壬申の乱・大海人皇子軍の本拠へ

 2003年3月、オオアマさまは予定より早く仕事のけりがついたらしくて、ちょっとは春休みをとれることになり、ひさ
びさに車で関西の実家に帰ることにしました。
「高速代節約のため、関ヶ原あたりでおりて下の道を行こうか」というオオアマさまの言葉を呉女は聞き逃しませんで
した。「関ヶ原」こそ大海人さまが壬申の乱のときに本拠を置いた場所。オオアマさまと呉女は数年前に呉女の両親
と弟を車にのせて一度訪ねたことがあるのですが(呉女の父と弟は関ヶ原の戦いが大好き。かなりの西軍びいきです
が)、その時は「関ヶ原の戦い」の故地を中心にまわったので、呉女としてはちょっと足りないものが。その足りなかっ
たものを補おうというわけで、ちょっと寄り道。
 
 名神高速を西に向かって走り、岐阜を過ぎ、木曽の三川を越えると急に南北から山が迫って
きて、その山の間に道路も鉄道もすべて吸い込まれていくのです。そんな地形から古代からの
交通の要衝であった関ヶ原
 その一つ手前のインターの名を見ると「大垣、桑名」とあります。そこはまさに大垣市だから
大垣はわかるとして、「桑名」を見てはっとしました。672年、天智天皇の後継者をめぐる壬申の
乱のとき、吉野を脱出した大海人軍のうち、非戦闘要員であるさらら様や草壁皇子、大津皇子
たちは桑名に留まりました。岐阜県の関ヶ原と三重県の桑名。さらら様は乱の時にもっと離れ
た場所で待っていたというイメージだったのですが、実は意外と近いのだわ、と。

 で、呉女とオオアマさまの車も山の間に吸い込まれると、まもなく関ヶ原インター。地図を見る
と国道21号を少し東へ行ったところに「野上」という地名があるのを頼りにそちらへ少し走って
みました。関ヶ原の戦いのときに最初に家康が本陣をおいた桃配山を過ぎたころ、道の南

 野上行宮跡。木々の向こうにチラと
白いものが見えるのは新幹線。
側に「野上行宮(推定地)」の小さな案内板を見つけ、細いガタガタの道を入って行ってみました。大きい車ではキツイでしょう。間もなく両脇に墓地があるので薄暗かったり、一人で行ったりするのはコワイところかもしれません。200mくらい走って、新幹線をくぐった先に「野上行宮跡」の看板を発見しました。野上行宮(のがみあんぐう)は壬申の乱で大海人皇子が本営をおいたところ。大海人さま自身は乱の間、戦場には出ずにずっと野上で指揮をとっていたと考えられます。今やすごくさびしい場所ですが、すぐ先で何か工事をしていたので、これから何かできるのかしら?
 次に国道を西に走ると「松尾」という地名が見えます。関ヶ原の戦いのとき途中で東軍に寝
返った小早川秀秋が陣をおいた松尾山の麓にあたり、ここに
不破関資料館」があります。訪れる人も少ないらしく、私た
ちが行ってから電気をつけていました。
 もともと「関ヶ原」という地名は、ここに大宝律令(701年制定)
で定められ、奈良時代を通じておかれていた三関(さんげん)
の一つ「不破の関」から来ています。それ以前から交通の要
衝だったので、壬申の乱のとき大海人皇子軍はまずここを押
さえたのです。「不破」という地名も大海人皇子軍が結局勝っ
た、つまり「破れず」からきているという説もあるのだそうです。
 大海人皇子軍の中でも、最初にこの地に入ったのが実質的
総大将だった若き日の高市皇子(呉女の理想の男性!)で
 不破関資料館。小さな資料館です。入場料100円。
す。高市が陣を設けた「和ざみ」という地名は残っていないらしくてよくわからないのですが、後
に関のおかれたこの付近ではないかとも考えられるそうで、呉女はワクワク! 資料館の中で
は不破の関の復元模型(かなり大きな施設だったらしい)や、発掘された瓦などの出土品、壬申

 「不破の関跡」の碑がたつ、伝関守
跡。芭蕉の歌碑などもあります。
の乱に関するビデオなどを見ました。写真の展示で気になるものがあったので、資料館のリーフレットなどを頼りに近辺を歩いてみることに。
 資料館から国道とは逆の南側の道に出てみると、向かい側に「伝関守跡」がありました。ここは私有地の中にあって入れないと聞いたことがあったのですが、いかにも「お入りください」とばかりに入り口が開いていたので入ってしまいました。「不破の関跡」と書いてあるけど、関が停廃された後の鎌倉時代になってからも関料をとる関守がいたとの史料があり、そちらの史跡と伝えられているそうです。
 少しだけ東に歩いて、民家の間の細い道を北に入ると案内

 大海人皇子の
 沓脱石
板があり、民家の裏の畑の中に、大海人さまが高市の陣
に来て兵士たちを鼓舞したときにここの石で沓を脱いだと
の伝説が残る「沓脱石」が。その近くにはもう一つの石が
祀られていて、こちらは大海人さまが兜を掛けたと伝わる
兜掛石」。そしてこのあたりが不破の関の中心的な庁
舎のあったところです。近くにいらした地元の女性と少し
お話しさせていただいたところ、こんな感じの石はこのあた
りにはけっこう多いのだそうで、多分関ヶ原の戦いでの戦
死者を葬ったときに墓石にしていたものではないか、とい
われているのだそうです。たとえそうだとしても、大海人さま
  ちらは兜掛石
に関する伝説を残していてくれるのはありがたいことです。
 もと来た道へ戻って、「伝関守跡」の前から下る坂道があるのですが、そ
の先へ行くと「自害峰」というところがあるそうで、大海人さまの敵にあたる
大友皇子が「自害し」その首を葬ったという言い伝えが残されています。大
友皇子には明治になって「弘文天皇」と諡(おくりな)され無理やり御陵も決
められていますが、自害した場所はここではないにせよ、首を葬られたの
がこのあたり、ということはありえるかもしれませんね。「自害峰」までは歩
きませんでしたが、その近くの新幹線の南には「若宮八幡神社」という大友
皇子を祭神とする神社もあるのだそうです。
 最後に車に乗ってもう一度この道を東へ。「井上神社」という大きな石塔
  前方が「自害峰」

    井上神社の社殿
のある細い道を入って新幹線
をくぐったところにその井上神
がありまし た。いつごろの
創建かはわかりませんが、資
料館の展示によれば、この神
社のご祭神は大海人さま、さ
らら様夫婦なのだそうです。そ
りゃお参りせずには帰れませ
ん。呉女の後ろでオオアマさま
がえらく熱心に手を合わせてい
 神社のすぐ北は新幹線の線路です
るので「何をお願いしていたの?」と聞いたら、「呉女がいつまでもオメデタクありますように」で
すって。さらら様、聞き届けてくださるかしら?
 今まで、新幹線で関ヶ原を通るときには、町のある北側ばかりを気にしていましたが、今回訪
ねてみると、野上行宮も井上神社も新幹線のすぐ南。若宮八幡神社も南にあるということです
から、今度新幹線に乗ったら南を注意して見てみたいと思います。

 関ヶ原インターをおりてからここまで約1時間ほどの小さな旅でしたが、ずっと主導権を握って
いた呉女は大満足で、このあとオオアマさまの実家に向かいました。「呉女に付き合わされた
〜」とプツプツ言っているオオアマさまも、内心楽しんだに違いありません。



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