性から見た聖書人物伝 第11回〜15回

 

〈このコーナーの趣旨〉
聖書には性に関して膨大な量の記述があります。しかし、説教を通してそれ
らが直接的に解き明かされることは少ないのではないでしょうか。性に関する
記述が取り次がれても、それに関しての直接的な言及よりも、むしろ、それを
通じての罪や聖さ、倫理などの一般的な原則が解き明かされる場合が多いので
はないかと思います。
そのような現状を踏まえて、このコーナーでは聖書中の性に関する記述を取
上げ、直接的に言及します。とりわけ聖書に登場する人物の性行動にスポット
を当て、その性行動を聖書的な視点から解説し評価します。さらに、その性行
動に関する聖書記事を現代人の性行動に適用し、意義ある示唆を得たいと願っ
ております。

 

第15回「レイプ事件と報復行動〜ディナとヤコブの息子たち」


「レアがヤコブに産んだ娘ディナがその土地の娘たちを尋ねようとして出かけた。すると、
その土地の族長のヒビ人ハモルの子シェケムは彼女を見て、これを捕え、これと寝てはず
かしめた。」(創世記34章1,2節)

ラバンの下を去ったヤコブ一家はカナンの地、シェケムという町に到着します。そして、
そこに土地を買い求め定住を始めます。しかし、安住の地を見出したかに見えたヤコブ一
家に悲劇が待ちうけていました。
ヤコブの娘ディナがその土地の族長の息子シェケムに乱暴をされたのです。シェケムは
ディナに心ひかれ、父ハモルにディナを嫁に迎えるよう願います。古代社会においてはこ
のようなレイプ婚は決して珍しいものではなかったようです。やがて、御互いの父親どう
しの交渉となり、ハモルとヤコブという族長どうしの話し合いが始まります。単に御互い
の子弟の結婚にとどまらず、今後は御互いが縁を結び、将来的にはひとつの民となること
を提案します。
聖書を読むなら、ヤコブはこの時ある程度冷静であったように思われます。しかし、ヤ
コブの息子たちは、妹を汚された事で大きな怒りを覚えていたようです。この事件当時、
ディナは13〜15歳であったと思われます。いかに古代社会での婚期が早かったとはい
え、この年齢を考えると兄弟たちの怒りの強さは予想がつきます。
そこで、ヤコブの息子たちは悪巧みをします。割礼を受ければ妹を嫁がせてもよいと条
件を出します。そこで、ハモルとシェケムは町中の男性に割礼を受けさせました。割礼の
三日後となり、傷が痛んでいる頃、ディナの直接の兄であるシメオンとレビが町全体を襲
い、すべての男子を殺してしまいます。さらに、ヤコブの子どもたちはその町を略奪しつ
くしていったのです。
一レイプ事件の報復としては明らかに行き過ぎです。シェケムの犯した罪に対しては当
時の司法制度の中で、損害賠償か何かの形で罰を与える事もできたはずです。多分、それ
ではシメオンやレビの怒りは治まらなかったのでしょう。怒りにまかせて町中の男子を殺
し、略奪をしたことは、ひとつの罪に対してさらに大きな罪をもって応答した事を意味し
ます。これは、神様の民たる者が決してしてはならないことのはずです。また、神様の民
としての契約の印である割礼を、敵を欺く手段として用いた事も神様の前に問われるべき
罪でしょう。
この事件の後、ヤコブ一家はその残虐行為の故にこの地に住む事ができなくなってしま
います。罪に対して罪で報復をしていたのでは、結局、まことの平和も正義も実現する事
はありません。彼らは「平和をつくる者」でも「義に餓え渇く者」でもありませんでした。
故に「幸いな者」でもなかったのです。

ある書物に「レイプは性の世界におけるファシズムである」と表現されていました。個
人的には、実に的確な表現であると感心しました。レイプとは個人の性的自由を一方的に
奪うわけですから、その行為を「ファシズム」と呼ぶのは当然でしょう。
しかし、私は今回の聖書箇所を読み、レイプとは「性の世界におけるテロリズム」と表
現する事もできるなあと思いました。自らの欲望を絶対視し、その実現のために相手の自
由を侵害するばかりか、暴力的な手段に訴えるからです。
そのような被害にあった女性自らやその家族はどうすればよいのでしょうか?レイプも
セクハラも痴漢行為も申告罪ですから、被害者自身の申し出がなければ、加害者が法的に
裁かれる事はありません。そこで被害者側の泣き寝入りに終る事が少なくないようです。
一方、被害者女性が男性の友人に依頼し、リンチなどの形で報復をするというケースも
聞いた事があります。これはヤコブ家と同じ発想だと言えるでしょう。いずれにせよ、女
性に対する性犯罪が法的に正しく裁かれていないという現状は大変残念なことです。

第二次大戦中の事です。ナチス率いるドイツ軍がフランスに侵入しました。理性を失っ
たドイツ兵たちは、その土地の女子修道院を襲い、集団レイプに至ったそうです。そして、
その結果、何人もの修道女が身ごもってしまいました。彼女らはカトリックの教えに従い、
その子どもたちを生み出したのです。ドイツ兵に罪があっても、与えられた命には罪がな
いのです。彼女らがとった判断と行為、それは真理にかなうことでしょう。しかし、現実
に性的な自由を侵され、傷つきながら命を宿し、生み出していった修道女たちの心の内を
思う時、言葉では言い表し得ない葛藤を覚えます。
命が死を支配する祝福、愛が罪を覆い尽くす恵み、自由がファシズムに勝利する素晴ら
しさがここにはあります。しかし、それを実現する為には、その命がいかに豊かでなけれ
ばならない事でしょう。その愛がいかに深くなければならない事でしょう。また、その自
由がいかに強いものなければならないことでしょう。
性の世界においても政治の世界においても、報復によっては真の平和も正義も打ち建て
得ない事は私たちの多くが承知していることです。聖書はそのことを繰り返し描き、人類
の歴史はそのことを何度となく経験してきました。そのことを思います時、私たちは、こ
こに描かれたレイプと報復行動の中に、人類が福音と神様の恵み以外によっては決して克
服し得ない自らの罪性というものを見るのではないでしょうか。
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第14回「男を黙らせる女の性〜ラケルのずるさ」


「ラケルは父に言った。『父上。私はあなたの前に立ち上がることができませんので、ど
うかおこらないでください。私には女の常のことがあるのです。』彼は探したが、テラフ
ィムは見つからなかった。」(創世記31章35節)
 創世記31章に入るとラバンとヤコブの関係が悪化します。現代流に表現すれば、ヤコ
ブの弱みに付け込み不当労働行為を重ねてきた雇用者ラバンに対してヤコブがついに切れ
たのです。いかにも人間的に見えるこの出来事の背後には明確な神様の導きがありました。
31章の3節でヤコブは「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい」と主から
の語りかけを受けているのです。その後、夢を通してより明確な神様からの導きをいただ
いたヤコブは、いよいよ神様からの帰国計画を決行します。妻子と共に家畜と財産をすべ
てもって、ラバンに知らせずに逃亡を図ったのです。この時、ラケルは父ラバンのテラフ
ィムを盗み出すのですが、これが後で大問題となります。
その三日後にヤコブが逃げた事がラバンに知らされます。ヤコブの持ち出した富の正当
性を認めたくなかったのでしょう。ラバンは身内の者たちを率いてヤコブの一行を追いか
けます。そして、ついに追いついた時、神様が介入されたのです。神様はラバンに夢を通
して「事の善悪を論じないように」と命じられました。強欲の固まりラバンもさすがに神
様を畏れたのでしょう。逃亡も許可し、ヤコブの私有財産も基本的に認めました。しかし、
ラバンは「私の神々」と彼が呼ぶテラフィムを盗まれた事には抗議をしました。
テラフィムとは偶像の一種のようですが、それは相続権に関して重大な意味を持つ物だ
そうです。もし、ヤコブがテラフィムを所有しているなら、将来、ヤコブはラバンに対し
て財産の相続を主張する権利があることになるわけです。ラケルが父のテラフィムを盗ん
だのは、将来の相続を期待しての事でしょう。
しかし、ヤコブの正当な財産さえ惜しがっているラバンがそれを許すはずがありません。
ラバンはまさか自分の実の娘がそのようなことをするとは思っていなかったのでしょう。
犯人はヤコブであると確信して、ラバンは盗まれたテラフィムを求めてヤコブ、レア、そ
して、そのはしための天幕までも探し続けます。
ここで見つかっては大変です。その中で、真犯人ラケルが思い付いた証拠隠滅作戦は卑
劣この上ないものでした。ラケルはテラフィムを取って、らくだの鞍の下に入れ、その上
に座ったのです。ラバンはラケルの天幕も隅々まで探し回ったのですが、当然見つかりま
せん。ラケルは父が自分の身の回りも探すかもしれないと予想したのでしょう。「らくだ
の鞍の下を探させてくれ」と言われる前に先手を打ったのです。

それが今回の冒頭の御言葉です。「女の常の事」とはもちろん月経のことです。女性に
「月経のために立ち上がれない」と言われれば、男性はなかなか強制する事はできません。
これを出されると男は弱いのです。自分にはよくわからない世界なので、強く出られない
ようです。ラケルは多分のそのことを知っており逆手に取ってのでしょう。これは女性と
して卑怯千万、女性の自ら、自分の性を卑しめる行為であると思います。この「女の性で
男を黙らせる」という作戦は大成功を収め、テラフィムは見つからなかったのです。
そこで何も知らないで無実の疑いをかけられたと信じているヤコブが「逆切れ」です。
ヤコブは20年にもわたる不当労働行為の数々を挙げながら激しくラバンを非難します。
そして、今回のことも神様からのさばきであるとヤコブは主張します。もはや、ラバンに
は反論の余地がありません。彼はようやく自らの非を認めたようです。そして、長年にわ
たる敵意を廃し、ヤコブ一家とラバン一家は和解の契約を結ぶ事となります。
思い返せば、私も教員時代はラケルの被害にあった覚えがあります。私が勤務していた
高校は男女共学でしたから、女性の性と向かい合う場面も多々あったわけです。そこでは、
女子高生たちがラケルのように「女の性で男を黙らせる」という卑怯な作戦を繰り広げま
す。
水泳の授業が嫌いな女子生徒たちの一部が性を利用するのです。プールに入りたくない
生徒たちは、授業を見学にするために虚偽の「生理」申告をするのです。当時、学校では
体育の授業を見学授業にする為には生徒手帳に理由を記入し、担任の印をもらって初めて
許可されることになっていました。ですから、担任をすれば、女子生徒たちが時々生徒手
帳をもって職員室にやって来ます。大方の生徒は「体調不良のため見学させて下さい」と
記入します。「体調不良とはどうしんだ?」などと決して尋ねてはなりません。察してや
らなければ生徒がかわいそうです。
しかし、中には「体調不良」を理由に水泳の授業をサボろうとしていると思われる生徒
もいるのです。当然、怪しいと疑うのですが、女性の性の前に男は黙ってしまうのでした。
「お前、本当か?」とはなかなか言えないものです。特に独身の男性教師は手も脚も出ま
せん。「お前、先週も見学だったじゃないか」と問うなら「私、生理不順なんです」と答
える生徒もいる始末。ほとほと手を焼いてしまいました。
しかし、そのような苦労も一年限りでした。次の年からは「見学した分の授業は夏休み
に補習として行う」というシステムが確立し、ラケルたちの作戦は終りました。水泳の授
業だけに「水の泡と消えた」ということでしょうか?
女性の敵は女性だと言われます。もちろん、社会は女性をその性の故に保護する義務が
あります。しかし、女性たちが性を自己保身や男性をコントロールするために用いるなら、
それは女性自らが、自身の性を卑しめる事はないでしょうか?

 

第13回「古代社会のバイアグラ〜恋なすび」


「さて、ルベンは麦刈りのころ、野に出て行って、恋なすびを見つけ、それを自分の母レ
アのところに持って来た。するとラケルはレアに、『どうか、あなたの息子の恋なすびを
少し私に下さい。』と言った。レアはラケルに言った。『あなたは私の夫を取っても、まだ
足りないのですか。私の息子の恋なすびもまた取上げようとするのですか。』ラケルは答
えた。『では、あなたの息子の恋なすびと引き替えに、今夜、あの人があなたの一緒に寝
ればよいでしょう。』」
(創世記30章14、15節)

創世記30章には、ヤコブの二人の妻であるレア(姉)とラケル(妹)の凄まじいまで
の夫争奪戦が描かれています。ヤコブは元々ラケルを愛していました。しかし、ラバンの
策略でレアが最初にヤコブと結ばれます。その次にラケルが結ばれるわけです。
レアの立場に立てば、同情せざるを得ません。父の策略の犠牲となり、なおかつ、夫の
愛はラケルの方にあることが最初から分かっているのですから。29章の31節によれば、
主は、ラケルより愛されることの少ないレアをあわれまれました。そして、その胎を開き、
長男ルベンを与えました。レアは子を得た事によって、今度こそ、夫の愛を得られると喜
んだのです。その後、姉のレアは、シメオン、レビ、ユダを産みました。それから彼女は
不妊となります。
一方のラケルは不妊で苦しみます。4人の男子を出産した姉に嫉妬します。彼女は夫、
ヤコブに女奴隷を与え、それによって子どもをもうけます。そこで、4人を出産後、不妊
となったレアも、女奴隷によってヤコブに子をもうけます。
女奴隷たちは、二人の妻の代理戦争をさせたれたのです。
そのような壮絶な夫争奪戦の中、レアの長男であるルベンが恋なすびを見つけます。そ
して、今度はこの恋なすびをめぐって、また妻どうしの争いが始まるわけです。しかし、
私たちの多くは、この恋なすびが激しく奪い合うほど価値のある事が分かりません。そも
そも恋なすびとは何なのでしょうか。
私が持っているチェーン式の聖書の脚注には次のような説明があります。「パレスチナ
南部の至る所に見られるナス科の植物で、根は朝鮮人参のように二股状になり、地中に深
く入っている。花は濃い紫、果実は小さいトマトほどで、オレンジ色または赤みを帯び、
5月頃成熟する。一般に性欲増進、受胎力増進の薬効があると信じられている。」

これでなぞが解けました。恋なすびとは性欲増進作用を持つ薬効植物だと言うのです。
まあ、「古代社会におけるバイアグラ」と表現したら分かりやすいでしょうか。なりふり
かまわぬ夫争奪戦は、双方の奴隷による代理戦争を経て、遂に薬物に頼るまでになったの
です。

15節に書かれているレアの言葉の冒頭に「あなた(ラケル)は私の夫を取っても」と
あります。どうも、レアは子ども産まなくなってからは、夫ヤコブから性的に放置されて
いたと想像できます。夫に相手にされてないレアが息子から恋なすびを得た時、考えた事
はひとつです。恋なすびを利用して夫を床に誘い込もう、そして、再び身ごもって夫の愛
を我が物としようと策略したのでしょう。
しかし、それを知ったラケルが予想外?の行動に出ます。一度も自ら身ごもった事のな
い彼女は、なりふりかまわず受胎力増進作用のある恋なすびを得ようとします。大胆にも、
ライバルであり、姉でもあるレアに堂々と恋なすびを分けるように要求します。当然、レ
アは怒ります。夫だけでなく、恋なすびまで奪われそうになっているのですから。そこで、
何としても恋なすびを得たいラケルは、最大限の妥協を払っての取り引きに出ます。レア
が夫ヤコブと一夜の関係を持つ事を交換条件に恋なすびを渡すように提案します。夫の疎
遠であったレアは交換条件に応じます。

さて、この恋なすびをめぐっての夫争奪戦はレアとラケルのどちらに軍配が上がったで
しょう。それは17節に書かれています。「神はレアの願いを聞かれたので、彼女はみご
もって、ヤコブに5番目の男の子を産んだ。」
何と、恋なすびを得たラケルでなく、それを譲ってヤコブと一夜を過ごしたレアの方が
身ごもったのです。聖書は「神が」レアの願いを聞かれたと示しています。その求めの切
実さに神様が応答されたのでしょう。
一方のラケルもやがて初めての我が子を産みます。22節に「神はラケルを覚えておら
れた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた」とあります。不妊であったラケ
ルの胎を開かれたのは恋なすびではなく、主御自身であったのです!

レアとラケルの妊娠はどちらも、神様の顧みによるものでした。どうも、性と命という
領域に関しては、神様がそれを祝福するというのが聖書の原則のようです。人間の智恵に
よる工夫や策略などは、その前にはあまりにも無力であるかのようです。神の領域にある
ことを人間の力でどうにかしようとする発想がレアとラケルにあったのではないでしょう
か。二人は真剣に神に性と命の祝福を祈りながら、実際には恋なすびに執着していました。

さて、時代は下って21世紀初頭の日本です。ストレス社会に生きながら、性欲減退に
悩む男性たちの間では、バイアグラが大変な話題になったようです。性科学者の先生方に
よれば、性行為はストレス解消になり、命の実感を得るという心理的な作用があるそうで
す。恐るべきスピードで変化し多様化し続ける現代社会にあっては、いよいよ充実した性
生活が必要だと言えるでしょう。
だからと言ってバイアグラなる薬物に頼るのは、あまりに安直なように感じるのは私だ
けでしょうか。夫婦の心の絆を強めるとか、会話を充実させるとか、そういうメンタルな
部分や関係性に着目した方法論が優先すべきではないかと思うのですが。
そして何よりも、クリスチャンの方々はレアとラケルの試行錯誤に学ぶべきでしょう。
人間的な工夫や方法ではなく、神御自身が性の世界を祝福される事を忘れてはなりません。
充実した性生活を願うクリスチャンである男性諸氏は、やはりバイアグラに頼るより主に
切実に祈り願うべきでしょうね。

 

第12回「古代社会における性の商品化〜ラバン」



「朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。『何
ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのため
ではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。』」

イサクとリベカの間に与えられた双子の兄弟、エサウとヤコブは長子の権利
をめぐって醜く愚かな争いを繰り広げます。当時のイスラエル社会において、
長子は様々な特権を与えられていたようです。特に財産分与については、長子
は他の子どもの2倍を相続する権利があったそうです。そのことからも、いか
に長子の権利が価値ある事かが分かります。
そこで、弟ヤコブは母リベカと結託して、卑劣な手段によって、兄エサウか
ら長子の権利を奪います。当然、権利を奪われたエサウはヤコブへの憎しみを
募らせて行くのです。そして、父イサクの余命も長くない今、エサウは父の死
後にはヤコブを殺そうと決心するのです。
エサウの殺意を耳にしたリベカは、ヤコブを避難させます。ヤコブにとって
は、その叔父にあたるラバンのところに彼を送ります。ところがそのラバンと
いう人物がただ者ではありません。きっと神様の摂理なのでしょう。ラバンと
いう人物はヤコブに輪をかけたような卑怯な極まる策略家だったのです。神様
は同じタイプの人間を用いて、ヤコブに自らの姿を自覚させ、ヤコブを取り扱
おうとされたと考えられます。

創世記29章には、ラバンの異常なまでの卑劣さが描かれています。彼は、
利益のためなら、手段を選びません。人を平気で騙します。人格を無視して他
者を巧みに利用するタイプの人間です。
ヤコブはラバンのもとで羊飼いとして働くこととなります。ラバンはヤコブ
に労働の報酬を与えようとします。ラバンには二人の娘がいました。姉の名は
レア、妹の名はラケルでした。ヤコブは妹のラケルを愛していましたので、ラ
ケルとの結婚を報酬として7年間、ラバンのもとで働きました。そして、いよ
いよ、待ちに待ったラケルとの結婚です。
しかし、有能なヤコブの働きによって富を得たラバンは、ヤコブを手放すの
が惜しくなりました。そこで策略家ラバンは、見事なまでの卑劣さでヤコブを
騙します。それが何とこの結婚の祝宴後に起こったのです。
祝宴の後、新妻と一夜を過ごして朝が来てビックリ!何と、それはラケルで
はなく、妹のレアだったのです。そこで冒頭の聖句です。騙されたヤコブは烈
火のごとく怒ります。もっとも神様はこのことを通して、ラバンの内にヤコブ
自らを見い出させ、自らの罪深さと騙される側の痛みを教えようとされたので
しょうが。
多分、ヤコブは暗さとベールのために、見破ることができなかったのでしょ
う。しかし、結婚詐欺同然とは言え、レアとの間に性的な関係を持ったからに
は、法的にも夫婦なのです。もはや、ヤコブは一方的に結婚を取り消すわけに
はいきません。
ヤコブの訴えを聞いたラバンは計画通りにまずは言い訳をします。妹を姉よ
り先に嫁がせることはしないと告げます。そして、ラケルとの結婚を報酬にも
う7年間仕えることを命じました。ラバンの卑劣さに怒りながらも、ラケルを
愛するヤコブは、この申し出を断ることはできませんでした。かくして、すべ
てラバンの読み通りに事は進み、ラバンは続けてヤコブによって財を築いて行
くこととなります。

結局、ラバンのしたことは古代社会における性の商品化に他なりません。ラ
バンは利益のためなら、自分の娘の性さえも利用する卑劣な父親であったので
す。彼はラケルの性を用いて、ヤコブの労働の報酬としました。さらに、レア
の性を利用し、さらに7年間の契約を得たのです。どちらも、ヤコブの労働力
を得るために、性が金銭に換算され、商品化されたのです。

現代にもラバンは世界中にいるようです。特にタイにおいてはラバンのよう
な父親がかなり一般的のようです。ご存知のようにこの国ではエイズが国家的
な大問題になっています。その直接の原因は売春婦にHIV感染者が多いこと
にあります。さらに、原因を追求するに、タイでは売春が非常に盛んであるこ
とに行き当たります。タイの一般の女性は、貞操観念が非常に強く、結婚まで
は純潔でいるのが当然です。そこで男性たちの多くは、性の対象として売春婦
を必要とするのです。需要が多いので供給も多いと言うことでしょう。

そのような社会的状況がタイの親たちの倫理観を狂わせてしまったのでしょ
うか。タイでの宣教経験のある先生の話しでは、タイの貧しい親たちは、女の
子が生まれると大喜びするそうです。なぜなら、その子を将来売春婦にして富
を得ることができるからです。恐ろしいことに、それは貧しい人々の間では一
般的な通念となっているのです。親たちはそれに対してあまり心を痛めません
し、売春婦になる少女たちもそれは親孝行であり、道徳的に良いことだと教え
られ、信じているのです。つまり、タイの貧しい家庭の少女たちは「目的は手
段を正当化する」と教えられているのです。

「タイにおけるエイズ問題は根底にある貧しさが解決されなればならな
い。」このような見解は正論ですし、私も賛同します。しかし、一方において
貧しい人々の倫理観が変えられることも不可欠です。たとえ、タイの貧しさが
一定の解決を得たとしても、倫理観が同じであれば、状況はあまり改善されな
いでしょう。男性たちは続けて売春婦のもとに通うでしょうし、より貧しい人々
は、今度はさらに豊かな生活を求めて自らの娘を売春婦とするでしょう。

ラバンやタイの貧しい親たちが娘に対してしていることは、家畜を育てて肉
屋に売る牧畜業と本質的に違いがありません。家畜を育てて、商品として売る
ことは、正当な経済活動です。聖書的な倫理では、(少なくとも牧畜に関して
は)動物の命は商品化されて良いからです。しかし、人間の性を商品化するこ
とは、経済活動の手段としては不当です。たとえ、家族を餓死から救う目的で
あっても、それは神様の前には大きな罪であります。
なぜなら、性は人格だからです。人格は目的とされるべきものであり、決し
て手段とされてはならないものだからです。ましてや、利潤追求のための手段
(商品)とされてはならないのです。性を商品化することは、人格を売り渡す
ことに他なりません。それは、神様が定めておられる人間の尊厳、性の尊厳に
反する行為です。

国内に目を転じるなら、そこには日本独自の性の商品化があります。いわゆ
る援助交際です。他国での少女売春の場合、背後には経営者である大人がいる
のが通常です。その意味で日本における援助交際は極めて特殊であると言える
でしょう。性を売る少女自らが経営者なのですから。これは、いわば性産業に
おける個人経営です。これは従来の性産業にない経営形態です。援助交際とは
自らが経営者となり、顧客との契約に基づいて自らの性を商品化する行為なの
です。その意味で少女たちは加害者でもあり、同時に被害者でもあるわけです。
自らの性から人格を引き剥がし商品化しているのですから、加害者です。しか
し、その悪の対象が自らなのですから、加害者でもあります。

いつの時代も、女性の性は商品的価値を持ちます。男性側には常に需要があ
ります。需要があるところ供給があるわけです。そこで、性を商品化し、儲け
ようと企む人々が登場します。性はその人格性を引き剥がされた時、それは容
易に商品となります。ラバンの行為は今もタイにおいて引き継がれています。
また、形態は異なるとは言え、同様の行為が行われています。自らの性を商品
とする女子高生であれ、性産業の背後で利潤をむさぼる暴力団であれ、ポルノ
産業を支える堅気の会社組織であれ、性を商品化する人々はすべてラバンの末
裔と言うべきでしょう。

 



第11回「政治的に利用された女性の性〜イサクとリベカ」


「その土地の人々が彼の妻のことを尋ねた。すると彼は、『あれは私の妻です』
と言うのを恐れて、」『あれは私の妹です』と答えた。リベカが美しかったので、
リベカのことでこの土地の人々が自分を殺しはしないかと思ったからであ
る。」(創世記26章7節)

創世記26章によれば、イサク一家は自国に飢饉があったので、ゲラルとい
う土地に避難し、ペリシテ人の王アビメレクの支配下で生活することとなりま
した。ゲラルに住んでいるとその土地の人々が、イサクの妻リベカのことを尋
ねます。ゲラルの土地でもリベカの美しさが評判になったのでしょう。当時は、
夫を殺して美しい人妻を奪うという出来事は決して珍しくなかったそうです。
そこで、当然イサクは自らが殺され、妻が略奪されることを恐れます。
そう言えば、このような状況は、以前にもどこかで読んだ覚えがあるのでは。
そうです、創世記12章です。ここでは、アブラハムがほとんど同様の状況に
遭遇します。以前にも紹介しましたように、アブラハム・イサク・ヤコブは三
代に渡る卑怯の老舗(しにせ)であります。二代目イサクは、この状況でやは
り二代目らしく、男の卑怯さを見事に露呈します。父アブラハムと同様の苦境
の中、彼のとった打開策はこれまた父アブラハム同様の実に卑怯なものでした。
それが冒頭の聖句です。
この場面、やはり、神様の守りを信じ、祈り願いつつ、「妻です」と正直に
言うのが正解でしょう。また、危機を察したら、この土地から逃げる事もでき
たでしょう。それが信仰者らしい態度でしょう。そして、それでもリベカが危
機に瀕したら、自らの命をかけて妻の貞操を守ることが、夫としての使命であ
ったはずです。
ところがイサクは実に卑怯な画策をします。リベカを自分の妹という事にし
て、保身を図ったのです。確かに「妹です」と言えば、イサクは殺されずに助
かります。しかし、妻のリベカはどうなるのでしょう。夫以外の男性に奪われ
てしまうのです。つまり、イサクはリベカの貞操と引き換えに自らの保身を図
ったのです。
しかし、神様は不思議な方法で二人を守られました。その土地の王、ペリシ
テ人アビメレクが窓からそとを眺めていると、そこにはイサクがリベカを愛撫
する姿が。二人が町の噂のように兄弟ではなく、夫婦である事を悟ったアビメ
レクはイサクを呼び寄せます。そこで、アビメレクは事の真相をイサクから聞
き出します。そしてアビメレクは自分の民が罪を犯す事を恐れて、「イサクと
その妻に触れる者は必ず殺される」との勅令を発しました。全能なる神様は異
邦の王の心さえ動かして二人を守ってくださったのです。
その後イサクは農業によって莫大な収穫を得て、多くの家畜と奴隷を持つよ
うになります。聖書は「主が彼を祝福してくださったのである」と記していま
す。私などは正直なところ、神様に文句を申し上げたい気分です。「こんな卑
怯な男を祝福しないで下さい。妻の貞操と引き換えに自己保身を図るような奴
には、災いを下して悔い改めに導いてください」と。もちろん、このような結
果は人間側の状況に依存しない神様の恵みの不変性や一方性を示すものであり
ましょう。

さて、時代は戦後の日本に移ります。イサクの行った行為は、「性を防波堤
とした自己保身」、あるいは「女性の性の政治的利用」と表現することができ
るでしょう。個人的な思い入れからでしょうか、この事件はいつも、私に沖縄
と日本本土の関係を連想させます。この時のイサクとリベカの関係は、私にと
っては、終戦時から現在に至るまでの日本本土と沖縄の関係を思い起こさせる
ものなのです。それは、かつて私が新婚旅行で沖縄を訪ね、2000年の日本
宣教会議(沖縄で開催)において沖縄を学んだ事と無関係ではないでしょう。

一部異論もあるでしょうが、沖縄は終戦時、日本の国体保持のため犠牲とさ
れました。敗戦が決定しているなか、時間稼ぎのため、トカゲのしっぽのよう
に扱われたのです。つまり、沖縄は日本本土の自己保身のための防波堤であっ
たのです。そのことは、現在も本質的には何ら変っていません。日本の国土に
ある米軍基地のほとんどは沖縄という小さな島に集中しています。今なお沖縄
は安保体制という名の自己保身のため、防波堤の役目を負わされています。
そして、防波堤とされ、政治的利用をされているのは、沖縄県とその県民だ
けではありません。聖書と同様、やはり自己保身に用いられているのは「女性
の性」なのです。沖縄の女性たちの性は、日本国家によって政治的に利用され
てきたと言っても大袈裟ではないでしょう。

大きな書店に行けば、沖縄における米軍の犯罪についての書物が幾つか置か
れています。私はその中の一冊を立ち読みした事があります。それは特に米軍
の性犯罪に関するレポートでした。作者であるルポライターが、米軍にレイプ
された女性を見つけ出そうと試みます。しかも、事件として公になったり、裁
判にならなかった事例を探したのです。
日本本土であれば、そのような事例は、そう簡単には見つからないでしょう。
ところが、沖縄では、大した労もなく10人程を見つけ出すことができたので
す。そして10人とも、裁判を起こすことも、米軍に訴えることもなかったこ
とが判明したのです。つまり、泣き寝入りなのです。ただでさえ、レイプは裁
判にしづらいものです。ましてや相手は米軍です。訴えても、治外法権という
理由で加害者は大した刑罰も受けず、別の国へ移されるだけということです。
沖縄の女性たちとその家族はそのことを知っており、結局泣き寝入りをせざる
を得ないのが現状です。
数年前、米軍による少女暴行事件が大変な社会問題になりましたが、あのよ
うな悲惨な事件も氷山の一角に過ぎないことが予想されます。沖縄の女性たち、
特に基地近辺に住む女性たちが、戦後そのような危機にさらされ続けてきた現
実を本土の人々は知る必要があるでしょう。

イサクが実行しようとしたリベカの性の政治的利用、それは戦後日本の国家
が、いいえ、本土の国民が行ってきたことではないでしょうか。安保体制とい
う自己保身の中、防波堤とされているのはやはり、女性の性なのでしょうか?
現在、沖縄の米軍基地の近くには、駐留軍の性的欲望の防波堤が多くあるそ
うです。一般市民の女性を性犯罪から守るには、プロの女性を用いるのが最も
安易な方法だと言う事でしょうか?しかも、その女性たちの多くは、現地沖縄
の女性でも日本人女性でなく、貧しいアジアの国の女性だと言う事です。まさ
に二重の意味で差別だと言えるでしょう。
自らの性を犠牲にされた沖縄が今は、一方で自己保身を図っている姿がここ
にあります。日本の自己保身の防波堤である沖縄が、貧しいアジアの女性たち
の性を防波堤に自己保身を図っているのかと思うと、やりきれない思いがしま
す。しかし、沖縄に犠牲を強いてきた本土の者には、そのことを非難する資格
などないでのす。

今回の聖句は、一つの原則を示しています。それは、男性の自己保身に用い
られるのは女性の性であるということです。弱者である女性の性が政治利用さ
れるのです。多くが男性である政治家たちが、あるいは権力者たちが図る自己
保身、その最終手段は女性の性なのです。今回は、男性の持つこの罪の普遍性
に目が開かれたらと願います。