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2002年4月30日設置

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2011/04/18(月) 日本語で文章を書く事は本当に難しい

日本語で文章を書く事は本当に難しい、とつくづく思う。

私は特に文才がある人間ではなくてしかも理系の人間で
ただ、他の人の平均値よりは多くの本を読んでいるだけの人にとっては
この難解な日本語で文章を書くことはとても労力がいる。
書くだけでかなりの時間がかかるし、書き方にとらわれ過ぎて
そもそもの伝えたい事がうまく書けなくなる。

文章の内容はそれを書いている人の精神に因るが、文章の形態とその読みやすさは技量に因る。
この技量の部分で、歴史的にも未熟で構造が洗練されていない日本語は
個人の力量に要求されるものが高すぎると思う。
漢字とひらがなとカタカナの単語をべたべたと接続できる安易さと、その代償としての困難な文章整形。
技術も経験も無い私は、いつも日本語そのものに挫折する。

たまに「人から読まれるブログの書き方」のようなものをWebで見かけるが
とてもミクロな視点での文章の書き方しか載っていなくて
文章全体をきれいにまとめるためのポイントはほとんど無い。
結局はそんなに簡単に身につくほど浅はかなものでは無いのだと思う。

いろいろな人の本を読んでいて私が思うのは、一般に販売されるほどの本を書いている著者達は
当然だけれども天才的に文章がうまい。写真とか映像とか感性に頼りがちな漠としたものではなく
文字で論理的に地道に構築された世界で人を納得させたり感動させたりできるのは、ある意味天才だ。
そんな人々にあこがれて私も文章を書く努力はするのだけれど、いつも簡単に跳ね返されて
途方に暮れる。


少し前に、井伏鱒二の「黒い雨」を読んだ。
広島の原爆投下直後と、その後の人々を描いた本で、悲惨な描写に溢れているのだけれど
その風景を生身の人間の目を通して描いていて、要は主観的に書かれている。
この本の場合は客観的に冷酷に描かれるよりはこのほうがいいと思う。

結局、原爆とは何だったのか。
私の中ではいまだによく理解も把握もできていなくて、何が何だかよくわからない。
知識としてなら知っているし、被爆直後の広島長崎の写真集も見たから
ある一部分の映像としても知っている。けれども、「それでは原爆とは一体何だったのか?」
と聞かれるとその答えは微塵も持っていない。
悲惨なものに対する思考停止から来る理解拒絶ではなく、単純に私の理解を超えている。
こんな物を作った人々も、落とした人々も、落とされる原因を作った人々も
それらの人々の気持ちを私の小さな頭では理解することが出来ないし
それは私に限らず、大部分の日本人にとってもよくわからないものだと思う。

そんな悲劇的な出来事を、井伏鱒二は人間の目を通した景色として書き切っていて
「落とされた人々」の視点での彼が伝えたかったと思われる内容は、きちんと伝わる本になっている。
少なくともある程度の実感を伴っての被爆地の悲しさを共有することができる。

そんな文章を私も書けるようになりたいと思った。
文章の内容が正しいもしくは間違っている云々より、己の伝えたいこと、思っていることを
相手に少しでも伝えられるような、そんな文章力を身につけたいと思った。

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