命の尊厳、その回復を願って  第1回〜第5回

命の尊厳、その回復を願って

〈このコーナーの趣旨〉
このコーナーでは、近年いよいよ失われつつある命の尊厳について様々な角度
から記して行きたいと願っています。社会という面からは、命の尊厳を失わせた
現代社会のあり方、あるいは、生命軽視に由来すると思われる現代社会が持つ様々
な問題について共に考えられたらと願います。また、聖書からは、命の尊厳に関
する記述を取上げ、生命尊重に対する聖書的根拠を示したいと考えております。
さらに、医療技術や生殖技術の飛躍的発展に伴って発生した倫理上の問題につい
ても、聖書的生命観の立場から言及できれば感謝です。


第五回「生命軽視の原因(5)〜子どもの生命観を形成する仮想空間」

我が家のベランダからは、児童館とそれに隣接する公園が見えます。そこには、
今も昔も変らない、無邪気に楽しそうに遊ぶ子どもたちの姿があります。しかし、
一方、従来にはなかった新たな遊びの風景を見ることもできます。その内のひと
つを紹介しましょう。
ある時、公園の滑り台の上に小学校高学年と思われる男の子たちが数人立って
いるのを見ました。ところが、一向に滑り台を滑る訳でもなく、じっと向かい合
って立っているのです。よく見ると、事の真相が分かりました。実は向かい合っ
ているのではなく、それぞれがうつむいているのです。向かい合っているのは友
達同士でなく、その手元にあるものでした。そうです、少年たちは、滑り台の上
で向かい合って立ったまま、それぞれが自分のゲームボーイを楽しんでいたので
す。何とも奇異な印象を受けたのですが、良くも悪しくも、いかにも現代的な遊
びの風景だと感じました。

大人たちは、現実の生命に触れながら生活します。人間関係に苦労しながら、
矛盾と葛藤に満ちた現実命に触れながら生きています。その中で命の脆さと弱さ、
その尊厳、と強さを体験し、人間観や生命観を形成します。いかに、ゲーム世代
とは言え、30代以上の大人たちは、そのような現実に根ざした生命観をある程
度確立しているはずです。大人たちが、テレビゲームを楽しむ場合、それは現実
とは区別された仮想空間として楽しんでいるのです。どんなに熱中しても、大人
は仮想空間を現実の世界に持ち込むことはしません。大人は一定の現実感覚得て
いるので、仮想はそれがどんなにリアルであっても、あくまでも非現実なのです。
間違っても現実社会にあっても自分が中心であり、他者の命が自分の技術で思い
通りにコントロールできるとは思わないはずです。既に現実に触れて学んだ大人
にとって仮想空間は、どこまで行っても偽物なのです。

一方、子どもたちの仮想空間の楽しみ方は、大人とは全く異なります。本来、
成長過程にある子どもたちは、10年以上を要して、生身の人間に触れながら、
生命観を形成する必要があります。ところが、テレビゲームの普及に伴い、子ど
もたちは生身の人間に触れるよりも、画面上の架空の生命に触れるのです。仮想
空間も技術上の進歩に従って、いよいよ現実性を増しています。現実性を増せば
増すほど、架空の人格は魅力的になり、いよいよ現実の人格にとって代わります。
子どもたちにとって、思い通りにならず、時に自分を傷つける現実の命と、技術
次第で支配でき、コントロール可能で、決して自分を傷つけない架空の命と、ど
ちらが心地よいでしょう。

冒頭の一見奇異な遊びの風景も、テレビゲームがもたらした一つの必然と言え
るでしょう。しかし、ここで私たちは危機感を持たなくてはなりません。なぜな
ら、仮想空間が子どもの生命観すら形成しているからです。ゲームに没頭する子
どもたちは、友達と向き合いながらも、現実の命から学ぼうとせず、仮想空間上
の命ばかりと触れ合っているからです。大人とは異なり、現実世界に歩み出たば
かりで、価値観の形成期にある子どもにとっては、仮想空間が現実世界に変って
生命観を形成しているのです。
その中で、リセットしうる画面上の生命が現実のものへと延長されています。
妹を失った同級生に対して、幼稚園の子どもが語った言葉。「○○ちゃん、妹が
死んじゃったんだってね。でも、リセットボタン押したら生き返るから、もう泣
かないでね。」これが、仮想空間に触れて育った世代の弔いの言葉なのです。
リセットし得る現実感も重みもない命、ゲーマーの技術次第で支配できる命、
思い通りにならなければ抹殺して構わない命、それらは、すべて仮想空間上の命
です。決して現実世界に延長されてはならないもののはずです。

私は時々娘と共に児童館に入ります。そこには隣りの公園で見掛けた奇異な風
景は皆無です。そこでは、学童保育が行われていますが、ゲーム禁止なのです。
多分、それは明確な教育方針なのでしょう。そこはまさに現実の命のぶつかり合
いが見られます。仲良く連帯する命あり、利害対立から争い合う命ありと、現実
の命の持つ矛盾や葛藤に満ちた姿が見事に展開されておりました。それを見守り
ながらも、適切タイミングで適切な内容の指導を与える先生方を拝見し、心安ら
ぐ思いがしました。
いつの時代も子どもは大人世界の矛盾の犠牲者です。仮想空間は確かに有益な
技術でしょう。しかし、仮想空間に登場する人物が子どもの教育者になっては、
ならないでしょう。
子どもの教育者は、それが大人であれ、子どもであれ、現実の命でなくてはなり
ません。そこからしか、現実的な生命観は生まれ得ないでしょう。


第四回「生命軽視の原因(4)〜生命に触れる事なき子どもたち」

永六輔さんが、ある時、ラジオ番組の中で日常語の由来について話しておられ
ました。「おはよう」や「さようなら」など、私たちが日常、その意味を考えず
に使っている言葉の意味や語源を調べ、教えてくださるという企画です。
その中で、私が忘れることのできないのは「いただきます」の語源です。日本
で食事の際に発するあの「いただきます」です。その本来の意味は「あなたの命
を私の命としていただきます」という意味なのだそうです。例えば、食卓にサン
マの塩焼きがあったとしたら、サンマさんに向かって「あなたの命をいただいて、
私の命とさせていただきます」というのが「いただきます」本来の意味だという
のです。
昔の人々は、他の命が奪われることによって、自らの命が維持されていること
を自覚していたのでしょう。捧げられた命を尊いものとして感謝し、食事をした
のが「いただきます」の始まりと思われます。産業化される以前の日本社会では、
食事という最も日常的な場面ですら、命を実感することができたのでしょう。
ところが、今や食料品は半ば工業製品のようです。最近では、魚は切り身の状
態で泳いでいると思っていた子どももいるとか、いないとか。切り身でトレイに
乗せられパックされた魚を見ても、そこから生命が感じられないのは当然でしょ
う。

命の事は命に触れて体得するものです。かつて子どもは自然の中、動物の誕生
や死に触れ生命の尊厳を体得しました。子どもたちは動物の出産や産卵を目撃し
ます。親が子を大切に育てる姿に触れます。その中で無意識の内に命の尊厳を学
びとったことでしょう。逆に自然の中では、死に触れることもあります。動物の
死体や死につつある姿を目撃します。。決して好ましいことはありませんが、動
物を殺したり、いじめたりすことを通じて、子どもたちは、命のはかなさを学び
ます。そしてはかなさと表裏一体のものとして、かけがえのない命の大切さを体
得します。

今や、都市化された環境の中で、子どもたちは命の尊厳を学ぶ機会を失ってい
ます。住宅事情からペットを飼うことも許されず、ますます、その機会は失われ
つつあります。いわゆる電子ペットは、その代用品でしょう。まさに時代が生み
出した商品です。ペットを飼いたいが不可能である、あるいは面倒くさいと思う
子どもたちのニーズに見事なまでに呼応した商品と言うべきでしょう。
古くはタマゴッチ、数年前ではファービー、今も様々な電子ペットがあるよう
です。しかし、どんなに精巧な電子ペットも所詮「刺激→反応」という単純な要
素の集合体に過ぎません。それは数学の関数のような数値化された命に過ぎませ
ん。現実のペットたちの命は、もっと複雑で不確定要素が高いのです。そして何
よりも、生身の命なので、死ぬのです。電子ペットのようにリセットもできなけ
れば、修理も不可能です。放置しておけば、死体は腐敗し異臭を放つのです。そ
れが生々しい現実の命なのです。
ペットであった犬や猫の死に涙し、葬儀を行い、戒名までつけるという話しは
聞いたことがあります。しかし、電子ペットの死に泣きじゃくり、墓に葬り、弔
辞を読む子どもは聞いたことがありません。やはり、偽物はどこまでも偽物なの
です。現実の命に代わって子どもに生命の尊厳を体得させることはできません。

近年の少年犯罪に見られるいじめや殺意にブレーキがない傾向に関しては、子
どもたちが生命の実感を持たないからではないかという指摘がよくされます。確
かに、かつては、いじめや殺意にブレーキがかかりました。それは理屈でなく実
感であったはずです。
動物をいじめて殺すことと人間をいじめによって死に至らしめることの間には超
えることのできない垣根があったはずです。それは体得された、実感として揺る
ぎの無い物であったはずでした。もし、現在の子どもたちのなかに、そのような
ものが育っていないとすれば、それは子ども自身と私たちの社会にとってあまり
にも大きな欠落ではないでしょうか。



第三回「生命軽視の原因(3)〜最先端の生化学が生み出した遺伝子還元論」

科学技術の飛躍的な進歩によって、従来には考えられないほど人間の生命に関
しての研究が進んでいます。特に遺伝子に関する研究の成果は目覚しいものがあ
ります。今や、遺伝情報を決定する箇所であるDNAを解読することができるま
でになりました。報道されているように、現在は人間のDNAを解読するヒトゲ
ノム計画が進行中です。そして最近、途中経過が発表されました。それによれば、
人間の遺伝情報99,9パーセントは共通だということです。個人差は0.01
パーセント以下の部分が担っているそうです。その分部に性別や人種、あるいは
肉体的特徴、精神的気質などの個人差が情報として組み込まれているということ
です。
このように人間の生命が、科学的に分析される中で新たな生命観が生まれまし
た。それは、遺伝子還元論と呼ばれています。人間という生命体は遺伝子に還元
できるという考え方です。生命の本質を遺伝子とし、遺伝情報によって人間の生
命全体を説明しようとするのです。人間の高度な生命活動も、一つ一つの遺伝情
報に還元され、究極的には記号化されてしまうわけです。分かりやすく表現しま
すなら、山田君とは“AECDB”という記号の配列を意味し、田中さんは“B
ECDA”なのです。実際は、それが5文字の配列ではなく、何億という記号の
羅列と組み合わせだということです。
ですから、その人間観を極めて乱暴に言ってしまえば、「人間とはDNAの自
己表現、容器、あるいは運搬車」となるでしょうか。コンピューターのCD−R
OMにインプットされた情報がモニター上に登場する人格、生命となります。基
本的にそれと変らない人間観です。ただ、モニター上と異なるのは架空か、現実
かだけの違いだけです。 

そのような生命観に立つ時、どのような生命倫理が生み出されるでしょう。一
律に語ることは許されないでしょう。しかし、ひとつの傾向として現われたのは、
生命操作に対する積極的な評価です。すなわち、生命操作は人類や社会に益をも
たらす限りにおいて、それは善であるという考え方です。
例えばアメリカには、現にノーベルベイビーが存在しています。アメリカでは
家庭的、社会的、経済的に恵まれているなど、一定の条件があれば、ノーベル賞
受賞者の精子の提供を受けることができます。そのようにして誕生したノーベル
ベイビーたちは、中高生の年齢して既に名門大学の大学院に在籍中などという報
道をテレビで見たことがあります。

ここで二つのことを考えなければならないでしょう。ひとつは、目的は方法を
正当化するかということです。この場合、人類への貢献という目的は、生命操作
という方法を正当化するかという疑問があります。
元来、生殖技術というものは家畜の生産性を向上させるために、始められ発展
してきたものです。その技術を同じように人間に適用することは、果たして倫理
的に許されるのでしょうか?人間が人格やその存在それ自体でなく、生産性や社
会への貢献度で価値が計られるというなら、それは妥当でしょう。人間の価値が
経済性によって数値化されることを是とする倫理に立つなら、生命操作は倫理的
に正しいでしょう。しかし、人間の価値をその存在自体、あるいは人格に置くな
らば、ノーベルベイビーを生み出した技術への評価は逆転します。それは、より
よい肉質を求めて行われる牛の種付けや、より早く走る競馬ウマの誕生を期待し
て行われるウマの種付けと何ら変りはないでしょう。そう考えますと、人間に対
しての生命操作は、人間の尊厳を破壊し、家畜にまで堕落させるものと評価せざ
るを得ません。
そして、もうひとつ考えるべきことがあります。それは、生命操作によって生
み出されたノーベルベイビーは、本当に人類に益をもたらすのかということです。
たとえば、ノーベルベイビーの中から21世紀のアインシュタインやリンカーン
が現われたら、手段の是非を別にすれば、目標達成と言えるでしょう。ただ、そ
こには正反対の危惧があります。その中からヒットラーが現われないかという危
惧です。ひとりの天才が飛躍的に人類の文明を発展させることは困難ですが、ひ
とりの天才が人類を破滅させるのは容易なことです。現代は、そのような時代な
のですから。
あるミッション系の学校の入り口には次のような言葉が刻まれた石碑が建てら
れているそうです。「神なき教育は賢い悪魔をつくる」。


第二回「生命軽視の原因(2)〜死に触れる事なき生活環境」


「失って初めて分かるありがたさ」という世界があります。停電をすれば、電
気のありがたさが分かります。断水があれば、水道設備がいかに恵み深いものか
を悟ります。飢えを経験すれば、糧の価値を、貧しさを通過するなら、お金の大
切さを知るでしょう。
同じように命というものの価値も時に、失って初めてわかるもののようです。
命を失う、
すなわち死に触れることによって、私たちは命の価値を実感するのではないでし
ょうか。ペットの死を悼み悲しむ中で、少年少女は命の尊さを心に刻むのかもし
れません。家族や友人の死に触れるたびに、私たちは自らが生かされている事の
価値を自覚するものです。死が命の尊さを教える。それは、私たちが人生の中で
度々経験してきた真理であると言えるでしょう。
かつての日本社会は死に触れる機会が多かったように思います。何よりも大家
族でしたから、家庭の中に高齢者がいました。高齢者は死に行く者、家族の中で
死に最も近い者でありました。そうです。かつての日本では、家庭の中に死があ
ったのです。その中で、子ども達も、祖父や祖母たちが死に行く姿に触れてはず
です。たとえ、明確な自覚はなくとも、子どもは子どもなりに、心に死という現
実と命の尊さを刻み付けたことでしょう。
ところが現代は核家族化が進み、多くの場合、高齢者は家庭の中にはいません。
いたとしても、その高齢者は家庭の中で最後の生を生きる事は少ないようです。
ほとんどの高齢者は病院や施設で、死の備えをし、死を迎えます。現代社会にお
いて死は家庭の中にはありません。それは、家庭から引き離された病院などの医
療機関、あるいは高齢者施設の中にあるのです。
その中で現代人は死に触れません。「現実の人間の死に触れる事なしに生活で
きる」これが現代社会の特徴の一つでしょう。せいぜい触れるのは死を通過した
後の遺体や遺骨だけでしょう。これでは「失って初めて分かるありがたさ」の世
界は開かれません。

日常生活の中で死を忘れ、まるで自らも死ぬ事がないかのように生きている現
代人には、生命の尊厳など実感のしようがないでしょう。死を忘れた現代人は同
時に命の尊厳も忘れてしまったようです。聖書は死を自覚して学ぶようにと私た
ちに語りかけています。

「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして
私たちに智恵の心を得させてください。」(詩篇90:12)


第一回「生命軽視の原因(1)〜進化論的生命観」

日本では進化論が当然の科学的真理であるかのように受け取られています。そ
れが本来、一つの科学的な推論に過ぎず、十分な物的証拠がないにもかかわらず
です。創造者である神様を除外して、この地球上に多様な生命が存在する事を説
明しようとすれば、進化論という学説を選択せざるを得ないということでしょう。
進化論は元来、科学的な仮説ですが、人間の心に真理として定着するなら、そ
れは一つの思想、哲学となります。進化論の原則で人間という存在を考えれば、
それは進化論的人間観となります。進化論の理念で社会をとらえるなら、それは
進化論的社会観となります。そして、人間の生命を、進化論を前提に理解しよう
とするなら、それは進化論的生命観となります。

そこで、今回、取上げたい事は、この進化論的生命観です。進化論にあっては、
すべての生命はひとつの数直線上に配列する事ができます。一番、左端にはアメ
ーバーのような単細胞が位置するでしょう。少し右には魚類、さらに右には爬虫
類、もっと右には哺乳類が置かれるでしょう。そして、やがてサルがいて、最も
右には人間が置かれるのです。つまり、単純なものから複雑でなものへ、単純な
構造の生物から、より高度に組織化された生物へという方向で配列されるわけで
す。

このような生命観がもたらすものは何でしょう。それは生命の価値の相対化で
す。すべての生命が一つの数直線上に位置するという事は、それぞれの生命は比
較することができるということを意味します。すなわち、人間の命が他の生物の
命とは絶対的に異質であるという生命観は成立しないのです。
たとえば、アメーバーと人間の違いは、細胞の数の違いと、その肉体上の組織
や構造の複雑さや緻密さだけです。分かりやすく言えば、アメーバーと人間の違
いは、ネジ一つと最新のコンピューターの違いです。単純と高度の違いだけです。
ですから、進化論が人間の心に真理として定着するなら、人間の命の尊厳は絶
対化されず、相対化されてしまうのです。人間の生命は「ネジ一本よりコンピュ
ーターの方が価値がある」という程度の価値でしかなくなってしまいます。他の
生物とは全く次元を異にする人間の生命の価値、人間の生命が持つ他の生物との
絶対的な差異、独自の価値というものは失われてしまうのです。

「なぜ、人間を殺してはいけないのか?」「人間を殺す事とゴキブリを殺す事
は何が違うのか?」そのような問いかけが社会を驚かせ、不安に陥れています。
しかし、それは進化論的な生命観から導き出される当然の発言ではないでしょう
か。「時計を壊す事とコンピューターを壊す事とは何が違うのか?」そう問われ
たら、「コンピューターの方が、時計より価値が高いから。」と答えざるを得ない
でしょう。少年犯罪だけではないでしょう。人命さえ、金銭に換算して破壊する
保険金殺人もそのような進化論的生命観のひとつの表現ではないでしょうか。