性から見た聖書人物伝 第16回

〈このコーナーの趣旨〉
聖書には性に関して膨大な量の記述があります。しかし、説教を通してそれ
らが直接的に解き明かされることは少ないのではないでしょうか。性に関する
記述が取り次がれても、それに関しての直接的な言及よりも、むしろ、それを
通じての罪や聖さ、倫理などの一般的な原則が解き明かされる場合が多いので
はないかと思います。
そのような現状を踏まえて、このコーナーでは聖書中の性に関する記述を取
上げ、直接的に言及します。とりわけ聖書に登場する人物の性行動にスポット
を当て、その性行動を聖書的な視点から解説し評価します。さらに、その性行
動に関する聖書記事を現代人の性行動に適用し、意義ある示唆を得たいと願っ
ております。

第16回「奔放な性による祝福喪失」


「イスラエルがその地に住んでいたころ、ルベンは父のそばめビルハのところに行って、
これと寝た。イスラエルはこのことを聞いた。」(創世記35章22節)

ヤコブ(=イスラエル)の周囲には晩年になっても性的な罪や問題が渦巻いていたよう
です。今度は、息子が加害者で、ヤコブ自身は被害者の立場となります。ルベンの行為は、
現代に置き換えれば、父親の愛人と関係してしまい、それが父親にばれたということにな
るでしょう。
これは、一節だけの記述です。ここにはヤコブの怒りもルベンへの罰も記されてはいま
す。しかし、この1節は大変重い一節です。何が重いかと言いますと、一つはその罪の重
さです。それは言うまでもないでしょう。直接的に血のつながりはないと言え、この性関
係は近親姦と言わざるを得ません。ルベンにとって、ビルハはラケル(叔母であり義理の
母)の女奴隷であるだけでなく、弟であるダンとナフタリの母親でもあります。現代なら、
父の愛人というよりは父の後妻、あるいは義理の母のような関係だと言えそうです。少な
くとも家族には違いありませんから、近親姦という判断は適切でしょう。
そして、もう一つはこの罪の影響の重さです。実はこの罪はイスラエル民族の歴史を大
きく変えることになったのです。このような行為を明確に禁ずる律法が与えられるのは、
創世記より後の時代です。しかし、このことについての神様の評価は明らかです。それは
この後のルベンに対しての記事を読めば分かります。ルベンはこの罪によって神様からの
祝福を失うのです。では、代表的な箇所を二つあげてみましょう。

一つ目は創世記49章3、4節です。ここでヤコブは子どもたち、さらには12部族に
対して預言的な発言をします。3節にはルベンが長子であり、威厳と力ある者であると宣
言されます。しかし、ヤコブは「ルベンは水のように奔放なので、もはや他をしのぐこと
がない」と明言します。その奔放さは性の世界にも現われたのです。その現われの最も罪
深いものがビルハとの事件だったのです。ヤコブは「あなたは父の床に上り、そのとき、
あなたは汚したのだ。」と明言しております。つまり、ルベンはその奔放な性を決定的な
理由として長子でありながら他をしのぐことがない、つまり、長子の権利を失ったのです。
そのことは、もう一つの箇所、第一歴代誌5章1節を読めば、一目瞭然です。「彼は長
子であったが、父の寝床を汚したことにより、その長子の権利はイスラエルの子ヨセフに
与えられた。」とある通りです。
私たちはここに「奔放な性に生きるならその者は神様からの祝福を失う」という原則を
読み取ることができます。聖書の基準で判断するなら、婚前性交渉や不倫のような結婚外
の性は奔放な性です。同性愛行為や獣淫、そして今回の近親姦もその性行為の対象が逸脱
したものであるという点において奔放な性と判断されます。
奔放とは「欲望に対してコントロールやブレーキが利かないこと」言いかえることが可
能でしょう。現代日本社会のような欲望達成至上主義的な社会においては、欲望に対して
のコントロールやブレーキはますます甘いものとなりつつあるようです。
どのように人類の性が従来の伝統的な規範を失い奔放となっても、最後の砦であると思
われていた性行為があります。それは、近親姦です。(以前は「近親相姦」という表現が
用いられていました。しかし、この性行為については相互の関係は少なく、むしろ、一方
的な関係である場合が多いので「相」という文字は適切でないと判断され、最近では「近
親姦」という表現が用いられつつあります。私もこれに賛同します。)
ところが今、そのような見解は全くの楽観論であることが明らかになりつつあります。
「データブックNHK日本人の性行動、性意識」を読むなら、誰もが最後の砦が崩壊しつ
つある現状にショックを受けるでしょう。この書物に記されている統計は、日本で最も信
頼できる性についての調査結果だと思われます。それによると、近親者との性行為を「構
わない」あるいは「どちらかと言えばかまわない」と考えるのは16〜19歳という年齢
層に限れば、男性で10%、女性で11%にも及びます。つまり10代後半の若者たちの
1割は近親姦に許容的なのです。20代以上は男女とも1〜3%に過ぎないことと比較す
ると、恐るべき急速さで若い世代の意識に変化が起こっていることが分かります。
意識だけではなく、その性的願望を知るならさらにショッキングであると言わざるをえ
ません。16〜19歳の男性においては近親者との性行為について「してみたい」が4%
「どちらかと言えばしてみたい」が2%、「実際にしたことがある」が2%です。女性は
「してみたい」が2%「どちらかと言えばしてみたい」が2%、「実際にしたことがある」
が0%です。
他者の性的な願望について「ひとそれぞれ」と割り切って考えているだけではなく、自
分の願望としてこんなにも多くの若者が有しているのは、どうしたことでしょう?特に十
代後半の男子の「実際にしたことがある」が2%は、日本中に莫大な数の近親姦があるこ
とを意味します。さらに、こうした性的願望をあらわにする世代の登場は、今後、近親姦
淫が急速に増加することを予想させます。
私がかつて読んだ人類学の本によれば、近親姦の禁止は、未開民族の間では最も基本的
な性的規範であり、社会ルールであるとのことです。多くの未開民族の社会では男性は一
定の年齢になると、年長者から、性関係をもってよい異性と持ってはならない異性との区
別を厳しく教えられるそうです。言うまでもなく、一定の血縁関係のある者との性行為は
民族あるいは社会にあって厳しいタブーとされるわけです。聖書を持たない社会、文明化
が進んでいない社会であっても、近親姦禁止は最低限の社会的ルールであり、性の規範の
基本なのです。
その事を思いますに、世界最高水準の教育レベルを持つと言われる我が国において、人
間にとって最も基本的なルールが教育できていない現状は嘆かわしいばかりです。日本の
家庭教育は、未開民族家庭の文化レベルにも達していなのですから。私もここ数年で間接
的ですが、近親姦の事例を幾つか聞いております。アメリカで起きていることが、やがて
日本にも訪れるということでしょうか?気の重い問題ですし、表に出せない問題ですが、
今後、日本社会でもこの問題は表面化するでしょう。既に少なくとも危機感と心構えは必
要な段階には至っているのです。

家族関係を破壊するという意味で最も過激な「奔放の性」である近親姦は、間違いなく
神様の豊かな祝福を失わせるものです。私たちは21世紀初頭にあって、ルベンの奔放さ
の結末から学ぶものは少なくないようです。