吉村萬壱

クチュクチュバーン ハリガネムシ ボラード病  

クチュクチュバーン 2006年6月14日(水)
 「クチュクチュバーン」:地球上のすべての動植物が死に絶え、人間も蜘蛛や犬に変態したり無機物と一体化したりする同化作用が進行していた。そしてそれらがすべて一つの集合体に呑み込まれ、「クチュクチュ」と音を立て身を捻らせると「バァーン」と大爆発し、虫のような生物に分離し、協力と共食いを繰り返していく。
 「国営巨大浴場の午後」:ある日空から大量のナッパン星人が舞い降り、人間を虐殺して地球を破壊し、四年後にまた空へ帰っていった。生き残った人間は逃げ遅れたナッパン星人を食べ、その副作用で猛烈なかゆみと下痢に苦しみながら生きている。
 「人間離れ」:ある日空から大量の物体が降ってきて、それから生まれた緑色の生物が人間を虐殺し街を破壊する。人間でなければ殺されないと信じた人々は、肛門から直腸を引き出したり、他の人間を殺したりする「人間離れ」で逃れようとする。
 どの作品も、SF的な終末の世界を描いたもの。圧倒的な破壊力の前に中央機関も人間性も崩壊し、ただ逃げ惑い互いを破壊しあう人間の世界。SFとして読めばそれほど珍しくもないのだが、文学というのはここまで行くかなと思うし、グロテスクでもある。芥川賞作家の、文學界新人賞受賞作。

ハリガネムシ 2006年10月9日(月)
 高校の教師二年目の慎一にある夜、女から電話がかかってくる。半年前行ったソープの女サチコだった。夫は殺しで服役中で、子供が二人いるというサチコがアパートに居つくようになり、車で四国にあるサチコの故郷の町へ行くことになる。芥川賞受賞作。
 「岬行」は、ひきこもりの三十代の男が、スナックで知り合った中年の女と肉体労働の男と岬へ遊びに行く話。両作品とも、ストーリーについてこれ以上は触れたくない。
 どちらの作品も、性、暴力、侮蔑、汚物まみれで、ミミズをつぶすように弱いものをいたぶりたくなる衝動を描いている。「ハリガネムシ」は醜く崩れていく過程、「岬行」は小市民に復活しようとする醜さだろうか。最近の若い作家には、同じように悪への衝動を描く人が多い。ここで悪というのは、単純に犯罪とかモラルとかではなく、人間の醜悪さといったほうがいいかもしれない。事件の報道などに接した時感じる醜悪さを描いているという点では社会性があると言えるのかもしれないが、夕刊紙や芸能週刊誌と同様、わざわざ読みたいとは思わない。この作家の作品はもうたくさんだ。
 「何かを閉じこめていたはずの自分の袋が、どこか裂けているらしい事に気付いた。その衝動が生ずると、足の付け根や股の辺りがゾクゾクして居ても立ってもいられなくなる。人間の身体に何かもっともっと惨いことがしてみたいと、四六時中考えるようになっていた。」(ハリガネムシ)
 「何度も小市民になり切ろうと思って失敗してきた。どこか逸脱していくものがあって、生活が安定してくると発作的にリセットしたくなる。しかしリセットしたままでいても仕方なかった。別に怖くはないが、時に むしょうに叫び出したくなる事がある。」(岬行)

ボラード病 2017年4月16日( 日)
 「安全基準達成一番乗りの町」海塚市の小学生恭子。学校には「結び合おう」とか「りっぱな海塚市民になろう」といった「十の決まり」があった。母は買ってきた魚や野菜は捨てて、加工食品ばかり食べさせた。クラスの生徒が次々の亡くなり、先生が突然いなくなったりし、苦しみだした母と病院に行くと、急病人ばかりだった。
 放射能汚染後の世界を連想させる舞台設定。周囲は郷土愛や結びつきを強要し、地元産の生鮮食品を食べさせようとする。背広を着た人間が現れ、誰かが消えていく。現実にとらわれると、玄侑宗久の「光の山」と逆の立場になるのだが。