時 代 祭
    京都・平安神宮                                  2000年10月22日

 旧暦の10月22日は794年に桓武天皇が平安京にお遷りになった日。毎年、この日に京都・平
安神宮の秋の例大祭である時代祭が行われます。京都の祭りはだいたい曜日によらず日に
ちで決まっていますから、2000年のこの日が日曜にあたったのを機に行ってみました。以下、
あくまで呉女的な時代祭案内です。

 京都三大祭、といえば葵祭、祇園祭とこの時代祭ですが、他の二つが古い歴史を持ってい
るのに比べると時代祭は新しいお祭りです。「平安奠都(てんと)1100年」を記念して明治28年
に桓武天皇を祀る平安神宮が創建され、同時に時代祭も創始
されました。各時代の装束を身にまとった人たちの華やかな行
列が、京都御所から京都の中心部を通り平安神宮までを練り歩
きます。今では全国に時代装束行列のお祭りがありますが、そ
の先駆と言えるお祭りです。写真は平安神宮の神門。「応天門
の変」で有名な応天門の約1/4スケールの復元です。お祭り
の時には平安神宮へは行かなかったので、これは1998年の5月
に神苑の菖蒲の花を見に行ったときの写真です。
 この1100年に関しては遷都ではなく「奠都」と言っていたようですが、これは「都を定める」とい
う意味のようです。遷都というのは客観的な言い方であって、京都からの主観で言えばこういう
言い方になるわけですね。では数年前の1200年目はどう言っていたかというと「平安建都1200
年」。奠都、では難しすぎたのでしょう。

 ここで素朴な疑問。なぜ平安京遷都から1100年目だったのか。これはちょっと考えればわか
ること。1000年目はまだ京都は一応、天皇のおわす都でした。それが1100年目には都ではなく
一都市になってしまっていた。それで京都にはたいへんな危機感があったわけです。京都再生
の願いをこめて、さまざまな事業が行われました。京都国立博物館の本館が完成したのも、今
はなくなってしまった京都市電が走り出したのも同じ明治28年。こういう流れの中心に平安神
宮の創建があったのです。

 ところが、このお社はどうも最初から神社として建てられたわけではないらしい……。平安神
宮の拝殿平安京の大極殿を5/8スケールで復元したもの、というのは有名な話ですが、もともと奠都1100年行事の記念殿、またはほぼ同時に開催の内国勧業博覧会のパビリオンとして造られたものを神社として転用することにしたらしいのです。だとしたら、えらい立派なパビリオンですなあ……。
拝殿の適当な写真がなかったので、これは独身時代に一人で行ったときの写真を出してきま
した。この時は早朝に行ったので、ほとんど人がいませんでした。

 ここでもう一つ突っ込みたい! 明治28年(1895)は厳密には遷都から1101年目じゃないの!
なんで1年ズレたわけ?  これについては「日清戦争が起きたため」と説明されているものも
ありますし、もう少し詳しい京都の歴史を書いた本などを見ますと、1100年事業は計画された
当初からこの年にすることになっていて、日清戦争にもかかわらず順調に準備が進められた、
というような書き方のものもあって、真相はよくわかりませんでした。

 前置きが長くなりました。前日の夜、京都へ。夕食は京都に住む義姉一家のお招きで義母も
一緒に尾方光琳宅跡というお店でいただきました。その時、どこで見るのがいいかと尋ねたと
ころ、御所の近くのほうが行列の人も疲れていないし、衣裳も乱れていないし、行列も間延びし
ていないと。京都の人はあまり腰を落ち着けて見ることはしないで「通りを行列と逆方向に歩け
ば短時間で見られる」とのことですが、ウチは観光客だから御所に行って見ることに決定。

 日曜だから込んでいるだろう……と、仕事の疲れでホテルのベットでグッタリしているオオア
マさまを置いて「場所取り、行ってきまー
す!」と呉女は元気にホテルを出発。地下
鉄丸太町駅に午前10時過ぎに着き、どこが
いいかとキョロキョロしていると、東側から平
安神宮での神幸祭を終えた行列の本体たる
神様(桓武天皇と昭和15年に合祀された孝
明天皇)がお乗りになられている御鳳輦→
(ごほうれん)が、御所に到着したところに出
会いました。時代祭はこの神様が京都市民
の安らかな暮らしぶりをご覧になるために市内を歩かれる、そのお供をして行列が練り歩くの
です。見物客は実は見ているのではなく、見られているってわけですね。
 さて、行列というよりはパラパラと移動してきたという感じの御鳳輦の一群を堺町御門の中に
見送ったころ、今度は西側から何やら勇壮な笛の音が……。   私も堺町御門から御苑の中に入ってみると、ロープの両脇でかなりの人が場所取りを始めていました。その端に立ってみると、ちょうど行列が曲がってくるところが見えそうで、いい感じ。そこに陣取ることを決め、携帯でオオアマさまに場所を教えていると←維新勤皇隊列の山国隊があの「ピーヒャーラピッ」という笛の音と共に整然とした隊列を組んで御門を入ってきたのです。カーッコイイ〜!! 思わず「ただ今、山国隊が到着いたしましたっ!」と携帯で実況中継してしまいました。
 行列の出発地が御所である、というのはいかにも意味がありそうに思えますけれど、創始当
初は京都議事堂(付近の本能寺に集合した、とのことだから現在の市役所のことでしょう)が出
発地で、今より小規模だった行列がだんだん人数が増えてきたので御所に変更したということ
ですから、広い集合場所であるという以上の意味はないようです。はい。
 
 11時半。オオアマさま到着。オオアマさまいわく「生徒に連絡する用事があってホテルのロ
ビーの公衆電話で電話をしていたら、隣にオバさんが来て『今、時代祭で京都
に来てるのー!』と大声でしゃべり出すもんだからアセッタ、アセッタ……」。別
に悪いことしてるわけじゃないでしょーに……。このころには周囲は人だらけ。
私の後ろに4列くらい列が出来ていました。

 12時。いよいよ行列が御所の建礼門を出発します。堺町御門から町に出ま
すが、御苑は広いのでここまでたどりつくのに約20分。ようやく行列の先頭→
がやってきました。まずは京都知事と京都市長が馬車に乗っていきます。
 時代祭は今も平安神宮の信者の組織として京都市民によって構成される
「平安講社」によって運営されています。各時代の行列は市内各地区に振り当
てられているので、市民による祭ともいえるのでしょう。ただ創始当初は明治
の天皇崇拝の時代にあって、桓武天皇の神社をつくるということで全国的に
支持者が存在し、皇室もからんでいたようです。そういう意味で時代祭は明治という時代の産物なのです。時代行列に関しては創建初年の紀年祭でイベントとしてやってみたら好評だったので、翌年から恒例になったということらしいのです。
 以下の時代区分は時代祭での区分、名称に従います。

 明治維新時代
その先頭を飾るのが、先ほどすでに登場した維新勤皇。まずは山国隊↓が笛の音も高らかに行進します。山国隊
とは戊辰戦争のときに挙兵し、上野、会津などを転
戦した丹波国山国郷(現京北町)の農民による勤皇
隊です。山国という土地は桓武天皇以来の天皇の
御料地だったそうです。お祭りの創始当初は正式な
行列にはなっていませんでしたが、本物の山国隊員
が存命していたため、本物の有志が参加したのだ
そうです。正式に行列に参加したのは大正10年か
ら。実は呉女の父は京都の生まれなのですが、住
んでいた地区が山国隊の担当だったそうです。時代
行列の中でも音楽付きですから、練習がたいへんだったらしく、父は参加していませんが、祭りの前は授業が成り立たないと先生が嘆いていたと聞いたことがあります。たいへんさは今も変わらないのでしょうが、その甲斐あって本当にカッコイイ〜!
続くは幕末志士列。孝明天皇百年祭を記念して1966年から加わった比較的新しい行列です。ご祭神の一人、孝明天皇は明治天皇のお父さんですが、35才の若さで幕末の激動のさ中に亡くなったのですね。それで毒殺説もあるんだとか。それはともかく、志士列は幕末に活躍した志士20人ほどで、これは地区の割り当てではなくて京都青年会議所の担当です。いいとこ取ってますな
あ〜。上は↑桂小五郎(木戸孝允)さん。どうやって配役を決めるのか知りま
せんが、坂本竜馬さんなんて照れているのか愛想振りまいてました。ほかに吉
田松陰先生とかお公家さんの姉小路公知さんとか、生野の乱の平野国臣さん
とか。中でもちょっと悲壮に映るのは七卿落の面々。1863年に尊攘派が京都か
ら追放されて長州に下る雨の夜の姿を表わしたもので蓑笠を着ています。写真
はそのうちの一人、三条実美さん。ほかの人は名前を書いた旗を持った人
が前を歩いてくれるのに、この方たちは自分で旗しょっているし……。そういえ
ば、志士列の中に西郷隆盛さんはいるのに大久保利通さんはいない! やは
り東京遷都の建白がまずかったんでしょうねえ……。
 江戸時代
 時代はさかのぼっていきます。江戸時代は創始当初から参加の徳川城使上洛列。年始などの儀式のときに江戸幕府の使者が多くの従者を伴って上洛する様子を表わしています。槍やら傘やら箱やらを持った従者たちがところどころで立ち止まり、「ヒーサー」という掛け声とともに荷物を投げて受け取ってみたり、というけっこう高度なパフォーマンス
を見せてくれます。そのたびに大きな拍手が湧き上がる、一番見せ場のある行
列といえます。
 次は江戸時代婦人列。行列に婦人列が加わったのは戦後になってから。もと
もと天皇絶対の価値観のもとで創始されたお祭りですから、行列のメンバー選
定にはある種の意図があったわけですが、戦後になってこの祭りを大衆化させ
るために婦人列を加えたのです。時代祭の一大転換だったわけですね。そのた
め婦人列はそのほかの行列よりバラエティーに富んでいます。その先頭はご祭
神孝明天皇の御妹君、和宮です。これは将軍家茂にご降嫁する以前の少女
時代、お供を従えお散歩中という感じなんだそうです。なぜか観客から「かーず
ちゃーん!」の掛け声が。アイドルみたいだ……。それから、蓮月、吉野太夫など、江戸時代の京都文化を彩った女性たちが続き、最後出雲阿国さん。もともと出雲大社の巫女さんですが、京都に出てきて「かぶき踊り」で人気を集めた人ですね。四条大橋の東詰に像がたっています。ところで、このご婦人がた、皆さんえらく美しいと思ったら、婦人列は京都の各花街の担当なんですって。どうりで……。

 安土・桃山時代
 また時代をのぼって、昭和7年より参加の豊公参朝列↓。これは
1596年の豊臣秀頼初参内の様子を再現したもので、詳細な
時代考証をしているようですが、かなり派手。この牛車に幼い
秀頼を抱いた秀吉が乗っている(ということになっている)わけ
ですな。1596年といえば秀吉の死の2年前。2度の朝鮮出兵
の間、同じ年に長崎では26聖人が殉教しています。行列には
写真に見えるように子役のお子さんも参加していますが、たい
ていロープぎりぎりのところを多分そのお母さまとおぼしき美し
い着物姿の女性が心配そうに同行しています。子供がグズっ
たらなだめたりするのかしら……なんて……。
続くは織田公上洛列。信長さまが秀吉をはじめ丹羽長秀、滝川一益、柴田勝家を従えているのですが(利家はいない)、これらの武将はみんな馬に乗っていて、それぞれけっこう派手なので、意外に信長さまが特に目立つというわけでもなくて、写真が信長さまだったかどうかは……定かではありません。この行列は創始当初からのもので、信長さまは応仁の乱で荒れていた京都を復興させたヒーローという扱いになっているわけです。足利将軍を追い出したのがよかったのかな。そう言えば、幕府を開いちゃった人は誰も行列に参加していませんね。

 吉野時代
 そういうもともとの時代祭らしさが出ているのが、この言葉。吉野
時代って言うんですよ。この時代の行列が、豊公参朝列と同時に加
わった楠公上洛列。どちらも昭和初期という時代を反映していま
すね。楠正成は戦前の大ヒーローですから。これは1333年、隠岐に
流されていた後醍醐天皇が京都に帰ってきたときの楠公の行列の
再現だそうで、勇ましいですねえ。……がその中に何やら異様な鼻
息の白馬が一頭。行列には人間だけでなく牛や馬も参加していま
すから、突然ご機嫌ナナメになることもあるらしく、本当は武将を乗せて歩く予定が、乗せてあげなかったらしい。そのほか途中でフンをしちゃったり、それを後から歩いてきた人が踏んじゃって観客から「あ〜あ」のため息(?)が響きわたったり……といろいろハプニングがあるんです。

 ところで、一大ニュース! さすがの時代祭にも時代の流れが……。3
年後(2005)の桓武天皇1200年記念を機に「室町時代行列」を作ることになり、その中に「逆賊」
足利尊氏を登場させることを検討中だそうです。これは時代祭の大革命ですよ。時代は変わっ
たのだし、尊氏さんは京都に幕府を開いたのだからいいんじゃないですか? そしたらまた
見にいきたいなー、3年後。「尊氏さん! ヒューヒューッ!!」って。

 鎌倉・室町時代
 戦後に加わった中世婦人列には、さすがに室町時代が存在します。
ここでまず登場するのは中世京都のキャリアウーマン、大原女・桂女
です。これは婦人列の中でも大原、桂それぞれの地区の有志の方々に
よるものです。大原女は薪や炭を頭に乗せて売り歩く姿が有名ですが、
肩こりがつらいだろうなあ、と心配してしまいます。呉女にはできない仕
事です。↓淀君が後に続きます。先ほどダンナとご子息は牛車に乗っ
っていたようですが。桃山時代の豪華な打掛
にはこの方がふさわしいのでしょうね。それか
ら藤原為家の室、一般に阿仏尼と呼ばれ
る『十六夜日記』を書いた人ですね。紀行文
の作者らしく旅姿ですが、領地争いの訴訟の
ための旅だったそうです。そして最後が源義
経の愛妾、静御前。もちろん白拍子姿で
す。こうして見ると中世の女性はたくましいで
すねえ……。

 鎌倉時代
四角の中に黒丸。これは流鏑馬の的。城南流鏑馬列です。これは当初からあった行列の一つ。1221年後鳥羽上皇が流鏑馬と称して各地から多数の武士を集めた時の様子です。後鳥羽上皇はとても武力を重視した人で自らも武芸好きだったといいますが、この流鏑馬に託した武士召集が実は鎌倉幕府に対する承久の乱のためのものだったそうです。あっけなく負けて上皇は島流しにされて
しまいましたけど。ここでは強そうな狩装束の面々です。

 藤原時代
 いよいよ平安時代に入ってまいりました。藤原公卿参朝列
やはり当初からあった行列です。写真は貫禄のありそうな文官さん
ですが、武官さんもいらっしゃいます。これは平安後期、武士が台
頭してきたころに出てきた強装束(こわしょうぞく)という、直線を重視
しパリッとさせた公家の装束なのだそうです。
 次は平安時代婦人列。先頭は時代祭のポスターなどにもよく登場する←巴御前です。武勇にすぐれ男装している、というカッコよさが祭りの華なのでしょう。今年(2002)から巴御前の衣装が新調されて、ずいぶん感じが変わったようです。でも恋人の木曽義仲は京都から平家を追っ払ったまではよかったけれど、その後部下たちが京都で大暴れして、結局また追っ払われているからなあ……。そういえば、静御前とは同時代人なのに時代が分かれていますね。静御前は頼朝の前で舞を舞ったイメージが強いからかしら? その静御前の恋人、義経さんはこんなところにも登場します。↓常盤御前が夫の源義朝が平治の乱で亡くなった後に京都に出て
きた時の姿で(そうとうな覚悟だった
でしょう……)後ろの子供の一人が
牛若、後の義経さんです。そして平
安時代の女性といえばやはりこの
方々、紫式部清少納言です。
同じ車に乗っているので「呉越同舟」
なんて言葉もささやかれますが。車
の上で目で火花を散らしあっていた
りしたら面白いのだけど。そのほか
嵯峨野の滝口寺のヒロイン横笛や、紀貫之の女、小野小町が登場しますが、呉女がもっとも
注目したのが、婦人列でも新顔の和気広虫さん。平安時代も初期になると衣装も唐風になります。広虫さんは孝謙女帝に仕えた人だから呉女の意識では奈良時代の人なのですが、宇佐八幡宮神託事件で弟の清麻呂ともども女帝の怒りをかって流さた後、召還されて桓武天皇にも重用されているんですね。孤児の養育など社会福祉事業で評価されていることと、弟の清麻呂が平安遷都に功績のあった人だからその名代という意味もあっての参加でしょうか。御所の西隣、護王神社にはこの姉弟が祀られています。婦
人列の最後は写真がないのですが、広虫さんと同じく新顔の百済王明信さん。桓武朝での女
官長にあたる人で桓武天皇の憧れの人でもあったとか。名前からしてわかる
ように渡来系氏族の人です。これも時代祭の変化の一つだったのでしょう。で
も桓武天皇のお母さんも渡来系の人ですからね。そのことに関する天皇陛下
の発言が一部で物議をかもしたことが1年ほど前にありましたっけ……。

 延暦時代
 平安京に遷都した前後が延暦時代ですから、ついに平安京のはじめまで時
代をさかのぼってきました。まずは征夷大将軍、坂上田村麻呂の軍を模した
延暦武官行進列。この時代の甲冑になると呉女にも何やら親しみが湧い
てくるのはなぜでしょう? 続いて延暦文官参朝列。この二つは当初からあった行列で、最初はこちらが先頭だったそうです。写真の方は紫の朝服を着ていらっしゃいますから、そうとう位の高い方ですね。この方が行列の代表で、平安神宮に着いてから御鳳輦の前で祝詞を述べるんですって。どうりでいい雰囲気の出ている方だと思いました。ところで、馬の口取役の人をよく見ると、お履物はスニーカー。中にはお召し物、ジーパンなんて方もいるんですよ。馬のお世話はたいへんみたいです。

 以上で時代行列は終わり。続いて神饌物を奉納する神饌講社列。本
列の直前をいくので前列といわれる行列は雅楽が奏でられ、胡
蝶などの優美な装束でまるで源氏物語の世界が繰り広げられる
のですが、なぜか写真が撮れていない……。そしていよいよご祭
神、桓武天皇と孝明天皇それぞれの御鳳輦神幸列が登
場。これから神様は京都の町をご覧にでかけられるのです。そし
て最後が弓箭組。桓武天皇が平安京に入られる時もその警護を
したといわれ、子孫代々弓の腕を磨きその伝統を守ってきた南
桑田郡、船井郡(園部のあたり)の有志の方々が、創始当初から
桓武天皇をお守りして行列の最後に付き従っています。

 行列の最初から最後まで2時間半程度。楽しくて、楽しくて、あっという間に時間が過ぎてしま
いました。
 観客は三々五々散っていきますが、平安神宮に移動して行列の到着を見る人もいるようです
し、同じ日の夜には鞍馬の火祭りが行われますので、それとセットで見に来る人も多いようで
す。私たちはなぜか思い立って大徳寺に移動。ちょうど公開中だった信長さまの菩提寺、総見
院にて信長さまの木像を拝観しお墓参りをして、新幹線で帰ってきました。
 
 京都では新しいとはいえ、戦争の前後数年の中断以外は100年以上にわたり、変化しつつ伝
えられてきたお祭りです。今後も時代とともに変化しつつ、新しい京都の町に輝かしい栄光を
伝え続けていくのでしょう。堅苦しくなく歴史を楽しめるイベントとしても、お勧めです。

(2002年10月記)

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