呉女流、宇治散歩
2003年10月、明日香の稲淵を歩いた翌日、私たちは奈良からJR奈良線に乗って京都向か う途中の宇治へ行きました。ポカポカ陽気に恵まれたこの日、JR宇治駅に着くと、あまりたくさ んはないコインロッカーは全部ふさがっていて、他に荷物を預ける場所はないとのこと。観光地 なんだから、コインロッカーはもっとたくさんおいてくれ〜ぃ!! 一か八かで重い荷物を持って テクテク歩いて宇治橋を渡り、京阪宇治駅へ行ってみると、こちらのロッカーはかろうじて空い ていて、助かった……。もう、あきらめて帰ろうかと思ったの、観光できてよかった〜。
かったらしく、古代に建てられて現在確認されている古碑は全国でも11くらいしかないのです (その中で一般的に見る機会のあるものは薬師寺の仏足石歌碑です)。古代は文字史料が少 ないので、石碑は貴重な歴史の証人でもあり、また書道の世界では書のお手本として知られて いるのだそうです。そのうち三つが群馬県の高崎近辺にあり、その「上野三碑めぐり」を8月に したところだったので宇治橋断碑も、ということで今回の宇治探訪になったわけです。
僧を教え導くべき十師の一人として登場します。また白雉元(650)年には献上された白い雉に ついて問われて大陸での例を答えています(これは井上靖「額田女王」のファーストシーンで印 象的)。ただし、「続日本紀」にはやはり飛鳥寺の僧である道昭の略伝に道昭が宇治橋を架け たと記されています。だから呉女は宇治橋を架けたのは道昭さんだとばかり思っていました。 道昭さんは記録上初めて火葬された人として有名で「天上の虹」や長岡良子先生の作品にも 登場します。でも考えてみれば大化2年の時点で道昭さんはまだ18才。橋を架けるのはたいへ んな事業だったでしょうから、道登さんが指導的立場だったと思われますが、後に唐に渡り、か の玄奘三蔵の教えを受けた道昭さんの若き日の姿をその場に思い描くこともできますね。
末多武利神社 歩いている途中で住宅地の一角に末多武利(またふり)神社という小さな祠 がありました。その説明板を読んでいたオオアマさまが「あ〜〜っ!」と突然声をあげたかと思 うと、「この人、かわいそうなんだ。お賽銭あげてくる」。
んで、忠文さんになんだか知らないけどミョ〜なシンパシィを感じたみたいで……よほど職場の 人間関係か何かでストレスがたまっているんだろか? そうそう、この怨霊の話はちょうど安倍晴明が生きていた時代と重なります。実頼さんが「何 かに祟られているのだろうか?」と相談にいって「それは忠文どのの怨霊ですな」と答えられて いたり、とか……。 宇治上神社・宇治神社
宇治川 鎮守の森から見える宇治川の流れの輝きに誘われるように川べりに出ると、すぐ目の前は 朱塗りの朝霧橋。放生院の住職さんのお話によれば、古代の宇治橋は今より少し上流の、今 の朝霧橋付近にあったのではないか、とのことでした。そしてこの橋を渡った先の橘島に「宇治 川先陣碑」がたっているように数々の戦場となった場所でした。そういう場所であるには理由が あります。
市皇子も来るのよね〜、ウフ)。その後、近江朝側は宇治の橋守(これが放生院の前身にあた るのではないか、と)に命じて大海人さま側に食糧を運ぶのも禁じている、なんて話も出てきま す。その後も何か都で騒ぎが起きるとまず宇治橋を抑えるようで、ここを渡るか渡らないかが 大きなポイントになるような、重要な場所であったことがわかります。
あるのだそうです。
平等院 オオアマさまとここに来るのは前述のように2回目。前は北の表門から入りましたが、今回は 以前はまだなかった鳳翔館の南門(鳳凰堂の裏側)から入りました。
鳳凰堂
とっても気にいって、購入しました(確か300円くらい)。
京阪宇治駅から電車に乗りました。京阪宇治線は支線なので中書島駅で京阪本線に乗り換 え、さらに丹波橋で近鉄線に乗り換えて京都へ。そして新幹線で帰途につきました。やっぱり 宇治へはJR奈良線の方が京都駅に出るのは一本だから、便利だったんだけどな……(京都 の街中、鴨川近辺を起点にする場合は京阪を使うと京都駅を通らなくても直接宇治へ行ける から便利ですよ〜)。
(2003年11月)
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