クリスチャンのための同性愛についての資料と牧会的指針

 

V.聖書教理編

1.聖書中の同性愛についての記述
牧会上の判断の基準として、同性愛についての聖書の記述箇所を紹介し,
同時にそこから得られる考察を提供します。

@ 聖書で最初の同性愛は創世記9章22節以下に描かれたノアの息子ハムの行為、「裸
を見る」は、聖書中、性行為の婉曲表現(レビ20:17参照)。これは、同性愛、近
親相姦という二重の性的罪と言える。これはイスラエルがハムの子孫であるカナン人の
性風俗にならわぬための記述と思われる。

A ソドムは古代社会にはよく見られた同性愛認知文化社会、同性愛を意味する「ソド
ミー」の語源。美男子であった天使を「知ろう」 とした多くの住民は、バイセクシャ
ルであったと考えられる。一方、資料批判的な立場からは、ソドムの罪は同性愛ではな
く、旅行者保護義務違反であったと解釈される。

B士師記19章には、主の民がソドム同様の状況に陥っていたことの記述。

レビ18:22によれば、神が「忌み嫌うこと」として禁止されている。

C レビ20:13によれば、同性愛行為の責任は当事者にあり、死刑に処せられる。
ただし、このことは、姦通近親相姦、獣淫も同様。同性愛だけが特別な性的罪とさ
れてはいない。結婚を逸脱した性行為の一つとしての記述。
レビ記については、偶像礼拝との関連が強く、基本的に神殿男娼との同性愛行為を
想定している。また、これを現在は無効となった祭儀律法とみるか、普遍性を持つ道
徳律法と解釈するかで、倫理的判断も大きく異なる。

DT列王14:24では、異邦の民の風俗としての神殿男娼を忌み嫌うべきもの
と評価

Eローマ1章24節以下には「自然の用を捨て」と判断。つまり、神の創造の摂理に従
わない行為と聖書は評価している。ここで、同性愛行為は神を認めぬ民族における偶像
礼拝に伴う性の逸脱の代表として記されている。しかし、28節以下では他の一般的な
罪が並列して記されている。
また、この「自然の用を捨て」の「自然」の意味を創造の摂理としない解釈(資料批
判的方法による)からは同性愛容認の倫理が生まれる。

FTコリント6:9〜10によれば、「男娼となる者」「男色をする者」は「正しくない
者」であり、神の国を相続できない。しかし、それは不品行、姦淫などの性的罪や盗み
などの一般的罪と並列して書かれている。さらに、原語であるギリシャ語から判断して、
ここでの記述は当時、一般的であった少年の売春を年頭においての記述だと考えられる。

GTテモテ1:9〜10によれば、「男色をする者」は「正しい人」でない。
しかし、これも不品行、殺人、偽証などの罪と並列関係で記されている。

こうして見ると、聖書は同性愛行為を「神を認めないことに由来する逸脱」ととらえ
ていることがわかります。ただし、それは他の性的罪と並列関係で記されており、結婚
内での性という秩序からの逸脱の一例として位置づけられていることが分かります。で
すから、同性愛(行為)が他の性的罪と比較して特別罪深いとは言えないと思われます。
また、同性愛行為自体が単独で言及されていることは少なく、偶像礼拝、売春など別の
罪との関連の中で語られているのも大きな特徴だと言えるでしょう。あくまで罪一般が
言及されている中の一つとして同性愛は扱われています。

これら、聖書が同性愛について言及している個々の箇所については、資料編で紹介し
ましたボブ・デイビーズ、ローリー・レンツェル共著「男か女か〜同性愛のカウンセリ
ングに」(ICM出版)をご参照ください。387ページ以下の付録A「同性愛擁護派の
間でよく聞かれる主張への反論」には、個々の箇所に対する擁護派の主張とそれに対す
る反論が分かりやすくまとめられています。
一方、同じく資料編で紹介しましたアラン・A・ブッシュ著 岸本和世訳「教会と同
性愛(互いの違いと向き合いながら)」(新教出版社)には、個々の箇所に対してのリベ
ラルな神学を基盤とした擁護派としての主張が書かれています。聖書解釈の側面から深
く学びたい方はご参照ください。


2.聖書が言及する同性愛の範囲
聖書が直接言及しているのは異邦社会で文化として認められている同性愛と考えられ
ます。聖書中の記述は、そのような性風俗にイスラエルが倣わないことを目的とした記
述であると考えるのが妥当でしょう。
特に旧約において、そのことは明確でしょう。ソドムやゴモラの人々は、同性も異性
も性愛の対象としていました。彼らはいわゆるバイセクシャルであったと考えられます。
「同性しか愛せない」という選択肢のない状態ではなかったのです。その性的指向につ
いては、選択能力をもっていたわけです。従って、性的指向についての選択能力をもち
ながらの同性愛行為(傾向ではない)については罪であると判断するのは聖書的でしょ
う。
また、新約聖書においても、聖書記者が同性愛について記した場合、それは偶像礼拝
とのつながりや、当時の一般的であって少年の売春といった宗教的、社会的背景を持っ
ています。それを現在の同性愛と同一視、あるいは直接的な連続性でとらえることに対
しての異論は避けられないでしょう。
一方、性的指向が選択不可能な場合(同性しか愛せない)、をどう判断するかは、慎
重であるべきでしょう。原因のいかんを問わずすべての同性愛行為を罪であると簡単に
結論づけるのは、聖書解釈上正確さを欠くと思われます。選択能力を持たない同性愛指
向者について聖書が言及しているかどうかの判断と、どう聖書的原則を適用するかは難
問と言えるでしょう。日本の同性愛者のほとんどはバイセクシャルでもなく、性的指向
において選択能力のない人々だと思われます。ましてや、偶像礼拝儀礼との関係や少年
愛売春との関係はほとんどありません。そうなりますと、いよいよ聖書の記述をどう解
釈し、どこまで適用する事が可能かとうかという判断は困難となります。

 私の不十分な知識に過ぎませんが、同性愛擁護派、同性愛容認の立場にある方々は以
下の三つの神学的立場におられるように思います。
@ 聖書における男性中心主義を排除し再構築しようとするフェミニズム神学、
A 聖書の啓示性まで否定しかねないほどの資料批判によって解釈を行なう一部の、あ
るいは進歩的と思われる自由主義神学
(自由主義者=同性愛擁護派ではありません。あくまで一部の方です。)
B 律法の価値を否定し、愛のみを倫理的基盤とする状況倫理などの倫理的立場

これらとは異なる立場からはどう判断すべきでしょう。


3.聖書の教理全体からの判断
聖書信仰の立場からはどのような判断が妥当でしょうか。上にあげたような聖書が同
性愛について言及している箇所だけで判断することはかなり困難であると私は考えます。
むしろ、聖書示す人間の性に関しての教理全体から判断するほうがより確実であると思
われます。
以下は私見です。私なりの不十分な神学的考察に過ぎないことをご理解下さい。その
上で実際の牧会上の判断材料としていただければ感謝です。

(1)罪か否かについて
創世記2章18〜25節に記されているように、神は人間の性の対象を異性に定めて
おられます。したがって、性的指向が大きく同性に傾いているのは罪というよりは障害
や事故とあるいは混乱と考えるべきではないでしょうか。したがって(同性愛行為は罪
であるとしても)同性愛傾向を持つこと自体を罪であると判断するのは不適当でしょう。
それは悔い改めの対象ではなく、受容され理解されるべきものでしょう。また、責めら
れたり、責任が追求される必要もありません。もちろん、その傾向性が放置されること
が最善とは考えません。可能であるなら解決されることが望ましいと考えます。時に同
性愛傾向を持つこと自体が罪と判断されたり、「同性愛傾向者はすべて同性愛行為を行
う」という偏見は教会内では避けたいと願います。
一方、同性愛行為は聖書が一貫して示す性の目的と秩序(愛と生殖、男女間、結婚生
活内)を考えるなら、神の意図と異なる性行動と言えるでしょう。やはり同性愛行為に
は逸脱性(=罪性)が認められるという判断が聖書的かと考えます。聖書は性を結婚の
中での祝福として与えており、そこからの逸脱を罪としています。神様は創造時に同性
間の結婚を定めておられないことを考えるなら、同性間の性行為は逸脱行為であり、罪
と考えるのが妥当ではないでしょうか。
前述のように聖書が言及している同性愛は、今日の同性愛と同一視できるかどうかは
判断の分かれることになりそうです。私はこれらの記述は同性愛を罪と断定できるほど
強い根拠とはなりえないと考えます。聖書中の同性愛への言及部分よりむしろ、聖書中
の御心にかなった性の記述こそが、同性愛の罪性、逸脱性を明らかにし得ると判断しま
す。

以上のような前提が正しいとすれば、同性愛者は罪を犯すことなくして、神様からの
祝福である性を享受することができないという問題が起こります。また、性的指向は本
人には選択不可能なのだから、責任を問えないので、罪と断定してよいのかという問題
が起こります。それについては次に記します。

(2)同性愛者における愛の完成
 果たして同性愛者は、(日本にあっては結婚外の)同性愛行為に性の恵みを教授する
ことができないのでしょうか。聖書は人間の性的な聖さを求めます。聖書によれば、神
様の御心にかなった性のあり方は二つです。一つは男女間の結婚生活の中で性の喜びが
享受されることです。もう一つは、独身者として(そこには性的な葛藤や誘惑との戦い
があるでしょう)神様と人とに仕えることです。
 ですから、同性愛傾向を持つ方々が、御心にかなって性の喜びを受ける方法は二つで
あると思われます。一つは同性愛傾向が異性愛に解消された後、異性との結婚生活の中
で性を享受することです。もう一つは、同性愛傾向を持ちながら(あるいは解消されて
も自主的に)独身として、性的な聖さを保ちながら神様と人とに仕えるライフスタイル
です。
 このことは現在、同性愛傾向に悩んでおられる本人には、厳しく感じられ、受け入れ
がたいものかもしれません。しかし、聖書が示す「性の祝福の限定範囲」というものを
考えるなら、やはり、このような結論に達すると思います。

(3)先天性であれば倫理的責任は問えないのか?
 一般の社会や性科学の分野では「同性愛の原因は先天性であって性的指向は変更不可
能」というのが常識になっています。私の見解は既に述べた通り、この見解には反対し
ます。明らかに後天性の方を直接知っていますし、性的指向を変更し異性と結婚生活を
送っておられる「元同性愛者」の方が多くいらっしゃるのも事実です。
 しかし、一つの仮定として「もし一人の人物が先天性の同性愛者であり、なおかつそ
の性的指向は変更不可能であった」としましょう。それでも、その方が実行であれ思い
の世界であれ、同性愛行為に至るなら、その倫理的責任を問うことはできるでしょうか。
私ははっきり、「できるし、問われなくてはならない」と主張します。私の見解では先
天性か後天性化は、倫理的判断に何ら影響を与えないからです。
このような見解の根拠としてよくアルコール依存症者の倫理的責任があげられます。
最近の医学界においては、アルコール依存症は先天性であるとの見解が強いそうです。
多分、アルコール依存症の発病原因となる遺伝子が見つかるだろうと言われているそう
です。
たとえば、アルコール依存症が先天性だからといって、酩酊の罪について責任が問わ
れないはずがありません。その社会的責任の放棄や周囲の人物を苦しめることについて
は当然倫理的責任が問われるべきです。周囲や社会全体がアルコール依存症についての
偏見を正し、愛に満ちた理解に立ってその方の社会的自立を助けることは必要です。し
かし、正しい理解と倫理的責任の追及とは全く別の問題です。
同性愛についても全く同様の事が言えるでしょう。例えば、将来同性愛傾向をもたら
す遺伝子が見つかったとします。そして、ある同性愛者の遺伝子を診断し、先天性同性
愛(あるいは遺伝性同性愛)という診断結果が出されたとします。子のことを知る周囲
の人々はその方に理解を示すべきです。同性愛傾向を持つことについては、それを受容
すべきでしょう。しかし、その方の同性愛行為を「先天性だから仕方ない」と容認すべ
きではないのです。


(4)その人権について
聖書は、同性愛を特別な性的罪とはしていないようです。創造時の結婚と性の秩序に
反する点では、婚前、婚外交渉など、他の性的な罪と同様です。したがって同性愛につ
いても、他の一般的な性的罪と同様の扱いをされるべきでしょう。ですから、教会は同
性愛行為を行った者を他の罪を犯した者と区別して厳しく責めたり、特別な戒めをあた
えるべきではないと考えられます。それは聖書的なバランスを失った態度と言わざるを
得ません。
同性愛と他の性的罪との違いは、少数派であること、それ故に偏見と差別に合いやす
いことです。同性愛行為は罪であっても、他の罪人同様にその人権は保護されるべきで
しょう。教会がそのような偏見や差別がないようにと願います。
また、教会が罪自体の問題と人権の問題を混同すれば誤った対処となるでのはないか
とも危惧します。同性愛者も異性愛者も等しく神様の愛の対象であり、かけがえのない
価値を持つ存在です。ですから、その人格や存在が否定されてはならないでしょう。ま
た、同性愛者であるからという理由で、教会やクリスチャン個人が暴力、憎悪、拒絶の
態度を取るのは明らかな過ちです。
もし、クリスチャンが同性愛行為を法律で禁止、処罰することを主張し、賛同するな
ら、結婚外交渉など他の性的罪に対しても同様の禁止と処罰を要求すべきでしょう。そ
れが聖書的にバランスのとれた判断のはずです。