|
|
[メインページ] > [日誌一覧] |
2011/04/19(火) | 人間の良心と悪意の挟間で |
公共性よりも個人の欲望を優先することを単純に「悪」と定義するのであれば 私は「性悪説」を信じる。 人は生まれつき利己的欲望に満ち溢れていて、「善」は後天的に習得するものであると思う。 生きている間に積極的に学ぼうとしなかった人は、生来の欲望の中から悪意を生み出し続けるし、 折角身につけたものでも、忘れてしまったり、またそれを信じる心を失えば元の悪に囚われる。 人という生き物が基本的には好きな私は、少し楽天的な性善説を信じていてもよさそうな気もするけれど 現実問題、悪意の無い人間など存在せず、それをどの程度まで受け入れられるかだけの問題だと思っている。 話を単純化した場合、人間よりもシンプルに生きている動物達は 躊躇せずに同属のライバルを蹴散らそうとするし、他者の食料を奪い取ろうとする。 環境破壊的に草を食いまくることに何の思考も存在しないし、 自分の小さな縄張りに固執して、そこへの侵入者に対する同情は無いに等しい。 生物界での基本ルールは「自分のDNAが生き残る事を最優先する」であって たとえ悪であろうが、強引にでも生き残れる強いDNAを残さなければ種全体が衰退して滅んでしまう。 善というものは、生き物に生来備わっている心の働きではなく まずは自分自身が生き延びるという最低ラインの行動原則から外れた、もしくは超越した ある意味不自然なものであって、生きていくことに対する追加オプションのようなものであると思う。 それが無くても生きていけるから、己で心掛けなければ善は身につかない。 最近、被災地をお見舞いに行く政府の人々に対して 心無い言葉が投げかけられているネットニュースをよく見かける。 2011年4月18日のニュース:福島県に訪れた枝野長官に対して「遅く来て、すぐに帰るのね」 MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110418/dst11041801400002-n1.htm 【引用文面】 30キロ圏内の屋内退避区域にある同市原町区の居酒屋「だいいち」。 数日前に店を開け、ランチ営業に常連客が集まってくる。 おかみの佐藤洋子さん(62)は 「最近は枝野って呼び捨てよ。こんなに遅く来て、帰るのだけは早いのね」。 スーパーが閉まり、銀行も開かず、新聞も宅配されない。買い物は20キロ先の相馬市へ。 郵便も届かないので、電話で郡山市の郵便局に連絡し、数日後に南相馬郵便局に届けてもらう。それを自分で取りに行く。 こうした苦労を政府代表の枝野氏に「直接言いたかった」(佐藤さん)という。 【引用終わり】 私はこの愚かな悪意にいちいち反論する。 政府の高官に自分の窮状を伝えて、それをどうして欲しいのですか。 長官にピンポイントで伝えて、税金でも何でも使って、あなたを最優先に救済してくれということですか。 全員の一人一人の話を聞いていられるほどの時間が長官にはないと思うのですが もし万が一、長官が誰か一人の被災者の話を聞いたとしたら 「あの人の話は聞いて、なぜ私の話を聞いてくれないのか」となりませんか。 直接訴えるべきはまずは身近な官僚組織であって、そこで話の重要度を整理した上で 長官にエスカレーションされるべきではないのですか。 被災地の苦境を東京に住む私が実感を伴って理解するのは難しいけれども 大変そうだという事は情報としては知っていて、乏しいけれども想像はできる。 疲れもストレスも溜まって大変な状態だと思いますが、それにしても この62歳の婆さんの言葉は悪意に満ち溢れていて、しかも確信犯なのだ。 それを言った人を実名+年齢入りで報道して「国民達はこんなに政府に不満一杯」 と国民感情を代弁しているつもりになってしまっている記者は 記事にするべき情報を手に入れられなくてよっぽど焦り狂ったが故のこの所業だと思う。 この悪意を公にして、それを伝播させることに一体何の意味があるのか。 私には「そうだ!駄目な政府を倒せ!」という短絡的な鼓舞にはならず 人の心の中の一体どこで悪意が生まれ、そしてそれはそもそも解消できるものなのだろうか という暗い疑念と絶望しか感じることができなかった。 人生を生き抜いた62歳の婆さんが公に悪意を吐き出すという事実から推測すると 人とは「性善」なのか「性悪」なのか、それすら思考がこんがらがって訳が判らなくなる。 テレビの中で、大切な人々を失っているのに気丈にも前向きに生きようとする被災地の人々を見ると 私は感動するよりも強烈なショックを受けて、思わず涙が出る。 被災地では無い人々ですら、立ち止まるべきか、前に進むべきかよく判らなくなるのに 被災地でも前に進むという過酷な判断は、尊敬という言葉を超えている。 そんな、強く生きようとする人間の心に少しでも触れたとき、人の奥深さを感じる。 そのような強い人が全てではない事を百も承知の上で、あらためて 人というこの不思議な生き物を 私は、とても好きだと思う。 |
|
[メインページ] > [日誌一覧] |
|