田舎大分で一人暮らしの母の様子見の為、毎年1回は帰省することにしている。
父がなくなって、5年間一人で生活していますが、今年81歳になる。
1〜2週間毎に日曜日21:00頃田舎へ電話を掛けていますが、7月上旬頃は特に変
わったという意識は無かったが、8/3何か変だと感じる
2003年8月3日の状態
@受話器を取るまでのコール回数が長い、
A1つの話が終わってないのに次の関係ない話へ飛ぶ、
Bこちらから話を切り出さないと会話が途切れる、質問しないと黙った状態になる。
2003年8月10日の状態
@電話をとった時に名乗らない、声に全く元気がない
Aテレビの音をやたら大きくしている
B夕食に食べた物の名前が出てこない
C異変を感じて、翌日弟へ様子見に行ってもらうことにした
2003年8月11日の結果
@弟へ確認の電話をしたが、すこし元気がないが、特に変わったことはないという
A痴呆が出ているのでは心配だと話すとそういえばそんな感じ受けるという
Bいずれにしても8月16日には帰省するので、はっきりするだろう。
2003年8月16日の状態
@事前に今日帰省することを連絡していたのに、家に着いても忘れていたような感じ
Aテレビの音をやたら大きくして、うつらうつらしながら、テレビま前に座っている
Bおしっこの臭いがきついことに驚く、布団をぬらしている、着替えた下着を洗濯せ
ず洗濯籠にためこんでいる。失禁に初めて気がついた。
C弟へ依頼して、紙パンツの購入を依頼
D8/18三光村の保険センターへ介護保険のランクの変更申請方法を確認
2003年8月19日の状態
@扇城タクシーより8/11のタクシー代金が貸しになっているので、支払いをして欲し
い。との電話を受けて、また驚く。やはりここまで来ていたかとおもう(8/18)。
A8/19レンタカーを借りた。タクシーをいちいち呼ばなくても自由に行ける。
B本日は母がデイケアに行った日であったので、車で三光福祉センターへ見学へ行く
また同所にある保険センターで介護ランク変更申請書類をもらう。
Cケアマネージャさんに会って様子を聞くと同所センターでも失禁があったとのこと。
事態の深刻さを認識、介護ランクの変更申請をする旨も連絡。
デイケアの部屋の見学も許可され、母に会うことが出来た。突然息子が現れたので、
びっくりした様子であった。
D保険センターの担当が身体状態等のチェック表に基ずくヒアリングする時は家族の
同席があったほうがよいとのアドバイスを受ける。本人一人だと難しいことでも無理し
て「出来る」と回答するケースも多いとのことです。痴呆がある場合は特に要注意との
こと。
2003年8月20日の状態
@中津脳神経外科へ行きCT検査もしてもらい、介護保険ランク変更依頼用の意見書
の作成依頼をするが、かかりつけの医師の意見書が必要と判明。
A電話を入れてもらって、慌ててかかりつけの大堀脳神経クリニックへ向う
B先生が特別に取り計らってくれて、12時頃には意見書も作成完了してくれました。
C先生の意見では長谷川式の痴呆チェックで11点でかなり悪い、一人暮らしは危険
だとのアドバイスをもらう。ランクの見直しは1ケ月ぐらいかかるだろうとのことでした。
D先生も母が一人暮らしをしていることを知っていたので、入院させてもいいよと言っ
てくれたので、非常に嬉しかった。
E昼食後、時間があるので、母の行きつけの美容院へ行って毛染めとパーマをかける
ことにした。次のチャンスはいつになるか判らない。
F今日はヘルパーさんが16:00来る予定だったので、一旦家に戻って再び三光保険
センタ−へ行き書類の提出完了。係りの担当が身体状態等のチェック表に基ずくヒア
リングがいつににるかは明日連絡するとの回答あり
2003年8月21日の状態
@11時頃だったか、13:00ころ保険センターから、介護ランク見直しのヒアリング
をしたいとの連絡を受け了解した。
A運動機能に関しては朝の起床時、テーブルまで、這って行きつ捕まり立ちで立上
がることを補足
B失禁の後片付けが出来ない、衣服の着替えに時間が掛かる等を話した。
Cディケアへ火曜と金曜通っているのは分かっているのに、週に何回デイケアに行っ
ているか。の質問には1回だと答える。同じ質問を2−3回したがどうしても1回と自
信をもって答える。これには私も痴呆症の進行が予想より進んでいると思った。
D担当の方から、最近は痴呆に関する質問事項も追加されていることを聞いた。結果
は3週間後に連絡されると聞いて、予想より早いかなと思った。
E蚊取り線香の代わりにベープマットマットのセットを頼んだら、マットが焦げていたの
で聞いたらマッチで火を付けたとのこと、もはやここまで来ていたかと思った
F当日の夜、風呂場にうんちを発見とした時は痴呆の進行としては6段階評価で、5段
に階近い可能性を感じて、一段のショックを受けた。(後日調査の専門書より)
G私が東京へ戻ったあと8/23以降、毎朝弟が会社へ行く前様子見をすることにした。
過去の経緯から、同居も出来ないのでやれることから、やることにした。
2003年8月27日の入院
@東京へ戻った後、8/24電話をかけるも元気がない、夜何を食べたか聞いてもはっ
きりしない。事故が心配、直ぐに入院させるべきと判断。弟へ病院との調整を依頼。
Aもう一人暮らしには戻れないだろうが、元気になって、介護の新ランクが決まったら、
退院できると話したら、入院を納得してくれた。
B8/27かかりつけの大堀脳神経クリニックへ入院
C事故が起こる前に入院出来てほっとしている。
D残された課題は3ケ月後の退院後の介護方式を考えること。
E痴呆症の進行は早いとのこと、次回帰省した時、長男の私が判るどうか?
2003年9月11日介護ランクの確認
@介護保険のランク見直し依頼から、新ランク発表予定3Wが経過したので、三光村保
険センターへ確認の電話をいれた。
A最低、介護2ぐらいになるだろうと思っていたが要介護1との回答であった。
Bもう少し勉強してみるしか無いが若干納得が行かない気持ち。下の後片付けが出来
ないことの情報提供が不足していたか。面接以降に起こったうんち問題が報告出来な
かったことがこの結果かも知れない。
C2Wの入院で電話で話している限り、以前よりは元気になったと感じる。見舞いにいっ
ている弟からの連絡でも元気になった。退院したいと言っているとのこと。
Dケアマネージャさんへランクの連絡をしたら、すでに確認済みとのことで、今後の事は
弟が伺うので、宜しくと依頼。
E介護のランクは認定を受けた自治体内部でのみ有効かと思っていたら、日本全国で
共通とのこと。また、介護保険施設も住民票を移動すれば、どこの自治体のものでも
利用できるという話も始めて聞いた
Fグループホームや特別養護老人ホームへの入居は順番待ちで、簡単には入居出来
ない現状も教えてもらった。インターネットで全国の老人ホームが検索出来ることも教
わった。
Gカントリーラビ青梅はHPも充実しており、申込もWebから出来るという最も進んだや
り方をしていると思い、感心することばかりでした。また、待ち状況もWebに公開する
という親切さには最先端をいく社会福祉法人 長渕福祉会の自信の表れと思いまし
た。
それ以外の施設ではの問い合わせ先が記載してある程度でした。
2003年9月17日退院
@電話での様子や弟からの話では気力が回復しており、本人も退院したいと言っている
とのことで、9/15退院を決定
A母の生命保険で入院の手当てが出るのではと思っていたが傷害でないので、ダメ
らしい。
B弟がケアマネージャさんと相談して、9/19日から、2回のデイサービス/週と
デイサービス以外の日はホームヘルパーに来てもらうということで、毎日誰かに顔
を合わせる体制が出来たので、まあ一安心。
弟の話ではレンタルのベッドを予約したとのこと、朝一番トイレに行くことを考えれば、
ベッドの方が起き易いかも知れない。
C今後の痴呆進行に向けて施設の予約もしておく必要があると弟へ依頼した。
短期の老人保健施設(痴呆症でも、入所期間3−12ケ月程度)はそんなに待ちはな
いらしいが、半永久の特別養護老人ホームは年単位の待ちが必要らしい。このへん
をもっと勉強しないといけないところだ。
D10月の中旬頃には再度、様子見の帰省を予定したいと考えている
E痴呆の進行は早いと本には記載してあったが、これから、進行具合の観察を継続す
る必要がある。下の後片付けがどの程度出来ているのかがポイントだ。
その他としては、記憶障害、無関心(うつ)、疲れ、失語、行動、身の回り作業のでき
具合の継続的な観察が必要と思う
F9月21日はアルツハイマーデーに制定されており、世界及び日本で、啓発活動が行
われていることを発見。呆け老人をかかえる家族会が最新ニュースを伝えいる。
G痴呆で検索するとたくさんのサイトが見つかり、日本における現状が良くわかる
ただ、厚生労働省の動きは遅々としているようにみえる。
H検索機能にて福祉施設を探していたところ、全国ネットの高齢者福祉施設情報
が見つかりました。これから、施設を探したい方は是非参考にして欲しいです。
2003年10月4日帰省の切符を購入
@家内の父の三回忌で帰省中だった、家内と娘が9月29日田舎の母を見舞う。
その夜の電話では元気そうとのことで、一安心。
A母本人との電話で話していても元気な雰囲気は伝わってくる。畑に何か植えたいとい
うような話も出てきた。散歩も開始したらしい。
B弟との電話でも8月の不調時と比較すれば、退院後は元気とのこと。
10月より、デイケア3回/週、ヘルパー訪問4回/週にて、要介護1のサービスを
開始して一安心となった。
C私自身の帰省に関してはいつがベターか悩んでいたが、弟の方でも将来入所する
予定の施設の予約をまだしていない。母本人も元気を取り戻したので、保健施設への
入所にあまり前向きではないらしい。
D母の様子がおかしいと感ずいたのは私だし、母の生活ぶりを見て、保健施設への
予約事務手続きもしょうと言うことで、10月19日ののぞみの指定切符を購入
E会社の休暇制度のなかに、通常の有給休暇とは別枠のフレンドリー休暇
(ボランティア、子育て、介護向け)があるので、初めて使うことにした。
Fインスタントと少し違う味噌汁やとん汁等のドライフーズが人気とのことで、お湯だけで
調理出来るのなら、デイケアに出かける日には都合がよいのではと10/17送ったら
喜んでもらえたが、食べてくれたかな。
2003年10月19日見舞いの為帰省
@移動用の車がないと不便だろうと思い今回も中津駅前駅レンにて、トヨタのビッツ借
りた。10/23 9:30迄で28000円程度であった。カーナビが付いていたので、そう
いう時代になったのだと変なところで感心した。
JRの切符と一緒に予約すれば特だったのにと、また悔やんでしまった
A16:00頃実家へ到着、電話で聞いていたように元気にしている様でまずは一安心し
た。数日間、直接様子を観察すれば、もっと詳しいことも解ってくるだろうと思う。
ちょうどヘルパーさんが夕食作りに来てくれており、帰り仕度をしているところだった。
B10/20,10/21はディケアの予定であったが、キャンセルしたとのこと。私はキャ
ンセルしなくても良かったのにと思ったが、いいことにした。
C空き時間が出来たので、10/20は母の妹の嫁ぎ先清水へ抗がん剤投与が効いて
退院した叔母さんのお見舞いを兼ねてビッツで出かけた。
D夕食の時、歯が痛くて、ちょっとかたいものが食べられないと言う。じゃあと翌日は歯
医者へ行くことにした。金色温泉にても行ってゆっくり風呂でもと思っていたが、こちら
が優先だ。
E部分入れ歯が歯茎に当たり化膿しかかっているとのこと。3回ほど通院すれば治ると
のことで一安心。部分入れ歯はやめて、総入れ歯のほうがいいのではと先生と話した
が、慣れるまで、2,3ケ月かかるので、いまのままがよいということになった。
F2回目の通院は明日を予約、私がいる間にできるだけ治療しておいたほうが安心と思
った。森田歯科クリニックから、近いスーパージャスコで蛍光灯と食料を購入して
帰る。
G10/22は弟が休みを取れるとの連絡があり、レンタカーは一日早く返却することに
した。レンタカーを返却後、家内の実家に寄り、弟の家まで歩くことにした。
H特別養護老人ホームの予約に関しては、弟が申し込み用紙を入手していたが、特別
な書類を添付する必要も無かったので、弟へ提出を依頼した。気になっていた費用に
関しては5−7万/月程度で、国民年金と遺族軍人恩給の分でまかなえることが解り
安心した。
ただ、「要介護1」で申し込んではかなり長期間待たされる可能性が高いと思われる。
I母は老人ホームの話を持ち出すと行きたくない。元気だから、入る必要はないと
言い出した。
申し込んでも、すぐ入れる訳ではない。介護度だって、だんだん重い方向へ進むのだ
から、将来の為には必要だとやっと説得した。
母は特別養護老人ホームは暗いイメージのあるところと思っているようだ。
J母の退院後の生活に関しては、散歩はちゃんとやっていると言っていた件はうそと判
明。一緒に散歩したら、ひざが痛い、疲れたを連発。足の力がだいぶ衰えている。
失禁は以前ほどしていないらしいが、たまには紙パンツの後始末が出来ていないこと
、注意すると隠すようになるので、黙っておくことにした。激しい鍋の焦げつかせもやっ
ていることが判明。
K10/22リモコン制御付き介護用のベッドがレンタル出来るので、申し込んでいるが
とケアマネージャさんへ確認すると母が使いたくないような話をしたので、保留してい
ると判明。母に再確認したら、使ってもいいと言うのであらためて申し込む。
すると、息子さんが帰っている最中にベッドを見てもらったもうがよいということになり、
本日中に届ける手はずをしてくれた。
ベッドの業者の話では17:00予定だったのが、別の緊急案件が舞い込んだとのこと
で、到着が19:00になってしまう。セッティングに1H程度かかった。
L母にベッドの上でリモコン操作を練習してもらったが、どうも操作が難しいように思わ
れたので、無理にリモコンは使わなくてもいいことにした。
下手に操作して、ベッドを水平に戻せなくなったら困るという心配があった。
ベッドを起こしたり水平に戻すリモコン操作は痴呆症ある人には向かないと思った。
介護する人が寝たっきりになっている人を起こしてあげるのは、かなり技が必要とテレ
ビで見たことがある(下手な起こし方をすると介護者が腰を痛める心配もある)が、
そのような場合は役立つと思う。
2003年11月15日電話の内容
@弟が週1回様子見の為、実家へ出向いてくれているが、最近私へ電話をしてくれな
くなった。弟が電話を督促するとやっと電話をかけてくれる状態になっている。
A今までは私の方から電話していたが、緊急事態の時電話をかけられない状態になっ
ては困るので、リハビリのつもりで依頼していたが、守ってもらえない。
元来、電話をまめにするタイプではなく、余程のことがない限り電話しない方なので、
無理があるかな?
B今日は弟が電話してきたが、週3回のディケアはよいとしてと週4回のヘルパー訪問
が嫌で、1日は無しにしたいと言う。ついに田舎の人の癖で、他人が家へ来ることが
嫌なようだ。仕方が無いので1日休みを作ることには良しとした。
Cヘルパーさんが作ってくれた料理に対する注文や作って欲しい料理への依頼がうまく
行っていないことによるストレスが溜まっているようだ。
D11/11介護タクシーを利用して、掛かり付けの大堀脳神経クリニックへ薬をもらい
に行ったが、その後美容院や買い物へ行く予定を運転手さんへうまく連絡しておらず、
戻りの電話連絡が遅れて、行方不明になったのではと一波乱あったとのこと。
本人は事前に予定を話していたと言っている、「もう介護タクシーは使わないと」
話す。介護タクシーの利用は事前にケアマネージャへ予定を依頼しておくべきところが
しないで、直接介護タンシー委託会社へ依頼した問題もあったようだ。
Eだんだんと頑固さが強くなってきたと思う。自分の予定を他人へ正しく伝えることが
出来なくなっているとしたら、痴呆症の進行とも考えられる。
頑固になるというのは元気な証拠なのか、別の問題があるのか判断に苦しむことだ。
「ヘルパー訪問の回数を減らして欲しい」と言うかと思えば、「弟が訪ねて来ない」と
ぐちを言ったりしている。
F弟へ特別養護老人ホームの予約が完了しているか確認したらまだ、終わっていない
とのこと。(10/19帰省の目的の1つだったのに)
弟は母と顔を合わせていると元気に見える為、緊急性を要する問題と思えないのか。
再度督促した。母へ入居時期ははもっと介護の度合いが上がってからと話してある。
また、かなり待ち期間がある等話をしているが、いざ入居の時期がきたら、入居した
くないと言い出す心配も残る。
2003年12月14と20日電話の内容
@12/14日21時前10回以上のコールを2分おいて4回ほどしたが電話に出ない。
倒れて、起き上がれなくなっているのかと心配した。
22時頃には弟が勤め先から帰るので、電話して様子を確かめてもらうことした。
A22:00前になって、突然母から電話が届いた。母の同級生でもある脳梗塞で入院
していた長谷集落内の方が亡くなり隣保班として葬儀の手伝いに参加して遅く戻っ
たとのことで、一安心した。
B弟から12/20日9時前、母の住んでいる実家から電話があり、14日の話をしたら
14日22;00前には弟の家にも電話があって、「21:00頃電話したか」との確認電
話があったとのこと。
C結果として、14日21:00頃母は寝ていて電話が鳴っていたが疲れており、電話に
出なかった事が、事実と判明。
Dどうして、疲れていたので電話に出なかったと言わないのだろう。大体日曜21:00
頃には東京から電話しているのに
E結局、息子に心配させてはいけないと思って、22:00頃電話をかけて来たと判明。
F思い立ってから行動を起こすまでにずいぶん時間がかかるようになったと思われる。
弟によると、「本日は医者に行きたいので、8:30頃来て欲しい」と依頼をうけて、来た
のに出かける準備が全然出来ていないと言う。弟の勤め先が本日休みでないことを
忘れているようだ。
G結局、折角迎えに来たのにタクシーで医者へ行ってもらうことになってしまった。
介護タクシーは例の一件があってから使う気になっていないらしい。
12/22(月)には休暇をとるので、ケアマネージャさんへ電話して様子を聞こう。
時刻や曜日の感覚が鈍って来ていると思われる。木曜日はヘルパーさんを
断って、自分で炊事をすると言っているが本当に出来ているか疑わしい。
H特別養護老人ホーム予約の件は2箇所は完了したが、残る1箇所はまだと言う。
入居可能予定日は分らないという。
優先順位として、要介護度の高い人最優先、次に一人暮しの人となっていると聞い
ているが、要介護度がもう1つ上がって要介護2−3以上でないと無理?
要介護1以上の方は半年単位で、見直しがあると聞いているが。来年3月?
I12/21(日)20:00母に電話をする。声を聞いている限りでは元気そうである。
最近の調子はと聞いたら、実は先週畑で弟が耕した塊の土を腰掛に座って細かくし
ている最中前に倒れて手のひらを摺り剥いたとので、ディケアも2回ばかり休んだと
のこと。たいした傷ではないと言うが8月に転倒して、爪が打って内出血しはがれて
しまうことがあった。一段と、足腰が弱ってしまったのだろう。弟はそういうことに気が
付いていないのか。
J12/22(月)10:30頃東京から、田舎のケアマネージャさんへ電話した。寒くなった
せいか少し元気が無くなった印象がある、ヘルパーさんからは特に変わったという報告
は届いていないとのこと。12/27−1/4の年末年始はヘルパーサービスもディケア
も休みとのこと。弟には連絡済みだが、どうするか具体的対応が決まっていないと
言う。
Kなんということだ、今晩弟に電話しなくては。今の介護保険は一人暮らしの人のことを
充分考慮していないと始めて知った。弟が一時的にも母を預かれないというなら、母の
家から、会社に通ってもらうしかないのでは。
昨夜、母に電話した時来年のカレンダーが欲しいと言うので宅配便で3つほど送った。
10月上旬届いたアマノフーズのフリーズドライの味噌汁等、11月末に届いた切り身
の鮭は食べているのだろうか。最初は食べても後は忘れてしまっているケースがある。
冷蔵庫の中をよく見る様に言ってあるが、出来ていないのである。
2004年1月17日の電話
@年末年始のヘルパーサービスとディケアサービスの休止は特に問題なく乗り切ったよ
うである。
A17日の電話では風邪声を出していたが、風邪薬は飲んだというので、一安心。
B1月2日で82歳となった、今の調子では女性の平均寿命84歳まではいけるかも知れ
ないと思うような感じを受ける。
C電話をかけた時、テレビの音声をやたら大きくしており、電話からも良く聞こえてくる。
話している最中で小さくする場合が多い、耳が聞こえにくくなっているようだ。
D以前までディケアに一緒に通っていた94歳の方が亡くなったとの話があった。
昨年10月19日帰省した時、近所の母の同級の女性の夫になる方の御通夜に出かけ
た、昨年12月に母の同級の男性病死と3ケ月間で3人の方が亡くなったことになる。
Eどなたも80歳を超えた長生きをされた方であり、日本は長寿国になっていることは間
違いないと実感する。
F自分が80歳まで生きるとしたら、残り25年あることになるが、何をしたら人生を有意
義に過ごせるのだろうと一瞬考えてしまう。いずれにしても1度しかない人生だから、悔
いのないものに。とは言うものの「もう一度同じ人生でいい」なんてそんなことは出来そ
うも無いが。
G2月からはヘルパーサービスをもう少し減らしたいとまた言っている。前に、他人が家
に来るのが嫌だからと書いたが、もうひとつの理由として、ヘルパーさんが来る日は台
所や部屋の掃除をいくらかやって待っているらしい。
H要するにヘルパーさんに散らかっているところを見せたくない気持ちが働いて、片付け
をして待っているらしい。その「片付けをすることが嫌だから」来て欲しくないという事が
判明した。なんという理由だ。片付けをしてもらう為に来てもらっているのに。だれも
来ない日に倒れていたら困るからと言っても全然納得してもらえない。
これは元気になった証拠または、子供に心配させないようにとのことか?
2004年2月7日の電話
@相変わらず電話はあまりかけてくれないが、元気そうである。
Aヘルパーサービスを3月からまた減らしたいと言う。ダメですというのに理解してもらえ
ない、当分このせめぎあいが続きそう。
Bまた歩いていて転んだらしい話を聞いたが大事には至っていないらしい。
C全て順調という訳にはいず、多少の波風はあるだろう。
D宇佐市清水の妹の直子さんに会いに行くと言う。生きている残った姉妹同士だから、
話が合うらしい。動けるうちに、話せるうちに会っておいた方がいい。
E年を重ねるとお金に関して一段と執着するのだということが、最近のちょっとしたこと
で、判明した。財産を子供へ全て相続したことを悔やんでいるらしい。
2004年2月29日の電話
@3月に予定の亡き父の7回忌の日程が3月21日に決定したので、3月19日には田舎
に帰る新幹線の切符を購入した話をしたら喜んでいた。電話ではなしている限り今のと
ころ急に様態が変わったと感じることろは特にない。3/19の帰省時に様子を見たい
と思う。
A入れ歯の調子がまたおかしくなってものが咬めないと言うので、早急に歯医者へ行っ
た方がいいと話した。昨年10月に治療したのにまた悪かなったとは残念だがしかたが
ない。
B要介護1の認定から、6ケ月が経過したので、更新用の掛かり付けの先生からの意見
書提出は完了していると聞いて一安心した。
Cヘルパーサービスを減らしたいという話は弟とも相談して減らさないことで、、弟がケア
マネさんへ会って話をすることで決着した。
2004年3月19日帰省
@3月19日中津駅南口のサンリーブにて、買い物をしてタクシーに乗った。運転手さん
が一年生で道がよくわからないので、指示して欲しいと言う。元大工だったが、屋根か
ら落ちて大工仕事が出来なくなったとのこと。カーナビを付けるなら、自費で付けるの
だと言う。タクシー業界も大変だ。駅周辺は旧サティーのビルも取り壊し中で寂しい限
りだ。
A実家に着いたら、珍しく迎えに玄関まで出てきてくれた。元気そうに見えて一安心。
失禁も以前より回数が少なくなっているらしい。最近転んだ時、傷めたらしく右親指
の爪が黒くなっている。右手の手のひらがうまく広がらないようで箸を使いづらいよう
だ。
B海老天丼の弁当を買って帰ったら美味しそうに平らげた。食欲はありそうなので、一
安心。買い物も時々自分でしているとのこと。また、行商の人が家に来た時、飴玉を貰
ったとかで断れなくなって、あまり必要の無いものも買わされているらしい。
C寝ている時、ねずみが天井で運動会をしているように走り回ってくれる。随分たくさん
いようで、次から次へとスタートが切られ、なかなか終わらないのにはびっくりした。
あきれたことに、母は気にならないと言うのには二度驚く。一人でいるとねずみもお隣
さんになるらしい。
後実談だが、接着式のねずみとり具でかなりつかまっていると聞いた。
D3月21日は亡き父の7回忌を弟家族を含めて質素に実施。6年も母が一人で暮らし
ていけるとは思っていなかった。この調子だとあと1〜2年程度は大丈夫なのかな。
E特別養護老人ホームの申込はしているが、今の要介護1では何時になるか分からな
い、との話を出すと入りたくないとの話になってしまう。自由が奪われるようなイメージし
か持ていないようだ。
F3月22日のディサービスをキャンセルしていると言っていたが気になったので、戻りの
9時過ぎに中津駅から、ケアマネージャさんに電話確認したら、キャンセルの連絡は受
けていないという。やはり基本的なところに少し問題がある安心しきってはいけないこと
を思い知った。7回忌の実施については承知しており、息子の帰りを楽しみにしている
等の話が伝わっていた。
Gどうも日付と曜日を時々間違えてしまう。間違いを指摘しても簡単に納得しないところ
が気になる。畑での野菜作りはさすがに少なくなっている。腰が以前より曲がってきた
印象がある。ベッドに入ってから寝返りにもかなり時間が掛かっている。
H冬の間はあまり散歩をしなかったらしいが、暖かくなって来れば、外へ出て散歩して
足を鍛えて欲しいと思っている。足が弱ってきているのではと気になった。自覚はして
いる様だが、上り坂ではかなり足が痛いような感じを受けた。人通りが少ない道で、
散歩中に転倒したも困るなあと思ったりしている。
2004年4月18日の電話
@遂に歩行用の手押し車を弟に購入してもらったとのこと。少しでも転倒防止に役立って
欲しいものだ。
A自転車に乗れない人だったので、下り坂道でブレーキの制御がちゃんと出来るかな、
という心配がある。毎日練習する様にお願いしたがどうなることやら。
B何回か転倒しているのに杖をあまり使わなかったのに手押し車がどの程度使えるか
気になる
Cねずみのほうは接着式のネズミ捕り紙でかなり成果が出て静かになったとのこと。
D害虫のことをあまり心配しないほうだが、春が早かったので、早めに発煙式の害虫駆
除をやって欲しいと思う。
2004年5月30日の電話
@5月の連休中に墓石の業者が家に来たので、一家の墓に父の名前と死亡日を入れて
もらったとの話を突然連絡を受けた。
A10万の費用がかかったと事後で連絡されたので、詐欺めいたことをされたのではな
いかと心配になり親子喧嘩となってしまった。現物を見た弟も特に連絡をして来なかっ
たので、心配し過ぎたかも知れない。
B以前にも必要もない物を訪問販売業者から購入したという話を聞いていたので勇み
足だったのは一安心だ。
C考えてみれば3月に七回忌を終わったのに墓に名前を入れる件を放置していたのは
子供の責任もあったと思う。今思うにどうして長い間保留していたのかと反省する。
D5/30の電話で、失禁が直ったとの連絡があり、薬が効いて良かったねと久しぶり
に喜びあった。
E失禁については本人も人にはあまり言えず悩んでいたのだと本音を漏らしていた。確
かにそうかも知れないと思う。82歳という年齢から考えると再発も注意しておかねばな
らない。
F室内の害虫駆除を早めにやるように連絡しておいたが、終わったのか心配だ。
2004年7月4日母から電話
@18:00頃母から電話が来た、何時もと違う時間帯なので、何かあったのかと思う
A先週の日曜に依頼したお中元が3日届いたとの連絡でありホットした
B室内の害虫駆除は6月下旬に弟が実施して終わったとのことこちらも一安心
C歯の調子がいまいちとのことで、歯医者へ行くように言ったがどうも歯医者の先生と
症状に関してうまく伝えることが出来ない様子が伺える。
D母は何か偉い人に対してしゃべり方が急に変わる人なので、自分の症状がうまく話せ
ないのでは。タクシーで行くように話した。
E22:00頃弟からもお中元のお礼電話があった。夏休みは帰省しないつもりにしている
が、大丈夫かなと聞いたが去年より元気で、次回の介護の見直しでは介護度が下がる
かも知れないという。まあ一安心というところか。
F弟のパチンコ屋での警備の仕事が2人体制になり、週2日の休みが取れるようになっ
たとのことで、給料は減るかもしれないが、ゆっくり休むことも大切だ。
2004年8月1日の電話
@西へ進む台風10号の影響は無かったかと心配しながら電話する
A風も雨も九州には大きな影響は無かったようだ。それにしても今年は水害の多い年
だ。
B歯医者への通院を確認したが、まだ行っていないとのこと。忙しいはずは無いのにど
うして忙しいという言葉を出すのだろう。口癖だろうきっと。
C耳も遠くなって電話での話しが通じにくくなって来た。電話口からテレビの大きな声が
聞こえてくる。電話を取るまでの時間も長くなった。
D毎週のように電話しているのに、弟からの電話と勘違いする。弟の方がたくさん電話
しているのだろう。きっと
E今年の夏は帰省の予定はしていないと話すとがっかりしたようだが、何処かで帰省す
べきかなという後ろ髪を引かれる思いも少しある。
2004年8月15日の電話
@歯医者へ行くように何度も話してあったので、どうしたか気になって確認の電話をする
A4回ほど通って上歯の方は治療ができて、咬んだときの痛みがだいぶ緩和されたとの
ことで、一安心だ。下歯の治療もあるので、後数回は通う必要があるらしい。
Bまた膝の痛みも出ているらしいが掛かり付けの先生には話してないらしい。どうも先生
と呼ばれる人に対しては言いたいことが簡単に言えないかなりの遠慮があるようだ。
いまさら、変えなさいと言ったところで、変わる訳ではないだろうが。
C弟一家が8/14墓参りに来たとのことで、盆も終わったようだ。
2004年9月14日実家に宿泊
@家内の母は癌が再発し入院している話は8月下旬より聞いていたが9月7日当たりか
ら様態が急変してに昏睡状態となった。癌の痛みで大変だったとのことである。体力的
に手術や 抗がん剤投与は難しいとのことだった。
A9月18日には家内と子供2人で大分に帰省して見舞いを予定していたが、9月11日
20:3 5息を引き取ってしまった。9月12日午前中より家族4人で急な帰省となった。
B9月13日中津紫雲閣12:00−からの葬儀には弟が母と清水の叔母さんを連れて参
列してくれた。去年の帰省時と比較すると足が大分弱ってきたなと思った。
C椅子から立ち上がる時何かに捕まらないとふらふらして倒れるのではないかと心配
だ。本人も足が弱ったのは自覚しているが、口には決して弱気は出さない。
D翌日失業中息子が久しぶりだから田舎に泊まってもいいというので、中津駅前でレン
タカーを24H借りる。往復のタクシー代金と変わらないので、自由度が有る分得と思っ
た。
E駅前のサンリーブにて、ダニ、ノミ、ゴキブリ退治用の煙式の駆除剤と食料を購入して
10:30位に長谷に向う。昨日の葬儀では激しい夕立で大変だったのがうそのように
天気がよい。
F締め切った部屋でテレビを見ていたようだ。慌てガラス戸を開けて換気し、家の中を
ざっと見て周った。トイレの便座カバーが汚れていたので取替えた。納屋の壁に立ち
かけてあった稲干しに使っていた足が台風18号でかなり動かされてずれていた。
G珍しく息子が焼きそばを作って3人食べた。6個の駆除剤を配置し水を入れて家の出
た。2−3H待ち時間があるので、金色温泉へ行くことにした。母も始めてとのことで、
いでに八面山ドライブもしょうかとレンタカーで出かけた。
H今年3月に金色温泉には来ていたのでなつかしかった。前回は酒が入っていたので
余りよく覚えていなかったが思っていたよりこじんまりしていることに気がついた。母が
八面山ドライブは行きたくないと言い出したでジャスコ三光店で便座カバーと食べ物を
購入して戻った。
I予想通りゴギブリが何匹か死んでいた。生ゴミを捨てていないのである程度は予想し
ていたことだが、弟もヘルパーさんもゴミ処理に協力して欲しいものだ。定期のゴミ収
集はなされているが、集積場まで運ぶことが出来ないのだ。
J午前中に電話したら休みらしかったが、ケアマネの岩下さんから電話がきた。現在木
曜日はホームヘルパーは依頼していないが、来月あたりから組み入れて欲しいとお
願いしたが、本人を説得しておいて下さいと言われてしまった。心配だから息子の言う
こと聞いてヘルパーさん追加をしぶしぶ承知してもらった。頑固な母の説得には骨が折
れる。もう1年ぐらいは 一人暮らしが出来るのだろうか。もうそろそろ限度に近いか。
2005年5月2日
母の状態の報告が8ケ月ブランクになっていました。電話連絡は最低1〜2週間に1回
の割合で続けておりました。電話で話している状況ではテレビの大きな音が聞こえてくる
状態で、耳がかなり遠うくなった様に感じる程度でおおきな変化はないと思っていました。
@昨年の9月以降は帰省していなかったので、今年のGWには様子見に5月2日〜5月
6日帰省しました。駅レンによる足の確保、中学のクラス会参加、戻りには愛知万博の
観覧とスケジュールを立てました。
A5月4日には東京から室内害虫駆除剤6個を購入していたので各部屋へ仕掛けて、
車で出かけた。そして、接着式のネズミ取りやゴキブリ取りも購入して来た。早めに駆
除しておかないと、夏になるとたいへんになる。去年もやっている。
B戻って、部屋を明けて見ると大きなムカデが2匹も出てきて死んでいたのでおどろい
た。ゴキブリも何匹かいた。
Cついでにと、ねずみ取りとゴキブリ取りもあちこちに設置した。早めに退治しておけば
夏になっても慌てる必要がなくなる。念をいれるには8月にももう1回駆除した方がい
いだろう。
D帰るたびにダイニングの片付けをしなければならない。どうしても不要なものを溜め込
んでしまって、本当に必要なものが、何処にあるの分からなくなる傾向がある。冷蔵庫
の中にも古い物が結構詰まっており、破棄している。
E今回気がついた事として、失禁の回数が1日1回程度起きていること、驚いたこととし
て、腰痛を軽くしてもらう為注射をしてもらったのが、裏目にでて一段と痛みがひどくな
り、歩くのが大変な状態になっていたことです。腰痛の方は次第に緩和して来たので
良かったが安易に注射で痛みをとってもらうのは要注意であることを認識した。
F失禁に関しては、布団の日干しをした時、敷布団も濡らしていることを知りこのまま一
人で暮らすにはそろそろ限界なのかなとの不安が過ぎった。母はは失禁のことをあま
り気にしていない風なのでまあいいか。しかし、体を清潔にしなければまずいのが気が
かりである。
2005年5月28日
@先週、電話しなかったので土曜日だが様子見の電話を入れた。元気そうな声が聞け
たのでまずは一安心した。
A5月2日の帰省の時、歯が痛くて硬いものがかめないないとまた言っていたので、歯
医者へ行ったかどうか確認したら、行き始めたとのこと。かくいう私も歯槽膿漏で半年1
回のペースで歯石取りをしてもらったり、虫歯治療したりと年を重ねると歯が悪くなるこ
とが多い。
B仕掛けていたネズミ取りには獲物がかかって成果があったとのことであった。なぜか
接着式のみずみ取りにムカデもかかっていたとのこと。どうもムガデが多いがどうして
なのか不思議である。ムカデの好きなエサとネズミのエサ一致したのだろうか。
C害虫退治ののベープマットがムカデに効果がありそうな傾向があるので、ベープマット
を使うように話した。これは5月に帰省している時ベープマットを付けていたらムカデが
出てきた経験から発見したものです。
D失禁の発生状況はヘルパーさん向けノートに連絡しておいたので、気配りして欲しい
と思っている。
2006年5月1日
昨年の母の様子から1年が経過して記載が停止していたので追記します。
失禁が始まってから1年が経過したが、紙パンツを終日履くことに慣れて何とか一人で
生活できております。様子見を兼ねて今年のGWも帰省してレンタカーを借りてあちこち
回ってみることにしました。本年で84歳になり、足が弱って平地を歩くもの厳しい状況に
なりつつあることがわかりました。何とか炊事を続けるには支障はないので安心しており
ます。ただ歩ける距離は短くなり、坂道の散歩はきついので避けているようです。
5月5日中津(三光西秣)−八面山林道−下屋形−日田−大分自動車道-別府−宇佐
別府道路−宇佐−中津(三光西秣)ルートのドライブを誘ったところ一緒に行くとのことで
親子ドライブをしました。行かないと言うのかと思って軽く誘ったのですが、一緒に行けて
良かったと思います。中津駅前で、ハモ御膳を一緒に食べてから田舎に戻り母も満足な
様子でした。
2006年10月15日
10月14日福岡で学生時代の恩師を囲んだクラス会が開催された。1泊してそのまま
トンボ帰りで東京に戻るのは寂しいので、有給休暇を取って母の様子見をしました。
帰省する1カ月ほど前に連絡したところ非常に楽しみにしているとのことで喜んでおりま
した。10月15日(日)に田舎に着くようにすると伝えたはずが、16日(月)と勘違いして
ていました。
何度も電話で話すたびにカレンダーに印を付けておいてと話していたのに印は付けずこ
の状態になってしまいました。電話で話しても耳が遠くなった印象も受けています。
5月の時に比べると夏にはあまり散歩をしなかったらしく、散歩の時には押し車を押して
歩かないとふらふらして怖いとのことで、少し長い距離は一段と厳しくなったように見えま
す。中津駅前のスーパサンリブで食料など仕入れて帰りましたが食欲はあるようで、たく
さん食べてくれて一安心でした。後2年くらいは大丈夫なのかなと言う印象です。
押し車の準備 |
散歩中の母 |
2007年5月27日
7ヶ月ぶりに実家へ帰り、母に会ってきました。今回は母校大分市で同窓会の役員会に
出席した帰りに寄ったものです。見た目には85歳になってだいぶ老けてきたのかなとの印
象でしたが、元気そうなので安心しました。
今回は好きなTVの色が悪くなってきたので、新しいものを事前にベスト電器へ手配して
おき28日に届けてもらう手はずにしておきました。現時点ではこの地区は地デジ放送は始
まっていませんが、BS放送アンテナを付けて見えるチャンネルを増やして楽しんでもらう
ことにしました。テレビを見るのが唯一の楽しみであり、新聞は2年ほど前にやめてしまっ
たようです。当初はそんなに長生きする訳じゃないから、いらないとしつこく言っていました
が、3週間ほど経過してから、リモコンで好きな番組を選択できるようになったとの話があ
りました。やっと喜んでもらえたのかなと思ったものです。
2007年8月13日
夏休み中なので、盆の初日20時頃、電話を入れてみたら、元気がない感じの声が聞こ
えてきた。弟の嫁さんが娘をつれて、墓参りに来てくれたが、母自身は足がよくないので、
行かなかったとのこと。何かこちらから話す内容に対して、応答が遅い、関係ない話題に
切替てしまう。質問したことには答えてくれない、相変わらずTVの音が大きい。耳が一段と
遠くなったのかなと思う。
22時頃になって弟から電話があり、風呂から上がって電話をかけ直したところ、母の様子
がやはりおかしいという、家の中にいて、窓も締め切って暑い中でじっとしていたとのこと。
その後、下痢したとの話があったが冷蔵庫の古い食べ物か何かに当たったのではと思
い、掛かりつけの大堀クリニックへ連れて行って点滴を打ってもらうか、短期間の入院も
頼んだほうがいいかも知れないとの話で合意した。ついでに頭のMRI写真のチェックも受
けた方がいいなと話したことでした。
14日になって8時ごろ実家に電話を入れて下痢の話をしたら、ディケアに行った時の弁
当を残したので、持ち帰って食べたとのこと。それが下痢の原因だという。しかし、8/8また
は8/10頃のディケアに行って出された弁当の持ち帰りをOKしたとしたら、問題ではないか
と一瞬思った。これは信用してよい話かどうか怪しい。
大堀クリニックの電話番号を聞いて、こちらから診療日を確認したところ本日は休みとのこ
と。今日がダメなら明日でも病院へ行くように話して電話を切った。
10時ごろになって実家に寄った弟から電話があり、以前より元気になっているようだ、
大堀クリニックへ電話したら、休みとの話もあった。食料も仕入れてきたとのことで一安心
した。直ぐに病院へ連れて行く程ではないようだとのことで、一安心した。ディケアもヘル
パーサービスも盆休みで、今週はひとりきりの日が結構続いている可能性が高い。独り暮
らしの老人がいる場合、このような休みが一番困る。今晩も電話をかけて様子を聞くことに
しょう。
20頃電話で話したが、弟が仕入れた寿司を食べたと言っていたが、下痢で苦しんだのに、
生ものでも大丈夫なのか一瞬気になったが、いろいろ話したところで素直に聞いてくれる訳
でもない。秋になったら様子見に帰省することにしょう。秋頃には地デジ放送も始まる予定だ。
2007年10月6日〜10日
今年2回目の帰省をして、母の様子を見てきました。8月に下痢で大変だったとの話を聞い
ていたので心配になっておりましたが、元気そうだったので一安心しました。以前は膝が痛く
て歩きにくいと言ってましたがそれは治ったようで、、最近では腰痛で困っているとのことでし
たので、コンドロイチンの錠剤をお土産に買っていきました。しかし、最近は散歩もあまりやら
なくなったと白状していました。
部屋の換気をあまりしておらず、異様な匂いが充満している感じを受けてしまい、慌てて窓
を開ける状態でした。私の耳が痛いと思うほどテレビのボリュームを一段と上げないと聞こえ
ないと言います。一段と耳も聞こえなくなりつつあると感じました。
左手は問題無いが右手で、グーとパーを繰り返すと全体の指が真っ直ぐまで開かないことも
分かりました。特に薬指が90度までしか開かない状態になっていました。金色温泉の風呂に
行こうと誘いましたが、湯船に入る時が怖いというので中止して、家の風呂でタライで我慢して
もらうことにしました。
年齢としても女性の平均寿命と同じとなり、来年1月で86歳です。我が家の長寿記録であ
る祖父の年齢と同じになります。そろそろ独り暮らしの限界に近づいたなと思います。現在の
介護スケジュールは月、水、金にデイサービスに行き、火、土に1.5時間のヘルパーサービス
を受けているが、木と日はヘルパーサービスを受けていません。最低時間は0.5時間からの
サービスも可能とのことなので、やりくりすれば、木と日にもサービスを受けることは可能と思
われます
問題は本人がヘルパーサービスを受けるのが嫌だと言っている点だけです。本人はまだ、
自分である程度の食事の準備が出来ると思っているようですが、私からみると休みが無い
方がいろいろと安心なのですが。インスタントラーメンなら作れるというので、少し買い置きを
して戻りました。
ケアマネージャさんへ電話で連絡したところ、20日単位で医者通いをしていますが、その時
保険証を忘れて行ったこともある、ヘルパーさんが来た時寝ていた時もあったとの話を聞きま
した。年末、年始はデイサービスが休みと聞いたので、ショートスティをお願いしておきました。
2007年12月18日
12月18日には16日に宅配便で送ったカレンダーと冬物の着る物とネッツトヨタからたくさんも
らっていたタオルをダンボール箱に詰めて送ったものが届いたとの電話があった。その時の話
では29日から1月3日まで予定していたさつき園へのショートスティへのお試しスティが14,15
日あって非常にいいところだったと喜んでいた。実家の戻って油断したらしく、風邪を引いて
声が掠れておりパプロンを飲むように話したばかりでした。
2007年12月20日
12月22日様子確認のため母へ電話をしようと思っていたところの、20時過ぎに弟から電
話があった。「たいへんなことが起きてしまった」と言う。20日に母が居間で倒れ、電気コタツのテ
ーブルで頭を打ち入院したと言う。母より弟の携帯へ電話があり、弟の奥さんが医者へつれて行
き検査の結果では脳の障害の現象は無かったが、脳がかり萎縮している、血留がありいつ
破裂しするか分からない状態ということで20,21日は緊急入院となった。一人部屋だったので、弟
と弟の奥さん二人で夜、付き添ったとのことで、22日になって退院し、弟の実家にいるとの連絡で
あった。
遂にいつか起こるであろと思っていたことが起きたか、可能性としては予想できていたが、実際
に起きてしまうとどうすればいいのか、何をすべきかということか直ぐに答えられない状況という
ことが自分でも分かったてきた。
母は話をすることはできるが、しかし、ふとんから独りで起き上がりトイレに行くのが難しい状況
という。直接脳に異常が出てはいなかったが、2日間の入院が運動機能に影響したようで、「もう
独りで炊事をすることは無理だろう。」と弟が言う。15センチくらいの段差でも上がれない状況とい
う。
29日から予定していたショートスティを前倒しにしてもらい24日からにしてもらうこできたとのこと
はラッキーだったが、今後のことを早急に考えなければならない。
私の現在の知識で考えられることは下記である。
1.ショートスティ中に介護保険の臨時ランク見直しを依頼いすること
2.介護のランクがあがれば、特別養護老人ホームへの入居順位があがる。
3.特別養護老人ホームへ入るまでの期間に繋ぎとして入居できるところがあるか。
4.最後には弟の実家で特別養護老人ホームの順番待ちをするしかない。
5.私自身も正月明け1月4日ごろから帰省しょうと決心した(月末は忙しいので) 。
6.私自身もケアマネの方に電話で話してどのような対応があるか相談したみたいと思う。
2007年12月26日
26日になって会社からケアマネージャへ電話したところ、本日母のショートスティ先を訪問して
様子を見てくれたとの話を聞いて安心した。長谷川式認知症判定基準の結果30点満点のの11点
という、これは思っていたより、よくない結果とのこと、中からやや高度の認知症と言われる範囲
であった。http://www.bm8.ne.jp/boke/hasegawa.htmを参照。
2月に向けて介護度の見直し時期になっているので、臨時に依頼する必要はないのではという
回答を聞いて、一安心。最近は介護ランクの判定が厳しい方向になっているが、今の母の状況で
介護2の判定にはなるだろうが、介護3までは行かないでしょうとのとこであった。
しかし、特別養護老人ホームの入居は介護度の高い人が優先されるので、直ぐというのは無理
でしょうとのこと。繋ぎとしてはショートスティを使いなから、月に2-3日自宅へ戻るということを繰り
返すことになるでしょうとのことでした。
2007年12月29日
29日母のショートスティ先みさき園へ電話して、状況を確認することができた。介護1では介護
保険で泊まれる分は月23日が限度ということを教えてもらった。そうすると残り7日間は介護保険
は使えず100%の自己負担となる。利用期間を調整して、ヘルパーさんにも来て貰えるようなこと
を考える必要があるとのこと。介護2となるともう少し、利用限度が上がるだろう。しかし、100%
にはならないと思われる。
母にも電話に出てもらい1月4日から8日まで帰省することを告げたら、喜んでくれた。「独り暮
らしはできそうか。」との質問には無理だと言う。今まで頑張って夫が亡くなって10年間独り暮ら
しをやってきたが限界のようだ。私も10月の時点でそろそろ限界だろうと内心感じていたところ
だった。「帰省している間自宅へ戻るか。」との質問にも一泊が限度という。やっぱり、倒れたこ
とが、かなりショックになっており、田舎の段差の多い家ではやはり無理と言う気持ちになってい
るのがわった。兎に角帰るので、一泊だけどの日かで帰るか、弟と相談して日にちは決定しょ
うと思う
特別養護老人ホームが難しいとなると、残りの選択はグループホームということになるが、空き
があるか確認が必要だ。善は急げで「いずみの園」へグループホームの状況を確認してみた。担
当の方より聞いたところ、中津市内のグループホームもすぐに入所できるところは無い状態であ
る、特別擁護老人ホームの方はもっと入所が難しいとのことでした。直ぐにでも順番待ちに入所
手続きをした方がよいとの貴重な回答を得た。
1月4日帰省したら、あちこちのグループホームや特別擁護老人ホームへ予約の手続きをして回
ることに成りそうだ。
2008年1月4日〜8日(田舎での行動)
安売り航空券があるのかと思って、旅行会社で確認したら、この時期には無いとのことで、新幹
線の「みぞみ」で往復することにした。いつものように中津駅前のマツダレンタカーにも予約を取っ
てもらった。
中津駅に4日15:20に着きレンタカーの手続きをして直ぐに弟とまち合わせて、三光成恒のまずケ
アマネージャさんへ会いに行った。自宅で独り暮らしに戻るにはまだ寒く厳しいので、3月または4月
から戻るの方向の希望と告げた。費用としても100%の個人負担が発生してもかまわないという条
件を明確を伝えた。
結論として、1月、2月はみさき園にて介護保険と100%の自己負担で繋ぎながら、お世話になる
ことを決定。みさき園の都合で自宅へもどる必要がある場合は、弟が夜自宅に泊り込むことにして
しのぐことになった。
ここで母の介護の認定期間が2月末までとなっており、みさき園を最大限に利用するショートと
ロングスティの組み合わせが運よく使えるというチャンスもあるとのこと。1月中にランク見直し面
接予定があり、1月18日に面接日も決定してもらった。帰省中に大堀脳神経クリニックへ行って
書類作成を依頼することにした。
17:00を少し過ぎてから、みさき園へ向った。着いた時ちょうど夕食の前の時間となっており、みん
なで食堂へ集まっているところだった。部屋で食事を取れるように運んでくれることになり、部屋で
話をすることができた。今までは私が帰省しても涙を見せたことは無かったが、今回は感きわまった
のか声が直ぐに出ないほどに喜んで、涙を出してしまった。倒れた時にできた額のコブはまだ大きく
てこのままで良いのかと心配になるくらいであった。
着替えなどの必要な物は一応そろっていることを確認したが、自宅ではよく見ていたテレビは殆ど
見ていないと言う。どうも小さいイヤホンを耳に付けて音声を聞くことに慣れていないのが原因らし
い。ヘッドホンタイプの安いものがないか電気製品量販店山田電気で探すことにした。18時過ぎに
みさき園を出て、弟の家へ向う。
2008年1月5日
翌日弟と一緒に犬の散歩に行こうと玄関を出た時、レンタカーがパンクしているのを発見。昨日みさ
き園を出る時、後輪が縁石に当たることがあったが、まさかパンクするとは思わなかった。レンタカー
会社へ電話したが、タイヤ交換は自分でしてほしいとのことで、慌ててスペアタイヤと交換。久しぶり
の交換でスムースに工具の取り出しができず、小指にかすり傷をつくりながら交換を終わった。
まさかとおもったが、タイヤ交換で休業補償が発生するとのことで、2万の追加費用が発生するとの話
を聞いてがっかり、車は別のものにか交換してもらったが、レンタカー費用が2倍になる計算となり、
ショックを受けた。弟は本日出勤予定だったが、相手の手違いで日付のミスの連絡が入り、急遽休み
となり、田舎の実家へスロープを付ける作業をすることになった。
12月20日以降空き家になった実家の様子を気にしながらレンタカーで急いだ。弟の奥さんが掃除
をしてくれていたようで、洗濯物が部屋にたくさん干してあった。ちょうどよいので、弟と相談して、
今日13〜17時の間で、母を外出で、実家へ連れて来ることに決定した。私は、望箭荘やまぐに、
やすらぎ荘、さつき苑、悠久の里と特別擁護老人ホームやグループホームの入所申込み用紙をもら
うべく車で出かけた。実家から、山国町は40km近くあり、思った以上に遠いが逆に穴場だろうと
思いながら、利用料金などの説明など受けながら昼休みにも関わらず用紙をもらうことができた。
三光のさつき苑では生活相談員の方が熱心に話しを聞いてくれて、この場で申込書を記入して
下さいという。老人保健施設としてのさつき苑へ入所を最短の期間でできるように手配してくれると
言う。藁をもすがる思いだったので非常に嬉しかった。1月8日には面接をして、入所の可否判断ま
でしてもらえることになった。13時を過ぎており、弟が母を田舎へ連れ帰っていることを確認して、
三光まジャスコへより買い物をして一旦実家へ戻り母の様子をみることにした。
久しぶりに実家へ戻った母はここで生活できそうだと言っていたが、それは子供としては簡単に
OKするわけには行かないが少し、元気が戻ってきたのだろうと思った。弟が手作りしたスロープを
歩いて見てもらい出来具合を確認した。居間から、台所に降りるスロープは3メートル近くあり、手
すりも取り付けた力作である。もし、独り暮らしへ戻ることになれば、現在使用している部屋は狭い
ので、隣のベッドのある部屋へ必要なもの一式を移動して、台所へ降りなくても半日は過ごせる
環境にすべきと思った。弟が母をさつき苑へ連れて行き、私は、残りの施設、いずみの園、悠久の
里、そのすぐ隣三光園を廻り、創生園へ着いた時は17:30を過ぎて受付窓口が閉まっていた。
今夜は田舎で、独り泊まりだ三光のジャスコに寄って酒とさかなと夕食の弁当を買って戻った。
寒いので、石油ストーブを付けて暖房しょうと出してきたら、石油がないことが判明、弟は12/20
時点まで、ストーブや灯油の準備をしていなかったのはなぜだと思ってしまった。寝る時も寒いだ
ろうと思い、電気あんかを見つけて一安心した。明日の予定は母に面会し、残りの施設創生園、
なのみ(川嶌病院)、村上記念病院を廻り、入所申込み用紙を入手することだ。そして、独り暮らし
には必要な電動湯沸しポットと石油を買うことにして眠りについた。
2008年1月6日
午前中から、入所施設を廻ったが、日曜日ということで、受付窓口が閉まっていることが判明し、
創生園、なのみを廻って、昼食をユメタウンで取ることにした。そう言えば、親戚への挨拶と昨年
亡くなった母の妹のおばさん宅にもお線香を上げに行かなくてはといろいろと思い出すものがある。
灯油と電動湯沸しポットを購入し、母に面会に行った。
帰りに母の生家の親戚いとこの家に久ぶりに寄り、状況を報告した。母が倒れてみさき園でショー
トスティしていることを伝で聞いていたとこであった。10年以内に工事が完了すると噂されている東
九州自動車道と中津日田間の自動車道路のインターチェンジがいとこの近所にできる予定だが
、最近ルート変更がっあたとのこと。
2008年1月7日
昨夜提出書類をみていたところ、弟の印鑑などが必要と判明したので、倉迫の先の新10号線の
車線拡張工事現場で待ち合わせ、印鑑を受取って母を迎えに向った。
かかりつけの大堀脳神経クリニックから通常薬としてもらっている血圧降下薬、精神安定剤などの
薬がなくなる時期である、介護ランク見直しに伴う書類作成依頼の理由で母を車に乗せてでかけ
た。外を歩いているのを見て、やはり体の安定性がかなり落ちていること、特に床に座り込んだら何
かに捕まらないと立ち上がれないことは明白であると思った。段差の克服が大問題と思った。
診察の結果では血圧が170mhと普段より高めであること、心臓が弱っているようだとのことで、
心電図記録やレントゲン撮影も実施、血圧降下剤の変更と心臓の薬も追加することに決定。こぶ
については腫れがひかなければ、手術することも必要、その時は4〜5日の通院が必要とのこと。
便秘薬は自宅を整理していたら、かためて置いてある場所が分かり必要以上にたくさん残っており、
不要であると告げた。先生も以前より調子がよくないと思ったようであった。栄養剤の点滴を受け
たら見違えるように元気になり、10段程度の階段をてすりに伝って上り下りが2回ほどできるように
なった。
約束の11:30にはみさき園に母を届けて、山田電気で携帯電話の補助電源を購入して、田舎に
戻り、入所手続き用に書類を作成開始した。完了後直ぐに山国町から旧中津市へ戻るルートで書類
を受付に提出して廻った。いずみの園では1年半前に提出したはずの特別擁護老人ホームの提出
記録が無いというので、グループホームの申込みと合わせて、もういちど提出した。
なのみへの申込書を入手すべく川嶌病院へ向い、戻りに今度こそと創生園へ向ったがましたも
受付窓口が17:30を過ぎており閉じていた。どうしても創生園とはめぐり合わせがうまくない。
相性がうまくないので、創生園はあきらめる心境になってしまった。老健施設(3ヶ月入所)の本命は
「さつき苑」にしているので、そんなに悔しい思いは無し。本命の特別養護老人ホームの分はすべて
申し込んだことになる。望箭荘森山には弟が提出済みであるが再確認が必要と思われる。
いずれにしても、特別擁護老人ホームは介護3以上でないと入れないのが現在の状況とどこでも
聞かされた。施設への入所順は老人保健施設(3ヶ月)→グループホーム→特別養護老人ホームの
順で待つしかないということが判明した。老人保健施設の1つ前に今回母が利用している「ショート
スティ」の施設があることを、追記しておきます。
2008年1月8日
4日間で、レンタカーの走行距離は300km程度となり、やるだけはやったという思いである。
家内の実家に寄って儀姉に会って今回の報告をして中津駅10:01のソニックで小倉に向った。
その後1月10日さつき苑への入所判定の結果が出ることを待っていたが確認結果では今回は
見送りとなったとの結果を聞いた。今後の予定としは3月からの介護ランク見直し結果が判明した
時点で再度検討してくれることになった。今の気持ちとしては4月から、自宅で独り暮らしが可能で
あれば、それでよしと思っています。ケアマネージヤさんの判断では現在の介護1から、介護2へ
の見直しの可能性があるとの意見であり、私としても今のままで介護1ということはないだろうと
思っているところです。
もし、4月以降自宅に戻り、独り暮らしを始めて何かおきれば、「それも運命のと言うことかも知れ
ない。」と言うのが現在の日本の介護問題を示しているのだろうと思う。5月にはまた帰省して母の
様子を見ることにしよう。
2008年2月2日
老人保健施設さつき苑への入所可否の結果は1月10日に東京より電話で確認したが、判定は見送り
という結果であった。3月からの新しい介護認定結果によってもう一度検討してくれることになったが、
介護1のままではさつき苑への入所は恐らく難しいのであろう。別な考え方をすれば、「介護認定結果が
変わらない。」ということは私たちが思っていた程体力の低下は無い、独り暮らしに耐えられるという判定
ということになるという解釈ができる。
3月一杯は現在ショートスティを続けているみさき園で「再度延長し100%負担もプラスして4月から自
宅での独り暮らしに戻る。」ことでもいいのかなと考え初めているところです。暖かくなれば体も動き易く
なるでしょうし、寒さに対する心配も少なくなります。
100%の負担部分の金額も月額5万円程度の負担で済むことであり、母がある程度の貯えを残してあっ
たので、経済的負担増になるがそんなに長期になる訳でもないので、よしとすべきだろうと思っていると
ころです。
3月からの新しい介護認定結果は2月中旬には発表されるものと思っています。2日にみさと園へ電話
したところ外出して、自宅へ戻っているとのことで弟が久しぶりに自宅へ連れて来たとのことであった。
母と電話で話したところ電動式の湯沸しポットが置いてあったことを喜んでいた。4月から自宅での独り
暮らしになる予定を話したが、納得してくれたので安心した。ひたいのコブのほうは張れが引いて手術の
必要も無くなったとのことであり当面の心配は一段落したことになります。
2008年2月23日
3月からの新しい介護認定結果がそろそろ届いているのではないかと思って、みさき園でショートスティ
中の母へ電話しました。声の感じでは元気そうで安心、新しい介護の認定結果はどうかと聞いたところ、
介護2へ認定された介護認定証が中津市役所から最近届いたとのことであった。期待通りの認定結果と
なりほっとしたところです。最近は認定基準が厳しくなった印象を受けていたので、介護1のままもあり得
るということも頭の片隅にあました。
介護度の資料みると介護1と2の差は分かりにくいところがあります。支給限度額においても2.9万の差
しかありません。介護2と介護3の差額は7.2万の差がありますが、これは一部介助と全介助の差の大き
さによるものと思われます。介護1と介護2の違いは排泄と入浴における介助の量が異なることが明らか
ですが、その他の差はよくわかりませんが、痴呆の進行度合いも介護2のほうが多いと思われるます。
私個人の意見としては独り暮らしができる程度の違いで判断して欲しいと考えていました。そこでもう少
し詳細に独り暮らしの程度を定義して、介護1と2の違いを示すと次のように考えます。
最低2日に1回は人に会うチャンスがあれば、最悪の事態まで行かずに独り暮らしが可能。1日に1回人
に会うチャンスがあれば運悪く事態急変が発生しても、24H以内に病院へ行ける暮らしが可能。この
違いをもう少し補足すると前者は何か起きてもなんとか自分で電話をかけることができる度合いが高い。
後者は電話をかけることができる度合いが低いが、24H以内に発見してもらえるを想定しています。
介護1の母は上記の前者の状態で、足がもつれて転倒して、運悪く額を打ったが、電話で息子に知らせ
ることができました。つまづいて転倒することが最近多くなっていたという経緯もありました。転倒による
骨折で入院したら、骨折が直って退院しても筋力低下により、もはや独り暮らしが不可能となるパターン
をよく耳にします。転倒の頻度が多いほど介護2へ近いが、常に車椅子を使うほどでもないと想定できる
と思います。
2008年3月5日
2月26日夜弟より電話があり、予約申込みをしていた老人保健施設のさつき苑と特別擁護老人ホーム
望箭荘やまぐにの2個所より入所可能の連絡が届いたとの電話があった。さつき苑は申込み時点より
距離的に近い関係にあり、要介護2の認定を受けたことが決めてとのことであった。望箭荘やまぐにの方
は予想外の結果であり、申込みに行った私としは要介護3以上の方が優先的に入所していると聞いてい
たので要介護1のままでは無理と考えていたが結果としては要介護2の認定を受けての入所となりまし
た。
いろいろな経緯を経て最終的にさつき苑はお断りして、望箭荘やまぐにへの入所を3月17日と決定し
たが今度は一旦了解していた母が入所したくないと言い出して困ったことが発生しました。望箭荘は2個
所あって実家に近い方の施設を考えていた。特別擁護老人ホームとは他の人から聞いた話しとして、設
備も建物も古い施設で、入所したら自宅へ帰れなくなるなど、印象のよくない話を聞いた結果、急に自宅
で今まで通りの生活ができるから、まだ入所したくないと言い出した様子でした。
現地見学がすぐに出来ればいいのですが、弟の都合で現地見学の可能性が厳しく、直接入所すること
になりそうな状態になっています。せめて実家で15日、16日と2泊ぐらいしてから入所するということにし
ています。本日、担当のケアマネージャさんにも電話でお願いして、母に会って特別擁護老人ホームの説
明をしてもらうことにしました。電話だけで、不安を解消するのは難しいのでと事情を説明し、こころよく引
き受けてもらえて安心しました。
ケアマネージャさんとの話が終わってから、母へ電話して「特別擁護老人ホームの説明をケアマネージ
ャさんが尋ねてきて説明してくれるからね。」と話したところよく聞いてみるということで納得してくれ、ほっ
としたところです。聞くところによるとこのように入所を急に嫌がるケースが時々起きている話を別人から
も聞いて、私もそれが普通かも知れないと納得したところです。「親の心子知らず」という言葉があります
が、逆に「子の心親知らず」場合も起きる時期に来たと思いました。
2008年3月20日
3月17日望箭荘やまぐにへ入所して3泊が終わったところです。入所直前になって再び入所が嫌だと
幼稚園生のようなことを言い始めて、弟より説得しても全く聞く耳を持たない状態だと15日の夜電話が
かかってきました。私が午前中に外泊しため実家にいると聞いていたので電話で話した時にはそんな
様子はなくて、誰もいないのが少し心配だけど外に出て散歩でもしたらと話したところ、ショートスティ先
で、あまり散歩しなかったので足が弱ってしまったと本人の口からそのような話がありました。その後夕方
には念のため確認の電話をしたところ、押し車を使って家の近所を歩いた、特に転倒もなかったとの話で
安心していたところでした。
弟に母と代わってもらおうとしたが、電話に出たくないと言う。これは今話してもらちがあかないなと思っ
てあきらめました。明日の夜にでもまた電話しようと思い直したところです。知らない所に行くということ
で、なんとなく緊張して、そのようなことになっているのだろうと予想はできるが。入所場所の部屋など確
認したところ、洋室で8畳程度の個室とのことで、相部屋の可能性も予想していたが、良かったなと安心し
ました。いろいろと必要なものTVや茶碗など個人の荷物をある程度持ち込んでもいいことになっているこ
が直前になって判ったらしい。必要なものは徐々に揃えればいいと思う。
16日の夜、気が重いが何とか入所を納得してもらうにはどうすればいいか考えながら、最悪「どうしても
気入らないなら、途中で退所してもいいんだよ。」とだましてでも一旦入ってもらうつもりで電話をかけまし
た。弟が電話に出て、再度納得してくれたと言う。どうやら、当日2軒の親戚まわりをして入所の話題が出
たこで本人も納得したとのことでした。重い気持ちが消えてほっとしました。
20日午前望箭荘やまぐにへ電話を入れて様子見をしました。電話で話した感じでは不満な話もなくて、
皆さん親切にしてくれるとのことで一安心したところです。19日弟へ入所日の経緯を確認した時、自分より
症状の重い人が多いことを少し気にしていたとの話でした。要介護3以上の方が優先的に入所している
で当然のことですが、自分より症状の悪い方もいるという現実を知ることは逆によいことと考えます。
昨年12月の転倒事故以来、気になっていたことが一段落して私自身もやっとやれるだけのことを頑張
ってしたことが実を結び、大きな心配ごとが解決しました。GWには田舎へ帰省して、母を実家に外泊させ
てあげようと考えているところです。
2008年5月6日〜9日
掲載が遅くなりましたが、5月5日〜9日の期間車による大分県往復片道1200KMで帰省しました。600
KM/日の工程でした。戻ってから、頚椎と肩のこりで悩んでおります。関西地区で一泊しながらの工程で
したが、高速道路代金に深夜割引を使うことにしたので、少し無理をしたところもあります。
5月6日
6日の17:30頃望箭荘やまぐにへ到着したところ、まだ夕食を食べている最中でした。元気そうで一安心
した。部屋は8畳程度の広さで洗面所も部屋の中に設置されており、持ち込んだTVもチャンネル数は
4つと少ないですが、比較的きれいに写ります。ベッドと整理ダンスとありますが、まだ十分余裕がある部
屋で広さは全く問題ないと思いました。個室の扉を開けた出たところが食堂になっており、便利のよいとこ
ろに位置していました。トイレは食堂を通り抜けた廊下にあり、段差も無いので問題ないと思った。
部屋ではTVを見ることが唯一の楽しみのようなので、衛星放送が受信できるのか事務所に確認したと
ころ可能とのことで古いTVだったのでBS受信機能の有無を確認したら、チューナーは内蔵されているこ
とが判明し、BSへアンテナ線を接続したら、写ることが確認できた。アンテナ線をU/VとBS端子へ分岐
して接続する必要があったので、分岐ケーブルを電気店で購入することにした。
三光のイーオンで自分用の夕食などの買い物をして実家に着いたのは19:15ころになっていた。
5月7日
7日午前中当日の夜と翌日分の買い物に独りででかけました。母はひざが痛いらしく留守番でいいと言
う。三光イーオンの隣の山田電気で上記のアンテナ分岐ケーブルを一番に購入後、イーオンで食料品関
係を購入して戻った。よくよく見れば弟が電話で話していたように、庭にあった芝生はイノシシによって激
しく掘り返されているのを見ておとでろいた。いつぞやTVでイノシシが人を襲ったニュースがありましたが
、全く人家までにイノシシが出ている現状に驚かされました。
家の中で変わったところはないかとチェックをしたところ、台所の換気扇の上あたりの天井の部材が剥
がれ落ちているのが発見されました。家の外環をみても、古くなって修理した方がよいところもあることが
判明した。これから住む予定もないので、修理する必要はないが、実家に寄るたびにこの家も家主のい
ない家になってしまったのだと実感した。夕食には定番の鯛のあらによる吸い物を作りました。また
、19:00頃には弟も来て泊まって、ゆっくり話しをし、翌日にはここから仕事へ出かけて行きました。
昨年春に母へ購入して上げた地デジ対応のTVがあるが、大分県は対応が遅れているが、今年の3月
22日より中津市地区が地デジ対応になったので、マニュアルを見ながら、自動設定のモードで設定した
ら、簡単に写るようになりました。意外と簡単に設定できるようになっているのでした。但し、アンテナ線の
接続変更が必要でした。今のTVはアナログの端子と地デジの端子とBSの端子の3つの端子が着いてい
るので、アナログの端子のコネクタを地デジの端子へ接続変更するだけでOKでした。
母の様子としては、水分を取っている割りにはトイレに行く回数が少なく、紙パンツや尿漏れパッドがか
なり濡れてから行っているのではないかと思われる。取替えは自分でなんとかできているようですが。午
後早い時間風呂を涌かして入った後、母にも勧めたが入らないと言う。実家の風呂に独りで入らなくなっ
たてから、何年かたつので、怖いのかも知れない。私も、デイサービスに行った時に必ず入浴してもらい
実家では入らないように言ってから2〜3年以上経つと思う。
昨日望箭荘やまぐの駐車場で、入居している父を田舎の実家に連れてかえり、外泊する予定という東
京から月に1回程度帰省している杉並区在住の女性の方に会いました。その父上は車椅子生活のようで
した。車椅子生活になった親を田舎の実家へ連れて行き外泊するのは大変なことと思いました。私には
そこまではできないだろうと思った。
5月8日
母から依頼を受けて3月に実家を離れて特別養護老人ホームへ入居したことを正式連絡する意味で
近所へタオルを持って私が代理で挨拶まわりをして来ました。皆さん薄々は知っていたようですが、最近
電気が付かないことを気にしたいた様子でした。近所にも90歳を超えて長生きをする方か増えたように
思うが、と話したら、空気がいいのと、のんびりできるのがいいのではとのことでした。私の子供時代には
90歳を超えて長生きした人の話は聞いたことがありません。
押し車を使って散歩をしてはどうかと誘ったら、やってみることになり、足はまだ、何とか大丈夫なことが
分かって一安心した。この押し車を望箭荘やまぐへ持っていくべく、予想以上の汚れを落として、きれいに
した。母は杖より押し車の方が安心して使えるようです。
午後にはイーオンへ買い物へ行き、定番の母の好きなうなぎごはんを作ることにしました。ごはんを炊く
べく準備をしている時、午前中に近所へ挨拶まわり伺った何人かの方やその友人の方々が大勢で母を
訪ねてきてくれました。あまりに大勢の方々がお菓子をたくさん差し入れしてくれました。年寄りになるとみ
んなお菓子が好きになるのだということが良くわかったような気がした。母をそれを喜んで老人ホームへ
持って帰りることにした。
ひっそりとした実家に大勢の人が訪ねてくれて、久しぶりに会う方いて母も喜んでいるようでした。変な
言い方になるかも知れないが、生きている時に会うのが一番いいのだ。葬式の時にいくら大勢集まってく
れても、それは、本人には分からないことなのだから。まあ正直な話、皆さんももう実家で独り暮らしに戻
る可能性がなくなったので、お別れも兼ねていたと思うが、それでも嬉しい。40KM離れたところに行くとい
うことはお年寄りから考えればきっとそういうことになると思う。
私個人の考えとしても、母が車椅子生活になった時は外泊で、実家に連れて帰って世話をしてあげるこ
とはきっと無理だろうと思っています。本日の突然の来訪者の方々にはなんのお持て成しもできなかった
が、母にとっても一番の思い出になるものと思う。夕方には弟がまた来てくれて、本日の出来事を話なが
ら、ビールを飲んだ。
5月9日
今日も弟が7時頃には仕事に行くことにしていた。母は5:30から起きてトイレに行くだかと思っていたら、
何か台所で弟向けの弁当作りやお茶の準備をしているようだった。突然大きな音がして、母がつまずい
て倒れる音がして、びっくりして飛び起きた。きゅうすを持ってスロープを登ったところで、足がもつれて
倒れたようだった。けがが無くてほっとしたところでした。逆に母にとっても実家の家が危険な場所である
ことを再認識してくれたのではないかと思った。朝食は台所にあるテーブルを使うようにしょうと言ってあ
ったのに守ってくれない。
昨夜電話してあった母の生まれた実家の坪根家のおばさんに久しぶりに会った、母は足が痛いので、
車で待っていることにしたら、おばさんが車のところまで出てきてくれた。おばさんが1才下とのことですが
、おばさんのほうがずっと元気にみえた。おばさんは昨年より定年になった長男夫婦が同じ敷地に家を建
てて住んでくれているので心強いと思う。
11時前には望箭荘やまぐに到着し、押し車を建物内で使う件の了解をもらった。TVのアンテナ線を交
換してBS放送が写ることを確認した。母は今まで個室であるにも関わらずヘッドホンを使用していたので
、事務所へ確認したところ、ヘッドホンでなければ、いけないことにはしていなとのことだったので、ヘッド
ホンはやめることにした。食堂においてあるTVの音が気になるくらい大きな音にしてあった。年を重ねる
と耳が遠くなる人が多いことをここでも再確認した。12時前には東京へ戻るべくおいとました。下記は母
の実家と望箭荘やまぐのでの様子です。
実家での様子 |
老人ホームで |
2008年7月10日
3月に入所して約4ヶ月が経過しました。久しぶりに電話したが、元気そうな声で安心しました。5月に実
家で外泊した以外に、実家へ日帰りしたことがあるか聞いたが無いと言う。最近実家へそれほど戻って、
みたいと思っていないらしい、少し慣れてきた証拠かも知れないが。毎日3食を作ってもらえること、朝早
く起きて週3回のディサービスこなしていたこと、週2回のヘルパーサービスの為緊張していたことを考え
る必要も無くなったことは一種の定年退職をしたようなもので、のんびりできるのがが嬉しいように話して
いた。実家にいると最低限何かしら食事のことを考えて何か作るなりする必要があったが無くなったので
楽になったのは事実だと思う。
当家の母からみた孫も6月21日無事に結婚式が終了したことを伝えたら喜んでくれた。相手は韓国女
性ですが、職場で知り合った仲であり、両家にとっても子供の結婚は初めてであり、私としても肩の荷が
下りた感じがしております。私自身も還暦を迎える年に、親と子供に対する一応の責任を果たしたのかな
と思っているところです。
しかし、あんまりのんびりし過ぎて、考えることも心配事も無い状態で過ごしていると痴呆症が進むので
はないかという懸念も生まれてきます。定期的に電話して様子伺いをしたり、実家への日帰り外出などで
、気分転換をはかってあげる必要もありそうです。下の世話が自分できなくなると日帰り外出もきっと難し
いことになると思う。実家には扇風機しかないので、夏の外出は無理になる可能性もあるが。
2009年1月25日
1月25日老人ホームへ電話して様子伺いをしたところ、あまり元気がない様子であった。ホーム事務所の方の話によると、1週間ほど前に実家へ日帰り外泊したが、その時前後から下痢が続いていたが、今は回復しているが少し熱があるとのことであった。5月の連休には九州へ帰省して、また実家で外泊する予定だから、楽しみにしておいてと言う言葉に、「楽しみにまっちょくからね」を最後に電話を切った。
2009年1月26日
これは27日になって、後で聞いた話です。「頭が痛い」と言うので、ホームの担当の方が以前かかったことのある中津脳神経外科へ連れて行ってくれて、頭のCTを撮って脳出血を起こした形跡がいくつか見られたが、「注意して下さい。」といことだけで、ホームへ戻ったとのことであった。
2009年1月27日
食堂へ朝食の時に出て来ないので、担当の方が部屋へ入り、昏睡状態であることを発見した。急遽ホームの担当の方が当ホームの関係病院である中津駅に近いところにある梶原病院へ急送したとのことです。本件は会社の職場へ家内から私へ電話があって知りました。26日の通院の件はこれ以降に聞いた話でした。携帯電話から弟へ電話したところ仕事から戻る途中の車の中であった。
弟は母が入院したことをこの時まだ知らなかった。実はホームから、弟の奥さんへ連絡が入り、奥さんが弟へ連絡したが応答がなかったので、私の実家へ電話したのがルートであったことが後で判明した。この連絡があった時は病院への搬送途中でありまだ病院へ到着してなかった。弟は途中から梶原病院へ向うことになった。入院後の様子では危篤状態に近いと言う。しかし、どうすることもできないので、医者へすべてお任せするしかない。
2009年1月28日
29日に帰省することに決定し、28日中に月末集中の仕事を片付けて、29日から介護休暇をもらって2月4日まで帰省することにした。とりあえず、田舎の実家で過ごすとしても、車が必要なので、マツダレンタカーも併せて予約を取った。
これらの予約はうまいことに私の職場のビルへグループ会社のツーリスト会社があるのでうまく利用させてもらっている。新幹線の切符は15:00くらいに中津へ到着できるものにした。
2009年1月29日
予定通り15:00に中津駅に到着し、マツダレンタカーを借りて、梶原病院へ直接向う予定だったが弟へ電話したら、弟の実家へ寄ってから病院へ行くことになった。ここでくも膜下出血であったことが分かった。脳梗塞とばかり思っていたが間違っていたことが判明。まあ、どちらでも今や関係なし。高度な延命治療はしなくてよいと言う署名文書を提出する必要があったのである。
病院での状態は大きな声で「東京から見舞いに帰って来たよ。」呼びかけると少し口を動かす程度で、看護師さんは聞こえているのでしょうと言ってくれた。一種の反応であることには間違いない。その他の部位は全く動かすことは出来ない状態であった。手を握っても握り返す反応は無かった。体温が高くて濡れタオルで冷やしている状態だった。血圧がかなり変動ししており、落ち着いた状態とは言えないとのことであった。
主治医の先生にもお会いして話しを聞いたが、現在の状態ではいつ亡くなってもおかしい状態ではないと言う。
弟と葬儀となった場合の話しもして、JA中津の葬祭センターでどうかまで決めた。弟は仕事があるので、病院の外で別れ、私は田舎の実家へ戻る途中に買い物をして帰った。
2009年1月30日〜2月4日
JA葬祭センターへ電話して、見積を依頼した。都合の良い時説明と葬儀場確認も兼ねて伺うことにした。1日1回の病院見舞いを続けた。口をを動かす以外の反応として、両目を開けて眼球も動かすこともあり、少し持ち直しているのかなと思われることもあったが、結局4日までには意識は回復しないままであった。弟も仕事の合間に長谷に来て、一緒に2泊ほどした。JA葬祭センターの見積では、できるだけ質素にということでお願いした見積も近所の方にも参列してもらうとなると一声100万と言うが、90万までのレベルへとりあえず抑えてもらった。
中津市大悟法JAの斎場は7年前に新築したとのことで立派なもので、小、中、大の部屋が選択可能、駐車場も大きくて50台以上は入れそう。駅からの距離、足の便を考えると当然かも知れない。入居していた特別養護老人ホームにも挨拶へ伺って部屋の様子も見せてもらった。部屋の荷物はダンボールに入れてありいつでも持ち帰られるような状態にしてあった。3ヶ月以内に復帰できない場合は入居の権利が無くなるとのことであった。入院から8日間が経過して、容態も一時安定した様子なので、2月4日には東京へ戻った。
2009年2月11日
夕方、弟から電話があり、血圧が急に低下して、危篤状態になったとの電話があった。しかし、一度見舞いに帰省しているので、直ぐ帰る訳にもいかず、とうしたものかと考えた。離れて暮らしている以上死に目に会うことは難しいだろうと考えていた。
2009年2月12日4時55分
枕元の携帯電話へ弟から電話があり、4:40亡くなったとの電話が届いた。遂に限界が来たのだ、一度も意識は戻らず、そのままで亡くなった。入院してから16日が経過していた。これでよかったのかも知れない、もし、意識が戻ったとしてもきっと重い障害が残った可能性が大きいと考えた。
いつ帰省するか決定しなければ、ならない。予想していたこととは言え本日は会社へ行き仕事の整理をしてから明日帰省することにした。最近は通夜まで葬儀社で預かってもらえるようなことも聞いたことがある。予定していたJA葬祭センターでそれが可能ならば、そうしたいとと弟へ連絡した。結果として、本日は実家で仮通夜、JA葬祭センターで13日通夜、14日告別式と決定した。
2009年2月13日
私の家族はいろいろな事情で、東京駅新幹線の時間が3グループに分かれて、私一人9:30発、息子夫婦10:30発、家内と娘11:30発とばらばらの時間となった。15:00に中津駅へ着いて弟へ連絡したら、まだ長谷の実家にいるのでタクシーで来て欲しいと言う。ちょうど実家に着いたらJAの担当の方も来ており、出発直前であった。弟夫婦とその娘が待っていた。慌しいことになったが、私は霊柩車の母の棺のそばに乗ってそのまま、JA葬祭センターへ向った。
気になっていた受付は近所の隣保班の方々がやってくれると決定していた。その他はすべてJA葬祭センターへお任せであり、心配することはなかった。通夜会場へ棺が運ばれた時、初めて母の顔をゆっくり見たが、眠っているようで入院していた時よりふっくらとして、穏やかな顔をしており安堵した。
19:00より通夜が開催された。最近はお経を印刷したものまで配布してくれるようだ。当日は雨であったが、JAさんの計らいでマイクロバスを長谷にも出してもらったが、仮通夜にも本通夜の両方に参加してくれた方々もいるとのことであった。私と弟二人で就寝も可能な通夜専用の部屋で一夜を明かした。棺はこちらの部屋にも運んでくれるようになっており、渦巻き式の線香があり、昔のように線香を何度もつける必要もない。
2009年2月14日
13:00より告別式開始であった。長谷の方々には仮通夜と通夜と告別式の両方に出席したもらうことになり、非常に申し訳ないことになったと考えさせられた。弔電披露から、お経、焼香、喪主挨拶、出棺まで含めて1時間で終了でした。
喪主としての挨拶の内容は参列者へのお礼以外には昏睡状態で入院し、16日間後に亡くなったが、正直にくも膜下出血で意識も戻らないままであったこと。87歳と言う年齢から考えると、意識が戻って回復しても恐らく大きな障害が残った可能性を考えると、ヒンピンコロリンであり、理想に近い死にかたであったということを述べました。約1年間特別擁護老人ホームにお世話になりましたが、欲を言えばあと1年で米寿を迎えられたのにというところが心残りでした。と言うような正直な気持ちをお伝えしました。
火葬場からJA葬祭センターへまた戻り、初七日のお経、親族で法要の会食をした。すべて終了した時刻は18:00ころだったと思う。弟と私の2人だけで、長谷の実家へ戻った。私の家族は明日東京へ戻る予定にしたいたのでホテルへ戻った。
2009年2月15〜16日
頂いた香典の整理の後、隣保班の方々へのお礼の品物を購入するためイーオンまで出かけてついでにに昼食に回転寿司を久しぶりに食べた。挨拶まわりを済ませたて一安心だ。明日は特別養護老人ホーム望箭荘やまくにへ母の荷物を取りに行く旨を電話した。また、残りの支払い明細も作成依頼した。
夜夕食後母の古いタンスのなかから見たことの無い写真があったとの報告があり、懐かしい写真や親戚の見たことも無いいとこの結婚記念写真をこの人はだけだっけとあまり会うことの無かったいとこの名前を弟から教えてもらった。また、私や弟の結婚式の記念写真が複数みつかり、親戚へ渡してもらう分をどうも失念してそのままにしていたのではと言う話になって笑ってしまった。ほかにもいろいろな写真がたくさん見つかり、整理しておくといいなというものがたくさんあった。
また、私が20年以上前にプレゼントした電気毛布や衣類が箱も開けずに残っていた。「次の言葉が出なくなるよ全く。」と言いたくなる状態でした。これで両親がなくなり、この実家にあるものを処分しなければならなくなるが、写真以外のほとんどのものはごみとして処分することになるのだろう。ゆくゆくはこの母屋も取り壊さねばなるまい。だれも住む予定がないのだから。残念ながら、私自身も戻りたいという気持ちは無いのです。
翌日お礼の品物を購入して、望箭荘やまくにへ行き荷物を持ち帰る。ほとんどが衣類で息子の結婚式の写真も含まれていた。昨年の11月息子夫婦がこのホームへ挨拶に来たとき置いていった新しい写真もあった。唯一結婚したまごを久しぶりに見て喜んでこれたものと思う。昔のアナログTVの処分という必要なら使って欲しいし、不要なら、処分費用を渡しますと言ったら、受取ってもらえることになり、帰りの荷物が少なくなった。
長谷の実家には私が2007年11月母へプレゼントして地デジの新型TVがあるが、これは弟へ上げることにした。2008年3月17日に望箭荘やまくにへ入居しており、中津地区の地デジ切り替えが2008年3月末であったので、外泊で実家に戻った時を除いて、母は残念ながら地デジ放送は見てないことになる。
もう1つ追記しておくべきことは亡くなった人の預金口座は凍結されるので、事前に相続のことを考えて、金融機関に相談しておくとよいことが分かった。その他年金の停止届けや電気料金や電話料の振替口座の変更などいろいろな事後処理が続く。現金以外の財産は父が亡くなった時、私と弟で引継ぎが完了している。
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