻を第一に人格的な愛の交わりの対象と考えて
大切にすることが、命の尊厳に生きることになるのかもしれません。もちろん、妻だけ
ではありません。いかに競争社会とはいえ、他の人格をライバル視、敵視することは命
の尊厳に生きることを拒否する姿勢と言うべきでしょう。他の人格を第一に人格的な愛
の対象として考え、仕えてゆく隣人愛の姿勢こそ、命の尊厳に生きる実践であるはずで
す。