色なき風 1


きみからは緑の風の薫りがした。

匂いたつ花々のあでやかさとは異質の、心魅かれるなにかをきみは放っていた。
それは風に吹かれて擦れ合う森の下草のようであり。
芝生に寝転び緑と陽光を身に受けたあの一瞬のようであり。
羽化後間もない、しわくちゃな真珠色のシフォンにも似た輝く羽根を、ゆるく伸ばす蝶のようであり。

いつのまにか僕は欲していた。緑の薫りを。暖かい陽光を。
それらで僕の心を充満させるきみを。
きみの羽根にそよぐ風から両手できみを守り、僕自身がきみをそよがす風になりたくて。
きみが封印してしまったその真珠の輝きを引き出したかった。
僕自身のために。

許して貰えるだろうか。
心を伝えても…微笑みを向けてくれるだろうか。
風は強すぎても弱すぎても不快なものだから、僕はきみの前で真実を告げられずにいる。
まだ待たなければいけないと、かすかな風の匂いが教えてくれる。

そう、せめてきみのシフォンの羽根が乾くまでは―――――


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春。

開け放した窓から名残の桜の花びらが風に運ばれ、無機質なキーボードの上にふわりと舞い降りた。
事務服さえ着ていなければ、この高校の女生徒と見まがうほどの少女のような面立ちをしたこの女性は、キーを打つ手を止めて淡桃のかけらに目を移す。
外からの間接光が、なよやかな花弁にパールの輝きを浮き上がらせ、それを見つめる瞳をわずかに和ませる。触れようと伸ばした指先が、ガラスの壁に当たったように止まり、一瞬して指はキーの定位置に戻った。人の手が触れれば、その輝きはいとも簡単に消え去り、二度と目にすることが出来なくなってしまうのに気づいたから。
代わりに窓の外の葉桜になりかけた枝を仰ぎ見た。


「桜、こっちはやっぱり少し遅いな…」

軽いため息を漏らし、翳りの色を滲ませた瞳を、またパソコンのキーボードとディスプレイに戻す。

関東地方の私立高校の事務室。
それが彼女の今いる場所。窓の外から真上の階で行われている授業の喧騒が、かすかに流れ込んでくる。ゆっくりと朗読するような声で講義しているのは、化学の非常勤講師、神無先生だ、とぼんやりと考える。若い男性講師のせいか、女性徒の発言がよく聞こえる。ときどき歓声も。

そんな事に思いを馳せていると、隣の職員室から小さな電子音が流れてきた。
どうやら誰かの携帯電話の着信音らしい。

(トッカータとフーガだ…バッハのパイプオルガンで有名な曲…)

しばらく耳を傾けていたが、誰も出る様子はない。職員室の教師たちは出払っているらしい。新学期が始まったばかりで、暇にしている教師などいないのはわかっていたが。
あまり鳴り続けているので、書類作成の手を止め、わずかに開いている職員室へのドアをすり抜けて音源の方に行ってみると、それは先程講義の声を漏れ聞いた神無先生の机に置かれた携帯から流れ出していた。無意識に液晶窓を覗くと、「縹」と表示されている。

(何て読むんだろう、この字…)

そう思った瞬間、唐突にフーガが途切れる。どきん、と心臓が跳ねる。次いで訪れる静寂と窓の外の風の音。意味もなく顔を上げ周囲を見回すと、次の瞬間に事務室の電話が鳴った。また心臓が跳ねる。職員室から踵を返して事務室に駆け込み、電話に手を伸ばす。

「はい、若葉野学園高等部です!」
「…………」
「あの、もしもし?」
「…きみ、そこの学生?」
「いえ、事務職員ですが…あの、どちら様でしょうか?」
「失礼。僕は縹という者でね。たまに神無に取り次いで貰うのだけど。きみ、名前は?」
「羽鳥と申します。申し訳ございません、今月からこちらに勤めさせていただいておりますので、不慣れで…神無先生は今授業中で席を外しておりますが」
「ああ、知ってるよ。羽鳥ちゃん、ね。かわいい名前だ。神無に電話する楽しみが増えたな」

羽鳥は一瞬言葉に詰まった。

「あの…羽鳥は苗字です」
「じゃあ名前を教えてくれるかな。僕は最初から名前を聞いたのだけど?」

電話の向こうから、忍び笑いが伝わってきた。羽鳥は小学生のようなひっかけに、かすかに頬を染めて言葉を繋いだ。

「……木綿、です。羽鳥木綿、です」
「ゆう、ってどういう字を書くの?」
「もめん、と書いてゆう、と読みます。あと5分程で授業が終わりますから、神無先生がお戻りになられましたらご連絡差し上げますようお伝えします。花田様
「ああ、イントネーションが違うよ。花の田んぼじゃなくて、糸偏に受験票の票という字で縹と読むのだよ。日本の伝統色で、濃紺のような色の名前なんだよ、木綿ちゃん」

瞬間、木綿は、さっき神無の携帯に表示された文字と、この電話の相手が繋がった。縹は構わず話を続ける。

「神無の奴、携帯を机の上にでも放りっぱなしにしているだろう?悪いんだけどそれを持って神無の教室の前まで行ってくれないかな。ちょっと急いでる用事があるんで、すぐに捕まえたいんだよ。5分後に電話する。今度夕食をご馳走するから、頼むよ」
「わかりました、今持って行きます。お気遣いは結構ですので、では」

木綿は神無の携帯を握り締め、上階へと続く階段を上りながら、今話した縹のことを考えた。

(なんか…変な人。軽いような、でも声は大人っぽい低い声だったし、急いでるのは本当みたいだし… 神無先生とどういう知り合いなのかしら)

階段を上りきる寸前で、木綿は軽いため息をついた。夕暮れが近くなり、角度の浅い陽の光が西側の窓から直に木綿を照らし、眩しさに自然と壁に手をつく。
既視感―――― 今まで存在した環境との微妙な違い。
瞳に映るものが、過去と重なりながら、ブレた写真のように二つに割れる。
木綿は軽くかぶりを振って、重なった過去を振り払った。そして真っ直ぐに前を見つめる。既視感は既視感であって現実ではない。決定的に違う自分の立場というものを、自覚させられるだけ……


(なかなか慣れなくて大変… でも早く馴染まなくちゃ…)




   

つづく…