性から見た聖書人物伝 第1〜5回

 

〈このコーナーの趣旨〉
聖書には性に関して膨大な量の記述があります。しかし、説教を通してそれ
らが直接的に解き明かされることは少ないのではないでしょうか。性に関する
記述が取り次がれても、それに関しての直接的な言及よりも、むしろ、それを
通じての罪や聖さ、倫理などの一般的な原則が解き明かされる場合が多いので
はないかと思います。
そのような現状を踏まえて、このコーナーでは聖書中の性に関する記述を取
上げ、直接的に言及します。とりわけ聖書に登場する人物の性行動にスポット
を当て、その性行動を聖書的な視点から解説し評価します。さらに、その性行
動に関する聖書記事を現代人の性行動に適用し、意義ある示唆を得たいと願っ
ております。


第五回「不妊カップルの悲しみ〜アブラハムとサラ」


サライはアブラムに言った。ご存じのように、主は私が子どもを産めないよ
うにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶ
ん彼女によって、私は子どもの母になるでしょう。」アブラムはサライの言う
ことを聞き入れた。(創世記16章2節)

結婚披露殿でのお祝いの言葉にありがちな一言。「次はかわいい赤ちゃんを
楽しみにしています!」
私はこのようなスピーチに対してはかなりの反発と不快感を覚えます。一番
の理由は、日本の夫婦の10組に一組は不妊カップルだからです。意外と知ら
れていないことですが、日本の夫婦の一割は生涯子どもを与えられることを願
いながらも、与えられずに終るのです。「結婚したら避妊しない限り、子ども
が産まれるのは当たり前」と考えているのは全くの事実誤認です。そこには、
子どもを与えられる9割という多数派の高慢と少数派を黙殺する横暴ささえ感
じられます。
二番目の理由は、それぞれの夫婦には家族計画があるからです。「早く赤ち
ゃんの顔を」などは「余計なお世話だ、我が家の家族計画に口出すな」と言い
たいですね。それぞれの夫婦には、よりよく神と人とに仕えるための家族計画
があるはずです。なかには、子どもを早く与えられることを願いながらも、尊
い目的のため、妊娠を遅らせている方もおられることを覚えて欲しいものです。
三番目の理由としては、「子どもが与えられるのが幸福な夫婦」「そうでない
のは不幸な夫婦」という前近代的な偏見を感じるからです。「子どもが家庭に
幸せを運ぶ」などと言うのは、おめでたい幻想に過ぎません。子どもは家庭に
とって幸せを運ぶ天使にもなれば、不幸をもたらす悪魔にもなりえます。子ど
もが夫婦に亀裂を与え、家庭を崩壊させる場合さえなきにしもあらずです。ク
リスチャンホームの暖かな親子団欒という固定イメージで、家庭的幸福を捉え
るのはあまりに偏狭でしょう。独身者にも、子どもが与えれない夫婦にも、神
様はそれぞれの祝福を与えておられます。

教会の中でも「お子さん、まだ?」などという「暴言」を耳にします。相手
が不妊カップルであるなら、その方はどんなに傷つくか分かりません。仮にも
クリスチャンであるなら、不妊の女性がどんなにかつらい思いをするかは、聖
書を学んでご存知のはずでしょうに。

今回の聖書箇所も私たちにそのことを教えます。15章においてアブラハムは
神様から無数の星のように膨大な子孫が与えられるとの約束をいただきました。
しかし、現実を見るなら、自分たちは現代的に表現するなら明らかに「不妊カ
ップル」だったのです。神様が子孫繁栄を約束された一方で、同じ神様がサラ
に子どもを与えないのです。この矛盾した現実の中、サラが思い付いた解釈、
それは「神様は奴隷によって子どもを得ることを計画しておられる」というも
のでした。サラは、妻である自分が産まなくとも自分たちの子どもには違いな
いと考えたのでしょう。
サラはアブラハムに女奴隷によって子どもを得るようにと勧めました。当時
の古代オリエント社会では、妻が子を産まなかった場合、女奴隷を側室として
与えることが一般的な風習でした。当時の一般通念は子孫繁栄であったので、
女性の最大の役割は出産でした。その反対に不妊夫婦であることは、大きな不
幸であり、神様の祝福にはんすることとさえ考えられていたようです。特にア
ブラハムとサラの場合は神様の祝福の約束が実現しないのですから、それは深
刻な悩みだったでしょう。

私の所属する教会のひとりの姉妹は特殊な事情があり、大学病院で出産をし
ました。その病院は様々な不妊治療も行っていました。姉妹が過ごした病室に
は、不妊に悩む方、不妊治療に成功した方、失敗した方、通常の妊娠で出産を
待つ方、出産を終えた方などが一同に会していたのです。同じの病室の中に、
女性としての希望と失望が、新しい命に対しての不安と喜びが入り交じってい
たのです。その病室の中で、姉妹は不妊に苦しむ女性に触れ、その生の声を聞
き、ひとつの決心をしたそうです。
その決心とは、自分は二度と既婚女性に向かって「お子さんは?」「赤ちゃ
ん、まだ?」という言葉を発しないということです。同じ女性であるなら、特
に女性としての悲しみを理解し、配慮ある態度をとりたいものです。聖書に度々
登場する不妊に苦しむ女性たちを通して、そのような配慮を身につけたいもの
です。教会の交わりこそ、9割が1割を傷つけることのない世界であって欲し
いと願います。むしろ、痛んでいる1割が、慰めと励ましを得る世界であれば
と思います。
確かに性は命を生み出すものです。しかし、それは命を生み出す可能性を持
つものだという意味です。命を生み出し得ぬ性もあるという現実から、出発を
したいものです。


第4回「合体だけならロボットでもできる〜アダムとエバ」

「人は、その妻エバを知った。」(創世記4章1節)
一昔前、反省ザルのジロー君が人気者となりました。特にあの「反省」のポ
ーズは未だに健在のようです。それを受けて「反省だけならサルでもできる」
というCMもヒットしました。確かに反省のための反省、その後何ら活かされ
ることのない反省というものがあります。「その程度の反省なら、サルでもで
きる。反省を活かして改善し、前進してこそ人間なのだ」ということでしょう。
現代の日本の性を同じように表現しますなら、それは「反省だけならサルで
もできる、合体だけならロボットでもできる」となりそうです。日本社会では、
性が人格との結びつきで語られることが極めて少ないように思います。むしろ、
性が肉体上の行為や現象として伝えられているのが現状です。その結果、「性
とは体に関すること」「性行為=合体」という意識が日本社会に定着しつつあ
るようです。
では、聖書は何と言っているでしょう。今回は少し聖書を戻って、創世記の
4章を見ましょう。冒頭の御言葉のように、ここには聖書中初めて、人類の性
行為が描かれています。3章以前にも性的な関係はあったと思われますが、具
体的な記述はここが聖書で最初です。
聖書は性行為を「知った」と表現しています。これは聖書に繰り返し登場す
る、性行為を意味する表現です。「知る」という表現は何を意味するでしょう。
それは人が人を知ることですから、性が人格的な行為であることを示します。
また、そこには人間関係があるのですから、性が社会的な行為であることをも
意味しています。そのように聖書は「知る」という言葉ひとつを取上げても、
性の持つ人格性、社会性というものを私たちに教えています。聖書によれば、
性は決して肉体面だけでの行為ではないし、性行為は単なる「合体」ではない
のです。
今まで、世界で約30例の狼少年と呼ばれる子どもたちが発見されています。
何らかの理由で、赤ちゃんの時からある時期まで狼に育てられた人間の子ども
です。狼少年たちの性行動についても、研究、報告が為されています。皆さん
は、生殖能力を持つ狼少年たちは本能のおもむくままに、野蛮な性行動を繰り
返すと思うかも知れません。実は、そうではないのです。実は、彼らは性行動
が一切不可能なのです。性的衝動が突き上げると、どうしてよいかも分からず
身悶えして地面に転がるのだそうです。
人間の性行動というものは、本能だけによるものではないのです。学習され
るものです。人間としての一定の社会性や知的を有していなければ、性行為は
不可能だということです。特に言語の習得が決定的な要因だと言われています。
このことからも性行為はまさに「知る」ことであると言えるでしょう。
性が肉体面のみで語られ、「合体」にまで堕落したこの日本の社会にあって、
性を「知る」こととしてとらえたいと願って止みません。聖書は性を肉体上の
現象、本能行動に留まらず、人間独自の人格性社会性を有するものとして描い
ています。御互いに聖書的な性を考え、性に生きたいものです。そこで最後に
一言。
「反省だけならサルでもできる!改善してこそ、人間だ!合体だけならロボッ
トでもできる!互いに知ってこそ人間だ!」


第3回「性を防波堤とした自己保身〜アブラハム」

「どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にもよく
してくれ、あなたのおかげで、私は生きのびるだろう。」(創世記12章13節)

「男って卑怯よね。」テレビドラマや映画の中でよく耳にする言葉です。現
実の世界でも、同じように呟いた女性、同じ言葉を浴びせられた男性は少なく
ないでしょう。どうも、独身の女性は「男は卑怯である」という事実を発見し
てこの言葉を発する場合が多いようです。既婚者の女性の場合は再確認のため
の発言となるでしょう。結婚して夫の卑怯さを発見しない女性はまずいないで
しょう。
男性である私の立場から言えば、「何をいまさら」という感があります。男
が卑怯なことは男が一番良く知っています。一般に男らしさの代表と考えられ
ている「腹が座っている」と表現される性質など、大抵の男性は持ちあわせて
はおりません。誰の責任かは別として、日本女性の男性理解の低さは男性から
見れば驚きです。「男は卑怯であってはならない」という理想の男性像が社会
的に定着している反面、「男が卑怯である」という事実がこうまで知られてい
ないのは不思議でなりません。

だいたい、男が卑怯なことくらい、現実の男性たちを見ていれば明らかでは
ありませんか。例えば、日本男性のリーダーである男性政治家たちを見れば一
目瞭然です。時に自らの政治理念を犠牲にしてまでも、自己保身に明け暮れる
あの姿が男の卑怯さ示す以外の何者でありましょうか。それに比して女性政治
家たちの毅然とした態度は今や国民と地域住民の信頼を得ています。相次ぐ女
性知事誕生はその事を証明するものでしょう。
しかし、男の卑怯さ加減を知りたいなら、聖書ほど優れた資料はないでしょ
う。聖書はいかに立派な信仰者男性であっても、容赦なくその男性特有の罪で
ある卑怯さを暴いています。中でもアブラハム・イサク・ヤコブは3代にわた
る「卑怯の老舗(しにせ)」と言ってよいでしょう。創世記12章後半に描か
れた物語はアブラハムの男としての卑怯さが露呈した事件でした。また、創世
記の26章6〜11節をお読みください。同様の事件がイサクにも見られます。
さらに現われは異なりますが、ヤコブの卑怯さたるや、もはや隠そうともして
いません。彼の露骨なまでの卑怯さ凄まじいものがあります。

前置きが長くなりましたが、冒頭の聖句についての解説です。創世記12章
はアブラハム(この時はアブラム)の召命から始まります。アブラハムは神様
の召しに従い、故郷を離れカナンの地に到着します。しかし、そこに飢饉があ
ったので、エジプトへ避難します。
エジプトに入ったアブラハムは一つの不安を覚えます。妻のサライは「見目
麗しい女」(11節)であったからです。そこで予想される事は「エジプト人
は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あ
なたは生かしておくだろう」(12節)ということです。つまり、エジプト人
が、サラを見て我が物にしようと願います。しかし、夫がいる事が分かれば、
そのエジプト人は、アブラハムを殺して、サラを奪うだろうということです。
エジプトの当時の社会情勢からすれば、当然予想すべき危険でしょう。

そこで、アブラハムは神様に守りを願って祈ったでしょうか?故郷を離れて
以来、ここまで献身的に従い続けてきたアブラハムがどうしたことでしょう。
神様に相談する事もなく実に人間的な対策を講ずるのです。その対策こそが、
男の卑怯さを見事に暴露するものなのです。
「どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にもよ
くしてくれ、あなたのおかげで、私は生きのびるだろう。」(13せつ)
何たる卑怯でしょうか!二人が兄弟だとすれば、アブラハムはサラを妻とし
て得ようとするエジプト男性から、殺される事はなく、むしろ優遇されるだろ
うと言うのです。では、サラはどうなるのでしょうか。みすみすエジプト人の
妻にされるのをアブラハムは傍観するつもりだったのでしょうか?何たる自己
中心でしょうか。彼は自分の妻を何だと思っているのでしょうか。妻を差し出
してまでも自分の命を守ろうとしたのです。私はこの行為を「性を防波堤とし
た自己保身」と呼びたいですね。卑怯な男は自己保身のためなら、妻の性さえ
も犠牲にするのです。

14節以後を読みましょう。アブラハムの予想通りの展開となります。そし
て、アブラハムはパロ(エジプト王)に妻を差し出し、自分の身を守ります。
それどころか、16節にあるように莫大な謝礼を得ているのです。これでは、
自分の妻に売春させて金銭を得ている夫と変わりありません。アブラハムは、
夫として恥ずべき最低の行為をしているのです。
17節にあるように、神様の特別な直接介入があり、サラの貞操は守られま
した。もし、神様の介入がなかったら、と思うと身の毛がよだちます。このよ
うな人物を信仰の父としてくださるのですから、神様の恵みとあわれみの大き
さが分かります。

聖書は夫に命じています。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のため
にご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(エ
ペソ5:25)ここでは、妻に対しての夫の愛は、教会に対してのキリストの
愛を模範とすべきであると語られています。
ではキリストはどのような愛で教会を愛されたでしょう。それは文字どおり
「命がけの愛」です。「君のためなら死んでもいい」と言葉で示した愛ではあ
りません。本当に死んでくださったのです。教会(罪人の私たち)を生かすた
めに御自身がすすんで死んでくださったのです。他者を生かすために自らを殺
すという犠牲を惜しまぬ愛が夫には求められているのです。
夫たる者は妻のために死ぬ覚悟ができていなくてはなりません。アブラハム
は本来、妻サラの貞操を命懸けで守るべきであったはずです。自分が命を失っ
てでも、妻の性を守ることが彼の使命であったはずです。
「いざとなると男って本当に卑怯ね」男性には耳の痛い声が聞こえてきそう
な事件です。


第2回「人類初の同性愛と近親相姦〜ノアの一家」

「カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。」(創世
記9章22節)

前回取上げたレメク以来、人類はいよいよ神を離れてゆきました。罪は人間
社会の中でますます広められ、深められてゆきます。今や地は神の前に堕落し、
暴虐に満ちています。主なる神様は心痛められ、その悲しみは極限に達しまし
た。神様はついに人類を地より一掃する事を決断されます。ただし、唯一主の
心にかなっていたノアとその家族を除いては。
後は皆さんよくご存知の洪水物語が続きます。やがて洪水の水も引いてゆき
ます。そして9章において、神様は空にかかる虹をしるしとして全人類と再契
約をされます。それは全人類にとっての希望に満ちた再スタートでした。しか
し、その素晴らしい再スタートも性的な罪によっていとも簡単に挫折してしま
うのです。

18節以下ではノアとその3人の息子、セム、ハム、ヤペテがクローズアッ
プされます。ノアは農夫となり、ぶどう畑を始めました。ある時、ノアはぶど
う酒を飲んで酔ってしまい、天幕の中、裸で眠ってしまったようです。ノアの
この飲酒にともなう醜態が悲惨な性的罪の引き金となってしまいます。息子の
ひとりであるハムが「父の裸を見た」のです。
「父の裸を見た」とは一体何を意味しているのでしょうか。「親父が酔って
裸で寝ているぞ」と父の醜態を自ら喜び、なおかつ他の兄弟にうれしげに言い
ふらしたことでしょうか。そのように父親を尊敬せず、父の権威をないがしろ
にしたことが大きな罪でしょうか。
24節以下で「ハムが自分にしたこと」を悟ったノアは、ハムに対して呪い
を宣言します。「呪われよ。カナン(ハムの子の名前)、兄弟達のしもべとなれ。」
随分、激しい、また厳しい呪いの宣言です。父の醜態を喜び、父親を侮辱し
ただけにしては、あまりに大袈裟ではないでしょうか。一体、ハムが行った「父
の裸を見た」という行為は何を意味するでしょう。

私が持っているチェーン式聖書の脚注には「ハムの罪は十戒を基準とすれば、
第5戒だけでなく、第7戒への背反でもあろう。」と書かれています。弟5戒
は「あなたの父と母を敬え」ですから、納得がいきます。しかし、第7戒は「姦
淫してはならない」です。これはどういう事でしょう。「男どおし、しかも親
子であるノアとハムの間で姦淫?」と考えてしまいます。
実は「裸を見る」という言葉は婉曲表現です。直接的な表現が好ましくない
場合に用いられる表現方法です。聖書中も性的な表現には、しばしば婉曲表現
は用いられているようです。この「裸を見る」という婉曲表現が何を意味する
かは、レビ記20章17節を読めば明らかとなります。
「人がもし、自分の姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘をめとり、その姉
妹の裸を見、また女が彼の裸を見るなら、これは恥ずべきことである。同族の
目の前で彼は断ち切られる。彼はその姉妹を犯した。その咎を負わなければな
らない」(レビ記20:17)
そうです。「裸を見る」とは、性的関係を持つ事を意味するのです。人類の
再スタート直後の事件としてはあまりにショッキングです。哀れみと恵みに満
ちた神様の再契約の後に待っていたのは人間側の暗黒のような性的罪であった
のです。一夫多妻以上の性的な逸脱が、ここには描かれているのです。それは
人類最初の同性愛、なおかつ人類最初の近親相姦であったのです。

創世記はモーセが編集者であったと考えられています。ハムの子の名前はカ
ナンですから、察しのよい読者はもうお分かりでしょう。カナンは、出エジプ
トの民が目指した約束の地です。しかし、同時にその地の先住民であるカナン
人の文化は、偶像と性的罪に満ちたものでした。多分、モーセ(あるいは別の
記者)は、カナン人文化の持つ性的堕落の起源をこの事件に帰したのでしょう。
そして、カナンの文化、特にその性的文化にイスラエルが染まらないようにと
願ってこの記述を残したと思われます。24節においてハムが罪を犯したにも
かかわらず、子であるカナンが呪われているもそのことを暗示しているのでし
ょう。

偶像礼拝に性的罪は付き物です。人間にとって最も本質的なものと言える神
を離れるなら、人は次に本質的なもの、すなわち性において逸脱するものです。
日本でも偶像礼拝の場所の近くに、性的罪の場があることは周知の事実です。
多神教であったカナンの文化では、同性愛も近親相姦も性行為の選択肢の一つ
であったようです。特に古代文化においては、同性愛はかなりの社会的認知を
得ていたことが知られています。

性を研究する学者の方々によれば、人間は誰でも潜在的に同性愛傾向と近親
相姦欲求を持っているそうです。ただ、社会的規制や本人の道徳感がそれを抑
圧しているのだそうです。まさにすべての人は罪人、性的罪人として生まれて
いる事を実感します。
現在アメリカでは、同性愛はもちろん、近親相姦が大きな問題となっていま
す。家族が崩壊し、疎外感の中、基本的な良心が形成されずに育った人々は、
そのような潜在的な性的罪の欲求を自制できず、実行に移してしまうそうです。
そして、日本においても同性愛のみならず、近親相姦の問題は既に専門家の世
界では大きな問題となっているようです。父親の心理的不在、母親の支配性に
代表される歪んだ日本の家庭を背景に、今後、日本社会においては、同性愛と
近親相姦の問題はますます、増加し、顕在化してくるものと予想されます。教
会も決して傍観者ではいられなくなる事でしょう。
同性愛と近親相姦。残念なことですが、いかにも現代的なこれら二つの罪は、
人類再スタートの直後に重なって起こっていたのです。まさに聖書は現代人の
歪んだ性をも読み解く書物であると言えるでしょう。「性生活についても、聖
書は人間の生活の究極的規範である」「性に関しても、その解答となる原則は
聖書の中ある」。私などは、いよいよそのことを確信してしまいます。


弟1回「人類初の一夫多妻〜レメク」

「レメクはふたりの妻をめとった。一人の名はアダ、他ののひとりの名はツィ
ラであった。」(創世記4章19節)

 創世記の4章17節から24節までは、カインの子孫について記されていま
す。その中でレメクという人物がクローズアップされています。レメクという
名前の意味は「強い者」という意味だそうです。どうも彼は、「オレは強い、
オレは自分の力で生きるのだ。だから神様など必要ない」というタイプの人物
だったようです。
 さらに、レメクがどのような人物であったかは23節と24節に描かれてい
ます。実は23節と24節は普通の文章ではありません。韻文すなわち、詩に
なっています。これはレメク家のテーマソングの歌詞であったと考えられます。
レメクは時々この歌を家族に向かって、あるいは町の人々に向かって歌ってい
たのでしょう。

「アダとツィラよ。私の声を聞け。
レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。
私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。
カインに7倍の復讐があれば、レメクには77倍。」(4章22,23節)

復讐行為によって自己の力を顕示し、その力で妻たちを威圧的に支配しよう
としています。このテーマソングの中にレメクの生き方が記されています。レ
メクの生き方、それは一言で言ってしまえば、神様に背を向け、力に物を言わ
せ、自分の欲望のまま生きる人生でした。現代の世俗化された快楽主義や欲望
達成至上主義に通じるものがあります。

 19節には、レメクが二人の妻を持ったことが記されています。これが人類
初の一夫多妻です。人類の歴史で初めて神様の秩序を破り、複数の妻を持った
男、それがレメクであったのです。
その二人の妻の名はアダとツィラでした。「アダ」という名前は「楽しみ」
という意味です。つまりレメクにとって妻は楽しみに過ぎなかったのです。自
分の欲望を満足させる手段に過ぎなかったということでしょう。一方の「ツィ
ラ」という名前は「飾り」と意味だそうです。レメクにとって妻は掛け替えの
ない伴侶ではなく、飾り、すなわちアクセサリーにすぎなかったのです。レメ
クは女性の人格など平気で無視して、自分の欲望を満たすことだけを追い求め
る快楽主義者だったのです。
レメクにとっての性はもはや愛を基礎とした全人格的な交わりではなかった
のです。神を離れた性は、愛なき性、人格なき性へと堕落しました。快楽の手
段と装飾としての女性、人格を剥がされた肉体だけの女性、それは最近よく耳
にするセクハラ事件、そして数々の性犯罪を思い起こさせます。神を離れ、堕
落した性の姿は昔も今も変らないようです。
また、聖書の記述から、レメクが一定の政治的権力を持っていたことも予想
ができます。権力を得た男性がすることは、やはり多数の異性との人格なき性
行為なのでしょうか。どこかの大国の大統領や、辞任なさった日本の大都市の
知事さんを思い起こすのは私だけでしょうか。

男性の皆さん、あなたはエバ(一体となるべき妻)と共に性の世界に生きる
でしょう。それともアダ(楽しみ)とツィラ(飾り)としての女性を求めるの
でしょうか。時として、アダとツィラの誘惑が男性の心のドアをノックするか
も知れません。その時は、誘惑者に対して勇気を持って言いましょう。
「ノックは無用!」(これは関西地方だけに受けるジョークかも)