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2002年4月30日設置

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2012/06/01(金) 前向きに生きることの大変さと無意味さとその反動

「前向き」に生きるということはそんなに簡単なことではない。
自分自身の気持ちの持ちようという単純な話でもない。
この世界はそんなに前向きに生きていられるほど甘くはないのだから。
けれども、私はいつも前向きに生きることにしている。

前向きに生きるということは、例えば会社において
他の人よりたくさんの仕事をしつつ、より多くのお金を稼いで
自分では失敗することなく、誰かの失敗を自分で後始末したり
愚痴ばっかり言っている人や馬鹿な人をうまく前向きに誘導したり
それら猛烈な忙しさのなかでも耐え凌ぐことだ。
職場の中では笑顔を忘れずに明るいヒマワリのような存在を演じる。
存在に「なる」ではなく「演じる」。つらい時でも常に笑顔を保つ。
それが自分で意識して「前向き」に生きることだと思っている。

現実は恐ろしく厳しくて、いろんな人々が失敗をするし、その被害を被るし
あまりの忙しさで心が折れそうになる。人間という生き物に絶望する。
「前向き」というのは何も考えないノーテンキとは明確に異なっていて
失敗を避ける、またダメージを少なくするためによく考えて生きる必要がある。
様々なマイナス要因を事前によく考えて避けるためには
表面的には笑っていても思考の中では悲観的に組み立てて考える必要があるから
何もせずリスクも避けて平穏無事に生きるというところと比べると、
失敗したり、されたりした時の反動がより大きくなる。
かなえたい夢の大きさだけ、その挫折の大きさも比例して大きくなる。

その結果として、私は鬱病になった。
だから他の人には「前向きに生きろ」みたいなバカなことは言わないし
自分の生き方が正しいとは微塵も思わない。むしろ頭の悪い生き方だと思っている。
自分から進んでいばらの道を歩こうとするのは、崇高な精神の持ち主だからではなく
それだけ生きることに不器用なだけだ。
そもそも一人の人間が前向きに生きようが、後向きに生きようが
そんなものこの世界にとって全く何の影響も及ぼさない。

そんな些事ではあるけれども、それでも私が前向きに生きているのは
どうせ生きるなら明るく馬鹿っぽく生きようと思うからだ。
何もする前から明るい未来を自分から放棄してしまうのが寂しいのだ。
「幸せ」とは自分の心の持ちようによって決まると勘違いしていたいのだ。
そんな聞き分けのない子供のような大人に育ってしまったのだ。

私の鬱病は今はもう治ったけれど、私の家の冷蔵庫の中には今でも保険として
結構な数のパキシル(鬱病の薬)が予備で入っていて捨てられない。
前向きな生き方は自分自身だけでは耐えられないほどの圧倒的な反動を伴う。
それだけダメージの大きい生き方は他の人には勧められないのだけれど
それを覚悟の上で、今でも私は前向きに生きている。

たまに自己啓発本とやらで「前向きに〜」とか書いてあると
馬鹿じゃないかと思う。そんなことを書いている人ほど
小さな環境と狭い範囲でチマチマと生きていて
前向きに生きることによる反動をほとんど受けた経験が無いのだ。
そんなものを信じるよりは、自分自身の生きたい方針
それが後ろ向きであれ、事なかれ主義であれ、前向きであれ
自分に適した生き方をすればいいのです。

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