港町、桑名にさらら様の面影を求めて

 三重県桑名。壬申の乱のとき、さらら様はここで大海人様と別れ、乱が終結して大海人様が
戻ってくるまでの約二ヵ月半、ここで過ごしました。おそらく、さらら様の記憶に残る土地の一つ
だったでしょう。そんなことで、呉女は一度桑名を訪れてみたいと思っていました。
 2003年11月。なぜか突然その願いが叶ってしまいました。名古屋駅構内を歩きつつの夫婦
の会話。「今回の旅は呉女の主張だよね」「何言ってるの〜。アナタが多度大社へ行きたい、と
言うから、それなら桑名も行きたいワ、と言っただけよ」「呉女が行きたそ〜な目で訴えてたん
だよー」「あら、そうだった?」

 というわけで、名古屋から近鉄電車の急行なら20分で桑名駅(JRでも行けます)。そこで近
鉄養老線に乗りかえて多度大社へ行きました。大垣へ向かう養老線は、壬申の乱のとき大海
人様がたどったと思われるルートに近い。元は多度大社の御神体であった多度山を越えれば
岐阜県、大海人様の領地があった美濃の国です。多度駅の一つ南側、下野代(しものしろ)駅
の西南に徳蓮寺という寺が電車からも見えますが、これが壬申の乱で焼けた寺の跡であると
いう伝承があり、また近辺には大海人様が宿泊したという「天王平」なる地名も残っているそう
です。「日本書紀」の記述では桑名から関ヶ原の野上まで一気に行っているので、このあたり
には泊っていないとは思うのですが……。
 ここでは多度大社参りの後の話になります。


天武天皇迹太川御遥拝所跡 
 養老線で桑名へ戻ってきた……けれど、ここでまた足をの
ばして、急行で一つ先の富田(とみだ)駅へ。住所としては四
日市市になります。 富田駅から西へ、少し南に下がったとこ
ろで小さな十四川の流れに沿って歩くこと、駅から30分近く
かかったでしょうか。住宅地の一角に「天武天皇御遺蹟」と
いう石標と常夜燈がたっています。
  672年、吉野に逃れていた大海人様一行は近江朝廷に対
して挙兵することを決意。6月24日、東国を目指して吉野を

十四川沿い。奥の山の麓が遥拝所跡
出ました。鈴鹿の山を越え、26日朝、朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とおがわ)で大海人様は天照大神を遥拝して戦勝を祈願しました。そして、壬申の乱に勝利した大海人様は天照大神を皇室の皇祖神として伊勢神宮を祀ることになったといわれています。
 説明板によれば、ここをその遥拝所の跡として指定した根拠は、「天武天皇呪(のろ)しの松」といわれる老松がある(今は根元あたりを残して伐られてしまっていましたが)ことによる、という、まことに頼りないものなのですが、そういう伝説を地元の人が残してくださったこと自体に感謝しなくては……。ところで、ここが指定を受けたのは昭和16年。天皇崇拝の風潮の中でこういうものが顕彰されたの
でしょう。ただし戦前に「壬申の乱」は歴史のタブーだったはず。
どういう説明をしていたんでしょうねえ……?
 ところで「天上の虹」でのこのシーンは、大海人様が裸になっ
て川に入って禊ぎを行い、南の伊勢神宮に祈りを捧げると、さ
らら様に神が降りて「大海人軍に加護を与えましょう」と……。
前の晩に「まわりの人間をその気にさせるためにはまず自分で
その気になることがたいせつ」と二人で打ち合わせをするシー
ンもあります。呉女はわざわざ一連のシーンのコピーを持って
いきまして、この場で二人で再現してみたかったのですが、この
寒空にオオアマさまを裸にするわけにはいかないのでやめまし
た(笑い)。

遥拝所跡。囲いの真ん中に松があるの、わかります? 南は左方向。

遥拝所南の十四川と斎宮橋
 一般的には「日本書紀」に記された迹太川は、現在もう少し北を流れる朝明川にあたるとされていますが、ここを遥拝所とした場合は南に流れる十四川を迹太川と見るのか、朝明川の川筋が変わったとみるのかはよくわかりません。ただ十四川の「十四」は富田駅近くにある「十志」という地名とともに「呪師」から来ているともいわれています。またすぐ北の山や十四川にかかる遥拝所横の橋の名前など、このあたりの地名が伊勢神宮と関連する斎宮(いつき)。橋をわたった向こうの住所は「いかるが」。一体ナンなんだ、ここは……と思ってしまいます。
 今遠く南の方を見渡しても、見えるのは四日市の工場
の煙突くらいなものではありますが、こんな場所まで来れ
たことに満足して、雨のパラつく中を30分近く歩いて富田
の駅へ戻り、昼食をすませて、いよいよ桑名に向かいま
す。なお、富田駅から出る三峡鉄道というローカルな電車
で次の駅、大矢知駅から南へ歩いたほうが遥拝所跡まで
の歩く距離は短いようです。西武線の昔の車両がホーム
にいました(元西武沿線住民なので、なつかしくて〜)。時
間さえ合えばこの電車も乗ってみたかった気がします。

桑名に戻る電車の中から、朝明川


桑名

桑名城址北の本多忠勝像
桑名といったら一般的に思い出されるのは「焼ハマグリ」くらいでしょうか? 今では名古屋のベッドタウンとして名古屋に飲み込まれつつありますが、高校の教科書には戦国時代に発展した都市の一つとして登場します。富裕な商工業者たちが自治組織をつくっていた自由都市として有名なのは堺や博多ですが、木曽三川の河口にある港町、桑名もそういう自由都市の一つだったのです。
 江戸時代になると徳川四天王の一人、本多忠勝の城下町、そして東海道の宿場町。しかも熱田宿から桑名宿へは海路七里の渡しを渡ってくる。桑名の港には伊勢の国一の鳥居といわれる大鳥居がたち、伊勢参りの人でも賑わう大きな宿場町でした。
 ということで、近世以降は華やかな歴史を持っている町ですから、見
どころはいろいろあるのですが、それより900年も前の古代のこととなる
とよくわからないのか、ガイドブックや取り寄せたパンフレットにもほとん
ど記載はありません。それでも大海人様とさらら様が桑名に足跡を残し
たことは確かなので、伝説でもいいから何か面影が残っていないもの
かと、やっと見つけた唯一の手がかりは平成5年に大津市歴史博物館
で催された特別展「よみがえる大津京」の図録。巻末資料「大津京・
壬申の乱伝承地」の中に上記の遥拝所や徳蓮寺、それに桑名市内の
伝承地が載っていたのです。その図録と地図だけを頼りに「さらら様の
面影探し」の旅は始まりました。

マンホール「七里の渡し」

北桑名神社   
 駅の北から八軒通りという大通りを東へ数分。国道1号を渡ってから、通りの北
側2本目の路地を北へ。突き当たりを西へまがるとすぐ、住宅街の中に北桑名神
社があります。神社としては小さいけれど、鳥居は大きくて立派。その鳥居の横に
は「持統天皇御舊跡」の大きな石標。意外に早くさらら様の面影は見つかりまし
た。「図録」によればさらら様が所持していた御物、鏡や硯を収めていた宝殿があ
ったといわれる場所が「宝殿町」という地名で残っている。御物を伝えた持統天皇
社は現在、北桑名神社に合祀されていると。北桑名神社には説明板などは見当た
らなかったので、もともとどういういわれの神社か不明なのですが、本殿の北側に
まだ新しそうな小さな赤い社がありました。その周囲をよーく見ると浄財をした方の名前といっ
しょに「元宝殿社再建」という文字があったので、おそらく、こちらがさらら様の御物を祀ったお
社なのでしょう。

北桑名神社。後光がさしている?

北桑名神社本殿。その右横に→

こちらが「元宝殿社」らしい。

 ちなみに宝殿町は八軒通りをあと数分進み、田町の交差点を北に曲がって2本ほど先の路地を曲がるとそのあたり。今は「新宝殿町」というようです。普通の住宅街ですが、小さなカステラ屋さんで「切りカステラ」を買いました。とてもおいしかったです。

 田町の交差点を南へ曲がり、桑名市博物館を訪れてみましたが、
特別展開催中で常設展はなし。常設展の図録を見せていただきま
したが、あまり古代関係の展示はないようでした。「桑名市史」がお
いてあったので、パラパラめくってみると「はじめに」の部分が「大海
人皇子が壬申の乱のときに滞在した……」との記述から始まってい
たので期待したものの、本文中にその関係の記述はわずか3ペー
ジ。ほとんどが「日本書紀」の記述を追うもので、それが現在のどこ
の地にあたるか、などは最後の数行のみ。しかも林羅山が桑名を
訪ねて壬申の乱の故地を地元の人に聞いたところ「知らない」と言
われたとか。一行が泊っていたと思われる桑名郡家の場所も不明
のようで、「結局よくわからない」ということを確認しただけでした。

マンホールその2。やっぱり桑名といえばハマグリ。


七里の渡し跡の大
鳥居。日暮れ間近。
 日も陰り、寒くなってきたので、この日は切り上げて宿に入ることにしました。桑名にビジネスホテルなどは駅の近辺に何軒もあるのですが、オオアマさまが「水辺の日本旅館がいい」などとゼイタクなことを言い出し、「七里の渡し」跡のすぐ横、元脇本陣だった場所にある「山月」に泊まりました。これがなかなかいい宿で、角部屋に泊めていただいたので、北と東の二方が川。北に多度山。つまり大海人様がさらら様と分かれて戦場へと向かった道が見えます。東は揖斐川と長良川の流れがひとつになるあたり。今では河口まで5キロほどありますが、さらら様が滞在したころは、このあたりはもう海だったかもしれません。東の川の向こうには名古屋の町。今は名古屋の駅ビルが目立つので、どこが駅だかすぐわかります。そしてその向こうのなだらかな山並み……。

今は堤防で海は見えないけれど、本
陣、脇本陣があったあたりは、今でも
宿場町の風情が残る。
昔はかなり賑やかだったはず。

宿の部屋から東を見る。揖斐川(手前)と長良川の夕景。その向こうの木曽川はみえません、そのまた向こうの名古屋の町の灯りがチラホラ。
長島の一向一揆。宝暦の治水。伊勢湾台風……。ここを舞台にしたさまざまな悲劇を思う。

ここで、壬申の乱と桑名について、「日本書紀」の記述にそってカンタンに復習。
6月 24日 大海人皇子一行、東国をめざして吉野を出発。
    25日 積殖の山口で近江を脱出してきた高市皇子と合流。鈴鹿を越える。
       (さらら様は体調不良)
    26日 上記の迹太川での遥拝。近江から大津皇子合流。
         先発隊の「不破をふさいだ」との情報に高市皇子を先に不破へ派遣。
         一行は桑名郡家に泊る。
    27日 大海人皇子、讃良(さらら様)を残して不破へ(草壁、大津、忍壁は残る)
   〜壬申の乱〜
7月 22日 大友皇子の自殺により壬申の乱終結。
   〜戦後処理〜
9月 8日 大海人皇子、帰途へ。桑名泊。
    9日 大和へ向けて桑名を発つ。
 私が壬申の乱ゆかりの地の中でも桑名に興味を
もったのにはきっかけがあります。10年以上前に
読んださらら様のことについて書いた本で、今とな
っては題名も著者も忘れてしまったのですが、そこ
にはさらら様は壬申の乱の実質的な指揮官だった
のではないか、というようなことが書かれてあった
のです。乱の間さらら様が滞在した桑名は、大海
人軍の本拠である不破(関ヶ原)にも、主な戦場と
なった近江と大和にも、連絡をとるのに絶好の場
所ではないか、というわけ。まあ、指揮官だったと
まで言わなくても、確かに桑名はいい場所です。連

宿の部屋から揖斐川多度山。さらら様も何度もこの川と山を見て、山の向こうの大海人さまを思ったことでしょう。
絡はとりやすい上、戦場との間には山があるから責められにくい。万が一攻めてこられても海
に逃げることもできる。情報拠点にくらいになっていたとしてもおかしくはありません。もしかして
大海人様は体調を崩したさらら様を、ただここに残していったのではないのかもしれない、さら
ら様もただ待っていただけではないのかもしれない、と。
 そして私はまたギモンに感じてしまう。さらら様は戦後処理の間、ずっと桑名にいたのだろう
か……? 時々不破にも出向いていたのではないかしら? 私だったらそうしちゃう……。しか
もさらら様なら大海人様のシゴトのジャマをしに行くわけじゃなくて、戦後処理なんかバリバリ手
伝っちゃいそうでしょう? 

←お夕食に出た焼蛤。他に潮汁や鍋
ものも。おいしかった〜。普段はせい
ぜいがしじみ、フンパツしてもあさりく
らいしか食べさせてあげられないの
で、オオアマさまは感激していまし
た。このあたりの川はほとんど海水な
のだそうで、今でも蛤など貝類はよく
採れるそうです。
食事の後、「古代のことは知らない」と
おっしゃる宿の方をつかまえて、熱〜
く語ってしまいました(笑い)

翌朝、桑名の日の出→


2日目、旧東海道を行く
 翌日は天気予報では寒いといわれていたのですが、明けてみれば暖かく、しかも雲ひとつな
い青い空。 宿の方がおっしゃるには、湿気が多い桑名でこれほどすっきり晴れわたる日はめ
ずらしい、とのことでした。
 そこで、私たちはの少し北にある六華苑(鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドル設計の洋館
と日本庭園がある)で無料のレンタサイクルを借り(駅前の観光案内所でも借りられます)、桑
名市内の旧東海道をたどりつつ、さらら様の面影を求める旅を続けることにしました。
←七里の渡し跡から六華苑に歩く途
中、航海の安全を祈る住吉神社




国による整備が進む揖斐川の川べり
(住吉神社の前)にて、左奥が多度
山。右奥は公共事業問題の先駆け的
存在(?)、長良川河口堰。

旧東海道は七里の渡
し跡から南へのびる。
この東側に桑名城址

旧東海道をたどりはじめて間もなく、桑名の鎮守、
春日神社。奈良の春日神社からの勧請。もとは
中臣神社といったらしい。前日の夕方の撮影。

桑名市内でも旧東海道はクネクネ曲がる。こんな案内板が所々にあるけれど、ときどき迷う。

仏壇店の並ぶ通り
 
 はっきり言って、前日に桑名の駅に降り立ったときには、かなり衰退している町なんじゃないかと思ったのです。だって駅前に廃墟になった大きなビルがあるのですもの……(そのビルはとり壊されてマンションになることが決まっているそうです)。でも町中を自転車で走ってみると、ぜんぜんそんなことはなく、今は静かな住宅地ながら、昔の港町、城下町の雰囲気もどことなく残っています。特に古い町並みを残しているわけではないものの、コンビニなどは少なくて、地元の商店街はちょっとレトロな感じ。仏壇屋さんが目についたのですが、木曽の良質な木材が集積する桑名は古くから仏壇など木工品の産地だったそうです。
 旧東海道沿いには神社仏閣が多く、昔の繁栄を思わせま
す。そのうちの十念寺ではその日、七福神祭りで賑わってい
ました。通りがかるとちょうど七福神のお面をかぶった人たち
とミス桑名の撮影会の最中でした。十念寺周辺は特に寺院が
密集していて、隣りの寿量寺にはこの地で急死した狩野光信
(狩野永徳の子)のお墓があるのだそうです。

 ここで、旧東海道からちょっとはずれて東へ出ると、バス通
りの向かいに法盛寺と最勝寺。二つの寺の間の道を入ると、
法盛寺の裏に楊柳寺という小さな寺があります。

十念寺の七福神祭り

楊柳寺(ようりゅうじ)

楊柳寺。庭はあるが本堂は小さい。
 「図録」によれば、この楊柳寺のある場所が「持統天皇行宮」と伝えられているのだそうです。へぇ〜、こんなところにさらら様が……と思うような小さな寺で、本堂なんて普通の古い家、といった感じなのですが、その軒先にあまり大きくはない銅鐘がぶらさがっていました。元禄11年の銘の入った桑名市の指定文化財なのだそうで、ちょいと上がって背伸びして必死に覗き込ませていただくと、ありました、ありました、「持統帝……」の文字が。江戸時代にはここが行宮跡、という伝承がちゃんとあったのですね。林羅山が聞いた人が知らなかっただけなんじゃないの……。
 さらら様の面影をまたひとつ見つけたところで、もうひと
つ見つけたいものがありました。楊柳寺の住所は「新屋
敷」。「図録」によれば、この町内に「天武天皇御足洗井」
とよばれる井戸が「住宅街のいっかくにひっそりと」残って
いるとのことなので、二人で町の人に怪しまれるんじゃな
いかと思うほど必死に探しまわったのですが、見つかりま
せん。オオアマさまはお菓子屋さんでバームクーヘンを買
い(これがまた、えらくおいしかった)、お店の人に聞いて
みたのですが、ご存じないとのこと。そのお店の方がまた
親切で、お向かいに住むこの町の最長老というおじいさま
 楊柳寺の銅鐘と「持統帝」の文字
にまで聞いてくださったのですが、やはり「わからない」ということでした。最長老でもご存じない
ならしかたがないと、あきらめて退散し、次なる目的地へ向かいました。

天武天皇社

旧東海道筋の「天武天皇社」 
 少し南の旧東海道に戻った道筋に、その名もずばり「天武
天皇社」があります。ここだけは普通の地図やパンフレットに
も出ているものがあります。「大海人様が桑名に泊ったことに
ちなんで創建された」というのがいつの頃のことかわからない
のですが、元は先ほどの新屋敷の地にあり、江戸時代に新屋
敷近辺が武家屋敷にされたために移転してきたそうです。江
戸時代に東海道を往来した人もここでお参りしたりしたのでし
ょうか。ご祭神は大海人様の他、さらら様と高市皇子も! 高市は行きは桑名を通過してしまっているから、帰りにしか泊
っていないと思うのですが、壬申の乱の英雄として祀られてい
るのかしら? みんな昔から有名
人だったのね〜。多分。

 この神社の前の旧東海道を西
へ走ると、間もなく国道1号と交
差します。そのあたりが「矢田
町」で、前日に読んだ「桑名市
史」の記述によれば、このあたり
も行宮跡の候補地と書いてあっ
たような……。いずれにしても桑
名市街の南のあたりであった可

ご祭神の3人の名にニンマリして
しまう……。

鬱蒼とした木々の下の社殿は戦災で焼けた後、再建されたもの。
能性が強いみたい。でもこのあたりは多分水害などにもやられているだろうから、発掘調査を
したとしてもあまり成果は期待できないのかもしれませんね……。

 そのまま南へ曲がる旧東海道をしばらく走
ると(この通りにも神社仏閣が多い)、突き
当たりで町屋川(員弁川)にぶつかります。
手前には伊勢神宮に祈願するための常夜
燈がたち、舟遊びをしたりお茶屋さんがあっ
たり、という賑やかな場所だったそうです。
現在、桑名の名物になっている「安永餅
(呉女の好物)も元はこのあたりで売られて
いたものだそうです。 

町屋川

伊勢両宮常夜燈

この対岸(朝日町)に縄生(なお)廃寺という7世紀末に創建されたと思われる寺跡があるの
だそうです。壬申の乱ルートにはこのような寺跡が点在するそうで、興味深いところです。大海
人様やさらら様もこの川をわたって桑名に入ったのでしょう。

 この町屋川の川べりにあった観光地図を見て「はっ」としました。そこにはさっき行った新屋
敷の地にしっかり「天武天皇御足洗井」が立派な石碑の絵入りで出ていたのです。地図として
はアバウトなものでしたが、楊柳寺の南あたりにあるようです。それで、「もう一度、新屋敷に行
って探してみよう」ということになったのでした。

天武天皇御足洗井
 新屋敷の町に入って探すと、楊柳寺の1ブロック南側に見つかったのです。「天武天皇御足
洗井(別名菊の井)」と書いた大きなだけでそっけない説明板。見つけてみれば、なぜこれが
見つからなかったのか、と思うのですが、地元の人も見過ごすくらいですし。で、説明板はあれ
ど実物は……と、後ろの小屋みたいな建物の裏にまわってみたら、「あった〜〜っ!」。えらく
立派な石碑が。そしてその足元の小さな井戸。井戸のふたを開けてみる勇気はありませんでし
たが(煙が出てきて浦島太郎になったりして……)。壬申の乱の伝承が伝えられてきた証しを
見つけ、とても感激。特に一度は諦めたこの井戸を「見つけた」ことで久々に清々しい「達成
感」を味わったのでした。オオアマさまなんて、喜びのあまり(?)先ほどのお菓子屋さんにわざ
わざ「報告」に行っていました。お店の方はその道ならよく通るけれど、そんなものには気がつ
かなかった、とおっしゃっていたそうです。

大きいのに意外に見つからなかった
説明板。地元の人には掲示板として
使われちゃってる?

立派な石碑「天武天皇御足洗井」四
方が建物なので暗いのです。

これがその井戸らしい。開けるのはこわいでしょ?


売店のある「柿安」ビル 
 お昼はとっくに過ぎていたので、お腹ぺこぺこ。デパ地下などでおなじみの「柿安」はもともと桑名の松阪牛のお店なのですが、柿安本店で「しゃぶしゃぶ」や「すきやき」を食べるほどのゼイタクはできない。で、桑名城址の北、本多忠勝像横の「柿安」のビルへ行ってみると、一階がお惣菜、お弁当、パン、野菜などの売り場でまるでスーパーのよう。しかも店内にはどこから湧いて出たかと思うほど人がいっぱい! お店の前には気持ちよさそうな公園や芝生が広がっているので「お弁当を買って外で食べよう!」。安上がりだったし、気持ちもよかったし「桑名らしい、いいランチだった」とオオアマさまも大満足。そして、そろそろ帰途につきたい時間になったので、自転車を返してバスで駅へ出ました。 

 本当は桑名城址九華公園といって桜やつつじの頃がきれいなのだそうだ)や自転車を借
りただけの六華苑が桑名の名所の中心。それを見ないで帰る観光客がいるか〜〜っと怒られ
そう。それに今回は駅の東側しか行きませんでしたが、西の方にもいろいろ名所はあるようで
す。今回はあくまで「さらら様の面影」を求める旅だったので、町自体にはあまり期待していな
かったのですけれど、さりげなく港町の風情を残すいい町でした。「呉女に無理やり連れてこら
れた」というオオアマさまも、「また行きたいな〜」と言っております。

 ところで、大海人様が桑名に来たのは壬申の乱のときだけですが、さらら様はおそらく再訪し
ています。天皇在位中の692年の伊勢行幸のときには桑名まで来たかどうかはわからないけ
れど、譲位後、702年の大旅行の三河、尾張、美濃、伊勢、伊賀というコースから察するに、桑
名に立ち寄らなかったわけがありません。そして壬申の乱の記憶をたどるようなこの大旅行か
ら帰ったわずかひと月後、さらら様は大海人様のもとに……、永遠の眠りについたのでした。


七里の渡し跡近くから、長良川と揖斐川の合流するあたりを見る。この先は海。



桑名市内の所々にある観光地図。井戸をみつけるきっかけになったものですか゜
町屋川とは違う場所で撮ったので「現在地」は違います。
とても読みにくいですが、左下に小さな字で「北桑名神社」。
右下に「天武天皇社」、その左上のほうに「楊柳寺」。
そのすぐ右に小さな字で「天武天皇足洗井」と石碑の絵があるのがわかるでしょうか?
赤い線が旧東海道。左が真北。駅はもうすこし西にあります。

(2002年12月記)

           
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