呉女流、宇治散歩

 2003年10月、明日香の稲淵を歩いた翌日、私たちは奈良からJR奈良線に乗って京都向か
う途中の宇治へ行きました。ポカポカ陽気に恵まれたこの日、JR宇治駅に着くと、あまりたくさ
んはないコインロッカーは全部ふさがっていて、他に荷物を預ける場所はないとのこと。観光地
なんだから、コインロッカーはもっとたくさんおいてくれ〜ぃ!! 一か八かで重い荷物を持って
テクテク歩いて宇治橋を渡り、京阪宇治駅へ行ってみると、こちらのロッカーはかろうじて空い
ていて、助かった……。もう、あきらめて帰ろうかと思ったの、観光できてよかった〜。

宇治橋
 
 ……てなことはいいとして、宇治といったら一般的には源氏物語宇治十帖の舞台ということが意識されるのですが、呉女は宇治十帖はいまひとつ苦手ですので、今回はあえて無視させていただきまして、我が家の視点で宇治を楽しませていただきました。歴史の話ばっかりになっちゃいますけど。宇治には1994年に二人で訪れていますが、その時は平等院と万福寺に行っただけだったので、町の中をゆっくり歩くのははじめてでした。

橋寺放生院―宇治橋断碑
京阪宇治駅から今渡ってきた宇治橋を右手に見て、川に沿う道を東へ入っ
てすぐ。多くの観光客はその前を通り過ぎてしまうであろうけれど、今回の
私たちの目的地である「放生院」へ。聖徳太子の時代に秦河勝が創建した
と寺では伝えられているそうですが、それは伝説としても、この地域が聖徳
太子や秦河勝と何らかの関わりがあったとしても不思議はないですよね。と
にかく歴史は古い寺で、古代から宇治橋の管理をしていたので「橋寺」
いう通称があります。今では小さな寺ですがもとはかなり大きく、北側の山
あたりまで寺域だったそうです。

放生院

宇治橋断碑、覆屋の外から
 私たちの目的は、境内に入ってすぐ左手にある宇治橋断碑を見ることでした。3月〜5月、9月〜11月なら覆屋を透かしても見られますが(それ以外はシートを被せてしまってあるとのことです)、200円を払えばちゃんと見せていただけるということで、お寺の方(多分、住職さん)にお願いして覆屋の中に入れていただき、いろいろお話を伺わせていただきました。
 宇治橋断碑というのは宇治橋を646(大化2)年に架橋したことを記した石碑です。何かを記念して建てたりする石碑は、今ではどこでも見かけるものですが、それらは近世以降に建てられたもの。もとは古代中国や朝鮮半島の風習で(たとえば
好太王碑は有名ですね)日本には6、7世紀に入ってきましたが、日本ではそれほど発達しな
かったらしく、古代に建てられて現在確認されている古碑は全国でも11くらいしかないのです
(その中で一般的に見る機会のあるものは薬師寺の仏足石歌碑です)。古代は文字史料が少
ないので、石碑は貴重な歴史の証人でもあり、また書道の世界では書のお手本として知られて
いるのだそうです。そのうち三つが群馬県の高崎近辺にあり、その「上野三碑めぐり」を8月に
したところだったので宇治橋断碑も、ということで今回の宇治探訪になったわけです。
 宇治橋断碑が架橋されてすぐ建てられたのなら、日本最古の石碑という
ことになるのですが、おそらくはもう少し後、7世紀末か8世紀くらいではな
いかとのことでした(平安初期くらいという説もあるようです)。ずっとここに
建っていたわけではなく、いつか流失して18世紀にこの寺の門の近くから
石碑の上部3分の1が掘り出されたのだそうです。石碑の内容は14世紀
に成立した「帝王編年記」に記されていたので、間もなく残りの下部が補わ
れて現在地に建てられました。というわけで途中で切断されている、という
意味で「断碑」と呼ばれているのです。石碑には補刻部分も合わせて96文
字で「行きかう人が川の急流にはばまれて困っていたので、大化2年
に道登が橋を建てて人々を救った」というような内容が書かれています。

宇治橋断碑
 ここに登場する道登さんという人は飛鳥寺の僧で、「日本書紀」では大化元年8月に多くの
僧を教え導くべき十師の一人として登場します。また白雉元(650)年には献上された白い雉に
ついて問われて大陸での例を答えています(これは井上靖「額田女王」のファーストシーンで印
象的)。ただし、「続日本紀」にはやはり飛鳥寺の僧である道昭の略伝に道昭が宇治橋を架け
たと記されています。だから呉女は宇治橋を架けたのは道昭さんだとばかり思っていました。
道昭さんは記録上初めて火葬された人として有名で「天上の虹」や長岡良子先生の作品にも
登場します。でも考えてみれば大化2年の時点で道昭さんはまだ18才。橋を架けるのはたいへ
んな事業だったでしょうから、道登さんが指導的立場だったと思われますが、後に唐に渡り、か
の玄奘三蔵の教えを受けた道昭さんの若き日の姿をその場に思い描くこともできますね。
 私たちがあれやこれやと質問するもので、住職さんには長い時間お付き合いいただきました。このような文化財を守っていくことの大変さなど、いろいろなお話を伺うことができました。
 前日から体調が今ひとつで「宇治橋断碑だけ見たら帰るかも」なんて言っていたオオアマさまも、「断碑」の前にいるうちに「なんか元気になってきちゃったみたい」と。石からの古代パワーでしょうか?

←放生院から見る宇治川の流れ
 ということで、次には「世界遺産」に登録された「宇治上神社」に行ってみることにしました。

末多武利神社 歩いている途中で住宅地の一角に末多武利(またふり)神社という小さな祠
がありました。その説明板を読んでいたオオアマさまが「あ〜〜っ!」と突然声をあげたかと思
うと、「この人、かわいそうなんだ。お賽銭あげてくる」。
 この神社は藤原忠文という人の怨霊を鎮めるために建てられた神社だ
そうです。忠文さんは天慶2(940)年、平将門の乱を平定するための征東
大将軍になった人。とはいえ、将門は都でものすごく恐れられていたから、
この役を引き受けたくなくて逃げ回った人もいるらしい。つまりビンボーくじ
をひいたようなもんだったのかもしれないわけ。ところが実際は彼が坂東へ
到着するより前に乱は藤原秀郷らによって平定されてしまった。それで当
時大納言だった藤原実頼(この後摂政・関白になった人。以後摂政・関白
は常設になる)の意見でこの時の恩賞を受けられなかった。そのことを恨
み、死後、実頼の家族に祟った、という伝説があるのだそうです。
 その忠文さんの所領が宇治にあったのだそうです。オオアマさまは最近将門に関する本を読
んで、忠文さんになんだか知らないけどミョ〜なシンパシィを感じたみたいで……よほど職場の
人間関係か何かでストレスがたまっているんだろか?
 そうそう、この怨霊の話はちょうど安倍晴明が生きていた時代と重なります。実頼さんが「何
かに祟られているのだろうか?」と相談にいって「それは忠文どのの怨霊ですな」と答えられて
いたり、とか……。

宇治上神社・宇治神社

宇治上神社拝殿
 京都の社寺が世界遺産に登録されたとき、そのリストの中に「宇治上神社」という、あまりメジャーとは思えない神社の名前を見つけて、なぜこの神社が登録されたのか、ずっと気になっていました。その「謎の神社」の前に立ってみると、なるほど、さほど大きな神社ではないながら、神々しい風格が感じられます。
 鳥居をくぐって正面にあるのが拝殿鎌倉時代のもの。神社というより住宅風の建築で、当時の住宅を推しはかることのできる貴重な遺構なのだそうです。美しい建物です。
 その裏に回ると、全くの別棟で本殿があります。前面に格子
戸がはめられた美しい流造の建物ですが、実はこれは覆屋で
ありまして、本当の本殿は格子の隙間から覗き込んだ中にあ
ります。内部には平安末期に建てられた内殿が三つ並んで
いて、これが神社建築としては日本最古、平安時代のもの
では現存する唯一なのだそうです。寺院建築ならもっと古いも
のが残っていますし、神社はそれより古い歴史をもっているの
にそんなものかな、と思ってしまいますけれど、そもそも神社と
いうものは木とか岩とかに神がおりてくる、という場所であり、

宇治上神社本殿(覆屋)

神のおりる場所、磐座(いわくら)。
上にのせられた小石は後世の人が
勝手にのせちゃったものですよ。
お社を必要とするものではなかったわけです(そんな信仰の←名残が本殿のすぐ脇にありました)。お社を造るにしても祀りのための仮りのものだったり、伊勢神宮で今も続いている式年遷宮のように何年かごとに立て替えたり。ですから古いものは残らなかったのでしょう。いつのころから常設の神殿が建てられるようになったのか。寺院建築の影響というのもあるようですから、寺よりは歴史が新しいようです。
 ご祭神は、内殿三つの真ん中が応神天皇、右がその息子の仁徳天皇、左がその弟の莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)。莵道稚郎子は兄の仁徳天皇と皇位を巡って争ったとか譲り合ったとかと伝えられる人で、この地に彼の宮があったと
いわれています。そしてこれが「宇治」の地名の発祥とも。

 ところで宇治上神社の手前に宇治神社があります。宇治上
神社に比べると訪れる人も少なくひっそり。確かにお社も風格
のある宇治上神社に比べれば「フツーの神社」に見えますけ
れども、実は明治維新までは二つの神社は「宇治離宮明神
と呼ばれた一つの神社だったのです。だから祭神も同じです。
平等院の鎮守社であり、中世にはかなり栄えたのだそうで
す。

宇治神社

宇治川
  鎮守の森から見える宇治川の流れの輝きに誘われるように川べりに出ると、すぐ目の前は
朱塗りの朝霧橋。放生院の住職さんのお話によれば、古代の宇治橋は今より少し上流の、今
の朝霧橋付近にあったのではないか、とのことでした。そしてこの橋を渡った先の橘島に「宇治
川先陣碑」がたっているように数々の戦場となった場所でした。そういう場所であるには理由が
あります。

宇治川と朝霧橋
 琵琶湖を水源とする瀬田川は山の中を流れて宇治川と名前をかえ、平地に出てきたところが宇治になります。そしてそのすぐ西側には今は干拓されつくしてしまったけれど、昔は椋池(おぐらいけ)という巨大な池あって、そこに流れ込んでいたわけです。東大寺造営のときなどは琵琶湖近辺で切り出された木材がこの水路を使って運ばれたのですが、人間が京都から奈良へ陸路を最短距離で行こうとすれば、このあたりで川を渡るしかないわけです。宇治橋が架けられた事情もここにあります。そういえば、壬申の乱の前、近江から吉野へ向かう大海人さまを近江朝の大臣たちがわざわざ宇治橋
まで送ってきた、と「日本書紀」に書いてあります(そのシーンは「天上の虹」にもあります。高
市皇子も来るのよね〜、ウフ)。その後、近江朝側は宇治の橋守(これが放生院の前身にあた
るのではないか、と)に命じて大海人さま側に食糧を運ぶのも禁じている、なんて話も出てきま
す。その後も何か都で騒ぎが起きるとまず宇治橋を抑えるようで、ここを渡るか渡らないかが
大きなポイントになるような、重要な場所であったことがわかります。

浮島十三重石塔
 橘島から南の塔の島に渡ると、大きな浮島十三重石塔があります。宇
治橋は宇治川の急流に何度も流されては再建されましたが、その中で
1286年に再建した叡尊さんは西大寺などの中興者で、弟子の忍性さんと共
に社会事業で知られる人です。橋の再建もその一つだったのでしょう。と同
時に鎌倉新仏教に対する旧仏教側の中心人物で戒律復興運動をした人。
それで宇治橋再建に先立って建立したこの塔に、網代による漁が盛んだっ
た宇治川での「殺生禁断」の願文を刻んだのだそうです。
 塔は江戸時代に洪水で倒壊しましたが、流された石を拾い集めて明治に
再建されました。でもどうしても見つからない石もあって、新しい石が一段あ

浮島十三重石塔
るのが、見ればどれだかすぐわかります。倒壊したときに出土した経箱や経筒などは放生院に
あるのだそうです。


これでだいたい二人分
ランチタイム!
 喜撰橋を渡った対岸(平等院側)に出た私たちは、お腹ぺこぺこになっていたので、すぐ目の前にあった「喜撰茶屋」というお店に入りました。ガイドブックにもよく出ているお店ですけれど、意外に当たりでした。窓際に座ったので眺めもよかったし。確か頼んだのが茶の葉弁当と茶そばご膳だったと思うのですが、二人で3000円以下でした。京都のこのロケーションでこの内容でこの値段なら大満足です。お茶どころ宇治らしく、ご飯にはお茶の葉を散らしてあるのですが、苦くないです。おいしかったです。
 橋や店の名になっている喜撰山は宇治の東にある山(もしかして
右の写真の右の山かも)。昔は宇治山と呼ばれていたようです。そ
こで思い出すのが百人一首の喜撰法師の歌。
わが庵は都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり
ここに詠まれているように、平安時代、都から少し離れた宇治は隠
棲の場であり、貴族の別荘地でありました。この景観を見ている
と、ここでリフレッシュしたりヒーリングしたり、という貴族の気持ち
もわかるような気がします。

喜撰茶屋から見る塔の島
 そこで貴族の別荘地の名残、平等院へ向かいます。

平等院
 オオアマさまとここに来るのは前述のように2回目。前は北の表門から入りましたが、今回は
以前はまだなかった鳳翔館の南門(鳳凰堂の裏側)から入りました。

源頼政の墓
源頼政の墓  鳳凰堂の裏に平等院の域内に建てられた寺院、浄土院と最勝院があります。その最勝院に源頼政(1104〜1180)の墓があります。頼政さんは後白河法皇の皇子の以仁王と謀って平家打倒の令旨を下しますが、清盛に察知されてしまいました。それで奈良の興福寺を頼って逃げる途中、平知盛らの軍勢に追いつかれ、敗れた頼政さんが自刃した場所といわれているのが、鳳凰堂の北、観音堂の裏にある「扇の芝」です。以仁王もこの後討たれてしまいますが、東国に至った令旨が源氏の挙兵を促し、平家を滅亡させることになったのです。平家全盛期に平家に挑んで敗れた悲運の武将。頼政さんにもオオアマさまは深い同情を寄せているようです。
 ちなみに浄土院で「通圓家初代太敬庵通圓の墓」を見つけ
ました。宇治にはお茶のお店がたくさんありますが、そのひと
つ「通圓茶屋」が「平安時代の創業」というのが気になってい
たのですが、ここの初代が頼政さんの家臣で、宇治橋の東
詰に庵を結んだのを始まりとしているようです。通圓茶屋は今
でも宇治橋の東詰と、元の宇治橋の東詰だったと思われる宇
治神社の前にお店があります。
 ところで、扇の芝のそばにある観音堂に安置された、蓮を持
った観音様、とってもきれいで、呉女は気にいりました。

扇の芝。後ろが観音堂

鳳凰堂

鳳凰堂。南から 
 やっと鳳凰堂にたどりつくわけですが、平等院鳳凰堂については他にも書いてあるところがいくらでもありますから……。平等院に入るときに払う拝観料(600円)の他に、鳳凰堂に入るには別途500円がかかります。人数制限があるので時間を指定されて案内にしたがって入ることになります。前回は入ったのですが、お堂の中は満員電車状態、出るときには池に落ちそうだった……との記憶があります。いえ、もちろん、それでも入る価値は十分にあるのですけれども、今回はパスして庭園から堪能することにして、庭園を2周歩きました。
 平等院が藤原道長の別荘を息子の頼通が寺にしたもの、
というのは有名ですが、もっと前には嵯峨天皇の息子、源融
(とおる、822〜895)の別荘だったんですね〜。寺になった10
世紀当初は鳳凰堂の他にもたくさんの堂宇があったそうです
が、頼政と平家の戦いの時に多くが焼かれたようです。その
後も南北朝とか応仁の乱とかで被災したようですが、よくぞ鳳
凰堂だけは残ったものだと驚きます。東から見る、つまり西方
浄土をのぞむ鳳凰堂。栄華を極めた貴族たちの浄土への憧
れ、裏を返せば「死への恐れ」を思い、そういう意味では人間
って「平等」なのかも……なんて考えてしまいました。

池をクローズアップしてみる。


復元された庭園部分
 呉女が今回気になったのは、鳳凰堂の北側、見学者が橋を渡って鳳凰堂に入る入口あたりの池です。近年、発掘調査の結果に忠実な形に復元されたそうです。また時代が遡っちゃうけど、最近明日香を語るとき「」「」ははずせないキーワード。飛鳥京苑池遺構が発掘されたときの現地説明会に行きましたが、そのときの印象からすると、古代の庭園も雰囲気としてはこんな感じではないか……と(平安時代も古代のうちですが)。つまりこんな情景が明日香のあちこちに広がっていたのかもしれず、そういう伝統を踏まえてこの庭もあるのかも、と。……あくまで呉女の印象です。

 最後に平等院ミュージアム「鳳翔館」へ(これは最初の拝観料に含ま
れる)。よくお寺にある宝物館の近代版という感じ。薄暗い館内ではCG
による鳳凰堂の当初の姿も見ることができます。呉女が興味深かった
のは屋根にのっていた鳳凰.(現在屋根にのっているのは複製)。鋲留
めされた細工が遠くから見るイメージとはちょっと違って、新鮮でした。
それから何と言っても雲中供養菩薩像。鳳凰堂の本尊、阿弥陀如来
の周囲に飛んでいる菩薩たちの半分ほどがこちらに展示されていま
す。一体一体は個性的で、皆いっしょになるとやさしい音楽が聞こえて
くるような調和……。法隆寺にも飛天の図や像がありますが、こんなに
美しいところまで到達したのね……って何ですぐ時代が遡るんでしょ?

現在の屋根の鳳凰
 ミュージアムショップで雲中供養菩薩像の現存する52体がすべて並んでいるクリアファイルを
とっても気にいって、購入しました(確か300円くらい)。


アイスティーにアイスクリームがのっ
ている。何とかの清水とかいう風流
な名前がついていたけど忘れちゃっ
た。。おいしかった〜。400円くらい。
ティータイム!
 二人ともずっとテンションあがりっぱなしだったので、ノドがかわいてしまいました。コーヒーより「アイスグリーンティーが飲みたいね」とオオアマさま。普段グリーンティーなんぞに興味ないくせに、宇治に来ただけで環境に染まるんだから、もう……。平等院の表門から出て、参道にならぶお茶屋さんの中で「かんばやし」さんに入りました。お茶の上林家は秀吉や家康に重用された老舗。店の2階がちょっとした資料室になっていて(別に「上林記念館」がある)、若ダンナが「宇治茶は高いと皆さん言わはりますが、私にいわせたらペットボトルのお茶のほうがよほど高いですワ」と力説していらっしゃいました。なるほど〜。

 宇治橋の西詰(このページの最初の写真)に
いたって約4時間ほどの宇治散策は終わりで
す。最後に宇治橋を渡り、宇治の景観を改め
て眺め、名残を惜しみました。「この橋、以前来
たときと違う」と呉女は感じていました。聞いた
ら以前に訪れた直後くらいに架け替えられたら
しい。こういう記憶力だけは衰えていない(全体
としてはボケてるのに)呉女であります。

宇治橋から。朝霧橋、橘島方面

 京阪宇治駅から電車に乗りました。京阪宇治線は支線なので中書島駅で京阪本線に乗り換
え、さらに丹波橋で近鉄線に乗り換えて京都へ。そして新幹線で帰途につきました。やっぱり
宇治へはJR奈良線の方が京都駅に出るのは一本だから、便利だったんだけどな……(京都
の街中、鴨川近辺を起点にする場合は京阪を使うと京都駅を通らなくても直接宇治へ行ける
から便利ですよ〜)。

(2003年11月)


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