鷺沢萠

駆ける少年 葉桜の日 少年たちの終わらない夜

駆ける少年 2003年7月10日(木)
 鷺沢萠の作品は、どこかうら寂しい感じがつきまとう。作者が惹かれたという羽田のうらびれた街並みのせいかもしれないし、没落した家、離散した家族といったものが描かれることが多いせいかもしれない。
 「銀河の町」は、高速道路の下で寂れた街の飲み屋に集まる老いた客たちとおかみとドロップアウトした主人公の物語。「駆ける少年」は、気がつけば亡くなった父と同じ立場に立った青年が父の過去を探し求める物語。泉鏡花賞受賞作だ。
 「痩せた背中」は、父子二人になって故郷に戻った父が連れ込んだ若い女性との、家族の物語。「自分の身体の中はまるで柘榴みたいに、粒々でいっぱいになっている。そうしてその粒々のひとつひとつが、人を好きになる抗しきれない気持ちを持っているのだ。…自分だけの面倒を見よう。何かに感じたり惹かれたりしても、それに気づかないふりをしよう。…そういうワケにもいかない、か」
 読んでいて、いわゆる女流作家らしいところが感じられなくて、好感が持てる作家だ。芥川賞というものが、いかに無価値なものかということがよくわかる。

葉桜の日 2005年2月24日(木)
  「葉桜の日」:ジョージは幼い頃志賀さんに引き取られて、母子として暮らしてきたが、志賀さんと呼ぶし、本当の名前は賢佑だがジョージと呼ばれてきた。親しくしているおじいと志賀さんは 川崎市南部の町で小さな店をやっていて、今では志賀さんはレストランを3軒経営し、おじいも東京に料亭を持つまでになった。19になったジョージは、志賀さんの秘書として働くようになる。
 「果実の舟を川に流して」:健次は、母親が急死して大学を中退し、日本を出て1年間放浪した後横浜に戻り、「パパイヤボート」というおかまバーの優梨花ママの下で働いている。
 鷺沢萠の作品には、いつもさびしさが付きまとっている。それは、自分が誰なんだろう、自分のいる場所はどこなんだろうという不安の表れなのかもしれない。「葉桜の日」では、ジョージは「僕は、ホントは誰なんだろうね?」と心の奥でいつも考えている。「果実の舟を川に流して」では、「自分の身体の外側が、目には見えない透明な膜で覆われているように感じることがある。膜の内側の自分、膜の外側の自分、・・・。どちらが本当の自分なのかはいつでも判然としてなくて、そう考えれば実は「ほんとうの自分」なんてどこにもいないんじゃないか・・・。」「膜に覆われて何にも気付かないふりをしながら、けれど膜の内側のいちばん敏感な部分では、健次はいつも思っていたのではなかったか。俺はここにいるはずじゃないんだ、と。」作者自身の心の空洞の投影なのかもしれないと、今にして思ったりもする。
 21歳の作品とは思えないしんみりした雰囲気。当時の芥川賞、三島賞受賞作を見ると、この作品でも遜色はなかったと思う。

少年たちの終わらない夜 2005年10月22日(土)
  パーティーやカフェやディスコで知り合った高校生たちの青春模様を描いた短編集。ティーンエイジャーが飲み歩いたり女あさりをしたりする話ばかりで、軽すぎてあまりおもしろくはなかった。
 ただ、ある種共通した雰囲気があって、「少年たちの終わらない夜」の高校生の真規は「都会の上空には油のような膜が張っている。その油膜は飽和していて、下にいる人間は息を吸うのさえつらい。」「飽和している油膜の上に突出できないならば、せめてあえぐのはよして突出しているふりでもしよう。」といつも思っている。「アイダを探して」の僕は、「その日その日が楽しければいいだなんて、口では言っているけれど…すぐに身をかわせるように、自分がスタンバイしているのを知っている。」「ユーロビートじゃ踊れない」のヒロシは、「自分のあやふやな部分でくくれる世界はほんの小さなもので、けれどヒロシはそこで暮らしていくしかない。」と思っている。「ティーンエイジ・サマー」では、「愛すべきひとつの季節が、僕らに対してきっぱりと別れの挨拶を告げたのを僕は感じた。」
 十代最後の焦燥感、閉塞感は、実は二十代でも三十代でも繰り返され、そして五十代でもある。そういう意味では共感できた。