「聖書的結婚観を学ぶ」


聖書箇所:創世記2章15節〜25節

 ここに人類の創造直後に定められた二つのことが描かれています。ここに記された私たち人
間にとって最も本質的な二つの事柄とは何でしょう。それは、職業と結婚です。ただ今お読み
しました箇所のうち、15節には神様が最初の人類アダムに職業を与えられたことを記してい
ます。そして、18節から25節までは結婚の始まりが描かれています。

 人間は神様に従い、仕えるものとして造られました。そこで次にでは、具体的に何を通じて
神様に仕えるか、ということで職業を定められたのです。そして、さらに、人は一人ではよく
ないと判断され、誰とともに仕えるかということで結婚を定められたのです。
 つまり職業とは何を通して、どのような活動を通して神様に仕えるかということです。そし
て結婚とは誰といっしょに神様に仕えるかということなのです。ですから、私たちが神を信じ
て仕えることと職業、結婚の問題とは決して切り離して考えてはならないものなのです。「私
は神様を信じます。神様に従い、仕えます。でも結婚と職業は自分の好きにさせていただきま
す。」そんなことは本来あってはならないことです。それは聖書的でない、信仰者として御こ
ころに反した態度と言わざるを得ません。
 ですから、私たち信仰者がこの地上の生涯においてよりよく神様に仕えて行くため、祝福さ
れた生涯を送るため、聖書的な結婚観と職業観は不可欠なものなのです。これらなくして、主
に仕える地上の生涯、御こころにかなった実生活はありえません。

 皆さんは「非婚」という言葉をご存じでしょうか。「未婚」ではありません。「非婚」です。
まだ結婚をしていないという意味ではなく、また、結婚したいができないという意味でなく、
自ら進んで一生結婚しない人生を選び取るという意味です。
 結婚をしないことによってより豊かな人生を送ろうとする生き方です。今、日本ではそのよ
うな「非婚」という言葉が社会に浸透しつつあり、また実際に「非婚」というライフスタイル
を選択する女性たちが増えているそうです。

 そのように非婚というライフスタイルが定着しつつあるこの時代、「あなたは、なぜ結婚し
ないのですか」というような言葉は、今や時代遅れにになろうとしています。職場の女性に「な
ぜ結婚しないの」などと尋ねようものなら、今や女性差別とされる時代です。私はそのような
時代に生きながら、こう考えました。「なぜ、結婚しないのか」と問われることはあっても、「な
ぜ、結婚するのか」が問われることがないのはおかしなことではないかと。
 「なぜ、結婚しないか」よりもむしろ「なぜ結婚するのか」の方が、本来問われるべき事柄、
より本質的な問いかけではないでしょか。「なぜ人は結婚するのか」あるいは「結婚とは何か」
「夫婦とは何か」。私たちが生きている現代はそう言った本質的な事柄が問い直されるべき時
代ではないでしょうか。
 結婚する者にとって最も大切なものは結婚観です。なぜなら結婚観こそがその後の二人の結
婚生活を方向づけて行くからです。そういった明確な結婚観を持たぬまま、結婚するならば、
それはちょうど磁石を持たずに大海原に船出してゆくようなものです。あまりに無謀な行為で
す。また、クリスチャン同士だからといって自動的に祝福された結婚が約束されているわけで
はありません。この聖書の御言葉なくして祝福された結婚はありえません。しっかりと聖書的
な結婚観を持ち、なおかつ、それに従ってゆく中にこそ祝福された結婚生活が与えられるので
す。クリスチャンであれ、未信者であれ、結婚観なき結婚こそが、多くの結婚生活に不幸を招
いているように思えてなりません。

 そこでまず、「夫婦とは何か」を次に「結婚とは何かを」創世記2章の御言葉か
ら、お話しさせていただきます。「夫婦とは何か」、「結婚とは何か」、この二つのポイントで

聖書の結婚観をともに見て行きたいと願います。

〜本論A〜

 まず、夫婦とは何かという面から、聖書の結婚観を見て行きましょう。聖書は夫婦というも
のをどう位置付けているでしょう。それは18節に描かれています。皆さんでご一緒に2章の
18節をお読みしましょう。→《18章朗読》

 創世記2章の18節によれば、神様は最初の人類アダムをご覧になり「人が一人でいるのは
よくない」と判断されました。神様は私たち人間を社会的存在、すなわち他者との交わりの中
で生きる者として造られました。神様は私たちが一人で神様に仕えるのではなく、誰かと共に
仕えることを願われたのです。そこで神様は「ふさわしい助け手」として最初の女性であるエ
バを造られました。
「夫婦とは何か」、その問いに対して聖書は夫婦を「ふさわしい助け手」という表現で示し
ております。「ふさわしい助け手」とはどういう意味でしょうか。創世記を含みます旧約聖書
はもともとはヘブル語という言葉で書かれいます。そしてこの「助け手」と訳されております
言葉はヘブル語では「エーゼル」と申します。
 この「エーゼル」という言葉は、英語の聖書では「パートナー」と訳されているのです。「助
け手」だからと言って「アシスタント」や「ヘルパー」という言葉には訳されていません。ヘ
ブル語の「エーゼル」、聖書の語る「助け手」とは、補助的な意味を示す「アシスタント」や
「ヘルパー」ではなく、「パートナー」なのです。つまり、夫婦とは人生をともに歩むパート
ナーなのです。特に信仰者であれば、「夫婦とは共に主に仕えるパートナーである」と言える
でしょう。
 また、実際に「助け手」と訳されておりますヘブル語「エーゼル」とは、それがなければ、
もう一方も成り立たないほどの決定的な役割を意味するそうです。つまり妻は夫にとって補助
的な存在ではなく、それがなくては夫自身も成り立たぬほどの決定的、かつ不可欠な存在なの
です。「相手がいなければ自分はありえない」それが聖書の語る夫婦です。

 さらに、妻であるエバが「あばら骨から」造られたことについて、ユダヤ教の伝統ではこう
言われています。「もしアダムの頭の骨を用いたら、エバはいつも威張って、男の上に君臨し
ているだろう。また、もしアダムの足の骨を使ったら、エバはいつも、アダムの足元に這いつ
くばって仕えるだけの隷属する存在になっているだろう。神様はしかし、アダムのあばら骨を
もってエバをお造りになった。それはエバをアダムの胸近くでいつも共に歩む存在としてお造
りになったからだ」
 このことから女性は決して男性の付属品ではないことがわかります。また、助け手と言って
も、男性が主で女性が従であるということを意味するのではありません。夫婦とは、それぞれ
にとって互いがなくてはならぬ存在、最も近くにいてともに人生を歩む存在なのです。

 それは靴の片方のような関係ではありません。自転車の片方の車輪のような関係でもありま
せん。靴が片方なくなっても、自転車の車輪が片方なくなっても、同じ規格同じデザインの物
に交換すれば、用を足すのです。しかし夫婦とは、そのようなスペアが効く関係ではないので
す。夫婦は互いがかけがえのない、交換不可能な存在なのです。

 この地球上には現在なんと25億人以上の男性と25億人以上の女性がいます。まさしく、
結婚とは、その掛け替えのないたった一人のエーゼルを、それぞれ25億人の異性の中から選
ぶことなのです。私たちは、そのことを単なる偶然としてではなく、神様の摂理の中として、
大きな感動と感謝をもって受け取らなくてはならないでしょう。
 ですから、私たち信仰者は、この聖書の夫婦観に従って、お互いを掛け替えのないものとし
て、他の誰かでは決して勤まらない、交換不可能な存在として尊重しあってゆきたいと願いま
すし、また、そのことを実際の結婚生活の中で具体的に表して行く責任があるのです。

 しかし、私たちは聖書的な結婚観を持たない日本という社会で生きています。そして、互い
を掛け替えのない存在として、大切にすることを知らない不幸な夫婦のことを見聞きします。
私も最近ある書物を読み、そのことを深く考えさせられました。
 もうお亡くなりになられた方ですが、1979年に芥川賞を受賞された作家で、重兼芳子と言
う方がおられます。この方はプロテスタントの信徒でもあられ、聖書的な視点から様々な事柄
を論じておられます。その重兼芳子さんが、生き方の「深い人浅い人」という書物で日本人夫
婦の問題点をこのように描いておられます。少し長くなりますが、ご紹介します。

「少し前、私はエジプトからシナイ半島にかけて旅行したことがある。ツアーの中に定年引退
記念に夫婦で旅行しているカップルがいた。連日、40度を越す灼熱の砂漠の旅であった。
 なつめ椰子の木陰で昼食をとるとき、夫はゆで卵の皮一つ自分ではむけない。ポットから冷
たい水をコップに注ぐ事さえ妻の手をわずらわせる。砂漠の中の遺跡を見物するとき、妻はう
しろから日よけの日傘をさしかけるのだ。大股で歩く夫のうしろから小走りに従って行きなが
ら、どこまでも夫の体を日差しから守ろうとする。
 その姿を美しい夫婦愛と見る人もいるだろうが、私は妻を灼熱の太陽にさらして自分だけ陽
光を避ける夫の鈍感さに、呆れ果てて眺めていた。案じていたように、妻は旅の途中で病気に
なり、ツアーの一行は少なからぬ迷惑をこうむった。
 もちろん、病気になるまで夫に従順につかえた妻の方にも責任はあるだろう。しかし、うし
ろから日傘をさいかける妻の存在を、夫は人間として対等に見たことがあるだろうか。
 「せっかく旅行に連れて来てやったのに、使いものにならなくて、不便で仕様がない」と病
気の妻を前にしてつぶやいた夫の台詞に、私は愕然としたのであった。」

 少し極端ではありますが、これこそ聖書を持たない日本の伝統的夫婦観が生んだ悲劇ではな
いでしょうか。子供達が独立し、夫が定年した後、本当の夫婦の在り方が問われます。もう、
仕事や、子供のことでごまかしが効かないのです。聖書が示すように、お互いを掛け替えのな
い存在として大切にしあっていかなくては、もはや夫婦は夫婦であり得なくなるのです。
 悲しいかな、妻を召し使いのように扱って来た夫、あるいは夫を生活費配達人のように扱っ
て来た妻は、必ずその報いを受けるのです。そのような結婚生活を送って来た夫婦は、いつの
間にか互いが夫婦として向き合えない状況に陥ってしまうのです。老いてからこそ味わえる、
若いころとはまた一味違った幸せな結婚生活を失ってしまうのです。
 特に男性の方々は気をつけましょう。もう妻の側が一方的に我慢する時代は終わりました。
今や定年離婚という最終兵器を世の奥方たちは、着々と配備しておられるのです。今日のおす
すめを聞かれて、心配になったご主人が、もしおられたら、今日からでも遅くありません。素
直に悔い改めて、掛け替えのない人生のパートナーとして、奥様を大切にいたしましょう。

 定年離婚が社会現象となっているこの時代です。今こそ日本に生きる者たちは、クリスチャ
ンも未信者も「夫婦とは何か」、そのことを聖書から学ぶ必要があるのではないでしょうか。
 「夫婦とは何か」この根本的な問いに対して、聖書は明確に回答を示しています。夫婦、そ
れはふさわしい助け手、最も近くにいて共にいて人生を歩む掛け替えのないパートナーです。
どうか、この夜語られた聖書の夫婦観を心に止めていただきながら、互いを掛け替えのない存
在として大切にしあうことを通して、神様の素晴らしさを証しする結婚生活を送らせていただ
きましょう。

〜本論B〜
 

二つ目です。夫婦とは何かに続いて、もうひとつ「結婚とは何か」についてお話し致します。
「結婚とは何であるか」聖書はそれについてどう語っているでしょう。創世記の2章の24節
をご覧ください。24節です。皆さんご一緒にこの24節をお読みしましょう。
「そえゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」。人間は、
まず両親を離れて、その後結び会い一体となるのです。」ここに、結婚に関しての三つのこと
が書かれています。まず、「父母を離れ」、次に「妻と結び会い」、そして「一体となる」です

 最初の「父母を離れ」という言葉は、親と物理的に離れること、つまり別居を意味している
のではありません。実際にこの創世記に登場する人々の多くは大家族でした。ですから、この
聖書の言葉は親からの精神的、社会的な意味での自立を指しています。今の言葉で言えば親離
れをするという意味です。
 二つ目の「結び会う」という言葉は社会的な概念だそうです。つまり家庭を一つにするとい
う意味です。また、「一体となる」という言葉は性的な概念だそうです。それは、文字道理体
を一つにするという夫婦間の性の営みを意味する言葉です。
 つまり結婚とは親から自立した後、二人が新たな家庭生活と性生活をスタートすることです。
「父母を離れ」という親からの自立、親離れがあって、初めて「結び合い、一体となる」とい
う結婚生活があるのです。つまりこの24節の御言葉は、親からの自立こそが結婚生活の前提
であることを私たちに教えているのです。

 ですから親離れができていない半人前どうしが結婚して一人前になるのではなりません。既
に親離れができている一人前の人間どうしが結婚をするのです。日本では「結婚したから、も
う一人前だ」などと言いますが、これは聖書的には大間違いです。「もう自分は、一人前なの
だから、そろそろ結婚の事を考えよう」というのが聖書的な結婚観です。
 つまり結婚とは協力関係であって、依存関係ではないのです。結婚とは自立していない者ど
うしが依存し合う関係でなく、あくまで自立した人間どうしが協力し合う関係なのです。支え
合うことはあっても、もたれ掛かることがあってはなりません。甘えることは許されても、甘
ったれることは許されない関係なのです。聖書の結婚観、それは自立した者どうしの協力関係
です。それはある意味で厳しい責任ある関係なのです。

 日本の男性の中には「早く結婚して、おふくろを安心させてやりたい」とか、「はやく結婚
して、おふくろに孫の顔を見せてやりたい」とおっしゃる方がおられます。親を思う気持ちは
結構ですが、何のために結婚するかと言うときに「おふくろ」という言葉が出てくるのは感心
できません。聖書的に言うなら、おふくろのために結婚するなど以てのほか、結婚自体がおふ
くろを離れることなのですから。こんな所にも日本の男性が、精神的に親離れできていない現
実が伺われます。
 結婚生活において問題が生ずる理由の一つは、自立、親離れが不十分なまま結婚すること、
または相手に依存しようという意識で結婚生活を送ることにあります。男性は炊事洗濯などの
家事を女性に依存するために結婚するのではありません。女性は経済的に依存をするため、い
わゆる永久就職として結婚するのではありません。

 例えば、夫は妻に母親の代理機能を求めてはなりません。母親と同じように、朝は起こして
ほしい。布団を畳んでほしい。それは、自立不足や母親への依存心から来る間違った要求です。
また、喧嘩をした場合はどうでしょう。
 妻は喧嘩をしても決して一人で実家に帰ってはなりません。これは責任放棄であって、親に
対する甘えです。家庭を持つ者として自覚不足です。結婚した以上、親は助言者ではあっても、
もはや問題解決者でも、責任者ではありません。あくまで夫婦二人で向かい合って問題解決を
すすめるべきでしょう。
 未婚者であれ、既婚者であれ、まず私たちは夫婦である以前に、それぞれ一個人として自立
した責任感ある家庭人でなければなりません。まず、それぞれが親から独立した一人前の大人
として、自らの家庭を築き上げて行くのだという自覚をしっかりと持つことが必要です。その
上で二人が協力してゆく中に、喜びあふれる結婚生活が作り上げられて行くのです。 

 先程は定年後の夫婦の在り方を問題として取り上げました。もう一つ今日本で問題になって
いるのは若い世代の結婚です。その問題の原因の多くは、今語られた聖書の原則に従わずに結
婚していることにあります。つまり親から自立していない人間が、親離れできないままで結婚
していることが、若い世代の結婚に多くの問題をもたらしています。特に受験勉強一筋で生き
て来た高学歴の男性、父親が仕事人間であるが故に生まれた母子密着型家庭に育った男性に多
く見られると言われています。
 典型的な例として私が以前テレビ番組で見たあるケースをご紹介しましょう。ある女性がお
見合いをしました。一流大学卒の一流企業サラリーマン、条件的には文句なし、人間的にも真
面目そうな人だし、この辺で手を打つかということで結婚しました。
 ところが新婚旅行に出掛けると、様子がおかしいのに気がつき始めます。夫は事ある毎に、
新婚旅行先から母親に逐一電話連絡をします。そして新婚初夜に夫が妻に宣言しました。「ど
うか、僕と結婚したと思わないでほしい。これは、共同生活だと思ってほしい」。さらに、帰
国後の空港には母親が車で迎えに来ました。3人で車に乗り、新居に到着です。二人で新居に
入るつもりでいた新妻はびっくりです。何と、夫は新居には妻一人残して、そのまま母親の運
転する車で実家に帰ってしまったのです。

 やがて、夫は新居に戻るのですが、その日から異常な新婚生活が始まります。食事のメニュ
ーは夫の命令でカレー、ハンバーグ、スパゲティー、オムライスだけ。夫は家に帰れば、テレ
ビゲームをしたりビデオを見てばかりで、妻との会話は全くなし。彼の精神年齢が伺われます。
そして、新妻が離婚を決意したのはの夫が母親と一緒にお風呂に入っていることを知ったとき
でした。
 彼女は夫の父親に相談しました。父親は言いました。「自分は仕事一筋で、息子を妻に任せ
っきりにしていた。それで、ああなってしまったのだ。あなたと結婚したら、何とか一人前に
なると思っていたのに。あなたには本当に申し訳ないことをした。」

 結婚して一人前になるのではありません。一人前になってから結婚するのが聖書の原則です。
聖書の原則に反して、親離れできずに結婚したから、問題が生じたのです。結局、クリスチャ
ンであれ、未信者であれ、聖書の原則に従わなければ、結婚はうまく行かないのです。
 皆さんはこれは極端な例だと思われるでしょうか。これは、極めて稀なケースでしょうか。
いいえ、これはテレビや週刊誌の中のことではありません。私はあちらこちらの教会の中で、
これに近いケースを幾つか見聞きして来ました。親離れできていないという信仰以前の問題で、
結婚が破綻に向かって行くことが、教会の中でも少なくないようです。ですから、あえてこの
ような異常なケースをお話ししているのです。

 そこで、皆さんに申し上げたいのです。これから結婚される青年方は、何よりも親からの精
神的自立を心掛けなくてはなりません。また、結婚相手が自立しているかどうかを見極める目
を養う必要です。一方、親としては、子供を自立に向けて育て、一人前の大人に育てなくては
なりません。また、親自身が子離れできないことが、子供の自立を何より妨げますから、注意
しなくてはなりません。
 「男はその父母を離れ」と聖書は言います。自立こそ、結婚の前提条件です。結婚は依存関
係ではありません。自立した者どうしの協力関係です。どうか、そのような聖書的結婚観を土
台として、それぞれが、夫婦協力して主を証詞する家庭を築き上げて行けたらと願います。

〜結論〜

 今日は創世記2章から聖書的な結婚観について、夫婦とは何か、結婚とは何かという二つの
ポイントで御言葉をお取り次ぎさせていただきました。

 この教会の青年会のある兄弟がおしゃいました。「ぼくが教会に来始めて、まず驚いたこと
は、クリスチャン夫婦の仲のよいことでした。」うれしい言葉です。夫婦の在り方が根本から
揺すぶられている時代です。結婚生活を築き上げて行くのが実に困難な時代です。このような
時代だからこそ、クリスチャン夫婦が幸せな結婚生活を築き上げることが、何にも勝る証しと
なるはずです。また、そのことこそがこの時代に遣わされた私たちクリスチャンの使命でもあ
るはずです。

 既婚者の方々は夫婦とは何か、結婚とは何か、基本中の基本に戻ってもう一度、ご自分の

夫婦関係を結婚生活を見つめ直していただけたらと願います。
 青年の皆さんは語られた聖書の原則をしっかり心に止めながら、結婚に備えて行かれたらよ
いでしょう。また、ご自身は直接結婚と関係のない方々も、今日語られた真理を回りの方へ、
特に次の世代へと語り継いで行かれるなら、それは主に喜ばれることでしょう。
 夫婦が互いを掛け替えのない存在として、尊重し会い、結婚を自立した者同氏の協力関係と
とらえながら、すべてのクリスチャンたちが、主を証詞するよき結婚生活を築かれるますよう
にと願います。お祈りします。

文責:一麦教会副牧師 水谷 潔