呉女のこじつけ旅日記4
2003年5月



2003年5月3日   岩宿遺跡   春、群馬の旅1 〜日本人の歴史を変えた遺跡〜 

  昨年は世界史担当だったオオアマさまが日本史の先生に返
り咲き、「岩宿遺跡に行きたい」と突然言い出したので、ゴー
ルデンウィークの初日に普通電車にコトコト乗って出かけまし
た。前橋駅でレンタカーを借り、途中で寄り道をしつつ赤城山
麓の国道を走り、昼過ぎには岩宿へ到着しました。まずは遺
跡のすぐ近くにある笠懸野岩宿文化資料館へ。近代的な資
料館の中には巨大なマンモスの骨格が。はるかなる旧石器時
代へといざなってくれます。
 右の写真は資料館近くで撮った岩宿遺跡の遠景。左が稲
荷山。右が琴平山。どちらも高さ200m足らずの丘陵です。昭
和21年、当時20才だったアマチュア考古学者、相沢忠洋氏はこの丘陵間の崖の赤土層(関東ローム層)から鋭い黒曜石(打製石器)の破片を見つけました。それは当時の考古学では人類の遺物は発見されないと考えられていた地層でした。3年後に明治大学によって発掘調査が行われ、日本における旧石器時代の存在がここではじめて確認されたのです。
 左の写真は丘陵の間の道。左側が相沢氏が最初に石器を見つけたB地点、右の石の段々のある場所が発掘調査が行われたA地点です。B地点にあるドームの中では、人類がマンモスを追いかけ暮らしていた様子をアニメで上映しています。
 そのドームの横ある相沢氏の像。呉女は1万年以上前の人類のロマン
までは今ひとつ思いが届かないのですが、相沢忠洋という一人の青年の情
熱がこの場所から歴史を塗りかえたという事実に感動してしまいます。こう
いう地道な積み重ねが歴史のジグソーパズルを解いていくのだ、と。
 岩宿は3万5千年前から1万3千年くらい前の後期旧石器時代の遺跡
す(でも当時の新聞には「10万年前」と書かれていたみたい)。もっと古い遺
跡を見つけようとした結果、近年の発掘捏造事件が起きてしまったことには
胸が痛みます。相沢氏も嘆いていらっしゃるだろうと……。

 ところで、岩宿遺跡のある「笠懸(かさかけ)町」という地名の由来を資料
館のビデオで知りました。源頼朝が新田義重(新田氏の祖になった武将)の館の立ち寄ってこ
の地で狩りをしたとき、強風に飛ばされた笠をとっさに射るよう命じられた射手が見事に笠を射
たことから、「笠懸」という競技が始まったのだそうです。笠懸は流鏑馬、犬追物とともに騎射
三物(きしゃみつもの)と呼ばれる鎌倉時代に盛んに行われた武芸の訓練のための競技。それ
がそのまま地名になったというのは面白いですね。



2003年5月4日       群馬は古墳の国  春、群馬の旅2 〜毛野の国の豊かさをしのぶ〜

 呉女が住んでいる相模の国や、今関東の中心である武蔵の国には、古代には有力な豪族
が存在しなかったらしく、あまり大きな古墳はないのです。古墳時代に関東で栄えていたのは、
毛野(けぬ)の国。その中心だったのが高崎、前橋、伊勢崎、太田などの町が連なる利根川流域の、群馬県南東部にあたります。群馬は全国でも古墳が多い県の一つ。今とは川筋の違った利根川の河岸段丘上に集中して古墳が造られたようです。今回は前橋から岩宿へ向かう途中で、前橋市内の古墳の二つに寄ってみました。
 まず前橋駅から南東に走り出してすぐ見つかったのが二子山古墳(前橋二子山、天川二子山と呼ばれる)。全長104mの前方後円墳で6世紀後半か7世紀前半のものです。さぞかし桜がきれいだろうと思われる公園に整備されていました。
 もう少し南東に走って見
つけたのが前橋八幡山
古墳2枚の写真を並べ
たのでズレていますが(な
んでデジカメにはパノラマ
がないの?)全長132mの
前方後方墳で、4世紀後
半くらいの、このあたりで
も古い古墳です。この土
地を開発したリーダー格
の人が葬られたのかもしれません。おそらくこの勢力が間もなく大和王権とかかわりをもって発
展し、その首長の墓だろうとされる前橋天神山古墳がここからわずか300mの位置にあるそう
ですが、周囲の開発によって一部しか残されていないとのこと。それで学校の遠足よろしく1日
のタイムスケジュールを管理するオオアマさまにせかされて一路上記の岩宿へ向かいました。
 結局、岩宿で時間をとられてスケジュールは大幅に狂ったため、予定の一つはカットして、岩
宿から北に向かい、赤城の高原をドライブすることしました。その途中、ドライブマップ上に「武井廃寺」という気になる文字を見つけました。実は旅行資料をごっそり家に忘れてきてしまったため、それがどんな遺跡かわかりませんでしたが、この地方は仏教文化も栄え、7、8世紀の寺院跡もいくつかあると聞いていたので、寄ってみました。そこには「武井廃寺塔跡」と書かれ、盛り土された上に直径70センチほどの石柱の跡。帰ってから調べたら、元は塔の跡だとされていましたが、今では奈良時代の火葬塚ではないかといわれているそうです。
 この地域は古墳、寺院跡のほかにも「上野三碑(こうずけさんぴ)」と呼ばれる石碑など、古代
の繁栄をしのぶ史跡が多いので、またそれらを訪れてみたいものです。
 群馬県にあたる上野国は939年の平将門の乱で国府を占領されて混乱。また1102年の浅間
山の噴火で荒廃しましたが、12世紀の後半には上記の源(新田)義重による新田荘の成立によ
り再び繁栄の時を迎えることになったようです。
(5月11日追記) 昨日、川崎市民ミュージアムで開催中の「古代を考える 郡の役所と寺院」の講演会で、群馬県
埋蔵文化財調査事業団の右島和夫氏による「古墳終焉と寺院造営」を聞きましたので、そこでのお話を少し。6世紀
後半になると近畿など、関東以外の地方ではもうあまり前方後円墳は造られていない。ところが群馬など関東にで
は6世紀の後半になっても上記の天川二子山古墳のように盛んに前方後円墳が造られている。これは関東の特徴
で、先生のおっしゃるにはこの時期になって大和政権がこの地域に俄然注目し出し出したことを表しているのではな
いか、とのことでした。
(5月21日再び追記)季刊誌「明日香風」の春号を買って読みましたら、その中の橿考研の
館長河上邦彦先生が書いていらっしゃる「八角形の古墳」というところに、なんとまたご縁の
あることで上記の武井廃寺の塔跡ならぬ火葬塚について驚くことが書いてありました。天武・
持統陵に代表される八角墳は7世紀の古墳終末期にあらわれ、天皇かそれに近い人が葬ら
れたと考えられる古墳。確認されているものはほとんど明日香近辺、少なくとも近畿県内に
あるのです。それが河上先生のおっしゃるには「群馬県の古墳では中央の動向を素早く受け
入れるという特色がある」とのことで武井古墳(廃寺)は「7世紀末から8世紀初め頃」の
確実な地方で唯一の八角形墳」だというのです。へ〜〜、ちょっと立ち寄ってみただけな
のに、すごい貴重なものを見ちゃったのかも。得した気分。
「武井廃寺」の「八角形墳」を横から。石碑には「塔跡」と書いてあります→


2003年5月8日      桐生    春、群馬の旅3     〜「西の西陣、東の桐生」〜

  岩宿へ行った日は県内の温泉に泊まり(この話は次回)、翌日の話。実は前日、岩宿の向こ
うの桐生の町を訪ねたいというオオアマさまの希望を時間の都合で断念。それがレンタカーを
返したら、ちょうど両毛線が発車する時刻だったので飛び乗ってしまったのです。前橋から約
30分、岩宿駅の次が桐生駅。帰る時間に制約があったので、桐生で許された時間はわずか
1時間半。ところがここで大誤算。そもそもガイドブック類を忘れてきたのも
悪いのだけど、桐生くらいの町ならば駅前に観光マップくらい置いてあるだ
ろうと思ったのに……ない。どこをどう歩いていいのかわからない。駅前に
地図はあれど一度見て頭に入るものでなし。織物の町桐生らしき町並みを
求めて迷子になりつつ歩きまわり、本町通りたどりついたときには残り
時間あと30分。「有鄰館」という施設でやっと持ち歩ける地図発見。これさえ
駅にあれば……。
 さて、桐生は織物の町。ガイドブックなどによると「桐生の織物は8世紀く
らいから始まる」との記述が見られ、その根拠を求めてちょっと調べたとこ
ろによると、どうも正倉院御物の中に下野の、それこそ今の笠懸町あたり
で織られたことがわかる織物が残っているのだそうで、そのくらいの技術が

 ハナミヅキの咲く本町通り

 本町通りの古い町並み
当時にすでにあったということなんです。 桐生の町が天満宮の門前町、本町通りを中心に整備されたのは16世紀後半のこと。今も蔵造り建物が残る古い町並みがあります。桐生に限らず、このあたりは伊勢崎も、太田も、足利も周囲に養蚕の産地を控えて織物の盛んだったところ。特に鎖国で輸入品が少なくなると、国内での増産が求められて発展しました。その中でも特に桐生が特出したのは18世紀前半に京都の西陣の機織や染色の技術を導入してから。それはやがて西陣を脅かすほどに発展し、「西の西陣、東の桐生」といわれました。桐生が栄えたのは開国まで。その後また技術革新などで持ち直したものの、最近は企業の流出に悩んでいるとか。
 今回本町通りで見つけた「有鄰館」は桐生が繁栄した18世
紀に近江の商人が移り住んで開いた酒屋、矢野商店の跡。
その土蔵や蔵が今ではコンサートホールなどに利用されてい
るのだそうです。 町の東の方には織物参考館「紫」があって
織物体験などもできるとか。それに駅の近くの商店街にはさ
すが織物の町だけあって、ステキなブティックもいっぱいあっ
たようです。今回はとにかく時間がなくて、ただ歩いただけでし
たが、もう一度挑戦したい町ではあります。県境を越えて隣
町、足利とともに……。
 ところで、桐生と京都を結ぶバス(終点は大阪)があるのです
が、その名称が「シルクライナー」。当然のネーミングですね。

 有鄰館横の近江辻小路。矢野商店の店舗、蔵がズラッと並ぶ。



2003年5月9日     群馬は湯どころ♪  春、群馬の旅4   〜呉女のオススメ温泉〜

 群馬の1日目、岩宿遺跡から赤城高原を西に走った私たち
が向かった先は水上温泉。ゴールデンウィークにもかかわら
ず意外に手ごろなプランを見つけました。群馬はそこらじゅう
温泉だらけなのに、群馬の南にいてわざわざ北のほうまで行
くこともないのですが、いろいろ事情がございまして……。
 湯どころ群馬で一番メジャーなのが草津。そして伊香保、最
近人気の四万……。このあたりはまだ行っていません。我が
家ではおととしまで週休1日で土曜の午後出発だったため、ア
クセスが便利なのが第一条件で、新幹線の上毛高原駅から
バスですぐいけるところばかりを狙っていたので。でもこのあ
たりが呉女のお気に入りなので、今回は呉女のオススメの温

 赤城高原から見た榛名山。あの真ん中あたりが伊香保温泉。

  上牧温泉から。1999年11月。
泉旅館をご紹介します。
 上毛高原駅からバスでいちばん近いのが上牧(かみもく)温。JR上牧駅から徒歩でも行けます。ここの辰巳館という宿。何がいいって「はにわ」といっしょに温泉に入れるんです〜。大浴場の湯舟の真ん中に県内から発掘されたはにわのレプリカがデーンと……。朝イチで入りに行って、湯気の中からはにわクンの笑顔がニ〜ッと現れたときにゃあ「で〜た〜〜!」と思いましたけど……その後は呉女も笑顔ではにわクンと入浴。いろりを囲んだお夕食もお気に入り(プランによって違うことも)。窓からは利根川と谷川岳。
 もうひとつ。やはり上毛高原からバスで30分ほど。越後へ抜
ける三国街道の入口にあたるのが猿ヶ京温泉。ここの猿ヶ京ホテルは広い露天風呂もいい
ですけど、ホテル内でつくっているお豆腐やパンがおいしい……!。特にお豆腐! 朝のバイ
キングでもこのお豆腐がふんだんに食べられてものすご〜く満足! 
豆腐アイスクリームもおいしかったし〜。それからこちらの女将さんは
文学研究者でもあり地元の民話を集めていて、夜にはその民話を女
将自ら語って聞かせてくれたり、ホテルの裏の「三国紀行文学館」も
見ごたえがあります。
 上牧温泉の先までバスに乗る、またはJR水上駅近くの水上温泉
今回が2度目。利根川に沿って旅館が並び、夜に川沿いを散策する
のもちょっと風情が。今回は温泉街とは離れた奥利根館という旅館
に泊まったのですが(奥利根には桜がまだ咲いていました)、こちらで
気に入ったのは朝食バイキングが地元の食材を使ったお惣菜たっぷ
りで健康的だったこと。それから水上温泉でのオススメは町のはずれ

  水上温泉の諏訪峡。    1997年6月。
にある「小荒井製菓」の生どら焼。多分餡に生クリームが入っていて、皮もどら焼というよりホ
ットケーキ風。その食感がすごくよくてやみつきに。生菓子だから大量に買えないのが残念で
〜〜……って食べる話ばっかりだったかしら、もしかして……。

 関越自動車道の赤城SAから見
た 武尊岳
今回も電車で行くつもりだったので水上温泉にしたんですけど、電車だとトンネルばっかりで車窓の景色は楽しめないのが、今回は車でまだ雪の残る武尊(ほたか)岳など眺めつつ、とても気持ちがよかっです。この武尊というのはヤマトタケルノミコトが来た伝説があることからの地名なんだそうですが、古事記などの記述からするともう少し南東を通ったような……。ヤマトタケルノミコトを祀る神社もあるのだそうで、地元にどんな伝説が伝わるのか興味あるところです。
 そうそう、群馬から東京方面に帰るには……、新幹線など使わずとも、普通電車でコトコトと。これで十分。安上がり。これからも史跡巡り&温泉で群馬リピーターになりたいです。
 




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