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2009/08/08(土) | どぜうの魅力 |
「うなぎ」という言葉は、それ自体でとてもワクワクする。 この言葉は、何故だか私にはひょうきんな感じがするのだ。 「うなぎを食べに行こう!」という言葉は愉しい響きがある。 うなぎと同じく「どじょう」の場合。 「どじょう鍋」を食べに行こう!という言葉にそれほど魅力を感じないのだけれど 「どぜう鍋」という文字を見ると、これまた非常にワクワクする。 でも、同じ発音の「どじょう」と「どぜう」でなんでこんなに魅力の差がでるのか それがよくわからなくて思わず考え込んでしまった。 私の母方の実家が滋賀県で、私は琵琶湖のほとりで生まれているのですが 小さい頃、よく滋賀の実家のそばの小川で「どじょう」を捕まえて遊んでいました。 あのニュルッとした感じが気持ち良くて、長くて太いのを必死で捕まえて バケツの上から眺めて喜んでいたのですが、だから「どじょう」がどういう生物なのかよく知っている。 そのよく知っている「どじょう」よりもあまりなじみのない 「うなぎ」や「どぜう」という言葉に変な妄想を抱くから 面白みを感じるのかもしれない。 あんな黒くてニュルニュルした生き物がどういう生活をしていて 何を食べて生きて、どんな事を考えながらヒゲを動かしているのか。 その理解不能な不思議な生き物を食べるのが愉しいのです。 他の人は「どじょう鍋」と聞いただけでワクワクするのかもしれないですが 私にはあまり馴染みの無い「どぜう」のほうが興味をそそられます。 「どじょう」より「どぜう」のほうがレトロさと不思議さが倍増するのだ。と思う。 例えば昭和生まれの人間が「大正デモクラシー」という言葉に不思議な魅力を感じるのと 同じようなものだと思う。この言葉は昭和に造られているにも関わらず むしろそれだからこそ、不思議な魅力を持つ言葉になっているのです。 造語した人はモダンな大正時代に変な妄想をいだいていたに違いない。 私はそう信じている。 そんなくだらないことを考えながら、今日の仕事後に夏バテ予防で「どぜう鍋」を 食べに行こうと思ったのですが、思わず食べそびれてしまいました。 熱々の鍋からニョロリと頭を出している「どぜう」はとても旨いのですが... |
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