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2002年4月30日設置

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2012/03/01(木) 新型鬱は甘えであるという勘違いと妄想

最近、「新型鬱」が流行っているとのこと。
簡単に言うと自分の好きな仕事や活動の時だけ元気になったり
他罰的で会社や上司のせいにしがちな鬱病患者を指すらしい。

少し前、私も鬱病であった。
急に頭が緩くなって仕事でミスが多発して、変だと思って病院に行って発病を知った。
いろんなものにヤル気を失ったけれども1年間近く薬を飲み続けながら
周囲にさとられることなく、従来のペースで猛烈に仕事を続けた。
だから「新型鬱」とは少しタイプは違うのだけれども
新型鬱は決して甘えているだけではないと断言できる。

今、この日本で生きていくにあたって
若い人々がいったいどれだけ明るい希望を抱くことができるのだろうか。
就職は大変だし、やっと就職できても大手企業でもつぶれたり
別会社に切り離されたりするし、働いていても若い世代が少ないから
昔と比べると理不尽なくらいに若い人の仕事の負荷が高い。
賃金も低いままで抑えられている。バブル世代は儲かったかもしれないが
その反動を受けた「失われた20年」の世代は貧乏くじを引いている。
国の借金は途方もないくらいに積みあがっていて増税は避けられないし
様々な組織で不祥事が相次ぐし、悪いことをしても開き直る、それは東京電力だけでなく
昔に比べて変な組織が増えた。変な企業が増えた。

そんな状況でいったいどれだけの人が心病むこと無く生きていけるのか。
昔を生きた人々からすれば新型鬱は甘えだと思うのかもしれないが
そもそも生きている時代が異なるのだ。それを考慮に入れず
「自分なら耐えて頑張れる」というのは妄想に過ぎない。

簡単なたとえ話をする。

ゆとり教育世代は甘い、社会人として使えないという人がたまにいるけれども
根本的に悪いのはゆとり教育世代ではなく、このゆとり教育を導入した人々である。
この人々が自分達の愚かさを日本全国に撒き散らした結果である。
子供たちが満足に教育を受けられない状況を作り出した
その結果として、ゆとり世代が生まれた。その世代の人々を責めるのは筋違いだ。

鬱が生まれる原因はそこまで単純ではない。
けれども、新型鬱が本人の甘えであるというのであれば、その甘えた軟弱な人間を育てたのは誰なのか。
若い人々に生きづらい環境を生み出しているのは誰なのか。

それは今を働いている、そして生きている私たち一人一人の責任でもある。
だから誰であろうと新型鬱が甘えであると切って捨てることはできない。
ここで切って捨ててしまっては何の解決にもならないし、本質から目をそむけているだけだ。

超就職氷河期であった時代に就職した私には
同期やそれに近い若い世代の数が圧倒的に少ない中で働いている。
たいした職場教育も受けられないまま実線投入されて皆疲弊している。
そして職場に絶望してたくさんの人が辞めていった。心を壊した人々もいる。
その下に「ゆとり世代」が入っていて、彼らが私達の後を継いで働くには
まだまだ実力が足りなくて、結局就職氷河期世代が死ぬ気で頑張ることになる。
今の状況は若い人達だけの問題ではなく、この国の経済状況にも大きな影響を受けているのです。

より成長する社会に。
明るい夢を見られる社会に。
少しでも楽に生きられる社会に。
努力が報われる社会に。
絶望する人が少なくて済む社会に。
この社会を構成する全員が少しでもより良い方向に進まない限り
この時代の中で鬱病になっていく人が増えていくのは仕方がないことだと思う。
それが鬱病の初期症状であったり仮病的な鬱であったり程度の差こそあれ
精神を病んで仕事ができない人が増えて、社会的な損失を生み出しているのは事実なのです。

若い人の鬱は甘えである、ゆとり世代の弊害である、と盲信して薬で対症療法だけする前に
彼らの置かれている現状をみて、より生きやすい社会を作るために私たちは何をしたらよいのかを
よく考える必要があると思うのです。

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