性から見た聖書人物伝 第6〜10回

性から見た聖書人物伝

〈このコーナーの趣旨〉
聖書には性に関して膨大な量の記述があります。しかし、説教を通してそれ
らが直接的に解き明かされることは少ないのではないでしょうか。性に関する
記述が取り次がれても、それに関しての直接的な言及よりも、むしろ、それを
通じての罪や聖さ、倫理などの一般的な原則が解き明かされる場合が多いので
はないかと思います。
そのような現状を踏まえて、このコーナーでは聖書中の性に関する記述を取
上げ、直接的に言及します。とりわけ聖書に登場する人物の性行動にスポット
を当て、その性行動を聖書的な視点から解説し評価します。さらに、その性行
動に関する聖書記事を現代人の性行動に適用し、意義ある示唆を得たいと願っ
ております。

第10回「胎内での生存競争〜エサウとヤコブ」

「子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、『こ
んなことではいったいどうなるのでしょう、私は。』と言った。そして主のみ
こころを求めに行った。」(創世記25章22節)

アブラハムに与えられた約束の子、イサクは成長し、創世記24章において
は結婚します。しかし、妻のリベカは不妊でした。イサクは妻リベカのために
祈ると、主は答えてくださり、結婚以来20年目にしてリベカは身ごもったの
です。
待望の子を与えられたリベカも妊娠中は不安に陥れられました。胎内の子ど
もたちが激しくぶつかり合っているのです。リベカが自分の妊娠に異常が発生
したと考え、出産に不安を覚えたのは当然でしょう。神様が祈りに答えて命を
与えてくださったのに、不安定な状態が続くことは納得が行きません。そこで
リベカは主にみこころを求めます。
神様はリベカの胎内には二人の子どもではなく、二つの国があることを告げ
ます。その宣告の通り、弟ヤコブは後のイスラエル民族の先祖に、兄エサウは
エドム人の先祖となります。出産時に弟ヤコブが兄エサウのかかとをつかんで
いたことは実に象徴的です。二人は胎内でどちらが先に生まれて長子の権利を
得るかという争いをしていたのでしょう。
生まれた後の二人は双子でありながら、性格も生活も正反対でした。後に和
解するまで、二人の関係は長年にわたって険悪なライバル関係であり続けたの
です。双子の兄弟が胎中でぶつかりあっていたことは、生まれる前から既にラ
イバル関係であったことを示しているのでしょう。

そこで、いつものように時代は飛んで現代の日本です。今、日本では「現代
版エサウとヤコブ」とも言うべき争いが母胎内で起こっています。エサウとヤ
コブの場合は「どちらが先に生まれるか」の順位競争でしたが、現代版の胎内
戦争は、さらに厳しい生存競争なのです。「どちらが先に生まれるか」ではな
く「どちらが生き残り、どちらが殺されるか」という生死をかけた争いなので
す。勝者となった胎児は生まれることが許され、敗者となった胎児は、その命
を闇に葬られるという実に厳しい生存競争なのです。
その「現代版エサウとヤコブ」、胎内の生存競争というのが、多胎児中絶の
問題です。多胎児中絶とは、正確に表現するなら、多胎児の一部を選別的に中
絶することを意味します。例えば、ある母親が三つ子を身ごもったとしましょ
う。そのような状況の中、母親とその家族は、住宅事情や経済状態などの人生
設計から、三つ子の出産は望まないが、双子なら出産し、育てられると判断し
ます。そして、胎内に生きる三人の胎児の一人を中絶することを希望します。
そのような患者の希望を医者が実現します。これが多胎児中絶です。

現在、日本ではこのような多胎児の中絶が問題となっています。その背景に
は多胎児が近年、飛躍的に増加しているという現実があります。皆さんの中に
は昔に比べると地域や学校の中で、かなり多くの双子を見るなあと実感してお
られる方も少なくないでしょう。統計上からもそのことは明らかです。出産の
全件数に対する多胎児出産の割合は、近年、飛躍的に上昇しています。
その原因は不妊治療の普及にあると言われています。その代表としては排卵
誘発剤の使用が挙げられます。排卵誘発剤の使用は妊娠を容易にしますが、そ
の反面、多胎児を身ごもる確率が著しく増加します。一昔前にブームとなった
五つ子ちゃんたちは、そのようなケースです。
また、不妊治療の一環として行われる体外受精も、多胎児の確率を飛躍的に
高めます。体外受精においては、一つの受精卵を子宮に戻すのではありません。
複数の受精卵を、それが着床することを期待して子宮に戻します。そうすれば、
複数個の受精卵が着床する確率はおのずと高くなります。ですから、体外受精
においては、通常の妊娠以上に多胎児となるケースが多くなるわけです。

しかし、一方、多胎児の出産となると様々な問題が起こります。少子化志向
の現代にあっては、多胎児はあまり望まれない傾向にあります。住宅事情、子
どもの教育費などを考えると、子どもは二人までと考えるのが一般的な日本の
夫婦でしょう。ですから、多胎児出産は親夫婦の快適な生活環境を脅かし経済
を圧迫することを意味します。
また、母親個人にとっては、多胎児となれば、妊娠出産の負担も大変なもの
です。さらに、母親は出産後の育児負担も考えなければなりません。夫婦の両
親など、かなりの時間と労力を裂いてくれる育児支援者が期待できなければ、
多胎児を育てることに不安を覚えざるを得ません。
そこで、母親とその家族には多胎児の一部を中絶したいという要求が生まれ
ます。例えば、「三つ子は困るので、一人を中絶して、双子として出産したい」
という希望が妊婦とその家族にあるとします。そして、その希望が産婦人科医
に告げられます。現在の産科の医療技術としては、このような患者の希望を実
現することは十分可能です。しかし、通常の中絶手術には、躊躇を覚えない医
師も、この多胎児の選択的中絶には躊躇を覚えるようです。マスコミの報道な
どによれば、実際に、多くの医師は手術を断るそうです。

その理由は、現在の日本の法的不備にあります。実は、多胎児の選択的中絶
は、法律的根拠がないです。厳密に法解釈を行えば、その手術は違法行為とな
り、手術を行った医師は法的に罰せられることになるのです。
そのことを簡単に説明しましょう。現在に日本において中絶手術は母体保護
法という法的根拠によって行われています。その母体保護法は、堕胎罪の一部
例外規定として位置づけることができます。日本の法律では、まず前提として
堕胎、すなわち中絶を違法とする法律があります。つまり、本来、日本の法律
では中絶は原則的に違法行為なのです。そして、そのような前提に立って母体
保護の観点から、様々な条件や限定の中で、本来違法である諸事情によって例
外的に法的に認めるというのが母体保護法です。
しかし、日本での中絶手術のほとんどは母体保護のために行われているとは
言い難いものです。実にこの経済大国日本にあって、中絶手術の99パーセン
ト以上は母体保護法の中の「経済的理由」を根拠に行われています。誰の目に
も、これが名目上の理由に過ぎないことは明らかです。ですから日本において
は、都合の悪い妊娠や望まない出産は、事実上「経済的理由」という名目によ
って、母体保護法という法的根拠を持つ中絶手術によって簡単に闇に葬り去る
ことができるのです。
ところがこのような法的な体制の中では、多胎児の選択的中絶は法的な根拠
を持ちません。胎内の胎児全員を中絶することは、「経済的理由」という名目
をつければ、合法的な行為となります。しかし、多胎児の一部を中絶すること
は従来の中絶手術の概念にないことです。ですから、現代の法律を厳密に解釈
するなら、何人かを残し、何人かを中絶するような手術は、法的を持たないこ
ととなります。ここに胎児全員の中絶は合法であり、一部の中絶は違法である
という、著しい矛盾が生まれるのです。
そこで、医者の側は違法性を帯びている多胎児の選択的中絶は行いたくない
と考えます。ですから、多胎児を身ごもった母親には、通常、胎児全員を出産
するか、全員を中絶するかという二つの選択しかありえないのです。多胎児の
選択的中絶をする医者を探すという第三の選択は、今のところ例外的なものの
ようです。

よく考えてみれば、多胎児の選択的中絶を希望する方のほとんどは、不妊治
療をしたはずです。妊娠出産を切望して治療を受けたのにもかかわらず、一旦
多胎児であると分かるれば、一転して中絶を希望するのは、都合が良すぎるの
ではないでしょうか。
不妊治療を受ける患者は、多胎児となる可能性が高いというリスクを覚悟し
なくてはなりません。医療現場では、当然、そのうようなリスクは伝えられて
いると思います。その意味でもインフォームド・コンセントが徹底される必要
があるように感じます。「不妊治療には多胎児出産というリスクが伴う。治療
の結果、多胎児を出産することになっても選択的中絶はしない」ということが
医者から患者へ明確に伝えられる必要があり、同時に患者家族もそのことを理
解した上で、自己責任において手術を受ける必要があるでしょう。
また、何より不妊治療を受けてまで、与えられた命なら、その尊厳を重んじ、
できる限り全員の出産を目指すのが、親としての本分ではないでしょうか。

法的な矛盾があるのだから、これを改めて多胎児の一部を選択的に中絶する
ことも、従来の中絶同様に扱うべきだという主張もあります。しかし、法律は
現実の社会変化に対応すべきだという論拠はあまりに一面的です。人間側の都
合で、胎児の数を限定し、余分な命は闇に葬るという行為を法的に認めてよい
のかという倫理的判断が優先すべきではないでしょうか?生命の管理という社
会的要請よりも、生命の尊厳こそが優先される社会であって欲しいと願います。
また、日本の法律が、そのような社会形成のためのものであって欲しいと願い
ます。


第九回「手段を選ばぬ子孫存続〜ロトの二人の娘」


「さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残
しましょう」(創世記19章32節)

「お家断絶」という言葉が日本にはあります。従来、個人より「家」の観念
が支配的な日本社会においては、子孫の存続は重大問題でありました。妻が不
妊であることは、それだけで、十分な離婚理由となり得ました。そのような傾
向は、近代化される以前の社会には洋の東西を問わず普遍的であったようです。
特に古代社会にあっては、種族の子孫存続は至上命令であったと思われます。
聖書を読めば、古代イスラエル社会も例外ではなかったことが分かります。
創世記38:8に記されたオナンの記事や申命記25:5に記された律法によ
れば、当時、子がないままで死んだ兄の弟は、兄嫁と結婚し、子どもをもうけ
る義務がありました。これは「レビラート婚」と呼ばれ、旧約時代は神様の御
心でもありました。このようにイスラエル民族にとっても子孫存続は、至上命
令であり、同時に神様の御心でもあったわけです。

さて、冒頭の聖句です。ソドムとゴモラを脱出したロトと二人の娘はやがて
人里離れた山奥の洞穴に住むこととなります。ロトの妻は、そこにはいません
でした。彼女は、ソドムへの執着からでしょう、後ろを振り返り、塩の柱とな
りました。ここに、父と娘二人だけという孤立した閉鎖的な社会が作られまし
た。
そのような生活が続く中、姉が妹に言います。「お父さんは年をとっていま
す。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人な
どいません。」実に的確な現状分析です。父親は高齢であり、子種が尽きるの
も時間の問題です。また、人里離れた洞窟生活では、二人の娘は通常の結婚を
望み得ません。従って、子孫存続の願望を達成のためには冒頭の聖句のような
方法しかないと判断したのです。

古代社会においては、子孫存続の要求は強烈であったはずです。二人の娘が
持った子孫存続の願いは神様の目から見ても、正当であり、純粋なものであっ
たことでしょう。しかし、どのような純粋な目的であったも、それが手段を正
当化するとは限りません。性の世界には、御心である手段と御心でない手段が
があります。そして聖書はそれを明確に判別して記しています。ロトの娘がと
った手段は明らかな近親相姦であり、これは御心に反するものでした。
いくら、子孫を残すことを切望したとは言え、近親相姦の罪を犯したことは、
ロトの一家がソドムの生活に強く影響さていたことを示すものです。ある説教
者はロトのことを「たくあんクリスチャン」と表現しました。大変分かりやす
くかつ的確な表現だと思いませんか?漬物の汁が染み込み、真っ白な大根が染
まってしまうように、ソドムという罪に満ちた社会の中でロト一家は信仰者と
しての聖さを失ってしまったのです。当然、性倫理についても影響を受けてい
たと思われます。快楽最優先の秩序なき性行動が支配的であったソドムにおい
ては、同性愛だけではなく、近親相姦も一般的であったことでしょう。ソドム
での長年の生活を通してロトの娘たちは性に関しての基本的な倫理観も麻痺し
てしまっていたと思われます。

では、近親相姦による子孫存続は、祝福につながったでしょうか。姉が産ん
だ男の子はモアブ人の祖先に、また、妹の産んだ男の子は後のアモン人となり
ます。それぞれの民族は祝福された民であったでしょうか。
民数記の25章によれば、約束の地、カナンを目前にした出エジプトの民は
モアブの娘と性的な関係を持ち、偶像礼拝に走ります。また、レビ記18章2
1節にはモレク礼拝に子どもを犠牲として捧げることが禁じられています。こ
のモレクはアモン人の神です。つまり、モアブもアモンも、イスラエルを誘惑
し偶像礼拝に陥れるような民族となったのです。
多分、ロト一家の近親相姦は、直接の読者であったイスラエルの民への警告
を目的として記されたのでしょう。モアブ人とアモン人がその起源からして罪
深いものであり、その習慣に倣わないようにとの警告が込められていると思わ
れます。聖書の記述によれば、二つのたみは祝福されたとはおよそ言い難いこ
とがわかります。
一般に倫理学では、評価対象となる行動を、目的と手段と結果に分けて評価
します。ロトの娘たちの性行動を倫理的に評価してみましょう。子孫存続とい
う目的は正当です。しかし、その手段として選ばれた近親相姦は明らかな罪で
す。そして、その結果、発生した二つの民族は、神様の祝福を妨げる民となり
ました。いかに正しい目的であっても、手段が間違っていれば、悪い結果を生
むのです。

そこで、目を現代に向けてみましょう。近代化された日本の社会でも、頭脳
が近代化されていない方々も多く、未だに子孫存続が至上命令とされている場
合が少なくありません。当事者の夫婦だけでなく、周囲の切望や圧力もあり、
不妊の夫婦は大変です。
その結果、「現代版ロトの娘」が登場します。現在、日本の医療現場の一部
では、手段を選ばぬ子孫存続が行われます。実に様々な不妊治療があるようで
す。たとえば、配偶者間での体外受精はその代表です。このことの是非につい
ては、聖書的には評価が分かれるところです。これが不妊という障害を解決す
る医療行為だと考えれば、倫理的に問題はないでしょう。一方、愛し合う夫婦
が一体となる中で子どもが与えられることが聖書の示す原則であり、一切の例
外を認めないという立場に立てば、倫理的に認めることはできません。
夫以外の第三者の精子を用いての不妊治療もあります。中には、血縁を重ん
じる日本社会らしく夫の兄弟や父親の精子を用いる場合もあるそうです。夫が
生きているのですから、レビラート婚とは言えません。また、性的な関係はな
いとは言え、近親相姦同様の結果をもたらすのですから、これは考え物です。

どうも、子孫存続を願う人間側の心は、ロトの時代も現代も変りはないよう
です。しかし、現代にあっては、医療技術や生命操作の飛躍的な発展によって、
従来ならあきらめるべきケースも、希望達成が可能となりました。今や、人類
はかなりのレベルで生命の誕生を管理できるようになりました。それは、一面
においては、不妊夫婦にとっての喜びでありましょう。しかし、神様が良しと
される手段かどうかが問題です。
現代の日本社会にあっては「欲望達成=幸福」というのが公式化しています。
その中にあって、私たちは忘れてはならないことがあります。欲求の達成がそ
のまま、祝福につながるとは限らないのです。手段の是非が、その後の祝福と
呪いを分けるのです。神様が良しとされない手段によって達成された悲願は、
残念ながら最終的には祝福に反する結果を生むのです。やはり、様々な不妊治
療の手段に対しては、聖書的な立場から神学的なアプローチをもって倫理的な
判断が為される必要があるでしょう。何千年も前のロトの娘の事件は、21世
紀に生きる私たちにそのことを警告しているかのようです。



第八回「滅ぼされるべき性〜ソドムの住民たち」


「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。
彼らをよく知りたいのだ」(創世記19:4)

創世記19章には、ソドムとゴモラの破壊とそこからのロト一家の脱出が描
かれています。伝統的にはソドムとゴモラの罪は、同性愛の罪であると解釈さ
れてきました。このソドムという地名に由来する英語の言葉「ソドミズム」は
男性同性愛を意味する言葉となっています。そのような解釈に立つなら、冒頭
の聖句中の「知りたいのだ」という言葉は、暴徒たちは同性愛行為を望んでい
たことを示します。
しかし、現代になって反論が為されています。確かに創世記19章を読んで
も、ソドムの住民たちの罪は具体的には明示されていません。また、ソドムと
ゴモラの破滅は旧約聖書に繰り返し言及されています。(申命記29:23、
詩篇11:6、イザヤ1:9以下、エレミヤ49:18、エゼキエル16;4
6以下等)しかし、いずれの箇所にも具体的な罪の内容は記されていません。
一部の学者は、文献学的な資料をもとに、ソドムとゴモラの罪を「旅人冷遇
の罪」あるいは「旅行者庇護義務違反」と断定します。確かに交通手段も宿泊
施設が整備されていない古代社会にあっては、それは大きな罪とされていまし
た。また、聖書以外の古代の文献によれば、ソドムやゴモラにはそのような悪
が蔓延していたことが分かるそうです。

しかし、それには矛盾点も多く見られます。8節においてロトが旅人の身代
わりとして暴徒に娘を差し出すのは、つじつまが合わないのです。「男を知ら
ない娘」という表現からも性的いけにえ、代理にしようとしていると考えるの
が自然でしょう。すると暴徒の目的は性的なものであったと判断されます。
さらに、旅人を冷遇する罪が当時はいかに重大であったとしても、聖書の記
述のようにそれが罪の代表であるかのように評価されるのは不自然でしょう。
それなら、むしろ、より本質的な罪である偶像礼拝の罪や想像の摂理に反する
性的逸脱を犯している国家が先に裁かれるべきでしょう。
そして、何より決定的なのは、聖書自体の証言です。ユダの手紙7節には次
のようにあります。「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じよ
うに好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、
みせしめにされています。」いかがでしょうか。「好色」という表現から性的な
罪であることが分かります。また、「不自然な肉欲」という言葉からは、やは
り同性愛であると考えるのが自然でしょう。
以上のように、少なくとも聖書信仰の立場からは、やはり、伝統的解釈に軍
配が上がります。

ジャズ・サックス奏者のマルタさんが御自身の書物に次のようなエピソード
を書いておられます。マルタさんは、アメリカの音楽学校に留学するため渡米
をしました。初日はYMCAホテルに宿泊したそうです。マルタさんはYMCA
はユースホステルのような健全な男性専用宿泊施設だと信じていました。とこ
ろが、泊まってびっくり!宿泊している男性の多くは全裸で男同士手をつない
だり、肩を抱き合って仲良く歩いているのです。事の真相に気がついたマルタ
さんは、個室に入り身を守ろうとしました。ところが部屋は鍵がかからないよ
うになっているのです!マルタさんが恐怖におびえて一睡もできなかったこと
は言うまでもありません。
マルタさんがYMCAとは男性同性愛者専用の宿泊施設だと知ったのは後の
ことでした。マルタさんは、危うく現代版、ソドムとゴモラの犠牲になるとこ
ろだったわけです。

昔、ヴィレッジ・ピープルというグループ歌ったYMCAという曲が大ヒッ
トを記録しました。日本でも西条秀樹さんがカバーして同じくかなりのヒット
曲となりました。英語歌詞の表向きの内容は、ほとんど日本語の歌詞と同様で
す。しかし、英語歌詞が含んでいる本当の意味は、西条秀樹さんの歌った健康
的で明るいイメージとは程遠いものです。日本語の「素晴らしいYMCA」の箇
所は英語では、「YMCAに泊まるのは楽しいよ」という歌詞です。これは言
うまでもなく、男性同性愛者専用宿泊施設への賞賛の歌なのです。
実はヴィレッジ・ピープル自体、全員、男性同性愛者なのです。今風に表現
するれば「ゲイ・ユニット」と言えるでしょう。このグループは他にも「イン・
ザ・ネイビー」や「ゴー・ウエスト」などのヒットを持ち、日本でもカバーさ
れています。ピンクレディーがカバーした「イン・ザ・ネイビー」は海軍内で
の同性愛を歌っています。また、日本では誰がカバーしたか知りませんが、「ゴ
ー・ウエスト」は同性愛のメッカであるアメリカ西部の都市サンフランシスコ
へ行こうという意味の歌詞を持っています。
ヴィレッジ・ピープルをプロデュースした人物自身同性愛者だそうです。「同
性愛者による」「同性愛者のための」「同性愛者の」ユニットということでしょ
う。いかにも同性愛が社会的問題となり、同性愛者の人権運動が盛んなアメリ
カ社会が生みだした音楽ユニットだと感じます。日本の芸能界でも、同性愛者
は多く活躍しています。同性愛の問題は意外に身近なところにあるものです。

ただ、誤解のないようにと願い、付け加えておきます。同性愛者の方々の多
くはYMCAのようなあり方には賛同していないそうです。つまり、特定の場
所で同性愛のパートナーを探したり、不特定多数と性関係を持つことについて
は多くの同性愛者はこれを嫌悪しておられるようです。そのことは異性愛の場
合も同様でしょう。一般的に、テレクラなどで性的パートナーを見つけたり、
不特定多数との性関係が嫌悪の目で見られていることを考えれば、多数派の同
性愛者の心情や考えも理解できるはずです。私はあくまで、ある特定の同性愛
者のあり方を記したに過ぎません。どうか、これが同性愛者の多数派であるよ
うに考えないで下さい。これまでの記述が同性愛者に対しての偏見を助長する
ことがあってはなりませんから。

ヨーロッパでは、同性間の結婚が法的に認められる方向に動いています。2
001年にはついにオランダにおいて、同性愛者間の結婚を異性愛者同様のも
のとして認める法律が可決され、実施されています。州単位での自治が確立さ
れているアメリカでも州によっては、同性間の結婚が法的に認められそうな勢
いです。欧米において、同性愛問題はカトリックや保守的なプロテスタント教
会にとっては、威信をかけて戦うべき課題となっています。

ローマ帝国の滅亡は内的崩壊であったと言われています。ローマが滅亡した
真の原因は、外的な軍事的攻撃でも経済的破綻でもなく指導者層から一般市民
に至るまでを覆い尽くした道徳的堕落だというのが定説のようです。そのよう
な道徳的な堕落はその性的な逸脱に代表されます。当時のローマにあって同性
愛は一般的な性風俗でした。皇帝ネロは二度にわたって男性と結婚し、自らの
母親とも性的関係があったと言われています。成熟しきった神なき文明がその
頂点にあって迎えるのは、退廃しきった道徳的堕落です。特に一般市民におけ
る性倫理そのことが顕著に現われます。
私などは、ローマ帝国末期の様相を見せる欧米諸国が21世紀のソドムとゴ
モラにならなければと危惧をしてしまいます。


第七回「祝福された高齢者の性〜アブラハムとサラ」


「サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたア
ブラハムに男の子を産んだ。」(創世記21:2)

神様はお約束の通り、更年期後の老年夫婦に約束の子を与えられました。神
様の業は確かに超自然的ですが、全く自然の秩序を無視したものではなかった
ようです。聖書を良く読むと、90歳になる老女サラが、受胎能力もない老い
た肉体のまま、このような奇蹟が起こったのではないことが分かります。
前の章である20章においては、アビメレクという権力者が既婚者とは知ら
ず、サラを召し入れようとします。90歳の老女を召し入れるはずがありません。
どうも、サラは老女から若返り、外見も美しくなっていたと考えられます。そ
れは、サラが身ごもり、約束の子を産むために神様が特別に起こされた奇蹟で
しょう。この時アブラハム100歳、サラは90歳、この老年夫婦に子どもが与
えられたということは、当然、この老年夫婦に性生活があったということを意
味します。

日本では高齢者の性はタブー視されがちです。高齢期にも性的な欲求がある
ことは、当然のことであるにもかかわらず、「いい年して」などと非難されて
しまいます。高齢になれば、枯れ木のようになり、性的欲求などという「煩悩」
は消え失せると考えるのは、全くの事実誤認です。
よく「女は灰になるまで」と言われます。職務上の必要があり、大岡越前が
妻の母に、女性の性的な欲求はいつまであるのかと尋ねると、老いた義理の母
は、返答せずに火鉢の灰をつついてばかりいたという有名な話しがあります。
越前は、そのしぐさから「灰になるまで」と悟ったと言われています。実際に、
女性の性的な欲求を生み出すホルモンは、高齢になっても分泌され続けること
が発見されています。ですから、「女は灰になるまで」という格言は、医学的
な根拠を持った真実だと言えるでしょう。
また、男性側について言えば、さらに厳しい批判にさらされます。高齢とな
り、後妻など迎えようものなら、財産相続の問題も絡んで非難ごうごうです。
高齢者の性的欲求自体が批判の的となりかねません。
特に日本社会では、生殖能力を失ってしまった男性が性的な欲求を持つこと
は理解されていません。日本社会に蔓延してしまった「性は肉体上の生理現象」
という貧困な理念のため、高齢者が人格的なぬくもりや孤独の解消を性の世界
に求めることなどは、およそ理解されないことのようです。たとえ、肉体上の
性的な機能は停止しても、心の性は男女とも生涯にわたって継続するものです。
そして、人は一生、性的充足を求めながら生きるのです。

日本でも高齢者の性に関する良書はいくつも出版されています。重い口を開
いて高齢者の性について語る高齢者施設の女性職員たちの証言は、生々しくシ
ョッキングであるとともに、厳粛な思いをさせられます。男女別棟であったの
を同じ棟にしたら、高齢者たちが、若々しくなり生き生きとし始めたなどとい
う、微笑ましいものもあります。つくづく、「人間は人間である限り、生涯、
性と向かい合うのだなあ」と感心してしまいます。しかし、神様は人間を性を
持つものとして造られたのだから、聖書的な視点で見れば当然のことかも知れ
ません。

欧米社会においては、高齢者の性についての理解は日本に比べるなら、随分
浸透しているようです。欧米では、老年の夫婦がベッドで抱き合う写真が一般
的に見られるそうです。高齢夫婦の性生活が社会的認知を受けている証拠であ
りましょう。確かにこれは、日本では皆無に近いことです。
今や日本は人類史上まれに見る高齢化社会を迎えようとしています。やがて
高齢者の性の問題は「臭いものには蓋をしろ」的な解決では済まなくなるでし
ょう。このことが、性を人格や心と切り離し、「性行為=性器結合」という偏
狭な理念でしか性を考えることのできない現代の日本人に、一大転機を与える
ことを期待しています。
生殖能力を失っても、性は続くのです。男女とも生涯、肌のぬくもり、心の
交わりを求める気持ちは変りません。アブラハムとサラの性生活を祝福してく
ださった神様は同じく現在の高齢者夫婦の性生活を祝福し、喜びに満ちたもの
としてくださるでしょう。


第6回「更年期後の苦笑〜サラ」


「アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にある
ことがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。『老い
ぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。』」(創
世記18:11-12)

3人の旅人がアブラハムたちを訪問します。18章の2節では、3人のはずが、
10節ではヘブル語本文では主語がなく単数形扱い(新改訳では「ひとりが」)
になっており、13節では「主が」と明示されています。三人の旅人が主なる
神御自身の顕現であることに気がついてゆくアブラハムの心の動きが描かれて
いるようです。この旅人たちが訪問した目的の一つは、サラが約束の子を身ご
もることを告げることでした。
その宣言を、聞いたサラの反応が冒頭の御言葉です。約束の御言葉と自分た
ち夫婦の現状とは、あまりにもかけ離れたものでした。二人は老人であり、サ
ラすでに更年期を過ぎており、受胎能力は全くありませんでした。「何の楽し
みがあろう」とは、二人には以前のような性生活がなかったことを予想させま
す。「それに主人も年寄りで」という言葉も、アブラハムが既に男性としての
生殖能力を失っていたことを暗示しているようです。
夫婦が共に老いており、既に生殖能力を失い、通常の性生活もないのです。
どうして、この夫婦間に子どもが期待できましょう。いくら、サラが古代人と
は言え、そのような超自然や非科学的な可能性を信じる訳には行かなかったの
です。いくら神様の御言葉だとしても、サラは笑うしかなかったでしょう。
サラは心の中で笑ったに過ぎませんでしたが、神様はその内なる思いを見逃
しませんでした。13節から15節において、神様はサラの内なる笑いを「不信
仰の笑い」として指摘し、悔い改めさせようとしました。神の全能の力とその
可能性を人間の理性や限界のなかにとどめることは叱責に値するということで
しょう。
この時のサラの苦笑は、神様ご指摘の通り不信仰の笑いです。しかし、同時
に、それは神様の言葉の荒唐無稽さへの笑いでもあり、「自分はもう女性でな
い、もはや約束の子どもを産み得ない」という自虐的な笑いでもあったでしょ
う。私などは、サラの心情を察するに、更年期を迎えた女性の複雑な心境を垣
間見てしまうわけです。

話しはかなり強引に現代の女性たちに移ります。聖書の記事からは飛躍する
のですが、現代の日本女性たちは更年期を迎えた時、果たして笑っているでし
ょうか?それとも泣いているでしょうか?
私が愛読する「性の風景」(読売新聞社)には、更年期を迎えた女性たちの
様々な思いが記されています。この本によれば、欧米の女性は閉経を恐れるの
に対し、日本の女性は「女からの卒業」を喜ぶ傾向が強いとのこと。「やっと
お勤めから開放される」「晴れて夫にノーが言えと」喜ぶ女性が非常に多いそ
うです。サラは更年期を悲しみながらも、苦笑しましたが、日本女性の多くは
心から笑っているようです。ある産婦人科医によるアンケート結果では、「更
年期後、夫婦関係が疎遠になった」と答えた方が約6割、「親密になった」と
答えた方は1割にも満たなかったそうです。
一人のルポライターは、欧米とは正反対のこのような結果について次のよう
に結論づけています。「それまで性についてじっと耐えてきた妻からの夫への
性的な仕返しではないかと思い当たった。」つまり、更年期前までの夫側の態
度が問われているのです。思いやりがなく、一方的で、自分の欲望達成だけを
目的とした、特に暴力的な性における態度が、このような結果につながってい
ると考えるべきでしょう。「相手を思いやる」「自分の意志を明確に告げる」と
いう性における基本姿勢がある程度定着している欧米社会との相違は当然のこ
とと言えます。

何年か前、地下鉄の駅に厚生省発行のパンフレットが並んでいました。その
一つに「更年期後の性生活の手引き」というようなタイトルのものがありまし
た。それによりますと、「更年期後こそ、女性は妊娠の不安なく喜びに満ちた
性生活を送れる」と更年期を積極的に評価していました。「女性として性の喜
びは更年期後にこそある」と言わんばかりの勢いです。更年期にありがちな性
交痛対策なども書かれており、感心していました。この点に関して私などは、
厚生省の味方をしてしまいますが、読者の皆さんはいかがでしょうか。

性は命を生み出すことだけが目的ではありません。神様が人類に性をお与え
になった目的は生殖以外にもあるはずです。神様は「人がひとりであるのは良
くない」(創世記2:18)という理由で異性を造られました。性は人類の孤独を
解消するための神様からのプレゼントです。性は生殖のためだけでなく、夫婦
が愛し合う交わりの手段として与えられたと考えるのが聖書的でしょう。聖書
的な観点からも、命を生み出し得ぬ「更年期後の性」をもっと正しく評価した
いものです。
今回は、サラの更年期後の笑いと日本女性の更年期後の笑い、その強引な比
較検討でした。